ドーピングの禁止

ときどきスポーツ選手のドーピング問題について考える。どうすればドーピングをなくせるかではない。なぜドーピングはいけないかである。いくら考えてもさっぱりわからない。なぜダメかがわからないので、「ドーピング撲滅」と言われてもまったく共感できない。べつに薬物使用の解禁を主張しているわけではない。良いも悪いもなく、禁止の根拠が見いだせないのである。最初にこれが気になったのは学生の頃だから、もう三十年も考えていることになる。ずっと引っかかっているので、テレビニュースや新聞記事でこの問題が取りあげられていると注意して見るようにしているが、それらは常にドーピングはダメという前提に立って、「はびこる現状」や「積極的な対策」が紹介されるばかりなので、なぜダメなのかという肝心なところの理解は一向にすすまない。「いかにやるか」より「なぜか」のほうが先でしょう。で、見終わるともやもやがつのるばかりなので、またはじめからつらつら考えることになる。そうして二つめの疑問がわいてくる。なぜこれほどあいまいなドーピングの禁止が社会的に受け入れられ、その前提に立って様々な議論がすすめられているのかと。みなさん、この問題については思考停止に陥ってるんでしょうか。いちおう日本版ウィキペディアで挙げられているドーピング禁止の理由は次の四つである。


1.フェアではない。
2.スポーツの価値を損なう。
3.反社会的行為である。
4.健康を害する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0


1の「フェアではない」というのは、ルールで禁止されてるから薬物を利用するのはフェアではないというだけのことなので、公に認めてしまえば薬物使用もフェアな手段ということになる。きっと「ケミカル・トレーニング」とでも名付けられて、パフォーマンスを高める効率の良いトレーニングとして定着するだろう。したがって、これは「そう決められているからダメ」といってるだけの循環論法なので、なぜドーピングを規制しているのかという根拠を示していない。


もしも、この「フェアな競技」という言いぶんが「選手の肉体改造に薬品をはじめとするテクノロジーを一切用いるな」というメッセージだとしたら、大会運営側ははっきりそう主張するべきだ。それがないことには何も議論がはじまらない。ドーピング禁止の根拠として「肉体改造にテクノロジーを用いるな」という価値基準の提示があってはじめて、フェアな競技とは何か、ドーピングの線引きはどうするのか、といった議論がはじまる。フェアな競技とは何かという基本的な価値基準が示されないまま、いかにドーピングを規制するかばかりが議論されている現在の状況は本末転倒に見える。なお、テクノロジーを用いた体質改善をすべて排除するならば、レーシックの手術はもちろん、メガネも歯列矯正もアレルギーの薬も一切ダメということになり、生まれ持った遺伝的形質がより重要になってくる。しかし、生まれついた体質はあくまで偶然の産物にすぎず、それを絶対視する発想は優生思想と同様に私にはけっして「フェア」だとは思えない。


2の「スポーツの価値を損なう」というのは意味不明である。そもそもドーピング規制をとなえる人々の抱く「スポーツの価値」とは何なのかが提示されていないので、それが「損なわれる」と言われても、まるで雲をつかむような言説である。週50時間のデスクワークをしている平均的な中年男性を例にあげて考えてみる。彼は通勤以外に体を動かすことはほとんどなく、体重は十代の頃よりも20kg以上増加している。そんな人物が一念発起し、一年がかりの週末トレーニングによって100mを13秒台で走れるようになったとする。そのことは、遺伝的に運動能力に優れた資質を持った専業のスポーツ選手が一年365日をトレーニングに当てて9秒台で走るよりも、私には健康増進という点で「ずっと価値がある」ように見える。しかし、私のような考え方はいまのところ少数派のようで、ウサイン・ボルトの9秒58に観客たちが熱狂したように、多くの人は超人サーカスとしてショーをスポーツに期待しているらしい。ならば、運動能力を飛躍的に高める新薬を使って100mを7秒台で走る選手が現れたとする。彼は自らがその新薬を使っていることを公表している。また、その新薬は彼にしか適合せず、有害な副作用がないことも医学的に証明されている。この場合、彼が新薬の力を借りて7秒台で走るパフォーマンスを多くの人々が見たいと望んでいるのなら、その超人サーカスはスポーツの価値を大いに高めることになる。つまり、スポーツの価値とは、人々が何を求めているかによって異なる問題であり、2の言いぶんは、薬物が介在した途端に超人サーカスの価値が下落する根拠を具体的に示さねば空疎である。


3の「反社会的行為である」というのは、平たく言うと「いけないことだ」という意味なので、やはり1と同様に「いけないことだからダメ」と言ってるだけの循環論法でまったく根拠になっていない。それにしてもこのウィキペディアの文章はひどい。書いた人はまともな教育を受けていないんだろうか。循環論法が証明にならないのは論理学の初歩である。「決まりだから守れ」「ダメだからダメ」という循環論法が何の根拠も提示していないことは、小学生だってちょっとアタマの回る子なら気づくはずだ。
循環論法(じゅんかんろんぽう)とは? 意味や使い方 - コトバンク


4の「健康を害する」というのは一理ある。肉体を強化する薬品の多くが多量に摂取すると健康を害することが医学的に立証されており、この指摘は四つの中で唯一検討に値する。しかし、この健康を害するという言いぶんは、次のふたつの点で問題をはらんでいる。


まず、そもそも過度の運動は不健康である。運動が健康増進につながるというのはせいぜい初心者レベルまでの話であり、たいていのスポーツは上達すればするほど体に無理な負荷をかける。ジョギングで膝を痛めることもあれば、ゴルフで腰を痛めることもある。こどもの野球だって無理な投げ込みをすれば肘の調子がおかしくなる。ましてやプロスポーツ選手やオリンピック出場者になれば常に怪我との戦いであり、体をすり減らしながら競技に取り組んでいるというのが実情である。もしプロのアメフト選手を十年以上続け、なんの障害も負わず、引退後に車イス生活にならなければそれは幸運なケースといえる。また、女性選手の場合、無理な減量とハードトレーニングで月経が慢性的に止まってしまい、深刻な後遺症を負うケースも多い。にもかかわらずドーピングに限って「健康を害する」と否定するのは矛盾している。「腕がちぎれても投げます」という高校球児の発言を美談として持ち上げるスポーツメディアがドーピングになると手のひらを返したように「不健康だ」と批判するのは、限りなく偽善的だし、プロボクシングの試合で、顔面への強烈な連打による血まみれのKOシーンに歓声をあげている観客たちがもしもボクサーのドーピングを「体に悪い」となげくとしたら、もはや悪い冗談である。


もうひとつは、もし本当に運動選手の健康を気づかって薬物使用の規制が行われているのだとしたら、違反した選手は「保護」の対象になるはずであり、彼らが社会的批判にさらされる合理性はないということである。薬物の使用は当人の健康を害するだけであり、他者になんら危害を加えるものではないからだ。それはコカインや覚醒剤のような法的に規制されている依存性の強い薬品も一緒であり、被害者が存在しないという点で、暴力を振るったり、だましてお金を巻きあげたり、差別発言をネット上にまき散らしたりする行為とは根本的に異なる。オランダやカリフォルニアのような自由主義的傾向の強い社会で体へのダメージの少ない大麻が解禁されたのものそのためである。清原和博覚醒剤使用で逮捕された際、多くの人が「裏切られた」と語っていたが、清原がシャブで良い気分になったところで誰も危害を加えられたわけではなく、あなたも私も痛くも痒くもなかったはずだ。したがって、当人の健康を気づかって薬物使用を問題視しているのなら、「これ以上からだを壊さないよう、はやく薬物依存から抜け出せると良いね」と手をさしのべる、あるいは見まもることが周囲の理性的な対応であり、声高に批判をあびせることではない。


そうして、この三十年間くり返してきたようにまた振り出しに戻る。今回、イギリスのプロボクサーがドーピングについて語っているインタビュー記事をネット上に見つけた。彼の発言は次のような主旨である。

 スポーツ選手には短命な者が多い。健康を損ねるという点ではハードなトレーニングも薬物使用も大差ない。命を縮めるとわかっていて薬物を使うのはあくまで本人の問題であり、使用するかどうかの判断も本人の覚悟次第だ。それに多くのスポーツ選手が実際には薬物を使っているんだから、公にドーピング使用を許可したほうが正直者が馬鹿を見ることがなくなり、むしろフェアになる。

http://www.afpbb.com/articles/-/3067919


何年か前に「ステロイド合衆国 〜スポーツ大国の副作用〜(原題:BIGGER. STRONGER. FASTER)」というドキュメンタリー映画を観た。監督のクリス・ベルもやはり「なぜドーピングはいけないのか」という疑問から出発する。映画のはじめに彼は選手の持久力を高めるための赤血球を増やす方法を三つ紹介する。ひとつめはマラソン選手がしばしば行っている高地トレーニングや低酸素カプセルでのトレーニング。酸素濃度の低い環境に置かれることで徐々に体が順応し体内の赤血球が増加していく。要するに高山病を防ぐための高地順化を利用したやり方である。ふたつめは自己輸血。これは単純で、自分の体から血を抜いて保存し、レース直前に自分に輸血して戻すことで赤血球量を増やし、高地トレーニングと同様に体内の酸素供給効率を高めるというものである。三つめはより直接的に赤血球を増やす薬品を摂取するというもの。いずれも効果は同じだが、オリンピックで認められているのはひとつ目の高地トレーニングだけである。では、なぜ自己輸血と赤血球増加剤はダメなのか。楽だから?でも、それはより効率的な方法と言い換えることができる。インチキだから?でも、それは禁止されているからインチキなのであって禁止の理由にはならない。体に悪いから?たしかに赤血球が増えることで血管が詰まりやすくなり、心筋梗塞のリスクが高まるが、それは高地トレーニングでも一緒だ。わからない、なぜこの線引きがなされているのかさっぱりわからない。で、彼もそこから出発して考えをめぐらしていく。もっとも、彼は私のようにただぼんやり考えているだけでなく、このもやもやした疑問に答えを出すべく、様々な立場の人々に会って取材していく。エライなあ。このドキュメンタリー映画はその取材記録であり、そこにはステロイドのせいで高校生の息子を亡くしたという親へのインタビューもあれば、ステロイド使用を公言しているボディビルダーの話もある。監督のクリス・ベルの語り口は陽気でテンポ良く、マイケル・ムーアのドキュメンタリー手法とよく似ている。そうして様々な声を集めていくことで観る側はアメリカのステロイド事情やドーピング規制には詳しくなっていくが、もちろん最後まで、なぜドーピングがいけないのかというそもそもの問いに答えは出ない。まあそこから先はひとりひとりが考えてくれということなんだろう。うん考えているよ、もう三十年もずっとさ。なんだか私ばかり考えさせられているような気がするので、ぜひ大勢の人にこの映画を観てもらいたい。私は地球上すべての人をドーピングをめぐるこのもやもやした問いに巻き込みたい気分である。

http://www.cinematoday.jp/page/A0001781

http://d.hatena.ne.jp/kick_ass_1978/20101119/1290132424

所得の再分配 − 所得税の累進制は公平なのか −

税率をはじめデーターが古くなっていたので、修正・加筆しました。

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/saibunpai.htm


文中Aの累進課税をやめてすべて一律課税にしろという言いぶんは何度書き直してもうまく書けない。どう書き直しても「なんで俺の払った税金で見ず知らずの貧乏人を救ってやらなきゃいけないんだ」と言っている嫌な奴にしか見えない。もうお手上げ。ちょっと前までレッセフェールな人たちはやたらと鼻息が荒かったけど、私に代わって高校生向けの資料としてトリクルダウンの正当性を主張してもらえないものだろうか。経済成長に有利かどうかという損得勘定ではなく、社会正義の観点から。

石斧を握りしめて空を見上げる

左肩の激痛で朝早くに目が覚めた。左肩が外れかかっているようだった。起き上がろうとしたら左腰と左股関節にも痛みが走る。腰もひねっているようだった。なにがあったのかわからないが満身創痍である。私は眠っている間にいったいなにと戦っていたのだろう。


授業で脳死の問題を取りあげると、毎年、数名の生徒から、「死の概念や生命観は人それぞれであり、法律で死の定義を定めることは無意味だ」という発言が出てくる。そこで1999年に千葉県成田市でおきたライフスペース・ミイラ事件のことを紹介する。事件はホテルの一室で中年男性の遺体が発見されたところからはじまる。発見された遺体は死後数ヶ月経過しており、腐敗が進行し、干からびてミイラ化していた。間もなく、その部屋に長期にわたって宿泊していた30代の男性が死体遺棄の容疑で逮捕され、警察の取り調べによって遺体が彼の60代の父親であること、彼がライフスペースという静岡県に本部のある宗教団体の熱心な信者であることが判明した。さらに、遺体で発見された父親のほうは、数ヶ月前に脳梗塞で倒れ、病院の集中治療室にいたところを教組の指示を受けた息子をふくむ信者数名によって強引に連れ出され、ホテルの一室に監禁されて生命エネルギーを活性化させるという「宗教的治療」を施されていたことが明らかになり、その異常さから週刊誌とワイドショーはこの話題で持ちきりになった。オウム真理教の一連の事件からまだ日の浅い頃のことで、多くの人はまたかと思った。それから間もなく、息子は保護責任者遺棄致死で、主犯の教祖は殺人で起訴された。ふたりとも殺害を意図していたわけではないので、誘拐・監禁の末の過失致死のように見えるが、検察側は、瀕死の重体患者を病院から強引に連れ出してホテルに監禁し、死亡させた行為は殺人にあたると判断したようだった。しかし、ライフスペースでは、心臓が完全に停止した後も人間は仮死状態にあり、さらなる生命エネルギーの注入によって回復可能だと考えている。そのため、教祖は裁判の中でもミイラ化した父親が生きていたという主張を展開し、父親を殺したのは我々の治療をやめさせ、司法解剖を行った千葉県警のほうだと訴えた。たしかに死生観は人それぞれ異なり、いくら議論しても完全に一致することなどない。しかしその一方で、ある程度の社会的合意の形成がなければ、人間の社会が成り立たないのも事実である。結局、この事件で息子のほうは懲役2年6月・執行猶予3年が一審で確定、教祖のほうは最高裁まで争われた末、2005年に懲役7年が確定した。
成田ミイラ化遺体事件 - Wikipedia


今年五月、シベリアの永久凍土から肉片のついたマンモスの骨が発掘された。ラジオのニュース解説には、マンモスのクローン再生研究をしているという近畿大学の学者が出演し、この発見がマンモスのクローン再生においていかに重要かを喜々として語った。遺伝子の読み取りはすでに九割方完了しているという。彼はマンモスをクローン再生することで骨を見ているだけではわからなかった様々な生態が解明されるのだと語る。しかし、生態をあきらかにするためには、十数頭のマンモスの群れを自然環境に放ち、野生の状態で数世代にわたって追跡調査を続けねばならないはずである。そもそも現在の地球上にマンモスが野生動物として暮らしていける場所は存在しない。トキやドードーのような近代化の中で人間が絶滅に追いやった動物については、クローン再生の個体を野性に返せる可能性があるが、人間が文明を築くはるか以前の氷河期に絶滅したマンモスの場合、クローンで産みだしても動物園で見世物にされるだけだろう。研究者としてはクローン再生がやりたくてたまらないのだろうし、実現すればきっと話題にもなるだろうが、見世物にするために絶滅動物をクローン再生することに科学的意義は見いだせない。マンモスのクローン再生も宇宙開発も人型ロボットも高速増殖炉も、研究者たちはその夢を熱く語るが、「やりたいからやりたい」というのが本音で社会的有用性は後付けにすぎないのではないか。現代において「科学技術の発展」は必ずしも錦の御旗ではない。授業でこのマンモスのクローン再生を取りあげると、生徒たちの賛否はほぼ半々に分かれる。


モンサントの社長から生化学研究室の学生まで、バイオ産業の関係者たちはみな口をそろえて将来の食糧難にそなえて遺伝子組みかえ食品の開発は欠かせないのだと主張する。業界の合言葉になっているようだ。しかし、あきらかに詭弁である。食糧難は食糧の絶対量の不足によるものではなく、社会的要因によるものだからだ。単位面積あたりの収量をどれほど増加させても、富の偏りの問題が放置され、飢えた人々にトウモロコシを回すよりも牛に食わせて太らせたほうが儲かるという経済システムで世界が回っている限り、飢餓はなくならない。それは二十世紀の歴史によってすでに証明済みである。この先、収量を倍にするスーパーコーンや三倍の速さで成長するスーパーサーモンが市場に出回るようになったとしても、バイオ産業の懐を潤すだけで、生活のために片方の腎臓を売らざるを得ない途上国のスラム街生活者の口に入ることはないだろう。一方、日本も含めて先進国では、生産された食料の約七割は捨てられている。生産段階で規格外のものや余剰分が廃棄され、流通段階では各店舗で賞味期限切れが廃棄され、家庭や飲食店では残飯や冷蔵庫の古くなった食料品が廃棄される。その結果、人々の口に入るよりも捨てられるほうが多くなる。どう考えてもこちらもほうが早急になんとかすべき問題じゃないの。


人間はオーラなど発していない。「すっごいオーラを感じた」と言う場合、パブリックイメージの権威に魅せられているだけである。相手をひとりの生身の人間ではなく、自らの思い描く偶像に仕立て上げるとその背後にオーラや後光のような怪しげなものが見えてくるのだろう。それは400年前にフランシス・ベーコンが指摘した「劇場のイドラ」である。この手の発言を無自覚に多用する人が1930年代のドイツに暮らしていたら、ヒトラーの熱烈な支持者になっていたことだろう。きっとオーラ見えまくりのはずである。


自由には責任がともなうという発言をときどき耳にする。しかし、責任がともなうのは権限のほうである。権限と責任は対の関係にあり、両者のつり合いがとれなくなるとそこに不正義が生まれる。権限を行使するのにその責任を一切とろうとしない者は恥知らずの暴君であり、なんら権限がないにもかかわらず責任だけ負わされる者は哀れな奴隷である。後方から新兵たちに「突撃せよ」と号令するのも、若い従業員たちに「経営者目線で働け」と要求するのも、権限と責任の関係を理解していないやり口である。きっと奴隷農園から赴任してきたばかりで権限と責任の関係をわかっていないんだろう。太平洋戦争での戦死者数は圧倒的に日本軍のほうが多いにもかかわらず、現場指揮官の死亡率に限っては、「ついて来い」と自ら先頭に立たねばならなかったアメリカ軍のほうが高い。自らは安全な後方に身を置き、後ろから部下たちに「行け」とけしかける上官は、自分の責務を果たしていない卑劣な腰抜け野郎と軽んじられ、指揮権を維持できなかったからだ。その点で、サンダース軍曹が「リトルジョン、援護しろ」と毎回自ら先頭に立って突撃していたのは、アメリカ軍の実態に即している。152話も彼が生き延びたのは驚異的である。それから70年が経過したが、いまも日本では、権限と責任の関係が理解されているようには見えない。最低賃金で働くバイトくんが最低の勤労意欲と最低の責任感しか持っていないのは当たり前であり、そのことで文句を言われるような筋合いはない。もし彼に経営者なみの責任感を要求するのなら、経営者と同等の待遇と権限を保障せねばならないはずである。


「経験値」という言葉がある。キャラクターの経験を定量化し、数値として表すゲーム用語である。1980年代はじめくらいからコンピューターRPGで用いられるようになり、80年代半ばの「ドラゴンクエスト」のヒットによって広く知られるようになった。40代半ば以上の人でこの言葉を日常会話に使う者はまずいないが、30代くらいのドラクエ世代の人たちは、ゲームの中だけでなく生身の人間の体験についても「経験値が上がった」などと言ったりするようだ。それが日本語として定着しているのかはよくわからない。高校生たちに聞いてみたところ、現実の出来事に「経験値が増えた」と表現するのはゲームオタクの人みたいで違和感をおぼえるという反応が多数派だった。「修学旅行で経験値を大量に稼いだ」や「週末の練習試合でみんなの経験値は上がってるよ」なんて言い回しを例としてあげると彼らはうーんという感じで苦笑していた。個人的には、生身の人間の体験について、「経験値が上がった」という表現に出くわすと、この人は人間の経験を定量化可能とするベンサム思想の信奉者なんだろうか、それともたんにゲーム用語を日常会話に使用するゲームフリークなんだろうかと気になってしまい、少しむずむずする。生身の身体はテレビゲームのように戦えば戦ったぶんだけ強くなるわけではない。


喫煙の問題は本質的には当人の健康問題のはずだが、なぜか道徳やマナーの問題として語られることが多い。そうした道徳的側面から語られる喫煙批判は、当人の健康を気づかってくれているわけではまったくないので、しばしば説教臭いものになる。また、本人が好きで吸ったタバコのせいで勝手に病気になって国の医療費を圧迫するのはけしからんという言いぶんもしばしば耳にするが、これはピンピンコロリ運動と同様にファシストの発想である。私たちは税金を支払うためにこの社会に生きているのではなく、日々の暮らしを楽しむために生きている。国や社会はあくまで人がよりよく生きるための装置にすぎない。たいていの楽しみは体に悪く、周囲に多少の迷惑をかける。山に登れば遭難することもあるし、甘いケーキをたらふく食べれば血糖値は上がる。運動にしても健康増進になるのはあらゆる競技において初心者レベルまでであり、上達すればするほど体には悪い。ゴルフをすれば腰を痛め、テニスをすれば肘を痛める。そもそも、プロスポーツはもちろん、高校生の部活レベルでも、健康のために体を動かしているという選手はいないだろう。また、用もないのにドライブに出かければ大気汚染と交通渋滞の原因になるし、サッカーの試合も野外ライブもサンバパレードも興味のない者にとってはただの騒音でしかない。では、体に悪いタバコや甘いケーキはもちろん、遭難して迷惑をかける登山も、渋滞の原因になる自家用車も、こどもたちのうるさい運動会も、すべて禁止し、生産性のなくなった寝たきり老人は山へ捨ててくるのか。この社会は「人に迷惑をかけない」という道徳的命題が大好きだが、他者に一切の迷惑をかけられない社会というものほど息苦しいものはない。時に体に悪いことを楽しんだりハメを外したりしながら、互いに少しずつ迷惑をかけたりかけられたりするのが人間の社会のはずである。なのでこの手の問題は「何事もまあほどほどに」というゆるい姿勢で構えるのがファシストたちに幅をきかせないための最良の対処ではないかと思う。


ブラックホールの構造が解明されたとしても明日のおかずが一品増えるわけではない。それは社会にどのような利益をもたらすのかではなく、我々のいるこの世界がいったいどんな所なのかという根源的な問いに由来する。石斧を手にマンモスの群れを追いかけていたご先祖様も、ふとその足を止めて空を見上げ、自らが立っているこの世界の有り様に思いをめぐらしたはずである。山の向こうになにがあるのか、足下の大地をなにが支えているのか、空の向こうにはなにが広がっているのか、と。以来綿々とつづくこの世界への問いの末端にブラックホールの究明もある。学問の本質は真理の探究であり、明日のおかずを一品増やすための手段ではない。もちろん、たいていの人にとって明日のおかずのほうがずっと重要であり、いつの時代もそれを思うのは少しへんな人たちである。


いまどき「女性アイドル」といったらAVかグラビアなので、彼女たちに処女性を求めているのは、アニメの声優さんとバーチャルアイドルが大好きなアキバ系のおにいさんだけなのかと思っていた。そういう意味で、しばらく前にAKBの女の子がファンの男の子と交際していることが「スキャンダル」として報道され、すったもんだの末に地方グループへ左遷された出来事は驚きだった。彼女たちは人形やバーチャルの存在じゃないんだから色恋沙汰だってあるだろう。ファンの男の子と交際していたというのは微笑ましいエピソードだと思うんだけど、彼女のファンはその人間的行為を応援してやろうとはならないんだろうか。さらに別の女の子が交際発覚で丸坊主になって謝罪する事態に至ってはもはや集団リンチである。彼女がナチス将校の愛人だったとでもいうんだろうか。AKBの女の子たちはたいてい水着グラビアもやっている。水着姿で不特定多数にセックスアピールするのはOKで、特定個人とセックスするのはダメというのもずいぶん奇妙な価値基準である。えっ、他の男とくっついたアイドルなんか応援するのがバカらしいって。でも、誰とできていようとできていまいと彼女たちはあなたのものになんかならないよ。私は彼女たちの私生活や人柄にはまったく興味がないが、彼女たちのファンがどういう人で彼女たちの偶像になにを求めているのかについては多少興味がある。モーニング娘に人気があった頃、コンサート会場でペンライトを振っているコアなファンたちは、ほとんどが中年男性だったというが、授業を受け持っている高校生たちは、AKBもモーニング娘もあまり関心がなさそうである。そういえば、ラルクのボーカル君がお天気のおねえさんとくっついたとき、彼の熱烈なファンだという若い女性が呆然とした様子で「よりによって大石恵」とぼやいていたのには、爆笑しつつも少々気の毒な感じがした。よりによってねえ。かくして偶像崇拝はすべからく信仰の道へと向かうのである。神様ならスキャンダルとは無縁だし、テレビのバラエティー番組に出演して余計なことをべらべら喋ったりもしないのである。思いを寄せれば寄せるほどただひたすら無限の愛でこたえてくれるはずである。たぶん。


19世紀の進歩史観の名残で、いまも生命進化を劣ったものから優れたものへの「進歩」のあゆみだと勘違いしている人は多いが、進化はあくまで環境への適応である。ダーウィンの進化論は、生命の変化はランダムな現象であり、その中から、たまたまその場の環境に適応したものが生き延びるというものであって、優れたものが勝ち残るという意味ではない。基本的に食料が豊富で安定した環境では、生物は大型化する。体が大きいほうが縄張り争いで有利になるからだ。逆に食料にとぼしく、環境の変化が激しい場合、小さな個体のほうが小回りがきいて少ない食料でも生き延びやすいので、数を増やしていく。それはその場の環境にどういう生物が適していたのかという問題であって、結果から逆算して種の優劣を論じるのは意味がない。日本のモグラの世界では、西日本に大型のコウベモグラ、東日本にアズマモグラが生息していて、長年、糸魚川静岡構造線が両者の生息境界になっていたが、モグラの研究者によると、近年、コウベモグラが箱根の山を越えて東日本に進出しつつあるという。森林が切り開かれて牧草地がふえたことで、開けた場所での縄張り争いに有利な大型の種が生息域を広げているということらしい。そこでコウベモグラとアズマモグラの種の優劣を論じるのは、モグラたちの抗争を吉本の関東進出に重ね合わせるのと同じくらいに無意味である。


人類進化の誤ったイメージ。画像はイエール大学のWebサイトから。
https://yalealumnimagazine.com/articles/3977-march-of-progress


この図は1965年にタイムライフ社から出版された「Early Man」の「ホモ・サピエンスへの道」というセクションに掲載された。19世紀末、進化論が受け入れられるようになると、生命進化は劣った生命から優れた生命への歩みと解釈され、その上昇する歩みの頂点に人間が位置していると考えられるようになった。ダーウィンが「種の起源」を発表した当初、人類が類人猿と共通の祖先から枝分かれしたとする彼の主張は、唯一の主体的存在とされてきた近代の人間像をおびやかすものと見なされ、彼ははげしい批判にさらされた。しかし、人間が生命進化の頂点にいると解釈し直されたことで、むしろ進化論は人間の特権的地位を補強するものになっていった。この図の「愚鈍で野蛮な原始人」から「知的で洗練された文明人」への一本道の連続的な歩みとする人類進化のイメージは、近代社会における進歩・発展の歴史観と合致したことから巷に広く普及し、やがて歴史の教科書にも転載されるようになった。そこでは生命進化と人間の歴史は連続的な現象と見なされ、人間社会は西洋の文明社会を頂点にして、アジア・アフリカのおくれた社会、未開人たちの野蛮な社会と序列化される。植民地支配は人類の進歩をもたらすとして正当化され、アイヌアボリジニーたちには野蛮な習慣をあらためるよう同化政策が強要された。文明人ならナイフとフォークで食事をしろというわけだ。19世紀におこなわれたロンドンやパリの万博では、熱帯の狩猟民たちが檻の中へ入れられ、「原始的な亜人種」として万博会場に展示された。彼らは人か、はたまた猿か、さあさあ紳士淑女のみなさま、とくとご覧あれ!その悪趣味な見世物は「人間動物園」と呼ばれた。さらに20世紀になると、知的障害のある人たちは人類の進歩をさまたげる存在として、各国で本人の同意を得ないまま不妊手術がおこなわれ、ナチス時代のドイツでは、劣等人種や障害者の大規模な殺処分をすすめることで社会の進歩・発展をうながそうとした。この図はそうした近代の歴史観を象徴的に表している。


SF作家には進歩史観の信奉者が多いようで、この誤った人類進化のイメージからさらに想像をふくらませ、しばしば次のような未来を描く。


いずれも知性を高めた人類がテクノロジーと融合したり高度な精神性を獲得したりして新たな生命体として次のステージへ登るという映画やマンガでお馴染みの未来像である。アーサー・C・クラークなんてこんなのばっかりだ。「2001年宇宙の旅」も「幼年期の終わり」も社会ダーウィニズムを連想して、読んでいて気分が悪くなる。


現在わかっている人類の系統は次のようになる。研究者によって細部の見解は異なるが、人類進化が複雑に分岐した系統樹であり、ホモ・サピエンスにつながらない絶滅種が数多く存在したことはもはや常識の範疇だろう。もちろん、人類進化は進歩・発展の一本道の歩みではない。絶滅した人類は、現在化石として発見されているぶんだけでも20種類以上にのぼり、10万年前に登場した現生人類は、幸運にも現在まで生き延びているひとつの枝にすぎない。今後、人類化石の発掘がすすめば、絶滅した人類の枝の数はさらに増えていくだろう。にもかかわらず、なかなか進歩・発展の一本道としての人類進化のイメージはなくならない。もういいかげんあの図を歴史の教科書の最初に載せるのはやめたほうがいいと思うんだけど。

https://opengeology.org/historicalgeology/case-studies/human-evolution/


いまだにテレビでタレントが「日本ではいくら稼いでもみんな税金に持ってかれちゃう」という発言をしているのを聞く。しかし、日本における高額所得者にかかる税率は、アメリカとならんでとっくに先進国中最低である。それを知らずにあの発言をしているのなら愚かだし、わかったうえであえてデマを流しているのだとしたらきわめて悪質である。


ユングは人間の無意識の深層には個人を超えて人類共通のイメージが広がっていると説いた。古代からある神話にいくつもの共通点があり、文化を越えて人々は闇を恐れ、太陽を神聖なものとして祀る信仰が世界中に存在するのはそのためだという。ユングの思想は、その領域を解き明かすことで、人間の「魂」の根源へ至ろうとするやたらと壮大で神秘主義的な性質を持っている。ユング錬金術や降霊術に首を突っ込んだり、UFO研究に夢中になったり、グノーシス主義に心酔したりと彼の思索は常にオカルトの影がつきまとう。たしかに私たちはこの世界の有り様を直知できないので、意識の中に作りだした像から外界を類推することしかできない。目の見える者は見たとおりにこの世界が広がっていると思いがちだが、視覚情報はあくまで意識の中のイメージのひとつであり、実際には目の見えない者と同様に意識の中のイメージから外界を類推しているにすぎない。同じ「青い空」を見ていたとしても、意識の中に像を結んだ「青の色」は人によって異なっているだろう。だから、ユングのいう集合的無意識はこの世界の成り立ちを説明するひとつのフィクションとしてはおもしろいし、実際に多くの作家がそれに惹かれて集合的無意識をモチーフにした作品を数多く創作してきたわけだけれども、でもさあ、なにを根拠にそんなこと言ってんのさ。人間が闇を恐れるのはたんに本能によるもので、神話や昔話に共通点が多いのは古くから人間の移動と交流が多かったっていうだけじゃないの。思想は言ったもん勝ちではないし、面白ければいいというわけでもない。なので、ユング思想もカバラも天中殺もパワースポットもB型人間も酒の肴の与太話にはちょうどいいけど、真顔で語られるとちょっとねえという感じ。


春、玄関先に自生しているエノキの若木は葉が濡れるほど大量の樹液を出す。それに惹かれて、毎年、無数のアブラムシが集まってくる。春に生まれたアブラムシは有性生殖によって卵から孵った個体なので、羽根を持ち、特定の食樹を目指して飛来してくる。うちのエノキに集まってくるのは白い綿状のアブラムシで、そのため、毎年、四月の二週目くらいになると玄関先はまるで粉雪が風に舞っているような状態になる。ところが、四月の四週目くらいになると、今度はそれをエサにするテントウムシの幼虫のほうが目立つようになり、オレンジと黒の幼虫がせっせと枝を這いまわり、アブラムシの捕食をくり返すようになる。テントウムシは成虫で冬を越し、春にアブラムシの多い樹木に産卵する。ナミテントウナナホシテントウは成虫も幼虫もアブラムシだけを食料源にしているので、その生活サイクルもアブラムシの活動と完全に一致する。テントウムシがアブラムシの臭いに反応して飛来するのか、それともアブラムシの食樹の樹液のほうに反応して集まってくるのかはわからないが、そのへんは実験すればすぐに判明しそうなので、生物学専攻の学生さん、レポートの課題用にぜひどうぞ。もっとも、ゴキちゃんと違ってテントウムシを誘引する物質を特定しても商品化は難しそうだけど。ともかく、我が家の玄関先では、テントウムシの大群による補食の結果、五月の連休が終わる頃には、綿状のアブラムシはほぼ姿を消し、エノキの枝や葉の裏には大量のテントウムシのサナギが残って、ひと月におよぶスペクタクルに幕が下りる。我が家の春の風物詩である。


こどもの頃、雑誌掲載時に少しだけ読んで続きが気になっているけれどもそれからずっと放ってあるマンガというのがたくさんある。夜中にビールを飲みながらテレビニュースをぼんやり見ているときなどに、ふとそんなマンガの一場面がアタマの中に浮かぶことがある。それはファンタジーよりも当時の社会風俗が色濃く反映されている作品で、「釣りキチ三平」とか「がんばれ元気」とか「レース鳩アラシ」とか「サイクル野郎」とか松本零士の四畳半ものとかあのへん。三平は行方不明のお父さんと再会できたのか、元気と先生はその後うまくいったのか、丸井輪太郎は日本一周を達成できたのか、アラシは結局どうなったのか、時々気になることもあるけどネット検索はあえてしません。きっとまたいつか読む機会もあるだろう。


思想家には奇人変人のたぐいが多い。社会のあり方を考える最大の原動力は「いまの社会はどこかおかしい」であり、常識的で現状に満足している者は思想家になどならないからだ。しかし、二千年前の常識的な人々は、奴隷制度を社会に必要なものと見なし、残酷で非人道的だとは思わなかったろう。世の中がそういう常識的な人間ばかりだったら、二千年後の現在も奴隷制度は続いていたはずである。


校舎裏に意中の相手を呼び出し「つきあってほしい」と言う。学園もののドラマでおなじみの告白シーンである。実際にそんなことをやっているのかは知らないが、他の国の映画やドラマでこういうシーンを見たことがないので、もしあったとしても日本のティーンエージャーだけの独特な慣習だろう。それに私が中学生や高校生の頃はいまほど一般的ではなかったので、それほど古くからのものではないはずだ。おそらく、1980年代にとんねるずの合コン番組でやたらと「告白タイム」や「つきあってる」が連発されたことが普及にひと役かったんじゃないかと思う。しかし、この場合の「つきあう」が「コンビニへガリガリ君を買いに行く」や「ダンボール八箱ぶんの可燃ごみを焼却場まで運ぶ」ではなく、「互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を継続的に共にする」である場合、それは個人的な感情をベースにした流動的なものなので、本来、契約関係とは異なり、互いの行為の結果として形成されるはずである。つまり、デートをしたりベッドを共にしたりしながら一緒にいて楽しいと感じられる中で「たぶんこれはつきあっているといえるんじゃないかあ」と後になって漠然と自覚するものである。その自覚をラーメン屋からの帰り道にふと思うか、出産直後の病院のベッドの上で実感するかは人によって異なるだろうが、行為や感情よりも先に関係性のほうを自覚するということはありえない。だから、多少でも恋愛経験があれば、「つきあおう」と関係性の構築を契約によって求めることの不自然さに気づくはずなので、恋に恋する若者以外、そんな無茶な要求はしなくなる。同じことが「友達になろう」にもいえる。友達も恋人もあくまで親しくなった結果としてなるものであり、商取引のように契約によって成立するものではない。もし口約束だけでは心許ないからと誓約書への署名を求められたら、その不自然さに誰もが気づくだろう。そもそも、それまで言葉を数回交わしただけのよく知らない相手から、「これから先、互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を共にしよう」とやたらと重たい契約をせまられたら、ゲマインシャフトゲゼルシャフトが浸食してくるような不気味さをもたらすので、たいていの場合、その要求は受け入れられないはずだ。当人は疑似プロポーズのような感覚なのかも知れないが、契約によって成立し、社会制度的に補強される婚姻関係と互いのパーソナルな親和性で築かれる恋愛とでは性質がまったく異なる。色恋沙汰のような個人的関係にまで制度的なお墨付きが欲しいんだろうか。ずいぶん奇妙な慣習が定着したものである。えっ、じゃあどうすればいいのかって。本気でその相手と親しくなりたいのなら、一緒に海へ行こうでも一緒に千本ノックしようでもぶつかり稽古百連発でもいいから互いの共通体験をつくることのほうが先なんじゃないでしょうか。


自分を信じろとせまる者はそもそも信用に値しない。信用されたいのなら、自らの主張の根拠を判断材料として提示する必要がある。あらゆる問題は信じるかどうかではなく、常に判断すべきなのだ。判断材料を示さないまま、いまこの場で自らを信じるか否か返答せよとせまるのは、相手を支配下に置こうとする行為であり、詐欺師とファシストの常套手段である。


スポーツの試合では、互いの実力が拮抗している場合、かならずどちらかが押している状況がひと試合の中で何度も行ったり来たりする。選手の心理状態や戦術的な駆け引きによってこうした押し引きの展開がつくられるらしい。日本語では「流れ」というが、英語の野球中継を聞いていたら「momentum(モメンタム=勢い)」と呼んでいた。では、スロットマシンやパチンコのようなランダムな確率のゲームに「流れ」は存在するのか。あるわけがない。スロットマシンで「いま流れが来ている」というのはどう考えても錯覚である。偶然を偶然のまま放置することができず、ランダムなパターンの中になんらかの意味を読み取ろうとするのは人間の思考の癖のようなもので、人は立った茶柱に吉事の兆しを思い、突然の春の雪に人生の転機を重ね合わせる。ギリシア悲劇万葉集からドストエフスキーまで古今東西みなそうだ。そもそも「見立て」とは偶然性に意味を見出す行為だろう。その運命論的解釈は確率論による解釈よりもずっとおもしろいので、麻雀劇画では勝負手になるときまって神の見えざる手やら運命の歯車やらが登場する。ただし、それはあくまで物語として面白いのであって、本当に賭け事が強くなりたいのなら、妙なイマジネーションをふくらませるよりも確率論を基礎から学ぶほうがずっと効果的なはずだ。ゲームで微妙なのは、麻雀やポーカーのようにランダムな確率とプレイヤーの心理的駆け引きとが組み合わされたもので、イカサマでもしないかぎり牌やカードのディールに「流れ」などあるわけがないが、プレイヤー間の駆け引きにはある。もし、はじめて入ったフリー雀荘で、小指のないおじさんがこちらに鋭い視線を向けて「リーチ」とおもむろに万札を卓に出したら、もうそれだけで自分の手が縮こまっちゃうでしょ。それは明らかに「流れ」をつかみそこねた状況といえる。これらのゲームの場合、チェスや囲碁のような複雑な推論を求められるゲームとちがい、牌やカードの取捨選択は誰でもある程度まではすぐに上達するので、そこから先の勝負事の強さというのは、心理的プレッシャーのかかる場面でどれだけ冷静に状況判断できるかによって決まる。麻雀やポーカーにしばしばお金のやり取りがともなうのも、プレイヤーにあえて心理的負荷をかけることでゲーム性を高めようとしているんだろう。


テレビに登場する占い師たちがしばしば差別を助長する発言をくり返しているのは、あらゆる事象には意味があるとする運命論的な世界観に由来するのではないか。そこでは、大病を患ったのは「日頃の行い」のせいであり、生まれつき障害を負っているのは「前世の報い」とされる。一方、人権思想の根底には、偶然性がもたらす社会的不合理を是正しようという平等の理念があるので、この世界に偶然など存在しないとする運命論とは根本的に相容れない。占い師でありながら、同時に障害者支援や難民救済に熱心に取り組んでいる人権活動家というのは、きっと世界中探しても見つからないだろう。


趣味人への第一歩は物事を嫌うところからはじまる。朝顔の花を陰湿だと嫌い、東京風の甘辛い醤油味を田舎くさいと嫌う。ハリウッド映画を仰々しいと嫌い、久谷の彩色をこれ見よがしと嫌い、フランス車を脆弱と嫌い、ブラームスを凡庸だと嫌う。こどもをあざといと嫌い、犬猫を煩わしいと嫌い、小鳥のたぐいを目つきが嫌らしいと嫌う。そうして趣味人を気どる偏狭な美意識が研ぎ出されていく。


授業で代理出産の問題を取りあげると生徒から決まって「こどもがかわいそう」「こどもが学校でいじめられるから反対」という声があがる。私は代理出産について、経済的に困窮している女性たちが食い物にされる危険性が高いので合法化には慎重であるべきだという立場だが、一方で、こどもを哀れむふりをした批判にはまったく同意できない。その本質的な問題は家庭環境の異なる者が見下されたりいじめられたりしても仕方ないとする社会圧のほうであり、その対応策はそうしたこどもが生まれないようにすることではなく、そういうこどもが差別されない社会をつくっていくことのはずである。例えば親が離婚して片親に育てられている子について、十把一絡げに「ああ、離婚家庭の子ね、かわいそうな子」というまなざしを向けるのは、むしろ片親家庭への偏見を助長することになる。ところが「こどもがいじめられるから反対」という言いぶんはずいぶんと使い勝手がいいようで、他にも様々な問題で耳にする。夫婦別姓はこどもがいじめられるから反対、同性カップルが養子を迎えるのはこどもがいじめられるから反対、出かせぎ外国人の来日は日本語の話せないこどもが学校でいじめられるから反対。いずれも問題の本質はそういうこどもがいじめられる社会状況のほうであり、そちらを放置したまま、「だから夫婦別姓は認めるべきではない」「だから同性婚には反対」「だから外国人労働者の制限を強化すべき」と主張を展開するのは論理のすり替えにすぎず、本質的問題はなんら改善されない。そもそも離婚家庭にも様々なケースがあるように、それらの家庭も千差万別のはずであり、代理出産で生まれた子や親の姓が異なる子や同性カップルに引き取られた子を「かわいそう」と決めつける時点ですでに公正な判断を見失っている。


東京の言葉を「関東弁」という人がいるが、東京の言葉は関東弁ではない。関東弁はいわるゆる「だべ言葉」で、「どうすべえ」「参ったべよう」「参ったべなあ」「まあやるべよう」「やるべさねえ」といった調子である。イントネーションに抑揚が少なく、語尾を引っ張るのが特徴で、カールおじさんが話しそうなのんびりした田舎言葉といった感じ。また、身分制に由来する敬語表現がやたらと多い東京言葉に対して、関東方言に敬語は存在しない。「となりのトトロ」に隣人として農家のおばあちゃんが出てくるが、「カンタぁ!はやぐ父ちゃん呼んでこい、メイちゃんがいなぐなっちゃったんだあ」って言っていたあのおばあちゃんの話し方は典型的な南関東の土着の言葉である。いまでも東京郊外や神奈川あたりの農家のお年寄りはあんなしゃべり方をする。北関東になると「だべ」が「だんべえ」や「だっぺ」になったりしてより東北の言葉に近づいていく。そうした関東全域で広く流通していた「だべ言葉」に対して、下町方言も山の手方言も東京言葉は、江戸期に西日本から大量の人口流入があって、江戸という狭い範囲に様々な身分の人間がごちゃごちゃと密集して暮らすようになったことで形成された歴史の浅い言葉であり、土着の関東方言とは大きく異なっている。こういう周囲の地域から孤立した言葉のことを「言語島(げんごとう)」というのだそうだ。というわけで東京の言葉を「関東弁」というのは、ドイツ東部に暮らしているスラブ系の人々が使うソルブ語を「ドイツ語」というようなもので、明らかな間違いです。
 → Wikipedia 言語島
 → Wikipedia 東京方言


高校生くらいの若者ふたり組が「センパイ」から小さなオートバイをゆずってもらうことになる。「センパイ」はバイト先のセンパイでもいいし、部活の卒業生でもいい。その小さなオートバイはセンパイの下宿先の軒下で雨ざらしになっていて、所々錆が浮き、エンジンもかからない。半年くらい乗らずにいたら動かなくなったのだという。センパイはもうすっかり興味を失っている様子で、邪魔だからさっさと持っていってくれとばかりにキーを放り投げ、「まあ、キャブ直せば、動くんじゃねえかなあ、動かなくてもタダなんだから文句ねえだろ」とぞんざいに言う。もっとも放置車両の場合、十中八九キャブレターにトラブルを抱えているので、その言いぶんはそう的外れではない。ともかく、ふたり組はセンパイのアパートからそのポンコツを押して帰る。押して帰ったはいいが、ふたりともキャブレターのしくみどころか、2サイクルエンジンと4サイクルエンジンの違いもわからない。とりあえず近所の図書館からオートバイの修理本を何冊か借りてくるとことから、ふたりの格闘が始まる。台所の流しで腐食ガソリンのたまったキャブレターを分解して親にしかられ、タンクの中の古いガソリンを近所のガソリンスタンドで処分してもらおうとして嫌がられ、プロのアドバイスをもらおうとバイク屋の親父に相談して盗難を疑われる。でも、エンジンオイルとバッテリーと点火プラグは新しいものに交換したし、キャブレターも徹底的に分解洗浄してジェット類とパッキンは新品に交換した。チェーンはたんねんに錆を落としてから油を差し、つぶれたタイヤに空気も入れた。そうしてのべ一ヶ月間の格闘の末、エンジン始動の日がやってくる。エンジンはすぐにはかからない。チョークを引きながら、汗だくになって何度もキックをくり返す。そうしているうちにようやくガソリンが回ってきたようで、ついにエンジンがプスプスと気の抜けた音をたてながら動き出はじめる。エンジンはすぐに止まってしまいそうに力なく回っている様子だけど、ふたりは猛烈にうれしい。笑いがこみ上げてくる。それが私のオートバイについての原風景。単純で原始的な内燃機関による簡便な乗り物。いまもオートバイと聞くとそんな少し感傷的で少しいじけた情景が思い浮かぶ。たぶん、ひと昔前なら、似たような出来事は日本全国どこにでもあったんじゃないかと思う。


もしあなたが岩波の「夏目漱石全集」全28巻を愛読していたとしても、職場でとっさに漱石の「漱」の字が出てこなかったら、「坊っちゃん」を3ページしか読んでいない係長から、「キミ、教養ないね」としたり顔でたしなめられたりすることだろう。もしかしたら係長は「漱」が「すすぐ」の意味だと得意げに教えてくれるかもしれない。それが現代日本における教養の正体である。


夏になると一日に何度も身体を洗うようになる。そうして自分の体臭を消していくと他人の臭いにやけに敏感になる。ちょうど風呂上がりにそれまで着ていたシャツが「汚れ物」と認識され、洗濯かごへ放り込まれるように、こうした感覚は相対的なものなんだろう。私はわりと鼻がきくので、この状態で電車に乗ると、この人は三日以上身体を洗っていない、この人の口臭キツイなあ歯周病かなりひどそう、この人の口臭は酸っぱい臭いがするのでたぶん胃腸を悪くしてるんだろう、こっちの人からは血の臭いがするのでいま生理中なんだろうといったことまで伝わってきて、もう半径二メートル以内には誰も近寄らないでちょうだいって気分になる。潔癖症まであと一歩という感じで、かなり危険な兆候である。おそらく人間を穢れと見なす思想もこの感覚が生み出したはずである。現代では洗浄用品の性能が良くなったせいで、過去の時代に数十日の水行をへて到達した感覚を一日数回のシャワーで得られるようになったわけだけれども、でも、こういうことはあえて鈍感なくらいのほうが大らかでいいと思う、という話を先日ひさしぶりに母親から電話があった際にしたところ、「なーに言ってんだ、オマエ、それはクサイ奴が悪い、とくに口のクサイ奴は極悪人、ほらオマエの高校一年の時の担任、口臭がひどくて面談で向かいに座ってるだけで吐き気がこみ上げてきたわよ、ああいう輩は半径五メートル以内に来ないでほしいね、それにオマエだって夏場以外は時々クサイ、もうクサイ奴は全員家から一歩も出ないでほしいわ」とえんえん清潔ワンダフルワールドについて小一時間聞かされる羽目におちいった。そうか、俺はこういう親に育てられたのか。


古本屋で「げんしけん」と「海月姫」をまとめて買ってきた。どちらもオタクな若者たちの群像劇で、「げんしけん」は大学のマンガサークルを舞台に、「海月姫」は独身女性ばかりが集まった古いアパートを舞台にストーリーが展開していく。彼らは街でおしゃれな人を見かけたらそれだけで逃げ腰になり、遊び慣れた感じの若者が話しかけてきたら露骨に警戒心をあらわにする。自分がオタクであることによほどコンプレックスと強い自意識があるらしい。だから、自分たちに居心地のいい場所をつくろうと閉じた同質集団を求める。ただ、この時期って自意識の鎧をもてあますのと同時に自分の知らない世界の住人に心惹かれたりするものではないのか。自分が十代だった頃を振り返っても、中学の同級生だった暴走族に入って暴れていた女の子のことと高校の同級生だった放課後の図書室でひとりドストエフスキーを読みふけっていた文学少女のことはやけに印象に残っている。どちらも陰気なロック少年だった私とは話をしたって噛みあうことなんかなかったが、身近にいる異邦人ということで妙に気になる存在だった。なぜ、マンガの中の若者たちはあれほど同質性に執着するんだろう。社会の細分化がすすんだ結果、小集団間の断絶をアプリオリのものとして受け入れるようになっているんだろうか。その村社会のような排他性はゼノフォビアと根を同じくするものではないのか。そんなもやもやした疑問が読みながら浮かんだ。


たしか1990年代はじめ頃の夏だったと思う。バイトの面接でお茶の水まで行ったところ、一時間も早く着いてしまい、近くにあった鉄道博物館で時間をつぶすことにした。冷房にあたってひと息つき、ベンチに座ってタバコを吸いながら古い機関車をぼんやりながめていたら、すぐ隣に痩せて銀縁メガネをかけた青年が腰掛け、「おたくさぁーこんな中途半端な展示で満足しているんだとしたらまったくもってわかっていないね88系の形式は……」となにやらよくわからない講釈を甲高い声でまくしたてはじめた。やけに挑発的である。彼はこちらとまったく目を合わせず、宙に向かって独り言のように語っているが、平日昼間の博物館には彼と私しか入館者はいない。これ、俺に話しかけているんだよね。「えーっと、鉄道、お詳しいんですか、ぼくはバイトの面接までの時間つぶしに入っただけなので」と意図してやんわりと常識的な言葉を返したところ、その青年は拍子抜けした様子で「あっいや勘違いしてごめんね、こんな場所にひとりで来ているのを見かけたもんだから、ついさあ、いやそのなんだ、カタギさんでしたか、ははは」ととたんに温和な調子になり、独り相撲をとったことに顔を赤くしながらそそくさと去って行った。そうか、おにいさんはマニア同士で蘊蓄のせめぎ合いがしたかったんだね、相手になれなくってごめんよ、なーんてことは当時の私はまったく思わず、後日、彼の滑稽さをネタに友人と笑いあった。「カタギさんだってよ、あはははははは」なんて。我ながら嫌な奴である。というわけでバイトの面接のほうはもはやまったくおぼえていないが、この青年のことはやけに印象に残っている。ちょうど「オタク」という言葉が日本語として定着しはじめた時期のことで、彼の風貌と言動は「げんしけん」の斑目くんにそっくりだった。


朝、目が覚めたら、顔のかたちが変わるくらい口のまわりが腫れていた。前日にボクシングの試合をしたおぼえはない。半年ほど前から蕁麻疹が出るようになったので、どうやらアレルギーによるアナフィラキシー反応のようだった。たいていのアレルギーがそうであるように原因は不明。夢の中で寿司屋のはしごをしたのが悪かったんだろうか。一時間もすると腫れが収まってきたので、出勤して授業もする。生きていくのは色々大変である。

くじ引きとしての生

この冬、大学入試の小論文対策用の副読本を書くアルバイトをした。私が担当したのは、ジョン・ロールズの「正義論」についての項目で、一昨年にNHKでやっていたハーバードの授業の影響なのか、入試の小論文課題にまでロールズの「公正としての正義」が出題されているらしい。他の項目が「生涯学習」「グローバル経済」といった社会現象のほうを中心にそれを取り巻く状況をざっくりと俯瞰していく内容なのに対し、なぜかこの項目は、ロールズの「正義論」の解説だけで見開き2ページを構成してほしいという注文だった。ここだけやけに専門性が高くてバランスが悪いように見えるんだけど、版元からの注文なので、ともかく「正義論」を読まないことにははじまらない。ひと冬まるまるついやして全800ページの大著にあたる。大仕事である。20世紀の大思想家が生涯を通して書きつづけた大著なんていまどき受験生は誰も読まないだろうから、彼らの代わりに読んでその内容を2ページぶんに要約しろというのが版元側の要望のようだった。安請け合いするんじゃなかったよ。


ロールズは人間の「生まれ」に基づいた社会のあり方を否定する。内戦の最中に難民キャンプで生まれたこどもも、大金持ちの家の跡継ぎとして期待されて生まれたこどもも、新宿の地下街でホームレスの親から生まれたこどもも、黒い肌に生まれてきたこどもも、白い肌に生まれてきたこどもも、男の子も女の子も、生まれつき目が見えないこどもも、生まれつき耳が聞こえないこどもも、本人がそういう生を選択してこの世界に生まれてきたわけではない。言わば自らの生涯を賭けた大がかりなくじ引きの結果として人間はこの世界に誕生し、生きていく。自ら意図しないところで決まるそうした生のあり方をそのまま放置するのは、フェアな社会ではないと彼は考える。スタートラインが人によって異なり、さらにある者は片足で走ることを余儀なくされ、またある者は乗り物に乗ることが許されている中で参加者は競わされ、個々の過程は一切考慮されないまま結果のみで評価され、その報酬がもたらされるとしたら、それは「競争」とは名ばかりの「搾取」にすぎない。そのため、フェアネスの実現した社会というのは、どんなくじを引き、どんな立場に生まれたかを問わず、誰もが機会均等を等しく配分され、同じスタートラインに立てることが条件になる。したがって、ロールズは、生まれの違いがもたらす格差は富の再配分と公的支援によって絶えず補正されねばならないという徹底した平等主義の立場をとる。


彼は興味深い思考実験を展開する。そこでは、あの世の住人たちがこれから自分たちが生まれることなる世界をめぐって、どういう社会にすれば自分たちが新たな生を得た世界でより良く生きられるかを議論している。その会議では、あの世の住人たちの出した結論どおりにその世界の社会のあり方が設定される。ただし、あくまで決められるのは社会のあり方だけで、ひとりひとりが社会のどういう立場に生まれるかは選択できない。男に生まれてくるのか、女に生まれてくるのか、白い肌に生まれてくるのか、黒い肌に生まれてくるのか、障害を持って生まれてくるのか、いっさい本人はコントロールできない。社会的変数を入力してそこで人間がどのように扱われどのように暮らしているかを示していく思考実験は、フランク・キャプラの映画、「素晴らしき哉、人生!」を連想させる。ロールズは、人は誰もがそういう状況に立たされたら、生まれに関係なく平等に扱われる社会のあり方を望むだろうという。たしかに自分がどういう立場に生まれるのかコントロールできない以上、奴隷制社会や貧乏農場のある人生ゲームのような社会はリスクが大きすぎる。人生ゲームでは誰もが同じスタート地点から同じ条件で出発し、行為の結果として億万長者か貧乏農場か行き先が別れるが、現実の社会では、はじめから異なるスタート地点と異なるルールが割り振られることになる。


私たちは多くの場面で自らの立場に基づいて物事を判断する。たとえば、資産家にとって生産手段の国有化をとなえる共産主義は、自らの不動産や株式を失うことになるので、彼らには危険思想だと映るだろう。逆に小作農やスラム街の住人にとっては、共産主義のとなえる誰もが労働者として平等に働く社会のあり方に高い理想を見いだすだろう。あるいはアメリカ南部の白人たちの中にいまだに奴隷制度を擁護する者がいるが、それは奴隷を使う側の発想でしかなく、彼らは自らが黒い肌に生まれてきたらとは考えない。それらはいずれも自らにとって損か得かという判断でしかなく、ロールズはそうした損得勘定に基づく功利主義的判断に社会正義はないと説く。あの世の住人たちの議論という状況設定は、そうした損得勘定を廃するための思考実験といえる。


ロールズは、フェアネスの実現した社会のあり方として、ふたつの基本原理を示している。ひとつめは基本的自由がすべての者に等しく保障されている状態であり、これは基本的人権の保障といえる。しかし、基本的人権が保障され、法の下の平等という形式的平等が実現している社会でも、様々な要因から社会的格差は生じる。例えば、貧困家庭に生まれ、十分な教育を受けられず、低賃金労働を強いられている人がいたとする。この人の場合、競争に参加する機会がはじめからなく、生き方の自由があらかじめうばわれているといえる。もしこの人が生活に困って片方の腎臓を売ることにしたとしても、その決断を「自由な選択」とはいえないだろう。


そこでロールズは、実質的平等の実現のための第二原理を提示する。こちらは公正な機会均等の保障と格差の是正のふたつからなり、社会的に不利な立場におかれている人々への積極的な支援の必要性をとなえている。彼のいう公正な機会均等とは、法の下の平等が保障する形式的な機会均等とは異なり、すべての人が同じスタートラインに立ち、能力のみで競う社会のあり方を意味する。そのためには、人種・民族・性別・家柄などがもたらす社会的格差は、富の再分配と公的支援によって補正され、誰もがイコールの状態でスタートラインに立てるようにしなければならないというわけである。


では、公正な機会均等が実現したとする。人間の歴史上、完全な機会均等の実現した社会など存在したことがないが、それが実現したと仮定する。すべての参加者が同じスタートラインから同時に走り出し、公正なルールの下、純粋な能力競争が行われたとする。その結果として、運動会の競走と同様に誰かが一等になり、別の誰かがビリになった。一般的にフェアな競争の下で生じた結果の差は尊重されるのが基本ルールのはずである。しかし、純粋に能力のみで競う成果主義の社会においても、個人の能力差によって格差は生まれ、とくに障害を持った人々は社会の中で不遇な立場のまま留めおかれることになってしまう。そこでロールズは、能力に応じた成果報酬の差や社会的地位の差を受け入れつつも、同時にその差は社会の中でもっとも不遇な立場の者たちの状況を改善するために用いられねばならないとして、公正な機会均等の下で生じた格差であってもさらなる是正をとなえる。うーむ、ロールズ先生、そこまで言うか。だって障害を持った人たちもあまり高い能力を持っていない人たちも自らそう望んで生まれてきたわけじゃないんだから、成果主義の社会で彼らが不遇な立場に立たされるのを「仕方ないね」のひと言で片づけてしまうのは、フェアな社会とはいえないだろというわけである。明快な論理だ。その考え方の根底にあるのは、能力の差はたんに本人の努力によるものだけでなく、生まれ持った資質や生育環境といった本人のあずかり知らぬ所できまる偶然の要因が多分に含まれている以上、能力差は社会的格差を肯定する絶対的な根拠にはならないという立場である。たしかに、もし、アインシュタインダッカのスラム街に生まれ育っていたら、相対性理論を思いつくどころか、いつもぼんやりと空想にふけっている役立たずの変わり者と見なされたまま、なにも成し遂げることなく生涯を終えただろう。


障害を持った人々がまともな職に就くことができず、社会の中で不遇な立場におかれている状況を「仕方ない」で片付けてしまう発想には、「もしかしたら自分がそう生まれてきたかも知れない」という視点が抜け落ちている。そのため、こうした社会的格差の問題を論じる際には、その人が社会の中でどういう立場にいるかによって見解がしばしば大きく異なってくる。たとえば、インドの不可触民たちはいまもインド社会には深刻なカースト差別があるというが、その一方で、外交官や大学教授といった上流階級の者たちは口をそろえてカースト制度はすでに過去のものになったと主張する。先にあげたあの世の会議というロールズの思考実験は、自分がどう生まれ変わるかわからないという状況を設定することで、自らの社会的立場に基づく分け前の確保という功利主義的な発想を否定する。ロールズの示した社会の三つの段階を図にすると次のようになる。

本を読みながら、去年テレビ放送されていた「輪るピングドラム」のことを思い出した。あの物語では、毎回、運命をめぐる主人公のこんなモノローグからはじまる。

「ぼくは運命って言葉が嫌いだ。生まれ、出会い、別れ、成功と失敗、人生の幸不幸、それらがあらかじめ運命によって決められているのなら、ぼくたちはなんのために生まれてくるのだろう。裕福な家庭に生まれる人、美しい母親から生まれる人、飢餓や戦争のまっただ中に生まれる人、それらがすべて運命だとすれば、神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。あの時からぼくたちには未来なんてなく、ただきっと何者にもなれないってことだけは、はっきりしてたんだから。」


そこでは人間の生は、偶然の産物としてではなく、運命として解釈され、あらゆる社会的格差は個人の生き方の問題へと還元されていく。どんな境遇に置かれても本人の心持ちしだいで幸福にも不幸にもなるというわけだ。社会のあり方へ目を向けようとしないその閉塞した発想は、私にはまるで八墓村の住人たちが語る人生訓のように思えて非常に気持ち悪かったが、日本の場合、「世の中そういうものだ」式の発言をあちらこちらで耳にするので、社会原理はどこからか輸入するもので自らのアタマで判断するものではないと思っている八墓村出身者は、案外多いのではないかという気がする。

軍事オタクによる軍事オタクのための嬉遊曲

 半年ほど前、夜中にテレビをつけるとセーラー服姿の女の子たちがドイツの四号戦車に乗って戦車戦をしているアニメをやっていた。


「次の一発で決めます、丘の上から狙えますか?」
「稜線射撃は敵の標的になるから、ファイアフライが次を撃ってくるまでの間が勝負です、華さん、お願いします」
「次弾、装填完了です!」


 って、なにこれ。いったいなにがどうなってるの。どうやら劇中の世界では、古い戦車に乗って模擬戦をすることが女性の武道として成り立っていて、甲子園の高校野球大会のように高校生たちの戦車戦大会が行われているということになっているらしい。戦車には通常装甲の内側にさらに特殊装甲が施されていて、乗員の安全性を確保しながら実弾を使った模擬戦を可能にしているという設定で、そんなスポーツとしての戦車戦が草野球の試合のように日常的に行われている不思議世界。きっと街道沿いの中古車ディーラーには、軍の放出品のシャーマンやT34が「試乗歓迎」ののぼりとともにずらっとならんでいたりするんだろう。物語は主人公の女の子が転校先の学校で親しくなった仲間たちと仲良し五人組のチームを作り、戦車初心者の彼女たちを率いて高校生の全国大会を勝ち上がっていく。その荒唐無稽なストーリーに反して、CGで組まれた戦車の描写はやたらと力が入っていて、加速時には車体前部が上がり、減速時には前が下がるのはもちろん、射撃の際には衝撃で車体が揺れ、路面の起伏にあわせて転輪が上下し、フロントドライブの車両については加速時にちゃんとキャタピラ上部のたるみが張るのである。おまけに手動式の旋回砲塔の場合、砲手の女の子がせっせとハンドルを回しながら砲塔を旋回させ照準を定めている様子まで描かれている。そんなつくり手である戦車マニアのおじさんたちの夢と希望とオタク魂がてんこもり詰まったワンダーランド。そこでは様々な戦車が登場し、登場人物によって特徴や運用方法が熱く語られるが、その一方で、軍隊につきもののビンタやしごきやきびしい上下関係といった新兵訓練に由来する体育会系カルチャーのほうは完全に排除されている。それによって、兵器や銃器や軍服が大好き、でも、実際に鬼軍曹みたいな上司や教師にしごかれて軍隊式ビンタで根性注入されるのは絶対に嫌っていう少々ややこしい葛藤を抱えた軍事オタクのみなさんも安心して楽しめる親切設計のテーマパークを実現している。劇中で女の子たちが楽しそうに戦車に乗っている様子はまるで子犬がじゃれてるようだ。でも、こんなの誰が見てるんだろう、夜中にさあ。


 と思っていたら、なぜか評判がよかったらしく、続編の映画版がつくられることになったという。ますますもって誰が見ているのか不思議な作品である。もっとも、こういう話が映画化されること自体が荒唐無稽なコメディのようでなんだか可笑しい。スケールモデルを取り巻く状況は、この40年間ですっかり様変わりした。小学生の男の子たちがこぞってタミヤのタイガー戦車やハセガワの零戦をつくっていたのは遠い昔のことになり、いまやごくひとにぎりの熱心な愛好家たちによる一見さんお断りの業界になっている。私自身にしても、クルマやバイクのプラモデルをつくるのなら、手間はかかっても、ポンコツ実車を手に入れてレストアするほうを選ぶ。まあ、四号戦車は無理だけど。そういう意味でこの戦車アニメ、完全に特定の視聴者をピンポイントに狙った閉じた小宇宙のはずなんだけど、作り手の情熱がその一点で突き抜けているだけにかえって戦車マニア以外にも訴求力があったりするんだろうか。15年前、戦車模型専門の雑誌が創刊されたのを本屋で見かけた時もいったい誰が読むんだろうと自分の目を疑ったが、あれ以来の衝撃である。その専門誌は出版不況にもかかわらず、驚いたことに15年後の現在も発行をつづけており、先ほどアマゾンで確認したところ今月号の特集はこのアニメ。ああやっぱり小さな世界である。なにはともあれ、うるさそうな諸兄のそろっているミリタリーモデルの愛好家たちにも受け入れられているようでなによりです。こどもの頃、将来は宇宙海賊船かタイガー戦車になろう(乗ろうではない)と思っていた現在小学40年生の私としては、その閉じた小宇宙はずっと気になっているんだけど、深入りすると大事なものを色々と失いそうに思えてなんとか踏みとどまっている(と思う、たぶん)。


 去年、職場で話題になった入試問題がある。「これ、どう思いますか?」と入試問題の分析をしている世界史担当の人からわたされたのは、慶応の法学部の入試問題。1970年代末の兵器の輸出入から国名を答える問題で、表には兵器の名前が英語表記でずらっと並んでいる。
「なんですか、これ」
「うん、今年、一番へんな現代史の問題」
 と、そのセンセー、こちらを見てニヤニヤ笑っている。

(ネット上でもそれなりに話題になったみたいで、問題の画像もありました。世の中には受験産業の関係者でもないのに、毎年、大学の入試問題を解いてる人っているんですね。画像はそんな物好きな人のツイートから拝借。http://twitpic.com/c21g53


「んー……、アはアルゼンチンとイラクに武器輸出している国で、それぞれミラージュ戦闘機を輸出……ミラージュってフランスの戦闘機でしたっけ」
「そうそう」
「えーっと、ミラージュが三菱の小型車じゃなくてフランスの戦闘機だっていうのは、高校生にもわかる範囲の知識なんでしょうか?」
「まあ、武器輸出の外交関係から国を判断することもいちおう可能という設問にはなっているけどねえ」
「うーん、1977年にアルゼンチンとイラクにもっとも武器輸出をしていたっていうヒントだけでフランスだと特定するのは、外交の専門家でも不可能じゃないでしょうか、兵器の名前から生産国がわからないと特定することはできないと思いますよ、逆にミラージュがフランスの戦闘機だって知っていれば、一発で解ける問題ですけど」
「やっぱりそうだよねえ」
「で、イはインドとイラクに二番目に武器輸出している国で、T72戦車とカシン級駆逐艦、あと、ミグ戦闘機……これはソ連ですね」
「うん」
「ウはパキスタンに武器輸出している国で、ハイナン級FPB……名前からして中国の軍艦ですかねえ、FPBってなんだろ」
「さあ、小型の哨戒艇かなんかでしょうか、パキスタン、大型艦を買うほどお金ないだろうし」
「で、エはアルゼンチン・イラン・パキスタン・フィリピンに武器輸出している国で、ベル212ヘリコプターとCH47ヘリコプター、これ、ベトナム戦争で使われたアメリカの軍用ヘリでしたっけ」
「さあ、さっぱりわかりません、あははは」
「あとはマーク46トーピードーズ……魚雷でしたっけ、魚雷40発とF8戦闘機、まあ、アメリカでしょうねえ、79年のイラン革命前だがら、イランにも武器輸出してたんですね」
「うん、パーレビは実質アメリカの傀儡だったからね」
「で、オがインドとイランに輸出している国で、シーキング・ヘリコプターとシーハリアー戦闘機、ハリアーは小学生のころプラモデルをつくりましたよ、これはイギリスです」
「おっ、ぜんぶ解けたじゃない、ぼくはミラージュがフランスでミグがソ連の戦闘機ってことしかわからなかったよ、あははは」
「まあ、冷戦をリアルタイムで経験してきた世代にとっては、ミグやミラージュは当時ずいぶんニュースにもなったし、それがソ連やフランスの戦闘機だっていうのも常識の範囲内だと思いますけど、そういう知識を高校生に要求するのは無茶な話だし、こういうのって現代史の授業でもやるんですか?」
「やるわけないじゃない、兵器の名前なんて」
「これ、防衛問題が専門の人が出題したんでしょうかねえ」
「さあ、趣味だと思いますよ、自分の専門分野をこんなオタク・クイズみたいなかたちで出題するとは考えにくいし」
「大学のセンセー、ずいぶんフリーダムですね」
「ねえ、慶応の法学部が軍事オタクの若者を採りたがってるとしか思えないよね」


 そういえば慶応といえば、以前教えていた生徒が学校説明会へ行った時のこと、説明会で大学関係者が「私たちは勝ち組になる若者を育てています」「私たちといっしょに勝ち組になりましょう」と言いだしたという。ちょうど小泉構造改革が本格化し、「勝ち組・負け組」が流行語になっていた頃のことである。さらに「さあ、みなさんもご一緒に」と会場には入学希望者とその親たちによる「勝ち組になるぞぉ!」の連呼が響きわたったとのこと。竹中平蔵の教えが学内に行きとどいているんだろう。まるでインチキ投資会社の出資者セミナーである。彼らが「勝ち組になるぞぉ!」を連呼している間抜けな情景を思い浮かべていたら、笑いが止まらなくなってしまった。腹を抱えてげらげら笑っていると、「でも、うちのお母さん、全共闘世代でそういうの大嫌いだから、もう、かんかんに怒っちゃって、途中でイス蹴っ飛ばして出てきちゃって大変でした、おまえ、あんな大学、ぜぇーったいに行くな、もし、おまえが学問を金儲けの手段としか思っていないようなあんなろくでもないところへ行きたいっていうなら、今後いっさい親子の縁を切る、受験料も学費もぜぇーったいに出さないってもうすごい剣幕で、だから、慶応は受験できなかったんです、ってもうそんなに笑わないでくださいよ、うちでは大騒動だったんですよ」と彼女は続けた。「で、その勝ち組大学、行きたかったの?」と笑いをこらえつつ尋ねると、「うーん、ちょっと」と彼女も苦笑していた。以来、慶応のことは「勝ち組大学(笑)」と呼んでいる。

猫をなでる

勤務先に隣接している看護学校には、玄関先に猫小屋がふたつならんでいて、有志の職員や学生によって野良猫が保護されている。猫小屋のわきには連絡帳が置かれていて、猫の体調や補充したエサについて詳細に記されている。ずいぶん大事にされている様子で、そのため片目のないおばあさん猫のほうはすっかり人慣れしており、日中、のそのそと猫小屋を出てきては、看護学校に出入りする人間たちをものともせず、入り口の玄関マットに長々と寝そべっている。昼休みに彼女のアタマを撫でるのがすっかり日課になっている。


猫が街角で昼寝をしている風景というのは、自分とは違う時間を生きている存在を身近に感じられていいと思うのだが、人間様の論理がすべてだと思っている人には目障りに映るらしい。路地裏をうろうろしている野良猫を見かける機会が減ってきているにもかかわらず、役所に寄せられる猫の苦情件数は増加傾向にあるという。20世紀なかば、ドイツの思想家たちはこうした発想を「道具的理性」と呼び、近代的理性への批判を展開した。近代的理性は先入観を捨て公正で客観的なまなざしによる論理的判断とされてきたが、彼らによると、実際には、人間がいかに利用するかという発想に基づいて自然を道具化する思考様式だという。例えば、目の前に樹齢千年の巨木があるとする。近代的理性は、その巨木に生命の神秘や畏敬の念を感じるのではなく、切り倒して丸太にしたら一本いくらで売れるのか、引っこ抜いて跡地を駐車場にしたら月々どのくらいの収益が見込めるのかという考え方をする。身も蓋もない言い方だが、それが近代人の「理性」の正体であり、同時にこの思考様式が近代人の孤独感の原因になっていると指摘する。そこでは、30年ローンで買った建て売り住宅の玄関先には、「一歩たりとも」の意志表明として水の入ったペットボトルがずらっと並べられ、逆に観光地の客寄せに利用できる場合には動くキャラクターグッズとして持ち上げられる。排除も愛玩も、自然を人間から切り離された存在として対象化し、人間が利用するための道具と見なしている点ではかわらない。


野良猫への風当たりがきびしくなる一方で、猫好きの間では「完全室内飼い」がさかんに推奨されている。ネットのコミュニティは同調圧力の強い閉じた小宇宙になりやすいため、愛護をとなえる人たちも駆除をとなえる人たちも同じような考え方の人たちばかりが集まって、そこでのコンセンサスも極端な方向へ転がっていく。完全室内飼いを推奨している人たちによると、猫を屋外に出すことで、病気感染や交通事故のリスクが飛躍的に大きくなり、屋内で飼育されている猫が十数年生きるのに対し、野良猫の平均寿命は三年だという。極端な人になると、「猫を外に出すなんて虐待と同じ」「完全室内飼いできない人には猫を飼う資格がない」と主張している。ただ、野良猫の平均寿命が三年というのは一種の数字のトリックで、野良猫の場合、一歳未満の仔猫の死亡率がやたらと高いために平均すると三年になるという意味である。ちょうど「江戸時代の平均寿命が四十歳」というのと一緒である。私がこどもの頃、隣家の床下になかば野生化したメスの野良猫が住みついていて、毎年、春から夏にかけて数匹の仔猫を産み、彼女の懸命の子育てにもかかわらず、そのほとんどは一歳まで生きられなかった。そのため、「野良猫の平均寿命が三年」といっても、江戸時代の人間が四十前後で老け込んで寿命を迎えたわけではないように、野良猫は病気や怪我で三歳くらいまでしか生きられないという意味ではない。また、猫の感染症としてしばしば指摘されているのはネコエイズ(FIV)だが、ヒトのエイズHIV)とは性質が異なり、近年急激に感染が広がったというものではなく、死亡率もHIVのようには高くない。むかしからネコ科の動物の感染症としてあったものが、近年のウィルス研究によってしだいにそのしくみが解明されてきたというだけなので、あまり神経質にならなくてもいいのではないかと思う。


私は生き物といっしょに暮らすことを生きたぬいぐるみとして愛玩する行為ではなく、彼らを通して自然をのぞき見ることだと考えている。なので、猫を室内飼いにするのか屋外に出すのかも、生活状況や周囲の環境に応じてそれぞれ飼い主が判断すればいいのではないかと考えている。アニミズム信仰の根強かった日本では、古来、猫も狸も狼も山の神のたぐいと見なされてきたが、私の彼らへのまなざしもそれに近い。昔、我が家に住みついていた大きな猫も隣家の床下に住みついていた母猫も、みな生きる術に長けていて、連中を見ているとなんだか自分がこの世界のことをなにも知らないひ弱な存在に思えた。何年か前、ヤフーの掲示板を見ていたら、完全室内飼いを推奨していると思われる人から「なぜいまだに猫を屋外に出す人がいるんでしょうか?」という少々批判めいた質問があったので、こんな文章を書いたことがある。わりとうまく書けたような気がするので、少し手直しして、ここに載せておきます。

 現代では猫にネズミ取りの役割が求められなくなってきたため、外猫や野良猫への風当たりはしだいにきびしくなってきました。ただ、猫は本来屋外で生活する動物ですし、日本のように外猫や野良猫に神経質になっている社会というのはかなり特殊な状況です。世界中どこでも人間の暮らす土地ならば猫たちは屋外をうろうろしていますし、南欧や東南アジアでは、屋台や安食堂にもよく猫がやってきて、じっと客の顔を見つめ、ちょうだいと無言の圧力をかけたりしています。もちろん、しょうがないなあと食べ物をわけてあげる人もいれば、あっちへ行けと追い払う人もいるわけですが、たいていの店主はそれを黙認していて、あえて猫を閉めだすようなことはしません。人と猫の関係はそれくらいがちょうどいいのではないか、声高に排除をとなえるのも高価なアクセサリーのようにペットの猫を溺愛するのも同じように自然を道具化する行為ではないか、と思っています。


 猫が古代エジプトやシュメールで家畜化されて数千年になると考えられていますが、その間、猫たちはネズミ取りのためにただ放し飼いにされてきた存在です。家畜といっても、イヌやヒツジやウシやブタとちがって、繁殖をコントロールされることもなく、品種改良もされていないので、姿形や習性は原種のヤマネコとほとんど変わりません。人間の暮らしのまわりで放し飼いにされ、エサをもらったり追い払われたりしながら、数千年にわたって人とつかず離れずの関係で共生してきた「半野生動物」というのが彼らの生態ではないでしょうか。その暮らしぶりをいまふうにいうと「野良猫」ということになりますので、私はむしろ野良猫や外猫の暮らしこそ、猫本来の姿ではないかと思っています。猫を「ペット」として室内のみで飼育するのは、わずかここ十数年の習慣にすぎませんし、猫と人間とのかかわりの歴史という点では、むしろこちらのほうが特殊なケースのように見えます。そういう意味で、完全室内飼いこそが「正しい猫の飼い方」で、猫を外に出すのは「おくれた考えかた」という発想は、少々視野が狭いのではないかと思います。


 ただ、日本の多くの地域では、都市化が進行したために、しだいに猫を外に出しにくくなっていることも事実です。高層住宅で猫を飼っていたり、家のすぐ前を四車線の国道が通っていたりする場合には、猫を外に出すのは非現実的です。逆に、古い家に住んでいて、家のまわりには里山や雑木林があるという環境の場合、猫を室内だけで飼うのはやはり非現実的ではないでしょうか。とくに縁側があるような解放構造の日本家屋の場合、猫を外に出さずにいるためには、暖かい季節になっても縁側を締め切ってエアコンで暮らさねばならないので、完全室内飼いにするのは無理があるように思います。なので、暮らしている環境に応じて、猫を外に出すか、室内で飼育するかを判断すればいいのではないかと思います。そもそも猫が屋外で暮らしにくい環境というのは、人間にとっても暮らしにくい環境ではないかと思います。


 また、野良猫をひきとった場合、仔猫のときから室内飼いにされてきた猫とちがって、完全な室内飼いにするのはかなりの困難がともないます。多くの場合、猫はストレスのためにカーテンに飛びついたり広げた新聞紙を引き裂いたりして、外に出せとアピールします。そういう場合でも根気よくしつけていけば、野良猫を室内飼いにすることは可能ですが、住んでいる地域がよほど猫が暮らすのに向いていないのでない限り、あえてそこまでして室内飼いを強いることには疑問を感じます。


 生き物といっしょに暮らすことは、ペットとしてただ可愛がるだけでなく、彼らを通して自然をのぞき見る窓を手に入れることでもあります。たしかに猫を外に出すことで、事故や病気感染や心ない人による虐待の心配があるのも事実ですが、その一方で外に出ることで猫が学ぶこともたくさんあります。他の猫たちとのつきあいかたを学び、狩りの方法を学び、犬やカラスのような危険な存在への対処方法を身につけ、自然環境の中で生きていくすべを身につけていきます。とくに里山や雑木林のある地域では、本来の生き物としての姿を見せるようになります。そうした彼らの様子に触れることで、身近な自然への理解も深まっていくのではないかと思います。彼らといっしょに暮らす意義は、人間の側に引き寄せて擬人化することではなく、人間の論理や尺度が通じない存在と身近に接することで、気持ちが通じたり通じなかったりしながら、自らのまなざしを相対化できることにあるのではないでしょうか。なので、地域の環境や住環境が許すならば、猫を外に出したほうが彼らにとっても人間にとってもメリットが大きいのではないかと考えています。


昔、我が家に住みついていた大きな野良猫。オス。年齢不明。長いことうちの界隈のヌシのような存在で、我が家ではクロと呼んでいたが、方々で違う名前で呼ばれていた。私が中学生の時に夕飯の残り物をあげたことが縁で我が家の軒先に住みつくようになった。じゃれたり鳴いたりすることは一切なく、呼びかけるとじっと見据えてこちらの意図をかなり的確に読み取っているようだった。そうやって人間をよく観察することで世知辛い世の中を渡ってきたんだろう。大したもんだと思う。やけに立派な奴だったので、一緒に並んで歩いていると自分のほうがこの世界のことをなにもわかっていない赤ん坊のように思えた。晩年はげっそりと痩せてしまい、西日の当たる窓辺でいつも寝ていたが、写真はまだ元気だった頃のもの。私はいまもこの猫のことを我が家の軒先にしばらく住みついていた山の神のたぐいだと思っている。写真左端に写っている金盥みたいなのは大食いのヌシ殿のお供え物用。野良猫生活の長いクロは出された食料はすべて一度に平らげた。


雨の日のクロ。本日の縄張り巡回から帰ってきたところ。勤勉である。後ろのふにゃふにゃにしたのは子分のチビ。クロは強面の見かけによらず、仔猫や若い猫の面倒見が良かった。子分のチビ以外にも、時々見かけない仔猫を連れてきては自分の喰いぶんを分けてやっていた。自分の縄張りにいる仔猫や若い猫はぜんぶ自分のこどもだと思っていたのかもしれない。私はクロのことが大好きだったが、岩合光昭さんのように種としての猫を愛しているわけではないので、「猫好きなんですか?」と聞かれて返答に困ったことがある。人間に気の合う奴と合わない奴とがいるように、猫にも気の合うのとそうでないのがいる。猫の場合、人間同様に自分はこうしたいという明確な自我を持ってこちらにまなざしを向けてくるため、互いの自我のせめぎ合いによって緊張感や親和性が生じる。その関係性は金魚やカブトムシを飼うのとは異なる。「猫好き」というくくりは、そうした一匹一匹の差異と双方向の関係性を否定する発想ではないかと思う。


隣家の床下に住みついていた野良猫の息子。母猫の懸命の子育てにもかかわらず、夏に生まれた仔猫の生存率はとくに低く、五匹生まれて冬を越せたのはこいつだけだった。大雪の降った二月には、兄弟の一匹が我が家の軒先で凍死していた。子別れで母猫に追い払われた春頃から我が家のほうにやってくるようになり、結局、そのままうちの猫になった。逆三角形の神経質そうな顔と用心深い性格は母猫にそっくり。半ば野生化していた母猫からサバイバル術を徹底的に仕込まれたおかげで身のこなしに隙がなく、たいていのことはそつなくこなした。母猫のほうは夕暮れ時になると「ギャーローン」と化け猫のような声で鳴いて周囲の住民を陰気な気分にさせていたが、そこは幸い似なかった。母は自分を頼ってくる無力な存在というのが大好きなので、唯一生き残ったこいつを溺愛するようになり、猫のほうも母以外には懐かなかった。写真でも「なんだよ、おい」という感じで、いつでも逃げ出せるよう前足に重心をかけ、こちらをぜんぜん信用していない目で見ている。かわいくない奴。背中が妙にてかてかと黒光りしているのは、溺愛する母のせいで栄養状態がいいからだろう。母の転居先に連れて行かれ、1999年に13歳で死んだ。

憲法96条の改正


どうも。ひさしぶりの更新です。やけにいそがしかったり、やけにたっぷりと時間ができたりして、しばらくこのブログもほったらかしになりました。いそがしくて時間がないとブログなんか書いてられませんが、逆にたっぷり時間があると遊びに出かけたくなったり、半七捕物帳全69話や別役実戯曲集を一気読みしたくなったり、ものすごく時間のかかる大作ゲームにどっぷりと首までつかってみたくなったりするもんで、ブログ書きみたいなのは、ほどほどにいそがしくて仕事中心に生活が回ってる時がちょうどいいのかなと思います。


あ、先日、電車の中で満面の笑顔で少年ジャンプを読みふけっている大学生くらいのおにいさんを見かけました。あんなに楽しそうにマンガを読んでいる人を見たのはずいぶんひさしぶりな気がします。なんかみなさん不機嫌そうだしさ。世界中の人が彼のようになればきっと世界平和も実現するんじゃないかって思いました。


で、こちらは仕事中心に生活が回り始めて、今度の中間試験にいま話題の憲法96条の改正を論述問題として出題することにしました。ちょうど授業では、自然権や社会契約やらについて解説しているところなので、タイムリーな話題だと思ったしだい。まあ、こういう現実の社会問題に切り込んでいけないのなら、いくら授業で自然権やら社会契約やら法の支配やらを解説したところで、そんなの社会科の授業じゃねえよって感じです。そんな洗濯機をがらがら回しながら日曜の昼を費やして書いた今回の出題はこんなの。またまた、たたき台にあたるAとBの参考意見を読んであんたの考えを書いてというもので、もしAとBのここをこうしたほうがいいというアドバイスがありましたら、コメントをいただけると幸いです。

憲法96条の改正


 現在、国会を中心に憲法96条の改正が議論になっています。憲法96条は憲法改正手続きについての規定で、次のように記されています。

第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 現行の96条では、憲法改正のためには、国会の両議院でそれぞれ全議員の2/3以上の賛成、国民投票過半数の賛成を必要とします。現在議論されている憲法96条の改正は、国会の両議院でそれぞれ全議員の過半数の賛成で憲法改正国民投票ができるようにしようというものです。
 この改正がなされた場合、憲法を改正しやすくなるので、時代や社会状況に応じて柔軟に対応できるようになることが期待できます。しかしその一方で、選挙によって国会の勢力が変わるたびに多数派の国会議員によって憲法改正の発議がなされてしまい、多数決原理によって憲法という社会の根幹が変えられてしまうという危険性もはらんでいます。
 あなたはこの憲法96条の改正についてどのように考えますか。次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。


A 憲法96条を改正すべきである。
 現在、多くの世論調査で「憲法を改正したほうがいい」と回答している人の割合は過半数を超えている。それにもかかわらず、日本では憲法改正国民投票は一度も行われたことがない。これは、憲法改正の発議に必要な衆参それぞれで全国会議員の2/3以上の賛成というハードルが高すぎるためである。
 近代憲法は政治権力をしばるために人々の声を集めてつくられるものである。そのため、憲法改正の手続きも国民投票のほうにウェイトが置かれるべきであり、その発議である国会議員の議決のほうはハードルを下げてもかまわないはずである。多くの世論調査憲法改正を支持する人の割合が過半数を超えているのに、一度も国民投票が行われたことがないという日本の状況は、民意を政治が反映していないといえる。
 現在国会を中心に議論されている憲法96条の改正は、国民投票なしで憲法改正ができるようにしようというものではなく、あくまで国民投票に必要な国会の発議を衆参各院の1/2以上の賛成に緩和しようというものである。これは憲法改正のような重要な決定について、国会議員だけでなく、できるだけ人々の判断にゆだねようとするものといえる。この改正によって発議のハードルが下げられれば、国会では日常的に憲法改正の発議が議決されることになる。改正の発議がなされた後は国民投票が行われることになるので、必然的に憲法についての世論の議論も活発になるはずである。人々が活発に議論し、国民投票によって重要な決定を行うことこそ、民主社会のあるべき姿である。憲法改正の発議が一度もなく、憲法改正国民投票も一度も行われていないという日本の状況がつづく限り、多くの人にとって憲法はいつまでも身近なものにはならないだろう。
 国会で2/3以上の賛成が必要ということは、言い換えると1/3という少数派の反対によって、重要な決定が阻止されてしまうことを意味している。「慎重に議論を積み重ね、できるだけ多くの人の理解を得る」というのは、言葉としては聞こえがいいが、少数の反対さえあれば社会の重要な決定が止まってしまうという状況は健全なものとはいえない。
 現在の日本国憲法は一度も改正されていない憲法として、すでに世界でもっとも古いものになっている。憲法が制定されて60年以上が経過し、日本の社会状況も国際情勢も大きく変化している。そうした社会の変化対応できるよう憲法はより柔軟に改正できるようにすべきではないだろうか。


B 憲法96条を改正すべきではない。
 そもそも近代憲法というのは、人々の自然権を具体的にとりまとめることで政治権力にしばりをかけ、権力の濫用をふせぐためのものである。この自然権は、時代や文化を越えてすべての人間にあてはまる普遍的な権利のことであり、それをとりまとめた憲法も普遍性を持つものでなければならない。そのため、多くの国で憲法の改正手続きはふつうの法律よりもきびしく設定されており、アメリカやドイツでは両議院で全議員の2/3以上、フランスでは投票した議員の3/5以上の賛成を憲法改正の条件としている。さらにスペインや韓国では、日本と同様に国民投票も義務づけている。こうしたきびしい条件は、時の権力者によって憲法が自分たちに都合よく改正されてしまうことをふせぐためのものである。
 憲法が人々の自然権をとりまとめたものである以上、憲法を改正する場合も、人々の側からの要望によるものでなければならない。しかし、現在の96条改正論議は、もっぱら一部の国会議員たちが先導するかたちですすめられている。本来、国会議員というのは政治権力をあずかる立場であり、憲法によってしばられる側にいる。そのため、憲法99条で規定されているように、彼らは憲法を尊重し、擁護しなければならない立場のはずである。こうした立場にいる者のほうから、「憲法を改正しやすくしたほうがいい」と言い出すのは、本末転倒であり、社会契約としての政治から外れる行為といえる。
 社会の重要な事柄を決める場合に、民主社会においてもっとも重要なことは、ひとりひとりが社会への問題意識を持ち、考えを深めることにある。そうした理解や広い議論のないまま、多数決原理によって社会の重要な決定がなされるとしたら、それは「数の暴力」にすぎない。もしも、憲法改正手続きが全国会議員の1/2以上・国民投票過半数に改正されたら、その時の政治状況や勢いで憲法が改正されてしまうだろう。慎重に議論をつくすためにも、国会で2/3以上の賛成というハードルは守るべきである。人々の憲法への理解を深め、慎重な議論を積み重ね、その上でどうしても改正したほうがいいというところがあるのならば、全国会議員の2/3以上の支持も得られるはずである。アメリカやドイツも国会議員の2/3以上を憲法改正の条件としているが、アメリカでは18回の改正がなされ、ドイツでは西ドイツ時代から数えると59回もの改正が重ねられている。日本の場合はそれに加えて国民投票での過半数が必要になるが、改正の「発議」という点では同じ条件である。それにもかかわらず、日本で一度も憲法改正の発議がないことは、憲法について、多くの人が納得できるような議論が国会で積み重ねられていないことの証拠といえる。
 現在の日本の状況は、人々の憲法への理解や関心は薄く、たとえ憲法改正国民投票になったとしても、多くの人が棄権することが予想されている。「そもそもなぜ憲法を改正するのか」という根本的な議論を積み重ねないまま、一部の国会議員の主導によって憲法96条の改正がとなえられている状況は、民主社会のあるべき姿から大きく外れるものである。憲法については、制度を変えて改正しやすくするのではなく、ひとりひとりの憲法への理解と幅広い議論をうながすことこそ、本質的な課題といえるのではないだろうか。


こうした政治的なテーマは、「自分は保守派で自民党支持だから96条改正賛成」「自分はリベラル派で護憲派だから96条改正反対」と自分の立場を決めてから、結論先にありきで発言している人が多いけど、それは身内以外はみんな敵っていうやくざの発想と同じ。自分のアタマで判断しているとはいえない。なので、生徒たちへの注文も、結論先にありきで主張すんな、個々に問題を判断して自分のアタマで考えろ、です。ほら、クリス・ロックもこう言ってるよ。

まったくアメリカ人はどうかしちまったぜ。
「俺は共和党だから戦争に賛成だ」とか「わたしはキリスト教徒だから同性婚に反対だ」とか、保守だから、とか、リベラルだから、とか。
てめえの党派や立場を先に決めてから結論を出すなよ!
てめえ自身の考えで、それぞれの問題に意見を言えよ!
それぞれの問題ごとに意見が違うもんだろう、普通は。
たとえばオイラは犯罪に関しては保守的だけど、売春については超リベラルだぜ!
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20050227


以下、資料として生徒に配った新聞記事もついでに載せておきます。産経はわかりやすく96条改正大賛成で論陣を張ってます。定期読者のためのリップサービスなのか、社としての方針なのかわからないけど、こういうふうに立場を決めてから発言する姿勢を「ブレない」っていうんだろうか。私には思考停止にしか見えないんだけど。日本にはアメリカと違っていちおうメディアの公正原則があるはずなのにさ。フォックスニューズみたいになりたいんだろうか。まあ、テンプレートみたいなもんなので、改憲支持派の言い分を調べる時にはすごく便利です。

毎日新聞世論調査 憲法96条改正 反対46%
毎日新聞 2013年05月03日
 毎日新聞が4月20、21日に実施した電話による全国世論調査で、憲法96条に定められた改憲発議に必要な衆参両院での「3分の2以上」の賛成を、「過半数」に引き下げることの是非を聞いたところ、反対は46%で、賛成の42%を上回った。「憲法を改正すべきだと思う」は60%で、「思わない」の32%を大きく上回った。憲法改正を必要としながらも、改憲手続きの緩和には慎重な意見も根強い。
 調査の方法が異なるため単純に比較はできないが、毎日新聞の09年9月の世論調査(面接)では改憲賛成が58%、12年9月の調査(同)では65%で、改憲賛成が多数を占める状況が続いている。今回、憲法9条についても「改正すべきだと思う」は46%で、「思わない」の37%を上回った。
 一方、「憲法を改正すべきだ」とした人の59%が、改憲の発議要件の引き下げに賛成、37%が反対と答えた。また、「9条を改正すべきだと思う」とした人では、63%が引き下げに賛成し、35%が反対した。
 安倍晋三首相は、96条改正を参院選の争点とする考えを示しているが、自民支持層でも改憲の発議要件の引き下げに賛成したのは約5割にとどまった。公明支持層で賛成したのは約3割。民主支持層で賛成したのは約4割、維新支持層では約5割だった。【青木純】
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憲法改正、「賛成」が51%…読売調査
読売新聞 2013年4月19日23時39分
 読売新聞社の全国世論調査(3月30、31日、面接方式)で、憲法を「改正する方がよい」と答えた人は51%となり、昨年2月調査の54%に続いて半数を超えた。
 「改正しない方がよい」は31%(昨年30%)だった。
 政府が「保有するが行使できない」としている集団的自衛権に関しては、「憲法を改正して使えるようにする」が28%(同28%)で、「憲法の解釈を変更して使えるようにする」の27%(同27%)との合計は55%となり、昨年に続いて容認派が半数を超えた。
 憲法改正の発議要件を定めた96条については、「改正すべきだ」と「改正する必要はない」がともに42%で並んだ。
 今夏の参院選で投票先を決める際、憲法問題を判断材料にすると答えた人は40%で、前回参院選前の2010年調査から12ポイント上昇した。安倍首相が96条の先行改正などの憲法問題を参院選の争点に掲げていることを反映したようだ。各政党が憲法論議をもっと活発に行うべきだと思う人は76%に上った。
 海外で事件に巻き込まれた日本人を自衛隊が輸送する場合、船舶や航空機に加えて、車での輸送を認める方がよいとする人は76%に達した。
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質問なるほドリ 憲法ってどうやって変えるの? 回答・木下訓明
毎日新聞 2013年05月10日 東京朝刊
 ◇衆参「3分の2」と国民過半数の賛成
 なるほドリ 憲法改正が議論になっているけど、憲法ってどうやって変えるの?
 記者 憲法を変えるには、変えたい内容をまとめた改正案を国会の衆参両院の総議員の3分の2以上の賛成で可決したうえで、国民投票過半数の賛成が必要です。自民党などはこの「3分の2」を定めた憲法96条を変えて「過半数」に引き下げて、憲法を改正しやすくすべきだと提案しています。

 Q なぜ国民投票が必要なの?
 A 法律は「国会が作る国民の守るべきルール」ですが、憲法は「国民が作る国家権力(国会、政府、裁判所)が守るべきルール」です。だから国民投票が必要なのです。

 Q 外国の憲法も改正の手続きは厳しいの?
 A 国によって違いがあります。米国やドイツ、カナダでは国民投票はありませんが、スペインや韓国にはあります。デンマークでは国会の議決の後に国会議員の選挙を行い、また国会の議決を経てから国民投票にかける、という日本よりも厳しい手続きを定めています。

 Q 日本の国民投票は選挙の投票と同じようなやり方なの?
 A 選挙では候補者名や政党名を投票用紙に書きますが、国民投票では投票用紙に書かれた「賛成」「反対」のいずれかに○を書き込みます。これは無効票を少なくするためです。投票の際、憲法改正案はテーマごとに示されます。例えば、首相を国民が直接選ぶ「首相公選制」に変える改正案と、軍隊を持てるようにする「国防軍」を書き込む改正案が国会で可決された場合、国民投票では別々に賛否を投票することになります。

 Q 憲法をまるごと一度で変えたり、いくつかの改正案をまとめて国民投票にかけたりできないの?
 A ダメです。国会法で内容ごとに関連したものを分けて出すよう定められているからです。ひとまとめにして国民投票にかけてしまうと、「このテーマは賛成だけど、こっちのテーマは反対」と国民が判断した場合、改正案全体に「反対」となってしまう可能性があるからです。だから、一つ一つテーマごとに国民投票を行うよう法律は定めています。(政治部)
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憲法96条改正へ各党が意見表明 衆院憲法審査会
朝日新聞 2013年5月9日
 衆院憲法審査会は9日、憲法改正手続きを定めた96条について各党が意見を表明した。自民党日本維新の会に加え、条件をつけたみんなの党も改正に賛成の立場。共産党と生活の党は反対を明言し、民主党は96条改正を先行させることに反対した。与党の公明党は改正に慎重な姿勢を示しつつ、賛否は明らかにしなかった。
 安倍晋三首相が意欲を示す96条改正に対し、国会で各党が正式に意見表明するのは初めて。各党の姿勢が鮮明になり、7月の参院選の争点となるのは必至だ。
 自民党の船田元氏は「3分の2の発議要件はハードルが高すぎる。どちらかの院の3分の1以上の反対で発議が出来ず、国民の憲法関与が妨げられている」と指摘。憲法9条など自民党憲法改正草案で示した改正項目の実現に向けて「改正手続きを何度か繰り返す必要があり、あらかじめハードルを下げておく合理性はある」と過半数への引き下げを訴えた。維新の坂本祐之輔氏も「3分の2以上の現状では国民に判断を仰ぐことは困難」と同調した。
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憲法96条改正すれば民意は反映されるか 得票率と獲得議席数の関係を試算
毎日新聞 2013年05月07日
 安倍晋三首相が改憲要件を定めた憲法96条改正を参院選の公約にすると正式に表明した。「改憲すべきだ」という民意の大きさと、条文が規定する改憲要件の厳しさとが「乖離(かいり)しているから」というのが改正派の言い分だ。ならば、改正すれば民意を正しく反映させられるのか。立ち止まって考えてみた。【吉井理記】

 ◇28・92%で「過半数」 国民投票は棄権多数の恐れ
 96条改正の論点をおさらいしよう。現行の条文では、改憲は衆参両院の総議員のそれぞれ3分の2以上の賛成で国民に提案(発議)し、国民投票過半数の賛成を得ることが条件だ。自民党は「『3分の2以上』は厳し過ぎて現実的ではない。過半数に緩めるべきだ」と主張し、昨年公表した改憲草案に盛り込んだ。安倍首相も「3分の1をちょっと超える議員が反対すれば国民が憲法に手を付けられないのはおかしい」と繰り返し、先月23日の参院予算委では「参院選で堂々と掲げて戦う」と初めて明言した。
 言うまでもなく「過半数」に変えるには、現行の96条が定めるハードルを越える必要がある。今のところ改正を訴えているのは自民党日本維新の会みんなの党の3党で、衆院(定数480)は計366議席と、既に3分の2のハードルをクリアしている。一方、参院(同242)の3党の議席数は計100。3分の2の162どころか過半数の122にも足りない。夏の参院選で改正派が102議席を得れば、3党の非改選議席60を加えて発議の条件は整う。
 要するに96条が改正される日は刻々と近付きつつあるわけだが、問題の核心は、むしろ「その後」にある。ハードルが下がったのを受けて政権与党が憲法改正の発議を次々にしたとしよう。それらは果たして国民の多数意思を反映していると言えるのか。
 「今の選挙制度は民意とかけ離れた結果を生んでいる。それなのに国会の意思決定のルールまで緩めてしまえば、ゆがみをさらに増幅することになりかねません」。そう危惧するのは神戸学院大教授で憲法学が専門の上脇博之(かみわきひろし)さん(54)だ。
 「過半数」というハードルが、いかに低いかを浮き彫りにするシミュレーション方法を上脇さんが教えてくれた。使ったのは昨年の衆院選のデータ。小選挙区比例代表とでは制度が全く異なるが、ここでは単純化して、双方の得票数の合計を民意の大きさと置き換える。
 そのシミュレーションによると、無効票などを除く全政党の得票数の合計は小選挙区5962万6567票、比例代表6017万9888票、計1億1980万6455票だ。うち自民党は計4226万7766票(小選挙区2564万3309票、比例代表1662万4457票)で得票率は35・28%。自民党は、この35・28%の票で480議席中294を得た。ならば逆算すれば、過半数の241議席は得票率何%に相当するか−−わずか28・92%だ。
 「国会の過半数」という建前の裏で、得票率に換算して実に71%もの民意を無視して改憲発議ができるということなのだ。
 もっとも現在の「3分の2以上」のままでも自民党と16・03%の維新、6・72%のみんなの得票率の合計は58・03%にしかならない。それでも切り捨てられる民意は過半数より小さく、ずっとましだ。
 なぜ、このようなことが起こるのか。
 上脇さんは「根本的な原因は選挙制度の欠陥にある」と強調する。「昨年の衆院選では小選挙区の総得票数中56%の3730万票が当選に結びつかない死票だった。つまり44%の民意しか反映していない。自民党小選挙区の定数300の79%、237議席を得たのに、得票率は43%。1票でも多い候補が当選し、負けた候補の票は無視されるという制度の弊害です」
 比例復活などを考慮しない乱暴な計算ながら、衆院480議席を先のシミュレーションではじいた得票率に応じて配分すると、35・28%の自民党は169議席改憲をうんぬんする勢力には程遠い。
 参院選も同様の欠陥を抱えている。思い出されるのは10年の参院選だ。自民党の得票率は選挙区33・38%、比例代表24・07%で、民主党の38・97%、31・56%を下回ったにもかかわらず、議席数は51で民主党の44を上回る逆転現象が起きた。これも改選数121のうち29を占めた1人区で大量の死票が出たことが大きいとされる。
 上脇さんは憤る。「改憲要件が民意とかけ離れている、国民の権利行使の機会を奪っていると言うなら、まず第一歩として民意を反映しない国会議員の選出方法を改善するのが当たり前。それこそ国民主権の侵害ですよ」
 「何だかんだと言っても国民投票があるじゃないか」。そんな声もありそうだ。両院の賛成後、国民が直接、意思表示する機会があるのだからいいじゃないか、と。
 「そうでしょうか」と上脇さん。「近年のように選挙ごとに1党が過半数を占め、しかも民意とかけ離れてオセロゲームのように政権交代することを考えれば、政権が代わるたびに改憲発議が乱発される可能性すらある。その結果、改憲案そのものが重みを失って関心の低下を招き、国民投票で多数の棄権者が出かねないのです」。10年に施行された国民投票法最低投票率の規定はない。「民意を反映しない改憲」のリスクはここにも潜んでいるのだ。

 ◇「根本の議論」が欠落
 東大名誉教授で憲法学が専門の樋口陽一さん(78)は、「改憲の必要性」ばかりを強調するかのような議論のあり方に疑問を抱く。「そもそもなぜ改憲しなければいけないのか。根本の議論が欠けているように思えてならない。改憲派の人たちは『時代にそぐわない』と言いますが、実際は立法や法改正でカバーできる部分がほとんどでしょう」。そして続けるのだ。「憲法は未来の世代に与える影響が大きい。例えば改憲して1院制や首相公選制にすれば正しい政治が実現できるのか。9条を改正して専守防衛の理念を守れるのか。9条がなかったら日本はどうなっていたか。こうした問いに明確な答えを出せていないのに、改憲だけを容易にしようとするのは国民への責任を果たすというより、むしろ無責任な行為ではないでしょうか」
 毎日新聞の最新の世論調査では、96条改正反対が46%と、賛成の42%を上回った。安倍政権は「改憲のための改憲」などに手をつけるより、最高裁が「違憲」とまで断じた選挙制度の抜本改革に取り組むことが先ではないのか。
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論点 憲法をめぐる課題とは
毎日新聞 2013年05月03日
 改正論議がかつてなく高まる中で迎えた今年の憲法記念日改憲へのハードルを低くする96条改正や、9条をめぐる自衛隊国防軍化論に焦点が当たるが、今、日本が向き合うべき憲法の課題とは何か。

 ◇国益考えれば改正は無用 長谷部恭男・東京大教授
 現在の日本国憲法は、立憲主義に基づく議会制民主主義の憲法として見たとき、ごく標準的なものだ。つまり、世の中にはいろいろな考え方があるので、それぞれを公平に尊重しつつ共存を目指す、という原理だ。今、どこかを変えなくては困るという課題はない。なぜ変えようとしているのかよく分からない。政治の重要な役割を果たす人たちは、もっと喫緊の課題、例えば財政再建社会保障の再整備などに力を注ぐべきだ。
 改憲論の中には「押しつけられた憲法だから」という主張もあるようだが、そもそも憲法は押しつけられるものだ。アメリカでも南北戦争の結果、南部諸州は北部から押しつけられた。
 「日本国憲法は外国であるアメリカに押しつけられた」という議論もあるが、第二次世界大戦ファシズムと議会制民主主義という、国の根本原理を巡る深刻な対立だった。その戦争に負けた以上、議会制民主主義を受け入れざるを得なかった。冷戦で敗北した東側と同じだ。
 憲法は、中長期的に守っていくべき社会の基本原則だ。憲法96条が定める改正の発議条件(衆参両院3分の2以上の議員による賛成が必要)を緩和すべきだ、という主張がある。憲法が変えにくくされているのは、時々の政治的多数派が都合よく変えようとすると、収拾のつかない混乱になりかねないからだ。選挙の度に改正されるのでは、何のための憲法か分からない。
 また今は3分の2以上が必要なので、なるべく広いコンセンサスを得るような、ほどほどの改正案が出てくる。これが2分の1超になれば、ぎりぎり過半数の人が賛成する提案で、極めて党派的な改正が可能となる。さらに改正に成功したあと、発議の条件を3分の2以上に戻して変えにくくすることもあり得る。
 「『新しい人権』を憲法に書き込むべきだ」という意見について考えると、例えばプライバシーや環境権は、すでに個人の尊重を規定した憲法13条によって当然守られるべきものと判例などで定着している。改めてこれらを書き込みましょうということになると、「『新しい人権』はこれで打ち止めです」ということになりかねない。
 9条と自衛隊の存在が乖離(かいり)しているため、9条を実態に合わせて改正すべきだという議論もある。しかし改正は現状追認にとどまらないだろう。政府が積み上げてきた解釈は、日本固有の利益を守るためならば実力を行使するというものだ。だが、自民党のいう「国防軍」を持つと、日本と直接関係のない国際公益のために実力を行使していい、ということにもなる。例えばアフリカで起きている戦争に自衛隊を送って鎮圧しよう、となりかねない。
 憲法の大きな役割は、権力を制限することで人々の自由と権利を守ることだ。一方で、「権力を拘束するための憲法という考えは古い」という考え方もある。「国民の責務」を記した自民党憲法改正草案(昨年4月発表)は、こうした考えに基づいているようだ。
 憲法を改正するならば「ねじれ国会」で問題になっている参議院の強すぎる権限を改めるべきだが、現実的には難しいだろう。ただ参院議員の行動様式が、時々の党派的な利益を考え行動するのではなく、国全体の利益を考えて行動するものならば改正の必要はない。【聞き手・栗原俊雄】

 ◇96条改正は主権国家の要 高村正彦自民党副総裁
 自民党は1955年の結党以来、自主憲法制定を党是としている。現行憲法は日本が敗戦し、連合国軍総司令部(GHQ)の占領時代にGHQの草案に基づいて作られた。日本が主権を回復した後も、そのまま維持するのは理念的におかしい。改憲の必然性はまずこの点にある。憲法は日本人自身で作るべきだ。
 実態面でも不都合がある。例えば憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、これはユートピア的平和主義とでもいうべき内容だ。前文は一種の宣言だから、これでいいとの考え方もある。だが、この憲法を基にすると「外交努力と一定の抑止力をもって平和を維持」という現実的平和主義者ですら「タカ派」と称されるおかしな状況になる。
 不合理なのは「陸海空軍はこれを保持しない」という9条2項だ。条文を文字通り解釈すれば自衛隊違憲だ。中学生が読んでも分かる。2項に「前項の目的を達するため」と加えた修正で整合性がとれているという意見もあるが、文理的に無理だ。
 ではどうして合憲なのかというと、主権国家が自らの生存権を否定することはあり得ないから必要最小限度の自衛はできるという考え方に基づいている。裁判所や内閣法制局は、自然権という言葉は使っていないが、私に言わせればそういう自然権的な考え方から合憲にしているに過ぎない。成文憲法の国なのに、成文通りに読めば違憲で、自然権としては違憲ではないというのはみっともない。
 法治国家の基礎を揺るがすような成文憲法と現実の乖離(かいり)があるのだから、9条2項は削除。パリ不戦条約以降の侵略戦争はいけないという平和主義を盛り込んだ9条1項は堅持する。若干字句の修正はあるが、自民党憲法改正草案の根幹はそういうことだ。
 改正草案には、自衛隊の存在も明記した。名称は世界に通用するものということで自衛軍国防軍が挙がったが多数決で国防軍とした。付言するが、改憲手続きを定めた96条の改正を含め、改憲草案は谷垣禎一総裁の時に決めたもので安倍晋三総裁(首相)になってから一字一句変わっていない。
 その96条の規定により、日本の憲法はスペイン憲法と並んで世界で最も改正が難しい。主要国の戦後の憲法改正をみると、少ない米国で6回。ドイツは59回、フランスは27回だ。日本は皆無。先述したように日本の憲法はGHQ草案に基づいているのだから、占領目的に沿った内容になるのは致し方ないことだとしても、主権回復後の改正を極めて困難にする規定を設けたことは了解しがたい。
 主権者たる国民に憲法の是非を問いやすくするというのはごく普通の発想ではないだろうか。自民党は衆参両院それぞれ3分の2以上という発議要件を過半数に緩和することを提案している。自民党が一党支配と言われた時代でさえ、衆参のいずれかで3分の2以上を持ったことはない。両方で3分の2以上というのは重過ぎる。戦後、長い間、一度も国民に憲法の是非を問うことすらできなかったことは正当とは言えない。96条改正は、主権国家が自らの憲法を、主権者たる国民の手で、改正という方法で作るために必要な条件だ。【聞き手・因幡健悦】

 ◇生存権保障の後退を懸念 稲葉剛、NPO法人自立生活サポートセンター・もやい代表理事
 「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する憲法25条が危機的な状況にある。
 昨年、芸能人の親族の生活保護受給がきっかけでバッシングが起き、政治家が「生活保護を恥だと思わなくなったのが問題」などと発言した。兵庫県小野市は4月、生活保護費や児童扶養手当の受給者がパチンコなどに浪費することを禁じる条例を施行し、市民の通報を義務づけた。
 不正受給が横行していると言われるが、金額ベースでは0・5%以下に過ぎない。逆に、利用すべき人が利用できないことの方が問題だ。受給資格がある世帯のうち、実際に受給できている世帯の割合を示す「捕捉率」は2〜3割にとどまっている。生活保護利用者は過去最多の約215万人に上るが、背後には少なくとも450万人の人が、収入が生活保護基準以下で資産もないのに受給していない状態にあるとみられる。
 背景には、福祉事務所が申請に来た人を追い返す「水際作戦」があるが、生活困窮者自身も「恥ずかしい」「後ろめたい」意識から相談に行かないことも多い。バッシングや財政悪化の中で生きる権利を主張しないことを「美徳」と取る風潮が広がっている。
 生活困窮者の餓死や自殺も後を絶たない。厚生労働省の人口動態調査では1995〜2011年の「食糧不足」が原因の死者は1129人いる。
 安倍政権は8月から生活保護基準を3年かけて段階的に引き下げる。保護を受ける人の親族の扶養義務強化も検討している。これは事実上の憲法25条の解釈改憲だと思う。
 高齢者や障害者が多い保護受給者にとって月額数千円の引き下げは極めて深刻だ。夏の暑さをしのぐ冷房代を切り詰めれば、生命の危機につながりかねない。資産のある家族に頼れといっても、配偶者や親から暴力や虐待を受け、家族に居所を知られれば身に危険が迫る人もいる。
 生活保護法は1946年の制定当初、「勤労意思のない者」「素行不良者」「扶養義務者が扶養をなし得る者」を保護対象から排除したが、4年後の50年の改正で無差別平等の原則を確立した。今回の見直しは時計の針を60年以上前に戻すものだ。
 自民党憲法改正草案で「家族は、互いに助け合わなければならない」(24条)と規定した。東日本大震災で「絆」の大切さが強調されたが、家族や地域の自発的な支え合いを政治が利用し、政治が果たすべき責務を果たしていないと感じる。草案では基本的人権の普遍性に関する条文(現憲法第97条)が丸ごと削除されているなど、個人の人権を尊重する姿勢も大きく後退している。
 私たちの「もやい」には生活困窮者からの相談が毎年1000件くらいある。相談者の年齢は多様化しており、児童養護施設を出て仕事が見つからない10代の若者から80代の年金生活者まで来る。
 「税金を投入している制度の利用者はある程度、人権を制限されても仕方がない」と主張する政治家もいる。だが、その論理を認めれば、医療・介護・年金を含めた社会保障制度全般に影響が及ぶ。政府の社会保障制度改革国民会議では社会保障費抑制に向けた議論も始まっている。
 憲法改正論議とともに生活保護制度が後退すれば、人々の命と暮らしを支える全ての制度が利用しづらくなりかねない。【聞き手・青島顕】
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【主張】憲法96条改正 国民の判断を信頼したい
産経新聞 2013.5.11
 憲法96条が定める改正の発議要件を緩和せず、現行の衆参両院の「3分の2以上」のままにするという意見が提起されている。
 これは憲法改正を求める多くの国民の意向をないがしろにし、現実離れした「不磨の大典」を守り抜く硬直的な姿勢と言わざるを得ない。
 「3分の2以上」の条件を必要とする米国が制定以来18回、さらに戦後のドイツが59回の改正を重ねていることを、96条改正反対の理由としている向きがあるが、いずれも国民投票を求められていないことを指摘したい。
 国民投票過半数の賛成を得るというのが、いかに重い条項であるかを認識すべきだ。
 現行憲法があまりにも現実と乖離(かいり)していることは、周辺情勢を見れば明らかだ。尖閣諸島の奪取に動く中国や、日本への攻撃予告までする北朝鮮を前にしてなお、自らの安全と生存を「平和を愛する諸国民」に委ねるとしている前文が、そのことを象徴している。
 制定以来、改正が行われていない成文憲法として世界最古であることも、内外の多くの問題への処方箋を示せなくなっている現状につながっている。
 衆院憲法審査会では、自民、維新の会、みんなが96条改正に賛同し、公明、民主が96条の先行改正に慎重な姿勢だった。共産、生活は反対の立場を表明した。
 自民党が「衆参のいずれか一院で3分の1超が反対すれば改正は発議できず、憲法に国民の意思が反映されなくなる」と主張したように、「3分の2の壁」が憲法改正を阻止していることが問題なのである。
 発議要件を「過半数」に引き下げることで、改正への民意をくみとることができるという考えは極めて妥当なものだ。
 これに対し、慎重派や反対派は「時の政権によって憲法が簡単に変えられることになる」と強調したが、こうした主張は憲法改正の可否が最終的には国民投票で決せられる点を無視している。
 民主党などが「改正の中身の議論が欠かせない」と指摘するのもおかしい。自民党は改正草案で「天皇は元首」「国防軍の保持」など具体案を示している。議論を欠いているのは民主党である。
 国民が憲法を自らの手に取り戻すため、発議を阻んでいる壁を取り除かなければならない。
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【社説】憲法96条改正論 ハードル下げる危うさ
東京新聞 2013年5月10日
 「国の在り方」を定める憲法は、その時々の国会の多数派の意思によって安易に改正されてはならない。衆参両院とも三分の二以上の賛成が必要という憲法改正の発議要件は、緩和すべきものでもない。
 憲法九条などに比べれば、改正手続きを定めた九六条をめぐる議論がこれほど熱を帯びたことは、かつてなかったのではないか。
 九六条は「この憲法の改正は、(衆参)各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」と定めている。改正論は「三分の二以上」を「過半数」に緩和しようというものだ。
 九日の衆院憲法審査会では各党が九六条改正について初めて正式に意見表明した。自民党日本維新の会みんなの党が賛成、共産党と生活の党が反対を明言。民主党は九六条の先行改正に反対し、公明党は改正に慎重姿勢を示した。
 九六条改正をめぐる議論が活発化したのは、憲法全体の改正を目指す安倍晋三首相が、九六条を他の条項に先行して改正するシナリオを描き、夏の参院選の争点にしたいと明言したからだ。
 改正のハードルさえ下げれば、あとは政権党の思うがままに改正できるという下心があるのなら、見過ごすわけにはいかない。
 日本国憲法の三大原則は国民主権基本的人権の尊重、戦争放棄だ。これは太平洋戦争という大きな犠牲を払って日本国民が手にした人類普遍の原理でもある。発議要件を緩和すれば、その時々の多数派により、こうした不可侵の原則にも改変の手が及びかねない。
 自民党など改憲派は「世界的にも改正しにくい」と主張するが、三分の二以上という改正要件は国際的に妥当な基準だ。
 米国は連邦上下両院の三分の二以上の賛成に加え、四分の三以上の州議会の承認が要る。ドイツも両院の三分の二以上の賛成が必要だ。改正要件が厳格な「硬性憲法」は民主主義国家の主流である。
 改正を繰り返す他国に比べ、日本が改正に至らなかったのは要件の厳しさではない。憲法を変えるよりも変えないことによる国益の方が大きいと、先人が判断したからにほかならない。
 もし改正が必要という政党があるのなら、その中身を国民に堂々と訴え、衆参両院で三分の二以上の議席を得る王道を歩むべきだ。
 改正の中身を棚に上げ、手続きだけを先行して変えるような邪道にそれては、決してならない。

ミスコン

 授業で、学園祭でのミスコン開催の是非をテーマにディベートをすることにした。去年、ICUでミスコン開催をめぐってもめていたが、最近では高校の学園祭でも、ミスコンをやるところがふえてきたのである。うーん、ミスコンねえ。このテーマは今度の期末試験の論述問題にも出題予定。こちらの論述問題のほうは、たたき台であるAとBの立論を読んであなたの考えを書けというもの。ひとまずこんな文章を書いてみたけど、ここをこうしたほうがいいというアドバイスがありましたら、コメントください。


*AとBの参考意見は、2023年10月に加筆修正。


学園祭のミスコン


 近年では、大学だけでなく、高校の文化祭でも「ミスコン」を開催する学校が増えてきました。ミスコンというのは、「うちの学校で一番かわいいのは誰か」を決める美人コンテストです。
 学園祭のミスコンをめぐっては、一部の大学で年々大がかりなイベントになっており、ミスコン優勝者がテレビのアナウンサーやタレントとしてデビューするケースも多くなっています。その一方で、「女性をルックスで序列化するイベント」として長年、批判もされています。「女はカオ・男はカネ」というのは古くからある男女観ですが、ミスコン開催はこうしたジェンダーの押しつけを強化することになります。そのため、近年では、京都大学国際基督教大学で、学園祭のミスコン開催をめぐって学生間で激しい論争になった末に開催が取りやめになるといったこともありました。
 高校の文化祭で、ミスコンを開催することの是非について、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えをすじみちだてて述べなさい。


A 開催を支持する。
 人間は様々な場面で、様々な要素によって、常に評価されている。学校の勉強ができる、運動が得意、絵や文章が上手、話がおもしろい、色々なことを知っている、人とはちがった視点で物事を見ることができる。容姿にすぐれていて自分を魅力的に見せることができるというのも、そうした長所の中のひとつである。人物評価においてルックスは大きな位置を占めており、時には初対面の人に外見だけを見て好意を抱くこともある。それにもかかわらず、ミスコン開催を「ルックスで人間を序列化する差別的なイベント」として批判するのは偽善的である。ルックスに自信のある女子生徒がミスコンに出場し、会場に集まった人たちに自分の魅力をアピールする。それによって支持を集めることは、いたって正当な評価であり、けっして後ろめたいものではない。
 「ルックスは生まれついての要素が大きく、勉強やスポーツでの評価とは同列に論じられない」という批判は的外れである。もし、本人の努力を評価の尺度にするのなら、学校の成績もテストの点数という「結果」ではなく、日頃の授業態度や家庭での学習状況という「努力」で評価されねばならないはずである。同様にスポーツにおいても、試合の勝敗や順位ではなく、どれだけきびしい練習をしてきたかによって勝者を決めねばならないことになる。私たちは、様々な場面で結果によって評価されているのに、ルックスになると結果での評価を批判するのは、あきらかに矛盾した姿勢といえる。ミスコンの優勝者は、成績優秀者やマラソン大会の優勝者と同様に、胸を張って自らを誇っていいはずである。
 現代社会において、容姿にすぐれていて不特定多数の人に自分の魅力をアピールできるというのは、きわめて重要な「能力」であり、それは学校の勉強ができることよりもプラスに作用するケースもある。例えば、接客業や営業職の場合、外見的な魅力はお客さんを惹きつけるための重要な要素であり、それを採用基準にしている企業も多い。テレビの女性アナウンサーが容姿を基準に採用され、大学のミスコン優勝者が集まっているのも、不特定多数の視聴者を惹きつけ、番組に好印象を抱いてもらうためである。
 学校での評価はあまりにも勉強に偏っており、しばしば勉強のできる生徒は「優秀な生徒」、できない生徒は「ダメな生徒」と見なされがちである。しかし、勉強ができることは人間の持つ多様な能力の中のほんの一部であり、学力テストの偏差値で評価されるほうがルックスで評価されるよりも人間として上等という考え方は学校的価値観にすぎない。人間の評価には様々な要素があることを実感するためにも、学校には、勉強以外の事柄で生徒が評価される場面がもっと必要であり、ミスコンの開催はそのひとつになるはずである。


B 開催を支持しない。
 昼休みに男子生徒数名が廊下にたむろして、女子生徒が前を通るたびに「2点」「3点」と彼女たちの容姿に点数をつけていたとする。それは最低のセクハラ行為ではないだろうか。人間の容姿は点数をつけたり、順位をつけたりするものではないからだ。こうしたルックスによって人間に序列をつける価値観を「ルッキズム」という。ミスコンの本質は「誰がうちの学校で一番かわいいか」を決める美人コンテストであり、会場でどのようなイベントが催(もよお)されようと、女子生徒の容姿に点数をつけて優勝者を決めるという点で、そうした行為とかわらない。もし、本当に出場者のスピーチの内容で優勝者を決めるのなら、それは「弁論大会」である。あるいは、本気で一発芸のおもしろさを競うのなら「演芸大会」である。それらは男女別にやる必要もないし、ルックスも関係ないはずである。逆に、そのイベントが「ミスコン」として開催される限り、会場でのイベントはルックスでの評価のオマケにすぎない。
 ミスコンはルックスに自信のある女子生徒が能動的に参加するんだから順位をつけても問題ない、そういうのが嫌な人は参加しなければいいだけじゃないかと思っている人もいるだろう。しかし、こうしたイベントが学校で開催されること自体、「やっぱり女の子は笑顔が一番」「カワイイは正義」「ルックスで女の子を選んでなにが悪い」という価値観を後押しすることになる。その結果、生徒間の人間関係にルッキズムがよりいっそう幅をきかせることになるだろう。その影響は、ミスコンに参加する・しないに関係なく、すべての生徒におよぶはずである。
 本来、人間の美しさとは、互いの関係性や思いによって大きく左右されるきわめて複雑なものである。例えば、地方で農業を営んでいる初老の夫婦がいたとする。妻は長年の畑仕事で顔にはたくさんのしみができ、手は節くれだっているが、夫はそんな妻を見て「美しい」と思うこともあるだろう。あるいは、秋の日ざしのあたる居間で、丸顔の孫娘がふたりのほうを向いて満面の笑顔で笑っている様子に、息をのむような美しさを感じる瞬間もあるだろう。こうした豊かな感情をともなう美しさの感覚について、ただ人のうわべだけを見て美醜(びしゅう)を判断し、あたかも客観的な容姿の基準があるかのように序列化する行為は、人間性に対する冒涜(ぼうとく)である。
 ファッション業界は、長年にわたってルッキズムがはびこっており、モデルたちはバービー人形のような体型のスーパーモデルを頂点にして、「このモデルはアタマが大きいから二流」「このモデルはアジア系で手足が短いから三流」「このモデルは太ったからもう使い物にならない」と容赦(ようしゃ)なく選別され、ピラミッド型の序列の中に位置づけられてきた。表面的な美しさの序列が最終的に行き着く先は、人間の多様性や個性を否定するこの差別的なピラミッドである。
 現代社会において、不特定多数の人が「美人」と見なす評価基準は、ファッション雑誌やテレビを通してすり込まれたものである。ミスコン会場に集まった人々は、自分の好みで選んでいるつもりでも、実際には、マスメディアによってすり込まれた美醜の評価基準を無批判になぞっているにすぎない。つまり、学園祭という場で「学校一の美女」を選ぶという行為を通して、表面的な美しさの序列を再生産しているわけである。このことは、女子生徒を対象にしたミスコンだけでなく、男子生徒を対象にしたイケメン・コンテストや美少年コンテストであっても同様である。学校という物事を考える場において、美男・美女のコンテストを開き、ルッキズムを再生産する行為は、たとえ学園祭というお祭りの出し物であったとしても、あまりにも問題意識に欠けているのではないだろうか。



 生徒たちの反応は、全体の3分の2くらいが「まあやりたい人が出場するなら、べつにいいんじゃないかなあ」という感じで、ぼんやりとゆるーく賛成というのが多数派。なので、ミスコンの是非をめぐる問題提起は、Bの「開催に反対」をどれだけきっちり書けるかがポイントになると考えて、あえて強い調子で書いてみた。「人間性に対する冒涜」は、書きながら少々大げさな気もしたけど、「やりたい人は勝手にやれば、どうせ自分は出ないから関係ないし」と言ってるマジョリティたちには、これくらい強い調子で書かないと問題提起がとどかないのではないかと思ったしだいである。以下、AとBを書くにあたってのメモ。

  1. ミスコンの本質は人間の容姿の序列化(ルッキズム)であり、それをどう受け止めるかで賛否が分かれる。
  2. ミスコンでのスピーチや特技の披露は、ルックスでの評価のおまけにすぎない。もし、本当にスピーチの内容で優勝者を決めるのなら、それは弁論大会である。本気で一発芸のおもしろさを競うのなら、それは演芸大会である。男女別にやる必要もないし、ルックスも関係ないはずである。それが「ミスコン」として開催されるかぎり、会場でどんなイベントが催されようと、その本質はあくまで「うちの学校で一番かわいい子は誰か」を決める美人コンテストである。ミスコン会場で行われるスピーチもクイズも一発芸もファッションショーも、観客が出場者のルックスを品定めするための手段にすぎず、それ自体に意味はない。
  3. なので、AとBの参考意見は、容姿の序列化の是非に焦点を絞って書くようにする。
  4. Aは容姿の序列化を人物評価のひとつとして受け入れる立場。Bは表面的な美意識や人間観をうながすことになるとして批判する立場。
  5. 「イケメン・コンテスト」や「美少年コンテスト」も開催されるようになった近年では、容姿の序列化の問題は、女性だけではなく男性にも同様にあてはまる。少年マンガが美少女が大好きなように、少女マンガは美少年が大好き。そこでは冴えないルックスの登場人物は男女問わず、その他大勢や書き割りと同じ扱いをされる。もはや容姿の美醜がもたらす心理的プレッシャーに男女の差はない。
  6. 現在の日本では、美意識の形成は女性のほうに主導権があり、女性のファッションも同性からの評価を気にかける傾向にある。ルックスを売り物にしているモデル出身の女性タレントもコアな支持層はほとんどが女性。生徒たちの反応もどちらかというと「カワイイは正義」と言っている女子生徒たちのほうがミスコン開催に乗り気だった。なので、女性の権利の視点からミスコンを「男性の欲望に迎合するイベント」として批判するのは実態からはずれているように見える。
  7. マスメディアが作り出す「美男美女」へのメディアリテラシーの欠如も指摘すること。不特定多数の者が美男美女と見なす基準はマスメディアを通して社会的に形成されていく。とくに女の子向けのマンガやアニメで描かれるアイドルやモデルの「キラキラした世界」への無批判な傾倒ぶりはちょっと怖い。
  8. 慶応のミスコンでは、トヨタがスポンサーについていて、優勝者には新車一台がプレゼントされるという。有名大学のミスコンは「女子アナの登竜門」になっているのだそうで、芸能ニュースとしての話題性があるかららしい。ただ、大学のミスコンが商業主義に走っていることは、論点から外れるので、ここでは問題にしない。商業主義ならダメで、商業主義を排除すればいいという問題ではない。
  9. ルックスが生まれついての要素が大きいことも、本質的な問題ではないので、軽く指摘する程度にとどめる。「努力=立派」という学校的価値観が建前にすぎず、実際にはほとんどの事柄が「結果」によって評価されており、「努力はいつか報われる」式の発想が多くの矛盾をはらんでいることは、誰もが気づいているはず。足の速い遅いにしても先天的な要因のほうが大きい。努力が介在すれば評価されるという問題ではない。もし、どれだけ努力したかで価値が決まるのなら、美容整形をくり返している人は努力家として賞賛されねばならない。


ディベートのほうは来週の授業でやる予定。さて、生徒たちはどんな討論をするんでしょうか。

輪るピングドラム

友人と「輪るピングドラム」全24話をまとめて観た。私は昨年末の放送時にも観ていたので二度目だが、最近観たフィクションものの中でもっとも印象的な作品だった。ただ、細部まで緻密に構成されたすぐれた作品だとは思うけど、その一方で、作品の根底にある価値観については強い違和感をおぼえるので、どう受けとめたらいいのかわからないというのが正直なところである。


物語は高校生の男の子ふたりと中学生くらいの女の子がちゃぶ台を囲んで食事をしている場面からはじまる。三人は過剰なほど家族らしく振る舞っていて、まるで温かい家庭の団らんごっこをしてるかのように見える。双子と思われる兄ふたりは病弱な妹をお姫様のように丁重にあつかい、妹はそんな兄ふたりに満面の笑顔でこたえる。くたびれないのかな、この子たち。なぜ彼らはこれほど過剰に家族を演じているのか、なぜこの家に親はいないのか、なぜ来客があったときに兄は両親の写真をふせたのか、なぜ妹は何度も死にかかっているのか、彼らがたびたび口にする「運命」とはなんなのか、話の核心部分はすべて彼らの過去にあり、物語がすすむにつれて彼らの過去がしだいに明かされていく。


全体のキーになっているのは15話で、このエピソードで一気に物語世界の構造が解き明かされる。この回はひとりの登場人物のこども時代が回想として描かれる。彼女の父親は高名な彫刻家で、異様に強い美意識を抱いている。彼は小学生の娘に言う。「パパはね、美しいものしか愛せないんだ、芸術家だからね。ゆり、おまえはなんて醜いんだろう」。ショックで呆然としている娘に父親はさらにこうつづける。「醜い者は誰からも愛されない。ママを見ただろう。ママはゆりを産んでからどんどん醜くなってしまった。だからもうこの家にはいられず、あんなことになってしまった。ママは醜く、そして愚かだった……パパの芸術が理解できなかったんだ。いいかい、ゆり、美しくないこどもは誰からも愛されない。その資格がないんだよ。ゆり、おまえは醜い。このままでは誰からも愛されない。もちろん、パパもゆりを愛せない。でも、パパなら、ゆりの身体から余分なものを取り除いて、美しいこどもにすることができる。かのミケランジェロが大理石の中から見事なダビデ像を彫りだしたようにね。だから、パパの手でゆりを美しく改造させておくれ。パパにおまえを愛させてほしい。パパは美しいものしか愛せないんだから」。パパ、あたし、なんでもするから、パパ、あたしを愛してと悲痛な声で叫ぶ娘の身体に、父親は大理石用のノミを打ち込む。その描写はあきらかに性的・肉体的虐待のメタファーであり、こどものありのままの姿を愛することができず、常に自らのコントロール下に置き、自らの価値基準にそぐわないこどもを拒絶するエゴイスティックな親の欲望をあらわしている。そこで描かれているのは、あくまで彼女の意識の世界の物語であり、実際に父親が彼女の身体にノミを打ち込んだかどうかではなく、彼女がそう感じるような行為が行われたことを意味している。その回想が彼女の意識の世界であることは、町に巨大なダビデ像のタワーがそびえていることからもわかる。その異様な風景は我々の知っている東京の風景とはあきらかに異なっており、巨大なダビデ像はアトリエの窓からも学校の教室からも見え、いつ・どこにいても威圧するように彼女のことを見下ろしている。それは父親の権威と男性性の象徴として常に彼女の世界の中心にそびえている。



父親による「改造」が刻まれる中、彼女は学校でひとりの女の子と親しくなる。その子は口には出さないものの、彼女がいつもどこか怪我をしていて日ごとに包帯の箇所がふえていくのを心配そうに見ている。そしてある日、自分は運命の乗り換えができるという秘密を彼女に打ち明ける。その子は学校の飼育小屋にいるウサギを指さして言う。あのウサギは本当は死ぬはずだったんだけど、私が運命を乗り換える呪文を使ったから、いまも元気に生きているんだと。そうして絆創膏を巻いた人差し指を彼女に見せる。「これはその代償。運命を乗り換えたら、その罰を受けなくてはならないの」。だが彼女はその言葉を信じない。このままだとゆりは本当に死んじゃうから運命を乗り換えようと心配する友人に、彼女は「嘘つき!大っ嫌い!あたしが醜いからそんなふうにからかうのね!」と言葉をあびせ、そのまま父親の待つアトリエへ走る。しかし、父親のアトリエで彼女が目を覚ますと、そこにいるはずの父親がいなくなっている。彼女が窓の外を見ると、そこにそびえているはずだった巨大なダビデ像に代わって、東京タワーが夜空にオレンジ色のやわらかい光を放っている。友人が運命を乗り換える呪文を使ったことに気づいた彼女は、先ほどふたりで話をした広場へ大急ぎで向かう。そこには救急車が止まっていて、集まった人たちが「いきなり女の子が燃えだした」と口々にうわさしあっている。病院を見舞った彼女に、ベッドに横たわっている友人が言う。「もうお父さんは帰ってこないよ、前のタワーといっしょに行ってしまったから」。どうしてそんな大きな代償を払ってまで運命を乗り換えたのとたずねる彼女に友人は手を取って言う。「だって、私はゆりのことが大好きだから、ゆりはいまのままでとてもきれいだよ」。この運命を乗り換えられる少女は、エゴイスティックな親と対比されることで、生身の人間というよりも無償の愛の象徴として描かれている。


一昨年の年末にやっていた「刀語」が最後まで運命の糸の正体とそれを操る者の意識の世界が描かれず、消化不良のまま終わってしまうのに対して、この15話では、運命を乗り換えた者の見ている風景が明確に提示される。いつ・どこにいても彼女を見下ろすようにそびえ、威圧し、支配してきた、巨大なダビデ像のタワーは消え失せ、その日を境にして彼女の世界の風景は一変する。その描写は圧巻だった。どちらも運命をめぐる因果話だが、会話劇としてただ出来事だけが進行していく「刀語」とは対照的に、こちらは登場人物たちの意識の流れにそってドラマが進行し、運命を乗り換えた者たちのまなざしを通して意識の世界の出来事が描かれる。それはメタファーと記号を多用した演劇的手法で表現されており、リアリズムを排除することで劇中の世界が登場人物の意識の物語であることが強調される。一緒に見ていた友人は、北村想の芝居みたいと言っていた。シリーズの前半では、少女マンガのパロディの世界で遊んでいるだけにしか見えなかった物語(苹果ちゃんのしゃべり方は陸奥A子だよね)は、この15話をターニングポイントにして、運命の列車の乗り換えという結末に向かって転がりはじめる。








この作品が親の愛を与えられないまま捨てられていったこどもたちの物語であることは、18話でよりはっきりと表現される。そこでは、「こどもブロイラー」と呼ばれる巨大な施設が描かれる。こどもブロイラーでは、「もういらなくなったこどもたち」が町中から集められ、ベルトコンベアーに乗せられ、巨大なシュレッダーでばらばらに砕かれることで、「透明な存在」になるのだという。(1997年におきた神戸の連続殺人事件の声明文では、学校的価値観を体現した存在として、規格化されたロボットのようにただ与えられた役割を演じる者というニュアンスで「透明な存在」は使われていたが、こちらの場合は、より直接的に、社会的な抹殺、もしくはこの世界からの消去という意味で用いられている。)ここでもやはりこどもブロイラーに捨てられた多蕗(たぶき)くんというひとりの少年のまなざしを通して描かれているので、それが劇中に実在する施設なのか、あるいはこどもたちが捨てられている社会状況へのメタファーなのかはわからない。いずれにしても、劇中の世界では、競争の勝者が富を独占し、こどもの将来はどのような家に生まれたかでほぼ確定し、親からも社会からも求められないこどもたちが大勢捨てられていることが提示される。それは我々の社会とまったくいっしょである。


主人公たちの両親は革命運動のリーダーであり、この世界のあり方はまちがっていると説く。だから世界は浄化されねばならないのだと。グループの中心になっているのは、主人公たちの両親をふくめて元南極越冬隊員たちであり、南極での生活を通して彼らがそう考えるようになったことが断片的に暗示されるが、そこでなにがあったのかは描かれない。ともかく彼らは、世界の浄化のために大規模な無差別テロを計画し、それはオウム真理教のテロ事件と同じ1995年3月20日に実行された。劇中にたびたび登場する「95」のマークはこの事件をあらわす記号だろう。兄ふたりはこの事件のあった日に生まれたこどもたちである。劇中のテロはオウムの地下鉄サリン事件と同様にラッシュアワーの地下鉄で行われ、やはり大勢の人々がそれに巻き込まれて亡くなったことが語られる。この無差別テロの文脈でポイントになるのは、求められないこどもたちがこどもブロイラーで透明な存在にさせられる社会のあり方を「世界」と表現し、競争原理による利己的な生存戦略こそが「この世界の本質」だととらえている点にある。それをこの世界の本質ととらえた場合、必然的に社会の改革はこの世界の全否定になる。したがって、物語の終盤は、この世界の全面的な破壊による浄化か、さもなくば、この世界のあり方を運命として全肯定するかという二項対立のドラマになっていく。ずいぶんとまあ極端で乱暴な図式である。私がこの物語を受け入れられない点もそこにある。そうした社会のあり方はあくまで人間が便宜的につくりだしたものであり、人間がつくりだしものである以上、いくらでも改変可能なはずである。勝者による富の独占という経済システムもいらなくなったこどもたちが透明な存在にさせられている社会状況も、人間社会の普遍原理ではなく、そうでない社会はこの世界にいくらでも存在する。社会改革を世界の全否定によって成し遂げようとする発想は論理のすり替えでしかない。にもかかわらず、劇中では毎回、「生存戦略!」のかけ声ではじまる寸劇が展開され、社会のあり方はあらかじめそう定められているとする決定論が述べられる。人間の社会行動が遺伝的にプログラムされているとする遺伝決定論は古くから存在し、アプローチの仕方を変えながらくり返し唱えられてきたが、それらは常に根拠にとぼしい。リチャード・ドーキンスによる「ミーム」にしても根拠の不十分な仮説の段階にとどまっており、社会のあり方を論じる際に真剣に考慮するには値しない。ところが、こうした遺伝決定論は、学問的論証よりも現状維持を肯定する政治的メッセージ性から常に一定数の人々を惹きつけてきた。それは「科学」の仮面をかぶることで、あるときは黒人奴隷制度や白人至上主義を正当化する人々を勢いづけ、あるときはイギリスの階級格差を肯定する人々を後押しし、あるときは女性の参政権や高等教育を揶揄する人々の拠り所となり、またあるときは西洋諸国による植民地支配が人類全体の進歩をもたらすと主張する人々の後ろ盾となってきた。良いも悪いもなく、それが「自然の摂理」であり、人間とはそういう存在なのだというわけだ。最近だと「脳科学者」を自称する人々によってしばしばこの手の疑似科学が流布されている。この物語も運命論と社会ダーウィニズムの両面から決定論の立場をとっており、社会のあり方を変えようとする行為は、この世界の現実が見えていない者たちによる愚かな行いとして全否定される。劇中の16年前の無差別テロは、先ほどのゆりちゃんを救った運命の乗り換えのできる少女の犠牲によってごく限定的なものに抑えられたが、もしも全面的な「浄化」に成功したとしても、より大規模な殺戮と混乱がもたらされるだけで社会のしくみはなにも変わらなかったろう。それはオウム事件と同様にリビドーの暴発であって、そもそも社会改革運動としての体をなしていない。だから、主人公の両親たちが「世界の浄化」という名のもとの無差別殺戮によって、なにを実現したかったのかがさっぱり見えてこないのだ。彼らが南極での暮らしの中でなにがあってそうした行為に至ったのかはあくまで個々の物語だから観る側の想像にゆだねてもかまわないが、彼らが「世界の浄化」という名目で社会をどうしたのかったかは論理の問題であり、劇中にその道理が提示されないことにはなにもわからない。結局、彼らの無差別テロは解釈不能の残虐行為とされたまま全24話を通して物語の中心に据え置かれ、社会的にも運命の因果からも断罪されることになる。


劇中の「いま」は現実と同様にそれから16年後が舞台になっている。主人公である三人のこどもたちは、ちょうど地下鉄サリン事件の実行犯のこどもたちと同じ立場に立たされており、彼らがいままでにたびたび周囲の好奇のまなざしや被害者遺族からの敵意にさらされてきたことがしだいに明らかになっていく。両親の行為は当人が断罪されるだけでなく、親の因果が子に報い式に三人のこどもたちもまた「運命の女神」によって罰を受けることになる。たしかに無差別殺人を犯した者のこどもたちに対して、人々に感情面での反発があることは理解できるが、その応報感情に社会的な正当性はまったくない。もしも感情にまかせてそれに同調してしまったら、社会に八墓村的状況をまねくことになってしまうだろう。にもかかわらず、劇中の「運命の女神」はそこで踏みとどまろうとせず、こどもたちへの罰として妹の命をうばうことにする。なんなの、これ。この運命の女神って八墓村の出身者ですか。


劇中では、主人公の両親たちがおこなった無差別テロはこの世界を受け入れようとしない意識の象徴であり、社会改革は「世界の破壊」へと意味がすり替えられることで全面的に否定される。それに代わって、あらゆる社会的矛盾は個人の意識のあり方と生き方の問題へと還元されていく。万事心がけしだいというわけだ。だから、社会のあり方を変えるのではなく、自らの運命を受け入れ、自己犠牲によって他者に愛を差し出すことでしか人は幸せにはなれないし、そうしないかぎり定められた運命を乗り換える奇跡も起こせないという結末へ向かっていく。たしかに人が幸福になれるかどうかはつきつめれば本人しだいというのはその通りだし、我々は意識の世界の住人だから、客観的事実については自らの認識から「たぶんそうなのだろう」と類推することしかできない。しかしその一方で、社会環境はすべての人の生き方を拘束する。景気変動と自殺者数が相関関係にあるように、たとえ類推することしかできなくても、社会環境による生き方の拘束は限りなく事実である。兄ふたりの自己犠牲によって妹の命が救われ、運命を乗り換えた世界で妹が叔父夫婦の養女になったとしても、その世界にもこどもブロイラーはあるだろうし、富の独占もあるだろう。それは決して個々人の心がけでは解決しない問題であり、そこに運命という言葉を持ちだしてしまったら、なにも変えられなくなってしまう。社会のあり方は運命でも罰でも普遍原理でもなく、人がより良く生きるられるよう便宜的につくられたものなのに。ところが、劇中ではギリシア悲劇のように、社会のあり方も捨てられたこどももみな運命としてあらかじめ定められており、すべてのことに意味があると語られる。宗教ですか、これは。


劇中の会話を聞きながら、インドのカースト制度のことを思い浮かべた。インドでの低位カーストへの差別や弾圧は、いまも地方を中心に根強く残っており、それは時に上位カーストの者たちによる大量虐殺へとエスカレートする。もちろん、インド憲法でもそうした身分差別は禁じているし、国連の人権委員会もたびたびインド政府に是正を勧告してきたが、なかなか状況は改善されていない。その最大の理由はヒンズーの教えにある。輪廻転生を説くヒンズー教では、不可触民をはじめとした低位カーストに生まれた者たちは、前世で犯した罪の報いを受けていると解釈される。だから、穢れた存在として飲食店への入店を拒否され、公共の井戸の使用を禁止され、上位カーストの村を通る際には履き物を脱ぐよう強要されても、それを受け入れるよう教えられる。それが彼らに課せられた運命であり、その定めを全うすることで、より良い来生に生まれ変われるのだと説く。しかし、こうした問題で「前世の報い」や「運命」などと言ってしまったら、そこに差別も人権侵害も成立しない。インドでカースト差別がなくならない最大の理由はそこにある。人間の幸不幸をすべて意識の問題に帰因させ、社会的矛盾を運命なんだから受け入れろという論理は、この作品の根底にあるものとまったくいっしょである。その文脈を補強するように、劇中では運命をめぐる人生訓が登場人物たちによって事あるごとに語られる。曰く、どんなつらい体験でも、本人次第でそれをプラスにできるんだから、人生に無駄なものはない。曰く、悲しい出来事を運命として受け入れることで、そこから生きる意味を見いだせるようになる。ああもう説教くさくてうんざりだよ。あらゆる社会的矛盾を運命だから受け入れろという暴力的な言説は、社会のあり方について思考停止をもたらす。そこではインドの不可触民が公共の井戸を使わせてもらえないのも、同和地区出身者が地域社会から排除されるのも、同性愛者が道端でいきなりつばを吐きかけられるのも、みな「運命」であり、「受け入れることで生きる意味を見いだせる」という個人の生き方の問題として片付けられることになる。ならば奴隷制社会はさぞや生きる意味に満ちているだろう。その教えは虐げられる者たちのルサンチマンを押さえ込む道具として機能し、カースト差別が2000年以上にわたってつづいてきたように、人々は社会に不満があるのに声を上げることすらできず、ただ息苦しい現状が維持される。それよりは、アタマにきたぜ、暴れてやるぜ、ぶっ壊してやるぜのほうが率直でずっと風通しがいい。劇中の出来事をすべて意識の世界として描き、あらゆることを個人の内的問題に帰因させようとするフィクションの手法は、必然的に外的規範である社会構造などどうでもいいというところへ帰着させる。それは、映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で、無実の罪で死刑判決を受けたビョーク演じる主人公が「彼女はいつも心の中で幸せに歌っていたのでたとえ縛り首になってもハッピーでした」という奇妙な結末へたどり着き、冤罪と死刑制度の問題を訴える文脈のほうは破綻していたのと同じである。


父親のエゴイスティックな愛情によってしばられ、虐待を受けていたゆりちゃんは、同級生の女の子が与えてくれた無償の愛によって運命の列車を乗り換える。また、死ぬ運命だった妹は兄ふたりの贖罪によって運命の列車を乗り換え、新たな生を受ける。もちろんその救いはきっかけにすぎず、その先、彼女たちが幸せになれるかどうかは自らの足で立って歩いていけるかどうかにかかっている。物語のラストで、20代半ばになった多蕗がゆりに話しかける。「やっとわかったよ、どうして僕たちがこの世界に残されたかが。君と僕はあらかじめ失われたこどもだった。でも、世界中のほとんどのこどもたちは僕らといっしょだよ。だから、たった一度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だった」。その言葉にゆりはこうこたえる。「たとえ運命がすべてをうばったとしても、愛されたこどもはきっと幸せを見つけられる。私たちはそれをするために世界に残されたのね」。しかし、ふたりの会話はそこで終わってしまい、なにかできることを見つけて、今度は自分たちが彼らに手をさしのべようという話にはならない。我々の世界には、運命を乗り換えられる救済者は存在せず、我々の世界のゆりちゃんたちに手をさしのべられるのは我々でしかない。劇中の自己犠牲の物語はたしかにドラマチックなファンタジーだったが、主人公の三人を「呪われたこどもたち」と見なし、彼らに愛による死という究極の自己犠牲を強いる発想にこそ、愛されないこどもたちを排除しようとする社会の本質があるのではないのか。にもかかわらず、物語はそこに触れることなく、無償の愛と自己犠牲という内的要因にすべての問題を集約させていく。その勇ましさは欺瞞に見える。奇跡の存在を前提にしている限り、人はどうすればより良く生きられるかという問いは意味をなさない。念じれば嵐がおき、海が割れ、死んだこどもが生き返るのなら、考えてないで念じればいい。我々は奇跡も起こせず、自らの命を投げ出せるほど勇ましくもないからこそ、この世界のゆりちゃんに手をさしのべるにはどうすればいいのかを考える。場合によっては児童相談所の力を借りることもあるだろうし、新たな制度をつくっていく必要にもせまられるだろう。なんせ我々の世界に奇跡を起こす救済者はいないんだから。どうすればより良く生きられるのかという問いはそこではじめて意味のあるものになる。この勇ましいファンタジー・ストーリーからはその肝心な部分が抜け落ちているが、本来、物語というのはそこからはじまるものではないのかと思う。


輪るピングドラム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E3%82%8B%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%A0


公式サイト
http://penguindrum.jp/

Oliver's Army

ひと月くらい前から、どこかで聞いたことのあるメロディがときどきアタマの中に流れてくる。iTunesに登録してあるそれらしい曲を調べてみたら、エルビス・コステロの「オリバーの軍隊」のサビの箇所だった。アップテンポの陽気な歌で、高校生の頃、よく鼻歌で歌っていたおぼえがある。何十年もたって突然サビのフレーズがアタマの中に流れてくるっていうのはボケの前兆だろうか。彼のシングルで一番ヒットした曲で、コステロとアトラクションズがオースティン・パワーズみたいなものすごく悪趣味なジャケットを着て、どこかのビーチでパーティバンドのように演奏しているビデオ映像を見た記憶がある。高校生の頃は歌詞もわからないまま鼻歌を歌っていたが、いまはネットで調べればすぐに歌詞も出てくる。こんな歌詞である。

Elvis Costello "Oliver's Army" 1979


Don't start me talking
I could talk all night
My mind goes sleepwalking
While I'm putting the world to right


Called careers information
Have you got yourself an occupation?


Chorus:
Oliver's army is here to stay
Oliver's army are on their way
And I would rather be anywhere else
But here today


There was a checkpoint Charlie
He didn't crack a smile
But it's no laughing party
When you've been on the murder mile


Only takes one itchy trigger
One more widow, one less white nigger


(Chorus)


Hong Kong is up for grabs
London is full of Arabs
We could be in Palestine
Overrun by a Chinese line
With the boys from the Mersey and the Thames and the Tyne


But there's no danger
It's a professional career
Though it could be arranged
With just a word in Mr. Churchill's ear


If you're out of luck or out of work
We could send you to Johannesburg


(Chorus)


http://www.elviscostello.info/wiki/index.php/Oliver%27s_Army


なーにーこーれー。歌詞を読んでもさっぱり意味がとれないよ。そもそも「オリバーの軍隊」ってなにさ。再度ネットを検索すると、英語版ウィキペディアの解説文が見つかった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Oliver's_Army


ウィキペディアの解説によると、「オリバーの軍隊」はイギリス軍のことだという。近代イギリス陸軍が17世紀の清教徒革命時にオリバー・クロムウェルによって再編成された「ニューモデル・アーミー」に由来することから、歌の中で「オリバーの軍隊」の言い回しを用いているとのこと。クロムウェルアイルランド占領で行った大虐殺の歴史もふまえてそう呼んでいるんだろう。で、その後の大英帝国による植民地支配といまも世界各地でつづけられているイギリス軍の駐留について歌っているようである。そうしてあらためて歌詞を見ると、そこで描写されているのがイギリス軍に臨時雇いとして入った若者同士の会話であることがわかる。「俺たちが引き金をちょっと引くだけで、ホワイトニガーのアイルランド野郎がひとり減って、未亡人がひとり増えるのさ」「オリバーの軍隊、只今駐留中」「オリバーの軍隊、只今進軍中」「香港ではなんでもはやいもん勝ち、ロンドンはアラブ人でいっぱい」「俺たちはパレスチナにもいるし、中国の国境線も踏み越えている」「もしあんたが不運を嘆いていたり、仕事からあぶれたりしているのなら、俺たちが南アのヨハネスブルグまで送り届けてやるよ」。す、すごいね、この歌詞。英語版ウィキペディアには、この歌についてのコステロのコメントも紹介されている。

1978年にはじめて北アイルランドベルファストを訪れたとき、軍服を着て自動小銃武装している少年たちを見かけた。彼らはもう夕方のニュースの中だけの存在ではなくなった。その時のスナップショットから、世界中に展開している大英帝国軍とその傭兵たちのイメージが広がっていった。この歌は「彼らはいつも労働者階級の少年を使って人殺しをしている」という立場に立っている。それは誰の言葉かわからないが、真実をあらわしているように見える。私はこの歌についてのたくさんの下書きをロンドンに帰る飛行機の中で書いた。


歌の情景は、労働者階級の不良少年がイギリス軍の臨時雇いになり、同じ不良仲間の少年に話しかけている場面からはじまる。彼らは定職もなく、十分な教育もなく、イギリス社会の中で軍の臨時雇いになるくらいしか行き場がない。しかしその一方で、いまも尊大な大英帝国意識を抱いていて、彼らの社会への不満と暴力的な衝動は、政府やイギリス社会ではなく、自分たちよりもさらに弱い立場のアイリッシュや移民たちへ向けられる。アイルランド出身者を「ホワイト・ニガー」と呼んで蔑み、植民地出身の移民たちには奇妙な虫でも見るようなまなざしを向ける。そうすることで彼らの自尊心はかろうじて保たれている。そんな若者たちの日常会話を切りとりながら、彼らが同じような境遇の労働者地区出身の仲間といっしょに世界中の紛争地へ派遣されていく様子が歌われる。メロディはやたらと陽気だけど歌詞のほうはまるでシリアスな短編小説のようだ。イギリスの階級社会を「社会的分業」としてうまく機能してると主張するイギリス在住の日本人は多いが、そういう彼らが実際に自分のこどもたちを労働者地区の公立学校へ通わせているという話は聞いたことがない。こうした問題は、当人が社会階層のどのあたりに位置しているかによって見方がまったく違ってくるもので、階級社会を「社会的分業」と見なすまなざしは高みから俯瞰するものでしかない。彼らは自分のこどもが学校をドロップアウトして軍の臨時雇いになったとしても、それでもなお「社会的分業」と言うのだろうか。「Oliver's Army」で歌われている社会構造はいまもまったくいっしょで、イラクアフガニスタンに派遣されたアメリカ兵やイギリス兵のほとんどがやはり低所得層の若者たちだった。それにしてもこんな強烈な歌だったのね。こちらのブログによると、この歌、イギリスが戦争を始めると放送禁止になるとのことです。
http://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20070513/1179064926


いちおう訳してみました。

俺に話しかけるな
俺はひと晩中でもしゃべりつづける
俺の心は夢遊病のようだ
この世界をあるべき姿にするまで
軍の配属あっせん係に電話してみな
仕事をお探しですかと言われるはずだ


オリバー・クロムウェル卿の大英帝国軍、只今駐留中
オリバー・クロムウェル卿の大英帝国軍、只今進軍中
ここにいるくらいならどこでもいい
でも、今日はここにいるんだ


ベルリンの国境線のようなものものしい警備の国境検問所で
彼は笑顔もない
でも、そこには愉快なパーティなんかない
あんたが人殺しをしてる間はね
引き金をちょっと引くだけで
ホワイトニガーのアイルランド野郎がひとり減って、未亡人がひとり増えるのさ


香港ではなんでもはやいもん勝ち
ロンドンにはアラブ人があふれている
俺たちはパレスチナにもいるし
中国の国境線も踏み越えている
マージーやテムズやタインから来た(職にあぶれた労働者階級の)若い連中といっしょに


でも、危険はないんだ
それがプロの仕事だ
それがチャーチル氏の耳に入ったほんの一言によって準備されたものだとしてもね
もしあんたが不運を嘆いたり仕事からあぶれたりしていれば
俺たちが(南アフリカの)ヨハネスブルグに送り届けてやる


*訳注


軍の配属あっせん係  原文は「careers information」。ここでは一般的な職業あっせん所ではなく、前後の文脈から軍の採用・配属を手配する窓口と解釈しました。


ものものしい国境検問所  原文は「a checkpoint Charlie」。Checkpoint Charlieで、冷戦下のベルリンにあった国境検問所のこと。1965年の映画「寒い国から帰ったスパイ」でこのベルリンの国境検問所とチェックポイント・チャーリーの呼び名は広く知られるようになりました。ただし、ここではつぎにつづく北アイルランドの記述とのつながりから、「東西ベルリンの国境線のようにものものしい警備の北アイルランドにある検問所」と解釈しました。


ホワイトニガーのアイルランド野郎  原文は「white nigger」。手元の辞書によると、19世紀のジャガイモ飢饉で北アメリカに移住したアイリッシュたちは、土地を持たない小作人として働き、その貧しさから「white nigger」の蔑称で呼ばれてきたとのこと。かつて日本もそうだったように、地主・小作人制度はどこの国でも慢性的な貧困の温床になります。そうした歴史的経緯から、いまもアメリカ中西部のプアホワイトには、アイルランド移民の末裔が多いようです。「ホワイト・ニガー」という差別的なスラングは歌の語り手である不良少年たちがいかにも好みそうな言い回しで、このセリフによって、歌の語り手が社会の中でどういう立場におかれているのかが見えてきます。


マージーやテムズやタイン  原文は「the Mersey and the Thames and the Tyne」。いずれも海沿い川沿いにある工業地区。イギリスの刑事ドラマを見ていると、労働者階級の人たちの多いこうした地域では、職にあぶれた不良少年たちがパキスタン移民をリンチしたり、クルマを壊して備品をかっぱらったりしている場面がよく出てきます。同時にロックバンドを多く輩出している地域で、イギリスのロックが労働者階級の音楽だということにあらためて気づかされます。


チャーチル  原文は「Mr. Churchill」。いちおう第二次大戦の英雄ということになっていますが、彼は戦後最初の選挙で、対立政党である労働党を「ナチ党」「アカ」と呼び、労働党の選挙公約である社会保障の拡充を「ゲシュタポの弾圧政治」と全否定したことから世論の反発をまねいて大敗、首相の座を失います。貴族出身のチャーチルは、地下鉄に一度も乗ったことがなく、また、労働者階級の人間が靴磨きをしたり使用人になるのはかまわないが、彼らが権利を主張するのは許せないという社会観の持ち主だったことで知られています。そうしたことから、ここでは大英帝国を体現する貴族的政治家のシンボルとして登場します。


ヨハネスブルグ  原文はそのまま「Johannesburg」で南アフリカ共和国の首都。白人政権下でのアパルトヘイトは有名ですが、当時、黒人たちの反乱を押さえ込むために軍事的制圧や黒人指導者の暗殺がくり返されていました。南アへ行けばいくらでもそういうヤバイ仕事にありつけるから、もし仕事にあぶれてロンドンの路地裏でくすぶってるなら、俺たちが南アまで連れてってやるよという意味の歌詞です。2004年には、サイモン・マンという元イギリス軍傭兵が赤道ギニアのクーデターを企てたことで逮捕される事件もありました。サイモン・マンは上流階級の出身で傭兵たちを動かす側の人間でしたが、イギリスの旧植民地でいまも兵隊やくざみたいな民間軍事会社が暗躍していることを印象づける事件でした。その後、マーガレット・サッチャーのどら息子として有名なマーク・サッチャーが手を回して、このサイモン・マンは保釈されたとのこと。歌が作られて30年、世の中ぜんぜん変わってないじゃん。

英雄気取りで首を突っ込みすべてをぶち壊しにするどら息子──マーク・サッチャー(卿) | GQ JAPAN


こうした社会状況への怒りとやるせなさを込めた歌詞がやたらと陽気なメロディに乗せられ、かつ、パーティバンドふうのラメラメの衣装で演奏される。なんだろう、この屈折した様子は。「リア王」の道化がこの世界は喜劇と悲劇が隣り合わせで回っていると落ちぶれたリア王を嘲っている場面を連想する。プロテストソングではなく、あくまで「ある人物のある情景」を切りとったパーソナルな物語として提示しかったということなんだろうか。エルビス・コステロはこういう曲調と歌われている事柄とが一致しない歌が多い気がします。下にあげた2005年のグラストンベリーの屋外ライブで、観客たちがみなこの曲でノリノリになって踊っている様子を見ながら、「ロックっていうのは悲しい出来事を陽気に歌う音楽なんだよ」というボビー・アン・メイソンの小説にでてくる会話を思い出しました。それにしてもこの歌詞でよく踊れるよなあ。もしかしてイギリス人の聴衆も歌詞の意味を理解していないんじゃないでしょうか。


では、曲もどうぞ。映像は1979年にイギリスのテレビ番組に出演した際のもの。口パク。当時20代半ばのコステロくんは、歌の中の不良少年になりきってるのかなんなのか、やけに態度が悪いです。



ほか最近のライブから

2012ダーラム
http://www.youtube.com/watch?v=zBOwl8wpJrU&feature=related
2012ダブリン
http://www.youtube.com/watch?v=z-_UU-7kUdw&feature=related
2011NYC
http://www.youtube.com/watch?v=plArE1AONZo&feature=related
2011アムステルダム
http://www.youtube.com/watch?v=5sulD8AtG9c&feature=related
2005グラストンベリー 
http://www.youtube.com/watch?v=zNMCWGCAIME


ちなみにオリバー・クロムウェルの歴史イベントは、いまも毎年夏に「Oliver's Army」という名前で行われているようで、ロンドン在住の方がこちらのブログでその様子を紹介しています。歴史マニアのおじさんたちが古い軍服を着て、国王軍と議会軍とに別れて戦争ごっこをするイベントのようです。イギリス人、こういうの好きね。山梨の信玄公祭りみたいなもんでしょうか。
http://plaza.rakuten.co.jp/londonhenshoku/diary/200911100000/

それを聞くと映画を観る気がしなくなるあおり文句、ワースト10

1.あなたに感動を届ける!
 感動したかどうかは観客自身が判断するものです。感動の押し売りはやめましょう。


2.最高傑作!
 傑作かどうかも観る側がひとりひとり判断するものだよ。寅さんじゃないけど、作り手側がそれをいっちゃあおしめえよ。


3.この夏、最高に泣ける映画!
 客を泣かそうと思ってつくるなよ。


4.全米1000万人が涙した!
 どうやって統計とったんだ。


5.全米に感動の嵐!
 で、名前はカトリーナ
 → ハリケーン・カトリーナ - Wikipedia


6.歴代興行成績をぬりかえた!
 愚かな大衆は行列について行くだけだと思ってるだろ。


7.衝撃の結末!
 終わるまで我慢してねと正直に言いましょう。


8.あなたに生きる勇気を与える!
 生きてるのが嫌になってきたよ。


9.○○○○を超えた!
 えっと、○○○○が「金星怪人ゾンター」や「20世紀少年」なら謙虚でいいと思います。


10.○○○○で○○○○な作品!
  用例その1 ホリゾンタル・コンシャスでアジェンダ・コミットメントな傑作!
  用例その2 エビデンスペンディングにおけるフラクタルなラビリンス!
  用例その3 サステナブルなリソースをエンハンスするサプライストラテジー
  用例その4 ディープノードのソリューションを加速させる問題作!

 あのう、ライターさんは松下政経塾出身?

追記 ベネトンの広告


先日書いたベネトンの広告についての会話文を友人に読んでもらったところ、「たんにショッキングな映像っていうことなら、ホラー映画のポスターのほうがずっとどぎついのがあるじゃない、首の切断されたゾンビとか血まみれの内臓とか、新宿へ行くとよくそういうポスターをべたべた貼ってるの見かけるよ、ベネトンのポスターの何が問題だっていうの?」という反応。ああなるほど、ベネトンのポスターがショッキングなのは、映像自体のインパクトよりもその背景にある社会問題のほうなのか。たまに鋭いこと言うね、あんた。こういう問題はひとりで考えていても煮詰まってしまうので、ときどきなかば無理矢理にややこしい話につきあわせて、考えを聞かせてもらうことにしている。というわけで会話文を修正しました。

ベネトンの広告
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benetton.htm
http://d.hatena.ne.jp/box96/20120704/1341372258


あと、LGBT関連の海外ニュースを紹介しているこちらのブログ↓を読んでいたところ、スターバックスナビスコ同性婚LGBTの支持を表明したという記事があった。当然ながら、同性愛の人たちはその企業姿勢を歓迎し、キリスト教福音派をはじめとした保守派は反発し商品ボイコットを呼びかけているとのことで、毎度おなじみの対立の図式。こちらも会話文の死刑囚広告のくだりのところへ、賛否の分かれる問題に企業が意見表明するケースとして書き加えました。

みやきち日記

http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20120629/p3
http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20120407/p2

コロンボ

一年ちょっとくらい前、アメリカのテレビドラマは多チャンネル化の影響でターゲット視聴者をやけに限定する作り方をしてるんじゃないかという文章を書いたことがあります。主婦層向けのドラマに陰気なおたく青年が出てくると確実に変質者だし、おたく層向けのドラマに自信満々のイケメン実業家が出てきて主人公を見下す態度をとればほぼまちがいなく連続殺人犯といった具合。そういう囲い込んだ特定層の願望通りに話が展開し、彼らの不満を全肯定することでターゲット視聴者を満足させようとするつくりかたは、フィクション作品のあり方としてサイテーだという主旨の文章です。だってそんなのマスターベーションの妄想をたれ流してるのといっしょじゃない。ついでに言うと、異質な者への不寛容さを大ぴらに表明することで同質集団を囲い込もうとする作り手側の意図も猛烈にいやらしい。見る側の願望を裏切ってのたうちまわらせるところにフィクション作品の醍醐味があるんじゃねえのかよ、猪木のプロレスじゃねえんだからよう、とまあ当方は考えてるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/box96/20110103/1298941886


でも、先日ふと思ったんですが、「刑事コロンボ」だって同じようなもんじゃないかってことです。1960年代から80年代にかけて長期にわたってつくられたコロンボ・シリーズは、さえない風采のコロンボがその見た目と裏腹の機知によってじわじわと知能犯を追い詰めていくドラマです。当時こどもだった私は、コロンボも犯人も人間は見た目通りじゃなくていくつもの顔があるんだなあとその人物描写に毎回感心していましたが、これ、解釈を変えると、さえない男が社会的成功者をやっつけてルサンチマンをはらすドラマという文脈も成り立つわけです。世の中のたいていの人は社会的成功者じゃありませんから、尊大な成功者はそれだけで十分悪役です。実際、主人公のコロンボに感情移入できるかどうかがドラマの評価の別れ目になっているようで、私の周囲にいる、あのドラマはおもしろかったよねえという人たちは全員男性です。逆に私の知ってる女性たちは、口をそろえて、コロンボ怖い、あの粘着質な言動が見ててたまらなく気持ち悪い、悪夢の中に出てきそう、とまあさんざんな評価。あ、古畑任三郎のほうは田村正和がいい男だから許容できるとのこと。人間けっきょくカオかよ。でも、いいのか、そんなルックス至上主義的な見方で。私はいまでもコロンボ・シリーズは非常によくできた心理劇だと思っているので、自分で立てた仮説ながら、この評価には釈然としないものがあります。ちなみに女性のサンプル数は、ブサイクは全員この世から消えてしまえと日々差別発言をまき散らしている私の母をふくめて四人です。


というわけで、ひさしぶりに疑問の泡をこちらに吐いておきます。女性でコロンボ・シリーズが好きだったという方はいるんでしょうか。サンプル数四人で結論づけるのも乱暴だし、ご意見ください。

マンガのモノローグについての覚え書き

夏休みに入って時間に余裕があるので、マンガのモノローグについて考えたことをまとめてみます。先日、マンガを読みながら、ふとこれはいったいどういう仕掛けなんだろうと気になって以来、つらつらと考えたことの覚え書きです。マンガのモノローグは、本来の演劇で用いられる「独白」とはずいぶん違った役割のもので、かなり特殊な仕掛けだと思います。Wikipediaの「モノローグ」の項目にあるマンガのモノローグについての記述はあきらかに間違っています。


Wikipedia「モノローグ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B0


まず、マンガのセリフを大きくわけると、実際に話している言葉、心の中のつぶやき、モノローグの三つになります。実際に話している言葉には、「ふきだし」というマンガ独自の記号が用いられます。つぎの場面は、泣き言を言ってるのび太ドラえもんが長ゼリフで説教しているところです。



画像はこちらから拝借 http://plaza.rakuten.co.jp/neoreeves/


ふたつめの心の中のつぶやきは、ふきだしを変形させた記号であらわされます。本来、心の声が第三者である読者に直接聞こえるはずがないわけですが、マンガの場合、登場人物の微妙な心情や考え事を表情や仕草だけで書き表すのは困難なので、わかりやすさを優先してこうした飛び道具のような手法が用いられています。再び「ドラえもん」を例に、物思いにふけるのび太が心の中でつぶやく場面です。画像は上と同じサイトから拝借。



三つめのモノローグではどうなるのかというと、ふたつめののび太の心のつぶやきをモノローグで表現した場合、こんなふうになります。



ノローグで表現されるとのび太の切ない思いがより強調されます。のび太がまるで少女マンガの主人公になったみたいです。では、モノローグの正体はなんなのかというと、コマに直接心の声をのせることで、そのコマ全体が語り手の意識の中にあることを示す記号です。それによって、読者は語り手の意識の中へ誘導され、語り手の意識を通して物語の世界を体験している状態におかれます。ふたつめの表現では、読者は第三者の視点を維持したまま、のび太の心のつぶやきを他者として聞いているのに対して、モノローグ表現では、のび太の視点を通して劇中の世界を内側からのぞき見ることになります。したがって、もし上のモノローグのコマに絵を入れるとしたら、のび太のまなざしを通して見た土管のある空き地の風景か、のび太の思い描いている心象風景になります。読み手はのび太と意識を共有している状態にあるので、同じ心の中の言葉でも、のび太の感傷的な気持ちやドラえもんがいないことの寂しさをよりダイレクトに体験することになるわけです。その意味でマンガのモノローグは読み手をより物語の中へ引き込み、感情をゆさぶる非常に強力な仕掛けです。


こうしたモノローグの手法は、1970年代くらいから少女マンガで使われるようになり、1980年代には作品全体の構成にも影響をもたらすようになっていきます。それは物語に重層的なまなざしと意識の入れ子構造をもたらし、読者に強い感情を体験させる画期的な発明でした。手塚治虫が「新宝島」で映画のモンタージュの手法を導入したのと同じくらいマンガ表現の幅を広げる発明だったと思います。とりわけ恋愛ものは、まなざしと感情のせめぎ合う自己と他者との関係性の物語なので、モノローグの一人称視点による意識への誘導は絶大な効果を発揮します。


欠点としては、一人称視点と三人称視点が混ざることで各場面の構成がどうしても複雑になるので、小さいこどもやマンガを読み慣れていない人にはわかりにくくなってしまうこと、登場人物との感情の共有によって作品全体が内省的で叙情的になるので、ギャグやアクションものには向かないことがあげられます。また、語り手の主観が強く出るぶん、使い方を誤るとやけに押しつけがましくなってしまうという問題もあります。とくに書き手が自己投影した主人公にモノローグの語り手をさせた場合、まるで自分に酔っているような独りよがりのマンガになりがちです。


では、具体例を手元にある何冊かのマンガから。

萩尾望都ポーの一族」第一話より 1972年


 すでに1972年の「ポーの一族」で、モノローグが登場人物の意識の中へ誘導するための仕掛けとして確立されています。上の場面は、父との言い争いにかぶさるように主人公エドガーのモノローグが入り、読み手は彼の意識の中へと誘導され、最後の縦長のコマで吸血鬼として永遠の時を生きるエドガーの心象風景が提示されます。それによって時の流れの中で何もかもが移ろいかわっていくのに自分だけはなにも変わらない、そんな彼の物憂げでおぼろな世界を読者は共有することになります。最近のマンガだと10ページくらい費やしそうな場面ですが、わずか3コマで一気に展開していきます。各ページの密度が濃いぶん、読み手にも集中力が要求されます。ラーメンすすりながら読むのには向きません。有名な作品のわりに冊数も少なく、新書版で全5巻です。


諸星大二郎「遠い国から」第一信より 1978年


 諸星大二郎も初期の1970年代の作品には、モノローグを使って語られるものがいくつかあります。この「遠い国から」では、旅人のモノローグと彼のまなざしを通して、遠い国で暮らす人々の奇妙な習俗が紹介されます。全編を通してモノローグが使われることで、そこで描かれているのが実際に彼の目の前に広がっている風景なのか、語り手の心の中の風景なのかわからなくなっていきます。


田渕由美子「夏からの手紙」より 1979年


 1970年代に少女マンガはモノローグを使った心情表現と一人称視点を確立したことで、それまでのお姫様と王子様による様式化されたラブストーリーから、より等身大の登場人物たちの恋愛模様私小説的に描くようになっていきます。それにしても、田渕由美子、30年以上も前のマンガなのに絵柄も構成もほとんど古くなった感じがしません。むしろ、1980年代に少年誌を席巻したラブコメも90年代以降のアニメ絵のラブコメもみんなこの乙女ちっく路線の焼き直しのように見えます。少女マンガが1990年代に入って、乙女ちっく路線のシャイで受け身のヒロインと少し屈折した王子様という関係性を解体していくのに対して、少年マンガやアニメのラブコメは、逆にそのふわふわした居心地の良い関係がどこまでも続く閉じた世界を描くようになっていきます。「夏からの手紙」の主人公は、堅物の優等生でまわりから「委員長」なんて呼ばれているけど、内面は恋する乙女という高校二年の女の子。ふだんは皮肉屋で毒舌なのに動揺するとすぐ顔に出て真っ赤になってしまうというヒロイン像も、その後のラブコメのひな型になりました。


大島弓子「キララ星人応答せよ」より 1974年


 モノローグを多用する作家に大島弓子がいます。大島弓子のすべての作品で、物語は登場人物のモノローグによって幕を開け、要所要所にモノローグが入り、再びモノローグによって幕を閉じるという構成がとられています。それによって、物語全体が登場人物の意識の世界であることが示されます。大島弓子の作品は、物語全体が登場人物の意識の中にあるという入れ子構造によって、物語が終わった後も読者はそのまま物語の世界に取り残され、読後に長い余韻がつづくのが特徴的です。


大島弓子「シンジラレネーション」より 1977年


 大島弓子の作品は、モノローグの語り手と主人公とがしばしば異なります。とくに男の子が語り手になった場合、彼のまなざしを通して描かれるヒロインや周囲の人々の言動にウェイトが置かれることになります。大島弓子のマンガに登場する男の子たちは、自己主張が少なく、精神年齢の高いキャラクターとして描かれているので、彼らは無茶をする女の子や理不尽な要求をする周囲の人々に振りまわされる形でストーリーが展開していきます。少年マンガの無茶をする男の子とそれをそっと見守る女の子という関係性がここでは逆転しています。受け身の登場人物が語り手となって周囲の人々を描写していく場合、まなざしはより重層的になり、物語としての幅も広がるのが特徴です。逆に自ら事件をまきおこす突撃型の女の子が同時にモノローグの語り手を兼ねる場合、彼女の思い込みや独善が強く出てしまうので、一本調子で押しつけがましくなる傾向があります。


大島弓子綿の国星」第一話より 1978年


 モノローグによって登場人物の意識へ導く手法は、作品全体の構成にも影響を与えます。大島弓子はこの手法を積極的に用いることで様々な仕掛けを生み出しました。この「綿の国星」では、主人公は捨てられた仔猫で、作品全体が仔猫の見た心象風景として構成されています。上の場面の心の声の入った四角い枠もモノローグの変形記号です。主人公である仔猫は、もうすぐ自分は人間になると信じているので、作中に登場する彼女自身も人間の少女の姿をしています。また、彼女が夜の竹藪の向こう側には死者の国がつづいていると思っていれば、劇中にそう描かれるし、繁華街の路地の先にペルシャの砂漠が広がってると思っていればやはりそう描かれます。「綿の国星」は、それまで大島弓子がやってきた意識の中の物語をキャラクターの造形や場面描写までふくめて作品全体を構成しているのが特徴で、意識の中の物語というマンガ表現を確立した作品として高く評価されています。ただ、主人公の諏訪野チビ猫は典型的な突撃型のヒロインで、物語の世界は、彼女のいだいている「赤毛のアン」ふうの少女趣味ですべてが描写されていくので、個人的にはこのシリーズ、少々苦手です。


大島弓子「ロングロングケーキ」 1987年


 作品全体がモノローグの語り手の意識の世界であるという構成は、物語の中にいる語り手の意識の中に物語があり、その中にも語り手をふくめて登場人物たちがいて、その語り手の意識の中にもまた物語があってという無限の入れ子構造をつくっていきます。「ロングロングケーキ」では、この入れ子構造をひっくり返し、実際にこの世界が語り手である主人公の夢かもしれないというというメタフィクションのストーリーにすることで、自己と他者の関わりや目の前に広がっている世界との関係性について描かれていきます。この作品で興味深いのは、ラストでモノローグの語り手が交代し、自分はいま主人公の夢の中にいるのではないかと語ることで、さらにもうひとつの意識の入れ子構造をつくっている点です。この構成によって、読み終えた後も、いつまでも醒めない夢の中にいるような感覚をもたらします。


大島弓子「夏の夜の漠」より 1988年


 大島弓子のマンガはほとんどの作品でクライマックスシーンがモノローグになります。とくに1980年代以降になると、クライマックスシーンで絵はなくなり、しばしば上の場面のように黒バックに白抜きのモノローグの言葉だけで表現されます。大島弓子の作品は、ストーリーが外へ向かって広がっていくプロット型の作品とは異なり、語り手のまなざしを通して提示される事件はひたすら内面へ向かい、語り手の心の中を縦に掘り下げるように進行します。物語の中でおきる様々な事件は、それ自体をドラマチックに見せるものではなく、その体験によって語り手と読者を心の深いところへ導いていくための道しるべです。そうして心の中へ降りていって、物語の語り手が心の一番深いところで拾いあげたのがこの黒バックで語られるモノローグの言葉です。なので、クライマックスシーンでは、もはや絵は不要で、心の奥底から拾いあげたモノローグの言葉だけで表現されます。基本的にマンガ家は絵を描きたい人たちなので、劇的な場面や印象的な情景をつないでいくことで物語を構成しようとするものですが、その中で場面描写に力点を置かない彼女の作品は、当時、際だって異色の存在でした。雑誌に彼女の作品が掲載されていると、そのページだけ極端に描線を省略した余白の多いコマと文字の多い構成によって一目でわかるほどでしたが、その後、クライマックスをモノローグだけで表現するこの手法も、多くの作家が用いるようになります。というわけでマンガのモノローグの手法は、大島弓子の作品でやりつくされた感じがします。1990年代以降のマンガでモノローグが使われる場合、直接的・間接的に大島弓子の作品からなんらかの影響を受けているように思います。

 ただし、この手法は映像作品とは決定的に相性が悪いという欠点があります。モノローグを多用したマンガをそのままドラマやアニメにした場合、やたらとくどくて甘ったるいものになりがちです。映像作品の場合、演技の訓練を受けた俳優たちが仕草や表情やセリフの言い回しによって心情を表現し、加えてカメラワークや効果音・音楽もつくので、それだけで十分に登場人物たちの意識へ誘導することが可能です。そこにさらに肉声で語られるモノローグが加わると説明過剰でまるで感情を垂れ流しているような状態になってしまいます。読み手を登場人物の意識の中へ誘導するマンガのモノローグは、あくまで記号化されたマンガならではの手法です。映像作品では、モノローグや説明的なセリフはできるだけ切りつめて、映像だけで見せていくのが基本ではないでしょうか。


岡崎京子リバーズ・エッジ」より 1994年


 岡崎京子もこの黒バックのモノローグを要所要所にはさみます。大島弓子のマンガが好きなんだろうなあというのは伝わってきますが、その使い方はずいぶんちがいます。大島弓子のマンガが登場人物たちの意識の世界なのに対して、岡崎京子のマンガの場合、若者たちの群像劇で、あくまで登場人物たちのドラマをストレートに見せていきます。なので、ドラマの合間にはさまれる黒バックのモノローグのコマは、「そんなことを考えている彼・彼女」という説明的な意味合いであって、登場人物への余計な感情移入や共感を拒否するように場面は再び彼らのドラマへ戻っていきます。ちょうど古い無声映画で説明的にはさまれる書き文字のセリフと同じ役割で、大島弓子の作品のような意識の世界へ誘導する仕掛けとしては機能していません。あくまでニュートラルな視点を維持するのなら、間に説明的な心理描写をモノローグではさんだりせず、オーソドックスなドラマとして会話や表情によって彼らの感情や思いを表現していくのが本来のあり方のはずです。なので、彼女の作品の場合、モノローグは不要だと思ってるんですが、いかがでしょうか。



芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行」第85話 かえる より 2001年



芦奈野ひとしヨコハマ買い出し紀行」第61話 紅の山 より 1999年


 芦奈野ひとしの作品では、風景描写は「背景」ではなく、しばしばそれ自体が主題になります。登場人物は目の前に広がる景色の大きさに息をのみ、ひっそりと朽ちていく暮らしの跡にそこにいた人たちを思い、空の青さや風の流れに意識が吸い込まれそうになる、そうした目の前にあるものと心の動きとの関係がたんねんに描かれていきます。モノローグの言葉はおもに風景との対話として用いられ、とくにカラーページだとモノローグもなくなり、空の色や雲の様子だけでそれを見つめる登場人物の心の動きが表現されます。「ヨコハマ買い出し紀行」は短編連作の形式でエピソードが積み重ねられ、回がすすむにつれて目の前の風景と静かに対話する内省的な描写が増えていきます。読んでいるとページを閉じてもしばらくこちら側に戻れなくなるような感覚をおぼえる作品です。


漆原友紀蟲師」第十巻・香る闇より 2008年


 「蟲師」もモノローグを多用して登場人物の意識の中へ入っていきます。こういう怪異譚の場合、そもそも「客観的事実」など存在しない世界なので、怪異とそれを体験する者の意識の世界とは不可分のものです。そのため、怪談が常に誰かの体験談のかたちをとるように、モノローグによる一人称視点との親和性も高くなります。「蟲師」は毎回ストーリーもよくできていましたが、それ以上にその怪異を体験する者たちの意識の描写が優れていました。怪異譚がたんにお化けや妖怪が出てくる話ではなく、それを体験する者たちの意識の世界の物語であることにあらためて気づかせてくれます。同時にそれは私たちが日々体験している「現実」や「認識」といったもののあてどなさに思いをめぐらせることになります。とくにこの「香る闇」は、登場人物がひとつの循環する時間を繰りかえし体験しながら、彼の意識の中へ深く降りていく印象的なエピソードでした。「蟲師」で特徴的なのは、モノローグの語り手が主人公・ギンコではなく、彼が出会う人々の側であることです。それまで怪異の外側にいた者が奇妙な体験をし、そのまなざしを通して怪異が語られ、主人公は常にその怪異の中にいる他者として描かれます。非常によく練られた構成だと思います。
 アニメ化もされています。原作では、水の描写が印象的だったのに対し、アニメーションのほうは命でむせるような山の緑が印象的でした。


秋山はるオクターヴ」第五巻より 2010年


 これも「ヨコハマ買い出し紀行」や「蟲師」と同じ「月刊アフタヌーン」に連載されていたマンガですが、モノローグとカットバックを多用して心理描写を展開していく手法は完全に少女マンガのものです。「オクターヴ」は女性同士のシリアスな恋愛もので、こういう互いのまなざしと自意識がせめぎ合う作品の場合、積極的に読み手を登場人物の意識の中へ誘導していくのは不可欠です。マンガは動きも生身の俳優が演技するリアリティもない、記号と約束事に基づく表現媒体なので、意識の世界への誘導がなければこれほど複雑な心理描写はできなかったはずです。「オクターヴ」では、カットバックによって各場面を緊密に結びつけ、そこでのやり取りを通して心の深いところへ降りていき、登場人物の感情が高まったところでその思いがモノローグで語られるという構成がくり返されます。その心理描写の密度は圧巻でした。こういう心の中をひたすら縦に掘り下げていくシリアスな作品の場合、書き手はさぞやしんどかったんじゃないかと思うんですが、読むほうもしんどかったです。全六巻、のたうちまわりながら読みました。

 ただ、ひとつ気になったのは、パートナーの女性がモデルのようなルックスの美女で気鋭の作曲家という設定です。主人公の心理描写がたんねんに展開されていくぶん、余計にこのリアリティのない人物造形には違和感をおぼえました。ラブストーリーはあくまで当事者同士のパーソナルなまなざしと関係性による物語なので、登場人物が誰もが振り返るような美男美女である必要性はまったくないわけです。物語の語り手にさえ相手が魅力的に映っていればいいので、不特定多数の人々からの評価はそもそも意味がありません。彼らの一瞬の表情や何気ないひと言が魅力的に描かれ、語り手の意識を通して読み手に恋愛感情を体験させる筆力が描き手にあれば、それがスーパーのレジ打ちをしている平凡な女性だろうと教室の中で孤立している気弱な少年だろうとラブストーリーは成立するし、むしろ、そうした人々が見せる魅力的な瞬間が描かれるほうが関係性の物語としての純度は高まります。マンガの場合、生身の俳優が演じるリアリティがないぶん、逆にそうした意識の描写は表現しやすくなります。
 一方、「学校一の美少女」「タレント活動をしている美少年」「大企業の社長令嬢」「サッカー部のキャプテン」「新進気鋭のピアニスト」「貴族の末裔」「源氏の名門」等々の社会的記号によって登場人物に付加価値をつける手法は、童話に出てくる「白馬に乗った王子様」以来、綿々とくり返されてきたものですが、それは「目の前にいる相手をよく見る」という基本的なコミュニケーションを放棄してしまっているように思います。
 江戸の廓噺にこんなくだりがあります。女郎が客の男へ自分は元々武家の出身で、家が没落したために女郎屋へ売られたのだと身の上を語る。するとそれまで彼女を安女郎と見下して横柄に振る舞っていた男の態度がころっとかわり、武家の娘を抱けたことをやたらとありがたがった上に帰り際、支度金の足しにしなよと妙に親切ぶった様子で余計にカネを置いていく。客が帰った後、彼女は長火鉢にもたれてキセルをやりながら、「またあの法螺話やったのかい」と冷やかす女郎仲間に「ありゃ客の受けがいいんだよ」と返し、「で、客はどうだったよ?」と訊かれ、「つまんねェ客さ」と社会的記号しか見ていない男のことをふたりで笑い合う。昔も今もそういう「つまんねェ客」は大勢いるようで、あいかわらず記号化された美男美女はマンガの世界で幅をきかせています。この点では、大島弓子が「綿の国星」でまいた種はなかなか芽を出していないように思います。


羽海野チカ3月のライオン」第一巻より 2008年


 羽海野チカも登場人物の感情がこみ上げてくる場面では、必ずモノローグを使います。「3月のライオン」のモノローグは二段構成で、ふつうのモノローグがそこにいる主人公の心の声で、クライマックスになると入る帯状のモノローグがそんな自分を遠くから俯瞰で見ているもうひとりの自分のまなざしです(よね?)。ただ、「3月のライオン」は場面転換が少なく、各コマの連続性の強い映像寄りの作品なので、ここまでモノローグを入れるのはちょっとくどいかなと思うんですが、どうでしょうか。横書きが混ざると読みにくいし。


志村貴子青い花」第六巻より 2011年


 鎌倉にある女子校を舞台にした女の子同士の恋愛マンガ。百合もの、ジャンルとしてすっかり定着しているようで、このところ力作も多い気がします。「青い花」は十年ぶりに再会したふみちゃんとあーちゃんという幼なじみの友情と恋愛を軸に物語は展開していきます。鎌倉の閑静な住宅街、明治に創立された女子校の趣のある木造校舎、古いチャペルと礼拝堂、毎年古典作品を上演する演劇祭、さらには宝塚の男役のような女子生徒あこがれのセンパイの登場とまあいう調子なので、特殊な閉鎖環境における思春期の少女たちの恋愛ファンタジーなのかと思いきや、人を好きになることの痛みや恋する者の愚かさ・残酷さがたんねんに描写されていきます。また、高校時代にそうした経験をした彼女たちの「その後」として、成人した卒業生が劇中や番外編に登場することから、その葛藤を現実と地続きの等身大の女性のものとして描こうとしていることが読み取れます。場面の省略と転換が多く、登場人物たちの意識の流れを追うようにカットバックが入り、クライマックスではやはりモノローグによって彼女たちの心情が表現されます。女の子たちの群像劇ですが、引いた視点から彼女たちのドラマを追うのではなく、読み手を彼女たちの意識の中へ積極的に誘導し、そのまなざしを通して彼女たちの感情や互いの関係性を描いていきます。とくに主人公のひとりであるふみちゃんという女の子は、大事なことをなかなか口にすることができず、重い感情をうちに抱え込みながら、それでも自分の気持ちや相手に誠実であろうと葛藤しているキャラクターで、彼女の内面描写は魅力的です。上の場面は、ふたコマ目がもうひとりの主人公のあーちゃんのアップなので、つながりがわかりにくいですが、それにつづくモノローグはめがねのふみちゃんの側の言葉で、目の前にいる親友との気持ちのズレととどかない思いについて、自分自身に言い聞かせているところです。右下の黒いコマでふみちゃんの心の中へ入っていって、左上の白いコマで彼女が自分の気持ちを確認する様子があらわされています。基本的につづきものの長いマンガは完結してからまとめて読むことにしてるんですが、この「青い花」と「3月のライオン」は現在も雑誌連載がつづいていて、「青い花」は、つい先日、連載開始から八年でようやく七冊目が出たところです。あーちゃんのほうは自分の性的志向どころか恋愛感情すら自覚していない状態なので、まだ先は長そう。あまり映像作品には向かないマンガだと思うんですが、何年か前にアニメ化もされています。


追記 2017


田口ケンジ「姉ログ」第二巻より 2013年


 はじめのほうでモノローグ表現はギャグマンガに向かないなんてわかったようなことを言ってますが、ありました。全編モノローグで主人公の妄想がつづられていくコメディで、タイトルも「姉ログ」。主人公は妄想癖のある高校二年生の女の子で、彼女にはひとつ違いの弟がいる。ふたりは高校生になっても朝一緒に学校へ通ったり、夕飯の食材を一緒にスーパーで買い物したりするほど仲が良い。彼女はそんな弟のことがかわいくてしょうがない。幼い頃に弟から「お姉ちゃんをおよめさんにする」と言われたことがずっと胸に残っていて異性としても意識してしまっている。でも、堅物の彼女は断じてそんな自分を認められない。で、屈折してぐるっと回って、弟のほうが自分に恋していて、ことあるごとに姉である自分に欲情していると思い込んでいる。こういうのフロイトの用語で「投射」っていうんでしたっけ。ともかく、実際の弟はいたって善良な常識人にもかかわらず、彼女の妄想の中では、姉の入った湯船のお湯を姉汁としてひそかに愛飲しているヘンタイであり、学校に「姉部」をつくって学校公認で姉を我がものにしようとしている危険人物であり、さらには姉弟間の婚姻を可能にするべく民法734条の改正を画策している策謀家ということになっている。毎回6ページのショートコメディで、パターンは全部いっしょ。

  1. 学校や家庭での日常会話
  2. 主人公が「ハッ」っとなにかに気づいて妄想スイッチが入る
  3. 妄想の中の弟が悪逆非道をはたらく
  4. 弟の魔の手から我が身と世界の平和を守るために主人公が暴走する

全12巻300話、ほぼ全部これ。よくやるなあ。ちなみに上のひとコマ目は主人公の妄想スイッチが入った場面です。ゴゴゴ。

暑い日


うだるような暑さの中、授業で近代の世界観についての話をする。教室へ向かう廊下で女の子同士がキャアキャアいいながら抱きあっていた。よっぽどうれしいことでもあったんだろう。「暑くないんですか?おふたりさん」と尋ねるとふたり声をそろえて暑くなんかありませーんという返事。そして再びキャアキャアいいながら抱きあっていた。ハッピーでなによりです。


近代の世界観では、まず、事物の世界から考えはじめる。自分の目の前には事物の世界が広がっていて、それは自分がなにを考えていようと何をしていようと関係なく、客観的な物理空間としてそこにある。それを対象化し、分析し、解き明かすことで人間は自然を支配下におけるというのが、近代科学の手法であり目的だ。でも、それは認識の順序からいうとすごく不自然なものだ。なぜかっていうと、我々が日々体験する出来事はすべて意識の世界の中でおきてるもので事物の世界ではない。我々は事物の世界を直接体験することはできず、あくまで自分が認識している意識の世界の向こう側には、事物の世界が広がってるんだろうなと類推しているだけだ。えっどういう意味かって?例えばここに一本のボールペンがある。赤いボールペンだ。君らが見ているこのボールペンは、意識の中にボールペンのイメージを形成することで「一本の赤いボールペン」として認識される。目の前にあるこの物体を目で見て、そのイメージを心の中に形成することではじめて「一本の赤いボールペン」という認識が生まれる。だから、この赤いボールペンを見ていても、ひとりひとりが意識の中に形成しているこのボールペンの色も形もそれぞれ異なっているだろう。だって、意識の世界はひとりひとり違っているはずだからね。それと同じように、きょうの暑さもやたらと強い日射しもさっきの休み時間に隣のクラスの女の子たちが廊下でキャアキャアいいながら抱きあっているのを見かけたのも、すべて意識の中での体験だ。では、日々の体験がすべて意識の中でおきているのなら、それは夢と区別がつくんだろうか。いま、我々がこの教室にいて、この暑い中、僕が眠くなるような話をしていて、みんながそれを訝しげに聞いているという体験が夢ではないと証明できる人いる?ほっぺたをつねってみる?でも、リアルな夢は夢の中でも痛みを感じるよ。リアルな夢の中でクルマにはねられてガードレールに激突したりすれば、やはりものすごく痛い。あまりの痛さにびっくりしておきてしまうっていう経験、みんなにもあるんじゃないかな。夢も現実もどちらも意識の中で体験しているわけだから、その中にいる者には、両者の区別を論理的に証明することなんて不可能だよ。でも、いま我々がこの教室にいることが現実の出来事だっていうのはなんとなくわかる。もしも、みんなの中にこれが夢だと本気で思ってる人がいたら、ちょっとあぶない人だよね。いまは意識もはっきりしているし、感覚と認識の結びつきも夢の中の体験よりも明確だし、目の前の世界も夢よりもずっと詳細に認識できている。あ、そうじゃない人もいるみたいだけどね。なので、夢のように意識の中だけで完結してるのではなく、たぶん、いま・ここで体験している意識の世界には、外側に事物の世界が広がってるんだろうと類推できる。つまり、事物の世界は直接認識できないから、あくまでそうやって類推することしか我々にはできない。そういう意味で、事物の世界をあらかじめ客観的に存在するものとしてとらえ、そこから考えはじめる近代の物心二元論の世界観は、我々の認識のあり方からいうと順序が逆になっていてすごく不自然なものということになる。だから、近代以前の社会では、文化を越えて必ず魔術や呪術のようなものが信じられてきた。呪文をとなえると嵐がおき雷が落ち、星の動きを見ることで人の生き死にがわかり、呪いの言葉や儀式によって誰かが死んだりよみがえったりする。そうした物語や伝説はははるか昔から語られてきたし、いまもこども向けの童話やアニメではしばしばそういう描写を見かける。「ハリー・ポッター」から「おジャ魔女どれみ」まで、たくさんあるよね。それは人間の認識の性質に由来するものだ。我々はあくまで意識の世界の住人であって、事物の世界を直接体験してるわけではない。我々には事物の世界は意識の世界から類推する以外にわからないわけだから、意識の世界と事物の世界にはなんらかの関連性があって、心の中で強く念じれば事物の世界も変化すると考えるほうが自然だからね。それが正しいかどうかはべつにしてね。


とまあそんなカントの認識論の入門講座みたいな話をする。やたらと教室が暑かったせいか、生徒の多くはあやしい宗教でもはじめたのかという様子でぽかんとした顔をしていたが、ひとりの女の子だけ、こちらを見てはニヤニヤしつつせっせとなにかメモをとっていた。自作の小説のネタにでもするつもりなんだろうか。まあ楽しんでもらえてなによりです。