マルバツ式敬語


文科省の審議会が「敬語」の新しい指針を出したという記事。

敬語、5分類の指針を答申 謙譲語を分割、新たに美化語

朝日新聞 2007年02月02日11時52分
 文化審議会阿刀田高会長)は2日、「敬語の指針」を伊吹文部科学相に答申した。指針では、これまで一般に尊敬・謙譲・丁寧語に3分類されていた敬語が5分類に改められた。具体的な使い方を36問のQ&A形式で解説し、マニュアル敬語にも言及するなど、実生活に即した内容となっている。

 同審議会は一昨年3月に指針作成を諮問され、国語分科会で審議してきた。指針は、コミュニケーションを円滑に行い、確かな人間関係を築くために敬語は不可欠との立場に立ち、敬語は必要と感じながら使い方がよくわからない人を主な対象としている。学校教育や社会教育など様々な分野で敬語ガイドブックが出ており、この指針はそうした「よりどころのよりどころ」とされる。

 新しい分類は、(1)尊敬語(2)謙譲語1(3)謙譲語2(丁重語)(4)丁寧語(5)美化語。従来の謙譲語は、「伺う」のように行為が向かう先の人物を言葉の上で立てる「謙譲語1」と、「申す」のように自分の行為を相手に対して丁重に述べる「謙譲語2」に分けられた。丁寧語からは「お料理」のように物事を美化して述べる「美化語」を独立させた。

 小中高校の国語科では現在、3分類を基本としながら教育段階に応じて「敬体と常体」といった2分類や美化語を加えた4分類を採用している。敬語の用法は戦後、大きく変わってきており、より深く理解するためには5分類が適切と同審議会は判断した。指針の理念は学習指導要領の改訂に影響を与えそうだ。
 Q&A形式による「敬語の具体的な使い方」は、基本的な考え方・適切な選び方・具体的な場面での使い方、の3部構成。例えば「社会人は尊敬していない人にまで敬語を使わなければならないのか」という問いには「仮に尊敬できない人でも、その立場や存在を認めようとすることは敬意表現となり得る。その気持ちを敬語で表すことは可能だ」と答えている。

 敬語に関する国語施策の答申・建議は3度目。文化庁国語課は指針を小冊子にして配布し、ホームページでも公開する予定だ。



■敬語の新しい5分類(「敬語の指針」から作成)



●尊敬語(相手側または第三者の行為・物事・状態などについて、その人物を立てて述べる)

〈行為〉いらっしゃる、おっしゃる、なさる、召し上がる、お使いになる、ご利用になる、読まれる、始められる、お導き、ご出席、(立てるべき人物からの)ご説明

〈物事〉お名前、ご住所、(立てるべき人物からの)お手紙

〈状態〉お忙しい、ご立派



●謙譲語1(自分側から相手側または第三者に向かう行為・物事などについて、その向かう先の人物を立てて述べる)

伺う、申し上げる、お目にかかる、差し上げる、お届けする、ご案内する、(立てるべき人物への)お手紙、ご説明



●謙譲語2(丁重語ともいう。自分側の行為・物事などを、話や文章の相手に対して丁重に述べる)
参る、申す、いたす、おる、拙著、小社



●丁寧語(話や文章の相手に対して丁寧に述べる)

です、ます、ございます



●美化語(物事を美化して述べる)

お酒、お料理


もともと「尊敬」「謙譲」「丁寧」の3分類だったのを5つに分類するという。

こうした指針は、あくまで流動的なものを役所が便宜的に分類しているにすぎないので、以前のものもこれからのものもそれを「正解」と解釈するのは滑稽である。例えば農水省では、樹木の実を「果実」、草の実を「野菜」と分類していて、栗やクルミは「果実」となり、イチゴやメロンは「野菜」となる。明らかに社会常識とはズレているわけで、農水省の役人もその違和感を認識しつつ、とりあえず便宜上にそう分類しているにすぎない。役所でそうなっているからといって、イチゴやメロンを「野菜」と見なすことが「正解」ではない。同様にこの敬語の分類も「役所の分け方」にすぎない。ただ、厄介なのは文科省の指針の場合、学校教育の元締めであるために、ひとつの目安にすぎないものが学校のマルバツ文化の中で「正解」として流通するようになってしまうことだ。試験のときに「参る」を「尊敬語」と答えて赤ペンで「×」をつけられるという体験をすれば、役所の分類にすぎないものがあたかも普遍的真理であるかのように錯覚してしまうだろう。その典型が「文字の書き順」である。もともと文字の書き順は流派によって異なっていて、そのために草書体の崩し方も少しずつ異なる。学校で教わる書き順は、明治期にそうした違いを役所が調整して定めたひとつの目安にすぎない。ところが子供時代に学校で文字を教わりマルバツ式で訂正されるため、たったひとつの「正しい書き順」であるかのように思ってしまう。卒業したら「学校ではそう教わったね」程度に相対化して受けとめるのが良いと思うのだが、学校化社会の日本では、マルバツ式の呪縛はその後もついてまわることが多い。


敬語について、私は「です・ます」の丁寧表現と身分制度に由来する立場の上下を表す表現とは区別するべきで、丁寧表現は「敬語」に入れるべきではないと考えている。さらに身分制度に由来する敬語はすべて廃止したほうが良いとも思っている。以前、知人とその話をしていたとき、相手に「敬語っていうのは尊敬・謙譲・丁寧の三つからなるんですよ」と文科省式3分類が宇宙の法則であるかのように主張されて手を焼いたことがある。その3分類は役所が便宜的に定めているものにすぎないんだよと説明したが、相手は腑に落ちないようだった。学生時代にさぞや優等生だったんだろう。