裁判員制度の是非

今年も裁判員制度の是非を論述問題に出題予定。以前書いたABの主張はどうにも気に入らなかったので、全面的に書き改める。去年の生徒の作文は「エライ人にまかせておけば大丈夫」という無責任なのが多くて読んでいて頭にきたので、今回はBの裁判官批判に重点をおいて書き改める。ずいぶんマシになったと思う。こんな感じ。

【課題】 2009年から日本でも裁判員制度がはじまることになりました。この裁判員制度の導入にあたって、法律の専門家ではない市民が刑事裁判に参加し、被告を裁くことの是非が議論されてきました。この議論は、導入が決定した現在も新聞や雑誌などでしばしば目にします。次のAとBの主張を読み、裁判員制度の是非について、あなたの考えを述べなさい。



A  裁判員制度を導入するべきではない。「国民の声を裁判に反映する」というと聞こえは良いが、世論はしばしば一時的な感情によって流される傾向がある。そうした感情的な「国民の声」が裁判に反映され、判決を左右することになったら、裁判は公正なものではなくなってしまう。とくにマスメディアで大きく報道され、人々の注目を集める大きな事件では、裁判員制度の導入で法廷が被告を吊し上げる場になってしまう危険性がある。このことは、一般の人々のほうが裁判官よりも被告に重罰をのぞむという傾向が出ていることからも明かである。また、陪審員制度を採用しているアメリカでは、どのような人物が陪審員になったかによって判決が左右されてしまうと指摘されており、陪審員の人種構成や政治思想がしばしば問題になっている。裁判官は法律の専門家であるというだけでなく、人を裁くことの重みを自覚し、一時の感情に流されずに理性的に判断できる「プロ」である。裁判を公正なものにしていくためには、そうした資質を持つ裁判官の判断にゆだねるべきであり、むしろ感情的な「国民の声」は意図的に排除する必要がある。たまたまくじ引きで選ばれたというだけの裁判員に、理性的な判断や人を裁くことの厳粛な姿勢は期待できない。こうした裁判員によって裁かれることは、被告にとっても被害者にとっても不幸なことではないだろうか。



B  裁判員制度を導入するべきである。日本の裁判は、裁判官が神様のような立場から、すべてを取り仕切ってきた。しかし、裁判官といってもひとりの人間にすぎない。判断を間違えることもあるし、偏見にとらわれることもある。人を裁くことに慣れてしまい、十分に検証しないまま有罪判決を出してしまう危険性もある。また、裁判官はエリート街道を歩んできた高級公務員であるため、庶民感覚や社会体験に欠け、行政裁判や労働裁判では、行政や企業の側を支持するケースが多い。裁判員制度の導入によって、こうした部分を補い、国民による司法へのチェック機能が期待できる。アメリカの調査では、陪審員のほうが裁判官よりも人を裁くことに慎重になるため、むしろ検察官に対してより高度な立証を求める傾向があることが指摘されている。「裁判員は思いこみや偏見に左右されやすい」という指摘は根拠のないものである。そもそも「裁判官は専門家なんだからすべてまかせておけば大丈夫」という考え方は、無責任であり、民主主義の危機をまねくものである。民主社会の基本原理は、ひとりひとりの能動的な社会参加による「自治」である。この自治の原理は裁判においても例外ではない。先進各国では、すでに裁判員制度陪審員制度を採用しており、日本の裁判を民主的なものにしていくために、国民参加による裁判員制度の導入は不可欠である。法律とは、社会常識に基づくもので、専門家でなくても常識的に判断すれば、納得できるものである。もちろん、裁判員制度が導入されればすべてうまくいくなどということはない。しかし、裁判員制度自体を否定するのではなく、裁判員になったときに公正な判断ができるよう国民の意識を高めていくことが必要ではないだろうか。刑事裁判だけでなく、行政裁判や労働裁判にも裁判員制度を導入するべきである。

Wikiの解説はとても参考になった。裁判官批判の文脈による裁判員制度を擁護する主張が多くみられるが、裁判官に含むところのある弁護士が書いた文章なんだろうか。

 → Wikipedia「裁判員制度」