マイノリティ・レポート

CS放送で「マイノリティ・レポート」を見る。いいかげんな映画。

P・K・ディックの原作は、予言された未来を変えようとする行為のパラドックスについて思考実験を試みているような作品なので、短い話でも印象に残る。ところが、2時間半近い映画になって、主人公のバックストーリーやら未来世界のテクノロジーのリアルな映像描写やらで肉付けされてしまうと、「予言者の託宣によって社会が維持されている未来」という設定が物語世界の核であるにもかかわらず、やけに収まりの悪いものになっている。トム・クルーズ演じる主人公は、警察の「犯罪予防局」のリーダーとして、3人の予言者たちの託宣にしたがって将来おこるであろう殺人事件を未然に防ぐ業務に就いている。主人公らの日々の勤勉な仕事ぶりによって、その世界では凶悪犯罪の発生率0%を実現している。あ、馬鹿らしいって読むのがもう嫌になってきたでしょ、そう、作り手のほうもはじめからそういう世界を馬鹿らしいと思って作っているのが伝わってくる。だから、それを可能にさせている人々の意識や社会のあり方はまったく描写されない。聖なる予言者が厳然と存在し、未来が正確に予言され、その予言によって社会が維持されるという世界では、当然、そこに暮らす人々の考え方や社会のあり方もまた現代とはまったく異なるはずである。その世界の住人たちは、ギリシア悲劇や「LOST」の登場人物たちのように必然的に運命論者であり神秘主義者でなければならない。そうでなければ、未来が正確に予言される不条理な世界とまだ犯してもいない罪で投獄される理不尽な制度なんて成り立つはずがないからだ。

ところが、映画の登場人物たちのメンタリティーや言動は、現代のアメリカ人まったくかわらない。マクドナルドでハンバーガーにかぶりついているそのへんの兄ちゃんたちと同じように、仲間と仕事の愚痴を言い、週末の予定で談笑し、ファストフードを頬張る。異形の聖なる予言者に出会っても、まるで現代人が町でテレビタレントに出会ったみたいににやにやしながら話しかける。なにこれ。その世界が現代と異なるのはハイテクグッズの数々と強権的な官僚機構だけだ。その類型的な未来像は「ロボコップ」みたいな派手な特撮アクションの舞台にはちょうどいいが、見る者になにかを考えさせる入れ物にはならない。そのためストーリーは大幅に改められ、原作が予言された未来をめぐる思考実験なのに対し、映画では上司の陰謀によってはめられた主人公の散漫なサスペンスになっている。主人公は手の込んだ陰謀によって追われる立場になり、逆境を乗り越えて陰謀の首謀者をつきとめ、最後には首謀者を出し抜いてやっつける。その物語では舞台が未来世界である必然性はまったくない。高層ビルの谷間を行き交うハイテク電気自動車も網膜スキャンによるコンピューター管理もこけおどしのガジェットでしかない。むしろ、現代の警察署に置き換えたほうがリアリティーがあるぶん、多少マシになるだろう。そのため、原作では物語世界の核であった預言と預言者の存在も、映画では不可知の聖なる存在ではなく、ハイテク電気自動車と同様にテクノロジーの産物として説明づけられ、当然のごとくラストでは、予言による犯罪予防システムを「非人間的」であるとして否定される。そりゃそうだ。まだなにも起こっていない犯罪について、予言だけを根拠に証拠もないまま逮捕され、死ぬまで刑務所暮らしなんて現代人と同様に合理主義者である登場人物たちが受け入れるはずがない。むしろ、それまでずっと受け入れきたことのほうがよっぽど不思議だ。

一方、原作者のディックはドラッグ中毒の末に晩年は神懸かりになった人なので、本気で聖なる者の存在や予言された未来を信じている。彼は予言で維持される社会のあり方についても否定しない。だから恐い。読みながら目の前の世界がいままでと違って見えてくるような不安をおぼえるし、読み終わったあとも合理的な解釈が拒否され、気味の悪い後味が残る。映画にはそれがまったくない。上司の陰謀が謎解きされていくだけで、映画の入口と出口がまったく同じ場所にあるため、見終わってもあとに残るものは何もない。これはストーリーの大幅な変更というような次元の問題ではない。映画の作り手がディックの原作の核になる部分をはなから否定していて、見る者へ信じさせるつもりもないという基本的な姿勢の問題だ。監督はスピルバーグ。この映画で彼はいったい何をやりたかったんだろう。