右翼と左翼

「右翼」「左翼」という言葉は、政治思想を大ざっぱに把握するのに便利なのでよく使われるけど、あいまいでわかりにくい。あいまいすぎてこの言葉を使うとかえって混乱する場面も多い。教科書的トリビアを書くと、フランス革命時に、王政の存続をとなえる勢力が議会の右側に座り、王政の廃止とルイ16世の処刑をとなえる勢力が左側に座ったことから、保守派を右翼、改革派を左翼と呼ぶようになったことに由来する。このころは対立構造が単純だったのでわかりやすいんだけど、19世紀、20世紀になると、ナショナリズムが高まったり、貧富の差が広がったり、ロシア革命があったり、ファシズムやナチズムが力をつけたりして、強硬な民族主義者を右翼、社会主義者を左翼と呼ぶようになる。このへんからややこしくなる。だって、社会主義は経済的平等をめざすもので、民族主義は民族幻想による国家と個人との強固な一体性をめざすものだから、そもそも対立軸がずれている。熱烈な民族主義者でありつつ、同時に資本の国有化と社会保障の充実をとなえてもべつに矛盾していないし、実際、五・一五事件青年将校なんかはこの立場に近い。さらにスターリンソ連ヒトラーナチスフランコのスペインも全体主義的な社会で、どちらも秘密警察と密告によって個人が監視される警察国家だったという点でなんら変わらない。内戦・革命・クーデターの末にできた政府は、対立勢力を制圧しつづけないと国が維持できないので、マルクス主義を唱えようとファシズムを唱えようと、なんだけっきょくはビッグブラザーが個人の自由を踏みにじる警察国家じゃないかということになる。こうなるといくら大ざっぱな把握とはいえ、右や左という概念は意味がなくなってくる。もう少しすっきりと政治思想を整理するには、国家権力と個人の自由、経済的平等と自由競争、このふたつの軸で考える必要があるんじゃないかと思う。それでも大ざっぱだけど、こんな感じ。

こうして縦軸に政府と個人との関係を入れることで、「右翼」「左翼」とくくられていても、それぞれの中にはまったく異なる考え方が含まれていることが見えてくる。一般的にはどちらも右翼と見なされ、社会主義を敵視しているという点では共通していても、ナショナリズムによる団結と国家権力の強化を唱えるファシストと、「国は放っておいてくれ」という西部劇の登場人物のようなリバタリアンや年の半分を地中海の豪華クルーザーですごす大金持ちのボヘミアンとでは、指向する方向性はまったく異なる。同様に日本やアメリカでは左翼としてまとめてくくられるマルクス主義者と社民主義者も、縦軸の個人の自由という尺度ではまったく違う方向を向いている。フランスでいうと、ルペンがわかりやすいファシスト、ロワイヤルが社民主義者、サルコジがややリバタリアン的なレッセフェールの人ということになる。日本で小泉の人気が高かったのも勇ましいフレーズを唱える彼のリバタリアン的なイメージによるものが大きい。もっともイメージだけで、彼の5年間で日本の国家主義的な傾向はむしろ強化され、変わったのは貧富の差が広がったことと学校がトップダウンの組織になったことだけなのはまあご存知の通り。ただ、軸をふたつにしてもやはり大ざっぱなのは変わらない。例えば私の父の場合、熱烈な軍国主義者でなにかにつけて「日本は悪くなかった」と繰り返していたにもかかわらず、排他的な民族主義天皇制が大嫌いで、在日の人や外国人を見下す発言を聞くと激怒し、さらに社会党支持で労働組合の重要性をとなえるという調子だった。私にはどういう経緯で父がそういう社会観を持つに至ったのかさっぱりわからなかったが、実際にはこういうややこしい人のほうが多いんじゃないかという気がする。むしろ、平和運動フェミニズムに熱心で、社会保障の充実をとなえていてフェアトレード環境保護のためにボランティア活動をしているなんていう絵に描いたようなリベラルな人のほうが少数派ではないだろうか。いちおう各国の政治状況をこの図にあてはめるとだいたいこんな感じじゃないかと思うんだけどどうでしょう。