オンナの痛み


録りだめたドキュメンタリー番組をまとめて半年分見る。その中に上野千鶴子が若い日本画家と対談する番組があった。対談は桜が満開の公園で行われており、今年の春頃に放送されたものらしい。画家はすらっと背の高いはなやかな女性で、彼女の作品はいずれも流れるような描線で傷を負った女性像が描かれている。はなやかな彼女の外見と相反して、描かれている人物には生気がなく、腑分け図の死体を連想させる。見る者にその痛みと冷たさを突きつけるよう。鈍痛ではなくひりひりするような痛み。松井冬子という画家で、彼女の作品は若い女性を中心に支持されているらしい。その作品について、上野千鶴子はこう話す。

 「これはあくまでオンナの痛みであって、「人間の痛み」というように普遍化してほしくないのよね」


上野千鶴子らしい発言だが、これは「日本人ならわかる」というナショナリズムの発想となにが違うのだろう。対談を聞きながらそのことが引っかかる。上野の言葉に、松井は「男性批評家の言葉には違和感を感じる」と応える。しかし、作品を「オンナの痛み」と解釈する時点ですでに普遍化がなされている。私には「オンナの痛み」はわからないが、それと同様に「オトコの痛み」もわからないし、「日本人の痛み」もわからない。直知できるという意味で、「私」に「わかる」のは「私の痛み」だけである。ただ、他者の感覚を類推することはできる。そこには性別も国籍も関係ない。「オンナの痛み」も「北アイルランド人の痛み」も「パレスチナ人の痛み」も類推できる。それらは「私」にとって等距離であり、物理的な隔たりは関係ない。近所の工場で繰り広げられている「製造業中間管理職の人材管理の悩み」よりも、むしろ地球の反対側の雪原で牧畜をしている「サーミ人のトナカイ管理の悩み」のほうに親近感をおぼえる。


男女平等は基本的人権だし、人間は個人として尊重されるべきだし、「オトコのくせに」「オンナのくせに」というジェンダーによって個人の可能性と多様性を否定するべきではない。その点でフェミニズムの主張には全面的に支持するが、この「オンナならわかる」という楽観的な連帯感を聞くととたんに煙に巻かれた気分になる。オンナったってさ、奈良の騒音おばちゃんもいればダルフールの難民キャンプで支援活動しているNGO職員だっているわけでさあ、オンナっていうだけで同じアイデンティティを共有しているかのようにいう根拠はなんなのさ。それは酔っぱらったおっさんたちが居酒屋で「オンナにゃあわかんねえよな」とろれつの回らない声でくだを巻きながら、ホモソーシャルな連帯感を深めているのと同じではないのか。あるいは、ナショナリストが民族的連帯に抱くおめでたい幻想、「やっぱりニッポン人同士」「ニッポン人のDNAに刻まれてる」といったオカルトじみた「わかりあえる幻想」と一緒ではないのか。そのもやもやはふたりの対談を見終わった後も消えることはなかった。


他、ブッシュの石油戦略、アフガンのタリバンの現状、キリスト教原理主義のサマーキャンプの様子、ミツバチの大量失踪事件、ピノチェトファシズム政権の記録などなど半年分を1週間でまとめて見る。HDDレコーダーは便利である。ラジオ番組も同じようにまとめ録りできる機材はないだろうか。

上野千鶴子松井冬子の対談の様子はこちらのブログで詳しく紹介されている。
→ みどりの一期一会