私は貝になりたい

 「私は貝になりたい」のリメイク映画が作られたらしい。TBSのラジオ放送を聞いていたらやけにこの映画が取りあげられていたので、TBSが出資しているんだろう。興味深かったのは、午前の番組の大沢悠里と午後の番組の小西克哉とで視点がまったく異なっていたこと。大沢悠里は日本軍の残酷さと命令した側の多くの者が罪を逃れたことの問題を指摘し、一方、小西克哉は連合国軍による東京裁判がいかにインチキだったかを指摘していた。とくに小西克哉東京裁判のあり方を批判するとともに、獄中の場面で登場する陸軍中将を例にあげ、日本軍人の中には自らの責任と向き合う高潔な人物も多かったと語っていた。へえー小西克哉ってそっち側の人だったのね。



 フランキー堺が主演した映画版のほうは10年くらい前に見たことがある。主人公は四国の田舎町で床屋をしている陽気だが気の弱い男。中年にさしかかっており、妻も子もいる。物語は彼が南方戦線の戦局を伝える新聞記事を見ながら、床屋の客と「まあ、俺みたいな鈍くさい奴には軍からもお呼びはかからないよ」と談笑している場面からはじまる。ところがまもなく、彼のところにも赤紙がやって来る。徴兵され陸軍の訓練所に入るが、気が弱く鈍くさい彼は上官に目をつけられてしまい、徹底的にしごかれることになる。ある日、爆撃機からパラシュートで脱出した米兵が捕獲され、訓練所に連行される。上官は虫の息の米兵を指し、主人公にあいつを殺せと命じる。はじめは躊躇するが、上官の叱責とビンタを受け、彼は狂気の形相で銃剣のついたライフルを握りしめ、捕虜のアメリカ兵に突撃していく。ここでいきなり場面は変わり、戦後の極東軍事裁判の法廷シーンへと移る。主人公は捕虜への虐待と殺害の罪で連合国からB級戦犯として告発されている。裁判は英語ですすめられ、被告の彼には何が話し合われているのかわからない。通訳もいいかげんで、「自分が負わせた傷は浅く、致命傷ではない」という彼の言いぶんは聞き入れられない。十分な検証も行われないまま、彼は残忍で暴力的な人物と見なされ、死刑判決が言い渡される。主人公ははじめは裁判のやり方に憤っていたが、しだいに自分の人生と人間の社会に絶望するようになっていく。最後に彼は、もし生まれ変わっても人間にはなりたくない、どうしても生まれ変わらなければならないのなら、人間とは関わりのない深い海の底で貝になりたいという言葉を残して、絞首台へ導かれていく。



 フィリピン・バターン半島での捕虜虐待事件や泰緬鉄道建設での強制労働など、当時の日本軍による捕虜のあつかいのひどさについては、日本よりもむしろ欧米でよく知られている。第二次大戦でドイツ軍の捕虜になった連合軍兵士の死亡率が4%なのに対し、日本軍の捕虜になった連合軍兵士の死亡率は30%に達する。もちろんその背景には、敵兵への憎しみをあおる精神訓ばかりが軍隊内で強調され、捕虜へのあつかいの教育など行われていなかった日本軍の体質の問題がある。ほとんどの将兵は、捕虜のあつかいを定めたジュネーブ協定の存在すら知らなかっただろう。映画に登場するサディスティックな上官はどこの部隊にもいて、なにかというとビンタが飛んだというのは、兵隊を体験した人々が口をそろえて言うことだ。また、さらにより大きな背景として、個々人の良心・理念より、場の雰囲気と組織の論理が人々の行動を規定する日本社会の問題も指摘することができる。日本人の感覚では、命令絶対の軍隊内で主人公のとった行動を罪には問えないということになる。悪いのは時代や社会であり、主人公はその犠牲者であるという認識である。だからこそ、この物語は多くの共感を集め、くり返しドラマ化されてきた。たしかに主人公の身に起きた出来事は悲劇的だし、死刑判決に合理性は見いだせない。でもはたして主人公はイノセントな存在なんだろうか。映画を見ながら、ちょうどそのころドイツで行われていた旧東ドイツ兵士の裁判を思い浮かべた。被告の兵士は東西分断時代の東ドイツベルリンの壁の警備を担当し、1962年に東側から西側への逃亡者を射殺した罪で告発された。被告の行為は、人口の流出を防止する東ドイツ政府の政策に基づくもので、また、命令絶対の軍隊内での行為である。もし逃亡者に向けたライフルの引き金を引かなければ、職務怠慢ということで軍事裁判にかけられ、なんらかの処分を受けていただろう。映画の主人公同様に彼の行為を罪に問うのは酷な気もする。だが、その兵士は有罪になった。執行猶予つきの判決で実刑ではなかったが、非人道的な国家体制の「共犯者」として、責任があるとされた。責任は社会や組織ではなく、立場と権限に応じて個人が負うというわけである。この裁判は射殺された青年の名前から「フェヒター裁判」と呼ばれている。当時、日本でもずいぶん報道されたので、記憶にある人もいるかもしれない。フェヒター裁判については、次のブログで事件と裁判の経緯がくわしく紹介されている。

 → 伽羅創記「2007/09/18 ベルリン −追記」



 それにしても解釈は人それぞれとはいえ、この映画から日本軍の非人道性ではなく日本軍人の高潔さを読みとったという小西克哉の発言は驚きである。たしかに東京裁判は不備が多く偽善的だが、問題の本質は日本の植民地支配の直接の被害者であるアジアの人々ぬきで戦勝国が裁判をすすめたことにある。もしかしたら、「私は貝になりたい」のリメイク版はオリジナルとまったく違う内容になっているんだろうか。