いたい棘いたくない棘

何冊かまとめて大島弓子の漫画を読む。十数年ぶりのことだ。

大島弓子のマンガは、主人公が女の子か男の子かによって、物語の構成が大きく異なっているのが特徴的だ。 女の子の主人公たちが「攻め」で自ら事件を巻きおこしていくのに対して、男の子の主人公は「受け」で他者の事件に巻き込まれることでストーリーが展開していく。作品数からいうと圧倒的に女の子を主人公にしたものが多い。なんせ「少女マンガ」なんだから、主人公が女の子であるほうが読者は感情移入しやすいに決まっている。主人公の女の子たちは、みな純情で夢見がちでエキセントリックな不思議ちゃんたち。たぶん作者自身の分身でもあるんだろう。彼女たちは散文詩のようなモノローグによって物語の世界を規定し、周囲の者たちの言動に違和感をいだき、やがて自らの体当たりの行動によって事件を起こす。彼女の事件は周囲を巻き込み、互いの関係性や思いを変えていく。そのキャラクター造形とプロットは、「赤毛のアン」から綿々と続いている少女向け作品の基本路線で、いかにも少女マンガ的だ。初期の多くの作品をはじめとして、代表作の「綿の国星」や「いちご物語」もみんなこのバリエーションといえる。この突撃型のストーリーでは、主人公のまなざしに寄りそって物語が展開していく。「綿の国星」のチビ猫が少女の姿をしているのが象徴しているように、それは主人公のまなざしの物語といえる。読者には主人公への感情移入と共感が求められるため、昔も今も少女ではない私にとってこの構成はかなりつらいものがある。彼女たちのつむぐモノローグに感情移入できないと、途端にストーリーの単調さと主人公の独善が目について物語の世界が色あせてくる。

一方、男の子の主人公たちは、周囲の者たちの奇妙な行動や事件に振りまわされる受け身の存在として描かれる。少年マンガによくある短気でけんかっ早い少年とそれをあたたかく見守るお姉さん的少女という関係は、ここでは完全に逆転する。たいていの場合、彼らはその年齢にそぐわず、穏やかで思慮深い。彼らは冷静に状況を見ている観察者であり、ときに手を差しのべる保護者でもある。周囲の者たちの奇妙な言動に振りまわされてやれやれとため息をつき、戸惑いながらも他者の物語に寄りそい、その物語を支えようとする。彼らは主人公ではあっても、その物語世界の中心にはいない。その世界では他者のまなざしがより強く投影され、場合によってはその物語世界そのものが他者の世界である。もちろん主人公は作者の分身ではないし、読者にも主人公への過度の感情移入を求めない。モノローグによって語られる点では変わらないが、主人公のまなざしはひとつの覗き口にすぎない。そきでは複数の視線が交錯することによって物語世界に厚みが生まれ、ストーリーの切り返しが生まれる。主人公のキャラクターよりも物語の構成で読ませていくスタイルで、読後の手応えは圧倒的にこちらの方が充実感がある。男の子が主人公の作品はあまり多くないが、「いたい棘いたくない棘」「草冠の姫」「ジギタリス」「ロングロングケーキ」「夏の夜の獏」など優れた作品がそろっている。とくに「夏の夜の獏」は演劇的な仕掛けが際立っている。代表作である「綿の国星」にしても、主人公のチビ猫がもちまえの行動力によって周囲を巻き込みながら事件をおこしていく突撃型のストーリーよりも、時夫・おとうさん・おかあさんといった周囲の者たちのまなざしが前面に出ている作品のほうが面白い。後期の作品ほど須和野一家の登場する機会が少なくなるが、むしろ、チビ猫を一歩引いた狂言回しの位置において、須和野一家の事件や時夫とひっつめの恋愛模様を描いたほうが物語に広がりが出たんじゃないかと思う。



なーんてことを思ったんだけど、まわりに大島弓子の読者がいないし、誰もこういう話につきあってくれないので、ひとまずこうして覚え書きとしてまとめておくのであった。Webのファンサイトをいくつか覗いてみたが、感情移入型の読者が多いようで、男の子が主人公の作品はあまり人気がないようだった。