YouTubeにマンガの新刊をアップロードしていた中学生が逮捕


NHKラジオのニュース解説で、YouTubeにマンガの新刊をアップロードしていた中学生が逮捕されたことを取りあげていた。番組には著作権で儲けている人間ばかりが出演し、著作権保護がいかに重要か熱弁をふるい、もっと取り締まりを強化しろ、YouTubeは無法地帯で利用者も運営者もモラルがなってないという論調で番組はすすむ。番組のネット配信まで有料にしているNHKらしいといえばNHKらしい。それにつられてか、リスナーからのメールまで、もっと規制を強めろ、利用者の年齢制限をしろというものばかり。たしかに著作権のある作品を権利者に無断でアップロードするのは著作権法違反だけど、私はそう目くじらをたてるほどのことではないと思っている。まず、Youtubeをはじめとした動画サイトは、ダウンロードがいらいらするほど遅い。とても高解像度の動画をダウンロードする気にはなれない。さらに、動画はせいぜい十数分くらいしかないので、長めの作品は必ず細切れになってしまうので、YouTubeの動画を見てもつまみ食いをした程度の満足感しか得られない。だから、YouTubeを見て気に入った作品は、CDやDVDを買うなり、専門チャンネルで見なおすなりする。そういう気にならず、YouTubeでもういいやとなるのは、その程度の作品にすぎないということだ。だから、海外のドキュメンタリー作家やテレビ局は、しばしば自ら作品をYouTubeにアップロードしている。それを見て気に入ったらDVD買ってねということなんだろう。私の好きな「CBS 60 minutes」も番組Webサイトで放送済みのバックナンバーをずらっと公開しており、放送時に見逃した人はどうぞ、資料用にダウンロードしてもいいよというスタンスをとっている。もちろん視聴もダウンロードも一切料金は発生しない。視聴者の利便性という点では、こちらの姿勢のほうが圧倒的に正しい。何十年も前のドラマをDVD化して儲けたり、ネット配信まで有料にしているNHKの囲い込み商法とはえらい違いである。ちなみに、公共性の高いテレビの地上波放送にまでスクランブルをかけているのは、世界中で日本だけである。



以前、「立ち読みは犯罪です」という張り紙を本屋で見かけたことがある。笑わせんじゃねえよ。表紙だけを見て買うか買わないか判断しろっていうんじゃエロ本自販機といっしょじゃねえか。ある程度本屋で読んで、気に入ったら買うというのが本を買うときの基本的な行動のはずである。本屋へ行く楽しみの半分以上は立ち読みの楽しさであって、そのついでに本を買うのである。だから、ヨーロッパの本屋には、たいていイスが置いてあって、ゆっくり店内で読めるようになっている。日本でも、都心の気の利いた本屋にはイスが置いてあって、そんな居心地の良い本屋を見つけるとやはりうれしい。それこそが本屋のあるべき姿ではないのか。気難しい顔をしたおやじがはたきを振りまわしながら立ち読み客を追い払うようなけちくさい本屋は、今後十年以内にすべてアマゾンに駆逐されるだろうし、また、駆逐されるべきだと思っている。町中の本屋が唯一アマゾンよりもすぐれているのは、実際に本を手にとって紙の匂いをかいだり紙の感触を味わったりしながら立ち読みができることにある。その唯一の長所を放棄してしまったら、もはや町の本屋に存在意義はない。出版不況のせいで、出版社まで立ち読みに神経質になっているが、数十分立ち読みをしたくらいで中身がわかってしまうような薄っぺらい本ばかり作っているほうが悪い。なにかと著作権を盾にして、ユーザーや消費者のモラルを攻撃するのはお門違いである。



グレイトフル・デッドは、もう20年以上前からコンサート会場へのカメラや録音機器の持ち込みを自由にしてきた。コンサート会場には、録音したい人たちのためのマイクコーナーまで用意されていて、演奏を勝手に録音してもいいし、それを勝手にネットで流してもいいよという姿勢をとっている。デッドのメンバーであるヒッピーおじさんたちにとっては、だってそんなの取り締まるのめんどくさいし、音楽なんてもともとタダなんだからさあというところなんだろう。だから、ネット上にはファンの録音したデッドのライブ音源や動画が大量に出まわっている。で、デッドはその大量の海賊版(禁じられてるわけじゃないから「私家版」というところかな)によって何か損失をこうむったのか。そんなことはまったくない。むしろ、ファン同士の交流をうながすことで集客効果を上げ、デッドのライブは常に満員だった。再結成されたザ・デッドも同じで、コンサート会場はヒッピー世代のおじさんおばさんからネット世代の若者まで幅広いファン層を集めている。近頃では、ネットでファンの撮影した動画を見たのをきっかけに新たにデッドヘッズが生まれ、今度は自分もライブでという循環をつくっている。デジタルデーターがネットでやりとりされる社会では、パッケージ商品よりも一回限りのライブ演奏のほうがはるかに大きな価値を持つ。デッドのこのやり方は、ネット時代のひとつのモデルケースではないかと思う。