人間のクローンは倫理的に問題だけど羊や牛のクローンづくりはかまわないという考え方は変だよ


 生命倫理の授業を担当するとき、毎年、必ず出題している問題がある。こんな問題である。

 クローンをテーマにクラスで話し合っているとき、生徒のひとりが次のように言い出しました。



 人間のクローンづくりは倫理的に問題があるけど、羊や牛のクローンづくりはかまわないという考え方は変だよ。人間のクローンづくりが倫理的に問題だって言うのなら、羊や牛のクローンづくりだって倫理的に問題があるはずだよ。羊も牛も人間も同じ命であることには変わりないし、動物たちにも意志や感情だってある。動物たちの命を「食料資源」や「実験材料」としか見なさない考え方は、人間の思い上がりじゃないかな?



 この問いかけについて、あなたの考えを述べなさい。(300字以上)
 出題は毎年同じだが、この問いかけから考えることは毎年違う。今年は、試験後の解説文にこんなことを書いた。

 この文章の「羊も牛も人間も同じ命」という主張、言っているのはたぶん優しい人なんだろうと思います。ただ、「すべての生命は平等」ということになると、お肉も食べるのも、庭の草むしりも、ゴキちゃんに殺虫剤を吹きかけるのも、「虐殺」ということになってしまって、人間の生活が成り立たなくなってしまいます。なので、すべての生命は平等という考え方は、少々極端ではないでしょうか。

 しかしその一方で、「人間は地球の支配者なんだから何をやってもいいのだ」という主張も、やはり極端すぎて、賛成する気にはなれません。おそらく、この両極端の間に現実的な選択肢があるのではないでしょうか。

 個人的には、すべての動物実験やクローン動物づくりを禁止しろとは思いませんが、たとえばサルの脳に直接電極を刺してその反応を観察するような残酷な実験については、いくら科学研究のためであっても禁止するべきだと考えています。また、授業で見たスーパーサーモンのような、食糧増産のための遺伝子組み換え生物の製造についても基本的に反対です。現代の社会において、飢える人々がでるのは、食料の絶対量の不足のためではなく、先進国と途上国との富のかたよりのためです。この南北問題の解決こそ優先課題であって、それが解決しないかぎり、いくら遺伝子操作でスーパーサーモンやスーパーチキンを開発したところで、農作物の遺伝子組みかえと同様にバイオ産業がもうかるだけで、飢える人々はいなくならないはずです。
 いまはこんな事を考えている。よくスーパーや八百屋に、その野菜の生産者である農家のおじさんやおばさんの名前と顔写真がついていて、「私がつくりました」と書いてある。もしも、精肉コーナーのところに、牛や豚の顔写真が貼ってあって、「私のお肉です」と書いてあったら、精肉コーナーに立ち止まった消費者はそれをどう受けとめるのだろうか。「悪趣味だ」と怒るのだろうか。食欲がなくなったとげんなりするのだろうか。それを見て泣きだすこどもがいたりするんだろうか。それとも出所がはっきりしていることから「食の安心」と受けとめて、喜んで買うんだろうか。では、なぜそれを悪趣味だと思うんだろうか。その人は、野草を摘んだことも山菜を採ったこともなく、ましてや自分で鶏をしめたことも魚をさばいたこともなく、パッケージされた食品のみを「食べ物」という概念でとらえているんだろうか。それとも、牛に「私」という自己認識があるということに戸惑っているんだろうか。しかし、言うまでもなく動物にも自己認識はあり、判断能力もある。あるいは、肉を食べるときには、それが生きていたときの姿を思い浮かべてはいけないという暗黙のルールがあり、写真の掲示がその社会常識を破っていると腹をたてているんだろうか。しかし、そんな偽善的なルールがあることを私は聞いたことがない。アフリカや西アジア遊牧民たちは、生きている羊の背中をさすりながら、「こいつはうまそうだ」とその日の「ごちそう」をつくりはじめる。大したもんだと思う。そもそも、牛の写真を見たくらいで食欲が失せるような精神の持ち主は、はじめから肉なんか食べるべきではない。にもかかわらず、日本にベジタリアンはほとんど存在していない。代わりにあるのが食肉業者に対する蔑視である。ずいぶんといびつである。そう考えていくと「私のお肉です」という写真がもたらす動揺の理由がわからなくなる。わからないので、また機会があったら、この問いかけを再び出題する予定である。