八月恒例の戦争報道


毎年、八月になるとテレビでは戦争関連の番組が放送される。ヒロシマナガサキ被爆体験、東京大空襲の体験、元学徒兵の話、サイパン島アッツ島での玉砕、特攻隊員の証言、シベリア抑留のつらい体験などなど、今年はとくに多かった気がする。そうしたドキュメンタリー番組では、きまってそれを体験した人たちがカメラの前で当時の状況を語り、そのひとりひとりのつらい体験を通して、人道主義的な立場から、戦争の愚かさと平和の大切さが呼びかけられる。その番組構成を悪いとは思わないし、それ自体を批判するつもりはない。ただ、「戦争の体験」として取りあげられるのがきまって日本人の被害体験であるという点は気になる。日中戦争と太平洋戦争によって、数百万人の日本人が死んでいったが、その一方で数千万人のアジアの人たちを殺している。「戦争の体験を語り継ぐ」というのならば、日本軍の侵略を体験したアジアの人々の声にも耳を傾けなけないと戦争の全体像はとらえられないはずである。しかし、連日のように放送された戦争関連のドキュメンタリーの中に、中国や東南アジアでの虐殺事件を取り上げたものはひとつもなかった。同様に、朝鮮半島での過酷な統治も強制連行による奴隷労働も731部隊による人体実験の様子も泰緬鉄道での奴隷労働もなかった。日本人にとって八月の戦争報道は、自分たちがひどい目にあったこと「だけ」を思い返す年中行事なのかもしれない。



日本人の戦争体験で問題なのは、被害については、ひとりひとりのつらい体験が人道主義的な立場から語られるのに対して、加害の問題になるととたんに視点は180度変わり、国際政治や軍事戦略といったマスの視点のみによって解釈しようとすることである。そうしたマスの視点から加害が語られることで、日本軍による虐殺も過酷な植民地支配も奴隷労働も「戦争だから仕方なかった」で片付けられていく。そこには、日本の侵略によって、アジアの人たちひとりひとりがどういう目にあい、いまどう思っているのかというパーソナルな視点はない。そうして「やられたこと」と「やったこと」とを分け、別の文脈で語っているかぎり、戦争の体験からなにかを学ぶことなどできるはずがない。もしもそこから得られる教訓があるとしたら、「次は負けない」ではないのか。



たしかに戦争体験をめぐる被害と加害とのあいだの意識のズレは多くの国で見られる。誰だって自分たちが悪者にされるのは愉快なことではない。アメリカでは、パールハーバーの奇襲やノルマンディー上陸作戦やバターン半島での日本軍による捕虜虐待といった出来事については、それらを体験したひとりひとりのパーソナルな視点からそのつらい思い出が語られる。その一方で、原爆投下や東京やドレスデンの無差別爆撃については、軍事戦略の問題で片付けられ、その犠牲になった人たちがどういう目にあったかに目を向けることはない。だから、ほとんどのアメリカ人はキノコ雲の下で被爆者たちがどういう目にあったのかすら知らない。1995年のスミソニアン原爆展をめぐってアメリカで大きな論争になったのは、それまで軍事戦略上の問題としてのみ語られてきた原爆投下について、被爆者たちの体験を紹介し、人道上の問題として原爆投下の是非を考える文脈を示したためである。すなわち、原爆投下が日本の無条件降伏をうながし、日本本土での地上戦を回避させ、結果としてそれ以上の戦死者を出さずにすんだという主張は、軍事戦略的な解釈では正しいかもしれないけど、だからといって小さなこどもたちもふくめて十万人も無差別に焼き殺したことは、人道的には大きな問題をはらんでいるんじゃないの、それにもし同じような状況になったらアメリカはまた同じように核兵器を使うの、という問いかけである。それは核兵器の問題の本質を突く問いかけだが、第二次大戦に参加した退役軍人たちとっては、自らの正当性を否定されることにもなりかねない。彼らは展示会に対して「アメリカを侮辱する内容」として猛反発し、その結果、スミソニアン原爆展は中止に追い込まれた。こうした世論の傾向はイギリスでもフランスでも同様で、ナチス占領下のつらい体験や東南アジアでの日本軍による強制労働の体験が語られることはあっても、彼らの植民地支配の弾圧によって、地元の人たちが体験したことへパーソナルなまなざしが向けられることはない。



加害に目を向けるのは後ろめたさをともなう。「やられたこと」には共感し涙を流せても、「やったこと」によってひどい目にあわされた人たちには感情移入するのがむずかしくなる。とくにナショナリズムを強く抱き、国家に自己投影している人たちには、まるで自分が批判されているような印象をもたらす。そのため、戦争の加害を取りあげるテレビ番組では、彼らからの強い反発に配慮し、ただひたすら「客観的」に、つなぎ合わされた記録フィルムによって出来事だけを羅列する内容になる。被害者たちの個人的な体験が失われた番組構成は、たとえ番組制作者にその意図がなかったとしても、結果としてよりいっそう「戦争だから仕方なかった」というマスの視点からの解釈を強化することになる。東京の大空襲はおじいさんやおばあさんの「つらい体験」であっても、中国・重慶での無差別爆撃は客観的に解釈されるべき「国際政治の問題」とされる。そもそも、東京は「空襲」で、重慶は「爆撃」と表記されること自体、視点の使い分けが現れている。しかし、そのズレがあるかぎり、いくら戦争の体験が語られても空虚なものでしかない。また、ズレがある以前に、加害について報道されること自体がほとんどない。加害の歴史を取りあげると保守派は自虐的な歴史認識だとして批判するが、知らないのでは歴史認識をどうこういう以前の問題である。被害と加害とでメディアのあつかいにこれほど差があると、広島や長崎で被爆者がどういう体験をしたのかをやたらと詳しく知っていても、その一方で、日本が無差別爆撃をしたことも虐殺をしたことも捕虜や地元の人たちに強制労働させたこともまったく知らないという人は多いのではないかという気がしてくる。