頭の中の地図

 自分の頭の中にある地図では、阿久悠の歌と中島みゆきの歌に登場する人たちは同じ町に暮らしている。東京や大阪のような大都市の住人ではないが、伝統的な村落共同体の住人でもない。ローカル線に揺られていくとたどりつく地方都市で、二時間も歩けば町の端から端までたどりつくくらいの小さな町の住人たちだ。町の中心部には少しうらぶれた繁華街があって、そこでは若い沢田研二がやけにギラギラした目つきで壊れたピアノと戯れていたり、一見純朴そうな顔をした新人歌手がキャバレーの客に歌いかけていたり、わかれ歌を歌う女が道端で酔いつぶれていたり、その女を振った伊達男が売れっ子ホストとして名をあげていたり、仕事の上がったボーイとホステスが夜明け前の吉野家で牛丼をビールで流し込んでいたりする。学生街の安アパートでは、同棲生活を解消した若い男女がふたりでドアを閉めていて、そのアパートの並びにある貧乏学生のたまり場の喫茶店では、学生たちが夜遅くまで恋愛話や政治談義に花を咲かせている。小さな商店街の突き当たりにはローカル線の駅があり、深夜のホームでは、仕事に疲れた若い男が次の最終列車に乗ってこのままふるさとへ帰ってしまおうかと思いつめた顔で線路の向こうを見つめている。線路の向こう側には国道が通っていて、パチンコ屋の並びにあるスナックには、少し前からヒッピー暮らしのアザミ嬢が住みついて、常連客たちに奇妙な味のハーブティーと密造酒を振る舞っている。少し離れた港町には、マリーという名の女がいまも五番街のアパートに暮らしていて窓から港をぼんやり見ている。


 どちらも一幕物の芝居のようにある人たちのある瞬間の情景を切り取った歌が多いからなのか、あの時代の記憶のせいなのか、少しうらぶれていて少しいじけていて少し感傷的なイメージを思い浮かべる。夜、行き先も確認せずにローカル線に飛び乗り、てきとうな駅でその四両編成のやけに揺れる汽車を降りると、そんな町にめぐり会えるような気がしている。本当に行きたかどうかは別にして、いまもどこかにそんな町はあるように思っている。


 最近の中島みゆきの大げさな歌い方が苦手だ。「ロックっていうのは、悲しいできごとを楽しく歌う音楽なんだよ」、ボビー・アン・メイソンの小説「インカントリー」で登場人物のひとりがそう話す。それはロックだけでなく、悲しい出来事ほど軽やかに、思いを込めた言葉ほど彼方からのまなざしで歌にのせてほしいと思う。彼女の自己演出過剰なわざとらしいしゃべり方も竹中直人ゆうこりんといい勝負というか、三人の中でも中島みゆきが一番重傷に見える。演技しないと話すこともできないんだろうか。30年前、深夜のラジオ放送で喋っていた彼女は陽気なお姉さんに思えたけど、なんでああなってしまうんでしょうねえ。あんな時代もあったのさときっと笑って話せる日はいつかくるんでしょうか。