山の神様

年末に友人宅の猫が死んだ。家族で犬や猫を飼ってるなら、あいつも長生きしたねと皆でその死を受けとめられるものだが、ひとり暮らしの友人は、もう十五年もマンションの一室で猫との一対一の関係をつづけてきた。全部ひとりで背負い込んでいるためにその不在を受けとめられないといった様子だった。彼女の猫は、この十五年間、一歩も室内から外へ出ることはなかった。2Kのフローリングの空間が世界のすべてで、夜遅く飼い主が帰ってくるまで、動くものが何もない中で毎日のほとんどの時間を過ごしてきた。そのせいか、動くものを見れば飛びつき、新聞紙やコンビニ袋ががさがさ音をたてれば前肢で押さえ込み、ときには自分の尻尾を追いかけてぐるぐる走り回るといった有様で、いくつになってもまるで生きるすべを知らない仔猫のようだった。その様子は姿形は猫でも、むしろ水槽の中を回遊している小さな魚や回し車の中でからから走っているハムスターを連想させた。昔うちにいた大きなとら猫や隣家の床下に住みついていたやせた野良猫は、いつも生きる力にあふれていた。藪に入ってはドバトやアオダイショウを狩り、定期的になわばりをめぐってはどこに何があるかを確認し、床下で仔猫たちを育て、人間や他の猫と出くわしたとき、どう距離をとり、どう対処すればいいのかよく理解していた。彼らが自信に満ちた様子で悠然と裏庭を歩いていく姿は、まるで山から下りてきた神様のようだった。高校生だった私は、彼らの暮らしぶりを見ていると自分の無力さやふがいなさを思わずにはいられなかった。山の神様は丸い頭をなでられると嬉しそうに目を細めたが、仔猫みたいにじゃれたりはしなかった。逆になでているこっちの方がおいしっかりしろよと背中をたたかれているような気がした。私は長年、猫というのはそういう生きものだと思っていたので、いつまでもやや様のような友人宅の猫がおよそ猫とは別の生きもののように思えた。猫のほうも私には最後までなつかなかった。



ペット斎場で焼いてもらった後もべそべそ泣いている友人に、死んだ猫のことを時々思い出しながら酒を飲むのも良いもんだよと話す。きっとあいつも死んで山の神様になったはずだ。