1989年 バルト三国にて

1989年、リトアニアの首都ヴィリニュスに64体の遺体が空輸された。50年前、スターリン強制移住によってシベリアへ送られた男たちが、今度はゴルバチョフペレストロイカによって祖国への帰還が認められたのだった。彼らは過酷な労働でシベリアへの強制移住後まもなく死亡し、約半世紀の間、永久凍土の中で眠っていた。そのため、空輸された棺の中の男たちはみな若いときの面影をそのままとどめている。しかし、棺の前で泣き崩れる妻たちには、はっきりと50年の歳月が刻まれている。深いしわと曲がった腰、白くなった髪。棺の中の男たちは、戦後のリトアニアで妻がどのように生きてきたかを知らないまま、無邪気な若者の姿で眠っている。母親に付き添っていた息子は、自分よりも若い父親の姿を不思議そうに見つめていた。



「百万本のバラ」という歌がある。女優に恋をした貧しい絵描きがかなわぬ思いをバラの花に託し、家財を売り払って集めた赤いバラの花で町中を埋め尽くそうとする歌である。マゾヒスティックな歌詞で私はあまり好きではないが、日本では1980年代半ばに加藤登紀子が歌ってヒットした。たぶん古いシャンソンロシア民謡が元になっているんだろうと思っていたら、実際は1982年にソ連で流行ったポップスだそうでそう古い歌ではない。ただ、このロシア語の歌にはさらにオリジナルがあって、前年にラトビアで作られた歌が元になっている。この「マーラ(マリア)が与えた人生」というタイトルのラトビア語盤には、まったく違う歌詞がつけられている。「こどもの頃、泣かされると、母に寄り添ってなぐさめてもらった、そんなとき母は微笑みを浮かべてささやいた、神は娘に命を与えてくれたけど幸せはあげ忘れた……」。そんな娘の幸せへの願いが歌われている。以前、「世界ふれあい街歩き」というテレビ番組を見ていたら、この歌を作詞したというおじさんが出てきて、この歌はラトビアの歴史をひとりの娘の人生にたとえて歌っているんだよと話していた。周りの国々の思惑に振り回され、大国に支配されてきた小さな国の悲しい歴史の歌なんだと。

→「マーラが与えた人生」 ラトビア語の歌詞と解説、原曲のMP3ファイル



1989年、バルト三国では、「人間の鎖」というデモが行われた。ソ連からの独立と言論の自由を求めるこのデモは、エストニアラトビアリトアニアで同時に行われ、あわせて約200万人が参加したといわれる。通りに出た人々は互いに手をつなぎ、バルト三国を横断する600kmにおよぶ鎖をつくった。バルトの人々の連帯を示すその行為は、ソ連の戦車隊の侵入を拒否する意思表示でもあったのかもしれない。ハンガリー動乱プラハの春の時と同じように再び戦車隊が投入され、軍によるデモの制圧が行われるのか、連日テレビニュースはバルト海の小国の緊迫した状況をトップニュースとして報道しつづけた。結局、クレムリンは軍事制圧を断念し、バルト三国は東欧革命と呼応して独立の道を歩んでいった。圧政に抵抗して立ち上がる人々の姿は常に胸をうつ。ただ、難しいのは、安心して暮らせる自分たちの国がほしいという願いは、しばしば自分たち「だけ」の国がほしいというナショナリズムに飲み込まれてしまうことだ。実際に第二次大戦下のリトアニアでは、親ナチス民族主義政権によって、20万人のユダヤ人が虐殺されている。その数は当時リトアニアに暮らしていたユダヤ人の9割にものぼる。哲学者のレヴィナスはそのわずかな生き残りのひとりだ。虐殺はナチスの圧力に屈して嫌々やったわけではない。リトアニア人「だけ」のリトアニアを建設するためには、ユダヤ人は排除すべき異分子だったのである。このころのバルト三国では、親ナチス民族派と親ソ連共産党員との間で権力の綱引きが繰り返されていて、民族派が権力を握れば、ユダヤ人の虐殺と共産党員の弾圧が行われ、共産党が権力を握れば、共産主義に批判的な人々は「人民の敵」として刑務所かシベリアでの強制労働が待っていた。それを思うと「圧政に抵抗する民衆」というナイーブなイメージは、おとぎ話の中のものに見えてくる。ソ連からの独立をはたしたバルト三国では、再び民族主義的な政策がとられており、ソ連時代に移住してきたロシア系住民を追い出すため、独立から20年がすぎたいまも彼らに国籍を与えていない。

→ Wikipedia「人間の鎖」

→ Wikipedia「リトアニアにおけるホロコースト」