高校の受験予備校化

 大学入試でのネットを使ったカンニングはおきるべくしておきたという印象。それにしても大学入試は、知ってれば解ける暗記中心の問題ばかりがあいもかわらず出題されている。私は受験指導にはまったく興味ないが、仕事の関係上、いちおうセンター試験の出題くらいは目を通す。するとそこには、なんだこれ、俺が高校生だったころも同じような問題があったぞというのをちらほらと見かける。まるで数十年ぶんの時間が止まったような錯覚をおぼえる。ネットで検索すれば情報なんていくらでも引き出せる時代に、ただ知ってるだけのクイズみたいな知識なんて意味がないと思うんだけど、こんなんでいいのかいな。


 少子化が進んで受験競争は以前ほど激しくなくなってるはずなのに、高校の受験予備校化はますます進行している。近頃では公立高校でも、「受験指導を最優先しよう」「有名大学への合格者を増やそう」がすっかり職員室での合い言葉になってしまった。たしかに、有名大学に何人合格したかで高校を評価する価値基準はずっと以前からあった。ただその一方で、受験はあくまで学んだ結果であって生徒の個人的イベントなんだから、授業の目的が受験対策になってしまったら本末転倒だろうという認識が教師にも生徒にもあって、それが歯止めになっていたんだけど、もはや本音も建て前もないという状況。バブル崩壊後の長引く不況の中で、カネ儲けの手段としての進学は大手を振ってまかり通るようになり、中学と高校は受験予備校、大学は就職予備校というのが、すっかり日本社会での位置づけになったようだ。勤務先の廊下に張ってある大学のポスターには、研究内容でもゼミの様子でもなく、「就職支援が充実」「現役就職率98%」と就職支援ばかりがアピールされていて、これ本当に大学なのって感じ。来年度から授業を受け持つことになった学校からも、「ぜひ、入試に対応できる授業内容でお願いします」とのことで、少々気が重たい。「入試に対応できる内容」というのは、要するに教科書をなめるように解説しろってことだ。もはや、このWebサイトに書いてきたようなディスカッション形式の授業なんて、どこの高校でもお呼びじゃないのかもしれない。そろそろ本気で転職を考える時期に来たような気がする。


 そういえば、三年くらい前、ノルウェーにあるインターナショナル・バカロレアの高校に留学しているという女の子からメールが来たことがある。彼女は日本の高校の「ここは毎年センター試験に数多く出題されている箇所だからよくおぼえておくように」なんていう授業ばかりがくり返される毎日にうんざりして留学を決めたとメールに書いてあった。彼女のバカロレアの学校についての話の中で、授業は常に「Why」が中心になって展開されるという話は印象的だった。歴史では出来事のこまかい流れや用語をおぼえるよりも「なぜそうなったか」が議題の中心になり、数学や物理では公式をおぼえるよりも「なぜその公式が成立するのか」を説明するよう求められるという。「それまで公式の意味なんて考えたことがなかったので新鮮でした」と言っていた。そういえば私は、円の面積がなぜ「円周率×半径×半径」の公式で出るのかいまだにわからない。円周率を「3.14」にするか「3」にするかなんてことよりも、こちらのほうがずっと本質的な問題のはずである。メールに添付されていたバカロレアの学校の授業風景は、世界中から集まった若者たちがコの字型に机を並べた教室でディスカッションしていた。「英語ははじめ大変だったけど授業は楽しいですよ、大学もバカロレアの資格を取ってこっちの大学に行くつもりです」と彼女はいっていたが、その後どうしているだろう。学費はけっこう高そうだけど。
→ Jinkawiki「国際バカロレア」


 ついでに以前Webに書いた「飛び入学」についての文章をすこし書き改めた。課題の中に議論のたたき台として書いた文章は、私の考えです。生徒たちはちっともほめてくれないけど、自分ではわりとうまく書けたつもりです。
→ 飛び入学と飛び級


 文面は以下の通り。

【課題】 日本で飛び入学飛び級を積極的に導入することの問題点を指摘した次の文章を読み、あなたの考えを述べなさい。(800字)


 2000年からはじまったOECDの国際学力調査では、北欧のフィンランドが毎回1位になっているため、フィンランドには、日本をふくめた世界各国から大勢の査察団が訪れている。フィンランドの学校に受験競争はほとんどなく、クラスの中でも、生徒同士の競い合いよりも、コミュニケーションと助け合いのほうが重視されている。そのため、授業では、その科目の得意な生徒が他の生徒に教える場面をしばしば見かけるという。授業内容は調べ学習とその発表、生徒同士のディスカッションが中心になっている。そのぶん、生徒たちは、放課後や休日に図書館や博物館へ行って自ら調べ、レポートを作成することになる。


 こうしたやり方の背景には、学ぶことは自らの視野を広げ、生き方や心を豊かにするという価値観が広く定着していることがある。自分自身のために学んでいるという意識が強いので、学力に問題があると教師から指摘された場合には、生徒自ら留年を希望するケースも多い。留年することは恥ずかしいことでもペナルティでもなく、あくまで自分にあった教育を受けるためのひとつの手段と認識されており、周囲からも「落ちこぼれ」とは見なされず、むしろ「意欲がある」として教師やクラスメイトから評価されるという。


 自分を高めるために学んでいるという認識は、フィンランドに限ったものではなく、北ヨーロッパ社会全体に定着している。親の仕事の都合でオランダで暮らすことになり、地元の中学校に入学した日本人の女の子の体験談にこんな話がある。その子は日本の中学では優等生だったが、オランダでは言葉の壁からいくつかの科目で成績がふるわず、担任から留年をすすめられた。お母さんは「うちの娘が留年させられるなんて」とショックを受け、担任に猛抗議。ところが、こどもが同じ学校へ通っているお母さん仲間のオランダ人女性から、こう言われたという。「あなた、それはラッキーよ、せっかくの機会なんだから、学校をもっと活用しなきゃ損するわよ、娘さんが十分に理解していないのに進級させたらかわいそうよ」。つまり、学校は図書館と同様に無料で利用できる公共サービスのひとつであり、学ぶ機会として積極的に活用しなければ損だというわけである。日本とのあまりの価値観の違いに、日本人のお母さんはカルチャーショックを受けたという。こういう社会ならば、飛び入学飛び級も「自分を高めるひとつの選択肢」として受けとめることができる。


 しかし日本では、他のアジア諸国アメリカと同様に、学校教育を学歴を得るための手段、競争に勝ち抜いて高い社会的地位や収入を得るための手段とみなす傾向が強い。OECDの国際調査でも、日本の若者は「科学的発見への興味関心」をたずねるアンケートで際だって低い数字が出ている。この調査結果は、日本の若者に学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さを体験している者が少なく、「受験のための手段」として勉強しているという状況をあらわしている。学力の国際的な順位よりも、こちらの興味関心の低さのほうがはるかに深刻な問題である。


 日本の学校の最大の問題は、受験競争を若者にたきつけることだけが唯一の学ぶ原動力になってしまっているという点である。中学や高校では、受験を目的にカリキュラムが組まれ、学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さは後回しにされている。それは日本の学校から学歴の効果を取りのぞいたら中身は空っぽだと学校自ら認めているようなものである。


 科学実験で有名な米村でんじろうさんは、以前、都立高校の物理教師をしていたが、授業でも、段ボールの空気砲やプラコップの蓄電器を使った実験をやっていたところ、学校側や保護者から「そんなくだらない実験はやめて、もっと受験に役立つ授業をやってくれ」と苦情が殺到し、教師を辞めてしまったという経歴の持ち主である。しかし、そうした実験は直接受験に役立つことはなくても、世界を見るまなざしそのものを変える力を持っている。不思議に思ったことを自ら推論し、実験を通して検証していく体験は、長い目で見れば、ただ暗記しただけの受験知識よりも物事の考え方にはるかに大きな影響をもたらすはずである。米村でんじろうさんのような人が学校の先生として評価されない社会というのは、根本的にまちがっているのではないだろうか。


 逆に受験から開放された大学では、学生たちはいままでの反動で、学問研究よりもサークル活動や合コンに多くの時間を費やすようになる。日本の大学生の勉強時間は国際比較でも極端に短く、日本の大学生が勉強しないことは世界的にも知られている。近年では、学生の私語と学習意欲のなさのために、授業が成立しない大学まであるという。また、大学3年生になると、学生の多くは就職活動のためにほとんど授業に出席しなくなり、大学側も就職実績を上げるために就職の決まった学生を無試験で卒業させている。現在の日本の大学は実質的に「就職予備校」でしかなく、景気が悪くなると、きまって学生の就職率ばかりが話題になるのもそのためである。


 自ら調べ、考えることの楽しさを体験せず、受験のために詰め込んだ知識は、受験が終わるとともに失われていく。論理的な考え方や科学への関心が日常生活の中に根づくこともない。マスコミでは、「若者の学力低下」や「理科ばなれ」ばかりが話題になっているが、実際には、成人向けの国際学力調査では、日本はほぼすべてにおいて最下位であり、こちらの数字のほうが際だっている。おとなたちにとって、若者批判は自分を省みずに無責任に発言できるため、その批判の声はしばしばメディアを巻き込んで大きな社会現象となる。しかし、おとなは若者のなれの果てであり、両者の姿は密接に結びついている。自らが血液型占いを信じているにもかかわらず、その一方で「若者の学力低下はけしからん」「技術立国日本の将来が危うい」などと声高に批判しているこっけいなおとなたちが日本には大勢いるはずである。


 「学校でなにをどう学んだか」よりも、「どこの学校を出たか」のほうが重視される社会では、学ぶことの目的と手段が逆転する。進学や成績は学んだ結果ではなく、それ自体が目的であり、学ぶことのほうがその手段となる。このような日本社会で、飛び入学飛び級を大規模に導入し、東大をはじめとしたエリート大学で飛び入学生を積極的に募集するようになれば、それは「自分を高めるひとつの選択肢」とは認識されず、むしろ「人よりも先に進む手段」としていっそうの進学競争をあおることになるはずである。実際に国をあげて英才教育をおこない、エリート育成のための国立高校まで設置した韓国では、受験競争の過熱が社会問題になっている。韓国はソウル大学をピラミッドの頂点とする学歴社会であり、受験競争が学ぶ原動力になっている点で日本とよく似ている。


 すでに現在、日本の高校生は学力別に序列化された高校へ振り分けられており、学力の低い高校では、多くの生徒が「どうせ自分は」という挫折感を抱いている。さらにアメリカや韓国で行われているような大規模な飛び級飛び入学が導入され、進学競争の過熱とよりいっそうの学力による振り分けが行われた場合、競争の敗者にはよりいっそうの挫折感と社会への不満を、勝者には次は負けるかもしれないという不安からさらなる競争をもたらすだろう。その競争は生涯にわたってつづき、「受験のため」「就職のため」「リストラされないため」「こどもの受験のため」「老後のため」とひたすら将来の不安にそなえることになる。こうした社会では、競争に勝った者も負けた者も自分のことだけで精一杯になり、お互いに助け合って共に社会を支えていこうという意識は失われていくはずである。このような日本の状況では、大規模な飛び級飛び入学を導入することは、むしろ問題のほうが大きいのではないだろうか。


*  → Wikipedia「米村でんじろう」
   → 米村でんじろう サイエンスプロダクション
** → 論考空間「教育は科学を正しく教えているか」