あちら側の世界


テレビとラジオはすっかり通常番組に戻って、出演者のみなさんは「いやあ大変な災害と事故でしたね」と過去形で語っている。そうか、あちら側の世界では、震災地の復旧も原発事故もとっくに済んだことになっているのか。まったくもってうらやましいかぎりである。ちなみに、こちら側の世界では、震災から半月すぎてもあいかわらず事態は現在進行形で、何万人もの人たちが避難所暮らしを続けているし、原発事故は一向に収束の気配のないまま放射性物質を出し続けている。きっとテレビとラジオの世界では、こちら側とはまったく違う状況になっているんだろう。


災害復興も放射能汚染もとっくに解決したあちら側の世界では、いまもっぱら話題になっているのは、「自粛ムード」についてである。さすが人気稼業のタレントさん、うかつなことをいってパブリック・イメージをそこねたら命取りだってことをよく理解している。すっかり震災も原発事故も過去のものになったあちら側の世界では、あとは人からどう見られるかだけを気にしてればいいらしい。さすが中身は空っぽ、じゃなくって、気くばり上手なのである。私も見習いたいものである。気くばり上手のみなさんは、自粛ムードが自慰行為にすぎないというあざやかな心理学的分析をしてみせると、その次にはきまって、もっと景気よくお金を使わないとますます経済が停滞してしまうというするどい経済学的分析を披露するのである。さすが学のある人たちは言うことがちがうと感心しきりである。


ちなみにこちら側の世界では、人からどう見られるかなんて高尚なことを気にする状況ではなく、日々事態だけが進行していく不気味さに圧倒されて、ときどきブラックな冗談を発するのが精一杯である。とても日本経済の将来など気にかけている余裕はない。あちら側の知的でエレガントなブルジョワジーたちとは、こういう事態になっていなくてももともと別世界の住人だったのかも知れない。


すっかり平穏を取り戻したテレビとラジオの世界でも、なぜか停電だけは現在も進行中らしく、「被災地の復興のために節電を心がけよう」「被災地で困ってる人たちのためなら首都圏の停電なんてどうってことない」とさかんに呼びかけている。どうやらあちら側の世界では、首都圏の停電や節電は震災地のために行っているらしい。友愛に満ちた世界のようで、これまたうらやましいかぎりである。Yes 友愛!なんてね。こちら側の首都圏が被災地の東北からも電気を分けてもらっているのとは大ちがいである。心優しいブルジョワジーの世界では、そもそも発電システム自体がちがっていて、放射能をまき散らすような野蛮な発電所なんてはじめから存在しなかったのかも知れない。


ちなみに、こちら側の世界では、首都圏の停電は被災地のためにやっているのではなく、たんに東京電力による電力供給量が不足しているために仕方なくやっているのである。こちら側の世界には、野蛮な発電所と原始的な発電所しかないので、放射能をまき散らしたり、津波で壊れたり、火事で焼けたり、止まったりしてる状態なので、電力会社の総発電量が首都圏の電力需要に追いつかなくなっているのである。そのために停電と節電を余儀なくされているだけなので、強いて言うなら、自分たちと東京電力のためにやっているというところである。また、電力の不足はあくまで日中のピーク時に供給量が追いつかないというだけなので、夜間に街灯を消したって危険なだけで節電の意味はない。たぶんあれは原発の必要性をアピールするためのデモンストレーションなんだろう。友愛に満ちたあちら側の世界とはちがって、こちらは官学民複合体の巨大電力産業「ビッグブラザー」が支配する世界なのである。なので、これだけ大事故をおこしても「節電して原発をやめよう」とはならず、節電も停電もあくまで「ビッグブラザー」を助けて、自分たちの生活を維持するために行われている。そんな殺伐とした世界に住んでいる私には、あちら側の人たちがあたたかい心で節電を呼びかけていても、どうせ本音はプロ野球をはやく開催したいだけなんだろとついつい疑念がわいてしまうのである。こっちは毎日停電なのに山手線の内側だけはナイターでプロ野球かよやってらんねえぜまったくよう、なんて。我ながらそのあさましさに赤面の至りである。


また、あまり知られていないみたいだけど、こちら側の世界では、放射能をまき散らしている野蛮な発電所は、はるばる福島県から首都圏へ送電するための発電所だったのである。なので、「被災地のために電気を節約しましょう」の発言には、とくに地元福島の人たちはカチンとくるようだ。あたりまえである。地元の電力供給にはまったく役に立っていなかった野蛮な発電所のせいで、放射能をまき散らされて避難を余儀なくされたうえ、首都圏の人間から恩着せがましく「みなさんのためにがんばって節電しますっ!」なんて言われたら、誰だって胸ぐらつかんでえいやっと背負い投げをかましてやりたくなるだろう。これもなぜかあまり知られていないみたいだけど、いま福島でおきているのは電力不足ではなく放射能汚染なのであって、福島では電気も放射能も余っているのである。もっともあちら側の世界では事情がまったくちがうみたいなので、福島県民の神経を逆なでしてる人たちは、きっとこちら側の事情をよく知らないんだろう。


勝間和代毎日新聞のコラムで「被災地支援のために節電」と呼びかけている。こちら側の世界では完全に事実誤認で福島県民から背負い投げをかまされそうだけど、自己啓発本を大量生産している彼女は、もちろんあちら側の世界の知的なブルジョワジーのはずである。彼女のような才気あふれる経済評論家が万が一にもそんな初歩的な誤認をするはずがないので、きっとあちら側の世界では、震災復興はとっくに済んで、野蛮な発電所はそもそもはじめから存在せず、あとは少し電気のたりない東北地方に送電すればいいという状況になっているんだろう。もしかしたら、すでにSFドラマのように、ボタンを押すだけで水や食料も電気の力で作り出せるようになっているのかも知れない。ならば、節電による余剰電力の送電は、被災地への最良の支援活動である。さすが日頃から「ロジカルシンキング」を提唱しているだけあって、こういう社会が混乱しているときでも彼女の論理的思考は冴えわたっている。被災地支援のためにまず節電を呼びかけるなんて、まるで電力会社のまわし者、じゃなくって、私には思いもつかない柔軟な発想でただ恐れ入るばかりでなのある。

→ 毎日新聞3/16 勝間和代のクロストーク「被災地支援への考え、思いを」