永六輔その新世界


震災からこの三週間、永六輔のラジオ番組はすごくいい。

ときに震災復興やボランティアのあり方について熱く語り、ときに原発報道に皮肉を言い、ときにゲストをからかいながら冗談を言う。永六輔はそれらをすべて自分の言葉として発する。ニュース解説のように客観的事実を語るのではなく、その事件を自分の側に引きつけ、自分と社会との接点を見いだしつつ、ぼやき、怒り、笑う。もちろんそのすべてが鋭い洞察や深い考察というわけではない。誤解もあれば一面的すぎる解釈もある。ただ重要なのは永六輔がそれを自分の中で咀嚼し、自分の言葉で語っているということだ。それはなかなかできることではない。

何万人もが津波にのまれた大惨事を目の前にして、ラジオのトーク番組で自分の言葉を発するのは、きっと想像以上に心理的重圧がかかるはずだ。だから、たいていの人は匿名性の仮面にかくれて、取って付けたような発言をする。また、自分の言葉で語るといっても、彼のように日本各地をまわってボランティア活動に関わってきた経験がなければ、現在の社会状況を自らの体験に引きつけて中身のある言葉にはできないだろうし、ユーモアと話術がなければただ陰気なだけの放送になってしまうだろう。いまのようなときこそ語り手の力量が問われる。

多くのトーク番組やバラエティ番組では、地震津波原発事故もまるでなにもなかったかのように進行する。それはあまりにも不自然だ。それらはすでにおきてしまって、その中で我々は暮らしているんだから。その一方で、「このたびの大震災による被災者のみなさまにおかれましては」と取って付けたようなコメントもたびたび流される。そこには語り手のパーソナリティーが見えてこないので、神妙にすればするほど仮面をかぶっているようで白々しい。まるで葬式のときの市議会議員の電報だ。すでに我々の日常は、何万人もが津波にのみこまれ、原発放射能をまき散らしていることと地続きにある。そのことをパーソナルなまなざしからどう表現できるかが芸人やタレントの話術ではないのか。神妙な顔で「がんばれニッポン」などと言うよりも、そのとき隣にいた人間と自分はどうしたのかを話すほうがずっと意義があるはずなのに。

永六輔のラジオ番組は出演者もリスナーもやたらと平均年齢が高いので、ふだんの放送では「最近の若い者は」と年寄りたちのぼやき放送になってしまってなんだかなあということも多いが、いまのような社会情勢でこういう番組づくりができるのは彼の底力だと思う。今日のゲストは林家二楽大橋巨泉林家二楽は震災後の寄席でのドタバタぶりを語り、巨泉は福島原発による国際便の混乱ぶりとニュージーランド地震について語る。やはりそこからは彼らのパーソナルな体験をとおしていまの社会状況が見えてくる。自分の無力さを神妙に語る林家二楽に、リスナーから「そのわりにはテレビでAKBの女の子たちと共演して楽しそうでしたね」とファックスが送られてきてしどろもどろになり、永六輔にさんざんからかわれる。一方、巨泉は「いま震災復興のチャリティーイベントやるなら大相撲だろ、社会的信用っていうのはただじっとしてたって回復なんかしないんだよ、なにやってんだよ日本相撲協会」と押しの強さはあいかわらず。巨泉が出てくると永六輔はもっぱら聞き役に回る。


TBSラジオ「土曜ワイドTokyo 永六輔その新世界」
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