宮台真司はいつから反原発になったのか


神保哲生宮台真司がやっている「Video News Network」というネットテレビが福島原発事故についてのトーク番組を無料公開している。


Video News Network 2011年03月25日「あえて最悪のシナリオとその対処法を考える」
http://www.videonews.com/on-demand/511520/001784.php


番組には京大原子炉研の小出裕章が電話出演し、現在の福島原発の状況について、原子炉の専門家としての見解を示していたりと内容はなかなか充実している。ただ、気になるのは、宮台真司の発言である。彼はいつの間に原発に反対の立場になったんだろう。番組の中で宮台真司は、ドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックのリスク社会論を引用しながら、次のような趣旨の発言をしている。

 現実の社会のリスクというのは、大丈夫か大丈夫じゃないかというものではなく、常にある程度のリスクをはらんでいるものです。ただ、リスクっていうのは「折り込める」からリスクなんです。でも、原発のリスクは社会に折り込めない。予測不能、計測不能、収拾不能、つまり原発のような巨大なリスクは、社会システムとして対処不可能なものです。そういう対処不可能なものを社会に持ち込むべきではない。少なくとも、大丈夫か大丈夫でないかというような考え方をしているような社会には、原発のようなものをつくる資格はない。


ふーむ、宮台センセー、弁が立つなあと感心します。私もウルリッヒ・ベックのリスク論に賛成で、原発のように算定不能なほど巨大なリスクをもたらす社会装置について、「原発事故より道を歩いていてクルマにはねられる確率のほうがずっと高い」というような確率論から正当化する主張には意味がないと考えている。


しかしその一方で、宮台真司は二年くらい前のTBSラジオで、欧米の「原発ルネサンス」の動きを取りあげ、日本も原発を積極的に評価するべきだという趣旨の発言をしていたはずである。当時、地球温暖化問題と原油価格の高騰を受けて、原発ルネサンスと呼ばれる原発再評価の動きがあった。ドイツでは脱原発の方針をやめて、再び原発推進に舵を切り、長年新たな原発建設をやめてきたアメリカでも、再び原発建設をはじめた。ブッシュからオバマになっても、「グリーン・ニューディール」の一環として、原発建設を推進している。温暖化問題に本格的に取り組むなら、原発推進は不可欠というのが国際的な流れになっているのに、日本では、脱原発でふたたび火力発電にもどるのか、再生可能エネルギーで電力需要をまかなえるのか、まったく今後の見通しがたっていないという論調で日本のエネルギー政策を批判していた。


それはまるで「原子力発電はクリーンエネルギー」という電力会社の広告のようで、いまにして思うと悪い冗談にしか聞こえない。彼は外交問題から性表現規制までなんにでもコメントをする。その発言は理路整然としていて考え方の参考にはなるが、彼の主張自体にはうなずけないことが多い。その原発ルネサンスのコメントも、おいおい環境対策のために原発増設かよ、核廃棄物はCO2よりずっと厄介なのにと苦笑したおぼえがある。ところが、上記のネットテレビの彼は、ずっと以前から原発に反対していたかのような口ぶりで、原発を受け入れてきた日本社会のあり方について批判を展開している。いったいどうなってるんだろう。私には、今回の福島原発事故をきっかけに、突如として彼が原発批判をはじめたようにしか見えないんだけど。もっとも、福島原発の大惨事があっても、なお、原発の安全性をとなえている評論家たちよりはずっといいが、なんだか釈然としないものが残るのだった。


→ Wikipedia「宮台真司」
→ Wikipedia「ウルリッヒ・ベック」


*追記(2012.7/17)

先日、「ビデオニュース・ネットワーク」を見ていたら、宮台氏、自分は数年前まで原発推進の立場だったと話していました。私の記憶ちがいだったんだろうかと思いかけていたところだったので、個人的にはもやもやがはれました。ただ、どういういきさつで考えを変えたのかまでは語っていませんでしたので、そのへんの事情をあきらかにしているものをご存じの方がいたら、教えていただければと思います。

あと、下のコメントにも書きましたが、こうした問題はどれだけ深く考えているかが重要なので、立場を変えること自体については批判されるべきではないと思います。ひたすらぶれずに原発反対の立場をつらぬいていようと、それで思考停止に陥ってしまっているのなら、なんら自慢にはなりませんから。