諸行無常


授業で原始仏教について解説する。日本の仏教は中国経由で輸入されたので、仏教用語にはやたらと四文字熟語が登場する。「諸行無常」や「諸法無我」のようなおなじみの用語から、「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」なんて耳慣れない用語まで、見てるだけで嫌になるようなおどろおどろしい四字熟語がこれでもかというくらい出てくる。おまけに教科書には憶えろと言わんばかりにそれらが太字で列記されている。しかし、重要なのはその概念のほうであって、漢字の字面ではない。そもそもゴータマは漢字文化圏の人ではない。


ゴータマの思想はいたって明快である。この世界は常に変化しており、不変の存在も単独で存在する実体もない。にもかかわらず、人はそれを直視しようとせず、永遠不変のものを求めようとする。しかし、それはどこまで行ってもかなえられることがないので、欲望は際限なくエスカレートし、かなえられない欲望が人に苦しみをもたらす。だから、執着を捨て、変わりゆく世界を直視して、受け入れろと言う。彼は弟子たちに神々に祈るなと説く。神々に長寿や幸福を願うことも欲望であり、現実から目を背ける行為だという。また、彼は私を拝むなと弟子たちに諭す。この世界の有り様を見つめることが悟りへの唯一の道であり、私を拝んでもなにも解決はしないと。「祈るな、よく見て考えろ」という彼の言葉は、信仰のあり方としてはあまりにも過酷だ。だが、原始仏教は信仰なんだろうか。彼は、目で見て、手で触れて、心で感じられるものがこの世のすべてであり、人間の知覚を超えた形而上の存在については、論じても意味がないという不可知論の立場をとる。だから、彼は奇跡も起こさないし、呪術も行わないし、神秘的な言葉であの世について語ったりもしない。神の奇跡も超自然的な力も存在しないこの世界で、無力な人間がよりよく生きていくためにはどうすればいいのかを言葉を積み重ねながら説いていく。よりよく生きるための思索は、今も昔も自らの無力さを自覚するところからはじまる。強く念じれば山を動かし雷を呼べるという全能願望をいだいているかぎり、よりよく生きる教えなど意味を持たない。古い教典がどこまでゴータマの言葉なのかはわからないが、そこから浮かび上がってくる人物像は、生まれたときに「天上天下唯我独尊」と言ったとか、座禅を組んで空中浮遊したとか、同時に何カ所にも存在したといった逸話とは相容れない。それらは彼を偶像化するために後に創作されたものだろう。ゴータマは奇跡をおこさないからこそ、すぐれた思想家なのだと思う。


ゴータマの平易で明快な言葉は、中国を経由するととたんにデコラティブな熟語で装飾される。「ニルヴァーナ」という心安らかな状態を表す言葉は、中国の学僧によって「涅槃寂静」というおどろおどろしいテクニカルタームに置き換えられ、すべての物事は互いに関連し合って存在しており、単独で存在する実体はないという概念は、「諸法無我」というもっともらしい四文字で表記される。それは中国の学僧たちによる知の囲い込みであり、権威づけである。さらにそれを輸入した日本では、漢字で書かれたものこそが「学問」であるという文化状況の中で、よりいっそう特権階級による知の囲い込みと権威づけがすすむ。庶民には理解できない漢文の教典は、教えの内容ではなく、権威によって「ありがたいもの・りっぱなもの」とされる。人々には意味がわからないのだから、教典の内容が密教神秘主義的な宇宙論を説いていようと、ふたりの妻をもつ男の顛末を語ったやたらと下世話な教訓話だろうといっしょであり、僧侶がしかめっ面をして難しい漢字のならんだお経をとなえれば、みなありがたいということになる。そうして、祈るなと説いたゴータマの教えは、言霊信仰の国で奇跡をおこす呪術と同化し、空海は神通力で山を動かし、日蓮は魔法の呪文で嵐を遠ざけ、やがて救いを求める祈祷となっていった。魔法の呪文はむずかしくてわからなければわからないほどありがたみが増す。だから、祈りの言葉は庶民には理解できない漢文の教典によってとなえられ、いまだにその慣習はつづいている。しかし、すべての人々の救済を目指すはずの教えが人々には理解できない言葉で説かれるというは、ずいぶんと人を馬鹿にした話である。


同じことは中世カトリック教会の説教にもあてはまる。祈りの言葉は庶民には理解できないラテン語でとなえられ、信仰と知識は特権階級によって囲い込まれた。人々には言葉がわからないのでやはり話の内容は関係ない。権威主義によるこけおどしが「ありがたみ」という劇場のイドラを演出する。教科書のやたらめったらテクニカルタームを太字で表記する手法も、そうした愚民思想の末裔に見える。憶えろと言わんばかりに用語が太字で表記された文章は、かえって内容の理解をさまたげる。重要なのは概念の理解であり、テクニカルタームは理解のための補助にすぎない。本来ならば概念の解説こそ太字で表記されるべきで、テクニカルタームのほうは、豆知識として下に小さく注釈をつけておけばいいという程度のもののはずである。ましてや入試問題で、それをあらわす四文字熟語を正しく漢字で書きなさいなどという出題を見かけると、その志の低さにめまいがする。そういう出題者は、大学をやめてクイズ番組のライターにでもなったほうがふさわしいのではないかと思っている。