オーパ!

 テレビで、開高健の魚釣り回想録のような番組をやっていた。開高健は、晩年、「オーパ!」という魚釣り紀行のエッセイシリーズを続けていたが、番組では、当時の記録映像にかぶせて、それに参加した人たちが当時のエピソードや開高の人間性について語るという構成だった。


 開高健は陽気で冗談好きの愉快なおっさんだった。いっしょに酒を飲んだり魚釣りをしたりすればさぞや楽しいだろう。ただ、それだけの人間にしか見えなかった。博学というより衒学的、すぐれた洞察というより底の浅い半可通、彼の語る「文明」や「民族」や「野生」は、19世紀の西洋中心主義そのもので、その文明観から語られる日本人論はあまりにも粗雑で類型的だし、聞きかじった動物生態学の知識から人生訓を語る様子は似非科学そのものだった。その様子は、毒にも薬にもならず、19世紀的博物学の世界で遊んでいるだけの無邪気なおっさんでしかない。おそらくレヴィ=ストロースを読んだことすらないのだろう。ところが、番組に登場する人たちやナレーションは、そんな他愛のない開高健テーマパークを「巨大魚との死闘」「過酷な自然と向かい合う」「ただひたすら釣り竿を振る」「そこには人間性への鋭い洞察がある」と大げさな調子で持ち上げる。まるで川口浩探検隊サントリーのコマーシャルである。番組に登場した編集者は、そのまま文章になるような言葉がいくらでもあふれてくると彼の話し上手に驚嘆していたが、私には、深く考えていないからいくらでも言葉が出てくるようにしか見えなかった。学生時代に食堂でビールを一気飲みしてから、おもむろにレポートを書きはじめる奴がいたが、人間は思考力が低下したほうが饒舌になるのである。


 番組の冒頭で開高健ボードレールの「ここではないどこか」という言葉を引く。日々の暮らしが煮詰まったとき、たいていの人は「ここではないどこか」を思い描く。それは近代文学の普遍的なモチーフである。しかし、出版社や広告代理店の人間をぞろぞろ引き連れての大名行列でアマゾンのピラルクベーリング海のハリバットを釣り上げたところで、「ここではないどこか」へ彼がたどり着けたとは思えない。むしろ、それはどこまでもついてくる「いま・ここ」を確認するための作業だったはずだ。地球は丸く、地平線の彼方には、こことはちがう風景と人々の暮らしがどこまでも連続的に広がっている。西洋文明の外側には世界の果てがあると思っていた19世紀ヨーロッパの人間とは異なり、現代の我々にはもう逃げ場はない。社会システムの網の目は世界の隅々まで張り巡らされ、「いま・ここ」は、いつどこにいてもついてくる。開高健が「命がけで釣り上げた」ということになっているハリバット(オヒョウ)にしても、現代の市場経済においては、回転寿司で「ヒラメ」と称してぐるぐる回っているおなじみの寿司ねたにすぎない。そもそもハリバットと命がけで格闘しているのは、凍てつくベーリング海で生活のために日々網を引いている漁師たちのほうであり、彼の行為はそのごっこ遊びにすぎない。もし、開高健があの魚釣り紀行によって「ここではないどこか」への憧憬がかなえられると本気で思っていたのだとしたら、ずいぶんとおめでたい話である。