リンゴのイデア

 先日、授業でプラトンイデア論について解説した。プラトンは、理性によってとらえられる永遠・普遍・絶対の概念こそがこの世界の本質であり、感覚によってとらえられる不完全で流動的な世界はその概念世界の影にすぎないという立場をとる。


 私はこのイデア論がどうしても理解できない。はじめてその考え方に触れた高校生のとき以来、ずっとわからないままである。たとえば目の前にある花を美しいと思う心の作用は、イデア論では次のように説明される。


目の前にあるひとつの花を「美しい」と感じる
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目の前の花を通じてイデア界に存在する「美そのもの」にふれたからこそ「美しい」と感じる
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永遠・普遍・絶対の概念世界であるイデア界がこの世界の本質である
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絶えず変化している感覚世界には完全なものは存在しない
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不完全な感覚世界はイデア界の影にすぎない
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感覚世界にある「美しい花」もイデア界にある「美のイデア」の影にすぎない
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人間の理性もまたイデア界にあるので、花を見てイデア界にある美の本質を想起することができる


 というしくみである。いかにもギリシア的な理性主義の世界像である。では、目の前にリンゴがひとつあるとする。赤くて丸くてつやつやしており、見るからに美味しそうなリンゴである。このリンゴを見て「美味しそう」と思うのも、イデア界に「美味の本質」があり、我々は目の前のリンゴを通じて、イデア界にある「美味の本質」を想起するからということになる。イデア界は永遠・普遍・絶対の概念世界ということになっているので、「美味のイデア」も個人な好みや文化的な差異を超えてすべての人にあてはまらねばならない。たとえ、生まれてから一度もリンゴを見たことのない人であっても、ひと目リンゴを見るなり「美味」を想起しなければならないはずである。アマゾンの密林で狩猟生活をしている人たちも、北極圏でアザラシ猟をしている人たちも、その赤くて丸い物体を見たとたんに「うまそう」と思わねばならないはずである。イデア界にある本質は理性によって想起されるものなので、文化や生活習慣をこえて誰もがその赤くて丸い物体から「美味」を想起するはずである。そんなことってありえるんだろうか。私にはひどくばかげた考えかたに思える。それはポリスの市民以外をすべて理性の欠如したバルバロイと見下していた連中の傲慢な世界像ではないのか。わざわざリンゴをアマゾンの奥地や北極圏へ持って行って検証してみようという気がまったくおきないくらい、ばかげている。


 また、プラトンはしばしば幾何学を例にあげ、幾何学的概念がイデア界に存在することを主張する。中期の著作である国家論では次のように語られている。

「それなら、つぎのことも知っているだろう?彼ら(幾何学の研究者)は、目に見える形象を補助的に使用し、この形象について論証をおこなうのであるが、彼らが思考をはたらかせて知ろうとしているのは、これら目に見える形象のことではなくて、これらを類似物とする原物についてなのだということは。つまり彼らは、そこに描かれている四角形や対角線のために論証をおこなっているのではなくて、四角形そのもの、対角線そのものを論じているわけであり、その他の場合もまた然りである」
            世界の名著7・プラトンII 中央公論社 より

「それ(幾何学)が知ろうとするのは、つねに<あるもの>のそれであって、特定の時に特定の形で生成したり、亡びたりするものの認識のためではないという点だ」
「それは、誰だってすぐに承認するでしょう。幾何学が認識するのは、つねに<あるもの>のそれですからね」
「したがって、すぐれた友よ、それは魂を真実性へと引っ張っていくものだ、ということになろう」
            世界の名著7・プラトンII 中央公論社 より

 「つねに<あるもの>のそれ」ねえ。ひどい文章だが、言ってることは要するに、砂の上や紙の上に描かれた「平行」は、どんなに慎重に線を引いても完全ではないが、我々は完全な平行を概念として思い描くことができる。また描かれた「円」は、コンパスを使ってどんなに慎重に描いても歪んでいるが、我々は完全な正円を概念として思い描くことができる。それは「平行」や「円」の概念がイデア界に「あらかじめ存在している」からというわけである。太さをもたない「線」を概念化できるのも、面積をもたない「点」を概念化できるのも同様である。しかし、数学は一種の言語であり、記号化された抽象世界である。平行線が永遠に交わらないのも、正円の曲率が完全に一定なのも、そういう約束事になっているからにすぎない。だから、数学的記号として完全な概念があるからといって、感覚世界の事物についても同様に完全な概念を思い描けることは意味していない。砂の上に描かれたいびつな円から完全な円を思い描けるからといって、リンゴを見て同じように「完全なリンゴ」の概念を思い描けるわけではない。経験世界の事物については、赤いリンゴ、青いリンゴ、黄色いリンゴ、大きなリンゴ、小さなリンゴ、丸いリンゴ、いびつなリンゴ、虫食いのリンゴといった無数の個別のリンゴが思い浮かぶだけであり、抽象化された完全なリンゴの概念など存在しない。ひとつのリンゴを見て、「リンゴそのもの」も「美味そのもの」も想起するのは不可能であり、私には言葉遊びをしているようにしか見えない。


 私の理解はいつもここで止まってしまう。だから、プラトンイデア界と感覚世界との二元論の立場をとろうと、「善のイデア」こそが最高のイデアであり「イデアイデア」だと主張しようと、「今週のラッキーカラーはグリーン」と言われるのといっしょであり、だからなんだよとしか言いようがない。根拠を示さないでいいのなら、「この世界は9次元だ」とか「人間の心は12次元だ」とか「あの世は15次元だ」とか、怪しげな仮説はいくらでもたてられる。しかし、それらはどんなにもっともらしい言葉でディティールを補強しようと「今週のラッキーカラー」となんらかわらない。思想は言ったもん勝ちではないはずである。あまりにもわからないので、学生のころ、哲学の先生に上記のリンゴのたとえを説明しながら、プラトンがなにを根拠にイデア界と感覚世界の二元論の立場をとったのかを尋ねたことがある。するとその先生は怒りだし、オマエはテキストをありのまま理解しようとせず、はじめから批判的に解釈しようとするから的外れなことを言い出すのだという。たかが学部生の分際で偉大なるプラトン先生にケチをつけるなんて百年早いと思ったのだろう。1980年代半ばの大学は教授をヒエラルキーの頂点とするカースト社会で、私の周囲の学生たちは哲学研究室のことを「クレムリン」と揶揄していた。しかし、私はアカデメイアに入塾したおぼえはないし、プラトン教団に入信したわけでもない。私にとってプラトンの言葉はけっしてありがたい経典などではなく、どれほど偉大な思想家の著作だろうと、疑問や批判をぶつけながら自分の側に引き寄せて検証していかなければ、思想研究など時間の無駄である。「ああそうか!」と膝を打つような体験もなく、その考えにふれたことで目の前の世界が違って見えるような体験もなく、ただ思想史のカタログづくりをしているような研究など、じじいが盆栽にはさみを入れているのとかわらない。そう私が言うと、先生はさらに激怒し、大げんかになってしまったことがある。私はあくまで一般論としてそう言ったのだが、先生は自分への批判と受け止めたようだった。実際にその先生がじじいの盆栽いじりのような研究をしていたかどうかはわからないが、自分が間違ったことを言ってるとは思えなかったので、訂正も謝罪もしなかった。おかげでいまだにイデア論については納得のいかないままである。ただ、こうしたことをディスカッションしながら検証していくことこそ、哲学の授業のあるべき姿だという考え方はいまも変わっていない。思想は常に批判にさらされながら検証されるべきものであって、テキストをありがたい経典として祭り上げる行為はただの思考停止にすぎない。


 というわけで理解していない者に解説される生徒たちは災難である。生徒たちに悪いので、教科書の内容をひととおり解説した後、自分はイデア論を理解していないし納得もできないと白状し、このイデア論では、経験世界の事物がどのように概念化されると解釈できるのか生徒たちに尋ねてみたが、生徒たちもうーむという反応だった。理解していない者の解説を聞いて意見を求められても困るよというところなんだろう。彼らには申し訳ないかぎりである。