飛び入学と飛び級

 日本で飛び入学飛び級を積極的に導入することの問題点を指摘した次の文章を読み、あなたの考えを述べなさい。


 2000年からはじまったOECDの国際学力調査では、北欧のフィンランドが毎回1位になっているため、フィンランドには、日本をふくめた世界各国から大勢の査察団が訪れている。フィンランドの学校に受験競争はほとんどなく、クラスの中でも、生徒同士の競い合いよりも、コミュニケーションと助け合いのほうが重視されている。そのため、授業では、その科目の得意な生徒が他の生徒に教える場面をしばしば見かけるという。授業内容は調べ学習とその発表、生徒同士のディスカッションが中心になっており、そのぶん、生徒たちは、放課後や休日に図書館や博物館へ行って自ら調べ、レポートを作成することになる。

 こうしたやり方の背景には、学ぶことは自らの視野を広げ、生き方や心を豊かにするという価値観がある。人とくらべてどうこうではなく、あくまで自分自身のために学んでいるという意識が強いので、学力に問題があると教師から指摘された場合には、生徒みずから留年を希望するケースも多い。留年することは、恥ずかしいことでもペナルティでもなく、自分にあった教育を受けるためのひとつの手段と認識されており、自ら留年を選択した若者は、周囲からも「落ちこぼれ」とは見なされず、むしろ「意欲がある」として教師やクラスメイトから評価されるという。

 自らの意識や能力を高めるために学んでいるという認識は、北ヨーロッパ社会に共通している。親の仕事の都合でオランダで暮らすことになり、地元の学校に入学した日本人の女の子の体験談にこんな話がある。その子は日本の中学では優等生だったが、オランダでは言葉の壁からいくつかの科目で成績がふるわず、担任から留年をすすめられた。お母さんは「うちの娘が留年させられるなんて」とショックを受け、担任に猛抗議。ところが、こどもが同じ学校へ通っているお母さん仲間のオランダ人女性から、こう言われたという。「あなた、それはラッキーよ、せっかくの機会なんだから、学校をもっと活用しなきゃ損するわよ、娘さんが十分に理解していないのに進級させたらかわいそうよ」。つまり、学校は教育を受ける権利を保障するための公共サービスであり、図書館や博物館と同様に積極的に活用しなければ損だというわけである。日本とのあまりの価値観の違いに、日本人のお母さんはカルチャーショックを受けたという。こういう社会ならば、飛び入学飛び級も「自分を高めるひとつの選択肢」として受けとめることができるだろう。

 しかし日本では、他のアジア諸国アメリカと同様に、学校教育を学歴を得るための手段、競争に勝ち抜いて高い社会的地位や収入を得るための手段とみなす傾向が強い。OECDの国際調査でも、日本の若者は「科学的発見への興味関心」をたずねるアンケートで際だって低い数字が出ている。この調査結果は、日本の若者に学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さを体験している者が少なく、「受験のための手段」として勉強しているという状況をあらわしている。学力の国際的な順位よりも、こちらの興味関心の低さのほうがはるかに深刻な問題である。日本の学校の最大の問題は、受験競争を若者にたきつけることだけが唯一の学ぶ原動力になってしまっているという点である。中学や高校では、受験を目的にカリキュラムが組まれ、学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さは後回しにされている。それは日本の学校から学歴の効果を取りのぞいたら中身は空っぽだと学校自ら認めているようなものである。

 科学実験で有名な米村でんじろうさんは、以前、都立高校の物理教師をしていたが、授業でも、段ボールの空気砲やプラコップの蓄電器を使った実験をやっていたところ、学校側や保護者から「そんなくだらない実験はやめて、もっと受験に役立つ授業をやってほしい」と苦情が殺到し、教師を辞めてしまったという経歴の持ち主である。しかし、そうした実験は直接受験に役立つことはなくても、世界を見るまなざしそのものを変える力を持っている。なぜ電気は発生するのか、なぜブーメランは手元に戻ってくるのか、不思議に思ったことを自ら推論し、検証していく体験は、長い目で見れば、ただ暗記しただけの受験知識よりもはるかに大きな影響をもたらすはずである。たとえば、ニュートンが「万有引力の法則」を思いついたとき、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」という第一原理に思い至ったとき、彼らは目の前の世界が昨日までとは違って見えただろう。この「ああそうか!」と膝を打つような体験、目の前の世界がいままでとちがって見えてくる体験こそが学問を学ぶ最大の醍醐味のはずである。そういう意味で、米村でんじろうさんのような人が学校の先生として評価されない社会というのは、根本的にまちがっているのではないだろうか。

 逆に受験から開放された大学では、学生たちはいままでの反動で、学問研究よりもサークル活動や合コンに多くの時間を費やすようになる。日本の大学生の勉強時間は国際比較でも極端に短く、日本の大学生が勉強しないことは世界的にも知られている。近年では、学生の私語と学習意欲のなさのために、授業が成立しない大学まであるという。また、大学3年生になると、学生の多くは就職活動のためにほとんど授業に出席しなくなり、大学側も就職実績を上げるために就職の決まった学生を無試験で卒業させている。現在の日本の大学は実質的に「就職予備校」でしかなく、景気が悪くなると、きまって学生の就職率ばかりが話題になるのもそのためである。

 自ら調べ、考えることの楽しさを体験せず、受験のために詰め込んだ知識は、受験が終わるとともに失われていく。論理的な考え方や科学への関心が日常生活の中に根づくこともない。マスコミでは、「若者の学力低下」や「理科ばなれ」ばかりが話題になっているが、実際には、成人向けの国際学力調査では、日本はほぼすべてにおいて最下位であり、こちらの数字のほうが際だっている。おとなたちにとって、若者批判は自分とは関係のないことのように無責任に発言できるため、その批判はしばしば大きな社会現象となるが、おとなは若者のなれの果てであり、両者の姿は密接に結びついている。自らが血液型占いを信じているにもかかわらず、その一方で「若者の学力低下はけしからん」「技術立国日本の将来が危うい」などと声高に批判しているこっけいなおとなたちが日本には大勢いるはずである。

 「学校でなにを学んだのか」よりも、「どこの学校を出たのか」のほうが重視される社会では、学ぶことの目的と手段が逆転する。進学や成績は学んだ結果ではなく、それ自体が目的であり、学ぶことのほうがその手段となる。さらに、学ぶことの楽しさや自らの視野を広げることの重要性といった、本来、学校で最優先にされるべき事柄は後回しにされている。このような日本社会で、飛び入学飛び級を大規模に導入し、東大をはじめとしたエリート大学で飛び入学生を積極的に募集するようになれば、それは「自分を高めるひとつの選択肢」とは認識されず、むしろ「人よりも先に進む手段」としていっそうの進学競争をあおることになるはずである。実際に国をあげて英才教育をおこない、エリート育成のための国立高校まで設置した韓国では、受験競争の過熱が社会問題になっている。

 すでに現在、日本の高校生は学力別に序列化された高校へ振り分けられており、学力の低い高校では、多くの生徒が「どうせ自分は」という挫折感を抱いている。さらにアメリカや韓国で行われているような大規模な飛び級飛び入学が導入され、進学競争の過熱とよりいっそうの学力による振り分けが行われた場合、競争の敗者にはよりいっそうの挫折感と社会への不満を、勝者には次は負けるかもしれないという不安からさらなる競争をもたらすだろう。その競争は生涯にわたってつづき、「受験のため」「就職のため」「リストラされないため」「こどもの受験のため」「老後のため」とひたすら将来の不安にそなえることになる。こうした社会では、競争に勝った者も負けた者も自分のことだけで精一杯になり、お互いに助け合って共に社会を支えていこうという意識は失われていくはずである。このような日本の状況では、大規模な飛び級飛び入学を導入することは、むしろ問題のほうが大きいのではないだろうか。