コロンボ

一年ちょっとくらい前、アメリカのテレビドラマは多チャンネル化の影響でターゲット視聴者をやけに限定する作り方をしてるんじゃないかという文章を書いたことがあります。主婦層向けのドラマに陰気なおたく青年が出てくると確実に変質者だし、おたく層向けのドラマに自信満々のイケメン実業家が出てきて主人公を見下す態度をとればほぼまちがいなく連続殺人犯といった具合。そういう囲い込んだ特定層の願望通りに話が展開し、彼らの不満を全肯定することでターゲット視聴者を満足させようとするつくりかたは、フィクション作品のあり方としてサイテーだという主旨の文章です。だってそんなのマスターベーションの妄想をたれ流してるのといっしょじゃない。ついでに言うと、異質な者への不寛容さを大ぴらに表明することで同質集団を囲い込もうとする作り手側の意図も猛烈にいやらしい。見る側の願望を裏切ってのたうちまわらせるところにフィクション作品の醍醐味があるんじゃねえのかよ、猪木のプロレスじゃねえんだからよう、とまあ当方は考えてるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/box96/20110103/1298941886


でも、先日ふと思ったんですが、「刑事コロンボ」だって同じようなもんじゃないかってことです。1960年代から80年代にかけて長期にわたってつくられたコロンボ・シリーズは、さえない風采のコロンボがその見た目と裏腹の機知によってじわじわと知能犯を追い詰めていくドラマです。当時こどもだった私は、コロンボも犯人も人間は見た目通りじゃなくていくつもの顔があるんだなあとその人物描写に毎回感心していましたが、これ、解釈を変えると、さえない男が社会的成功者をやっつけてルサンチマンをはらすドラマという文脈も成り立つわけです。世の中のたいていの人は社会的成功者じゃありませんから、尊大な成功者はそれだけで十分悪役です。実際、主人公のコロンボに感情移入できるかどうかがドラマの評価の別れ目になっているようで、私の周囲にいる、あのドラマはおもしろかったよねえという人たちは全員男性です。逆に私の知ってる女性たちは、口をそろえて、コロンボ怖い、あの粘着質な言動が見ててたまらなく気持ち悪い、悪夢の中に出てきそう、とまあさんざんな評価。あ、古畑任三郎のほうは田村正和がいい男だから許容できるとのこと。人間けっきょくカオかよ。でも、いいのか、そんなルックス至上主義的な見方で。私はいまでもコロンボ・シリーズは非常によくできた心理劇だと思っているので、自分で立てた仮説ながら、この評価には釈然としないものがあります。ちなみに女性のサンプル数は、ブサイクは全員この世から消えてしまえと日々差別発言をまき散らしている私の母をふくめて四人です。


というわけで、ひさしぶりに疑問の泡をこちらに吐いておきます。女性でコロンボ・シリーズが好きだったという方はいるんでしょうか。サンプル数四人で結論づけるのも乱暴だし、ご意見ください。