輪るピングドラム

友人と「輪るピングドラム」全24話をまとめて観た。私は昨年末の放送時にも観ていたので二度目だが、最近観たフィクションものの中でもっとも印象的な作品だった。ただ、細部まで緻密に構成されたすぐれた作品だとは思うけど、その一方で、作品の根底にある価値観については強い違和感をおぼえるので、どう受けとめたらいいのかわからないというのが正直なところである。


物語は高校生の男の子ふたりと中学生くらいの女の子がちゃぶ台を囲んで食事をしている場面からはじまる。三人は過剰なほど家族らしく振る舞っていて、まるで温かい家庭の団らんごっこをしてるかのように見える。双子と思われる兄ふたりは病弱な妹をお姫様のように丁重にあつかい、妹はそんな兄ふたりに満面の笑顔でこたえる。くたびれないのかな、この子たち。なぜ彼らはこれほど過剰に家族を演じているのか、なぜこの家に親はいないのか、なぜ来客があったときに兄は両親の写真をふせたのか、なぜ妹は何度も死にかかっているのか、彼らがたびたび口にする「運命」とはなんなのか、話の核心部分はすべて彼らの過去にあり、物語がすすむにつれて彼らの過去がしだいに明かされていく。


全体のキーになっているのは15話で、このエピソードで一気に物語世界の構造が解き明かされる。この回はひとりの登場人物のこども時代が回想として描かれる。彼女の父親は高名な彫刻家で、異様に強い美意識を抱いている。彼は小学生の娘に言う。「パパはね、美しいものしか愛せないんだ、芸術家だからね。ゆり、おまえはなんて醜いんだろう」。ショックで呆然としている娘に父親はさらにこうつづける。「醜い者は誰からも愛されない。ママを見ただろう。ママはゆりを産んでからどんどん醜くなってしまった。だからもうこの家にはいられず、あんなことになってしまった。ママは醜く、そして愚かだった……パパの芸術が理解できなかったんだ。いいかい、ゆり、美しくないこどもは誰からも愛されない。その資格がないんだよ。ゆり、おまえは醜い。このままでは誰からも愛されない。もちろん、パパもゆりを愛せない。でも、パパなら、ゆりの身体から余分なものを取り除いて、美しいこどもにすることができる。かのミケランジェロが大理石の中から見事なダビデ像を彫りだしたようにね。だから、パパの手でゆりを美しく改造させておくれ。パパにおまえを愛させてほしい。パパは美しいものしか愛せないんだから」。パパ、あたし、なんでもするから、パパ、あたしを愛してと悲痛な声で叫ぶ娘の身体に、彼は大理石用のノミを打ち込む。その描写はあきらかに性的・肉体的虐待のメタファーであり、こどものありのままの姿を愛することができず、常に自らのコントロール下に置き、自らの価値基準にそぐわないこどもを拒絶するエゴイスティックな親の欲望をあらわしている。そこで描かれているのは、あくまで彼女の意識の世界の物語であり、実際に父親が彼女の身体にノミを打ち込んだかどうかではなく、彼女がそう感じるような行為が行われたことを意味している。その回想が彼女の意識の世界であることは、町に巨大なダビデ像のタワーがそびえていることからもわかる。その異様な風景は我々の知っている東京の風景とはあきらかに異なっており、巨大なダビデ像はアトリエの窓からも学校の教室からも見え、いつ・どこにいても威圧するように彼女のことを見下ろしている。それは父親の権威と男性性の象徴として常に彼女の世界の中心にそびえている。



父親による「改造」が刻まれる中、彼女は学校でひとりの女の子と親しくなる。その子は口には出さないものの、彼女がいつもどこか怪我をしていて日ごとに包帯の箇所がふえていくのを心配そうに見ている。そしてある日、自分は運命の乗り換えができるという秘密を彼女に打ち明ける。その子は学校の飼育小屋にいるウサギを指さして言う。あのウサギは本当は死ぬはずだったんだけど、私が運命を乗り換える呪文を使ったから、いまも元気に生きているんだと。そうして絆創膏を巻いた人差し指を彼女に見せる。「これはその代償。運命を乗り換えたら、その罰を受けなくてはならないの」。だが彼女はその言葉を信じない。このままだとゆりは本当に死んじゃうから運命を乗り換えようと心配する友人に、彼女は「嘘つき!大っ嫌い!あたしが醜いからそんなふうにからかうのね!」と言葉をあびせ、そのまま父親の待つアトリエへ走る。しかし、父親のアトリエで彼女が目を覚ますと、そこにいるはずの父親がいなくなっている。彼女が窓の外を見ると、そこにそびえているはずだった巨大なダビデ像に代わって、東京タワーが夜空にオレンジ色のやわらかい光を放っている。友人が運命を乗り換える呪文を使ったことに気づいた彼女は、先ほどふたりで話をした広場へ大急ぎで向かう。そこには救急車が止まっていて、集まった人たちが「いきなり女の子が燃えだした」と口々にうわさしあっている。病院を見舞った彼女に、ベッドに横たわっている友人が言う。「もうお父さんは帰ってこないよ、前のタワーといっしょに行ってしまったから」。どうしてそんな大きな代償を払ってまで運命を乗り換えたのとたずねる彼女に友人は手を取って言う。「だって、私はゆりのことが大好きだから、ゆりはいまのままでとてもきれいだよ」。この運命を乗り換えられる少女は、エゴイスティックな親と対比されることで、生身の人間というよりも無償の愛の象徴として描かれている。


一昨年の年末にやっていた「刀語」が最後まで運命の糸の正体とそれを操る者の意識の世界が描かれず、消化不良のまま終わってしまうのに対して、この15話では、運命を乗り換えた者の見ている風景が明確に提示される。いつ・どこにいても彼女を見下ろすようにそびえ、威圧し、支配してきた、巨大なダビデ像のタワーは消え失せ、その日を境にして彼女の世界の風景は一変する。その描写は圧巻だった。どちらも運命をめぐる因果話だが、会話劇としてただ出来事だけが進行していく「刀語」とは対照的に、こちらは登場人物たちの意識の流れにそってドラマが進行し、運命を乗り換えた者たちのまなざしを通して意識の世界の出来事が描かれる。それはメタファーと記号を多用した演劇的手法で表現されており、リアリズムを排除することで劇中の世界が登場人物の意識の物語であることが強調される。一緒に見ていた友人は、北村想の芝居みたいと言っていた。シリーズの前半では、少女マンガのパロディの世界で遊んでいるだけにしか見えなかった物語(苹果ちゃんのしゃべり方は陸奥A子だよね)は、この15話をターニングポイントにして、運命の列車の乗り換えという結末に向かって転がりはじめる。








この作品が親の愛を与えられないまま捨てられていったこどもたちの物語であることは、18話でよりはっきりと表現される。そこでは、「こどもブロイラー」と呼ばれる巨大な施設が描かれる。こどもブロイラーでは、「もういらなくなったこどもたち」が町中から集められ、ベルトコンベアーに乗せられ、巨大なシュレッダーでばらばらに砕かれることで、「透明な存在」になるのだという。(1997年におきた神戸の連続殺人事件の声明文では、学校的価値観を体現した存在として、規格化されたロボットのようにただ与えられた役割を演じる者というニュアンスで「透明な存在」は使われていたが、こちらの場合は、より直接的に、社会的な抹殺、もしくはこの世界からの消去という意味で用いられている。)ここでもやはりこどもブロイラーに捨てられた多蕗(たぶき)くんというひとりの少年のまなざしを通して描かれているので、それが劇中に実在する施設なのか、あるいはこどもたちが捨てられている社会状況へのメタファーなのかはわからない。いずれにしても、劇中の世界では、競争の勝者が富を独占し、こどもの将来はどのような家に生まれたかでほぼ確定し、親からも社会からも求められないこどもたちが大勢捨てられていることが提示される。それは我々の社会とまったくいっしょである。


主人公たちの両親は革命運動のリーダーであり、この世界のあり方はまちがっていると説く。だから世界は浄化されねばならないのだと。グループの中心になっているのは、主人公たちの両親をふくめて元南極越冬隊員たちであり、南極での生活を通して彼らがそう考えるようになったことが断片的に暗示されるが、そこでなにがあったのかは描かれない。ともかく彼らは、世界の浄化のために大規模な無差別テロを計画し、それはオウム真理教のテロ事件と同じ1995年3月20日に実行された。劇中にたびたび登場する「95」のマークはこの事件をあらわす記号だろう。兄ふたりはこの事件のあった日に生まれたこどもたちである。劇中のテロはオウムの地下鉄サリン事件と同様にラッシュアワーの地下鉄で行われ、やはり大勢の人々がそれに巻き込まれて亡くなったことが語られる。この無差別テロの文脈でポイントになるのは、求められないこどもたちがこどもブロイラーで透明な存在にさせられる社会のあり方を「世界」と表現し、競争原理による利己的な生存戦略こそが「この世界の本質」だととらえている点にある。それをこの世界の本質ととらえた場合、必然的に社会の改革はこの世界の全否定になる。したがって、物語の終盤は、この世界の全面的な破壊による浄化か、さもなくば、この世界のあり方を運命として全肯定するかという二項対立のドラマになっていく。ずいぶんとまあ極端で乱暴な図式である。私がこの物語を受け入れられない点もそこにある。そうした社会のあり方はあくまで人間が便宜的につくりだしたものであり、人間がつくりだしものである以上、いくらでも改変可能なはずである。勝者による富の独占という経済システムもいらなくなったこどもたちが透明な存在にさせられている社会状況も、人間社会の普遍原理ではなく、そうでない社会はこの世界にいくらでも存在する。社会改革を世界の全否定によって成し遂げようとする発想は論理のすり替えでしかない。にもかかわらず、劇中では毎回、「生存戦略!」のかけ声ではじまる寸劇が展開され、社会のあり方はあらかじめそう定められているとする決定論が述べられる。人間の社会行動が遺伝的にプログラムされているとする遺伝決定論は古くから存在し、アプローチの仕方を変えながらくり返し唱えられてきたが、それらは常に根拠にとぼしい。リチャード・ドーキンスによる「ミーム」にしても根拠の不十分な仮説の段階にとどまっており、社会のあり方を論じる際に真剣に考慮するには値しない。ところが、こうした遺伝決定論は、学問的論証よりも現状維持を肯定する政治的メッセージ性から常に一定数の人々を惹きつけてきた。それは「科学」の仮面をかぶることで、あるときは黒人奴隷制度や白人至上主義を正当化する人々を勢いづけ、あるときはイギリスの階級格差を肯定する人々を後押しし、あるときは女性の参政権や高等教育を揶揄する人々の拠り所となり、またあるときは西洋諸国による植民地支配が人類全体の進歩をもたらすと主張する人々の後ろ盾となってきた。良いも悪いもなく、それが「自然の摂理」であり、人間とはそういう存在なのだというわけだ。この物語も運命論と社会ダーウィニズムの両面から決定論の立場をとっており、社会のあり方を変えようとする行為は、この世界の現実が見えていない者たちによる愚かな行いとして全否定される。劇中の16年前の無差別テロは、先ほどのゆりちゃんを救った運命の乗り換えのできる少女の犠牲によってごく限定的なものに抑えられたが、もしも全面的な「浄化」に成功したとしても、より大規模な殺戮と混乱がもたらされるだけで社会のしくみはなにも変わらなかったろう。それはオウム事件と同様にリビドーの暴発であって、そもそも社会改革運動としての体をなしていない。だから、主人公の両親たちが「世界の浄化」という名のもとの無差別殺戮によって、なにを実現したかったのかがさっぱり見えてこないのだ。彼らが南極での暮らしの中でなにがあってそうした行為に至ったのかはあくまで個々の物語だから観る側の想像にゆだねてもかまわないが、彼らが「世界の浄化」という名目で社会をどうしたのかったかは論理の問題であり、劇中にその道理が提示されないことにはなにもわからない。結局、彼らの無差別テロは解釈不能の残虐行為とされたまま全24話を通して物語の中心に据え置かれ、社会的にも運命の因果からも断罪されることになる。


劇中の「いま」は現実と同様にそれから16年後が舞台になっている。主人公である三人のこどもたちは、ちょうど地下鉄サリン事件の実行犯のこどもたちと同じ立場に立たされており、彼らがいままでにたびたび周囲の好奇のまなざしや被害者遺族からの敵意にさらされてきたことがしだいに明らかになっていく。両親の行為は当人が断罪されるだけでなく、親の因果が子に報い式に三人のこどもたちもまた「運命の女神」によって罰を受けることになる。たしかに無差別殺人を犯した者のこどもたちに対して、人々に感情面での反発があることは理解できるが、その応報感情に社会的な正当性はまったくない。もしも感情にまかせてそれに同調してしまったら、社会に八墓村的状況をまねくことになってしまうだろう。にもかかわらず、劇中の「運命の女神」はそこで踏みとどまろうとせず、こどもたちへの罰として妹の命をうばうことにする。なんなの、これ。この運命の女神って八墓村の出身者ですか。


劇中では、主人公の両親たちがおこなった無差別テロはこの世界を受け入れようとしない意識の象徴であり、社会改革は「世界の破壊」へと意味がすり替えられることで全面的に否定される。それに代わって、あらゆる社会的矛盾は個人の意識のあり方と生き方の問題へと還元されていく。万事心がけしだいというわけだ。だから、社会のあり方を変えるのではなく、自らの運命を受け入れ、自己犠牲によって他者に愛を差し出すことでしか人は幸せにはなれないし、そうしないかぎり定められた運命を乗り換える奇跡も起こせないという結末へ向かっていく。たしかに人が幸福になれるかどうかはつきつめれば本人しだいというのはその通りだし、我々は意識の世界の住人だから、客観的事実については自らの認識から「たぶんそうなのだろう」と類推することしかできない。しかしその一方で、社会環境はすべての人の生き方を拘束する。景気変動と自殺者数が相関関係にあるように、たとえ類推することしかできなくても、社会環境による生き方の拘束は限りなく事実である。兄ふたりの自己犠牲によって妹の命が救われ、運命を乗り換えた世界で妹が叔父夫婦の養女になったとしても、その世界にもこどもブロイラーはあるだろうし、富の独占もあるだろう。それは決して個々人の心がけでは解決しない問題であり、そこに運命という言葉を持ちだしてしまったら、なにも変えられなくなってしまう。社会のあり方は運命でも罰でも普遍原理でもなく、人がより良く生きるられるよう便宜的につくられたものなのに。ところが、劇中ではギリシア悲劇のように、社会のあり方も捨てられたこどももみな運命としてあらかじめ定められており、すべてのことに意味があると語られる。宗教ですか、これは。


劇中の会話を聞きながら、インドのカースト制度のことを思い浮かべた。インドでの低位カーストへの差別や弾圧は、いまも地方を中心に根強く残っており、それは時に上位カーストの者たちによる大量虐殺へとエスカレートする。もちろん、インド憲法でもそうした身分差別は禁じているし、国連の人権委員会もたびたびインド政府に是正を勧告してきたが、なかなか状況は改善されていない。その最大の理由はヒンズーの教えにある。輪廻転生を説くヒンズー教では、不可触民をはじめとした低位カーストに生まれた者たちは、前世で犯した罪の報いを受けていると解釈される。だから、穢れた存在として飲食店への入店を拒否され、公共の井戸の使用を禁止され、上位カーストの村を通る際には履き物を脱ぐよう強要されても、それを受け入れるよう教えられる。それが彼らに課せられた運命であり、その定めを全うすることで、より良い来生に生まれ変われるのだと説く。しかし、こうした問題で「前世の報い」や「運命」などと言ってしまったら、そこに差別も人権侵害も成立しない。インドでカースト差別がなくならない最大の理由はそこにある。人間の幸不幸をすべて意識の問題に帰因させ、社会的矛盾を運命なんだから受け入れろという論理は、この作品の根底にあるものとまったくいっしょである。その文脈を補強するように、劇中では運命をめぐる人生訓が登場人物たちによって事あるごとに語られる。曰く、どんなつらい体験でも、本人次第でそれをプラスにできるんだから、人生に無駄なものはない。曰く、悲しい出来事を運命として受け入れることで、そこから生きる意味を見いだせるようになる。ああもう説教くさくてうんざりだよ。あらゆる社会的矛盾を運命だから受け入れろという暴力的な言説は、社会のあり方について思考停止をもたらす。そこではインドの不可触民が公共の井戸を使わせてもらえないのも、同和地区出身者が地域社会から排除されるのも、同性愛者が道端でいきなりつばを吐きかけられるのも、みな「運命」であり、「受け入れることで生きる意味を見いだせる」という個人の生き方の問題として片付けられることになる。ならば奴隷制社会はさぞや生きる意味に満ちているだろう。その教えは虐げられる者たちのルサンチマンを押さえ込む道具として機能し、カースト差別が2000年以上にわたってつづいてきたように、人々は社会に不満があるのに声を上げることすらできず、ただ息苦しい現状が維持される。それよりは、アタマにきたぜ、暴れてやるぜ、ぶっ壊してやるぜのほうが率直でずっと風通しがいい。劇中の出来事をすべて意識の世界として描き、あらゆることを個人の内的問題に帰因させようとするフィクションの手法は、必然的に外的規範である社会構造などどうでもいいというところへ帰着させる。それは、映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で、無実の罪で死刑判決を受けたビョーク演じる主人公が「彼女はいつも心の中で幸せに歌っていたのでたとえ縛り首になってもハッピーでした」という奇妙な結末へたどり着き、冤罪と死刑制度の問題を訴える文脈のほうは破綻していたのと同じである。


父親のエゴイスティックな愛情によってしばられ、虐待を受けていたゆりちゃんは、同級生の女の子が与えてくれた無償の愛によって運命の列車を乗り換える。また、死ぬ運命だった妹は兄ふたりの贖罪によって運命の列車を乗り換え、新たな生を受ける。もちろんその救いはきっかけにすぎず、その先、彼女たちが幸せになれるかどうかは自らの足で立って歩いていけるかどうかにかかっている。物語のラストで、20代半ばになった多蕗がゆりに話しかける。「やっとわかったよ、どうして僕たちがこの世界に残されたかが。君と僕はあらかじめ失われたこどもだった。でも、世界中のほとんどのこどもたちは僕らといっしょだよ。だから、たった一度でもいい、誰かの愛してるって言葉が必要だった」。その言葉にゆりはこうこたえる。「たとえ運命がすべてをうばったとしても、愛されたこどもはきっと幸せを見つけられる。私たちはそれをするために世界に残されたのね」。しかし、ふたりの会話はそこで終わってしまい、なにかできることを見つけて、今度は自分たちが彼らに手をさしのべようという話にはならない。我々の世界には、運命を乗り換えられる救済者は存在せず、我々の世界のゆりちゃんたちに手をさしのべられるのは我々でしかない。劇中の自己犠牲の物語はたしかにドラマチックなファンタジーだったが、主人公の三人を「呪われたこどもたち」と見なし、彼らに愛による死という究極の自己犠牲を強いる発想にこそ、愛されないこどもたちを排除しようとする社会の本質があるのではないのか。にもかかわらず、物語はそこに触れることなく、無償の愛と自己犠牲という内的要因にすべての問題を集約させていく。その勇ましさは欺瞞に見える。奇跡の存在を前提にしている限り、人はどうすればより良く生きられるかという問いは意味をなさない。念じれば嵐がおき、海が割れ、死んだこどもが生き返るのなら、考えてないで念じればいい。我々は奇跡も起こせず、自らの命を投げ出せるほど勇ましくもないからこそ、この世界のゆりちゃんに手をさしのべるにはどうすればいいのかを考える。場合によっては児童相談所の力を借りることもあるだろうし、新たな制度をつくっていく必要にもせまられるだろう。なんせ我々の世界に奇跡を起こす救済者はいないんだから。どうすればより良く生きられるのかという問いはそこではじめて意味のあるものになる。この勇ましいファンタジー・ストーリーからはその肝心な部分が抜け落ちているが、本来、物語というのはそこからはじまるものではないのかと思う。


輪るピングドラム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E3%82%8B%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%A0


公式サイト
http://penguindrum.jp/