ミスコン

 授業で、学園祭でのミスコン開催の是非をテーマにディベートをすることにした。去年、ICUでミスコン開催をめぐってもめていたが、最近では高校の学園祭でも、ミスコンをやるところがふえてきたのである。うーん、ミスコンねえ。このテーマは今度の期末試験の論述問題にも出題予定。こちらの論述問題のほうは、たたき台であるAとBの立論を読んであなたの考えを書けというもの。ひとまずこんな文章を書いてみたけど、ここをこうしたほうがいいというアドバイスがありましたら、コメントください。


*AとBの参考意見は、2023年10月に加筆修正。


学園祭のミスコン


 近年では、大学だけでなく、高校の文化祭でも「ミスコン」を開催する学校が増えてきました。ミスコンというのは、「うちの学校で一番かわいいのは誰か」を決める美人コンテストです。
 学園祭のミスコンをめぐっては、一部の大学で年々大がかりなイベントになっており、ミスコン優勝者がテレビのアナウンサーやタレントとしてデビューするケースも多くなっています。その一方で、「女性をルックスで序列化するイベント」として長年、批判もされています。「女はカオ・男はカネ」というのは古くからある男女観ですが、ミスコン開催はこうしたジェンダーの押しつけを強化することになります。そのため、近年では、京都大学国際基督教大学で、学園祭のミスコン開催をめぐって学生間で激しい論争になった末に開催が取りやめになるといったこともありました。
 高校の文化祭で、ミスコンを開催することの是非について、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えをすじみちだてて述べなさい。


A 開催を支持する。
 人間は様々な場面で、様々な要素によって、常に評価されている。学校の勉強ができる、運動が得意、絵や文章が上手、話がおもしろい、色々なことを知っている、人とはちがった視点で物事を見ることができる。容姿にすぐれていて自分を魅力的に見せることができるというのも、そうした長所の中のひとつである。人物評価においてルックスは大きな位置を占めており、時には初対面の人に外見だけを見て好意を抱くこともある。それにもかかわらず、ミスコン開催を「ルックスで人間を序列化する差別的なイベント」として批判するのは偽善的である。ルックスに自信のある女子生徒がミスコンに出場し、会場に集まった人たちに自分の魅力をアピールする。それによって支持を集めることは、いたって正当な評価であり、けっして後ろめたいものではない。
 「ルックスは生まれついての要素が大きく、勉強やスポーツでの評価とは同列に論じられない」という批判は的外れである。もし、本人の努力を評価の尺度にするのなら、学校の成績もテストの点数という「結果」ではなく、日頃の授業態度や家庭での学習状況という「努力」で評価されねばならないはずである。同様にスポーツにおいても、試合の勝敗や順位ではなく、どれだけきびしい練習をしてきたかによって勝者を決めねばならないことになる。私たちは、様々な場面で結果によって評価されているのに、ルックスになると結果での評価を批判するのは、あきらかに矛盾した姿勢といえる。ミスコンの優勝者は、成績優秀者やマラソン大会の優勝者と同様に、胸を張って自らを誇っていいはずである。
 現代社会において、容姿にすぐれていて不特定多数の人に自分の魅力をアピールできるというのは、きわめて重要な「能力」であり、それは学校の勉強ができることよりもプラスに作用するケースもある。例えば、接客業や営業職の場合、外見的な魅力はお客さんを惹きつけるための重要な要素であり、それを採用基準にしている企業も多い。テレビの女性アナウンサーが容姿を基準に採用され、大学のミスコン優勝者が集まっているのも、不特定多数の視聴者を惹きつけ、番組に好印象を抱いてもらうためである。
 学校での評価はあまりにも勉強に偏っており、しばしば勉強のできる生徒は「優秀な生徒」、できない生徒は「ダメな生徒」と見なされがちである。しかし、勉強ができることは人間の持つ多様な能力の中のほんの一部であり、学力テストの偏差値で評価されるほうがルックスで評価されるよりも人間として上等という考え方は学校的価値観にすぎない。人間の評価には様々な要素があることを実感するためにも、学校には、勉強以外の事柄で生徒が評価される場面がもっと必要であり、ミスコンの開催はそのひとつになるはずである。


B 開催を支持しない。
 昼休みに男子生徒数名が廊下にたむろして、女子生徒が前を通るたびに「2点」「3点」と彼女たちの容姿に点数をつけていたとする。それは最低のセクハラ行為ではないだろうか。人間の容姿は点数をつけたり、順位をつけたりするものではないからだ。こうしたルックスによって人間に序列をつける価値観を「ルッキズム」という。ミスコンの本質は「誰がうちの学校で一番かわいいか」を決める美人コンテストであり、会場でどのようなイベントが催(もよお)されようと、女子生徒の容姿に点数をつけて優勝者を決めるという点で、そうした行為とかわらない。もし、本当に出場者のスピーチの内容で優勝者を決めるのなら、それは「弁論大会」である。あるいは、本気で一発芸のおもしろさを競うのなら「演芸大会」である。それらは男女別にやる必要もないし、ルックスも関係ないはずである。逆に、そのイベントが「ミスコン」として開催される限り、会場でのイベントはルックスでの評価のオマケにすぎない。
 ミスコンはルックスに自信のある女子生徒が能動的に参加するんだから順位をつけても問題ない、そういうのが嫌な人は参加しなければいいだけじゃないかと思っている人もいるだろう。しかし、こうしたイベントが学校で開催されること自体、「やっぱり女の子は笑顔が一番」「カワイイは正義」「ルックスで女の子を選んでなにが悪い」という価値観を後押しすることになる。その結果、生徒間の人間関係にルッキズムがよりいっそう幅をきかせることになるだろう。その影響は、ミスコンに参加する・しないに関係なく、すべての生徒におよぶはずである。
 本来、人間の美しさとは、互いの関係性や思いによって大きく左右されるきわめて複雑なものである。例えば、地方で農業を営んでいる初老の夫婦がいたとする。妻は長年の畑仕事で顔にはたくさんのしみができ、手は節くれだっているが、夫はそんな妻を見て「美しい」と思うこともあるだろう。あるいは、秋の日ざしのあたる居間で、丸顔の孫娘がふたりのほうを向いて満面の笑顔で笑っている様子に、息をのむような美しさを感じる瞬間もあるだろう。こうした豊かな感情をともなう美しさの感覚について、ただ人のうわべだけを見て美醜(びしゅう)を判断し、あたかも客観的な容姿の基準があるかのように序列化する行為は、人間性に対する冒涜(ぼうとく)である。
 ファッション業界は、長年にわたってルッキズムがはびこっており、モデルたちはバービー人形のような体型のスーパーモデルを頂点にして、「このモデルはアタマが大きいから二流」「このモデルはアジア系で手足が短いから三流」「このモデルは太ったからもう使い物にならない」と容赦(ようしゃ)なく選別され、ピラミッド型の序列の中に位置づけられてきた。表面的な美しさの序列が最終的に行き着く先は、人間の多様性や個性を否定するこの差別的なピラミッドである。
 現代社会において、不特定多数の人が「美人」と見なす評価基準は、ファッション雑誌やテレビを通してすり込まれたものである。ミスコン会場に集まった人々は、自分の好みで選んでいるつもりでも、実際には、マスメディアによってすり込まれた美醜の評価基準を無批判になぞっているにすぎない。つまり、学園祭という場で「学校一の美女」を選ぶという行為を通して、表面的な美しさの序列を再生産しているわけである。このことは、女子生徒を対象にしたミスコンだけでなく、男子生徒を対象にしたイケメン・コンテストや美少年コンテストであっても同様である。学校という物事を考える場において、美男・美女のコンテストを開き、ルッキズムを再生産する行為は、たとえ学園祭というお祭りの出し物であったとしても、あまりにも問題意識に欠けているのではないだろうか。



 生徒たちの反応は、全体の3分の2くらいが「まあやりたい人が出場するなら、べつにいいんじゃないかなあ」という感じで、ぼんやりとゆるーく賛成というのが多数派。なので、ミスコンの是非をめぐる問題提起は、Bの「開催に反対」をどれだけきっちり書けるかがポイントになると考えて、あえて強い調子で書いてみた。「人間性に対する冒涜」は、書きながら少々大げさな気もしたけど、「やりたい人は勝手にやれば、どうせ自分は出ないから関係ないし」と言ってるマジョリティたちには、これくらい強い調子で書かないと問題提起がとどかないのではないかと思ったしだいである。以下、AとBを書くにあたってのメモ。

  1. ミスコンの本質は人間の容姿の序列化(ルッキズム)であり、それをどう受け止めるかで賛否が分かれる。
  2. ミスコンでのスピーチや特技の披露は、ルックスでの評価のおまけにすぎない。もし、本当にスピーチの内容で優勝者を決めるのなら、それは弁論大会である。本気で一発芸のおもしろさを競うのなら、それは演芸大会である。男女別にやる必要もないし、ルックスも関係ないはずである。それが「ミスコン」として開催されるかぎり、会場でどんなイベントが催されようと、その本質はあくまで「うちの学校で一番かわいい子は誰か」を決める美人コンテストである。ミスコン会場で行われるスピーチもクイズも一発芸もファッションショーも、観客が出場者のルックスを品定めするための手段にすぎず、それ自体に意味はない。
  3. なので、AとBの参考意見は、容姿の序列化の是非に焦点を絞って書くようにする。
  4. Aは容姿の序列化を人物評価のひとつとして受け入れる立場。Bは表面的な美意識や人間観をうながすことになるとして批判する立場。
  5. 「イケメン・コンテスト」や「美少年コンテスト」も開催されるようになった近年では、容姿の序列化の問題は、女性だけではなく男性にも同様にあてはまる。少年マンガが美少女が大好きなように、少女マンガは美少年が大好き。そこでは冴えないルックスの登場人物は男女問わず、その他大勢や書き割りと同じ扱いをされる。もはや容姿の美醜がもたらす心理的プレッシャーに男女の差はない。
  6. 現在の日本では、美意識の形成は女性のほうに主導権があり、女性のファッションも同性からの評価を気にかける傾向にある。ルックスを売り物にしているモデル出身の女性タレントもコアな支持層はほとんどが女性。生徒たちの反応もどちらかというと「カワイイは正義」と言っている女子生徒たちのほうがミスコン開催に乗り気だった。なので、女性の権利の視点からミスコンを「男性の欲望に迎合するイベント」として批判するのは実態からはずれているように見える。
  7. マスメディアが作り出す「美男美女」へのメディアリテラシーの欠如も指摘すること。不特定多数の者が美男美女と見なす基準はマスメディアを通して社会的に形成されていく。とくに女の子向けのマンガやアニメで描かれるアイドルやモデルの「キラキラした世界」への無批判な傾倒ぶりはちょっと怖い。
  8. 慶応のミスコンでは、トヨタがスポンサーについていて、優勝者には新車一台がプレゼントされるという。有名大学のミスコンは「女子アナの登竜門」になっているのだそうで、芸能ニュースとしての話題性があるかららしい。ただ、大学のミスコンが商業主義に走っていることは、論点から外れるので、ここでは問題にしない。商業主義ならダメで、商業主義を排除すればいいという問題ではない。
  9. ルックスが生まれついての要素が大きいことも、本質的な問題ではないので、軽く指摘する程度にとどめる。「努力=立派」という学校的価値観が建前にすぎず、実際にはほとんどの事柄が「結果」によって評価されており、「努力はいつか報われる」式の発想が多くの矛盾をはらんでいることは、誰もが気づいているはず。足の速い遅いにしても先天的な要因のほうが大きい。努力が介在すれば評価されるという問題ではない。もし、どれだけ努力したかで価値が決まるのなら、美容整形をくり返している人は努力家として賞賛されねばならない。


ディベートのほうは来週の授業でやる予定。さて、生徒たちはどんな討論をするんでしょうか。