くじ引きとしての生

この冬、大学入試の小論文対策用の副読本を書くアルバイトをした。私が担当したのは、ジョン・ロールズの「正義論」についての項目で、一昨年にNHKでやっていたハーバードの授業の影響なのか、入試の小論文課題にまでロールズの「公正としての正義」が出題されているらしい。他の項目が「生涯学習」「グローバル経済」といった社会現象のほうを中心にそれを取り巻く状況をざっくりと俯瞰していく内容なのに対し、なぜかこの項目は、ロールズの「正義論」の解説だけで見開き2ページを構成してほしいという注文だった。ここだけやけに専門性が高くてバランスが悪いように見えるんだけど、版元からの注文なので、ともかく「正義論」を読まないことにははじまらない。ひと冬まるまるついやして全800ページの大著にあたる。大仕事である。20世紀の大思想家が生涯を通して書きつづけた大著なんていまどき受験生は誰も読まないだろうから、彼らの代わりに読んでその内容を2ページぶんに要約しろというのが版元側の要望のようだった。安請け合いするんじゃなかったよ。


ロールズは人間の「生まれ」に基づいた社会のあり方を否定する。内戦の最中に難民キャンプで生まれたこどもも、大金持ちの家の跡継ぎとして期待されて生まれたこどもも、新宿の地下街でホームレスの親から生まれたこどもも、黒い肌に生まれてきたこどもも、白い肌に生まれてきたこどもも、男の子も女の子も、生まれつき目が見えないこどもも、生まれつき耳が聞こえないこどもも、本人がそういう生を選択してこの世界に生まれてきたわけではない。言わば自らの生涯を賭けた大がかりなくじ引きの結果として人間はこの世界に誕生し、生きていく。自ら意図しないところで決まるそうした生のあり方をそのまま放置するのは、フェアな社会ではないと彼は考える。スタートラインが人によって異なり、さらにある者は片足で走ることを余儀なくされ、またある者は乗り物に乗ることが許されている中で参加者は競わされ、個々の過程は一切考慮されないまま結果のみで評価され、その報酬がもたらされるとしたら、それは「競争」とは名ばかりの「搾取」にすぎない。そのため、フェアネスの実現した社会というのは、どんなくじを引き、どんな立場に生まれたかを問わず、誰もが機会均等を等しく配分され、同じスタートラインに立てることが条件になる。したがって、ロールズは、生まれの違いがもたらす格差は富の再配分と公的支援によって絶えず補正されねばならないという徹底した平等主義の立場をとる。


彼は興味深い思考実験を展開する。そこでは、あの世の住人たちがこれから自分たちが生まれることなる世界をめぐって、どういう社会にすれば自分たちが新たな生を得た世界でより良く生きられるかを議論している。その会議では、あの世の住人たちの出した結論どおりにその世界の社会のあり方が設定される。ただし、あくまで決められるのは社会のあり方だけで、ひとりひとりが社会のどういう立場に生まれるかは選択できない。男に生まれてくるのか、女に生まれてくるのか、白い肌に生まれてくるのか、黒い肌に生まれてくるのか、障害を持って生まれてくるのか、いっさい本人はコントロールできない。社会的変数を入力してそこで人間がどのように扱われどのように暮らしているかを示していく思考実験は、フランク・キャプラの映画、「素晴らしき哉、人生!」を連想させる。ロールズは、人は誰もがそういう状況に立たされたら、生まれに関係なく平等に扱われる社会のあり方を望むだろうという。たしかに自分がどういう立場に生まれるのかコントロールできない以上、奴隷制社会や貧乏農場のある人生ゲームのような社会はリスクが大きすぎる。人生ゲームでは誰もが同じスタート地点から同じ条件で出発し、行為の結果として億万長者か貧乏農場か行き先が別れるが、現実の社会では、はじめから異なるスタート地点と異なるルールが割り振られることになる。


私たちは多くの場面で自らの立場に基づいて物事を判断する。たとえば、資産家にとって生産手段の国有化をとなえる共産主義は、自らの不動産や株式を失うことになるので、彼らには危険思想だと映るだろう。逆に小作農やスラム街の住人にとっては、共産主義のとなえる誰もが労働者として平等に働く社会のあり方に高い理想を見いだすだろう。あるいはアメリカ南部の白人たちの中にいまだに奴隷制度を擁護する者がいるが、それは奴隷を使う側の発想でしかなく、彼らは自らが黒い肌に生まれてきたらとは考えない。それらはいずれも自らにとって損か得かという判断でしかなく、ロールズはそうした損得勘定に基づく功利主義的判断に社会正義はないと説く。あの世の住人たちの議論という状況設定は、そうした損得勘定を廃するための思考実験といえる。


ロールズは、フェアネスの実現した社会のあり方として、ふたつの基本原理を示している。ひとつめは基本的自由がすべての者に等しく保障されている状態であり、これは基本的人権の保障といえる。しかし、基本的人権が保障され、法の下の平等という形式的平等が実現している社会でも、様々な要因から社会的格差は生じる。例えば、貧困家庭に生まれ、十分な教育を受けられず、低賃金労働を強いられている人がいたとする。この人の場合、競争に参加する機会がはじめからなく、生き方の自由があらかじめうばわれているといえる。もしこの人が生活に困って片方の腎臓を売ることにしたとしても、その決断を「自由な選択」とはいえないだろう。


そこでロールズは、実質的平等の実現のための第二原理を提示する。こちらは公正な機会均等の保障と格差の是正のふたつからなり、社会的に不利な立場におかれている人々への積極的な支援の必要性をとなえている。彼のいう公正な機会均等とは、法の下の平等が保障する形式的な機会均等とは異なり、すべての人が同じスタートラインに立ち、能力のみで競う社会のあり方を意味する。そのためには、人種・民族・性別・家柄などがもたらす社会的格差は、富の再分配と公的支援によって補正され、誰もがイコールの状態でスタートラインに立てるようにしなければならないというわけである。


では、公正な機会均等が実現したとする。人間の歴史上、完全な機会均等の実現した社会など存在したことがないが、それが実現したと仮定する。すべての参加者が同じスタートラインから同時に走り出し、公正なルールの下、純粋な能力競争が行われたとする。その結果として、運動会の競走と同様に誰かが一等になり、別の誰かがビリになった。一般的にフェアな競争の下で生じた結果の差は尊重されるのが基本ルールのはずである。しかし、純粋に能力のみで競う成果主義の社会においても、個人の能力差によって格差は生まれ、とくに障害を持った人々は社会の中で不遇な立場のまま留めおかれることになってしまう。そこでロールズは、能力に応じた成果報酬の差や社会的地位の差を受け入れつつも、同時にその差は社会の中でもっとも不遇な立場の者たちの状況を改善するために用いられねばならないとして、公正な機会均等の下で生じた格差であってもさらなる是正をとなえる。うーむ、ロールズ先生、そこまで言うか。だって障害を持った人たちもあまり高い能力を持っていない人たちも自らそう望んで生まれてきたわけじゃないんだから、成果主義の社会で彼らが不遇な立場に立たされるのを「仕方ないね」のひと言で片づけてしまうのは、フェアな社会とはいえないだろというわけである。明快な論理だ。その考え方の根底にあるのは、能力の差はたんに本人の努力によるものだけでなく、生まれ持った資質や生育環境といった本人のあずかり知らぬ所できまる偶然の要因が多分に含まれている以上、能力差は社会的格差を肯定する絶対的な根拠にはならないという立場である。たしかに、もし、アインシュタインダッカのスラム街に生まれ育っていたら、相対性理論を思いつくどころか、いつもぼんやりと空想にふけっている役立たずの変わり者と見なされたまま、なにも成し遂げることなく生涯を終えただろう。


障害を持った人々がまともな職に就くことができず、社会の中で不遇な立場におかれている状況を「仕方ない」で片付けてしまう発想には、「もしかしたら自分がそう生まれてきたかも知れない」という視点が抜け落ちている。そのため、こうした社会的格差の問題を論じる際には、その人が社会の中でどういう立場にいるかによって見解がしばしば大きく異なってくる。たとえば、インドの不可触民たちはいまもインド社会には深刻なカースト差別があるというが、その一方で、外交官や大学教授といった上流階級の者たちは口をそろえてカースト制度はすでに過去のものになったと主張する。先にあげたあの世の会議というロールズの思考実験は、自分がどう生まれ変わるかわからないという状況を設定することで、自らの社会的立場に基づく分け前の確保という功利主義的な発想を否定する。ロールズの示した社会の三つの段階を図にすると次のようになる。

本を読みながら、去年テレビ放送されていた「輪るピングドラム」のことを思い出した。あの物語では、毎回、運命をめぐる主人公のこんなモノローグからはじまる。

「ぼくは運命って言葉が嫌いだ。生まれ、出会い、別れ、成功と失敗、人生の幸不幸、それらがあらかじめ運命によって決められているのなら、ぼくたちはなんのために生まれてくるのだろう。裕福な家庭に生まれる人、美しい母親から生まれる人、飢餓や戦争のまっただ中に生まれる人、それらがすべて運命だとすれば、神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。あの時からぼくたちには未来なんてなく、ただきっと何者にもなれないってことだけは、はっきりしてたんだから。」


そこでは人間の生は、偶然の産物としてではなく、運命として解釈され、あらゆる社会的格差は個人の生き方の問題へと還元されていく。どんな境遇に置かれても本人の心持ちしだいで幸福にも不幸にもなるというわけだ。社会のあり方へ目を向けようとしないその閉塞した発想は、私にはまるで八墓村の住人たちが語る人生訓のように思えて非常に気持ち悪かったが、日本の場合、「世の中そういうものだ」式の発言をあちらこちらで耳にするので、社会原理はどこからか輸入するもので自らのアタマで判断するものではないと思っている八墓村出身者は、案外多いのではないかという気がする。