石斧を握りしめて空を見上げる

左肩の激痛で朝早くに目が覚めた。左肩が外れかかっているようだった。起き上がろうとしたら左腰と左股関節にも痛みが走る。腰もひねっているようだった。なにがあったのかわからないが満身創痍である。私は眠っている間にいったいなにと戦っていたのだろう。


授業で脳死の問題を取りあげると、毎年、数名の生徒から、「死の概念や生命観は人それぞれであり、法律で死の定義を定めることは無意味だ」という発言が出てくる。そこで1999年に千葉県成田市でおきたライフスペース・ミイラ事件のことを紹介する。事件はホテルの一室で中年男性の遺体が発見されたところからはじまる。発見された遺体は死後数ヶ月経過しており、腐敗が進行し、干からびてミイラ化していた。間もなく、その部屋に長期にわたって宿泊していた30代の男性が死体遺棄の容疑で逮捕され、警察の取り調べによって遺体が彼の60代の父親であること、彼がライフスペースという静岡県に本部のある宗教団体の熱心な信者であることが判明した。さらに、遺体で発見された父親のほうは、数ヶ月前に脳梗塞で倒れ、病院の集中治療室にいたところを教組の指示を受けた息子をふくむ信者数名によって強引に連れ出され、ホテルの一室に監禁されて生命エネルギーを活性化させるという「宗教的治療」を施されていたことが明らかになり、その異常さから週刊誌とワイドショーはこの話題で持ちきりになった。オウム真理教の一連の事件からまだ日の浅い頃のことで、多くの人はまたかと思った。それから間もなく、息子は保護責任者遺棄致死で、主犯の教祖は殺人で起訴された。ふたりとも殺害を意図していたわけではないので、誘拐・監禁の末の過失致死のように見えるが、検察側は、瀕死の重体患者を病院から強引に連れ出してホテルに監禁し、死亡させた行為は殺人にあたると判断したようだった。しかし、ライフスペースでは、心臓が完全に停止した後も人間は仮死状態にあり、さらなる生命エネルギーの注入によって回復可能だと考えている。そのため、教祖は裁判の中でもミイラ化した父親が生きていたという主張を展開し、父親を殺したのは我々の治療をやめさせ、司法解剖を行った千葉県警のほうだと訴えた。たしかに死生観は人それぞれ異なり、いくら議論しても完全に一致することなどない。しかしその一方で、ある程度の社会的合意の形成がなければ、人間の社会が成り立たないのも事実である。結局、この事件で息子のほうは懲役2年6月・執行猶予3年が一審で確定、教祖のほうは最高裁まで争われた末、2005年に懲役7年が確定した。
成田ミイラ化遺体事件 - Wikipedia


今年五月、シベリアの永久凍土から肉片のついたマンモスの骨が発掘された。ラジオのニュース解説には、マンモスのクローン再生研究をしているという近畿大学の学者が出演し、この発見がマンモスのクローン再生においていかに重要かを喜々として語った。遺伝子の読み取りはすでに九割方完了しているという。彼はマンモスをクローン再生することで骨を見ているだけではわからなかった様々な生態が解明されるのだと語る。しかし、生態をあきらかにするためには、十数頭のマンモスの群れを自然環境に放ち、野生の状態で数世代にわたって追跡調査を続けねばならないはずである。そもそも現在の地球上にマンモスが野生動物として暮らしていける場所は存在しない。トキやドードーのような近代化の中で人間が絶滅に追いやった動物については、クローン再生の個体を野性に返せる可能性があるが、人間が文明を築くはるか以前の氷河期に絶滅したマンモスの場合、クローンで産みだしても動物園で見世物にされるだけだろう。研究者としてはクローン再生がやりたくてたまらないのだろうし、実現すればきっと話題にもなるだろうが、見世物にするために絶滅動物をクローン再生することに科学的意義は見いだせない。マンモスのクローン再生も宇宙開発も人型ロボットも高速増殖炉も、研究者たちはその夢を熱く語るが、「やりたいからやりたい」というのが本音で社会的有用性は後付けにすぎないのではないか。現代において「科学技術の発展」は必ずしも錦の御旗ではない。授業でこのマンモスのクローン再生を取りあげると、生徒たちの賛否はほぼ半々に分かれる。


モンサントの社長から生化学研究室の学生まで、バイオ産業の関係者たちはみな口をそろえて将来の食糧難にそなえて遺伝子組みかえ食品の開発は欠かせないのだと主張する。業界の合言葉になっているようだ。しかし、あきらかに詭弁である。食糧難は食糧の絶対量の不足によるものではなく、社会的要因によるものだからだ。単位面積あたりの収量をどれほど増加させても、富の偏りの問題が放置され、飢えた人々にトウモロコシを回すよりも牛に食わせて太らせたほうが儲かるという経済システムで世界が回っている限り、飢餓はなくならない。それは二十世紀の歴史によってすでに証明済みである。この先、収量を倍にするスーパーコーンや三倍の速さで成長するスーパーサーモンが市場に出回るようになったとしても、バイオ産業の懐を潤すだけで、生活のために片方の腎臓を売らざるを得ない途上国のスラム街生活者の口に入ることはないだろう。一方、日本も含めて先進国では、生産された食料の約七割は捨てられている。生産段階で規格外のものや余剰分が廃棄され、流通段階では各店舗で賞味期限切れが廃棄され、家庭や飲食店では残飯や冷蔵庫の古くなった食料品が廃棄される。その結果、人々の口に入るよりも捨てられるほうが多くなる。どう考えてもこちらもほうが早急になんとかすべき問題じゃないの。


人間はオーラなど発していない。「すっごいオーラを感じた」と言う場合、パブリックイメージの権威に魅せられているだけである。相手をひとりの生身の人間ではなく、自らの思い描く偶像に仕立て上げるとその背後にオーラや後光のような怪しげなものが見えてくるのだろう。それは400年前にフランシス・ベーコンが指摘した「劇場のイドラ」である。この手の発言を無自覚に多用する人が1930年代のドイツに暮らしていたら、ヒトラーの熱烈な支持者になっていたことだろう。きっとオーラ見えまくりのはずである。


自由には責任がともなうという発言をときどき耳にする。しかし、責任がともなうのは権限のほうである。権限と責任は対の関係にあり、両者のつり合いがとれなくなるとそこに不正義が生まれる。権限を行使するのにその責任を一切とろうとしない者は恥知らずの暴君であり、なんら権限がないにもかかわらず責任だけ負わされる者は哀れな奴隷である。後方から新兵たちに「突撃せよ」と号令するのも、若い従業員たちに「経営者目線で働け」と要求するのも、権限と責任の関係を理解していないやり口である。きっと奴隷農園から赴任してきたばかりで権限と責任の関係をわかっていないんだろう。太平洋戦争での戦死者数は圧倒的に日本軍のほうが多いにもかかわらず、現場指揮官の死亡率に限っては、「ついて来い」と自ら先頭に立たねばならなかったアメリカ軍のほうが高い。自らは安全な後方に身を置き、後ろから部下たちに「行け」とけしかける上官は、自分の責務を果たしていない卑劣な腰抜け野郎と軽んじられ、指揮権を維持できなかったからだ。その点で、サンダース軍曹が「リトルジョン、援護しろ」と毎回自ら先頭に立って突撃していたのは、アメリカ軍の実態に即している。152話も彼が生き延びたのは驚異的である。それから70年が経過したが、いまも日本では、権限と責任の関係が理解されているようには見えない。最低賃金で働くバイトくんが最低の勤労意欲と最低の責任感しか持っていないのは当たり前であり、そのことで文句を言われるような筋合いはない。もし彼に経営者なみの責任感を要求するのなら、経営者と同等の待遇と権限を保障せねばならないはずである。


「経験値」という言葉がある。キャラクターの経験を定量化し、数値として表すゲーム用語である。1980年代はじめくらいからコンピューターRPGで用いられるようになり、80年代半ばの「ドラゴンクエスト」のヒットによって広く知られるようになった。40代半ば以上の人でこの言葉を日常会話に使う者はまずいないが、30代くらいのドラクエ世代の人たちは、ゲームの中だけでなく生身の人間の体験についても「経験値が上がった」などと言ったりするようだ。それが日本語として定着しているのかはよくわからない。高校生たちに聞いてみたところ、現実の出来事に「経験値が増えた」と表現するのはゲームオタクの人みたいで違和感をおぼえるという反応が多数派だった。「修学旅行で経験値を大量に稼いだ」や「週末の練習試合でみんなの経験値は上がってるよ」なんて言い回しを例としてあげると彼らはうーんという感じで苦笑していた。個人的には、生身の人間の体験について、「経験値が上がった」という表現に出くわすと、この人は人間の経験を定量化可能とするベンサム思想の信奉者なんだろうか、それともたんにゲーム用語を日常会話に使用するゲームフリークなんだろうかと気になってしまい、少しむずむずする。生身の身体はテレビゲームのように戦えば戦ったぶんだけ強くなるわけではない。


喫煙の問題は本質的には当人の健康問題のはずだが、なぜか道徳やマナーの問題として語られることが多い。そうした道徳的側面から語られる喫煙批判は、当人の健康を気づかってくれているわけではまったくないので、しばしば説教臭いものになる。また、本人が好きで吸ったタバコのせいで勝手に病気になって国の医療費を圧迫するのはけしからんという言いぶんもしばしば耳にするが、これはピンピンコロリ運動と同様にファシストの発想である。私たちは税金を支払うためにこの社会に生きているのではなく、日々の暮らしを楽しむために生きている。国や社会はあくまで人がよりよく生きるための装置にすぎない。たいていの楽しみは体に悪く、周囲に多少の迷惑をかける。山に登れば遭難することもあるし、甘いケーキをたらふく食べれば血糖値は上がる。運動にしても健康増進になるのはあらゆる競技において初心者レベルまでであり、上達すればするほど体には悪い。ゴルフをすれば腰を痛め、テニスをすれば肘を痛める。そもそも、プロスポーツはもちろん、高校生の部活レベルでも、健康のために体を動かしているという選手はいないだろう。また、用もないのにドライブに出かければ大気汚染と交通渋滞の原因になるし、サッカーの試合も野外ライブもサンバパレードも興味のない者にとってはただの騒音でしかない。では、体に悪いタバコや甘いケーキはもちろん、遭難して迷惑をかける登山も、渋滞の原因になる自家用車も、こどもたちのうるさい運動会も、すべて禁止し、生産性のなくなった寝たきり老人は山へ捨ててくるのか。この社会は「人に迷惑をかけない」という道徳的命題が大好きだが、他者に一切の迷惑をかけられない社会というものほど息苦しいものはない。時に体に悪いことを楽しんだりハメを外したりしながら、互いに少しずつ迷惑をかけたりかけられたりするのが人間の社会のはずである。なのでこの手の問題は「何事もまあほどほどに」というゆるい姿勢で構えるのがファシストたちに幅をきかせないための最良の対処ではないかと思う。


ブラックホールの構造が解明されたとしても明日のおかずが一品増えるわけではない。それは社会にどのような利益をもたらすのかではなく、我々のいるこの世界がいったいどんな所なのかという根源的な問いに由来する。石斧を手にマンモスの群れを追いかけていたご先祖様も、ふとその足を止めて空を見上げ、自らが立っているこの世界の有り様に思いをめぐらしたはずである。山の向こうになにがあるのか、足下の大地をなにが支えているのか、空の向こうにはなにが広がっているのか、と。以来綿々とつづくこの世界への問いの末端にブラックホールの究明もある。学問の本質は真理の探究であり、明日のおかずを一品増やすための手段ではない。もちろん、たいていの人にとって明日のおかずのほうがずっと重要であり、いつの時代もそれを思うのは少しへんな人たちである。


いまどき「女性アイドル」といったらAVかグラビアなので、彼女たちに処女性を求めているのは、アニメの声優さんとバーチャルアイドルが大好きなアキバ系のおにいさんだけなのかと思っていた。そういう意味で、しばらく前にAKBの女の子がファンの男の子と交際していることが「スキャンダル」として報道され、すったもんだの末に地方グループへ左遷された出来事は驚きだった。彼女たちは人形やバーチャルの存在じゃないんだから色恋沙汰だってあるだろう。ファンの男の子と交際していたというのは微笑ましいエピソードだと思うんだけど、彼女のファンはその人間的行為を応援してやろうとはならないんだろうか。さらに別の女の子が交際発覚で丸坊主になって謝罪する事態に至ってはもはや集団リンチである。彼女がナチス将校の愛人だったとでもいうんだろうか。AKBの女の子たちはたいてい水着グラビアもやっている。水着姿で不特定多数にセックスアピールするのはOKで、特定個人とセックスするのはダメというのもずいぶん奇妙な価値基準である。えっ、他の男とくっついたアイドルなんか応援するのがバカらしいって。でも、誰とできていようとできていまいと彼女たちはあなたのものになんかならないよ。私は彼女たちの私生活や人柄にはまったく興味がないが、彼女たちのファンがどういう人で彼女たちの偶像になにを求めているのかについては多少興味がある。モーニング娘に人気があった頃、コンサート会場でペンライトを振っているコアなファンたちは、ほとんどが中年男性だったというが、授業を受け持っている高校生たちは、AKBもモーニング娘もあまり関心がなさそうである。そういえば、ラルクのボーカル君がお天気のおねえさんとくっついたとき、彼の熱烈なファンだという若い女性が呆然とした様子で「よりによって大石恵」とぼやいていたのには、爆笑しつつも少々気の毒な感じがした。よりによってねえ。かくして偶像崇拝はすべからく信仰の道へと向かうのである。神様ならスキャンダルとは無縁だし、テレビのバラエティー番組に出演して余計なことをべらべら喋ったりもしないのである。思いを寄せれば寄せるほどただひたすら無限の愛でこたえてくれるはずである。たぶん。


19世紀の進歩史観の名残で、いまも生命進化を劣ったものから優れたものへの「進歩」のあゆみだと勘違いしている人は多いが、進化はあくまで環境への適応である。ダーウィンの進化論は、生命の変化はランダムな現象であり、その中から、たまたまその場の環境に適応したものが生き延びるというものであって、優れたものが勝ち残るという意味ではない。基本的に食料が豊富で安定した環境では、生物は大型化する。体が大きいほうが縄張り争いで有利になるからだ。逆に食料にとぼしく、環境の変化が激しい場合、小さな個体のほうが小回りがきいて少ない食料でも生き延びやすいので、数を増やしていく。それはその場の環境にどういう生物が適していたのかという問題であって、結果から逆算して種の優劣を論じるのは意味がない。日本のモグラの世界では、西日本に大型のコウベモグラ、東日本にアズマモグラが生息していて、長年、糸魚川静岡構造線が両者の生息境界になっていたが、モグラの研究者によると、近年、コウベモグラが箱根の山を越えて東日本に進出しつつあるという。森林が切り開かれて牧草地がふえたことで、開けた場所での縄張り争いに有利な大型の種が生息域を広げているということらしい。そこでコウベモグラとアズマモグラの種の優劣を論じるのは、モグラたちの抗争を吉本の関東進出に重ね合わせるのと同じくらいに無意味である。


人類進化の誤ったイメージ。画像はイエール大学のWebサイトから。
https://yalealumnimagazine.com/articles/3977-march-of-progress


この図は1965年にタイムライフ社から出版された「Early Man」の「ホモ・サピエンスへの道」というセクションに掲載された。19世紀末、進化論が受け入れられるようになると、生命進化は劣った生命から優れた生命への歩みと解釈され、その上昇する歩みの頂点に人間が位置していると考えられるようになった。ダーウィンが「種の起源」を発表した当初、人類が類人猿と共通の祖先から枝分かれしたとする彼の主張は、唯一の主体的存在とされてきた近代の人間像をおびやかすものと見なされ、彼ははげしい批判にさらされた。しかし、人間が生命進化の頂点にいると解釈し直されたことで、むしろ進化論は人間の特権的地位を補強するものになっていった。この図の「愚鈍で野蛮な原始人」から「知的で洗練された文明人」への一本道の連続的な歩みとする人類進化のイメージは、近代社会における進歩・発展の歴史観と合致したことから巷に広く普及し、やがて歴史の教科書にも転載されるようになった。そこでは生命進化と人間の歴史は連続的な現象と見なされ、人間社会は西洋の文明社会を頂点にして、アジア・アフリカのおくれた社会、未開人たちの野蛮な社会と序列化される。植民地支配は人類の進歩をもたらすとして正当化され、アイヌアボリジニーたちには野蛮な習慣をあらためるよう同化政策が強要された。文明人ならナイフとフォークで食事をしろというわけだ。19世紀におこなわれたロンドンやパリの万博では、熱帯の狩猟民たちが檻の中へ入れられ、「原始的な亜人種」として万博会場に展示された。彼らは人か、はたまた猿か、さあさあ紳士淑女のみなさま、とくとご覧あれ!その悪趣味な見世物は「人間動物園」と呼ばれた。さらに20世紀になると、知的障害のある人たちは人類の進歩をさまたげる存在として、各国で本人の同意を得ないまま不妊手術がおこなわれ、ナチス時代のドイツでは、劣等人種や障害者の大規模な殺処分をすすめることで社会の進歩・発展をうながそうとした。この図はそうした近代の歴史観を象徴的に表している。


SF作家には進歩史観の信奉者が多いようで、この誤った人類進化のイメージからさらに想像をふくらませ、しばしば次のような未来を描く。


いずれも知性を高めた人類がテクノロジーと融合したり高度な精神性を獲得したりして新たな生命体として次のステージへ登るという映画やマンガでお馴染みの未来像である。アーサー・C・クラークなんてこんなのばっかりだ。「2001年宇宙の旅」も「幼年期の終わり」も社会ダーウィニズムを連想して、読んでいて気分が悪くなる。


現在わかっている人類の系統は次のようになる。研究者によって細部の見解は異なるが、人類進化が複雑に分岐した系統樹であり、ホモ・サピエンスにつながらない絶滅種が数多く存在したことはもはや常識の範疇だろう。もちろん、人類進化は進歩・発展の一本道の歩みではない。絶滅した人類は、現在化石として発見されているぶんだけでも20種類以上にのぼり、10万年前に登場した現生人類は、幸運にも現在まで生き延びているひとつの枝にすぎない。今後、人類化石の発掘がすすめば、絶滅した人類の枝の数はさらに増えていくだろう。にもかかわらず、なかなか進歩・発展の一本道としての人類進化のイメージはなくならない。もういいかげんあの図を歴史の教科書の最初に載せるのはやめたほうがいいと思うんだけど。

https://opengeology.org/historicalgeology/case-studies/human-evolution/


いまだにテレビでタレントが「日本ではいくら稼いでもみんな税金に持ってかれちゃう」という発言をしているのを聞く。しかし、日本における高額所得者にかかる税率は、アメリカとならんでとっくに先進国中最低である。それを知らずにあの発言をしているのなら愚かだし、わかったうえであえてデマを流しているのだとしたらきわめて悪質である。


ユングは人間の無意識の深層には個人を超えて人類共通のイメージが広がっていると説いた。古代からある神話にいくつもの共通点があり、文化を越えて人々は闇を恐れ、太陽を神聖なものとして祀る信仰が世界中に存在するのはそのためだという。ユングの思想は、その領域を解き明かすことで、人間の「魂」の根源へ至ろうとするやたらと壮大で神秘主義的な性質を持っている。ユング錬金術や降霊術に首を突っ込んだり、UFO研究に夢中になったり、グノーシス主義に心酔したりと彼の思索は常にオカルトの影がつきまとう。たしかに私たちはこの世界の有り様を直知できないので、意識の中に作りだした像から外界を類推することしかできない。目の見える者は見たとおりにこの世界が広がっていると思いがちだが、視覚情報はあくまで意識の中のイメージのひとつであり、実際には目の見えない者と同様に意識の中のイメージから外界を類推しているにすぎない。同じ「青い空」を見ていたとしても、意識の中に像を結んだ「青の色」は人によって異なっているだろう。だから、ユングのいう集合的無意識はこの世界の成り立ちを説明するひとつのフィクションとしてはおもしろいし、実際に多くの作家がそれに惹かれて集合的無意識をモチーフにした作品を数多く創作してきたわけだけれども、でもさあ、なにを根拠にそんなこと言ってんのさ。人間が闇を恐れるのはたんに本能によるもので、神話や昔話に共通点が多いのは古くから人間の移動と交流が多かったっていうだけじゃないの。思想は言ったもん勝ちではないし、面白ければいいというわけでもない。なので、ユング思想もカバラも天中殺もパワースポットもB型人間も酒の肴の与太話にはちょうどいいけど、真顔で語られるとちょっとねえという感じ。


春、玄関先に自生しているエノキの若木は葉が濡れるほど大量の樹液を出す。それに惹かれて、毎年、無数のアブラムシが集まってくる。春に生まれたアブラムシは有性生殖によって卵から孵った個体なので、羽根を持ち、特定の食樹を目指して飛来してくる。うちのエノキに集まってくるのは白い綿状のアブラムシで、そのため、毎年、四月の二週目くらいになると玄関先はまるで粉雪が風に舞っているような状態になる。ところが、四月の四週目くらいになると、今度はそれをエサにするテントウムシの幼虫のほうが目立つようになり、オレンジと黒の幼虫がせっせと枝を這いまわり、アブラムシの捕食をくり返すようになる。テントウムシは成虫で冬を越し、春にアブラムシの多い樹木に産卵する。ナミテントウナナホシテントウは成虫も幼虫もアブラムシだけを食料源にしているので、その生活サイクルもアブラムシの活動と完全に一致する。テントウムシがアブラムシの臭いに反応して飛来するのか、それともアブラムシの食樹の樹液のほうに反応して集まってくるのかはわからないが、そのへんは実験すればすぐに判明しそうなので、生物学専攻の学生さん、レポートの課題用にぜひどうぞ。もっとも、ゴキちゃんと違ってテントウムシを誘引する物質を特定しても商品化は難しそうだけど。ともかく、我が家の玄関先では、テントウムシの大群による補食の結果、五月の連休が終わる頃には、綿状のアブラムシはほぼ姿を消し、エノキの枝や葉の裏には大量のテントウムシのサナギが残って、ひと月におよぶスペクタクルに幕が下りる。我が家の春の風物詩である。


こどもの頃、雑誌掲載時に少しだけ読んで続きが気になっているけれどもそれからずっと放ってあるマンガというのがたくさんある。夜中にビールを飲みながらテレビニュースをぼんやり見ているときなどに、ふとそんなマンガの一場面がアタマの中に浮かぶことがある。それはファンタジーよりも当時の社会風俗が色濃く反映されている作品で、「釣りキチ三平」とか「がんばれ元気」とか「レース鳩アラシ」とか「サイクル野郎」とか松本零士の四畳半ものとかあのへん。三平は行方不明のお父さんと再会できたのか、元気と先生はその後うまくいったのか、丸井輪太郎は日本一周を達成できたのか、アラシは結局どうなったのか、時々気になることもあるけどネット検索はあえてしません。きっとまたいつか読む機会もあるだろう。


思想家には奇人変人のたぐいが多い。社会のあり方を考える最大の原動力は「いまの社会はどこかおかしい」であり、常識的で現状に満足している者は思想家になどならないからだ。しかし、二千年前の常識的な人々は、奴隷制度を社会に必要なものと見なし、残酷で非人道的だとは思わなかったろう。世の中がそういう常識的な人間ばかりだったら、二千年後の現在も奴隷制度は続いていたはずである。


校舎裏に意中の相手を呼び出し「つきあってほしい」と言う。学園もののドラマでおなじみの告白シーンである。実際にそんなことをやっているのかは知らないが、他の国の映画やドラマでこういうシーンを見たことがないので、もしあったとしても日本のティーンエージャーだけの独特な慣習だろう。それに私が中学生や高校生の頃はいまほど一般的ではなかったので、それほど古くからのものではないはずだ。おそらく、1980年代にとんねるずの合コン番組でやたらと「告白タイム」や「つきあってる」が連発されたことが普及にひと役かったんじゃないかと思う。しかし、この場合の「つきあう」が「コンビニへガリガリ君を買いに行く」や「ダンボール八箱ぶんの可燃ごみを焼却場まで運ぶ」ではなく、「互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を継続的に共にする」である場合、それは個人的な感情をベースにした流動的なものなので、本来、契約関係とは異なり、互いの行為の結果として形成されるはずである。つまり、デートをしたりベッドを共にしたりしながら一緒にいて楽しいと感じられる中で「たぶんこれはつきあっているといえるんじゃないかあ」と後になって漠然と自覚するものである。その自覚をラーメン屋からの帰り道にふと思うか、出産直後の病院のベッドの上で実感するかは人によって異なるだろうが、行為や感情よりも先に関係性のほうを自覚するということはありえない。だから、多少でも恋愛経験があれば、「つきあおう」と関係性の構築を契約によって求めることの不自然さに気づくはずなので、恋に恋する若者以外、そんな無茶な要求はしなくなる。同じことが「友達になろう」にもいえる。友達も恋人もあくまで親しくなった結果としてなるものであり、商取引のように契約によって成立するものではない。もし口約束だけでは心許ないからと誓約書への署名を求められたら、その不自然さに誰もが気づくだろう。そもそも、それまで言葉を数回交わしただけのよく知らない相手から、「これから先、互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を共にしよう」とやたらと重たい契約をせまられたら、ゲマインシャフトゲゼルシャフトが浸食してくるような不気味さをもたらすので、たいていの場合、その要求は受け入れられないはずだ。当人は疑似プロポーズのような感覚なのかも知れないが、契約によって成立し、社会制度的に補強される婚姻関係と互いのパーソナルな親和性で築かれる恋愛とでは性質がまったく異なる。色恋沙汰のような個人的関係にまで制度的なお墨付きが欲しいんだろうか。ずいぶん奇妙な慣習が定着したものである。えっ、じゃあどうすればいいのかって。本気でその相手と親しくなりたいのなら、一緒に海へ行こうでも一緒に千本ノックしようでもぶつかり稽古百連発でもいいから互いの共通体験をつくることのほうが先なんじゃないでしょうか。


自分を信じろとせまる者はそもそも信用に値しない。信用されたいのなら、自らの主張の根拠を判断材料として提示する必要がある。あらゆる問題は信じるかどうかではなく、常に判断すべきなのだ。判断材料を示さないまま、いまこの場で自らを信じるか否か返答せよとせまるのは、相手を支配下に置こうとする行為であり、詐欺師とファシストの常套手段である。


スポーツの試合では、互いの実力が拮抗している場合、かならずどちらかが押している状況がひと試合の中で何度も行ったり来たりする。選手の心理状態や戦術的な駆け引きによってこうした押し引きの展開がつくられるらしい。日本語では「流れ」というが、英語の野球中継を聞いていたら「momentum(モメンタム=勢い)」と呼んでいた。では、スロットマシンやパチンコのようなランダムな確率のゲームに「流れ」は存在するのか。あるわけがない。スロットマシンで「いま流れが来ている」というのはどう考えても錯覚である。偶然を偶然のまま放置することができず、ランダムなパターンの中になんらかの意味を読み取ろうとするのは人間の思考の癖のようなもので、人は立った茶柱に吉事の兆しを思い、突然の春の雪に人生の転機を重ね合わせる。ギリシア悲劇万葉集からドストエフスキーまで古今東西みなそうだ。そもそも「見立て」とは偶然性に意味を見出す行為だろう。その運命論的解釈は確率論による解釈よりもずっとおもしろいので、麻雀劇画では勝負手になるときまって神の見えざる手やら運命の歯車やらが登場する。ただし、それはあくまで物語として面白いのであって、本当に賭け事が強くなりたいのなら、妙なイマジネーションをふくらませるよりも確率論を基礎から学ぶほうがずっと効果的なはずだ。ゲームで微妙なのは、麻雀やポーカーのようにランダムな確率とプレイヤーの心理的駆け引きとが組み合わされたもので、イカサマでもしないかぎり牌やカードのディールに「流れ」などあるわけがないが、プレイヤー間の駆け引きにはある。もし、はじめて入ったフリー雀荘で、小指のないおじさんがこちらに鋭い視線を向けて「リーチ」とおもむろに万札を卓に出したら、もうそれだけで自分の手が縮こまっちゃうでしょ。それは明らかに「流れ」をつかみそこねた状況といえる。これらのゲームの場合、チェスや囲碁のような複雑な推論を求められるゲームとちがい、牌やカードの取捨選択は誰でもある程度まではすぐに上達するので、そこから先の勝負事の強さというのは、心理的プレッシャーのかかる場面でどれだけ冷静に状況判断できるかによって決まる。麻雀やポーカーにしばしばお金のやり取りがともなうのも、プレイヤーにあえて心理的負荷をかけることでゲーム性を高めようとしているんだろう。


テレビに登場する占い師たちがしばしば差別を助長する発言をくり返しているのは、あらゆる事象には意味があるとする運命論的な世界観に由来するのではないか。そこでは、大病を患ったのは「日頃の行い」のせいであり、生まれつき障害を負っているのは「前世の報い」とされる。一方、人権思想の根底には、偶然性がもたらす社会的不合理を是正しようという平等の理念があるので、この世界に偶然など存在しないとする運命論とは根本的に相容れない。占い師でありながら、同時に障害者支援や難民救済に熱心に取り組んでいる人権活動家というのは、きっと世界中探しても見つからないだろう。


趣味人への第一歩は物事を嫌うところからはじまる。朝顔の花を陰湿だと嫌い、東京風の甘辛い醤油味を田舎くさいと嫌う。ハリウッド映画を仰々しいと嫌い、久谷の彩色をこれ見よがしと嫌い、フランス車を脆弱と嫌い、ブラームスを凡庸だと嫌う。こどもをあざといと嫌い、犬猫を煩わしいと嫌い、小鳥のたぐいを目つきが嫌らしいと嫌う。そうして趣味人を気どる偏狭な美意識が研ぎ出されていく。


授業で代理出産の問題を取りあげると生徒から決まって「こどもがかわいそう」「こどもが学校でいじめられるから反対」という声があがる。私は代理出産について、経済的に困窮している女性たちが食い物にされる危険性が高いので合法化には慎重であるべきだという立場だが、一方で、こどもを哀れむふりをした批判にはまったく同意できない。その本質的な問題は家庭環境の異なる者が見下されたりいじめられたりしても仕方ないとする社会圧のほうであり、その対応策はそうしたこどもが生まれないようにすることではなく、そういうこどもが差別されない社会をつくっていくことのはずである。例えば親が離婚して片親に育てられている子について、十把一絡げに「ああ、離婚家庭の子ね、かわいそうな子」というまなざしを向けるのは、むしろ片親家庭への偏見を助長することになる。ところが「こどもがいじめられるから反対」という言いぶんはずいぶんと使い勝手がいいようで、他にも様々な問題で耳にする。夫婦別姓はこどもがいじめられるから反対、同性カップルが養子を迎えるのはこどもがいじめられるから反対、出かせぎ外国人の来日は日本語の話せないこどもが学校でいじめられるから反対。いずれも問題の本質はそういうこどもがいじめられる社会状況のほうであり、そちらを放置したまま、「だから夫婦別姓は認めるべきではない」「だから同性婚には反対」「だから外国人労働者の制限を強化すべき」と主張を展開するのは論理のすり替えにすぎず、本質的問題はなんら改善されない。そもそも離婚家庭にも様々なケースがあるように、それらの家庭も千差万別のはずであり、代理出産で生まれた子や親の姓が異なる子や同性カップルに引き取られた子を「かわいそう」と決めつける時点ですでに公正な判断を見失っている。


東京の言葉を「関東弁」という人がいるが、東京の言葉は関東弁ではない。関東弁はいわるゆる「だべ言葉」で、「どうすべえ」「参ったべよう」「参ったべなあ」「まあやるべよう」「やるべさねえ」といった調子である。イントネーションに抑揚が少なく、語尾を引っ張るのが特徴で、カールおじさんが話しそうなのんびりした田舎言葉といった感じ。また、身分制に由来する敬語表現がやたらと多い東京言葉に対して、関東方言に敬語は存在しない。「となりのトトロ」に隣人として農家のおばあちゃんが出てくるが、「カンタぁ!はやぐ父ちゃん呼んでこい、メイちゃんがいなぐなっちゃったんだあ」って言っていたあのおばあちゃんの話し方は典型的な南関東の土着の言葉である。いまでも東京郊外や神奈川あたりの農家のお年寄りはあんなしゃべり方をする。北関東になると「だべ」が「だんべえ」や「だっぺ」になったりしてより東北の言葉に近づいていく。そうした関東全域で広く流通していた「だべ言葉」に対して、下町方言も山の手方言も東京言葉は、江戸期に西日本から大量の人口流入があって、江戸という狭い範囲に様々な身分の人間がごちゃごちゃと密集して暮らすようになったことで形成された歴史の浅い言葉であり、土着の関東方言とは大きく異なっている。こういう周囲の地域から孤立した言葉のことを「言語島(げんごとう)」というのだそうだ。というわけで東京の言葉を「関東弁」というのは、ドイツ東部に暮らしているスラブ系の人々が使うソルブ語を「ドイツ語」というようなもので、明らかな間違いです。
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高校生くらいの若者ふたり組が「センパイ」から小さなオートバイをゆずってもらうことになる。「センパイ」はバイト先のセンパイでもいいし、部活の卒業生でもいい。その小さなオートバイはセンパイの下宿先の軒下で雨ざらしになっていて、所々錆が浮き、エンジンもかからない。半年くらい乗らずにいたら動かなくなったのだという。センパイはもうすっかり興味を失っている様子で、邪魔だからさっさと持っていってくれとばかりにキーを放り投げ、「まあ、キャブ直せば、動くんじゃねえかなあ、動かなくてもタダなんだから文句ねえだろ」とぞんざいに言う。もっとも放置車両の場合、十中八九キャブレターにトラブルを抱えているので、その言いぶんはそう的外れではない。ともかく、ふたり組はセンパイのアパートからそのポンコツを押して帰る。押して帰ったはいいが、ふたりともキャブレターのしくみどころか、2サイクルエンジンと4サイクルエンジンの違いもわからない。とりあえず近所の図書館からオートバイの修理本を何冊か借りてくるとことから、ふたりの格闘が始まる。台所の流しで腐食ガソリンのたまったキャブレターを分解して親にしかられ、タンクの中の古いガソリンを近所のガソリンスタンドで処分してもらおうとして嫌がられ、プロのアドバイスをもらおうとバイク屋の親父に相談して盗難を疑われる。でも、エンジンオイルとバッテリーと点火プラグは新しいものに交換したし、キャブレターも徹底的に分解洗浄してジェット類とパッキンは新品に交換した。チェーンはたんねんに錆を落としてから油を差し、つぶれたタイヤに空気も入れた。そうしてのべ一ヶ月間の格闘の末、エンジン始動の日がやってくる。エンジンはすぐにはかからない。チョークを引きながら、汗だくになって何度もキックをくり返す。そうしているうちにようやくガソリンが回ってきたようで、ついにエンジンがプスプスと気の抜けた音をたてながら動き出はじめる。エンジンはすぐに止まってしまいそうに力なく回っている様子だけど、ふたりは猛烈にうれしい。笑いがこみ上げてくる。それが私のオートバイについての原風景。単純で原始的な内燃機関による簡便な乗り物。いまもオートバイと聞くとそんな少し感傷的で少しいじけた情景が思い浮かぶ。たぶん、ひと昔前なら、似たような出来事は日本全国どこにでもあったんじゃないかと思う。


もしあなたが岩波の「夏目漱石全集」全28巻を愛読していたとしても、職場でとっさに漱石の「漱」の字が出てこなかったら、「坊っちゃん」を3ページしか読んでいない係長から、「キミ、教養ないね」としたり顔でたしなめられたりすることだろう。もしかしたら係長は「漱」が「すすぐ」の意味だと得意げに教えてくれるかもしれない。それが現代日本における教養の正体である。


夏になると一日に何度も身体を洗うようになる。そうして自分の体臭を消していくと他人の臭いにやけに敏感になる。ちょうど風呂上がりにそれまで着ていたシャツが「汚れ物」と認識され、洗濯かごへ放り込まれるように、こうした感覚は相対的なものなんだろう。私はわりと鼻がきくので、この状態で電車に乗ると、この人は三日以上身体を洗っていない、この人の口臭キツイなあ歯周病かなりひどそう、この人の口臭は酸っぱい臭いがするのでたぶん胃腸を悪くしてるんだろう、こっちの人からは血の臭いがするのでいま生理中なんだろうといったことまで伝わってきて、もう半径二メートル以内には誰も近寄らないでちょうだいって気分になる。潔癖症まであと一歩という感じで、かなり危険な兆候である。おそらく人間を穢れと見なす思想もこの感覚が生み出したはずである。現代では洗浄用品の性能が良くなったせいで、過去の時代に数十日の水行をへて到達した感覚を一日数回のシャワーで得られるようになったわけだけれども、でも、こういうことはあえて鈍感なくらいのほうが大らかでいいと思う、という話を先日ひさしぶりに母親から電話があった際にしたところ、「なーに言ってんだ、オマエ、それはクサイ奴が悪い、とくに口のクサイ奴は極悪人、ほらオマエの高校一年の時の担任、口臭がひどくて面談で向かいに座ってるだけで吐き気がこみ上げてきたわよ、ああいう輩は半径五メートル以内に来ないでほしいね、それにオマエだって夏場以外は時々クサイ、もうクサイ奴は全員家から一歩も出ないでほしいわ」とえんえん清潔ワンダフルワールドについて小一時間聞かされる羽目におちいった。そうか、俺はこういう親に育てられたのか。


古本屋で「げんしけん」と「海月姫」をまとめて買ってきた。どちらもオタクな若者たちの群像劇で、「げんしけん」は大学のマンガサークルを舞台に、「海月姫」は独身女性ばかりが集まった古いアパートを舞台にストーリーが展開していく。彼らは街でおしゃれな人を見かけたらそれだけで逃げ腰になり、遊び慣れた感じの若者が話しかけてきたら露骨に警戒心をあらわにする。自分がオタクであることによほどコンプレックスと強い自意識があるらしい。だから、自分たちに居心地のいい場所をつくろうと閉じた同質集団を求める。ただ、この時期って自意識の鎧をもてあますのと同時に自分の知らない世界の住人に心惹かれたりするものではないのか。自分が十代だった頃を振り返っても、中学の同級生だった暴走族に入って暴れていた女の子のことと高校の同級生だった放課後の図書室でひとりドストエフスキーを読みふけっていた文学少女のことはやけに印象に残っている。どちらも陰気なロック少年だった私とは話をしたって噛みあうことなんかなかったが、身近にいる異邦人ということで妙に気になる存在だった。なぜ、マンガの中の若者たちはあれほど同質性に執着するんだろう。社会の細分化がすすんだ結果、小集団間の断絶をアプリオリのものとして受け入れるようになっているんだろうか。その村社会のような排他性はゼノフォビアと根を同じくするものではないのか。そんなもやもやした疑問が読みながら浮かんだ。


たしか1990年代はじめ頃の夏だったと思う。バイトの面接でお茶の水まで行ったところ、一時間も早く着いてしまい、近くにあった鉄道博物館で時間をつぶすことにした。冷房にあたってひと息つき、ベンチに座ってタバコを吸いながら古い機関車をぼんやりながめていたら、すぐ隣に痩せて銀縁メガネをかけた青年が腰掛け、「おたくさぁーこんな中途半端な展示で満足しているんだとしたらまったくもってわかっていないね88系の形式は……」となにやらよくわからない講釈を甲高い声でまくしたてはじめた。やけに挑発的である。彼はこちらとまったく目を合わせず、宙に向かって独り言のように語っているが、平日昼間の博物館には彼と私しか入館者はいない。これ、俺に話しかけているんだよね。「えーっと、鉄道、お詳しいんですか、ぼくはバイトの面接までの時間つぶしに入っただけなので」と意図してやんわりと常識的な言葉を返したところ、その青年は拍子抜けした様子で「あっいや勘違いしてごめんね、こんな場所にひとりで来ているのを見かけたもんだから、ついさあ、いやそのなんだ、カタギさんでしたか、ははは」ととたんに温和な調子になり、独り相撲をとったことに顔を赤くしながらそそくさと去って行った。そうか、おにいさんはマニア同士で蘊蓄のせめぎ合いがしたかったんだね、相手になれなくってごめんよ、なーんてことは当時の私はまったく思わず、後日、彼の滑稽さをネタに友人と笑いあった。「カタギさんだってよ、あはははははは」なんて。我ながら嫌な奴である。というわけでバイトの面接のほうはもはやまったくおぼえていないが、この青年のことはやけに印象に残っている。ちょうど「オタク」という言葉が日本語として定着しはじめた時期のことで、彼の風貌と言動は「げんしけん」の斑目くんにそっくりだった。


朝、目が覚めたら、顔のかたちが変わるくらい口のまわりが腫れていた。前日にボクシングの試合をしたおぼえはない。半年ほど前から蕁麻疹が出るようになったので、どうやらアレルギーによるアナフィラキシー反応のようだった。たいていのアレルギーがそうであるように原因は不明。夢の中で寿司屋のはしごをしたのが悪かったんだろうか。一時間もすると腫れが収まってきたので、出勤して授業もする。生きていくのは色々大変である。