ドーピングの禁止

ときどきスポーツ選手のドーピング問題について考える。どうすればドーピングをなくせるかではない。なぜドーピングはいけないかである。いくら考えてもさっぱりわからない。なぜダメかがわからないので、「ドーピング撲滅」と言われてもまったく共感できない。べつに薬物使用の解禁を主張しているわけではない。良いも悪いもなく、禁止の根拠が見いだせないのである。最初にこれが気になったのは学生の頃だから、もう三十年も考えていることになる。ずっと引っかかっているので、テレビニュースや新聞記事でこの問題が取りあげられていると注意して見るようにしているが、それらは常にドーピングはダメという前提に立って、「はびこる現状」や「積極的な対策」が紹介されるばかりなので、なぜダメなのかという肝心なところの理解は一向にすすまない。「いかにやるか」より「なぜか」のほうが先でしょう。で、見終わるともやもやがつのるばかりなので、またはじめからつらつら考えることになる。そうして二つめの疑問がわいてくる。なぜこれほどあいまいなドーピングの禁止が社会的に受け入れられ、その前提に立って様々な議論がすすめられているのかと。みなさん、この問題については思考停止に陥ってるんでしょうか。いちおう日本版ウィキペディアで挙げられているドーピング禁止の理由は次の四つである。


1.フェアではない。
2.スポーツの価値を損なう。
3.反社会的行為である。
4.健康を害する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0


1の「フェアではない」というのは、ルールで禁止されてるから薬物を利用するのはフェアではないというだけのことなので、公に認めてしまえば薬物使用もフェアな手段ということになる。きっと「ケミカル・トレーニング」とでも名付けられて、パフォーマンスを高める効率の良いトレーニングとして定着するだろう。したがって、これは「そう決められているからダメ」といってるだけの循環論法なので、なぜドーピングを規制しているのかという根拠を示していない。


もしも、この「フェアな競技」という言いぶんが「選手の肉体改造に薬品をはじめとするテクノロジーを一切用いるな」というメッセージだとしたら、大会運営側ははっきりそう主張するべきだ。それがないことには何も議論がはじまらない。ドーピング禁止の根拠として「肉体改造にテクノロジーを用いるな」という価値基準の提示があってはじめて、フェアな競技とは何か、ドーピングの線引きはどうするのか、といった議論がはじまる。フェアな競技とは何かという基本的な価値基準が示されないまま、いかにドーピングを規制するかばかりが議論されている現在の状況は本末転倒に見える。なお、テクノロジーを用いた体質改善をすべて排除するならば、レーシックの手術はもちろん、メガネも歯列矯正もアレルギーの薬も一切ダメということになり、生まれ持った遺伝的形質がより重要になってくる。しかし、生まれついた体質はあくまで偶然の産物にすぎず、それを絶対視する発想は優生思想と同様に私にはけっして「フェア」だとは思えない。


2の「スポーツの価値を損なう」というのは意味不明である。そもそもドーピング規制をとなえる人々の抱く「スポーツの価値」とは何なのかが提示されていないので、それが「損なわれる」と言われても、まるで雲をつかむような言説である。週50時間のデスクワークをしている平均的な中年男性を例にあげて考えてみる。彼は通勤以外に体を動かすことはほとんどなく、体重は十代の頃よりも20kg以上増加している。そんな人物が一念発起し、一年がかりの週末トレーニングによって100mを13秒台で走れるようになったとする。そのことは、遺伝的に運動能力に優れた資質を持った専業のスポーツ選手が一年365日をトレーニングに当てて9秒台で走るよりも、私には健康増進という点で「ずっと価値がある」ように見える。しかし、私のような考え方はいまのところ少数派のようで、ウサイン・ボルトの9秒58に観客たちが熱狂したように、多くの人は超人サーカスとしてショーをスポーツに期待しているらしい。ならば、運動能力を飛躍的に高める新薬を使って100mを7秒台で走る選手が現れたとする。彼は自らがその新薬を使っていることを公表している。また、その新薬は彼にしか適合せず、有害な副作用がないことも医学的に証明されている。この場合、彼が新薬の力を借りて7秒台で走るパフォーマンスを多くの人々が見たいと望んでいるのなら、その超人サーカスはスポーツの価値を大いに高めることになる。つまり、スポーツの価値とは、人々が何を求めているかによって異なる問題であり、2の言いぶんは、薬物が介在した途端に超人サーカスの価値が下落する根拠を具体的に示さねば空疎である。


3の「反社会的行為である」というのは、平たく言うと「いけないことだ」という意味なので、やはり1と同様に「いけないことだからダメ」と言ってるだけの循環論法でまったく根拠になっていない。それにしてもこのウィキペディアの文章はひどい。書いた人はまともな教育を受けていないんだろうか。循環論法が証明にならないのは論理学の初歩である。「決まりだから守れ」「ダメだからダメ」という循環論法が何の根拠も提示していないことは、小学生だってちょっとアタマの回る子なら気づくはずだ。
循環論法(じゅんかんろんぽう)とは? 意味や使い方 - コトバンク


4の「健康を害する」というのは一理ある。肉体を強化する薬品の多くが多量に摂取すると健康を害することが医学的に立証されており、この指摘は四つの中で唯一検討に値する。しかし、この健康を害するという言いぶんは、次のふたつの点で問題をはらんでいる。


まず、そもそも過度の運動は不健康である。運動が健康増進につながるというのはせいぜい初心者レベルまでの話であり、たいていのスポーツは上達すればするほど体に無理な負荷をかける。ジョギングで膝を痛めることもあれば、ゴルフで腰を痛めることもある。こどもの野球だって無理な投げ込みをすれば肘の調子がおかしくなる。ましてやプロスポーツ選手やオリンピック出場者になれば常に怪我との戦いであり、体をすり減らしながら競技に取り組んでいるというのが実情である。もしプロのアメフト選手を十年以上続け、なんの障害も負わず、引退後に車イス生活にならなければそれは幸運なケースといえる。また、女性選手の場合、無理な減量とハードトレーニングで月経が慢性的に止まってしまい、深刻な後遺症を負うケースも多い。にもかかわらずドーピングに限って「健康を害する」と否定するのは矛盾している。「腕がちぎれても投げます」という高校球児の発言を美談として持ち上げるスポーツメディアがドーピングになると手のひらを返したように「不健康だ」と批判するのは、限りなく偽善的だし、プロボクシングの試合で、顔面への強烈な連打による血まみれのKOシーンに歓声をあげている観客たちがもしもボクサーのドーピングを「体に悪い」となげくとしたら、もはや悪い冗談である。


もうひとつは、もし本当に運動選手の健康を気づかって薬物使用の規制が行われているのだとしたら、違反した選手は「保護」の対象になるはずであり、彼らが社会的批判にさらされる合理性はないということである。薬物の使用は当人の健康を害するだけであり、他者になんら危害を加えるものではないからだ。それはコカインや覚醒剤のような法的に規制されている依存性の強い薬品も一緒であり、被害者が存在しないという点で、暴力を振るったり、だましてお金を巻きあげたり、差別発言をネット上にまき散らしたりする行為とは根本的に異なる。オランダやカリフォルニアのような自由主義的傾向の強い社会で体へのダメージの少ない大麻が解禁されたのものそのためである。清原和博覚醒剤使用で逮捕された際、多くの人が「裏切られた」と語っていたが、清原がシャブで良い気分になったところで誰も危害を加えられたわけではなく、あなたも私も痛くも痒くもなかったはずだ。したがって、当人の健康を気づかって薬物使用を問題視しているのなら、「これ以上からだを壊さないよう、はやく薬物依存から抜け出せると良いね」と手をさしのべる、あるいは見まもることが周囲の理性的な対応であり、声高に批判をあびせることではない。


そうして、この三十年間くり返してきたようにまた振り出しに戻る。今回、イギリスのプロボクサーがドーピングについて語っているインタビュー記事をネット上に見つけた。彼の発言は次のような主旨である。

 スポーツ選手には短命な者が多い。健康を損ねるという点ではハードなトレーニングも薬物使用も大差ない。命を縮めるとわかっていて薬物を使うのはあくまで本人の問題であり、使用するかどうかの判断も本人の覚悟次第だ。それに多くのスポーツ選手が実際には薬物を使っているんだから、公にドーピング使用を許可したほうが正直者が馬鹿を見ることがなくなり、むしろフェアになる。

http://www.afpbb.com/articles/-/3067919


何年か前に「ステロイド合衆国 〜スポーツ大国の副作用〜(原題:BIGGER. STRONGER. FASTER)」というドキュメンタリー映画を観た。監督のクリス・ベルもやはり「なぜドーピングはいけないのか」という疑問から出発する。映画のはじめに彼は選手の持久力を高めるための赤血球を増やす方法を三つ紹介する。ひとつめはマラソン選手がしばしば行っている高地トレーニングや低酸素カプセルでのトレーニング。酸素濃度の低い環境に置かれることで徐々に体が順応し体内の赤血球が増加していく。要するに高山病を防ぐための高地順化を利用したやり方である。ふたつめは自己輸血。これは単純で、自分の体から血を抜いて保存し、レース直前に自分に輸血して戻すことで赤血球量を増やし、高地トレーニングと同様に体内の酸素供給効率を高めるというものである。三つめはより直接的に赤血球を増やす薬品を摂取するというもの。いずれも効果は同じだが、オリンピックで認められているのはひとつ目の高地トレーニングだけである。では、なぜ自己輸血と赤血球増加剤はダメなのか。楽だから?でも、それはより効率的な方法と言い換えることができる。インチキだから?でも、それは禁止されているからインチキなのであって禁止の理由にはならない。体に悪いから?たしかに赤血球が増えることで血管が詰まりやすくなり、心筋梗塞のリスクが高まるが、それは高地トレーニングでも一緒だ。わからない、なぜこの線引きがなされているのかさっぱりわからない。で、彼もそこから出発して考えをめぐらしていく。もっとも、彼は私のようにただぼんやり考えているだけでなく、このもやもやした疑問に答えを出すべく、様々な立場の人々に会って取材していく。エライなあ。このドキュメンタリー映画はその取材記録であり、そこにはステロイドのせいで高校生の息子を亡くしたという親へのインタビューもあれば、ステロイド使用を公言しているボディビルダーの話もある。監督のクリス・ベルの語り口は陽気でテンポ良く、マイケル・ムーアのドキュメンタリー手法とよく似ている。そうして様々な声を集めていくことで観る側はアメリカのステロイド事情やドーピング規制には詳しくなっていくが、もちろん最後まで、なぜドーピングがいけないのかというそもそもの問いに答えは出ない。まあそこから先はひとりひとりが考えてくれということなんだろう。うん考えているよ、もう三十年もずっとさ。なんだか私ばかり考えさせられているような気がするので、ぜひ大勢の人にこの映画を観てもらいたい。私は地球上すべての人をドーピングをめぐるこのもやもやした問いに巻き込みたい気分である。

http://www.cinematoday.jp/page/A0001781

http://d.hatena.ne.jp/kick_ass_1978/20101119/1290132424