ミスコン その2

 以前書いた学園祭のミスコンの是非について、ルッキズムルッキズムがもたらす人種的偏見を加筆した。

 個人的にドラマやマンガを見ていてセンスが古いなあと思うのは、「お金持ち」を表す表現として運転手付きロールスロイスのリムジン登場するのと「今度うちのクラスにすっごいきれいな留学生が来るんだって!」という会話の後に金髪で青い目の西洋人の少年や少女が登場する展開。この紋切り型のどちらかが出てきたらその先には期待できそうにないので見るのをやめる。いまどきリムジンを成功者の象徴だと思っているのは演歌歌手とビートたけしくらいではないだろうか。CBSのインタビューに登場したアマゾンのジェフ・ベゾスはホンダの大衆車(たぶんシビック)を自分で運転してたぞ。留学生や外国から転校してきた子にしても、東南アジアや中国から来た子を登場させて、生活習慣の違いや経済感覚の違いを描写したほうがずっとリアリティがあって話もふくらむんじゃないかと思うんだけど。

  

学園祭のミスコン

 近年では、大学だけでなく、高校の文化祭でも「ミスコン」を開催する学校が増えてきました。ミスコンというのは、「うちの学校で一番かわいいのは誰か」を決める美人コンテストです。
 学園祭のミスコンをめぐっては、一部の大学で年々大がかりなイベントになっており、ミスコン優勝者がテレビのアナウンサーやタレントとしてデビューするケースも多くなっています。その一方で、「女性をルックスで序列化するイベント」として長年、批判もされています。「女はカオ・男はカネ」というのは古くからある男女観ですが、ミスコン開催はこうしたジェンダーの押しつけを強化することになります。そのため、数年前には、京都大学国際基督教大学で、学園祭のミスコン開催をめぐって学生間で激しい論争になった末、開催が取りやめになるといったこともありました。
 高校の文化祭で、ミスコンを開催することの是非について、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えをすじみちだてて述べなさい。 (約800字)

 

A 開催を支持する。
 人間は様々な場面で、様々な要素によって、常に評価されている。学校の勉強ができる、運動が得意、絵や文章が上手、話がおもしろい、色々なことを知っている、人とはちがった視点で物事を見ることができる。容姿にすぐれていて自分を魅力的に見せることができるというのも、そうした長所の中のひとつである。人物評価においてルックスは大きな位置を占めており、時には初対面の人に外見だけを見て好意を抱いたりすることもある。それにもかかわらず、ミスコン開催を「ルックスで人間を序列化する差別的なイベント」として批判するのは偽善的である。ルックスに自信のある女子生徒がミスコンに出場し、会場に集まった人たちに自分の魅力をアピールする。それによって支持を集めることは、いたって正当な評価であり、けっして後ろめたいものではない。
 「ルックスは生まれついての要素が大きく、勉強やスポーツでの評価とは同列に論じられない」という批判は的外れである。もし、本人の努力を評価の尺度にするのなら、学校の成績もテストの点数という「結果」ではなく、日頃の授業態度や家庭での学習状況という「努力」で評価されねばならないはずである。同様にスポーツにおいても、試合の勝敗や順位ではなく、どれだけきびしい練習をしてきたかによって勝者を決めねばならないことになる。私たちは、様々な場面で結果によって評価されているのに、ルックスになると結果での評価を批判するのは、あきらかに矛盾した姿勢といえる。ミスコンの優勝者は、成績優秀者やマラソン大会の優勝者と同様に、胸を張って自らを誇っていいはずである。
 現代社会において、容姿にすぐれていて不特定多数の人に自分の魅力をアピールできるというのは、きわめて重要な「能力」であり、それは学校の勉強ができることよりもプラスに作用するケースもある。例えば、接客業や営業職の場合、外見的な魅力はお客さんを惹きつけるための重要な要素であり、それを採用基準にしている企業も多い。テレビの女性アナウンサーが容姿を基準に採用され、大学のミスコン優勝者が集まっているのも、不特定多数の視聴者を惹きつけ、番組に好印象を抱いてもらうためである。
 学校での評価はあまりにも勉強に偏っており、しばしば勉強のできる生徒は「優秀な生徒」、できない生徒は「ダメな生徒」と見なされがちである。しかし、勉強ができることは人間の持つ多様な能力の中のほんの一部であり、学力テストの偏差値で評価されるほうがルックスで評価されるよりも人間として上等という考え方は学校的価値観にすぎない。人間の評価には様々な要素があることを実感するためにも、学校には、勉強以外の事柄で生徒が評価される場面がもっと必要であり、ミスコンの開催はそのひとつになるはずである。

 

B 開催を支持しない。
 昼休みに男子生徒数名が廊下にたむろして、女子生徒が前を通るたびに「2点」「3点」と彼女たちの容姿に点数をつけていたとする。それは最低のセクハラ行為ではないだろうか。人の容姿は点数をつけたり、順位をつけたりするものではないからだ。ミスコンの本質は「誰がうちの学校で一番かわいいか」を決める美人コンテストであり、ミスコン会場でどのようなイベントが催されようと、女子生徒の容姿に点数をつけて優勝者を決めるという点で、そうした行為となんらかわらない。もし、本当に出場者のスピーチの内容で優勝者を決めるのなら、それは「弁論大会」である。あるいは、本気で一発芸のおもしろさを競うのなら「演芸大会」である。それらは男女別にやる必要もないし、ルックスも関係ないはずである。逆に、そのイベントが「ミスコン」として開催される限り、会場での出し物はルックスでの評価のオマケにすぎない。
 また、「ミスコンはルックスに自信のある者が能動的に参加するんだから、順位をつけてもかまわない」という主張は問題の本質をとらえていない。ミスコンの問題は、あたかも客観的な美の基準があるかのように人間の容姿を序列化し、不特定多数が支持する者を「美人」とみなす価値観にある。こうしたルックスによって人間を序列化する価値観を「ルッキズム(外見至上主義)」という。ファッション業界は、長年にわたってルッキズムがはびこっており、モデルたちはバービー人形のような体型のスーパーモデルを頂点にして、「このモデルはアタマが大きいから二流」「このモデルは東洋人で手足が短いから三流」「このモデルは太ったからもう使い物にならない」と容赦なく選別され、序列化されてきた。表面的な美しさの序列が行き着く先は、人間の多様性や個性を否定するこの差別的なピラミッドである。しかし、人間の美しさとは、本来、互いの関係性や思いによって大きく左右されるきわめて複雑なものであり、そんな表面的なものではないはずである。
 例えば、地方で農業を営んでいる初老の夫婦がいたとする。妻の手は長年の畑仕事で節くれだっていて、指先にはいくつものひび割れができているが、夫はそんな妻の手を見て「美しい」と思うこともあるだろう。あるいは、秋の日射しのあたる居間で、丸顔の孫娘がふたりのほうを向いて満面の笑顔で笑っている様子に、息をのむような美しさを感じる瞬間もあるだろう。こうした豊かな感情をともなう美しさの感覚について、ただ人のうわべだけを見て美醜(びしゅう)を判断し、あたかも客観的な容姿の基準があるかのように序列化する行為は、人間性に対する冒涜である。
 ルッキズムは人種的偏見を生む一因にもなっている。西洋人のように手足が長く顔の小さいスタイルを「美しい」とする美醜の基準は、その基準から外れたアジア系やアフリカ系の人たちを「劣った人間」「醜い人間」とする価値観をもたらしてきた。例えば、少女マンガで「今度うちのクラスにすっごいカッコイイ留学生が来るんだって!」という会話があれば、その後に登場するのは十中八九、金髪で青い目の西洋人の少年である。それは少年マンガでも同様であり、「外国から転校してきたカワイイ女の子」として、アフリカや東南アジアから来日した肌の黒い少女が登場することはない。こうした感覚は、制度的な人種差別と違ってわかりにくいが、むしろ私たちの人種観や美意識に与える影響は大きい。ユニクロのように消費者のほとんどが日本人のファッションブランドにおいても、モデルの多くが西洋人なのは、その背景に人種を基準とする美意識がある。ルックスによる序列化が差別的な行為である以上、ミスコン開催は「やりたい人がやるぶんには別にかまわない」ではすまない問題である。それはちょうど在日コリアンの人たちに街頭やネット上で差別的な言葉をあびせるヘイトスピーチが「やりたい人たちには勝手にやらせておけばいい」ではすまないのと同じである。
 現代社会において、不特定多数の人が「美人」と見なす評価基準は、ファッション雑誌やテレビや映画といったマスメディアを通じてすり込まれたものである。ミスコン会場に集まった人々は、自分の好みで選んでいるつもりでも、実際には、マスメディアによってすり込まれた美醜の評価基準を無批判になぞっているにすぎない。つまり、学園祭という場で「学校一の美女」を選ぶという行為を通して、表面的な美しさの序列を再生産しているわけである。このことは、女子生徒を対象にしたミスコンだけでなく、男子生徒を対象にしたイケメン・コンテストや美少年コンテストであっても同様である。学校という物事を考える場において、美男・美女のコンテストを開き、ルッキズムを再生産する行為は、たとえ学園祭というお祭りの出し物であったとしても、あまりにも問題意識に欠けているのではないだろうか。

 

 以下、ルッキズムに関する資料の記事。

五輪式典統括の佐々木氏が辞意表明 
「渡辺さんに対する大変な侮辱。取り返しつかない」
共同通信 2021年3月18日
 東京五輪パラリンピックの開閉会式を巡り、企画、演出で統括役を務めるクリエーティブディレクターの佐々木宏氏(66)が、式典に出演予定だったタレントの渡辺直美さん(33)の容姿を侮辱する内容の演出を関係者に提案していたと「文春オンライン」が17日報じた。佐々木氏は18日未明、謝罪文を公表して辞意を表明。大会組織委員会橋本聖子会長は18日、記者会見を開く。
 組織委では女性蔑視発言で森喜朗前会長が2月に引責辞任したばかりで、五輪開幕が約4カ月後に迫る中で不祥事が相次ぐ事態となった。
 佐々木氏は渡辺さんへの演出アイデアとして、ブタの英単語「ピッグ」を盛り込んだ駄じゃれで「オリンピッグ」というキャラクターを提案。演出関係者のLINE(ライン)グループに書き込んだと認め「渡辺さんに対する大変な侮辱となる発案、発言。取り返しのつかないこと。心からおわび申し上げます」と謝罪して、撤回した上で、統括役辞任の意向を示した。(共同)

 

ルッキズムの残酷さ知ってほしい 
五輪式典統括の辞任騒動で容姿侮辱の経験者から声
東京新聞 2021年3月22日
 東京五輪パラリンピック開閉会式の企画・演出責任者の佐々木宏氏が、渡辺直美さんの容姿をブタに見立てる提案をしていたことが発覚し辞任した。会員制交流サイト(SNS)では「過剰反応」と佐々木氏を擁護する声もあるが、容姿を嘲笑されたことのある女性たちは「ルッキズム」(外見至上主義)が取り沙汰される中、嘲笑の裏にある残酷さを訴える。(原田遼、神谷円香)

◆中高で受けた中傷で20代後半まで摂食障害
 東京都の40代女性は問題となった渡辺さんへの演出案をニュースで知り、いじめと体形に苦しんだ過去を思い出した。「タレント本人がオッケーでも、見ている人が愉快とは限らない。広告業界の最前線で活躍している人がいまだにこんな考えなんて」と絶望した。
 女性は中高の6年間、同級生に「ブス四天王」などと中傷され、「何度も死にたくなった」。お笑い番組で容姿をネタにする芸がはやっており、女性は「同級生は人気者になりたくて、マネしていたんだと思う」と振り返る。
 大学生になりいじめはなくなったが、周囲の視線が気になり「美しくないと、また傷つけられる」「芸能人はみんな細い」「痩せないと」と切迫感に包まれた。当時は身長171センチ、体重58キロの普通体形だったが、極端なダイエットで体重は46キロに減り、生理も止まった。
 その後過食と拒食を繰り返し、「食べては吐く」という日々が20代後半まで続いた。今は克服したが「いじめを助長するような芸を見たくない」と話す。

◆生まれつきアルビノ 面接で「髪染めて」
 横浜市精神保健福祉士、神原由佳さん(27)は、生まれつきメラニン色素がほとんどなく、髪が白く目も青色などになる病気「アルビノ」だ。10代の頃は周りと違う見た目が好きになれなかった。学生時代に受けたアルバイトの面接では、病気の説明をしても「髪は染められないの」と言われた。最近はそうした経験をインターネットで発信している。
 自身もアルビノで、外見に関わる問題に詳しい立教大社会学部の矢吹康夫助教(41)は「本人に変えられない容姿の侮辱は差別」と指摘する。公の場でない仲間内での発言であっても「内輪だからといって許される話ではない」と断じる。

◆「容姿で笑いを取ってはいけない」空気、敏感に
 太った人をブタに例える表現は「これまで多くの人が不快な思いをしてきた。何の新しさもない」と矢吹助教。発信側の意図にかかわらず、嫌な思いをする人がいると分かりきっている表現を、ベテランのクリエーティブディレクターがしたのを問題視する。
 外見の特徴からさまざまな困難に直面する「見た目問題」の解決に取り組むNPO法人「マイフェイス・マイスタイル」(東京都墨田区)の外川浩子代表(53)は「容姿で笑いを取ってはいけない、と今は芸人も、世の中の空気もなってきているはず。鈍感な人は追い付いていない」と指摘する。

 

職場に、家庭に、まん延する「ルッキズム(外見至上主義)」
中国新聞 2021年3/20(土)
 東京五輪パラリンピックの開閉会式の演出で女性タレントの容姿を侮辱するような案が浮上したことが批判されたが、「見た目で評価されて嫌だった」との声は少なくない。外見至上主義は「ルッキズム」とも呼ばれる。身近にある不快な体験とはどんなものなのか・・・。
 広島市安佐南区の女性(39)が1月、飲食店のアルバイトを辞めさせられたのは、天然パーマが理由だった。きちんと整髪料を付けていたのに「清潔感がない。きちんと髪をセットして」と上司から注意された。これ以上のセットとなると高額な縮毛矯正が必要になる。「仕事ぶりじゃなく髪質で判断されるのは理不尽」と今も納得いかない。
 以前勤めたファストフード店では、男性店長が「9号の制服が入らない女性はカウンターに立てない」と決め、この女性は調理場に配属された。「接客を担当する人は細身がいい」という押し付けに傷ついた。
 ルッキズムは、容姿、外見という意味の英語「look」と「主義」を意味する「ism」を合わせた単語。女性は今回の五輪演出問題について「外見で人生が左右されることもあるのに、ネタにする感覚が理解できない」と憤る。
 同区の別の会社員女性(37)は演出案を「ルッキズムが社会にまん延し、感覚がまひしている証拠」と言う。前の会社では同僚男性たちが新人の女性を「顔が何点、スタイル何点」などと採点していた。取引先の男性も好みの部下を「かわいいでしょ」と紹介する一方で、他の部下のことを「彼女、仕事はできるけど顔がイマイチでさー」と陰口を言っていた。
 思えば就活中にも「顔採用」が暗黙の了解だった企業があった。個人的な美醜の感覚は誰にもあり、美しいものを求める気持ちは分かる。でも「容姿によって機会や可能性の不均衡が生じるのは問題ではないでしょうか」と問い掛ける。
 東区の会社員男性(41)も「女は顔、男は身長」という風潮があると感じる。学生時代から人気なのは、かわいい女子と背が高い男子。女友達が「彼イケメンだけど背が低いのが残念よね」と言うたび違和感を覚えると打ち明ける。
 「若い頃から見た目を否定されて嫌だった」と話すのは呉市の女性(52)。「顔が大きい」「貧乳」という言葉にしおれた。パート先でも「きちんと化粧して」「身なりに無頓着だから老けて見える」と指摘されショックを受けた。
 出産後に14キロ太った福山市のパート女性(38)は、夫から「前の体形に戻ってほしい」と求められた。産前と変わらないスタイルで仕事復帰する芸能人がメディアで取り上げられるたび、「一般人も出産で太ってはいけない」とプレッシャーを感じるという。
 学校で劣等感を植え付けられた人もいる。福山市の女子学生(23)は170センチの長身で、小さい頃からあだ名は「巨人」や「のっぽ」。身体測定の時間が苦痛で、小柄に見られたくて猫背の癖がついた。高校の修学旅行で訪れたカナダで聞いた友人の一言は「ここにいると普通だね」。「日本だと普通じゃないってこと?」と悲しかった。
 女友達も外見にとらわれていて、みんな口癖のように「痩せなきゃ」「二重まぶたになりたい」と言う。街中にはダイエットや脱毛の広告があふれ、「私たちは無意識に社会が決めた『美しさ』に縛られている気がします」

 

「なぜ痩せていて美人が最強なのか」日本で根強い"ルッキズム"の呪い
たったひと言が原因で摂食障害
シオリーヌ(大貫 詩織)助産師/性教育YouTuber
PRESIDENT Online 2021/03/07
 「外見より中身」とは言うものの、ネットも街角も容姿についての情報であふれ、外見の美醜で人を評価する風潮は根強く存在しています。助産師で「性教育YouTuber」のシオリーヌさんが、自身が「ルッキズム」(外見至上主義)にとらわれて摂食障害になった経験を挙げながら、自分のありのままの姿を肯定することの大切さを説きます――。

なぜ「自分の身体が大キライ!」と思うのか
 ボディイメージとは、自分の身体にたいして自分が持つ認識やイメージのこと。今の自分の身体を、どんなふうに捉えるか。どんなふうに評価するか。そんな要素をまとめてあらわす言葉です。
社会の中で暮らしていると、ボディイメージに影響を与えるさまざまな情報と出会います。
  太っていることは、醜いこと。
  痩せる努力をできる人が素晴らしい。
  筋肉がない人は魅力が足りない。
  ムダ毛の有無は女性の魅力を左右する。
  髪の薄さは男性の魅力を左右する……。
 例を挙げればキリがありませんが、自分の容姿が社会的に見てどうなのかを考えざるをえないような場面を経験することはたくさんあるかと思います。
 ただ、あなたの身体にとって最も重要なのは、あなた自身が心地よく過ごせる身体であるかどうかです。

「痩せている」ことより大切なこと
 それでも社会の中では、雑誌やSNSでみるスリムなモデルさんをお手本のように捉え、美しいとされる美容体重を目指して多くの人がダイエットに励んでいます。
 もう一度言います。あなたの身体にとって最も大切なのは、あなた自身が心地よく過ごせる身体であるかどうかです。あなたの身体をどんなふうに受け止めるか、そしてあなたの身体にどんな変化を起こすか(もしくはどんな変化も必要としないか)を決める権利は、あなた自身にあります。
 どうか自分にとって一番心地よい自分の身体を、大切にして暮らしていただけたらと思っています。

外見が人生を左右する「ルッキズム
 日本は、ルッキズムの文化が根付いた国です。
 ルッキズムとは、外見でその人の価値をはかり差別する考え方のこと。例えば「太っている人は痩せている人より劣っている」とか、「二重(ふたえ)の人は一重(ひとえ)の人よりも価値がある」とかそういったものです。
 そもそも生まれ持った顔の構造や体格、体質、肌の色は自分で選べるものではありません。生まれつき二重の人もいれば、目が小さい人もいる。同じ量の食事を摂っていても全く太らない人もいれば、脂肪がつきやすい体質の人もいる。
 自分の意志で選べないもので人の評価を決めつけることは、ありのままの自分で生きるという、人の権利を覆す行為です。

ダイエットが摂食障害の引き金に
 また日本では多くの人が「摂食障害」という疾患に悩まされています。摂食障害とは、拒食や過食など食事に関する行動に異常がみられ、それによって身体的もしくは精神的に日常生活に支障をきたす症状が現れる疾患です。
 摂食障害になるきっかけや、なってからの経過は人それぞれですが、ダイエットが引き金になるケースも多いのが特徴です。
 実は、私自身も摂食障害の経験者です。きっかけは大学生の時、当時の恋人から、「もう少し痩せてほしい」という言葉を受け取ったことでした。

外見の評価、言葉にする前に立ち止まって
 外見で判断される風潮に苦しめられるのは、体型に自信のない人だけではありません。
 身長にコンプレックスがある人、顔のパーツが気になる人、自分の声が嫌いな人。そうしたコンプレックスを抱くようになった背景には、第三者からの評価があることも少なくありません。
 誰かの外見を見た時に「綺麗だな」と思ったり「自分の好みではない」と思ったり、心の中でどんな感想を抱いたとしてもそれは自由です。でも人の外見に対しての評価を言葉にして伝えることは、その人の一生を左右する可能性のある行為であることを忘れないでください。
 たとえそれが褒め言葉のつもりだったとしても、相手にとっては一生モノのコンプレックスを新たに植えつけられる経験かもしれないし、すでにあるコンプレックスを掘り起こすきっかけになるかもしれません。
 外見を評価する言葉を手放して人を褒めようと思うと、意外と語彙が必要だなと感じますが、その気遣いの積み重ねがより豊かな人間関係を育んでくれる気がします。

 

 

 九年前に書いた文章はこちら。

ミスコン - box96