「つきあってください」は不自然?

 論述問題の課題として、「つきあってください」は変じゃないのかというのを作成した。どうも最近は中学生や高校生だけでなく、いい歳したおとなまで言うらしいのである。どうなってんのさ。先日ラジオを聞いていたら、スウェーデンから来日したというゲストに30代くらいの日本人ふたりが「えええっ!!スウェーデンじゃつきあってくださいって告白はないの!?」と盛大に驚いていたけど、あるわけないじゃんそんなの、それ日本の若者の特殊な慣習だよ、むしろ、自分の常識を疑おうとしない彼らの姿勢のほうが驚きだよ。そもそも色恋や友情は約束によって成立するもんじゃねえですぜ。なんだか近頃、高校生たちよりも30代40代の人たちにカルチャーギャップを感じるケースが増えてます。

 私はこの「つきあってください」や「友だちになろうよ」のセリフをドラマやマンガで見かける度にゲマインシャフトゲゼルシャフトが浸食してくるような居心地の悪さを感じる。てやんでえ人を囲い込むような姑息なマネすんじゃねえよって感じ。自覚していなかったが、こどもの頃に読んだ「ど根性ガエル」と「あばれはっちゃく」が自分の人格形成にもたらした影響は大きいらしい。というわけで、課題の参考意見は、個人的にはAの言いぶんを全面的に支持するというかAは私自身のいだいている違和感です。Bのほうは半日かけて心にもないことをひねり出してみました。

 

「つきあってください」は不自然?

 校舎裏や屋上に意中の相手を呼び出し、「つきあってください」と相手に告白するというのは、学園もののドラマやマンガでおなじみのシーンです。しかし、本来、恋愛は商品の売り買いやアルバイトの採用とは異なり、契約によって成立するものではなく、互いの個人的な感情によって親しくなった末に成り立つ関係性です。そのため、よく知らない相手にいきなり、「これから先、互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を共にしよう」という踏み込んだ関係を「つきあってほしい」という約束によって成立させようとするのは、かなり乱暴なものに見えます。また、逆に、手をつないで一緒に出かけるくらい親しくなった相手に、「つきあおう」と言うのもいまさらという感じでやはり不自然に見えます。
 恋人の約束をする慣習が日本の若者に広まったのは、1980年代から90年代にかけてテレビで放送された合コン番組の中で「告白タイム」という演出が用いられ、参加者が意中の相手に「つきあってください!」と告げるシーンを番組の山場としたことがきっかけになり、定着していったものです。日本の若者独特の慣習で、日本以外には、恋愛を約束によって成立させるケースはほとんど見かけません。ビーチや酒場で気に入った相手に声をかけることは世界中にありますが、それはあくまで親しくなるきっかけづくりです。
 恋愛を「つきあってほしい」という約束によって成立させようとするのは不自然な行為なのか、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを書きなさい。(約800字)


A 強い違和感をおぼえる。
 恋愛感情や友情は親しくなっていく過程で育まれるものであり、「つきあってください」や「友だちになろうよ」という言葉によって恋人や友だちになったりするものではないからだ。つまり、行動を共にしたり、会話を交わしたりする中で、一緒にいると楽しい、もっと一緒にいたいという思いが生まれるもののはずである。
 もしその相手と親しくなりたいのなら、「今度、一緒に映画に行かない?」と誘ってみたり、自分が気に入っている小説やゲームを「これ面白かったよ」と薦(すす)めてみたりして、少しずつ互いの共通体験をつくっていくべきだ。同じ出来事を共に体験して一緒に泣いたり笑ったりケンカしたりしていく中で、互いの関係性は深まっていく。そうした過程を飛ばして、相手のことをよく知らないまま、いきなり「つきあってください」と恋愛感情や性的体験をともなう深い関係を求め、約束によって互いの関係性を固定しようとするのは、あまりにも乱暴である。
 結婚は互いの合意によって結ばれる契約なので、相手に花束を差し出して「Marry me !(結婚して!)」と申し出るプロポーズは世界中で行われている。派手なサプライズイベントにするか、そっと申し出るかは人それぞれだが、ふたりの約束がないと結婚が成立しないのは世界共通である。一方、恋愛や友情は、互いの親しさによって成り立つ連続的な関係であり、約束によってその日から「恋人」になったり、「友だち」になったりするものではない。「つきあってください」という交際の申し出が日本以外にほとんど存在しないのもそのためである。日本では、1980年代におもに中学生や高校生に広まったものだが、これは恋愛経験にとぼしく、結婚と恋愛のちがいをわかっていない若者たちによる幼稚な慣習といえるのではないだろうか。
 恋愛で重要なのは、ふたりの間にいままでなにがあったのかという中身のほうであり、「つきあっている」という関係性のワク組みではない。一緒に過ごした楽しい思い出がたくさんあれば、恋人の約束などなくてもそれは充実したいい関係だし、そうした中身がなければ、恋人の約束をしていても形だけのカップルにすぎない。同じことが「友だちになろうよ」という言葉の不自然さにもいえる。もし「口約束だけでは心持たないから」と誓約書(せいやくしょ)の提出を求められたら、恋愛や友情に契約が入ってくることの違和感に誰もが気づくだろう。恋愛や友情は純粋に互いの気持ちによってのみ成り立つ関係であり、だからこそ損得(そんとく)や打算(ださん)を越えたきずなが生まれるのではないだろうか。

 

B 不自然ではない。
 日本で恋愛結婚が広まったのは1960年代なかば以降で、それ以前は、お見合い結婚のほうが一般的だった。とくに中流以上の家庭では、ほとんどがお見合い結婚だった。それまで顔も名前も知らなかった相手とお見合いし、親しくなる間もなく結婚し、こどもをつくり、家庭をかまるというのが日本人の一般的な生きかただった。そこでは関係性のワク組みが先にあり、相手との親しい関係はその後から築かれていく。現代においても、合コンやお見合いパーティはカジュアルなお見合いであり、古くからのお見合い文化の延長線上にある。そのため、合コンやお見合いパーティで知り合った相手に、これから先、結婚を前提とした交際をしていきたいという意思表示として、「つきあってください」と申し込むのは、適切な表現である。形から入ろうとするのは日本的慣習といえる。
 一方、結婚を前提としない自由恋愛は、欧米諸国とは異なり、日本では現在も定着しているとはいえない。複数の相手と親しくなり、その中から気のあった相手とより深い関係を築いていくというのは、恋愛としてはごく自然な成り行きのはずだが、そうした関係性のワク組みを先に決めない交際の場合、積極的に人と関わろうとする社交性とある程度のコミュニケーション・スキルがないと関係を深めていくのは難しい。また、はじめから相手をひとりに絞らない交際は、トラブルを生みやすく、日本では、しばしば「不誠実」「だらしない」と批判されがちである。
 テレビの合コン番組の「告白タイム」も結婚のプロポーズを模(も)したものだった。男性参加者が意中の女性参加者の前に立って手を差し伸べ、自分の気持ちを伝える。違いは、花束を差し出して「結婚してください!」と告げる代わりに「つきあってください!」と叫ぶことだった。この疑似プロポーズとしての「つきあってください」が1980年代に若者たちから支持され、その後、慣習として定着していったのも、いまも多くの日本の若者が恋愛を結婚の前段階と見なしているからではないだろうか。こうした恋愛と結婚を連続的にとらえる傾向は、他のアジア諸国にも共通しており、恋人の約束は、日本の若者だけでなく、アジア各国に慣習として存在する。恋愛と結婚を連続的にとらえているなら、恋愛も結婚同様にふたりの関係を明確にする約束があったほうが好ましい。「つきあってください」という言葉はそのためのものである。

 

〔追記〕 周囲の人たちにこれどう思うか聞いてみたところ、小学生の娘がいる女性が少し憤慨しながらこう話していた。「そうそう、うちの娘のクラスでね、この友だちになろうっていう約束がグループづくりに使われてて問題になってるのよ。うちの娘、友だちになる約束をしたのに他のグループの子たちと遊んでるなんてずるいって言われているらしくて、なんかグループ内で裏切り者扱いされてるみたいなのよ」とのこと。友だちは約束してなるものっていう予約システムみたいな仕組みだとこういうめんどうな状況にもなりますわな。