うるせえ、行きたいから行くんだよ、バーカ!

 テレビのHDDレコーダーの容量確保のため、録りだめておいた「プラネテス」の再放送をまとめて見る。全26話。物語の舞台になるのは、宇宙での暮らしがいまよりも身近になった未来の世界。観光や仕事で地球軌道の宇宙ステーションや月のステーションに人々がおとずれるのがめずらしくなっているが、その一方でまだ木星より遠くの宇宙には誰も行っていない、そんなすこし先の未来。物語は地球の衛星軌道上にある宇宙ステーションを舞台に、宇宙船の安全な航行のために「スペース・デブリ」と呼ばれる宇宙ゴミを回収する宇宙飛行士たちの活動が描かれる。デブリは過去に打ち上げられた人工衛星の残骸からネジ一本まで、大小様々なものが大量に地球軌道を周回しており、それは秒速数kmという高速で移動しているので、宇宙船に直撃したら大惨事になりかねない。そこで安全航行の妨げになりそうなデブリをその都度、宇宙飛行士たちが回収していく。物語はその回収作業の様子や彼らの宇宙ステーションでの生活を追いながらすすんでいく……と、舞台はなかなか興味深いんだけど、ちっとも話が広がっていかない。そのうち面白くなるんじゃないかと我慢して見つづけたけど、結局最後まで巻き返すことはなかった。

 

 

 物語はひとりの若い女性が新入社員としてデブリ課に配属されるところからはじまる。この新人は、事あるごとにこどもっぽい正義感を振りかざし、周囲の人間や会社のやり方に突っかかっていく。「そんなのおかしいですよ」と「愛は世界を救うんです」が彼女の口癖。大卒で入社ということになっているが、その言動は中学生くらいの女の子に見える。では、そんな彼女は宇宙飛行士としての経験をつむにつれて成長しいくのか。ぜんぜんそうならない。彼女の成長が描かれるどころか、途中から主役を降りてしまい、相棒の宇宙飛行士の安否におろおろするだけの世話焼き女房の役どころに納まっていく。ずいぶんひどい扱いである。女は帰るべき港だなんて未来の宇宙ステーションは昭和歌謡の世界なのであった。26話を通して物語に視点の軸がないので、ひどく散漫に見える。もし彼女の成長していく様子を全体の軸にすえて、彼女のまなざしを通して、人々の宇宙での暮らしや宇宙開発の意義や矛盾が提示されていけば、もう少し劇中の世界に広がりと物語に深みが出たんじゃないかと思うんだけど。

 

 もうひとりの主人公は同じデブリ課に所属する若い男。原作のマンガではアニメと違って彼が一貫して主人公らしい。若いがそれなりに経験があるようで、デブリ回収の腕はいい。なんだけれど、やはり彼も精神的に非常に幼稚で、気に入らないことがあるとすぐに激昂し、あたりかまわず怒鳴り散らす。よくこんな情緒不安定な若者に宇宙空間での船外活動なんてやらせてるよなあ。スペース・デブリの回収は、デブリの速度や質量からその動きを予測しつつ、自分たちの安全を確保しながら冷静に対処することが求められるきわめて専門性の高い業務のはずだけど、未来の宇宙は人材不足なんだろうか。彼は20代半ばくらいのようだが、すぐに周囲に当たり散らす様子はやはり思春期まっただ中の中学生男子といった感じ。劇中では、このあまり魅力的ではない、精神的にやけに幼いふたりが毎回大声でわめきちらしながらケンカを繰り広げる様子がデブリ課の日常としてくり返し描かれる。ああもう見る気しなくなってきたでしょ。うん、なんども途中でやめようと思ったよ。なんせ26話もあるし。

 

 劇中のデブリ課は利益につながらない業務内容であることから、社内で軽んじられており、出世コースから外れたはみ出し者たちの吹きだまりとされている。しかし、デブリ回収は、宇宙船の安全航行のために不可欠な重要ミッションだし、宇宙服を着ての船外作業は危険を伴う高度に専門的な業務なので、その作業員たちはみなデブリの軌道予測と船外活動に長けたスペシャリストのはずである。短期間のトレーニングで誰でもできるようになる簡単な仕事というわけにはいかないだろう。空港だって滑走路やその周囲の安全管理をおざなりにしているところなんかないはずだ。したがって、本来なら、デブリ回収班は社内でも一目置かれるスペシャリスト集団のはずで、劇中のデブリ課の位置づけ自体がそもそも不自然である。劇中で繰り広げられる宇宙空間でのデブリ回収作業の緊迫した描写とも整合性がとれない。また、劇中のデブリの回収作業では、しばしば船外作業員たちの生死に関わるようなトラブルに遭遇する場面が描かれる。そうした危険と隣り合わせの職場の場合、ちょうど落盤事故の多い炭鉱労働でヤマの男たちがみな強いきずなで結ばれていたように、仲間との結束は必然的に強まる。仲間への信頼がなければ、宇宙空間の船外作業などできないはずだし、そこでの互いの関係性はたんなるビジネスライクなつきあいには収まらないだろう。そういう特殊な職場環境での人間模様というのは、ドラマの「ER」のような興味深い群像劇になるはずだし、こちらとしてはそれを期待して見続けたんだけど、一向にそんな人間模様に焦点があたることもなく、彼らの人物像が掘り下げられることもない。回がすすんでも一話目とかわらず、オフィスでのドタバタが出来の悪いコントのようにくり返される。主人公くんは気に入らないことがあるとすぐにふてくされて周囲に当たり散らし、新入社員ちゃんはそれに憤慨して抗議する。「そんなのひどすぎます!愛は地球を救うんです!」。なにこれ。

 

 

 劇中には様々なデジタル機器が登場する。コンピューター、通信機器、カメラ、テレビ、どれもこれもこの作品が制作された20年前の機材を元に描かれてるため、デザインがやけに古くさい。たびたび登場するオフィスのノートパソコンなんて20年前の機種そのままだ。ひとりで描いているマンガなら小道具のデザインまで手が回らないのは仕方ない。しかし、大勢のスタッフが参加しているアニメーションの場合、宇宙での暮らしが身近なものになった21世紀末のデジタルガジェットについて考証し、それをデザインする専門のスタッフくらいつければいいのに。シド・ミードでなくてもいいからさ。些細な問題と言えばそうなんだけど、こういう作品の場合、未来像を提示するのは作品の重要な要素のはずで、そのディテールを手抜きするとひどく安っぽく見えてしまう。まあ、鉄腕アトムのように黒電話で宇宙と通信するくらいに描かれていれば、あえてリアリティを排除したマンガ的手法と解釈できるけど。

 

 物語の舞台になっている未来世界でも、宇宙開発は莫大な国家予算が必要とされる巨大事業ということになっており、各国の威信や政治的思惑、宇宙開発関連企業の利権が渦巻いている。その点で原子力事業とよく似ている。では、その莫大な投資の見返りはなにか。劇中では、惑星や衛星で採掘される資源ということになっている。でも、その頃には、いまよりもずっと効率の良いソーラーパネルがホームセンターで手軽に入手できるくらい安く大量に出回っているだろうから、人間が地球で活動しているぶんには、エネルギー問題はとっくに解決しているはずだ。戸建て住宅なら、屋根そのものをソーラーパネルでつくっているかもしれない。では、資源確保以外に人間が宇宙へ進出する意義はなにか。もちろん「夢と希望」である。科学調査と資源採掘だけなら、無人探査船で事足りる。大航海時代の船団では、海図の存在しない未知の海域へ向けて、百人くらいの奴隷のような扱いの水夫たちを乗せて出航していった。水夫の生命は軽く、病気や飢えで亡くなった者は、人肉食をふせぐために海へ投げ捨てられることもあった。マゼランの世界一周の航海では、二百数十人の乗組員のうち、帰還できたのは十八人だけだった。しかし、宇宙探査では、その危険な任務はロボットとコンピューターに置き換えが可能である。それによって、乗組員を危険にさらすことなく、かつ、空気・水・食料・居住スペースといった乗組員の生命維持のための設備が不要になるため、数十分の一から数百分の一の費用での運用が可能になる。むしろ、宇宙船に人間の乗組員を乗船させる合理的理由がない。そのため、人間が宇宙へ活動領域を拡大することの意義について、劇中ではくり返し「人類の夢と希望」が語られる。このへんも原子力村の論理によく似ている。しかし、夢や希望は「人類」や「人間」といった大きな主語で語るべきものではない。大きな主語で夢や希望を語るのは、山師が出資者を煙に巻く際の論法である。当然、劇中の世界でも、宇宙開発への批判の声があがっている。貧困や紛争や環境問題など地上に問題があふれているのに、宇宙開発に巨額の国家予算を投じるのはおかしいというお馴染みの批判である。お馴染みではあるが、それは至って理性的な判断であり、かつ問題の本質を的確に射ている。劇中では、それに対して「なにをいまさら」と応じるだけで、その批判に正面から向き合うことはない。

 

 メジャーリーグで活躍することを夢見ている若者がいたとする。メジャーリーグのマウンドに立ち、剛速球で強打者たちから三振をとるのが夢だと彼は語る。大いにけっこうだ。ところが「俺がメジャーで180kmの剛速球を投げるのは人類の夢と希望だ」と言い出した。よっぽど自分のことが好きらしい。さらに「180kmの剛速球という前人未到の偉業のために各国はGDPの0.1%を俺のトレーニングに拠出すべきだ」と彼はつづけた。もう自己評価は青天井だ。あまり知られていない事実だが、じつはこの世界は彼を中心に回っていたのだ。当然、周囲の連中はそれを冗談だと受け取って笑っていると、「笑うな!メジャーで180kmの剛速球を投げる偉業にくらべたらGDPの0.1%なんてタダみたいなもんじゃないか!俺は本気だ!」と怒鳴りだした。どうしよう、こいつマジだぜ。この「180kmの剛速球」は「100mを8秒台」や「テトリスで1000万点」と置き換え可能である。もちろん「木星へ行く」に置き換えてもいいし、「高速増殖炉の実用化」でもいい。夢と希望という点ではどれも同じことである。しかし、日々の暮らしに精一杯で宇宙への夢どころではない人も世の中にはいくらでも存在する。そうした人たちも含めて徴収した税金が投入されるわけだから、宇宙開発は自らのポケットマネーで行く登山旅行とは異なり、そこに山があるからではすまない。宇宙へ行くことでこういうメリットが人々にもたらされると提示されねばならない。それは経済的利益に限定する必要はなく、宇宙の謎の究明という自然科学的アプローチでもいいし、人間が地球外に居住することによる社会変化という社会科学的アプローチでもいい。それが具体的に提示されてはじめて、それは事実なのか、実現可能なのか、本当に人が乗り込む必然性があるのか、費用に見合うだけの価値があるのか、社会保障や途上国支援よりも優先すべき事案なのかといった検証がはじまる。しかし、劇中では結局最後までなにも提示されない。そのかわりに主人公くんは言う、「うるせえ、行きたいから行くんだよ、バーカ!」。あーあ。

 

 そこまで開き直ってタンカを切るなら国家や企業のサポートなんかに寄りかからないで、個人プロジェクトとしてクラウドファンディングで同好の士から資金を募るところから立ち上げればいいのに。きっと少ない小遣いの中から彼の夢に出資してくれる奇特な人もいることだろう。限られた資金の中で彼が乗ることになる宇宙船は、もしかしたら最貧国の町工場でつくられたものかもしれない。でも、そこでのドラマのほうが本作で登場人物がしたり顔で語るうわべばかりの経済格差や貧困問題なんかよりもずっと前向きで波瀾万丈な物語になるはずだ。

 

 劇中では、宇宙開発への批判に最後まで正面から向き合うことはない。そのかわりに、宇宙開発を批判する人々を極端に醜く描くことによって、その批判を回避しようとする。宇宙開発の問題点を指摘する記者は、宇宙飛行士を罠にかけ貶めようとする悪意ある人物として描かれ、宇宙開発に反対する人々は、開発阻止のためなら無差別殺人を平気で実行する残忍で狂信的なテロリスト集団として描かれる。それはまるで陰謀論者の思い描く世界像である。そうすることでなんら検証されないまま、宇宙開発への異議申立ては劇中から排除される。フィクション作品に作り手の主張を盛り込むのはかまわない。古今東西の物語には、たいていなんらかの政治的主張が込められている。しかし、それに対するアンチテーゼを悪役に負わせることで排除しようとする手法は、ひどく独善的でアンフェアだ。それはこの作品の中でもっとも嫌らしい部分といえる。またそれは、小林よしのりが「ゴーマニズム宣言」でくり返し用いてきた手法でもある。極端な例をあげれば、アメリカの南北戦争を舞台に、黒人奴隷制度の正当性を掲げて南軍に入隊する若者を「高い志を抱く英雄」として描き、逆に、リンカーンをはじめとする黒人奴隷の廃止をとなえる人々を薄っぺらな偽善者、北軍の兵士たちを狂気のカルト集団として描写すれば、劇中で基本的人権や人種的平等を全否定することだってできる。この作品における宇宙開発の是非をめぐるやり取りは、それとなんらかわらない。

 

 で、宇宙開発についてなんの検証もないまま、主人公くんは木星へ行ってしまう。(あ、以下、ネタバレってやつです。この文章を読んで「プラネテス」を猛烈に見たくなったっていうチャレンジャーはあまり多くないでしょうが、念のため。)税金を湯水のようにつぎ込んで建造された最新型の高速宇宙船に乗って、一緒に宇宙船に乗り組んだ父親からは、船乗りにとって女は帰るべき港だとかなんとか昭和歌謡みたいなことを言われて、本当に世話焼き女房になってしまった新入社員ちゃんを地球に残して。この「木星へ行く」という行為は、人類が次のステップへ進むための到達点としてアーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」で描かれ、以来、人類進化の象徴として様々な作品で引用されている。本作の木星行きもそうした意味合いをもたせているんだろう。その根底にあるのは、超越的な存在によって意図的に人類進化がもたらされ、人類は地球の生命進化の頂点に立っているとする生命観である。そこでは、ダーウィンの説くランダムな変異としての生命進化は否定され、生命進化と人間の歴史は進歩・発展のひとつづきの連続的な歩みと解釈される。だから、人類の宇宙進出は「生命の新たな一歩」とされる。その自己中心的な生命観は、西洋諸国による植民地支配や障害者の殺処分(施策としての死の強要は「安楽死」ではない)を「人類の進歩をもたらす」として肯定した社会ダーウィニズムと根を同じくするものである。宇宙開発の正当性について、なんら合理的理由を提示できないまま、最後に持ち出してくる拠り所がこの疑似科学の生命観だったというのは象徴的である。

 

 じゃあ、それまで劇中で描かれてきたスペースデブリの回収業務っていったいなんだったのか。もちろん、社内の落ちこぼれがやらされてる取るに足りないルーティンワークであって、主人公くんはそれを惰性で嫌々つづけてきたにすぎない。なんたって男子たるもの宇宙の彼方を目指してこそ一人前なのである。夢は星々の彼方にあるのだ。その第一歩が木星であり、木星へ行かないことには、人類(=男子)は次の段階へ進めないのである。その重要さにくらべたら、地球周回軌道上のゴミ拾いなんて文字通りゴミのような仕事であり、最低賃金のアルバイトにでもやらせておけばいい。主人公くんのような志の高い宇宙飛行士がデブリ回収屋としての生き方に疑問をいだくのは当然であり、職場でいつもふてくされていたのも仕方ないことなのである。一方、女は仕事や社会に余計な口をはさんだりせず、男の帰るべき港として家庭をしっかり守れるようになってこそ一人前なのである。じつは未来の宇宙ステーションは浪速恋しぐれの世界だったのである。そりゃわいはアホや、酒もあおるし女も泣かす、せやかてそれもこれもみんな木星へ行くためや、いまはこないなゴミ拾いで食いつないでおっても、いつかきっとわいは木星へ行ったるんや、木星やで、木星!わかってるやろ、お浜、なんやその辛気くさい顔は!酒や酒や酒買うてこい!!実際にJAXAスペースデブリの回収計画に取り組んでいる人たちは、劇中のひどい扱いに抗議の声をあげなかったんだろうか。

 

 というわけで見てる間は苛々がつのり、見終わった後はひどく後味の悪さが残る作品でした。そのもやもやした気分をここに吐き出したくなるくらいにさ。2022年の夏休みを返せ。

 

プラネテス - Wikipedia