about box96

 世の中に人の来るこそうれしけれ とは云ふもののおまえではなし
                           内田百閒


 このブログは「クロ箱」というWebサイトの更新状況、備忘録、身辺雑記、その他です。

 頻繁に更新するWebサイトではないので、原始的なHTMLの「ホームページ」で十分なんですが、更新状況や身辺雑記はブログのほうが便利そうなので、2011年分からこちらに移行しました。コメントもトラックバックもつけられます。辞書をひくのが面倒な人のために自動生成リンクだってついてます。なんだか囲い込まれているみたいで居心地が悪いですが、ともかく多機能です。


クロ箱
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クロ箱ファッキュー
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どんなやつが書いているのかわからないと気味が悪いという方はこちらを
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ちまちまコメントなんか書いてらんねえよという方はメールで
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業者敬語

 ラジオで若い女性タレントが言う。「この間、NHKさんに出演させていただきまして、そのときウッチャンナンチャンさんにお会いさせていただだきまして……」。なんだろう、このムズムズするへんな感じ。さらに自分が乗ってるクルマを「わたし、トヨタさんのプリウスに乗らせていただいてるんですが」と言う。なんらかの事情でトヨタからプリウスを無償貸与されているのかと思ったら、どうやら自分のクルマのことを「乗らせていただいている」と言ってるらしい。事務所からそう言えと教育されているんだろうか。でも、彼女はなんでそこまでへりくだっているんだろう。機械的に話している感じでなにかに敬意をいだいているようには感じられない。むしろ、自分のパーソナリティを遮断しようとする厚い仮面のようなものを感じる。ビートルズさんやローリングストーンズさんを楽しく聞かせていただいたり、台湾さんや韓国さんを楽しく旅行させていただいたりしているんだろうか。ここ数年、若いタレントたちがこの業者敬語みたいなへんな喋り方をするのをやたらと耳にするようになったが、本来、「さん」は人に用いる尊称である。丁寧に話したいのならNHKの「みなさん」だし、ウッチャンナンチャンの「おふたり」のはずである。

 企業名・団体名に「さん」を用いるのは、少し前まで、すれっからしの業界人が使うかなり下卑た業者用語だった。たとえば、営業所で同僚と「いやあ凸凹産業さん、契約渋くってさあ」「凸凹さんってあれだろ、何度も呼びつけたあげく結局断るって評判のさ」とぼやきあう。あるいは外務官僚がぶら下がりの記者たちにオフレコと念を押して「今回の交渉はアメリカさんが手強くってね」とぼやく。もちろんこうした会話は内輪の軽口に限定されるもので、公式の場やお客さんの前では使えなかったはずである。少なくとも、1990年代末に深夜のテレビ通販で、アクの強い通販業者たちがパナソニックさんやカシオさんを連発しながらセールストークをまくしたてるようになるまでは、場を選ぶ言い回しだった。もし、証券会社のセールスマンが個人客に対して、「いまはイオンさんやダイエーさんあたりの流通業界さんが狙い目ですねえ」などと言い出したら、業界の方しか向いていない様子が透けて見えるので、顧客の信頼は得られないだろう。あるいは公的な発表の場で、「今回、三菱さんとの合併がまとまりまして」とか「アメリカさんとの通商交渉が締結いたしまして」などと担当者が言い出したら、社員や職員の教育はどうなってるんだと組織としての信用を落としかねない。

 元々下卑た業者用語なので、そこにはしばしばあざけりのニュアンスも込められる。相手チームをカモにしている野球選手が試合後の会見で「いやあ、阪神さんにはいつもお世話になってます」などとコメントしたら、そのなめた物言いに次の阪神戦では、彼のアタマめがけて剛速球が飛んでくるだろう。

 学校関係者にこうした話し方をする者は少ないが、それでも「中学さん」や「高校さん」という人間を時々見かける。教育産業の業者という感じ。1980年代に出版された干刈あがたの小説『黄色い髪』(だったと思う)に、中学生の娘を持つ母親が高校の学校説明会で学校関係者が「中学さん」というのを聞いて席を立つという場面がある。彼女はこんな物言いをする教師には娘をあずけられないと憤慨する。

 つきつめれば、その根底にあるのは、個人と組織のどちらを社会的主体と見なすかという思想の問題である。個人を主体と見なす者にとって、企業や団体は人がより良く生きるための「装置」にすぎないので、それを擬人化して「さん」や「様」をつけるのは、滑稽で悪趣味な物言いと写るだろう。逆に、組織こそ社会的主体と見なす者にとっては、人はそれらに「生かしていただいている」存在なので、NHKさん、トヨタさんと尊称をつけないことにはどうにも据わりが悪いと写るのだろう。現在の日本でどちらが優勢かといえば、この四半世紀でこうした物言いがやたらとはびこるようになったことから旗色は明らかである。個人は矮小化され、社会システムとマーケティングの網の目ばかりが細かく張り巡らされるようになった。ラジオで喋っていた彼女に皮肉めいた調子はなく、それが少し前までぼやきやあざけりのニュアンスを含んだ業者言葉だったことを知らない人も多いんじゃないだろうか。

 

クオータ制

 クオータ制について、要点をまとめた問題を作成した。うまく書けた気がするので、こちらにも転載しておく。

 

  社会的に弱い立場におかれてきた人たちへの支援を「アファーマティブ・アクションポジティブ・アクション)」といいます。このアファーマティブ・アクションで、しばしば議論の的(まと)になるのは、入学試験や就職試験で採用枠の一部をあらかじめマイノリティ(社会的弱者)に割り当てる「クオータ制」です。クオータ制について議論している次の会話文の中から、誤った事実認識をしている発言を選びなさい。

 

  1. 「マイノリティ支援の中でも、クオータ制はあらかじめ社会的弱者に採用枠の一部を割り当てるというやり方だから、かなり乱暴だよね。とくに大学入試をめぐっては、入試の点数が低くても、マイノリティということで優遇されて合格する学生も出てくるわけだから、アメリカでは、白人の学生から、人種を基準にして黒人やヒスパニックを優遇する合格枠を設定するのは不公平だと不満の声があがっていて、過去に何度も裁判になっているよ。」
  2. 「インドでも国立大学や公務員の採用で10%程度、低位カーストの人たちを優先的する枠を設定しているけど、やはり、上位カーストの人たちからは、逆差別だって不満が出ているね。インドでは、このクオータ制をめぐって、上位カーストの人たちによる抗議デモや暴動までおきているよ。」
  3. 「でも、人生のスタートラインは、人それぞれ違っているよね。恵まれた家庭環境に育つ人もいれば、そうでない人もいる。そうした生育環境の格差を一切補正せずに、結果の点数だけで合否を判断するのは、ジョン・ロールズも指摘しているようにフェアな社会のあり方とはいえないよ。もちろん、公正な機会均等(きかいきんとう)が完全に実現していて、格差も差別もない社会なら、クオータ制は必要ないけど、人間の歴史でそんな社会が実現したことなんてないからね。」
  4. 「こどもの学力と親の社会的地位や収入は、比例する傾向にあるから、なんらかのマイノリティ支援がないと、名門大学の学生は裕福な家庭の子ばかりという状況になってしまって、社会階層の固定化をもたらすよ。実際、日本でも、すでにそういう状況になっていて、東大生の親の平均年収が1000万円を超えていることや私立医大の学生の半数以上が親も医者であることがしばしば指摘されている。貧困家庭に育ったこどもたちや差別される立場のこどもたちが高等教育を受けられるようにするためには、多少乱暴でも、大学入試のクオータ制は有効だと思うよ。」
  5. 「クオータ制がより有効なのは、面接が重視される就職試験のケースだね。面接試験の場合、重要なのは「印象」であって、学力テストのように結果が点数化されるわけではない。だから、就職の面接で、女性やマイノリティをすべて不採用にしてしまっても、今回はたまたま男性の応募者に優秀な人材が多かっただけで差別的な意図はないと言われれば、外部の者には実態がわからないからね。」
  6. 「クオータ制への批判に、純粋に能力だけで競争すべきで、マイノリティの特別枠を設けるのは、公正な能力競争を阻害(そがい)するものだという意見がある。でも、女性だから、移民のこどもだから、あるいは、親が失業中だからとか離婚しているからといった理由で採用試験でふるい落としてしまう状況は、そもそもフェアな能力競争が行われていないわけだよね。クオータ制の導入は、こうした差別的なふるい落としをふせいで、それまで競争に参加させてもらえなかった人たちが同じスタートラインに立てるようにするためのものだから、けっしてフェアな競争を否定するものではないはずだよ。」
  7. 「たしかに応募書類に親の勤務先まで書かせる日本の慣習は、フェアな競争とはいえないね。もし、親が日銀総裁なら、履歴書に記入するだけで銀行や証券会社の就職は圧倒的に有利になるだろうけど、それは実質的にコネ採用とかわらない。だから、アメリカのように、履歴書への記入は、本人の学歴と職歴だけにして、本人の業績とは関係のない、性別や年齢や家族構成は一切問うべきではないと思うよ。」
  8. 「日本では、女性の自立を支援する団体から、企業の採用試験での女性を対象にしたクオータ制導入を求める声がずいぶん前から出ているね。日本の場合、いまだに女性社員を敬遠する企業があるから、採用試験で女子学生のほうが不利になりやすい。2018年に日本の多くの医学部で女子受験生の点数を減点していたことが発覚して大きな社会問題になったけど、やはりその背景には、女性医師を敬遠する医療現場の問題があった。女の医者は残業を嫌がるから使い物にならない、女子の合格者を2割程度におさえてほしいっていう医療現場からの要望を受けて、女子の点数を減点していたんだよね。」
  9. 「そうだね。企業や公務員の採用試験で女性差別をふせぐためには、あらかじめ女性を3割以上採用する枠を設けるクオータ制の導入は有効だね。就職で女性の採用枠を設定するクオータ制については、多くの日本企業も賛同しているから、日本でも企業側の主導でまもなく導入される見通しだよ。」
  10. 「でも、消防隊員や警察官のような体力が求められる職種にまで、女性を3割以上採用するよう義務づけるクオータ制を導入するのは無理があるんじゃないかな。あと、ヨーロッパ諸国では、国会議員についても女性のクオータ制が導入されている国が多いけど、これもやりすぎだと思うよ。選挙は有権者の判断にゆだねるのが民主主義の基本だよ。」
  11. 「とは言っても、日本の国会における女性議員の割合は、24.3%にとどまっていて、先進国中最低だよ。これはもちろん日本の女性の能力が低いからではなく、女性を低く見てきた日本の社会的要因によるものだよね。そもそも、日本における女性の参政権は、戦後のGHQによる民主化によってようやく実現したわけだから、問題の根は深い。こうした社会状況を打開(だかい)するためには、女性議員を30%以上にする国政選挙のクオータ制導入も検討する価値があると思うよ。」

 

 「誤った事実認識」をしているのは、もちろん9番目の発言で、日本の企業がクオータ制導入に前向きなわけがない。なので問題を解くこと自体は難しくないが、それよりも会話文を読んでクオータ制をめぐる社会状況と論点を理解してもらうことのほうにウエイトを置いている。そういう意味では、そこから考察や議論をすすめていくためのたたき台のようなものといえる。ちなみに、企業や公務員の採用枠で女性を対象にしたクオータ制導入について、それが「割り当て制」だというしくみだけを解説して高校生たちに賛否を尋ねると、だいたい7割が反対するが、この問題をやった後であらためて質問すると賛否の割合は逆転し、支持が7割から8割にのぼる。

 

マンモスのクローン再生

 新型コロナの緊急事態宣言で学校は自宅学習とのことで、課題を作成する。お題はマンモスのクローン再生の是非について。この分野の研究者というと、社会的視野の狭いオタクが集まっている印象が強いので、研究者たちはみな手放しでやりたがってるのかと思っていたら、案外、賛否が分かれいていて、社会的意義と科学的意義の両面から議論されているという。資料2の近畿大学の先生による解説文も非常に抑制的で、環境面・倫理面で問題がクリアーできなければやるべきではないという立場をとっている。何年か前、近大の別の先生がテレビの科学番組に出演した際、やけに浮かれた調子で「あと一歩なんですよぉ、もういまからわくわくが止まりません!」と自らの研究にまったく疑問をいだいていない様子だったのとは対照的。

 資料には入れなかったが、別のナショナルジオグラフィックの記事によると、絶滅動物の再生について、2013年に研究者だけでなく環境NGOも招いて国際会議も開かれたとのこと。


【課題】
 現在、世界中でマンモスをクローンで再生させようという研究が進められています。毎年、4月1日のエイプリルフールには、世界の様々な新聞の一面に「マンモスの赤ちゃん誕生!」のウソニュースが載るのが定番になっており、この研究は世界的によく知られています。日本では、近畿大学のグループが中心になって研究が行われています。

 マンモスは約400万年前から約1万年前にかけて、ユーラシア大陸北アメリカ大陸に生息していたゾウの仲間です。とくに氷河期の寒冷地に適応した毛の長いケナガマンモスが有名です。マンモスというとやたらと巨大なゾウのイメージがありますが、これはまちがいで、ケナガマンモスの大きさはアジアゾウくらいで、種としてもアジアゾウに近いことがわかっています。

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ケナガマンモスの復元図 画像はWikipediaより

 クローン再生の方法は、当初、氷づけで発見されたマンモスの肉から遺伝子を取り出し、それを種の近いアジアゾウの未受精卵に核移植(かくいしょく)し、メスのアジアゾウの子宮内で発生させようとしていました。しかし、DNAは不安定な物質なので、氷づけになっていた数万年間の間に遺伝情報は劣化してしまっており、マンモスの完全な遺伝子を入手するのは難しいことがわかりました。

 そこで現在では、読み取ったマンモスの遺伝情報を元に、ゲノム編集技術によってアジアゾウの遺伝子を改変させてマンモスに近いゾウをつくろうという研究や、iPS細胞を使ってマンモスと同じ遺伝子を持つ精子卵子をつくって人工子宮内で発生させようという研究など、複数のアプローチから研究がすすめられています。

 マンモスのクローン再生に取り組んでいる研究者たちは、この研究の意義を次のように主張しています。

  • マンモスを再生させることで、化石や骨を分析しているだけではわからなかったマンモスの様々な生態をあきらかにできる。
  • マンモスのクローンをつくるためにマンモスの遺伝子をくわしく分析することによって、ゾウがどのような進化の道すじをたどってきたのかあきらかにできる。
  • マンモスは恐竜とともにこどもたちに人気のある絶滅動物であり、マンモスを再生させれば、世界中の人々の地球環境問題への意識が高まる。
  • ゲノム編集やiPS細胞の技術は様々な遺伝病の治療にも応用できる技術であり、絶滅動物の再生の分野でこの技術が発展し、実用化できれば、医療分野でも様々な病気の治療に利用できる。

 一方、マンモスの再生には批判の声もあがっています。その批判は次のようなものです。

  • マンモスが生きていた数十万年前とは、地球の環境は大きく変化している。マンモスの生態をあきらかにするには、十数頭のマンモスの群れを自然環境に放ち、長期にわたって調査を続ける必要があるが、現在の地球上に野生のマンモスの群れが生きていける場所は存在しない。
  • もし、クローン再生したマンモスの群れをシベリアやアラスカに強引に放したら、生態系のバランスに大きなダメージを与えることになる。マンモスを環境に放つことでかえって野生のヘラジカやトナカイを絶滅に追い込む危険性もある。
  • 環境保護のために絶滅した動物のクローン再生を行うというのは、優先順位が間違っている。絶滅の恐れのある野生動物の保護活動にこそ力を入れるべきだ。
  • マンモス、もしくはマンモスもどきの遺伝子組みかえゾウを製造したとしても、実験室や動物園のような閉鎖環境で飼育されることになる。自然環境に放つことができず、実験材料や人々の見世物にするために絶滅動物を再生させようというのは、科学的な意義にとぼしい上、倫理的に問題がある。
  • ゲノム編集やiPS細胞の技術は、はじめから医療分野に限定して利用していくべきだ。絶滅動物の再生のような人命に直接関係のない分野まで、研究者の好奇心からゲノム編集やiPS細胞を用いて既存の生命の遺伝子を作りかえるようになってしまったら、バイオテクノロジーに歯止めがきかなくなってしまう。

 あなたはマンモスを再生させようという研究をどのように評価しますか。積極的に進めていったほうがいいと思いますか。それともやめたほうがいいと思いますか。資料の記事も読んで、あなたの考えを書きなさい。(約800字)

 

 以下資料。

よみがえるマンモス  先端技術とその危うさ
トム・ミューラー ナショナルジオグラフィック日本版 2009
 絶滅した動物をクローン技術でよみがえらせることは、もはや夢物語ではない。問題は、それが果たして賢明な選択かどうかだ。
 シベリアの永久凍土から冷凍マンモスが見つかるたび、この動物を復活させるアイデアが話題になる。
 技術は着々と進んでいる。昨年11月に神戸市、理化学研究所若山照彦率いる研究チームが、16年間冷凍保存されたマウスのクローンづくりに成功した。数週間後には、米ペンシルベニア州立大学のウェブ・ミラーとステファン・シャスターらのチームが、マンモスのゲノム(全遺伝情報)の70%を解読、公開した。
 「スピルバーグ監督が、絶滅種のクローンづくりは現実になると言ったとき、私は笑ったものです」と、映画『ジュラシック・パーク』のメイキング・フィルムの科学顧問も務めた遺伝学者ヘンドリック・ポイナーは言う。「でも、今はもう笑えない。マンモスだって現実になりつつある。あとは細部を詰めていくだけです」
 だが、ポイナーも認めるように、その細部にかなりてこずりそうだ。マンモスに限らず、絶滅種のクローン作成には、大きく二つの段階がある。まず、その動物の完全なDNAの塩基配列(マンモスなら45億対以上とされる塩基配列のすべて)を解明すること。そして、この情報をもとに生きた動物を再現することだ。
 マンモスのゲノムがある程度解読されたことは、第一段階クリアに向け前進と言えるが、まだあと30%の解読作業が残っている。それに古い動物のDNAは、長い歳月の間に劣化が進むほか、バクテリアなどのDNAが紛れ込んでいるおそれもある。こうした誤差を除くには、何度か解読を重ねなければならない。
 配列がわかったら、今度はそれを染色体に収める必要があるが、現段階ではマンモスの染色体の数さえわかっていない。それでもDNAの解析技術はどんどん進んでいるので、こうした難題もいずれは克服できるだろう。「もはや技術の問題ではなく、単純に時間とカネの問題になっています」と、シャスターは言う。
 DNA情報がそろっても、そこからマンモスをよみがえらせる作業ははるかに困難だ。ただし、アフリカゾウなど現生の近縁種がいることは助けになる。ペンシルベニア州立大学チームがマンモスの断片的なDNAをつなぐ際にも、アフリカゾウのゲノムを参照した。
 生体を再現するには、たとえばゾウの染色体上のマンモスと塩基の並びが異なる箇所(推定40万カ所)を組み替えて、ゾウの細胞核をマンモスの核に改造する方法がある。また、マンモスのDNAがどのように染色体にパッケージされているかがわかれば、マンモスのゲノム全体を人工的に合成する方法もある。もっとも、技術的には今のところ、マンモスのゲノムの1000分の1ほどの長さの、細菌のゲノムをかろうじて合成できるレベルである。
 マンモスの染色体が手に入れば、それを膜で包んで人工の細胞核をつくる。それをゾウの体に移植すれば、クローンを作成できる。
 体細胞からクローンをつくる技術は、1996年にクローン羊「ドリー」を誕生させた英国のロスリン研究所チームが確立している。マンモスの場合、ゾウの卵子に人工合成したマンモスの細胞核を挿入、電気刺激を与え、卵子を分裂させてクローン胚をつくる。それを代理母役のゾウの子宮に着床させればよい。
 ただし、この手順の一つひとつに、大きな問題がつきまとう。たとえば、マンモスの細胞核を作成する技術は未開発だし、ゾウの卵子を採取するのも簡単ではない。マンモスのクローン胚をゾウの子宮に入れて、果たして妊娠させられるかどうかもわからない。
 もっと実現性の高い課題に取り組む科学者もいる。絶滅が危惧される現生動物、あるいは近年に絶滅した動物のクローンづくりだ。サンディエゴ動物園ニューオーリンズのオーデュボン絶滅危惧種研究所は、絶滅危惧種のDNAを保存している。2003年にはバイオ関連企業がこのDNAから、絶滅の危機にある東南アジアの野牛バンテンのクローンをつくった。卵子や子宮は家畜のウシのものを使った。
 同様の方法で、ジャイアントパンダやボンゴ、スマトラトラのクローンづくりも検討されている。フクロオオカミなど近年に絶滅した動物をよみがえらせることも期待できそうだ。
 今や絶滅種のクローンづくりに立ちはだかる最大の壁は、技術的な壁ではなく、倫理的な問題かもしれない。「マンモスは、ゾウと同じく社会性をもつ賢い動物です」と、ロンドン自然史博物館の古生物学者で、マンモスの専門家であるエイドリアン・リスターは話す。「クローン技術で1頭だけ再生できた場合、そのマンモスは動物園か研究所で孤独に暮らすことになります。もとの生息地は残っていませんから。見世物の動物をつくるようなものです」
 シャスター、ウェブらとマンモスのDNA抽出技術を開発したコペンハーゲン大学のトム・ギルバートは、生きたマンモスが歩く姿を一目見たいのは山々だがと断った上で、絶滅種のクローンづくりが賢明な選択かどうか、有用性があるのか、よく考えてみる必要があると語る。「マンモスをよみがえらせるなら、死んだ生き物なら何でも再生できることになります。地球がほかに大きな問題を抱えるなかで、果たしてそれが賢明な選択なのでしょうか」


マンモス再生は、どこまで現実に近づいているのか? 研究者が解説
ナショナルジオグラフィック日本版 2019
 東京・お台場の日本科学未来館で企画展「マンモス展」-その『生命』は蘇るのか- が開催されています(2019年6月7日~11月4日)。マンモスをはじめ、古代のシベリアの動物たちの冷凍標本が展示されるほか、冷凍マンモス標本を使った「マンモス復活プロジェクト」についても紹介しています。ここでは長年、研究に携わってきた近畿大学先端技術総合研究所の加藤博己氏に「マンモス再生研究の最前線」について語っていただきます。

 ケナガマンモス(Mammuthus primigenius、以下マンモスと略します)は、北半球の広範囲にわたって生息、氷河期の終了とともに減少し、4000年前に絶滅した非常に著名な動物です。永久凍土からは、マンモスの骨だけでなく筋肉などの軟組織も発掘されることから、それらの組織を用いて個体再生ができるかもしれないと、各国で研究が進んでいます。
 近畿大学では、近年急速に発達した発生工学的手法を用いれば古代の生物も再生できるのではないかと考え、20年以上にわたり、シベリアでマンモスの組織を発掘し、回収された細胞核を用いて体細胞核移植実験をおこなってきました。2019年3月には、2万8000年前のマンモス細胞核が生物学的な特性を維持していることを初めて確認した論文を、科学誌「Scientific Reports」に発表しました。ここでは、私たちの研究をはじめとするマンモス再生研究の最前線、さらにその課題についてお伝えします。

体の組織を手に入れる
 マンモスの細胞核の移植実験をおこなうには、まず、マンモスの組織を入手しなければなりません。私たちは、1997年と1999年の2回、ロシア連邦サハ共和国ヤクーツク市にあるマンモスミュージアムと共同研究をおこない、コリマ川流域でマンモスの組織の発掘を試みました。
 初めて古代の動物の皮膚の発掘に成功したのは、1999年のことでした。その一部を近畿大学へ運び、放射性炭素による年代測定をおこなったところ、この動物の皮膚は約3万年前のものであることがわかりました。しかし、この皮膚から得られたDNAの塩基配列を解析した結果、マンモスと同時期にシベリアに生息していたケサイ(Coelodonta antiquitatis)のものであると結論されました。
 マンモスとの出会いは2002年でした。岐阜県の支援を受け、ヤクーツクの北1200キロの北極圏に位置するマクスノーハ河畔からマンモスの脚を発掘しました。マンモスの脚は凍った状態のままヤクーツク市のマンモスミュージアムへ運ばれ、皮膚、筋肉、骨および骨髄の各組織が採集され、翌年に近畿大学へ運ばれました。放射性炭素年代測定によると、これらの組織は約1万5000年前のものであり、DNAの解析からマンモスのものであることも確認できました。
 いよいよ細胞核の移植実験です。私たちの研究では、あらかじめ核を除いたマウスの卵に、マンモスの細胞核を注入する方法を試みました。その結果、マンモスの細胞核が変化すれば、マンモスの組織に由来する細胞核が数万年の時をこえて、その生物学的特性を維持していることがわかる、というシナリオです。
 マンモスの組織から細胞核を採集し、全部で149個のマウス除核卵へ、慎重に注入しました。卵を培養し、核の注入後1時間と7時間において顕微鏡下でマンモスの核の変化を観察しました。しかし、すべてのマウス除核卵において、注入後に何らかの変化をおこしたマンモスの核はありませんでした。
 この実験において、注入後のマンモスの核に変化がおこらなかったのは、マンモスの核とマウスの卵の組み合わせが不適当だった可能性や、実験に用いたこのマンモスのサンプルそのものが、生物学的特性を失っている可能性が考えられました。しかし、この一例だけで結論を出してしまうのは性急に過ぎると判断し、次の機会を待ちました。

細胞核が動いた!
 2011年12月に、ロシア連邦サハ共和国科学アカデミーの研究者から、非常に状態の良いマンモスの個体が発見さたとの連絡がありました。2005年に愛知万博で展示されたマンモスの頭部「ユカギルマンモス」と同じ地域で発見された若い雌個体であることから「YUKA」と名づけられました。
 内臓はほぼ失われていましたが、四肢や鼻を含む頭部は非常によく保存されていました。2013年7月、私たちは「YUKA」から採集した筋肉組織や骨髄組織を近畿大学へ運び、さまざまな実験をおこないました。 まずわかったのは、「YUKA」が2万8000年前のマンモスであること、そして、たしかに細胞核の成分が存在していることでした。そこで、筋肉組織から回収したマンモスの細胞核を、マウス卵に注入し、マウス卵を生かしたまま細胞核の動きを観察しました。
 その結果、マンモス細胞核が新たにマウス由来の細胞核タンパク質を取り込みはじめ、なかには細胞分裂をする直前の形になるものも存在しました。さらに、マンモス細胞核の一部が最終的にマウス卵の細胞核の中に取り込まれる現象まで確認できました。

マンモス再生への道のり
 今回の研究において、いくつかのマンモスの細胞核が、永久凍土の中で2万8000年間も生物学的特性を維持してきたことが初めて明らかになりました。しかし、「YUKA」のように状態が非常に良いと考えられるサンプルでも、DNAの断片化がかなり進んでいることもわかりました。つまり、現在の核移植技術では、マンモスの体細胞クローン個体作製には至らないことを示す結果となりました。
 今後は、「YUKA」のように状態がよいサンプルから、DNAやタンパク質情報など、マンモスを構成する情報を集め、それらの情報を基に新たにマンモスの細胞を合成することを考えています。細胞が合成されれば、iPS細胞技術を用いて精子と卵を作出し、受精を経てマンモスの胚を作製します。また、並行してこのマンモスの胚を育てる人工子宮が開発されれば、マンモスを再び見ることができるかもしれません。
 「絶滅種を復活させることにどんな意味があるのか?」という声もあると思います。私たちは、マンモスは、手の届く可能性のある絶滅した動物の代表であると考えています。絶滅した動物というと、まず「恐竜」が思い浮かぶ方が多いのですが、恐竜の絶滅は6550万年前のことで、恐竜のDNAが保存されていたとの報告はこれまでになく、恐竜の生物学的な情報は希薄です。これに対して、マンモスは氷河期に生息していたため、現代に冷凍標本が発見され、それらの標本から得られた生物学的な情報が集積されつつあります。
 また、マンモスを復活させることを研究する過程で開発された様々な技術は、マンモスだけでなく、他の種の復活等にも応用が可能です。現在、先に書きました体細胞をiPS細胞化した後に精子と卵を作製し、受精卵を得ようという方法は、最後の雄個体が死に、絶滅が目前に迫ったキタシロサイの復活のためにも利用が考えられている技術です。さらに、近年人間による乱獲や外来の伝染病の蔓延などによって姿を消したニホンオオカミニホンカワウソでは、日本における「生態系の正常化」という意味において、その復活に大きな意味があると考えています。

単に蘇らせればよいということではない
 ただし、単にマンモスを蘇らせればよいということではありません。例えば、過去にマンモスが生息していた地域はマンモスステップと呼ばれる草原であったと考えられていますが、現在ではタイガと呼ばれる針葉樹林やツンドラと呼ばれる平原になっており、マンモスが生息していた頃とは気候や環境が大きく異なっています。そのような場所へ、蘇ったマンモスを放すことができるのでしょうか? そしてマンモスを放すことによって生じる現在の生態系への影響はどのようなものなのでしょう?
 もしも自然環境へ蘇ったマンモスを放すことができないのであれば、蘇ったマンモスはその一生を人工的な閉鎖環境下ですごさなければなりません。さらに、現生のゾウは群れを作って生活をしています。マンモスも、その生活に群れを必要とするのではないでしょうか?
 ほかにも課題はあります。私たちは人工子宮内でのマンモスの胚の育成を考えていますが、人工子宮から生まれたマンモスの子供はおそらく、植物の消化能力を持ちません。草食動物の多くは、消化管内で微生物の助けを借りて植物を消化しています。草食動物の子供は親の糞を食べるなどのかたちで消化管内の微生物を受け継ぎ、植物の消化能力をもつようになります。人工子宮から生まれたマンモスの子供には、どのようにして植物を消化する能力を持たせればいいのでしょうか? 絶滅した古代の動物を再生するのには、単純に再生するだけではなく、再生に伴う様々な問題を解決しなければならないのです。
 国際自然保護連合(IUCN)の種の保存委員会(SSC)が定めている「保全のための絶滅種の代用種作製に関る基本理念」は、現在の技術では絶滅種の忠実な複製を作製することはできないため、作製されうるものは絶滅種の代用種であると考えています。また、絶滅種の代用種の作製について、それが正当であるとされるのは、原種の絶滅によって失われた可能性がある生態系の働きや推移を修復することができる場合であるとしています。私たちは、このような考えに従って、絶滅動物の再生に関わる倫理的問題、環境的問題および動物福祉の問題等が解決されなければ、絶滅動物の再生をおこなってはならないと考えます。

加藤 博己(かとう ひろみ)
 近畿大学 先端技術総合研究所 生物工学技術研究センター教授。ウシやヒツジの体外受精における卵の体外成熟の研究や、世界初のウマの顕微授精による産仔作製等に関与した。約20年前から近畿大学においてマンモス復活プロジェクトに携わる。専門は生殖生理学、分子生物学、古生物学。

 

新卒一括採用 メモ

 先日書いた新卒一括採用の是非について資料を集めている。
 こんな記事を見つけた。
 
なんだかんだ言っても新卒一括採用が最も合理的
海老原嗣生  日経ビジネス 2021.4.6
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00271/032600009/?n_cid=nbpnb_mled_mpu

 

 日本企業の場合、社内の配置転換で欠員を埋め、業務を回しているため、下っ端のヒラ社員から経験を積むごとに少しずつ繰り上がっていく。そのため、毎年、新卒一括採用で下っ端を補充していくのが合理的という趣旨の文章である。
 たとえば、自動車会社でエンジンの設計をしていた人物が退職・転職し、空きができたとする。エンジンの設計者のような専門性の高い人材を社外から補填する場合、異業種からの転職では業務内容に対応できないので、必然的にその人材は他の自動車会社でエンジンまわりの設計をしていたエンジニアに限定される。しかし、そうした狭い労働市場アメリカのように同業他社間の引き抜き合戦になってしまったら、企業にとって負担が大きく疲弊する。そこで、日本企業は社内の移動で欠員をまかなってきた。まず、空席になったエンジンの設計部門にそれができる人材が社内の配置転換によって補填され、さらにそれによって空いた席に別の人材が補填される。その玉突きの一番最後の空席をヒラ社員が昇進することで埋める。そのため、日本の大手企業では、下っ端のヒラ社員を補充するだけで業務が回るしくみになっているというわけである。なるほど、ここまではいたって明快だ。記事にはそのしくみの図もそえられている。

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 ところが、ヒラ社員の補充が新卒一括採用でなければならないという肝心なところの説明が一切されていない。記事のタイトルは「なんだかんだ言っても新卒一括採用が最も合理的」なのに。下っ端として業務を一から経験させるのなら、こちらは異業種からの転職でもいいはずだし、派遣社員やパート従業員を正規雇用に転換してもいいはずである。あるいは定職についていないオーバードクターや新卒時の就職活動がうまくいかずにアルバイト生活をしている既卒者に門戸を開いてもいいはずである。それがなぜ「新卒者」の「一括採用」でなければならないのかという説明がまったくないので、ちょっとこれは資料として使えません。四年時の就職活動がうまくいかなかった学生が来年度の新卒枠に残るためにわざと留年したり、研究に興味もないのに大学院へ「避難」したりする状況は、「きわめて非合理的」だと思うんだけど。

 それに文章では「エンジンの設計者」という技術職を例にあげて、その専門性の高さから労働市場の小さいことを理由に社内異動で補填した方が合理的だと説いているのに、図ではそれが「部長」「課長」という役職へとすり替わっている。部長や課長はあくまで管理職なんだから、こちらは異業種から転職であっても対応可能なはずである。自動車会社の「部長」や「課長」がすべてエンジンの設計ができる人材というわけではないだろう。記事を書いたのはリクルートの研究所で企業の組織分析をしてる人。ずいぶんいいかげんだなあ。

 

 ところで日経ビジネス、記事やコラムは良いのが多いんだけど、コメント欄がなぜかいつもネトウヨおじさんたちの集会場になっている。「記事はつまらなかったが、こちらのコメント欄には励まされた」なんて書き込みもあちらこちらで見かけたりして、退職してヒマを持てあました右翼おじさんたちがネットのコメント欄に居場所を見つけたという感じ。異文化探訪としてたまに覗くぶんには興味深いが、自らと政治的スタンスの異なる書き手に対して差別的な言葉で人格攻撃するコメントがずらずら並んでいる様子はやはり気分のいいものではない。

 

「つきあってほしい」は不自然?

 論述問題の課題として、「つきあってほしい」は変じゃないのかというのを作成した。この「つきあってほしい」や「つきあってください」というのは、合コン文化が生んだ日本の奇妙の慣習だと思っているんだけど、最近は中学生や高校生だけでなく、いい歳したおとなも言うらしいのである。へんなの。先日ラジオを聞いていたら、40歳前後の日本人ふたりがスウェーデンから来日したというゲストに「ええっ、スウェーデンじゃつきあってくださいって告白はないの!?」と大声を出して驚いていたが、あるわけないじゃんそんなの。それ日本の若者だけの特殊な慣習です。そもそも色恋は契約で成立するもんじゃありませんぜ。近頃、高校生たちよりも30代40代の人たちにカルチャーギャップを感じるケースが増えてます。というわけで個人的には参考意見のAを全面的に支持するというかAの言いぶんは私自身のいだいている違和感です。 

 

「つきあってほしい」は不自然?

 校舎裏や屋上に意中の相手を呼び出し、「つきあってほしい」と相手に告白するというのは、学園もののドラマやマンガでおなじみのシーンです。しかし、本来、恋愛は商品の売り買いやアルバイトの採用とは異なり、契約によって成立するものではなく、互いの個人的な感情によって親しくなった末に成り立つ関係性です。そのため、よく知らない相手にいきなり、「これから先、互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を共にしよう」という踏み込んだ関係を「つきあってほしい」という約束によって成立させようとするのは、かなり乱暴なものに見えます。また、逆に、手をつないで一緒に出かけるくらい親しくなった相手に、「つきあおう」と言うのもいまさらという感じでやはり不自然に見えます。
 恋人の約束をする慣習が日本の若者に広まったのは、1980年代から90年代にかけてテレビで放送された合コン番組の中で「告白タイム」という演出が用いられ、参加者が意中の相手に「つきあってください!」と告げるシーンを番組の山場としたことがきっかけになり、定着していったものです。日本の若者独特の慣習で、日本以外には、恋愛を約束によって成立させる慣習はありません。ビーチや酒場で気に入った相手に声をかけるケースは世界中にありますが、それはあくまで親しくなるきっかけづくりです。
 恋愛を「つきあってほしい」という約束によって成立させようとするのは不自然な行為なのか、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを書きなさい。(約800字)


A 強い違和感をおぼえる。
 恋愛感情は親しくなっていく過程で育まれるものであり、「つきあってください」という言葉によって生じるものではないからだ。つまり、行動を共にしたり、会話を交わしたりする中で、一緒にいると楽しい、もっと一緒にいたいという思いが生まれるもののはずである。
 もしその相手と親しくなりたいのなら、「今度、一緒に映画に行かない?」と誘ってみたり、自分が気に入っている小説やゲームを「これ面白かったよ」と薦(すす)めてみたりして、少しずつ互いの共通体験をつくっていくべきだ。同じ出来事を共に体験して一緒に泣いたり笑ったりケンカしたりしていく中で、互いの関係性は深まっていく。そうした過程を飛ばして、相手のことをよく知らないまま、いきなり「つきあってください」と恋愛感情や性的体験をともなう深い関係を求め、約束によって互いの関係性を固定しようとするのは、あまりにも乱暴である。
 結婚は互いの合意によって結ばれる契約なので、相手に花束を差し出して「Marry me !(結婚して!)」と申し出るプロポーズは世界中で行われている。派手なイベントにするか、そっと申し出るかは人それぞれだが、ふたりの約束がないと結婚が成立しないのは世界共通である。一方、恋愛や友情は、互いの親しさによって成り立つ連続的な関係であり、約束によってその日から「恋人」になったり、「友だち」になったりするものではない。「つきあってください」という交際の申し出が日本以外にほとんど存在しないのもそのためである。日本では、1980年代におもに中学生や高校生に広まったものだが、これは恋愛経験にとぼしく、結婚と恋愛のちがいをわかっていない若者たちによるこどもっぽい慣習といえるのではないだろうか。
 恋愛で重要なのは、ふたりの間にいままでなにがあったのかという中身のほうであり、「つきあっている」という関係性のワク組みではない。一緒に過ごした楽しい思い出がたくさんあれば、恋人の約束などなくてもそれは充実したいい関係だし、そうした中身がなければ、恋人の約束をしていても形だけのカップルにすぎない。同じことが「友だちになろう」という言葉の不自然さにもいえる。もし「口約束だけでは心持たないから」と誓約書(せいやくしょ)の提出を求められたら、恋愛や友情に契約が入ってくることの違和感に誰もが気づくだろう。恋愛や友情は純粋に互いの気持ちによってのみ成り立つ関係であり、だからこそ損得(そんとく)や打算(ださん)を越えたきずなが生まれるのではないだろうか。

 

B 不自然ではない。
 日本で恋愛結婚が広まったのは1960年代なかば以降で、それ以前は、お見合い結婚のほうが一般的だった。とくに中流以上の家庭では、ほとんどがお見合い結婚だった。それまで顔も名前も知らなかった相手とお見合いし、親しくなる間もなく結婚し、こどもをつくり、家庭をかまるというのが一般的な生きかただった。そこでは関係性のワク組みが先にあり、相手との親しい関係はその後から築かれていく。現代においても、合コンやお見合いパーティはカジュアルなお見合いであり、古くからのお見合い文化の延長線上にある。そのため、合コンやお見合いパーティで知り合った相手に、これから先、結婚を前提とした交際をしていきたいという意思表示として、「つきあってください」と申し込むのは、適切な表現である。形から入ろうとするのは日本的慣習といえる。
 一方、結婚を前提としない自由恋愛は、欧米とは異なり、日本では現在も定着しているとはいえない。複数の相手と親しくなり、その中から気のあった相手とより深い関係を築いていくというのは、恋愛としてはごく自然な成り行きのはずだが、そうした関係性のワク組みを先に決めない交際の場合、積極的に人と関わろうとする社交性とそれなりの対人関係のスキルがないと関係を深めていくのは難しい。また、はじめから相手をひとりに絞らない交際は、トラブルを生みやすく、日本では、しばしば「不誠実」「だらしない」と批判されがちである。
 テレビの合コン番組の「告白タイム」も結婚のプロポーズを模(も)したものだった。男性参加者が意中の女性参加者の前に立って手を差し伸べ、自分の気持ちを伝える。違いは「結婚してください!」の代わりに「つきあってください!」と叫ぶことだった。この疑似プロポーズとしての「つきあってください」が若者たちから支持され、慣習として定着していったのも、いまも多くの日本の若者が恋愛を結婚の前段階と見なしているからではないだろうか。恋愛と結婚を連続的にとらえているなら、恋愛も結婚同様にふたりの関係を明確にする約束があったほうが好ましい。「つきあってください」という言葉はそのためのものである。

 

新卒一括採用

 授業の課題として、新卒一括採用の是非を作成した。個人的には、新卒一括採用は日本社会の諸悪の根源だと思っているのだが、生徒の反応は、新卒採用がなくなってしまうのは不安という声が多く、存続派が6割、廃止派が4割という割合だった。

 

新卒一括採用は必要か

 日本では、企業の社員募集は「新卒一括採用」というやり方が一般的です。
 これは、まだ在学中の学生と「卒業後に入社する」という就職内定の契約を結び、卒業と同時に新入社員として一斉に入社するしくみです。そのため、卒業の近づいた大学4年生や高校3年生は、就職活動のためにいくつもの企業を訪問して採用面接を受けることになります。近年では、日本の経済状況の悪化を受けて、学生たちの就職活動の時期は年々早くなり、大学3年生のうちから就職活動をはじめ、数十社も企業訪問をするのが一般的になっています。
 こうした新卒一括採用は、高度経済成長期の1960年代に多くの日本企業に広まり、定着していきました。当時は日本の経済規模が年々拡大していた時期で、各企業は設備投資を活発におこない、事業拡大をすすめていきました。その事業規模拡大にともなう労働力不足を解消するためにとられたのが、まだ在学中の学生に「卒業後、うちの会社にこないか」ともちかけて就職内定の契約を結び、卒業とともに大勢の若者をまとめて採用する「新卒一括採用」というやり方だったわけです。
 高度経済成長期のように、年々経済規模の拡大している右肩上がりの経済状況では、大勢の若者をまとめて採用することのできる新卒一括採用は効率の良いやり方でしたが、それから半世紀たち、日本経済は長い低迷期に入っており、社会状況にそぐわなくなっているという批判も出ています。また、日本では一般的な新卒一括採用ですが、世界的にはこうした採用方法をとているところはほとんどありません。
 欧米の場合、若者の就職活動は、卒業が決まった後に個人個人で企業の採用試験を受けるというのが一般的です。欧米の大学は、卒業審査が日本とくらべて非常にきびしく、毎年、卒業できずに留年する学生が2割程度いるので、卒業前に就職のための企業訪問をくり返しても意味がないからです。むしろ逆に大学4年生になると学生たちは学位をとるための勉強にかかりっきりになります。就職活動は、その卒業審査をクリアーして卒業が決まった後、各自がそれぞれ行うことになります。また、いきなり正社員として採用されるケースはまれで、はじめはアルバイトやインターン(見習い)として採用され、採用担当者がそこでの働き具合を見ながら、真面目によく働く者へ正社員としての雇用をもちかけていきます。そのため、入社時期はひとりひとり異なっており、企業側も年齢、新卒・既卒を問わず、随時(ずいじ)、従業員を募集するというやり方をとっています。
 日本での新卒一括採用は今後も続けたほうがいいのか、それともやめたほうがいいのか、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを書きなさい。(約800字)

 

A 続けたほうがいい。

 新卒一括採用では、若者たちは就職活動について学校側から様々な支援を受けることができる。高校3年生なら、クラス担任の教師が就職の相談にのってくれるし、大学4年生や専門学校の2年生なら、就職課の職員から専門的なアドバイスをもらうこともできる。近年では、模擬面接を学校側がセッティングして、面接での受け答えを指導してくれたり、履歴書や志望動機書の添削をしてくれるというのも一般化している。欧米で一般的な卒業後に個人個人で就職活動を行うやり方では、こうした学校側からのサポートがなく、いきなり個人として社会の中に放り出されることを意味している。

 そのため、新卒一括採用をやめてしまったら、若者の失業率が増加することが予想される。16歳から24歳の失業率は、日本が10%程度なのに対し、アメリカでは15%程度、EU諸国では20%程度に達する。新卒一括採用のない欧米式のやり方では、学生時代から目指す企業でアルバイトやインターンをしているという者以外は、卒業後、無職の状態から職探しをスタートさせることになる。学校は卒業したけれども、就職の見通しもたたず、収入もないという生活は多くの若者にとって不安なものになるだろう。自分がどこにも所属せず、社会の中に自分の居場所がないという状態は孤独なものである。そのため、若者の失業率の高いEU諸国では、そのことがしばしば社会問題になっており、若者たちによる就職状況の改善を求めるデモも頻繁(ひんぱん)に行われている。欧米の企業の場合、採用を新卒者に限定せず、随時募集しているが、人気のある企業の場合、応募が殺到(さっとう)するので、いままで働いた経験のない若者が採用されるのは、たとえアルバイトやインターンであっても狭き門である。

 たしかに、経済状況によって特定の世代が就職で不利益を被ったり、新卒者の多くが一年以内に退職してしまうのは、新卒一括採用の問題点である。しかしそれは、既卒第二新卒の採用枠を拡大して対応すればいいことであり、新卒一括採用そのものを廃止する理由にはならない。新卒一括採用を全面的に廃止して、卒業後、多くの若者が無職の状態から職探しをするようになったら、親の経済的負担はいちだんと増すことになる。

 ひとりの自立した人間として社会と向き合って生きていこうとする若者にとっては、卒業後、一時的に無職になることなど取るに足りない問題かもしれない。また、学生のうちに十分な技能や専門性を身につけ、自分の力で生きていこうという若者にとっては、就職支援のレールなど敷かれていなくても、条件の良い就職先に自分を売り込むこともできるだろうし、自ら会社をおこすことも可能だろう。しかし、すべての若者がそういう強い気持ちを持っているわけでもないし、高度な専門性を身につけているわけでもない。自分になにができるのかまだわからないという多くの若者たちにとって、学校側からのサポートを受けながら「みんなでいっしょに」就職活動を行う新卒一括採用の日本式慣習は心強いものになるはずである。だからこそ多くの大学や専門学校がこぞって就職支援の充実を売り物にするようになったのである。

 産業構造が高度化し、業務の多くに高度な専門スキルが要求されるようになった先進諸国では、社会階層の二極化が起きている。アメリカの場合、シリコンバレーのコンピューター産業やウォール街の金融機関などの専門性の高い職種に就職した若者たちは、入社一年目から1000万円を超える年収を得ている一方で、そうした専門スキルを身につけていない者は、中国やインドをはじめとする新興国との競争の中で低賃金労働を余儀なくされている。アメリカでトランプ氏のような極端な発言をする人物に支持が集まったのも産業の高度化に適応できない人たちが大勢いたためである。トランプ氏が大統領時代、コンピューター業界をくりかえし批判し、安価な製品を大量に輸出している中国を敵視していたのも、彼の支持層に向けての政治的姿勢といえる。こうした社会階層の二極化は、新自由主義経済のアメリカだけでなく、イギリス、フランス、ドイツといったヨーロッパ諸国でもおきている。先進国で産業構造の高度化が進んでも、若者がみな高度な専門スキルを身につけているわけではないし、社会に適応できているわけでもない。そうした若者たちが社会からドロップアウトしないよう、安定した働き口を保障するしくみとして、日本の新卒一括採用方式はいまも機能しており、学校と企業とが連携しながら手厚い就職支援によって新卒者を新入社員として送り込んでいる。こうしたしくみは今後も必要なものである。

 

B やめたほうがいい。

 新卒一括採用の最大の弊害(へいがい)は、新卒採用の時期を逃してしまうとまともな就職先がほとんどなくなってしまうということである。2008年のリーマン・ショックや2020年の新型コロナ・ウイルス騒動のように経済状況が悪化した年に、たまたま大学4年生や高校3年生だった者は、就職が極端に難しくなる。日本の場合、アルバイトや派遣社員から正社員として採用される道すじがほとんどないため、新卒時の就職活動がうまくいかず、いったん非正規雇用になってしまうとそこから抜け出すのは難しい。「就職氷河期」と言われた1990年代末から2000年代はじめにかけて高校や大学を卒業した者が40歳代になった現在もフリーターや派遣社員を続けているケースが多いのもそのためである。大学4年時に就職活動がうまくいかなかった者の中には、来年のチャンスにかけるためにわざと休学や留年をしたり、研究に興味もないのに大学院へ進学するケースも一般化している。ひどく無駄なことをしているように見えるかも知れないが、それくらい日本企業の採用における新卒と既卒の扱いの差は大きい。

 アルバイトや派遣社員であっても、収入が十分にあって生活できるのなら悪くはないが、日本の場合、「同一労働・同一賃金」を徹底しているEU諸国と異なり、正規雇用と非正規雇用との賃金格差は極端に大きい。福利厚生や退職金や年金まで含めて計算すると、正社員に対して派遣社員なら1/3程度、アルバイトなら1/5程度の収入にとどまる。企業側がアルバイト社員や派遣社員を正社員として再雇用することを渋り、低賃金の非正規雇用として雇い続けようとするのも人件費の抑制のためである。正社員への道が新卒採用時の一回しかチャンスがなく、たまたま卒業の年に不景気にめぐりあったとことで特定の世代の人たちが生涯にわたって不利益を受けるというのは、あまりにもアンフェアーである。

 また、いままで働いたことのない学生たちをいきなり正社員として雇用するというやり方は、企業側・労働者側の双方にとってリスクが大きい。数回の面接だけで正社員として採用する企業側のリスクはもちろん、働く側にとっても、実際に働いてみてはじめてわかることがたくさんあり、「こんなはずではなかった」と業務内容や職場環境に失望して辞めていく若者も多い。そのため、日本における新卒採用者の離職率は極端に高く、毎年、入社1年以内に30%以上の若者が会社を辞めている。3割以上の新卒採用者が1年以内に辞めてしまうのでは、新卒一括採用はもはや若者のドロップアウトをふせぐしくみとして機能していない。この点において、欧米で一般的におこなわれている、はじめはアルバイトやインターンとして雇用し、働き具合を見ながらあらためて正社員として採用するというやり方は合理的である。企業側にとっては、実際に働き具合を見ながら正社員としての採用を判断でき、働く側にとっても、いくつかの職場を体験し、職場を比較検討しながら自分の働き方を選択できるというメリットがある。こうした採用方式では、卒業時に就職先の決まっていない若者が増えたとしても、新卒以外にも正社員として雇用されるチャンスはいくつも存在する。日本のように学校から会社へと新卒一括採用のベルトコンベアーに乗せられた生き方では、自立した個人という意識は育みにくい。卒業後、しばらくの間、アルバイトをしたり、バックパッカーとして世界を旅行したり、ボランティア活動に参加したりしながら、自分と向き合い、これから先、どう生きていきたいのか模索する期間は、むしろあったほうが長い目で見れば自分のためになるのではないだろうか。私たちは働くために生きているのではなく、生きるために働くのである。

 景気の悪化した1990年代なかば以後、多くの大学が「手厚い就職サポート」を売り物にするようになったが、それは一方で大学の就職予備校化という問題をもたらしている。就職活動が本格化する大学3年生、4年生になると学生たちは、授業にはほとんど出席しなくなってしまう。日本の大学には、欧米の大学のように学位認定の審査をきびしく行うしくみがないため、試験も受けず、卒業論文すら提出しなくても、就職の決まった学生は卒業させてくれるので、授業に出席しないことも問題にならない。日本の場合、大学の社会的評価は大手企業にどれだけ学生を送り込んだかによって決まるので、就職が内定している学生を留年させてしまったら大学側にとっても都合が悪いため、学位認定の審査を欧米の大学のように厳しくしようという動きもない。それは多くの高校が受験予備校化しているのと根を同じくする問題である。そのため、大学のゼミもどのような研究をしているかではなく、大勢の卒業生を大手企業に送り込み、企業とどれだけ太い人脈があるかによって学生から支持されるケースが多い。しかし、本来、大学は物事を深く考え、真理を探究する場のはずである。エントリーシートの書き方や面接の受け答えばかり達者になり、その一方で、プラトンサルトルドストエフスキーも読んだことすらないまま卒業していく学生が多数派になっている現在の状況は、もはや大学としての機能を果たしていない。いまの日本の大学は実質的にサラリーマン養成所であり、就職のための踏み台という役割を取り除いたら中身は空っぽである。

 新卒一括採用が日本で一般化した高度経済成長期、しばしば企業経営者たちは、新卒者の教育は入社してからこちらで行うので、大学は学生に余計な知恵をつけないでほしいと語っていた。それは要するに、学生時代にマルクス主義フェミニズムを学んだりすると面倒なことを言う扱いにくい社員になるから、大学は余計なことを学生に教えずに会社の言いなりになる人材を送り出してほしいというわけである。社会経験の乏しい新卒者をわざわざ優先的に採用する新卒一括採用の背景にあるのは、若者たちを産業のコマとしか見なしていないこうした考え方である。たしかに高度経済成長期のように右肩上がりの経済状況では、新卒一括採用は大勢の労働力をまとめて確保できるという点で効率の良いやり方だった。その頃は、各企業ともに毎年、大量の若者を採用していたので、卒業した年による就職の有利・不利も大した問題にならなかった。しかし、新卒者をまとめて雇用し、社内教育で愛社精神と根性主義をたたき込むことで「会社人間」を作り上げるというやり方は、安価な商品を低賃金労働と長時間労働で大量生産する労働集約型の社会だったからこそ通用した手法である。高度経済成長期から半世紀以上たった現在では、こうした日本式の慣習はむしろパワハラや過労死をもたらすブラックな職場環境の原因になっている。新卒一括採用はすでに社会状況にそぐわなくなっており、新卒者と既卒者に平等にチャンスを与え、正規雇用と非正規雇用の待遇格差を改めていくべきである。

 

ミスコン その2

 以前書いた学園祭のミスコンの是非について、ルッキズムルッキズムがもたらす人種的偏見を加筆した。

 個人的にドラマやマンガを見ていてセンスが古いなあと思うのは、「お金持ち」を表す表現として運転手付きロールスロイスのリムジン登場するのと「今度うちのクラスにすっごいきれいな留学生が来るんだって!」という会話の後に金髪で青い目の西洋人の少年や少女が登場する展開。この紋切り型のどちらかが出てきたらその先には期待できそうにないので見るのをやめる。いまどきリムジンを成功者の象徴だと思っているのは演歌歌手とビートたけしくらいではないだろうか。CBSのインタビューに登場したアマゾンのジェフ・ベゾスはホンダの大衆車(たぶんシビック)を自分で運転してたぞ。留学生や外国から転校してきた子にしても、東南アジアや中国から来た子を登場させて、生活習慣の違いや経済感覚の違いを描写したほうがずっとリアリティがあって話もふくらむんじゃないかと思うんだけど。

  

学園祭のミスコン

 近年では、大学だけでなく、高校の文化祭でも「ミスコン」を開催する学校が増えてきました。ミスコンというのは、「うちの学校で一番かわいいのは誰か」を決める美人コンテストです。
 学園祭のミスコンをめぐっては、一部の大学で年々大がかりなイベントになっており、ミスコン優勝者がテレビのアナウンサーやタレントとしてデビューするケースも多くなっています。その一方で、「女性をルックスで序列化するイベント」として長年、批判もされています。「女はカオ・男はカネ」というのは古くからある男女観ですが、ミスコン開催はこうしたジェンダーの押しつけを強化することになります。そのため、数年前には、京都大学国際基督教大学で、学園祭のミスコン開催をめぐって学生間で激しい論争になった末、開催が取りやめになるといったこともありました。
 高校の文化祭で、ミスコンを開催することの是非について、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えをすじみちだてて述べなさい。 (約800字)

 

A 開催を支持する。
 人間は様々な場面で、様々な要素によって、常に評価されている。学校の勉強ができる、運動が得意、絵や文章が上手、話がおもしろい、色々なことを知っている、人とはちがった視点で物事を見ることができる。容姿にすぐれていて自分を魅力的に見せることができるというのも、そうした長所の中のひとつである。人物評価においてルックスは大きな位置を占めており、時には初対面の人に外見だけを見て好意を抱いたりすることもある。それにもかかわらず、ミスコン開催を「ルックスで人間を序列化する差別的なイベント」として批判するのは偽善的である。ルックスに自信のある女子生徒がミスコンに出場し、会場に集まった人たちに自分の魅力をアピールする。それによって支持を集めることは、いたって正当な評価であり、けっして後ろめたいものではない。
 「ルックスは生まれついての要素が大きく、勉強やスポーツでの評価とは同列に論じられない」という批判は的外れである。もし、本人の努力を評価の尺度にするのなら、学校の成績もテストの点数という「結果」ではなく、日頃の授業態度や家庭での学習状況という「努力」で評価されねばならないはずである。同様にスポーツにおいても、試合の勝敗や順位ではなく、どれだけきびしい練習をしてきたかによって勝者を決めねばならないことになる。私たちは、様々な場面で結果によって評価されているのに、ルックスになると結果での評価を批判するのは、あきらかに矛盾した姿勢といえる。ミスコンの優勝者は、成績優秀者やマラソン大会の優勝者と同様に、胸を張って自らを誇っていいはずである。
 現代社会において、容姿にすぐれていて不特定多数の人に自分の魅力をアピールできるというのは、きわめて重要な「能力」であり、それは学校の勉強ができることよりもプラスに作用するケースもある。例えば、接客業や営業職の場合、外見的な魅力はお客さんを惹きつけるための重要な要素であり、それを採用基準にしている企業も多い。テレビの女性アナウンサーが容姿を基準に採用され、大学のミスコン優勝者が集まっているのも、不特定多数の視聴者を惹きつけ、番組に好印象を抱いてもらうためである。
 学校での評価はあまりにも勉強に偏っており、しばしば勉強のできる生徒は「優秀な生徒」、できない生徒は「ダメな生徒」と見なされがちである。しかし、勉強ができることは人間の持つ多様な能力の中のほんの一部であり、学力テストの偏差値で評価されるほうがルックスで評価されるよりも人間として上等という考え方は学校的価値観にすぎない。人間の評価には様々な要素があることを実感するためにも、学校には、勉強以外の事柄で生徒が評価される場面がもっと必要であり、ミスコンの開催はそのひとつになるはずである。

 

B 開催を支持しない。
 昼休みに男子生徒数名が廊下にたむろして、女子生徒が前を通るたびに「2点」「3点」と彼女たちの容姿に点数をつけていたとする。それは最低のセクハラ行為ではないだろうか。人の容姿は点数をつけたり、順位をつけたりするものではないからだ。ミスコンの本質は「誰がうちの学校で一番かわいいか」を決める美人コンテストであり、ミスコン会場でどのようなイベントが催されようと、女子生徒の容姿に点数をつけて優勝者を決めるという点で、そうした行為となんらかわらない。もし、本当に出場者のスピーチの内容で優勝者を決めるのなら、それは「弁論大会」である。あるいは、本気で一発芸のおもしろさを競うのなら「演芸大会」である。それらは男女別にやる必要もないし、ルックスも関係ないはずである。逆に、そのイベントが「ミスコン」として開催される限り、会場での出し物はルックスでの評価のオマケにすぎない。
 また、「ミスコンはルックスに自信のある者が能動的に参加するんだから、順位をつけてもかまわない」という主張は問題の本質をとらえていない。ミスコンの問題は、あたかも客観的な美の基準があるかのように人間の容姿を序列化し、不特定多数が支持する者を「美人」とみなす価値観にある。こうしたルックスによって人間を序列化する価値観を「ルッキズム(外見至上主義)」という。ファッション業界は、長年にわたってルッキズムがはびこっており、モデルたちはバービー人形のような体型のスーパーモデルを頂点にして、「このモデルはアタマが大きいから二流」「このモデルは東洋人で手足が短いから三流」「このモデルは太ったからもう使い物にならない」と容赦なく選別され、序列化されてきた。表面的な美しさの序列が行き着く先は、人間の多様性や個性を否定するこの差別的なピラミッドである。しかし、人間の美しさとは、本来、互いの関係性や思いによって大きく左右されるきわめて複雑なものであり、そんな表面的なものではないはずである。
 例えば、地方で農業を営んでいる初老の夫婦がいたとする。妻の手は長年の畑仕事で節くれだっていて、指先にはいくつものひび割れができているが、夫はそんな妻の手を見て「美しい」と思うこともあるだろう。あるいは、秋の日射しのあたる居間で、丸顔の孫娘がふたりのほうを向いて満面の笑顔で笑っている様子に、息をのむような美しさを感じる瞬間もあるだろう。こうした豊かな感情をともなう美しさの感覚について、ただ人のうわべだけを見て美醜(びしゅう)を判断し、あたかも客観的な容姿の基準があるかのように序列化する行為は、人間性に対する冒涜である。
 ルッキズムは人種的偏見を生む一因にもなっている。西洋人のように手足が長く顔の小さいスタイルを「美しい」とする美醜の基準は、その基準から外れたアジア系やアフリカ系の人たちを「劣った人間」「醜い人間」とする価値観をもたらしてきた。例えば、少女マンガで「今度うちのクラスにすっごいカッコイイ留学生が来るんだって!」という会話があれば、その後に登場するのは十中八九、金髪で青い目の西洋人の少年である。それは少年マンガでも同様であり、「外国から転校してきたカワイイ女の子」として、アフリカや東南アジアから来日した肌の黒い少女が登場することはない。こうした感覚は、制度的な人種差別と違ってわかりにくいが、むしろ私たちの人種観や美意識に与える影響は大きい。ユニクロのように消費者のほとんどが日本人のファッションブランドにおいても、モデルの多くが西洋人なのは、その背景に人種を基準とする美意識がある。ルックスによる序列化が差別的な行為である以上、ミスコン開催は「やりたい人がやるぶんには別にかまわない」ではすまない問題である。それはちょうど在日コリアンの人たちに街頭やネット上で差別的な言葉をあびせるヘイトスピーチが「やりたい人たちには勝手にやらせておけばいい」ではすまないのと同じである。
 現代社会において、不特定多数の人が「美人」と見なす評価基準は、ファッション雑誌やテレビや映画といったマスメディアを通じてすり込まれたものである。ミスコン会場に集まった人々は、自分の好みで選んでいるつもりでも、実際には、マスメディアによってすり込まれた美醜の評価基準を無批判になぞっているにすぎない。つまり、学園祭という場で「学校一の美女」を選ぶという行為を通して、表面的な美しさの序列を再生産しているわけである。このことは、女子生徒を対象にしたミスコンだけでなく、男子生徒を対象にしたイケメン・コンテストや美少年コンテストであっても同様である。学校という物事を考える場において、美男・美女のコンテストを開き、ルッキズムを再生産する行為は、たとえ学園祭というお祭りの出し物であったとしても、あまりにも問題意識に欠けているのではないだろうか。

 

 以下、ルッキズムに関する資料の記事。

五輪式典統括の佐々木氏が辞意表明 
「渡辺さんに対する大変な侮辱。取り返しつかない」
共同通信 2021年3月18日
 東京五輪パラリンピックの開閉会式を巡り、企画、演出で統括役を務めるクリエーティブディレクターの佐々木宏氏(66)が、式典に出演予定だったタレントの渡辺直美さん(33)の容姿を侮辱する内容の演出を関係者に提案していたと「文春オンライン」が17日報じた。佐々木氏は18日未明、謝罪文を公表して辞意を表明。大会組織委員会橋本聖子会長は18日、記者会見を開く。
 組織委では女性蔑視発言で森喜朗前会長が2月に引責辞任したばかりで、五輪開幕が約4カ月後に迫る中で不祥事が相次ぐ事態となった。
 佐々木氏は渡辺さんへの演出アイデアとして、ブタの英単語「ピッグ」を盛り込んだ駄じゃれで「オリンピッグ」というキャラクターを提案。演出関係者のLINE(ライン)グループに書き込んだと認め「渡辺さんに対する大変な侮辱となる発案、発言。取り返しのつかないこと。心からおわび申し上げます」と謝罪して、撤回した上で、統括役辞任の意向を示した。(共同)

 

ルッキズムの残酷さ知ってほしい 
五輪式典統括の辞任騒動で容姿侮辱の経験者から声
東京新聞 2021年3月22日
 東京五輪パラリンピック開閉会式の企画・演出責任者の佐々木宏氏が、渡辺直美さんの容姿をブタに見立てる提案をしていたことが発覚し辞任した。会員制交流サイト(SNS)では「過剰反応」と佐々木氏を擁護する声もあるが、容姿を嘲笑されたことのある女性たちは「ルッキズム」(外見至上主義)が取り沙汰される中、嘲笑の裏にある残酷さを訴える。(原田遼、神谷円香)

◆中高で受けた中傷で20代後半まで摂食障害
 東京都の40代女性は問題となった渡辺さんへの演出案をニュースで知り、いじめと体形に苦しんだ過去を思い出した。「タレント本人がオッケーでも、見ている人が愉快とは限らない。広告業界の最前線で活躍している人がいまだにこんな考えなんて」と絶望した。
 女性は中高の6年間、同級生に「ブス四天王」などと中傷され、「何度も死にたくなった」。お笑い番組で容姿をネタにする芸がはやっており、女性は「同級生は人気者になりたくて、マネしていたんだと思う」と振り返る。
 大学生になりいじめはなくなったが、周囲の視線が気になり「美しくないと、また傷つけられる」「芸能人はみんな細い」「痩せないと」と切迫感に包まれた。当時は身長171センチ、体重58キロの普通体形だったが、極端なダイエットで体重は46キロに減り、生理も止まった。
 その後過食と拒食を繰り返し、「食べては吐く」という日々が20代後半まで続いた。今は克服したが「いじめを助長するような芸を見たくない」と話す。

◆生まれつきアルビノ 面接で「髪染めて」
 横浜市精神保健福祉士、神原由佳さん(27)は、生まれつきメラニン色素がほとんどなく、髪が白く目も青色などになる病気「アルビノ」だ。10代の頃は周りと違う見た目が好きになれなかった。学生時代に受けたアルバイトの面接では、病気の説明をしても「髪は染められないの」と言われた。最近はそうした経験をインターネットで発信している。
 自身もアルビノで、外見に関わる問題に詳しい立教大社会学部の矢吹康夫助教(41)は「本人に変えられない容姿の侮辱は差別」と指摘する。公の場でない仲間内での発言であっても「内輪だからといって許される話ではない」と断じる。

◆「容姿で笑いを取ってはいけない」空気、敏感に
 太った人をブタに例える表現は「これまで多くの人が不快な思いをしてきた。何の新しさもない」と矢吹助教。発信側の意図にかかわらず、嫌な思いをする人がいると分かりきっている表現を、ベテランのクリエーティブディレクターがしたのを問題視する。
 外見の特徴からさまざまな困難に直面する「見た目問題」の解決に取り組むNPO法人「マイフェイス・マイスタイル」(東京都墨田区)の外川浩子代表(53)は「容姿で笑いを取ってはいけない、と今は芸人も、世の中の空気もなってきているはず。鈍感な人は追い付いていない」と指摘する。

 

職場に、家庭に、まん延する「ルッキズム(外見至上主義)」
中国新聞 2021年3/20(土)
 東京五輪パラリンピックの開閉会式の演出で女性タレントの容姿を侮辱するような案が浮上したことが批判されたが、「見た目で評価されて嫌だった」との声は少なくない。外見至上主義は「ルッキズム」とも呼ばれる。身近にある不快な体験とはどんなものなのか・・・。
 広島市安佐南区の女性(39)が1月、飲食店のアルバイトを辞めさせられたのは、天然パーマが理由だった。きちんと整髪料を付けていたのに「清潔感がない。きちんと髪をセットして」と上司から注意された。これ以上のセットとなると高額な縮毛矯正が必要になる。「仕事ぶりじゃなく髪質で判断されるのは理不尽」と今も納得いかない。
 以前勤めたファストフード店では、男性店長が「9号の制服が入らない女性はカウンターに立てない」と決め、この女性は調理場に配属された。「接客を担当する人は細身がいい」という押し付けに傷ついた。
 ルッキズムは、容姿、外見という意味の英語「look」と「主義」を意味する「ism」を合わせた単語。女性は今回の五輪演出問題について「外見で人生が左右されることもあるのに、ネタにする感覚が理解できない」と憤る。
 同区の別の会社員女性(37)は演出案を「ルッキズムが社会にまん延し、感覚がまひしている証拠」と言う。前の会社では同僚男性たちが新人の女性を「顔が何点、スタイル何点」などと採点していた。取引先の男性も好みの部下を「かわいいでしょ」と紹介する一方で、他の部下のことを「彼女、仕事はできるけど顔がイマイチでさー」と陰口を言っていた。
 思えば就活中にも「顔採用」が暗黙の了解だった企業があった。個人的な美醜の感覚は誰にもあり、美しいものを求める気持ちは分かる。でも「容姿によって機会や可能性の不均衡が生じるのは問題ではないでしょうか」と問い掛ける。
 東区の会社員男性(41)も「女は顔、男は身長」という風潮があると感じる。学生時代から人気なのは、かわいい女子と背が高い男子。女友達が「彼イケメンだけど背が低いのが残念よね」と言うたび違和感を覚えると打ち明ける。
 「若い頃から見た目を否定されて嫌だった」と話すのは呉市の女性(52)。「顔が大きい」「貧乳」という言葉にしおれた。パート先でも「きちんと化粧して」「身なりに無頓着だから老けて見える」と指摘されショックを受けた。
 出産後に14キロ太った福山市のパート女性(38)は、夫から「前の体形に戻ってほしい」と求められた。産前と変わらないスタイルで仕事復帰する芸能人がメディアで取り上げられるたび、「一般人も出産で太ってはいけない」とプレッシャーを感じるという。
 学校で劣等感を植え付けられた人もいる。福山市の女子学生(23)は170センチの長身で、小さい頃からあだ名は「巨人」や「のっぽ」。身体測定の時間が苦痛で、小柄に見られたくて猫背の癖がついた。高校の修学旅行で訪れたカナダで聞いた友人の一言は「ここにいると普通だね」。「日本だと普通じゃないってこと?」と悲しかった。
 女友達も外見にとらわれていて、みんな口癖のように「痩せなきゃ」「二重まぶたになりたい」と言う。街中にはダイエットや脱毛の広告があふれ、「私たちは無意識に社会が決めた『美しさ』に縛られている気がします」

 

「なぜ痩せていて美人が最強なのか」日本で根強い"ルッキズム"の呪い
たったひと言が原因で摂食障害
シオリーヌ(大貫 詩織)助産師/性教育YouTuber
PRESIDENT Online 2021/03/07
 「外見より中身」とは言うものの、ネットも街角も容姿についての情報であふれ、外見の美醜で人を評価する風潮は根強く存在しています。助産師で「性教育YouTuber」のシオリーヌさんが、自身が「ルッキズム」(外見至上主義)にとらわれて摂食障害になった経験を挙げながら、自分のありのままの姿を肯定することの大切さを説きます――。

なぜ「自分の身体が大キライ!」と思うのか
 ボディイメージとは、自分の身体にたいして自分が持つ認識やイメージのこと。今の自分の身体を、どんなふうに捉えるか。どんなふうに評価するか。そんな要素をまとめてあらわす言葉です。
社会の中で暮らしていると、ボディイメージに影響を与えるさまざまな情報と出会います。
  太っていることは、醜いこと。
  痩せる努力をできる人が素晴らしい。
  筋肉がない人は魅力が足りない。
  ムダ毛の有無は女性の魅力を左右する。
  髪の薄さは男性の魅力を左右する……。
 例を挙げればキリがありませんが、自分の容姿が社会的に見てどうなのかを考えざるをえないような場面を経験することはたくさんあるかと思います。
 ただ、あなたの身体にとって最も重要なのは、あなた自身が心地よく過ごせる身体であるかどうかです。

「痩せている」ことより大切なこと
 それでも社会の中では、雑誌やSNSでみるスリムなモデルさんをお手本のように捉え、美しいとされる美容体重を目指して多くの人がダイエットに励んでいます。
 もう一度言います。あなたの身体にとって最も大切なのは、あなた自身が心地よく過ごせる身体であるかどうかです。あなたの身体をどんなふうに受け止めるか、そしてあなたの身体にどんな変化を起こすか(もしくはどんな変化も必要としないか)を決める権利は、あなた自身にあります。
 どうか自分にとって一番心地よい自分の身体を、大切にして暮らしていただけたらと思っています。

外見が人生を左右する「ルッキズム
 日本は、ルッキズムの文化が根付いた国です。
 ルッキズムとは、外見でその人の価値をはかり差別する考え方のこと。例えば「太っている人は痩せている人より劣っている」とか、「二重(ふたえ)の人は一重(ひとえ)の人よりも価値がある」とかそういったものです。
 そもそも生まれ持った顔の構造や体格、体質、肌の色は自分で選べるものではありません。生まれつき二重の人もいれば、目が小さい人もいる。同じ量の食事を摂っていても全く太らない人もいれば、脂肪がつきやすい体質の人もいる。
 自分の意志で選べないもので人の評価を決めつけることは、ありのままの自分で生きるという、人の権利を覆す行為です。

ダイエットが摂食障害の引き金に
 また日本では多くの人が「摂食障害」という疾患に悩まされています。摂食障害とは、拒食や過食など食事に関する行動に異常がみられ、それによって身体的もしくは精神的に日常生活に支障をきたす症状が現れる疾患です。
 摂食障害になるきっかけや、なってからの経過は人それぞれですが、ダイエットが引き金になるケースも多いのが特徴です。
 実は、私自身も摂食障害の経験者です。きっかけは大学生の時、当時の恋人から、「もう少し痩せてほしい」という言葉を受け取ったことでした。

外見の評価、言葉にする前に立ち止まって
 外見で判断される風潮に苦しめられるのは、体型に自信のない人だけではありません。
 身長にコンプレックスがある人、顔のパーツが気になる人、自分の声が嫌いな人。そうしたコンプレックスを抱くようになった背景には、第三者からの評価があることも少なくありません。
 誰かの外見を見た時に「綺麗だな」と思ったり「自分の好みではない」と思ったり、心の中でどんな感想を抱いたとしてもそれは自由です。でも人の外見に対しての評価を言葉にして伝えることは、その人の一生を左右する可能性のある行為であることを忘れないでください。
 たとえそれが褒め言葉のつもりだったとしても、相手にとっては一生モノのコンプレックスを新たに植えつけられる経験かもしれないし、すでにあるコンプレックスを掘り起こすきっかけになるかもしれません。
 外見を評価する言葉を手放して人を褒めようと思うと、意外と語彙が必要だなと感じますが、その気遣いの積み重ねがより豊かな人間関係を育んでくれる気がします。

 

 

 九年前に書いた文章はこちら。

ミスコン - box96

 

奴隷商人像の撤去

 Black Lives Matter運動をめぐる奴隷制度に関わった人物の銅像撤去について、論述問題を作成した。撤去の是非は、像を歴史的遺産ととらえるか、それとも政治的シンボルととらえるかが別れ目。AとBの参考意見を読み返してみたところ、どうにもAが弱い。参考意見について、ここをこうしたほうがいいという指摘があったらコメントをもらえると助かります。

 ネット上の記事で参考になったのは、ナショナルジオグラフィックのこれ。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/070100392/?P=1

 課題は次の通り。

 

奴隷商人像の撤去

 2020年、「Black Lives Matter」といわれる黒人の権利向上を求める抗議デモが世界的に広がるにつれて、黒人奴隷制度に関わった人物の像を撤去する動きが世界各地ですすんでいます。次の資料は、ロンドンの街中に設置されていた奴隷商人ロバート・ミリガンの銅像が撤去されたことを伝える新聞記事です。

 

「人種差別の象徴だ」奴隷商人らの銅像、英国で撤去続く
 朝日新聞 2020年6月11日
 米国で起きた白人警官による黒人男性の暴行死事件を受けて、英国でも抗議デモが広がり、各地で奴隷商人像を撤去する動きが出ている。
 ロンドン博物館前に設置された像が、周辺を管理する団体によって9日に撤去された。英メディアによると、撤去されたのは、18世紀のジャマイカで500人以上の奴隷を使って砂糖のプランテーションを経営していた商人ロバート・ミリガンの像。博物館は「記念碑(像)は白人中心という現在も続く問題ある制度の一部だと認識している。ミリガンが犯した人道に対する犯罪の遺物と今も闘う人たちの痛みを無視するものだ」としている。 

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 ロバート・ミリガンは18世紀イギリスの貿易商で、奴隷貿易で財をなすとともにジャマイカで500人以上の黒人奴隷を使役して砂糖のプランテーション農園を経営した人物です。彼の銅像は、ロンドンの発展に貢献した彼の業績を讃えるものとして、ミリガンの死後間もなくの1809年にロンドンのドックランズ博物館前の広場に設置されました。
 こうした実在の人物の像は、歴史的記念物であるのと同時にその人物を歴史上の偉人として讃えるという政治的シンボルの性質も持っています。ロバート・ミリガンのような黒人奴隷制度に深く関わった人物の像を残すべきなのか、それとも撤去すべきなのか、つぎのAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。

 

A 残すべきである。
 奴隷商人の像を撤去することは、たんにうわべを取りつくろうだけであり、歴史を変えることはできない。歴史は過去にあった事実の積み重ねであり、数多くの残酷な出来事が存在したことで現在の社会は成り立っている。像の撤去は、そうした過去の事実から目をそらす行為である。
 たしかに、いま新たにロバート・ミリガンのような奴隷商人の像を広場に建設しようとするのは、愚かな行為である。しかし、このロバート・ミリガン像は、彼の死後間もなくの1809年に建設されたものであり、200年間ロンドンの広場に立ち続け、それ自体、歴史的価値を持っている。歴史的遺物がつくられた場所にそのまま残されているということは、過去の事実を理解する重要な手がかりとなる。ロンドンの街中でこの銅像を見ることで、200年前のイギリス社会がロバート・ミリガンという奴隷商人をどう評価し、当時の人々が奴隷貿易や奴隷農園をどのように考えていたのか知ることができる。イギリスには、ロバート・ミリガン以外にも数多くの奴隷商人の銅像が各地に設置されており、それらの像は、18世紀、19世紀のイギリスが奴隷貿易によって経済発展していったことをいまに伝えている。
 過去の事実は時間とともに急速に風化していく。手がかりとなる資料を失えば、わずか数十年前の出来事さえ、真相は闇の中へ消え、デマや憶測があたかも事実であるかのように語られるだろう。過去の事実を記録し、その歴史を直視するための歴史的遺産として、ロバート・ミリガン像は、ロンドンの街中にそのまま残しておくべきである。
 歴史的な業績を残した人物は、現在の倫理観ではかるとなんらかの問題を抱えているケースが多い。大西洋を渡ってアメリカ大陸に到達したコロンブスは、アメリカ先住民からすれば、殺戮(さつりく)をくり返した残忍な侵略者である。アメリカ独立宣言を起草した第3代アメリカ大統領のトマス・ジェファーソンは、人権思想をうたう一方で、奴隷農園を経営しており、14歳の黒人の少女を愛人にし、彼女との間に生まれた5人のこどもたちも奴隷したことで知られている。また、日本では「太閤さん」の愛称で親しまれている豊臣秀吉は、一方でキリスト教徒に残忍な刑罰を科した宗教弾圧者であり、朝鮮半島での虐殺と略奪を命じた侵略者でもある。だからといって、各地に存在するコロンブス像、ジェファーソン像、秀吉像をすべて撤去することは、彼らの業績をも否定することになり、過去が消される危険性をはらんでいる。人間の歴史は、偉大な業績と愚かなあやまちの歩みである。現在の価値観で過去を裁き、あやまちを人目につかないよう隠してしまったら、それはもはや人間の歴史とはいえない。

 

B 撤去すべきである。
 実在の人物の像は、たんに歴史的記念物というだけでなく、その人物を「偉人」と見なし、業績を讃えるという意図でつくられている。貿易商のロバート・ミリガンは、18世紀にロンドンの発展に貢献した地元の名士であるが、その一方で奴隷貿易と奴隷農園の経営で財をなした人物でもある。こうした奴隷商人を歴史上の「偉人」として讃え、公共の場に像を残すことは、「奴隷制度は悪いものではなかった」というメッセージを発信し続けることになる。「Black Lives Matter」運動の参加者たちがこの銅像の撤去を要求したのもそのためであり、彼らの主張は歴史上の虐殺や弾圧をなかったことにしようとする歴史修正主義とはまったく立場が異なる。「Black Lives Matter」運動の参加者たちは、黒人奴隷制度をなかったことにしようとしているのではなく、奴隷商人を地元の名士として200年間受け入れてきたイギリス社会の無神経さとエスノセントリズム(自民族中心主義)に抗議しているのである。
 実在の人物の像は、常に政治的意図が込められており、公共の場に設置されるとシンボルとして強いメッセージを発信し続ける。この点において、アウシュビッツ強制収容所跡や原爆ドームのような過去の過ちを学ぶ歴史的遺産とは大きく性質が異なる。もし、アメリカの退役軍人会がエノラ・ゲイの機長像を広島市に寄贈し、それを原爆ドームの前に設置するよう求めたら、広島の人たちはひどく侮辱されたと感じるだろう。それはメキシコの人たちがコルテスの像を拒絶し、イスラエルの人たちがヒトラーの像を拒絶するのと同じである。ヒトラー像が平和のシンボルにならないように、奴隷商人の像は人権尊重のシンボルにはならない。ロンドンの広場に、黒人奴隷の歴史にふれるためのモニュメントを設置するのなら、人権尊重のシンボルとしてふさわしい新たな像をつくるべきである。
 歴史上の人物を「偉人」と評価して公共の場に像を建設するのも価値判断であり、その人物を「弾圧者」と再評価して像を撤去するのも価値判断である。像の撤去だけを「現在の価値観で過去を裁くべきでない」と批判するのは、あきらかに矛盾した姿勢である。像の撤去は歴史上の事実から目をそらす行為ではなく、あくまで歴史の再評価である。歴史は常に再評価されるべきものであり、歴史観も社会とともに変化していくものである。コロンブスアメリカ大陸で先住民の大虐殺を行ったことが詳細にわかっている現在でも、人々の抱くコロンブスのイメージが「偉大な航海者」のままだとしたら、むしろそちらのほうが問題である。歴史に目を向けるとは、様々な角度から過去の事実を検証することであり、一面的な見方で英雄物語をでっち上げ、その像をつくって崇拝することではない。像の撤去が「歴史から目をそらす行為」だというのなら、ソ連時代に各地に設置されたスターリン像もそのまま残さねばならないことになってしまうだろう。
 人種差別の問題はけっして過去のものではない。現在も人種のことで学校でいじめられたり、地域社会で差別的なあつかいを受けたり、進学や就職で不利な状況におかれている人々は大勢いる。彼らはロンドンの街中で奴隷商人の像を見るたびに心を痛めていたはずである。だからこそ、「Black Lives Matter」運動の中で、こうした像を撤去して欲しいという声があがったのである。
 たしかに古い時代の像は歴史的資料としての価値が高い。始皇帝兵馬俑(へいばよう)やアレクサンドロスの石像は、人類の遺産として大切に保存していく必要があるだろう。しかし、近代につくられた像は、現在の政治状況と密接に結びついており、歴史的遺産としてよりも政治的シンボルとしての性質が強い。そのため、奴隷制度に関わった人物の像を公共の場に残すことは、いまも奴隷制度や植民地支配が悪いものではなかったと主張している白人至上主義者たちにより所を与え、政治的に利用される危険性をはらんでいる。白人至上主義をとなえる人々は、アメリカでトランプ大統領の重要な支持層となり、ヨーロッパ諸国でネオナチの団体や排外主義の政党を結成するなど、21世紀になってもなお一定の政治的影響力を持っている。こうした動きを食い止め、黒人奴隷制度が歴史上の大きなあやまちであり、人種差別が愚かな行為であるという価値観を社会として共有するためには、奴隷制度に関わった人物の像は公共の場から撤去すべきである。

 

選挙の戸別訪問

 選挙における戸別訪問の是非について課題を出した。出題は次の通り。


 論述問題 選挙の戸別訪問

 選挙活動の際に候補者やその支援者が自分の考えを知ってもらうために家々を訪問してまわることを「選挙の戸別訪問」といいます。日本では公職選挙法138条で禁止されています。
 選挙の戸別訪問の禁止については裁判でも争われており、1981年の最高裁判決では、選挙買収を予防し、訪問を受ける人の静穏な生活を守るために、戸別訪問の禁止には合理性があるという判断が示されています。
 しかし、直接面会して候補者の話を聞くことは、誰に投票するかを決める際に重要な判断材料になります。そのため、日本以外のほとんどの国では、候補者やその支援者による戸別訪問は選挙活動のひとつとして認められています。また、選挙カーが大音量で候補者の名前を連呼する日本独自の選挙活動が広まった背景には、戸別訪問が禁止されていることがあります。
 はたして選挙の戸別訪問は認められるべきなのでしょうか。次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。ただし、「選挙に興味がないから」「来られるとめんどうだから」という個人的事情ではなく、どうすればより良い社会になるのかという公共の利益の立場から論じること。

 

A 選挙の戸別訪問を認めるべきである。
 選挙の候補者が家々を回って自分の考えを説いて回り、支持を集めることは議会制民主主義の根本であり、それを禁止するのは表現の自由に対する重大な侵害である。訪問セールスや宗教の訪問勧誘がそれぞれ「経済活動の自由」「宗教活動の自由」として認められているのに、選挙の戸別訪問だけ禁止されているのはきわめて非合理的である。民主的な社会を守っていくという点では、むしろ、選挙の戸別訪問のほうがセールスや宗教の勧誘よりも社会的重要性は高いはずである。
 日本における選挙の戸別訪問の禁止は100年近くも昔の大正時代にはじまった。この頃は、多くの人たちが民主主義や選挙がどういうものなのか理解しておらず、候補者の戸別訪問は選挙買収の温床になるというのが禁止の理由だった。しかし、現代では、教育の普及によって、民主主義における選挙の役割やその重要性は多くの人に理解されているはずである。また、選挙買収については、現在ではきびしい罰則がもうけられており、たとえ缶ジュース1本でも6年以下の懲役刑が科せられる。選挙買収の予防的措置として戸別訪問を禁止する合理性はもはや失われている。
 1981年の最高裁判決では、人々の静穏な生活を守る上で戸別訪問の禁止には合理性があるという判断が示されたが、当時と現在では、日本人の生活様式は大きく異なっている。1980年代はじめ頃までは、ほとんどの家庭は玄関にカギをかけず、暖かい季節には玄関を開け放っており、訪問セールスや新聞の勧誘の人たちが勝手に屋内に上がってきてセールストークをまくしたてるという光景が日常的に見られた。このような生活環境では、選挙の候補者やその支援者が勝手に上がってきて話し込んでいくという状況も想定できた。しかし現在では、もし話を聞きたくなければ玄関先で断ればいいだけのことであり、わざわざ法律で選挙の戸別訪問を禁止する根拠にはならないはずである。
 候補者の話をじっくり聞いた上で誰に投票するかを判断するというのは、議会制民主主義のあるべき姿である。日本では選挙の戸別訪問が禁止されているためにその代わりとして選挙カーでひたすら名前を連呼する選挙活動が行われているが、むしろ法律で規制すべきなのは戸別訪問ではなく、大音量で名前を連呼するばかりでなんら中身のない選挙カーのほうではないだろうか。

 

B 選挙の戸別訪問の禁止を維持するべきである。
 現代では、静かでおだやかな生活を求める傾向はますます強まっている。現代人にとって、自室というプライベートな空間で静かにすごしたいという願望は、プライバシー権と同様にもはや基本的人権のひとつといえる。だからこそ、日本の住宅は密閉性と防音性を重視した構造になり、どこの家でも玄関にカギをかけるようになったのである。こどもが友だちの家に遊びに行く際にもあらかじめ電話で連絡するのが一般的になっている現代において、いまさら選挙の戸別訪問を解禁するというのは、日本人のライフスタイルの変化に逆行するものである。
 選挙の戸別訪問は、「民主主義における重要なイベント」という大義名分があるぶん、訪問セールスや宗教の勧誘よりも押しつけがましいものになりやすい。もし選挙の戸別訪問が解禁されたら、玄関先で訪問を断った相手から、「あなたは日本の社会になんの疑問も感じていないんですか!あなた馬鹿なんですか!」と罵倒(ばとう)されることもありえる。
 たしかに直接会って話を聞くことによって、選挙公報やインターネット上のWebサイトだけではわからなかった候補者の人柄や話しぶりにふれることができる。しかし、そうした機会は公園や公民館のような場での演説会や討論会をもよおすことで確保できる。民主社会の基本はあくまでひとりひとりの「能動的な」社会参加である。自宅への候補者や支援者の訪問という受動的な機会をつくるよりも、人々が自らの意思で参加する演説会や討論会を数多く開催することのほうが能動的な社会参加という点ではるかに建設的ではないだろうか。

 

論述問題 原子力エネルギーのPRポスター

 8年前にちらのブログに書いた原子力発電のポスターを資料にして、授業用の論述問題を作成しました。

 

 元記事はこちら。

 https://box96.hatenablog.com/entry/20110406/1301977771

 

 今回作成した課題は次の通り。

 

 日本では、2011年の福島第一原発事故まで、国をあげて原子力発電を推進してきたため、原子力エネルギーのPR活動にも力を入れてきました。毎年、政府だけで70億円、電力会社や外郭団体もふくめると数百億円の資金が投じられ、様々なポスターやコマーシャルが大量に制作されてきました。次のポスターはそうした原子力エネルギーをPRするものです。

 

 

 

 

 

 上の3枚のポスターは、文部科学省経済産業省が主催した原子力ポスター・コンクールで優秀賞や入選などに選ばれた作品です。小学生を対象としたこのコンクールは2010年まで毎年開催され、受賞した作品はいずれも「原子力で笑顔」「原子力は地球を守る」「原子力すごいぞ」「原子力で明るい未来」という原子力エネルギーを讃える(たたえる)メッセージが込められています。こうしたポスターは印刷され、博物館をはじめとする様々な公共施設に展示されました。また、政府は10月26日を「原子力の日」としており、この日には鉄道車内の中吊り広告がすべてこどもたちの原子力ポスターで埋め尽くされるといったこともありました。
 下は四国電力の制作した商業広告用のポスターです。「プルサーマル」というのは、使用済み核燃料から取り出したプルトニウムによって再び核燃料をつくり、再使用するというものです。プルサーマル方式の原子力発電を実現させることで核燃料のリサイクルを行い、ひまわりのような大輪の花を咲かせようというメッセージが込められています。
 原子力発電の是非のような世論を二分する問題について、政府や電力会社が巨額の資金を投じて推進の立場からPRすることについて、あなたはどのように評価しますか。次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。

 ただし、「自分は原子力発電に賛成だからポスターにも賛成」「原子力発電に反対だからポスターにも反対」という主張はしないこと。それは「自分と同じ考えなら表現を認める」「自分と違う考えは表現を認めない」といっているだけなので、表現の自由そのものを否定する姿勢です。原発の是非についてのあなたの考えはいったんわきに置いて、政府や電力会社のような公的な団体が税金や公共料金を使って政治的宣伝を行うことの是非を論じてほしい。

 

A 支持する。
 「原子力エネルギーの平和利用」は、2011年に福島第一原発事故がおきるまで、日本政府の方針だった。国の方針である以上、政府がPR活動に力を入れるのは当然である。原子力発電のような巨大プロジェクトは、国家事業でなければ実現できないものであり、いったんやると決めたからには、ポスターやコマーシャルを通じてメッセージを発信し、できるだけ多くの人々の理解を得られるよう努めることは、政治をあずかる政府の責任である。
 日本は議会制民主主義の国であり、人々は原子力発電の推進をとなえる政党を選挙で選んできたのである。原子力発電の推進を選挙公約にかかげて選挙に勝った以上、それを政府の方針とすることは議会制民主主義の基本原則といえる。したがって、政府が原子力エネルギーのPR活動に力を入れてきたことは民主的手続きに基づくものであり、ポスターの表現だけを取りあげて、独裁国家プロパガンダのようだと批判するのは的外れである。
 日頃、原子力発電に興味のない人は、これらのポスターを目にすることで、原子力エネルギーについて考えるきっかけになるだろう。また、誤った認識から原子力発電を不安視している人々は、原子力エネルギーを正しく理解し、根拠のない不安を解きほぐすきっかけになるだろう。つまり、原子力エネルギーのPR活動は、一方的に政府の方針を押しつけるためのものではなく、原子力発電に興味を持ってもらい、正しく理解してもらうためのきっかけづくりであり、日本のエネルギー問題を多くの人々に考えてもらうための啓発活動といえる。

 

B 支持しない。
 選挙による多数決が民主主義のすべてではない。原子力発電の是非について国民投票をしたわけでもないのに、政府が一方的に推進のPRをして人々をしたがわせようとするのは、独裁国家のやり方である。
 民主社会においてもっとも重要なことは、ひとりひとりが見識を深め、社会問題について自ら能動的に判断することである。そのため、政府には、人々が様々な角度から検討できるよう情報公開をすすめていくことが求められる。ところが、これらのポスターは、原子力発電について、「みんな笑顔」「地球を守る」「未来をはこぶ」「ひまわりのような大きな花を咲かせる」と一方的に賛美するメッセージでしかなく、人々が原子力発電への理解を深める役割をまったく果たしていない。
 原子力発電を推進するメッセージは、2011年に福島第一原発が事故をおこすまで、至るところで目にした。郵便箱を開けると「原子力はクリーンエネルギー」と書かれた電力会社のチラシが入っており、電車に乗ると中吊り広告には「原子力でベストバランス」のポスター、テレビをつけると「原子力は地球環境に優しい」というコマーシャルが流れ、さらには野球場の看板にまで原子力発電を推進するメッセージが掲示されていた。こうした大量のメッセージを人々に浴びせるやり方は、いわばソフトな洗脳であり、人々の思考力をマヒさせ、主体的な判断をさまたげる。だからこそ、独裁国家では、世論を操作するために、政策推進のスローガンをとなえるポスターが町中に貼られるのである。
 ナチス時代のドイツでは、「我らの総統を讃えよう」というヒトラーを賛美するポスターが町中に貼られ、ソ連では、「五ヵ年計画を実現させ、輝かしい未来をひらこう」という共産主義体制を賛美するポスターが貼られた。いまも北朝鮮では、「核保有国の誇りを持とう」という核戦略の推進をとなえる垂れ幕が大通りにかかっている。
 原子力発電の是非のような賛否の分かれる社会問題について、政府と電力会社が巨額の費用を使って世論を誘導しようとしてきたことは、独裁国家プロパガンダの手法であり、民主的な政府のやるべきことではない。民主社会において、重要な社会問題を判断する主体は、政府ではなく、私たちひとりひとりである。政府は私たちが決めたことをすすめるための装置にすぎない。そのことは、原子力発電の是非に限らず、東京オリンピックの開催や消費税の引き上げといった問題についても同じことがいえる。

 

 

不思議の国の自転車

 自転車ブームがつづいているそうでここ数年で大型チェーン店が目につくようになった。私もオートバイを手放して以来、家から20km圏内はもっぱら自転車で移動しており、すっかり身軽な暮らしの相棒になっている。構造がシンプルなので手入れをしてやるとそのぶんよく走るようになるのもわかりやすくていい。ただ、ブームに乗って自転車やグッズを売りたい業者とそれに乗せられた自転車乗りたちが嘘だらけの奇妙な煽り文句を流通させているのは気になるところである。ここではそうした自転車をめぐるお伽噺を挙げてみます。

 

・自転車は渋滞に巻き込まれてもスイスイ!

 いったいそれはどこのワンダーランドの話だろうか。日本ではほとんどの道路に自転車専用車線がないので、クルマが渋滞していれば必然的に自転車も巻き込まれる。また、幹線道路の場合、5台に1台は工事用の大型車両なので、クルマの左側をすり抜けることも困難で、排気ガスを浴びながらダンプの後ろにつくことを余儀なくされる。さらに前後を大型車にはさまれてしまうともう逃げ場すらなくなり、スイスイどころか非常に危険である。自転車の車道走行は道路環境が整備されていないぶん、クルマと同じペースで走行できるオートバイよりもむしろ交通事故のリスクは高い。渋滞など関係ないというのは、車道と歩道を行ったり来たりしながらクルマをすり抜け、赤信号も無視して突っ走る無謀運転の自転車だけである。

 

・片道5kmの自転車通勤で楽々ダイエット!

 たかだか5kmの自転車通勤でみるみる体重が減ったとしたら、それは健康上きわめて深刻な状態なので、即、病院で診てもらったほうがいい。自転車の運動強度は案外低く、平らな道を25km/h以下でだらだら走っているのなら散歩程度の負荷にすぎない。週五日自転車通勤したところで体重はほとんど変わらないだろう。食事制限もせず他の運動も一切せず、片道5kmの通勤だけで体重を落としたいと本気で思っているのなら、行きも帰りもランニングするべきだ。慣れてきたら最後の1kmは全力疾走。それくらいの負荷をかけなければ片道5km程度では運動にならない。自転車で痩せたと言っている人たちに共通しているのは、額から汗がしたたり落ちるくらいの運動強度で週に200kmも300kmも自転車で走るという暮らしを何年も継続していることだ。もっともその運動量はフルマラソンを3時間台で走る人のトレーニングと同じくらいなので、そりゃあそれだけ体を動かしていればどんな運動だろうと体脂肪が落ちてくるのは当たり前といえば当たり前の話です。


・自転車に乗ることはランニングよりも有酸素運動としてずっとすぐれている!

 自転車とランニングの両方を本格的に取り組んでいる人は少ないため、本の解説やネットの発言はたいていどちらか一方のひいきになりやすい。自転車関係者は自転車に乗ることの良い点ばかりを挙げ、ランニング関係者は走ることの良い点ばかりを挙げ、公平性を欠いたまま互いに布教活動をしているという感じ。私はここ何年か自転車で30km走ったあと8kmのジョギングをするという生活を続けているが、その経験から自転車運動の長所・短所をあげると次のようになる。

 良い点

  1. 遠くまで行ける。
  2. ランニングとくらべて、ひざへの負担が少ない。
  3. 自転車で遠出すれば、運動と旅行が同時に楽しめる。
  4. 近所に峠や長い坂があるなら、自転車での坂登りは結構いい運動になる。
  5. 機材が介在するので、機械いじりが好きな人は整備・調整も楽しめる。

 悪い点

  1. 初期費用が最低でも5万円くらいかかる。
  2. 車道を走ることになるため、走行中、クルマから幅寄せされたり、煽られたりすることが多く、しばしば不愉快な思いをする。そうした運転は本来、危険運転行為に該当するのだが、車道を走っている自転車を目の敵にしているドライバーは少なくない。
  3. 転倒のダメージはランニングよりもはるかに大きい。
  4. 信号機だらけの都市部に暮らしている場合、自転車に乗っている時間の半分は信号待ち。
  5. 時間あたりの消費カロリーはランニングの半分以下。
  6. ランニングはほとんどのスポーツの基本動作になるが、ペダルを漕ぐ運動が上達しても他に応用がきかない。
  7. 機械いじりが苦手な人にとって自転車のメンテナンスは苦行。
  8. 自転車の愛好家には「ねばならぬ」式の発言をする偏狭なオタクが多く、コミュニティは運動を大らかに楽しみたい人には不向き。

 メリットとデメリット双方あるが、機材が介在するぶん、自転車のほうがランニングよりもどうしても敷居が高くなる。ときどき「はじめから高価な自転車を買ってしまえば後々運動を続けるモチベーションにもなる」という発言を耳にすることがあるが、もし本気でそう言っているのだとしたら、ヒトをモノの奴隷におとしめる発想である。まあたいていは高い自転車を売るためのセールストークなんだろう。また、楽しみや体力作りのために運動するのなら、その日の気分や体調にあわせて自分のペースで体を動かせばいいはずなのだが、自転車乗りはランナー人口よりも全体のパイが小さいぶん愛好家のグループも競技志向が強くなりがちで、「速いほどエライ」というヒエラルキーを形成しやすい。というわけで、運動不足解消や減量が目的なら、手軽にできるランニングのほうが向いている。とくに都市部に暮らしている場合、ほぼ100m間隔で信号があるので、自転車の市街地走行では信号ダッシュと信号待ちのくり返しになってしまい、有酸素運動としての効率は著しく低下する。市街地を信号待ち休憩をはさみながら自転車で2時間走るより、休まずに1時間ジョギングしたほうがずっと運動効率はいい。逆に田舎暮らしで近所に買い物に行くにもクルマという生活をおくっているなら、自宅から半径5km圏内の移動を徒歩、15km圏内を自転車に切り替えれば、それだけで運動不足解消と環境対策の両方が同時に実現しますってまあこれもごく当たり前の結論ですね。


ロードバイクはあなたの行動範囲を大きく広げる!

 確かにきちんと整備されたロードバイクはまるで路面を滑空するように走る。ホームセンターの9800円ママチャリしか乗ったことのない人はきっと驚くだろう。しかし、ロードバイクはあくまでレース用の機材であって日々の生活の相棒にはならない。たとえば、「せっかく良いバイクを買ったんだから」と週末に日帰りのツーリングに出かけたとする。6時間せっせとペダルを漕ぎ、汗をかいて埃や排気ガスも浴びたので、帰りに銭湯へ寄ってひとっ風呂浴びようと思いついた。名案だ。まだ明るいうちに入る銭湯の広い湯船はさぞや極楽だろう。高いところの窓から夕日が差してきて富士山のペンキ絵が赤く染まったりしてさ。でも、まもなく風呂屋の入り口に停めた30万円のカーボンバイクが気になりはじめる。盗まれやしないか、悪戯されやしないか、勝手に動かされてひっくり返されたりしないか。ロードバイクは軽く精密に作られているぶんデリケートなので、ちょっとぶつけられただけでも当たり所が悪いと、即、調子が悪くなる。買ったばかりの高級車は帰り道に変速機からガラガラと不快な音をたてはじめるだろう。それを思うとおちおち湯船にも入っていられない。で結局、やっぱり銭湯はまた今度にしようとあきらめる。また別の休日、「せっかく高いの買ったんだから」と少々足を伸ばして古本屋の梯子をしようと思い立ったとする。しかし、店に着く度に自転車をワイヤーロックでぐるぐる巻きにする手間を思うと気が重くなる。それにたとえフェンスに三重にくくりつけたとしても盗難や悪戯を完璧に防げるわけではないので、やはりおちおち本も選んでいられないだろう。で結局、やっぱりクルマで行けるブックオフでいいやとなる。こうなるともう完全に本末転倒で、行動範囲を広げるどころか高価な自転車がかえって行動の自由を束縛することになる。レース用の機材であるロードバイクの用途は峠と家の往復しか存在しない。レースに出場するつもりがないのなら無用の長物だし、自転車は身軽な暮らしの相棒であってほしいと思っているのなら、それは「くびき」以外の何物でもない。


ロードバイクは自転車の王様である!

 自転車には用途に応じて「種類」があるだけだと思っていたのだが、自転車の国にカースト制度があったとは驚きである。しかし、ロードバイクにはなんら生産性はない。労働生産性という点では豆腐屋のリヤカー付き自転車やヤクルトレディの電動アシスト自転車のほうがはるかに上等な存在である。それともこれは「働かない」という意味で貴族的だと言ってるんだろうか。ヨーロッパの自転車ロードレースは、ボクシングと同様に一攫千金を夢見る貧しい労働者階級の青年が大怪我のリスクと隣り合わせに競い合うイベントとして広まっていったものだが、なぜか日本では小金持ちのおじさんたちの気どった趣味として普及したせいか、この手の鼻持ちならない発言をよく耳にする。彼らが実用車を見下すのは、ちょうどフライフィッシングに興じている旦那衆が生活のために魚を捕っている漁師を馬鹿にするのと一緒で、きわめてタチが悪い。フライフィッシングロードバイクも旦那衆の道楽にすぎず、なにも生み出さない。もっとも、だからといって「やめろ」とはいわない。たいていの娯楽に生産性などないし、周囲に多少の迷惑をかけるものだからだ。あなたが用もないのにクルマでドライブに出かければ大気汚染や交通渋滞の原因になるし、山登りをすれば遭難して他人の手を煩わせることもある。あるいは夕暮れの公園で気分よくスケボーに乗ってトリックを決めていれば、近所の住民からうるさいと苦情が来るだろう。この社会は「人に迷惑をかけない」という道徳的命題が大好きだが、他者に一切迷惑をかけられない社会ほど息苦しいものはない。なので、周囲に多少気兼ねしながらそれらの非生産的行為をささやかに愉しんでいるぶんには、いずれも悪くない趣味だと思う。ただ、その成果を得意げに吹聴するのは無意味だし、その非生産的行為に特権意識を抱くのは愚かだ。あなたが草レースで表彰台に乗ったところで、難民キャンプのこどもたちが救われるわけでもないし、核兵器廃絶が実現するわけでもなく、私の今晩のおかずが一品増えるわけでもない。まあ、オリンピックで表彰台に乗れば、テレビ局とナショナリストたちは「感動をありがとう!」と盛大に感激してくれるかも知れないけど、ナショナリズム高揚のためにスポーツ選手を国家英雄に祭り上げるのは20世紀にナチスがはじめた政治手法である。


・自転車のベルは使わない!

 自転車のベルはクルマのクラクションに相当するもので使い方も一緒である。もっぱらクルマのクラクションの使い方は「邪魔だ、どけよ!」と「おせーな、早く行けよ!」のふたつだが、もちろんこれは誤りで、交通事故を回避するために注意喚起をするのが本来の用途である。たとえば、向こうから携帯電話を見ながらふらふらと蛇行している自転車がやって来たとする。こんな時、じゃりン子チエのテツのように「どこ見てんのんじゃこのど阿呆!前見て運転せんかいボケナス!」と怒鳴るより、ベルを鳴らして前方への注意をうながしたほうがスマートである。また、中学生の集団が道いっぱいぞろぞろと横に広がって通行を妨げていたとする。やはり「おんどりゃインベーダーゲームか!一列縦隊で歩かんかいマヌケ!」と怒鳴るより、ベルを鳴らしたほうがスマートである。他にも脇道からいきなり飛び出してくる自転車やら右側を逆走してくる自転車やら信号無視して横断しようとする年寄りやら、ベルの使いどころは結構たくさんある。むしろ問題は、ベルの音が小さくてクルマのドライバーに聞こえないことのほうである。肩に接触しそうなくらいすれすれの間隔で強引に追い抜いていくクルマやウィンカーを出さずにいきなり左折しようとするクルマには、それが危険行為であることを喚起させたくても、自転車のベルの音はドライバーに届かない。なので、クルマのクラクションと同じ音量の電子ホーンを自転車にも装着したいところである。自転車で車道を走る際には、クルマを運転しているときよりも怖い思いをすることが多いので、ホーンを使う機会も多いだろう。もっとも、こういう自己中心的な運転をするドライバーは自転車側から注意をうながされると逆に暴れ出しそうなので、自転車乗りは護身術も身につけてほうがいいような気がする。アスファルトジャングルで生きのびるのは色々大変である。ちなみに東京の京王バスは、前を自転車が走っていると道幅が狭かろうがバス停直前だろうが何が何でも追い抜こうと右からかぶせてくるにもかかわらず、バスの後部には「左側すり抜け危険」という大きなステッカーが貼ってあったりする。喧嘩売ってんのかてめえ。CSRって言葉、知ってる?


・105以下のコンポなんて話にならない!

 うるせえよ。あ、「105」というのは、シマノという大阪の機械メーカーが製造・販売している中くらいの価格帯の自転車部品のブランド名です。クルマもオートバイも降りて自転車生活をしている私にとって、自転車の魅力はモノへの執着から開放されて清々した気分になれるところにあると思っているのだが、意外なことに自転車の愛好家には、所有を束縛ととらえるスナフキン的自由人よりもモノマニアの機材オタクのほうが多いみたいなのである。彼らはモノマニアの常として大量生産された工業製品に物神性を見出そうとする。自動車マニアがポルシェの水平対向六気筒エンジンを美術品のように扱い、オーディオマニアが500万円のスピーカーをヴィンテージワインにたとえるのとまったく同じ調子で自転車マニアは高級パーツの魅力を語る。息苦しいなあ。いい歳しておもちゃ大好きっていうのは「恥ずかしながら」の性癖であって得意げに語るようなことではないように思うのだが、彼らにはそれが通じない。それに自転車の最大のパーツは自分のカラダなんだから機材の蘊蓄を語るより先にてめえのカラダを鍛えるほうがずっと有意義のはずだが、もちろんそんな身も蓋もない言いぶんも通じない。物神性の崇拝者にとってそれはなにかをするための道具ではなく、あくまでそれ自体が愛でる対象なんだろう。まあこれも先の生産性の話と一緒で、夜中にガレージで自転車をなで回しながらひとり悦に入って「ああわたしの愛しいしと」なんてつぶやきながら一杯やったりしているぶんには、人畜無害なので勝手にどうぞというところだが、周囲の人々やネット上に「ねばならぬ」式の蘊蓄をたれ流すようになるときわめて有害である。


・自転車が趣味ならお金をかけるのは当たり前!

 否。それはただの悪趣味である。


・9kg以上の自転車なんて自転車じゃない!

 否。つべこべ言ってないでまずは体脂肪をヒトケタまで落とそう。機材の軽量化はトレーニングで身体を絞った選手が最後に手をつけるべきものだ。えっ、レースはやってない?ちょっと何を言ってるのかわからないんですが、レース用途でないのに軽量化にこだわるっていうのは不思議の国の作法かなんかでしょうか。

 

・室内保管は絶対!

 この手の発言をする人はやはりたいていがロードバイクの愛好家だ。まあぬかるみに突っ込んで泥だらけになったマウンテンバイクやツーリングバイクを室内に持ち込もうとは思わないもんね。それにしてもロードの愛好家は神経質なのが多すぎるんじゃないか。私たちはモノの奴隷ではなく、自転車はどんなに高価なものでも移動のための手段にすぎない。ヒトとモノの関係において主従を逆転させるその倒錯的行為にきっと家族は顔をしかめているだろう。彼らによると自転車を屋外に出しておくと雨や埃や紫外線で痛むのだそうだ。でもさ、自転車は屋外で走らせるものだよ。雨や埃や紫外線くらいでダメになるのならそれは自転車としての用をなさない。あなたが不幸にしてそんなやわな自転車を買ってしまったのならさっさと手放したほうがいい。きっとモノに振りまわされる生活が改善して家族からも歓迎されるはずだ。もっとも不思議の国の住人たちは、そのうち「自転車を屋外で走らせるなんて」と言い出すのかもしれない。また、彼らは自転車を屋外に置いておくと盗まれると主張する。でも、それは彼らの自転車がワックスとつや出し剤で磨き上げられ、常にピカピカのコンディションを保っているからだ。もしその自転車が泥だらけになっていて一見したところ動くのかどうかも怪しい状態だったら、常習犯も魔が差した者もわざわざ他人の敷地に入り込んで自転車を持ち去るようなリスクは冒さないだろう。自転車をわざと泥だらけにして製造メーカーもわからないくらい汚らしくしておくというのは、昔から自転車旅行者にとって泥棒よけのもっとも手っ取り早い手段である。私は古いマウンテンバイクをもう25年以上カギをかけずに玄関先に停めているが、盗まれたことは一度もない。フレームはそこら中にすり傷や錆があるし、元の色がもうわからないほど退色しているが、使い込んだあとだと思えば気にならない。自転車は見た目がどんなにみすぼらしくなっても駆動部さえ定期的にメンテナンスしていれば問題なく走る。最近、前後ホイールをはじめとして駆動系一式を新しくしたので、この25年間でもっとも調子がいい。なによりわざわざ汚さなくてももはや盗まれる心配がないのはすごく便利だ。本屋の駐輪場に停めて3時間立ち読みしても平気だし、出先で酔っ払って自転車を駅前の無料駐輪場に一晩置きっぱなしにしても翌日取りに行けばちゃんと同じ場所に停まっている。サイコー。まあ、買ったばかりの高級車を外に置いて汚れるのはイヤというのはわからなくもないけどさ、そのバイクが10年後も20年後も買ったときのままピカピカだったら味気ないよ。ちなみにヨーロッパ諸国や北米ではマウンテンのほうがロードよりも倍ちかくマーケット規模が大きい。日本のようにロードの圧倒的優勢がつづいているのはかなり特殊な状況で、その理由は神経症的なモノマニアが多いからじゃないかと思う。


・ヘルメット着用は自転車乗りの最低限のマナーである!

 大笑いである。いつからヘルメット着用がマナーの問題になったんだ。ヘルメットをかぶらずに自転車に乗ることは、無灯火で夜間走行したり、スマホ片手に右側を逆走したりする行為とは異なり、交通事故を誘発するものではない。また、狭い道で向こうから来た歩行者がわざわざ脇に寄って道を譲ってくれたのに頭も下げないといった礼儀知らずの行為とも異なる。ヘルメットの着用は、万が一の交通事故にそなえて自らの衝突安全性をどの程度確保したら良いのかという純粋にテクニカルな議題であって、交通マナーとはまったく関係のない問題である。要するにてめえの身がかわいいからヘルメットをかぶっているだけのことなので、とりたてて威張るようなことではないし、そうでない人間に文句を言うようなことでもない。両者を混同して、社会道徳の観点からノーヘルを糾弾するのは明らかにお門違いであり、愚かである。もしもヘルメット着用がマナーの問題だとしたら、近所のスーパーに買い物に行くにもフルフェイス・ヘルメットに全身プロテクターのフル装備でかためている人は、お釈迦様かイエス様のように品行方正な人物として礼賛されねばならないはずである。
 ヘルメット着用がテクニカルな議題である以上、着用するかどうかはそれぞれ自分で判断すればいいことである。プロの自転車レーサーの格好だけをまねて、穴だらけの華奢なヘルメットとぴたぴたの自転車ウェアを「正装」だと思い込んでいる人はたんなる思考停止にすぎない。自転車用ヘルメットは魔法の兜ではない。万全を期したい人は、大型オートバイに乗るような頑丈なフルフェイス・ヘルメットとハード・プロテクターの入ったジャケットを着用すれば良いし、そんなの煩わしいという人はなにもつけずに乗ればいい。多少は備えておきたいという人は、その両極端の間から必要だと思う装備を選択すればいい。いずれにせよ、自転車に乗る際にどの程度の衝突安全性を確保したら良いのかといった問題は、自分で判断すべきことであり、他人や法律に強制されるようなことではない。同様にオートバイのヘルメット義務化やクルマのシートベルト義務化も、テクニカルな議題をマナーの問題にすり替えたことによる誤謬であり、本来、国家が法律で強制するような事柄ではないはずである。ちなみに風車とチューリップと自転車の国として知られるオランダの場合、自転車用ヘルメットは不要と見なされており、かぶっているライダーはほとんどいないとのことである。個人的には、市街地走行では、ヘルメットをはじめとする衝突安全対策よりも、反射板を増設したり反射材のついた服を着るなどしてクルマのドライバーからの視認性を上げ、事故回避にウェイトを置くほうが安全対策として効果的だと考えている。なので、反射板をすべて取り払ってしまい、小さな尾灯だけで市街地を走っている人物が「ヘルメット着用は最低限のマナーだ」なんて言うのは「私はバカです」という札を首からぶら下げているようなものである。逆に自転車ロードレースの場合、市民レースもふくめて、集団での高速走行が不可欠になるため、ヘルメット着用が義務づけられているにもかかわらず、毎年、落車で大勢の死傷者を出している。選手が骨折するような大事故がこれほど頻発する競技は他にないんじゃないだろうか。ロードレースの場合、レギュレーションにフルフェイス・ヘルメットと胸部・脊椎プロテクターの着用が入っていないのは合理性を欠いているように見える。


・ヘルメットをかぶれば自転車事故の死亡率は四分の一になる!

 この主張は日本の警察と自転車関連業界がさかんに展開しているヘルメット着用の推進キャンペーンのものである。しかし、自転車の交通事故で亡くなった人のうち頭部損傷の割合は六割程度である。たとえヘルメットが頭部への致死的ダメージをすべて防いでくれたとしても死者は六割しか減らず、「死亡率は四分の一になる」という言いぶんはあきらかに水増しである。この四分の一という数字の根拠になっているのは、警察の外郭団体である交通事故総合分析センターが発表した次のレポートである。
https://www.itarda.or.jp/itardainfomation/info97.pdf

 このレポートの図12と表1では、2007年から2011年にかけての五年間に自転車の交通事故で頭部損傷を負った死傷者について、ヘルメット非着用者と着用者を比較している。非着用者が死傷者94922人のうち死者2121人で割合は2.2%。それに対して着用者は死傷者4697人中死者27人で割合は0.5%となっており、ヘルメットを着用することで死者の割合が四分の一になったというものである。つまり、四分の一というのは頭部損傷に限定した数字であり、自転車事故で頭部損傷を負った人の総数約10万人のうち、すべての人がヘルメットをかぶっていたら死者は500人程度になるというデーターである。それをヘルメット着用によってあたかも自転車の死亡事故総数が四分の一に減るかのようにキャンペーンを展開するのは、数字の捏造である。くり返すが、自転車用ヘルメットは魔法の兜ではない。
 では、自転車の交通事故全体で見るとどうなるのか。このレポートの図10によると、2009年から2011年の三年間で死者は1981人、そのうち頭部損傷による死者は1265人となっており、はじめに指摘したように自転車の死亡事故に占める頭部損傷の割合は約六割である。もしこの人たちがすべてヘルメットをかぶっていたら、頭部損傷の死者は約300人、全体の死者数は約1000人となり、全体での減少率は約五割となる。ただ、このレポートでは、ヘルメット着用でどの程度ダメージが軽減されたかは触れられていない。自転車用の華奢なヘルメットが死に至るほどの深刻なダメージを完全に防いでくれるというのは非現実的なので、ヘルメット着用によって重軽傷に緩和されたというところだろう。ヘルメットが頭部への衝撃緩和に効果があるのは紛れもない事実なので、よりダメージを軽減したいのなら自転車に乗る際にもオートバイ用の頑丈なフルフェイス・ヘルメットを常用すればいいということになる。また、この交通事故総合分析センターのレポートでは、ヘルメットの有用性を訴えるために頭部損傷にばかり着目しているが、交通事故による脊椎損傷で寝たきりや車イス生活を送っている人もいるはずである。こちらの対策としては、エアバッグジャケットや胸部プロテクターの着用が有効である。
 では、そもそも自転車を利用する人のうち一年間に死亡事故に遭遇する確率はどのくらいなのか。警察庁の発表した統計データによると一年間の自転車による交通事故の死者数は最近ではだいたい600人前後で推移しており、先の交通事故総合分析センターの古いデーターより減少している。

  ・2013年 604人

  ・2014年 542人

  ・2015年 577人

http://www.garbagenews.net/archives/2047920.html

 また、交通事故全体の死者数は、1970年の16765人をピークにその後減少し、近年は年間4000人くらいで推移している。
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikokoutsu

 一方、分母のほうの自転車の利用者は国内にどのくらいいるのか。総務省の報告書では、日本で暮らしている人のうちふたりにひとりが自転車を保有し、通勤・通学で利用している人は14.6%である。
http://www.soumu.go.jp/main_content/000354710.pdf

 通勤・通学以外に買い物やレジャーも含めると日常的に自転車を利用している人の割合は二割から三割にのぼるだろう。四人にひとりが日常的に自転車を利用していると仮定してその数は約3000万人。この人たちが一年間自転車に乗って死亡事故に至る確率は3000万分の600。もしもすべての人がヘルメットをかぶって自転車に乗るようになれば3000万分の300ということになる。これをパーセントで表すと大多数がヘルメットをかぶっていない現状で約0.00002%、すべてヘルメット着用で約0.00001%となる。先の約50%という死亡事故の減少率だけを取りあげればヘルメットの効果は絶大に見えるが、一年間に死亡事故に遭遇する確率も含めて算出するとヘルメット着用による生存率向上はわずか0.00001%の差すぎない。警察とヘルメットメーカーと保険会社はすべての自転車利用者の頭にヘルメットをかぶせたいのだろうが、この数字では説得力にとぼしいように見える。日本よりもずっと自転車の交通環境の整備されたオランダで、自転車用ヘルメットが不要と見なされているのもうなずけるところである。もちろん、この0.00001%死亡率が減少するという数字から、「たとえわずかでも交通事故で死ぬ確率を減らせるのならヘルメットをかぶろう、頭部損傷や脊椎損傷で重大な後遺症を負うことのないよう常に頑丈なフルフェイス・ヘルメットと胸部プロテクターを着用しよう、歩行中の交通事故だってゼロではないんだから外出の際には常にフルフェイス・ヘルメットをかぶろう」と受けとめる人がいてもいい。ただ、その判断はヘルメットやプロテクターの効果と煩雑さとを天秤にかけた上で本人がすべきものだ。ヘルメット着用の義務化は、自宅の玄関にカギをかけない者を法で処罰しようとするのと同じであり、著しく合理性に欠ける。もしヘルメットをかぶらない者を全体の利益の立場から他者が道徳的に糾弾するとしたら、それはファシストの社会である。
 もちろん、ヘルメット必要論を展開するのも、ヘルメット不要論を展開するのも各自の自由である。それが衝突安全性をどの程度確保するべきかというテクニカルな議論である限り、自らと異なる考えを耳にしても腹をたてるようなことはないだろう。両者の言い分は自転車に乗る者にとってヘルメット着用の判断材料になるはずだ。ただし、この問題について、「推進キャンペーン」や「全廃キャンペーン」のような他者への強制がともなう主張は大きなお世話であり、慎むべきである。

 

ドーピングの禁止

ときどきスポーツ選手のドーピング問題について考える。どうすればドーピングをなくせるかではない。なぜドーピングはいけないかである。いくら考えてもさっぱりわからない。なぜダメかがわからないので、「ドーピング撲滅」と言われてもまったく共感できない。べつに薬物使用の解禁を主張しているわけではない。良いも悪いもなく、禁止の根拠が見いだせないのである。最初にこれが気になったのは学生の頃だから、もう三十年も考えていることになる。ずっと引っかかっているので、テレビニュースや新聞記事でこの問題が取りあげられていると注意して見るようにしているが、それらは常にドーピングはダメという前提に立って、「はびこる現状」や「積極的な対策」が紹介されるばかりなので、なぜダメかという肝心なところの理解は一向にすすまない。「いかにやるか」より「なぜか」のほうが先でしょう。で、見終わるともやもやがつのるばかりなので、またはじめからつらつら考えることになる。そうして二つめの疑問がわいてくる。なぜこれほどあいまいなドーピングの禁止が社会的に受け入れられ、その前提に立って様々な議論がすすめられているのかと。みなさん、この問題については思考停止に陥ってるんでしょうか。いちおう日本版ウィキペディアで挙げられているドーピング禁止の理由は次の四つである。


1.フェアではない。
2.スポーツの価値を損なう。
3.反社会的行為である。
4.健康を害する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0


1の「フェアではない」というのは、ルールで禁止されてるから薬物を利用するのはフェアではないというだけのことなので、公に認めてしまえば薬物使用もフェアな手段ということになる。きっと「ケミカル・トレーニング」とでも名付けられて、パフォーマンスを高める効率の良いトレーニングとして定着するだろう。したがって、これは「そう決められているからダメ」といってるだけの循環論法なので、なぜドーピングを規制しているのかという根拠を示していない。


もしも、この「フェアな競技」という言いぶんが「選手の肉体改造に薬品をはじめとするテクノロジーを一切用いるな」というメッセージだとしたら、大会運営側ははっきりそう主張するべきだ。それがないことには何も議論がはじまらない。ドーピング禁止の根拠として「肉体改造にテクノロジーを用いるな」という価値基準の提示があってはじめて、フェアな競技とは何か、ドーピングの線引きはどうするのか、といった議論がはじまる。フェアな競技とは何かという基本的な価値基準が示されないまま、いかにドーピングを規制するかばかりが議論されている現在の状況は本末転倒に見える。なお、テクノロジーを用いた体質改善をすべて排除するならば、レーシックの手術はもちろん、メガネもアレルギーの薬も一切ダメということになり、生まれ持った遺伝的形質がより重要になってくる。しかし、生まれついた体質はあくまで偶然の産物にすぎず、それを絶対視する発想は優生思想と同様に私にはけっして「フェア」だとは思えない。


2の「スポーツの価値を損なう」というのは意味不明である。そもそもドーピング規制をとなえる人々の抱く「スポーツの価値」というものが何なのかが提示されていないので、それが「損なわれる」と言われても、まるで雲をつかむような言説である。週50時間のデスクワークをしている平均的中年サラリーマンを例にあげてみる。通勤以外に体を動かすことはほとんどなく、彼の体重は十代の頃よりも20kg以上増加している。そんな人物が一念発起し、一年がかりの週末トレーニングによって100mを13秒台で走れるようになったとする。そのことは、遺伝的に運動能力に優れた資質を持った専業の選手が一年365日をトレーニングに当てて9秒台で走るよりも、私には健康増進という点で「ずっと価値がある」ように見える。しかし、そうした考え方はいまのところ少数派のようで、ウサイン・ボルトの9秒58に観客たちが熱狂したように多くの人は超人サーカスとしてショーをスポーツに期待しているらしい。ならば、運動能力を飛躍的に高める新薬を使って100mを7秒台で走る選手が現れたとする。彼は自らがその新薬を使っていることを公表している。また、その新薬は彼にしか適合せず、有害な副作用がないことも医学的に証明されている。この場合、彼が新薬の力を借りて7秒台で走るパフォーマンスを多くの人々が見たいと望んでいるのなら、その超人サーカスはスポーツの価値を大いに高めることになる。つまり、スポーツの価値とは、人々が何を求めているかによって異なる問題であり、2の言いぶんは、薬物が介在した途端に超人サーカスの価値が下落する根拠を具体的に示さねば空疎である。


3の「反社会的行為である」というのは、平たく言うと「いけないことだ」という意味なので、やはり1と同様に「いけないことだからダメ」と言ってるだけの循環論法でまったく根拠になっていない。それにしてもこのウィキペディアの文章はひどい。書いた人はまともな教育を受けていないんだろうか。循環論法が証明にならないのは論理学の初歩である。「決まりだから守れ」「ダメだからダメ」という循環論法が何の根拠も提示していないことは、小学生だってちょっとアタマの回る子なら気づくはずだ。


4の「健康を害する」というのは一理ある。肉体を強化する薬品の多くが多量に摂取すると健康を害することが医学的に立証されており、この指摘は四つの中で唯一検討に値する。しかし、この健康を害するという言いぶんは、次のふたつの点で問題がある。


まず、そもそも過度の運動は不健康である。運動が健康増進につながるというのはせいぜい初心者レベルまでの話であり、たいていのスポーツは上達すればするほど体に無理な負荷をかける。ジョギングで膝を痛めることもあれば、ゴルフで腰を痛めることもある。こどもの野球だって無理な投げ込みをすれば肘の調子がおかしくなる。ましてやプロスポーツ選手やオリンピック出場者になれば常に怪我との戦いであり、体をすり減らしながら競技に取り組んでいるというのが実情である。もしプロのアメフト選手を十年以上続け、なんの障害も負わず、引退後に車イス生活にならなければそれは幸運なケースである。また、女子選手の場合、無理な減量とハードトレーニングで生理が慢性的に止まってしまい、深刻な後遺症を負うケースも多い。にもかかわらずドーピングに限って「健康を害する」と否定するのは滑稽である。「腕がちぎれても投げます」という高校球児の発言を美談として持ち上げるスポーツメディアがドーピングになると手のひらを返したように「不健康だ」と批判するのは、限りなく偽善的だし、プロボクシングの試合で、頭部への強烈な一撃によるKOシーンに歓声をあげている観客たちがドーピングを「体に悪い」となげくとしたら、もはや悪い冗談である。


もうひとつは、もし本当に運動選手の健康を気づかって薬物使用の規制が行われているのだとしたら、違反した選手は「保護」の対象になるはずであり、彼らが社会的批判にさらされる合理性はないということである。薬物の使用は当人の健康を害するだけであり、他者になんら危害を加えるものではないからだ。それはコカインや覚醒剤のような法的に規制されている依存性の強い薬品も一緒であり、被害者が存在しないという点で、暴力を振るったり、だましてお金を巻きあげたり、差別発言をネット上にまき散らしたりする行為とは根本的に異なる。オランダやカリフォルニアのような自由主義的傾向の強い社会で体へのダメージの少ない大麻が解禁されたのものそのためである。清原和博覚醒剤使用で逮捕された際、多くの人が「裏切られた」と語っていたが、清原がシャブで良い気分になったところで誰も危害を加えられたわけではなく、あなたも私も痛くも痒くもなかったはずだ。したがって、当人の健康を気づかって薬物使用を問題視しているのなら、「これ以上体を壊さないよう、はやく薬物依存から抜け出せると良いね」と手をさしのべる、あるいは見まもることが周囲の理性的な対応であり、声高に批判をあびせることではない。


そうして、この三十年間くり返してきたようにまた振り出しに戻る。今回、イギリスのプロボクサーがドーピングについて語っているインタビュー記事をネット上に見つけた。彼の発言は次のような主旨である。

 スポーツ選手には短命な者が多い。健康を損ねるという点ではハードなトレーニングも薬物使用も大差ない。命を縮めるとわかっていて薬物を使うのはあくまで本人の問題であり、使用するかどうかの判断も本人の覚悟次第だ。それに多くのスポーツ選手が実際には薬物を使っているんだから、公にドーピング使用を許可したほうが正直者が馬鹿を見ることがなくなり、むしろフェアになる。

http://www.afpbb.com/articles/-/3067919


何年か前に「ステロイド合衆国 〜スポーツ大国の副作用〜(原題:BIGGER. STRONGER. FASTER)」というドキュメンタリー映画を観た。監督のクリス・ベルもやはり「なぜドーピングはいけないのか」という疑問から出発する。映画のはじめに彼は選手の持久力を高めるための赤血球を増やす方法を三つ紹介する。ひとつめはマラソン選手がしばしば行っている高地トレーニングや低酸素カプセルでのトレーニング。酸素濃度の低い環境に置かれることで徐々に体が順応し体内の赤血球が増加していく。要するに高山病を防ぐための高地順化を利用したやり方である。ふたつめは自己輸血。これは単純で、自分の体から血を抜いて保存し、レース直前に自分に輸血して戻すことで赤血球量を増やし、高地トレーニングと同様に体内の酸素供給効率を高めるというものである。三つめはより直接的に赤血球を増やす薬品を摂取するというもの。いずれも効果は同じだが、オリンピックで認められているのはひとつ目の高地トレーニングだけである。では、なぜ自己輸血と赤血球増加剤はダメなのか。楽だから?でも、それはより効率的な方法と言い換えることができる。インチキだから?でも、それは禁止されているからインチキなのであって禁止の理由にはならない。体に悪いから?たしかに赤血球が増えることで血管が詰まりやすくなり、心筋梗塞のリスクが高まるが、それは高地トレーニングでも一緒だ。わからない、なぜこの線引きがなされているのかさっぱりわからない。で、彼もそこから出発して考えをめぐらしていく。ただ、彼は私のようにぼんやりと考えているだけでなく、このもやもやした疑問に答えを出すべく、様々な立場の人々に会って取材していく。エライなあ。このドキュメンタリー映画はその取材記録であり、そこにはステロイドのせいで高校生の息子を亡くしたという親へのインタビューもあれば、ステロイド使用を公言しているボディビルダーの話もある。監督のクリス・ベルの語り口は陽気でテンポ良く、マイケル・ムーアのドキュメンタリー手法とよく似ている。そうして様々な声を集めていくことで観る側はアメリカのステロイド事情やドーピング規制には詳しくなっていくが、もちろん最後まで、なぜドーピングがいけないのかというそもそもの問いに答えは出ない。まあそこから先はひとりひとりが考えてくれということなんだろう。うん考えているよ、もう三十年もずっとさ。なんだか私ばかり考えさせられているような気がするので、ぜひ大勢の人にこの映画を観てもらいたい。私は地球上すべての人をドーピングをめぐるこのもやもやした問いに巻き込みたい気分である。

http://www.cinematoday.jp/page/A0001781

http://d.hatena.ne.jp/kick_ass_1978/20101119/1290132424

所得の再分配 − 所得税の累進制は公平なのか −

税率をはじめデーターが古くなっていたので、修正・加筆しました。

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/saibunpai.htm


文中Aの累進課税をやめてすべて一律課税にしろという言いぶんは何度書き直してもうまく書けない。どう書き直しても「なんで俺の払った税金で見ず知らずの貧乏人を救ってやらなきゃいけないんだ」と言っている嫌な奴にしか見えない。もうお手上げ。ちょっと前までレッセフェールな人たちはやたらと鼻息が荒かったけど、私に代わって高校生向けの資料としてトリクルダウンの正当性を主張してもらえないものだろうか。経済成長に有利かどうかという損得勘定ではなく、社会正義の観点から。

石斧を握りしめて空を見上げる

左肩の激痛で朝早くに目が覚めた。左肩が外れかかっているようだった。起き上がろうとしたら左腰と左股関節にも痛みが走る。腰もひねっているようだった。なにがあったのかわからないが満身創痍である。私は眠っている間にいったいなにと戦っていたのだろう。


授業で脳死の問題を取りあげると、毎年、数名の生徒から、「死の概念や生命観は人それぞれであり、法律で死の定義を定めることは無意味だ」という発言が出てくる。そこで十数年前におきたライフスペース・ミイラ事件のことを紹介する。事件は千葉県成田市のホテルの一室で中年男性の遺体が発見されたところからはじまる。発見された遺体は死後半月以上経過しており、腐敗が進行し、干からびてミイラ化していた。間もなく、その部屋に長期にわたって宿泊していた30代の男性が死体遺棄の容疑で逮捕され、警察の取り調べで遺体は彼の60代の父親であること、彼がライフスペースという静岡県に本部のある宗教団体の熱心な信者であることが判明した。また、遺体で発見された父親のほうは、数ヶ月前に脳梗塞で倒れ、病院の集中治療室にいたところを教組の指示を受けた息子によって強引に連れ出され、ホテルの一室に監禁されて生命エネルギーを活性化させるという「宗教的治療」を施されていたことが明らかになり、週刊誌とワイドショーは事件の異常さからこの話題で持ちきりになった。父親は息子と教祖による宗教的治療の甲斐なく、ホテルの部屋で間もなく心臓停止に至ったが、ライフスペースでは、完全に心臓が停止した後も人間は仮死状態にあり、さらなる生命エネルギーの注入によって回復可能だと考えている。そのため、この男性と教祖は、殺人罪で起訴された後もミイラ化した父親が生きていたという主張を法廷で展開し、父親を殺したのは我々の治療をやめさせた千葉県警のほうだと訴えた。たしかに死生観は人それぞれ異なり、いくら議論しても完全に一致することなどない。しかしその一方で、ある程度の社会的合意の形成がなければ、人間の社会が成り立たないのも事実である。結局、この事件で息子と教祖は、執行猶予つきながら有罪になった。


今年五月、シベリアの永久凍土から肉片のついたマンモスの骨が発掘された。ラジオのニュース解説には、マンモスのクローン再生研究をしているという近畿大学の学者が出演し、この発見がマンモスのクローン再生においていかに重要かを喜々として語った。遺伝子の読み取りはすでに九割方完了しているという。彼はマンモスをクローン再生することで骨を見ているだけではわからなかった様々な生態が解明されるのだと語る。しかし、生態をあきらかにするためには、十数頭の群れをシベリアやアラスカのツンドラ地帯に放ち、野生の状態で数世代にわたって観察せねばならないはずだが、現在の地球上にマンモスが野生動物として暮らしていける自然環境はない。トキやドードーのような近代化の中で人間が絶滅に追いやった動物については、クローン再生の個体を野性に返せる可能性があるが、人間が文明を築くはるか以前の氷河期に絶滅したマンモスの場合、クローンで産みだしても動物園で見世物にされるだけだろう。研究者としてはクローン再生がやりたくてたまらないのだろうし、実現すればきっと話題にもなるだろうが、見世物にするために絶滅動物をクローン再生することに科学的意義は見いだせない。マンモスのクローン再生も宇宙開発も人型ロボットも高速増殖炉も、研究者たちはその夢を熱く語るが、「やりたいからやりたい」というのが本音で社会的有用性は後付けにすぎないのではないか。現代において「科学技術の発展」は必ずしも錦の御旗ではない。授業でこのマンモスのクローン再生を取りあげると、生徒たちの賛否はほぼ半々に分かれる。


モンサントの社長から生化学研究室の学生まで、バイオ産業の関係者たちはみな口をそろえて将来の食糧難にそなえて遺伝子組みかえ食品の開発は欠かせないのだと主張する。業界の合言葉になっているようだ。しかし、あきらかに詭弁である。食糧難は食糧の絶対量の不足によるものではなく、社会的要因によるものだからだ。単位面積あたりの収量をどれほど増加させても、富の偏りの問題が放置され、飢えた人々にトウモロコシを回すよりも牛に食わせて太らせたほうが儲かるという経済システムで世界が回っている限り、飢餓はなくならない。それは二十世紀の歴史によってすでに証明済みである。この先、収量を倍にするスーパーコーンや三倍の速さで成長するスーパーサーモンが市場に出回るようになったとしても、バイオ産業の懐を潤すだけで、生活のために腎臓を売らざるを得ない途上国のスラム街生活者の口に入ることはないだろう。一方、日本も含めて先進国では、生産された食料の約七割は捨てられている。生産段階で規格外のものや余剰分が廃棄され、流通段階では各店舗で賞味期限切れが廃棄され、家庭や飲食店では残飯が廃棄される。その結果、人々の口に入るよりも捨てられる食料の方が多くなる。どう考えてもこちらもほうが早急になんとかすべき問題じゃないの。


人間はオーラなど発していない。「すっごいオーラを感じた」と言う場合、パブリックイメージの権威に魅せられているだけである。相手をひとりの生身の人間ではなく、自らの思い描く偶像に仕立て上げるとその背後にオーラや後光のような怪しげなものが見えてくるのだろう。劇場のイドラってやつだ。この手の発言を無自覚に多用する人が1930年代のドイツに暮らしていたら、きっとヒトラーの熱烈な支持者になっていたはずだ。


自由には責任がともなうという発言を耳にすることがあるが、責任がともなうのは権限のほうである。権限と責任は対の関係にあり、両者のバランスが崩れるとそこに不正義が生まれる。権限を行使するのにその責任を一切とろうとしない者は暴君であり、なんら権限がないにもかかわらず責任だけ負わされる者は奴隷である。後方から新兵たちに「突撃せよ」と号令するのも、若い従業員たちに「経営者目線で働け」と要求するのも、権限と責任の関係を理解していないやり口である。きっと奴隷農園から赴任したばかりで両者の関係をわかっていないんだろう。太平洋戦争での戦死者数は圧倒的に日本軍のほうが多いにもかかわらず、現場指揮官の死亡率に限っては、「ついて来い」と自ら先頭に立たねばならなかったアメリカ軍のほうが高い。自らは安全な後方に身を置き、後ろから部下たちに「行け」とけしかける上官は、腰抜け野郎と軽んじられ、指揮権を維持できなかった。その点で、サンダース軍曹が「リトルジョン、援護しろ」と毎回自ら先頭に立って突撃していたのは、アメリカ軍の実態に即している。152話も生き延びたのは驚異的である。それから70年が経過したが、いまも日本では、権限と責任の関係が理解されているようには見えない。最低賃金で働くバイトくんが最低の勤労意欲と最低の責任感しか持っていないのは当たり前であり、そのことで文句を言われるような筋合いはない。もし彼に経営者なみの責任感を要求するのなら、経営者と同等の待遇を保障せねばならないはずである。


「経験値」という言葉がある。キャラクターの経験を定量化し、数値として表したものを指すゲーム用語である。1980年代くらいからコンピューターRPGで用いられるようになり、「ドラゴンクエスト」のヒットで広く知られるようになった。40代半ば以上でこの言葉を日常会話に使う者はまずいないが、30代くらいのドラクエ世代は、ゲームの中だけでなく生身の人間の体験についても「経験値が上がった」などと言ったりするようだ。日本語として定着しているのかはよくわからない。高校生たちに聞いてみたところ、現実の出来事に「経験値が増えた」と表現するのはゲームオタクの人みたいで抵抗を感じるという反応がほとんどだった。「修学旅行で経験値を大量に稼いだ」とか「このあいだの練習試合でチームの経験値は上がっている」なんていう言い回しは強い違和感をおぼえるとのこと。個人的には、生身の人間の体験について、「経験値が上がった」という表現に出くわすと、この人は人間の経験を定量化可能とするベンサム思想の信奉者なんだろうか、それともたんにゲーム用語を日常会話に使用するゲームフリークなんだろうかと気になってしまい、少しむずむずする。生身の身体はテレビゲームのように戦えば戦っただけ強くなるわけではない。


喫煙の問題は本質的には当人の健康問題のはずだが、なぜか道徳やマナーの問題として語られることが多い。そうした道徳的側面から語られる喫煙批判は、当人の健康を気づかってくれているわけではまったくないので、しばしば説教臭いものになる。また、本人が好きで吸ったタバコのせいで勝手に病気になって国の医療費を圧迫するのはけしからんという言いぶんもしばしば耳にするが、これはピンピンコロリ運動と同様にファシストの発想である。私たちは税金を支払うためにこの社会に生きているのではなく、日々の暮らしを楽しむために生きている。国や社会はあくまで人がよりよく生きるための装置にすぎない。たいていの楽しみは体に悪く、周囲に多少の迷惑をかける。山に登れば遭難することもあるし、甘いケーキをたらふく食べれば血糖値は上がる。運動にしても健康増進になるのはあらゆる競技において初心者レベルまでであり、上達すればするほど体には悪い。ゴルフをすれば腰を痛め、テニスをすれば肘を痛める。そもそも、プロスポーツはもちろん、高校生の部活レベルでも、健康のために体を動かしているという選手はいないだろう。また、用もないのにドライブに出かければ大気汚染と交通渋滞の原因になるし、サッカーの試合も野外ライブもサンバパレードも興味のない者にとってはただの騒音でしかない。では、体に悪いタバコや甘いケーキはもちろん、遭難して迷惑をかける登山も、渋滞の原因になる自家用車も、こどもたちのうるさい運動会も、すべて禁止し、生産性のなくなった寝たきり老人は山へ捨ててくるのか。この社会は「人に迷惑をかけない」という道徳的命題が大好きだが、他者に一切の迷惑をかけられない社会というものほど息苦しいものはない。時に体に悪いことを楽しんだりハメを外したりしながら、互いに少しずつ迷惑をかけたりかけられたりするのが人間の社会のはずである。なのでこの手の問題は「何事もまあほどほどに」というゆるい姿勢で構えるのがファシストたちに幅をきかせないための最良の対処ではないかと思う。


ブラックホールの構造が解明されたとしても明日のおかずが一品増えるわけではない。それは社会にどのような利益をもたらすのかではなく、我々のいるこの世界がいったいどんな所なのかという根源的な問いに由来する。石斧を手にマンモスの群れを追いかけていたご先祖様も、ふとその足を止めて空を見上げ、自らが立っているこの世界の有り様に思いをめぐらしたはずである。山の向こうになにがあるのか、足下の大地をなにが支えているのか、空の向こうにはなにが広がっているのか、と。以来綿々とつづくこの世界への問いの末端にブラックホールの究明もある。学問の本質は真理の探究であり、金儲けの手段ではない。もちろん、たいていの人にとって明日のおかずのほうがずっと重要であり、いつの時代もそれを思うのはへんな人たちである。


いまどき「女性アイドル」といったらAVかグラビアなので、彼女たちに処女性を求めているのは、アニメの声優さんとバーチャルアイドルが大好きなアキバ系のおにいさんだけなのかと思っていた。そういう意味で、しばらく前にAKBの女の子がファンの男の子と交際していることが「スキャンダル」として報道され、すったもんだの末に地方グループへ左遷された出来事は驚きだった。彼女たちは人形やバーチャルの存在じゃないんだから色恋沙汰だってあるだろう。ファンの男の子と交際していたというのは微笑ましい話だと思うんだけど、彼女のファンたちはその人間的な行為を応援してやろうとはならないんだろうか。さらに別の女の子が交際発覚で丸坊主になってファンに謝罪する事態に至ってはもはや集団リンチである。彼女がナチス将校の愛人だったとでもいうんだろうか。AKBの女の子たちはたいてい水着グラビアもやっている。水着姿で不特定多数にセックスアピールするのはOKで、特定個人とセックスするのはダメというのもずいぶん奇妙な価値基準である。えっ、他の男とくっついたアイドルなんか応援するのがバカらしいって。でも、誰とできていようとできていまいと彼女たちはあなたのものになんかならないよ。それに彼女たちの色恋を全否定するのは彼女たちの人格否定だよ。私は彼女たちの私生活や人柄にはまったく興味がないが、彼女たちのファンがどういう人で彼女たちの偶像になにを求めているのかについては多少興味がある。モーニング娘に人気があった頃、コンサート会場でペンライトを振っているコアなファンたちは、ほとんどが中年男性だったというが、授業を受け持っている高校生たちは、AKBもモーニング娘もあまり関心がなさそうである。そういえば、ラルクのボーカル君がお天気のおねえさんとくっついたとき、彼の熱烈なファンだという若い女性が呆然とした様子で「よりによって大石恵」とぼやいていたのには、爆笑しつつも少々気の毒な感じがした。よりによってねえ。かくして偶像崇拝はすべからく信仰の道へと向かうのである。神様ならスキャンダルとは無縁だし、テレビのバラエティー番組に出演して余計なことをべらべら喋ったりもしないのである。思いを寄せれば寄せるほどただひたすら無限の愛でこたえてくれるはずである。たぶん。


19世紀の進歩史観の名残で、いまだに生命進化を劣ったものから優れたものへの「進歩」のあゆみだと勘違いしている人は多いが、進化はあくまで環境への適応である。ダーウィンの進化論は、生命の変化はランダムな現象であり、その中から、たまたまその場の環境に適応したものが生き延びるというものであって、優れたものが勝ち残るという意味ではない。基本的に食料が豊富で安定した環境では、生物は大型化する。体が大きいほうが縄張り争いで有利になるからだ。逆に食料にとぼしく、環境の変化が激しい場合、小さな個体のほうが小回りがきいて少ない食料でも生き延びやすいので、数を増やしていく。それはその場の環境にどういう生物が適していたのかという問題であって、結果から逆算して種の優劣を論じるのは意味がない。日本のモグラの世界では、西日本に大型のコウベモグラ、東日本にアズマモグラが生息していて、長年、糸魚川静岡構造線が両者の生息境界になっていたが、モグラの研究者によると、近年、コウベモグラが箱根の山を越えて東日本に進出しつつあるという。森林が切り開かれて牧草地がふえたことで、開けた場所での縄張り争いに有利な大型の種が生息域を広げているということらしい。そこでコウベモグラとアズマモグラの種の優劣を論じるのは、モグラたちの抗争を吉本の関東進出に重ね合わせるのと同じくらいに無意味である。


いまだにテレビでタレントが「日本ではいくら稼いでもみんな税金に持ってかれちゃう」という発言をしているのを聞く。しかし、日本における高額所得者にかかる税率は、アメリカとならんでとっくに先進国中最低である。それを知らずにあの発言をしているのなら愚かだし、わかったうえであえてデマを流しているのだとしたらきわめて悪質である。


ユングは人間の無意識の深層には個人を超えて人類共通のイメージが広がっていると説いた。古代からある神話にいくつもの共通点があり、文化を越えて人々は闇を恐れ、太陽を神聖なものとして祀る信仰が世界中に存在するのはそのためだという。ユングの思想は、その領域を解き明かすことで、人間の「魂」の根源へ至ろうとするやたらと壮大で神秘主義的な性質を持っている。ユング錬金術や降霊術に首を突っ込んだり、UFOに夢中になったり、グノーシス主義に心酔したりと彼の思索は常にオカルトの影がつきまとう。たしかに私たちはこの世界の有り様を直知できないので、意識の中に作りだした像から目の前に広がっている世界を類推することしかできない。目の見える者は見たとおりに目の前の世界があると思いがちだが、視覚情報はあくまで意識の中のイメージのひとつであり、実際には目の見えない者と同様に意識の中のイメージから外界を類推しているにすぎない。だから、ユングのいう集合的無意識はこの世界の成り立ちを説明するひとつのフィクションとしてはおもしろいし、実際に多くの作家がそれに惹かれて集合的無意識をモチーフにした作品を数多く創作してきたわけだけれども、でもさあ、なにを根拠にそんなこと言ってんのさ。人間が闇を恐れるのはたんに本能によるもので、神話や昔話に共通点が多いのは古くから人間の移動と交流が多かったっていうだけじゃないの。思想は言ったもん勝ちではないし、面白ければいいというわけでもない。なので、ユング思想もカバラも天中殺もパワースポットもB型人間も酒の肴の与太話にはちょうどいいけど、真顔で語られるとちょっとねえという感じ。


春、玄関先に自生しているエノキの若木は葉が濡れるほど大量の樹液を出す。それに惹かれて、毎年、無数のアブラムシが集まってくる。春に生まれたアブラムシは有性生殖によって卵から孵った個体なので、羽根を持ち、特定の食樹を目指して飛来してくる。うちのエノキに集まってくるのは白い綿状のアブラムシで、そのため、毎年、四月の二週目くらいになると玄関先はまるで粉雪が風に舞っているような状態になる。ところが、四月の四週目くらいになると、今度はそれをエサにするテントウムシの幼虫のほうが目立つようになり、オレンジと黒の幼虫がせっせと枝を這いまわり、アブラムシの捕食をくり返すようになる。テントウムシは成虫で冬を越し、春にアブラムシの多い樹木に産卵する。ナミテントウナナホシテントウは成虫も幼虫もアブラムシだけを食料源にしているので、その生活サイクルもアブラムシの活動と完全に一致する。テントウムシがアブラムシの臭いに反応して飛来するのか、それともアブラムシの食樹の樹液のほうに反応して集まってくるのかはわからないが、そのへんは実験すればすぐに判明しそうなので、生物学専攻の学生さん、レポートの課題用にぜひどうぞ。もっとも、ゴキちゃんと違ってテントウムシを誘引する物質を特定しても商品化は難しそうだけど。ともかく、我が家の玄関先では、テントウムシの大群による補食の結果、五月の連休が終わる頃には、綿状のアブラムシはほぼ姿を消し、エノキの枝や葉の裏には大量のテントウムシのサナギが残って、ひと月におよぶスペクタクルに幕が下りる。我が家の春の風物詩である。


こどもの頃、雑誌掲載時に少しだけ読んで続きが気になっているけれどもそれからずっと放ってあるマンガというのがたくさんある。夜中にビールを飲みながらテレビニュースをぼんやり見ているときなどに、ふとそんなマンガの一場面がアタマの中に浮かぶことがある。それはファンタジーよりも当時の社会風俗が色濃く反映されている作品で、「釣りキチ三平」とか「がんばれ元気」とか「レース鳩アラシ」とか「サイクル野郎」とか松本零士の四畳半ものとかあのへん。結局、三平は行方不明のお父さんと再会できたのか、丸井輪太郎は日本一周を達成できたのか、時々気になることもあるけどネット検索はあえてしません。またいつか読む機会もあるだろう。


思想家には奇人変人のたぐいが多い。社会のあり方を考える最大の原動力は「いまの社会はどこかおかしい」であり、常識的で現状に満足している者は思想家になどならないからだ。しかし、二千年前の常識的な人々は、奴隷制度を社会に必要なものと見なし、残酷で非人道的だとは思わなかったろう。世の中がそういう常識的な人間ばかりだったら、二千年後の現在も奴隷制度は続いていたはずである。


校舎裏に意中の相手を呼び出し「つきあってほしい」と言う。学園もののドラマでおなじみの告白シーンである。実際にそんなことをやっているのかは知らないが、他の国の映画やドラマでこういうシーンを見たことがないので、もしあったとしても日本のティーンエージャーだけの独特な慣習だろう。それに私が中学生や高校生の頃はいまほど一般的ではなかったので、それほど古くからのものではないはずだ。おそらく、1980年代にとんねるずの合コン番組でやたらと「告白タイム」や「つきあってる」が連発されたことが普及にひと役かったんじゃないかと思う。しかし、この場合の「つきあう」が「コンビニへガリガリ君を買いに行く」や「ダンボール八箱ぶんの可燃ごみを焼却場まで運ぶ」ではなく、「互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を継続的に共にする」である場合、それは個人的な感情をベースにした流動的なものなので、本来、契約関係とは異なり、互いの行為の結果として形成されるはずである。つまり、デートをしたりベッドを共にしたりしながら一緒にいて楽しいと感じられる中で「たぶんこれはつきあっているといえるんじゃないかあ」と後になって漠然と自覚するものである。その自覚をラーメン屋からの帰り道にふと思うか、出産直後の病院のベッドの上で実感するかは人によって異なるだろうが、行為や感情よりも先に関係性のほうを自覚するということはありえない。だから、多少でも恋愛経験があれば、「つきあおう」と関係性の構築を契約によって求めることの不自然さに気づくはずなので、恋に恋する若者以外、そんな無茶な要求はしなくなる。同じことが「友達になろう」にもいえる。友達も恋人もあくまで親しくなった結果としてなるものであり、商取引のように契約によって成立するものではない。もし口約束だけでは心許ないからと誓約書への署名を求められたら、その不自然さに誰もが気づくだろう。そもそも、それまで言葉を数回交わしただけのよく知らない相手から、「これから先、互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を共にしよう」とやたらと重たい契約をせまられたら、ゲマインシャフトゲゼルシャフトが浸食してくるような不気味さをもたらすので、たいていの場合、その要求は受け入れられないはずだ。当人は疑似プロポーズのような感覚なのかも知れないが、契約によって成立し、社会制度的に補強される婚姻関係と互いのパーソナルな親和性で築かれる恋愛とでは性質がまったく異なる。色恋沙汰のような個人的関係にまで制度的なお墨付きが欲しいんだろうか。ずいぶん奇妙な慣習が定着したものである。えっ、じゃあどうすればいいのかって。本気でその相手と親しくなりたいのなら、一緒に海へ行こうでも一緒に千本ノックしようでもぶつかり稽古百連発でもいいから互いの共通体験をつくることのほうが先なんじゃないでしょうか。


自分を信じろとせまる者はそもそも信用に値しない。信用されたいのなら、自らの主張の根拠を判断材料として提示する必要がある。あらゆる問題は信じるかどうかではなく、常に判断すべきなのだ。判断材料を示さないまま、いまこの場で自らを信じるか否か返答せよとせまるのは、相手を支配下に置こうとする行為であり、詐欺師とファシストの常套手段である。


スポーツの試合では、互いの実力が拮抗している場合、かならずどちらかが押している状況がひと試合の中で何度も行ったり来たりする。選手の心理状態や戦術的な駆け引きによってこうした押し引きの展開がつくられるらしい。日本語では「流れ」というが、英語の野球中継を聞いていたら「momentum(モメンタム=勢い)」と呼んでいた。では、スロットマシンやパチンコのようなランダムな確率のゲームに「流れ」は存在するのか。あるわけがない。スロットマシンで「いま流れが来ている」というのはどう考えても錯覚である。偶然を偶然のまま放置することができず、ランダムなパターンの中になんらかの意味を読み取ろうとするのは人間の思考の癖のようなもので、人は立った茶柱に吉事の兆しを思い、突然の春の雪に人生の転機を重ね合わせる。ギリシア悲劇万葉集からドストエフスキーまで古今東西みなそうだ。そもそも「見立て」とは偶然性に意味を見出す行為だろう。その運命論的解釈は確率論による解釈よりもずっとおもしろいので、麻雀劇画では勝負手になるときまって神の見えざる手やら運命の歯車やらが登場する。ただし、それはあくまで物語として面白いのであって、本当に賭け事が強くなりたいのなら、妙なイマジネーションをふくらませるよりも確率論を基礎から学ぶほうがずっと効果的なはずだ。ゲームで微妙なのは、麻雀やポーカーのようにランダムな確率とプレイヤーの心理的駆け引きとが組み合わされたもので、イカサマでもしないかぎり牌やカードのディールに「流れ」などあるわけがないが、プレイヤー間の駆け引きにはある。もし、はじめて入ったフリー雀荘で、小指のないおじさんがこちらに鋭い視線を向けて「リーチ」とおもむろに万札を卓に出したら、もうそれだけで自分の手が縮こまっちゃうでしょ。それは明らかに「流れ」をつかみそこねた状況といえる。これらのゲームの場合、チェスや囲碁のような複雑な推論を求められるゲームとちがい、牌やカードの取捨選択は誰でもある程度まではすぐに上達するので、そこから先の勝負事の強さというのは、心理的プレッシャーのかかる場面でどれだけ冷静に状況判断できるかによって決まる。麻雀やポーカーにしばしばお金のやり取りがともなうのも、プレイヤーにあえて心理的負荷をかけることでゲーム性を高めようとしているんだろう。


テレビに登場する占い師たちがしばしば差別を助長する発言をくり返しているのは、あらゆる事象には意味があるとする運命論的な世界観に由来するのではないか。そこでは、大病を患ったのは「日頃の行い」のせいであり、生まれつき障害を負っているのは「前世の報い」とされる。一方、人権思想の根底には、偶然性がもたらす社会的不合理を是正しようという平等の理念があるので、この世界に偶然など存在しないとする運命論とは根本的に相容れない。占い師でありながら、同時に障害者支援や難民救済に熱心に取り組んでいる人権活動家というのは、きっと世界中探しても見つからないだろう。


趣味人への第一歩は物事を嫌うところからはじまる。朝顔の花を陰湿だと嫌い、東京風の甘辛い醤油味を田舎くさいと嫌い、ハリウッド映画を仰々しいと嫌い、久谷の彩色をこれ見よがしと嫌い、フランス車を脆弱と嫌い、ブラームスを凡庸だと嫌い、こどもをあざといと嫌い、犬猫を煩わしいと嫌う。そうして趣味人を気どる偏狭な美意識が研ぎ出されていく。


授業で代理出産の問題を取りあげると生徒から決まって「こどもがかわいそう」「こどもが学校でいじめられるから反対」という声があがる。私は代理出産について、経済的に困窮している女性たちが食い物にされる危険性が高いので合法化には慎重であるべきだという立場だが、一方で、こどもを哀れむふりをした批判にはまったく同意できない。その本質的な問題は家庭環境の異なる者が見下されたりいじめられたりしても仕方ないとする社会圧のほうであり、その対応策はそうしたこどもが生まれないようにすることではなく、そういうこどもが差別されない社会をつくっていくことのはずである。例えば親が離婚して片親に育てられている子について、十把一絡げに「ああ、離婚家庭の子ね、かわいそうな子」というまなざしを向けるのは、むしろ片親家庭への偏見を助長することになる。ところが「こどもがいじめられるから反対」という言いぶんはずいぶんと使い勝手がいいようで、他にも様々な問題で耳にする。夫婦別姓はこどもがいじめられるから反対、同性カップルが養子を迎えるのはこどもがいじめられるから反対、出かせぎ外国人の来日は日本語の話せないこどもが学校でいじめられるから反対。いずれも問題の本質はそういうこどもがいじめられる社会状況のほうであり、そちらを放置したまま、「だから夫婦別姓は認めるべきではない」「だから同性婚には反対」「だから外国人労働者の制限を強化すべき」と主張を展開するのは問題のすり替えにすぎず、問題の本質はなんら改善されない。そもそも離婚家庭にも様々なケースがあるように、それらの家庭も千差万別のはずであり、代理出産で生まれた子や親の姓が異なる子や同性カップルに引き取られた子を「かわいそう」と決めつける時点ですでに判断に公正さを失っている。


東京の言葉を「関東弁」という人がいるが、東京の言葉は関東弁ではない。関東弁はいわるゆる「だべ言葉」で、「どうすべえ」「参ったべよう」「参ったべなあ」「まあやるべよう」「やるべさねえ」といった調子である。イントネーションに抑揚が少なく、語尾を引っ張るのが特徴で、カールおじさんが話しそうなのんびりした田舎言葉といった感じ。また、身分制に由来する敬語表現がやたらと多い東京言葉に対して、百姓ばかりの関東方言に敬語は存在しない。「となりのトトロ」に農家のおばあちゃんが登場したが、「カンタぁ!はやぐ父ちゃん呼んでこい、メイちゃんがいなぐなっちゃったんだあ」って言っていたあの話し方は典型的な南関東の方言で、いまでも東京郊外や神奈川あたりの農家のお年寄りはあんなしゃべり方をする。北関東になると「だべ」が「だんべえ」や「だっぺ」になったりしてより東北の言葉に近づいていく。そうした関東全域で広く流通していた「だべ言葉」に対して、下町方言も山の手方言も東京言葉は、江戸期に西日本から大量の人口流入があって、江戸という狭い範囲に様々な身分の人間がごちゃごちゃと密集して暮らすようになったことで形成された歴史の浅い言葉であり、土着の関東方言とは大きく異なっている。こういう周囲の地域から孤立した言葉のことを「言語島(げんごとう)」というのだそうだ。というわけで東京の言葉を「関東弁」というのは、ドイツ東部に暮らしているスラブ系の人々が使うソルブ語を「ドイツ語」というようなもので、明らかな間違いです。
 → Wikipedia 言語島
 → Wikipedia 東京方言


高校生くらいの若者ふたり組が「センパイ」から小さなオートバイをゆずってもらうことになる。「センパイ」はバイト先のセンパイでもいいし、部活の卒業生でもいい。その小さなオートバイはセンパイの下宿先の軒下で雨ざらしになっていて、所々錆が浮き、エンジンもかからない。半年くらい乗らずにいたら動かなくなったのだという。センパイはもうすっかり興味を失っている様子で、邪魔だからさっさと持っていってくれとばかりにキーを放り投げ、「まあ、キャブ直せば、動くんじゃねえかなあ、動かなくてもタダなんだから文句ねえだろ」とぞんざいに言う。もっとも放置車両の場合、たいていキャブレターにトラブルを抱えているので、その言いぶんはそう的外れではない。ともかく、ふたり組はセンパイのアパートからそのポンコツを押して帰る。押して帰ったはいいが、ふたりともキャブレターのしくみどころか、2サイクルエンジンと4サイクルエンジンの違いもわからない。とりあえず近所の図書館からオートバイの修理本を何冊か借りてくるとことから、ふたりの格闘が始まる。台所の流しで腐食ガソリンのたまったキャブレターを分解して親にしかられ、タンクの中の古いガソリンを近所のガソリンスタンドで処分してもらおうとして嫌がられ、プロのアドバイスをもらおうとバイク屋の親父に相談して盗難を疑われる。でも、エンジンオイルとバッテリーと点火プラグは新しいものに交換したし、キャブレターも徹底的に分解洗浄してジェット類とパッキンは新品に交換した。チェーンはたんねんに錆を落としてから油を差し、つぶれたタイヤに空気も入れた。そうしてのべ一ヶ月間の格闘の末、エンジン始動の日がやってくる。エンジンはすぐにはかからない。チョークを引きながら、汗だくになって何度もキックをくり返す。そうしているうちにようやくガソリンが回ってきたようで、ついにエンジンがプスプスと気の抜けた音をたてながら動き出はじめる。エンジンはすぐに止まってしまいそうに力なく回っている様子だけど、ふたりは猛烈にうれしい。笑いがこみ上げてくる。それが私のオートバイについての原風景。単純で原始的な内燃機関による簡便な乗り物。いまもオートバイと聞くとそんな少し感傷的で少しいじけた情景が思い浮かぶ。たぶん、ひと昔前なら、似たような出来事は日本全国どこにでもあったんじゃないかと思う。


もしあなたが岩波の「夏目漱石全集」全28巻を愛読していたとしても、職場でとっさに漱石の「漱」の字が出てこなかったら、「坊っちゃん」を3ページしか読んでいない係長から、「キミ、教養ないね」としたり顔でたしなめられたりすることだろう。もしかしたら係長は「漱」が「すすぐ」の意味だと得意げに教えてくれるかもしれない。それが現代日本における教養の正体である。


夏になると一日に何度も身体を洗うようになる。そうして自分の体臭を消していくと他人の臭いにやけに敏感になる。ちょうど風呂上がりにそれまで着ていたシャツが「汚れ物」と認識され、洗濯かごへ放り込まれるように、こうした感覚は相対的なものなんだろう。私はわりと鼻がきくので、この状態で電車に乗ると、この人は三日以上身体を洗っていない、この人の口臭キツイなあ歯周病かなりひどそう、この人の口臭は酸っぱい臭いがするのでたぶん胃腸を悪くしてるんだろう、こっちの人からは血の臭いがするのでいま生理中なんだろうといったことまで伝わってきて、もう半径二メートル以内には誰も近寄らないでちょうだいって気分になる。潔癖症まであと一歩という感じで、かなり危険な兆候である。おそらく人間を穢れと見なす思想もこの感覚が生み出したはずである。現代では洗浄用品の性能が良くなったせいで、過去の時代に数十日の水行をへて到達した感覚を一日数回のシャワーで得られるようになったわけだけれども、こういうことはあえて鈍感なくらいのほうが大らかでいいと思う、という話を先日ひさしぶりに母親から電話があった際にしたところ、「なーに言ってんだ、オマエ、それはクサイ奴が悪い、とくに口のクサイ奴は極悪人、ほらオマエの高校一年の時の担任、口臭がひどくて面談で向かいに座ってるだけで吐き気がこみ上げてきたわよ、ああいう輩は半径五メートル以内に来ないでほしいね、それにオマエだって夏場以外は時々クサイ、もうクサイ奴は全員家から一歩も出ないでほしいわ」とえんえん清潔ワンダフルワールドについて小一時間聞かされる羽目におちいった。そうか、俺はこういう親に育てられたのか。


古本屋で「げんしけん」と「海月姫」をまとめて買ってきた。どちらもオタクな若者たちの群像劇で、「げんしけん」は大学のマンガサークルを舞台に、「海月姫」は独身女性ばかりが集まった古いアパートを舞台にストーリーが展開していく。彼らは街でおしゃれな人を見かけたらそれだけで逃げ腰になり、遊び慣れた感じの若者が話しかけてきたら露骨に警戒心をあらわにする。自分がオタクであることによほどコンプレックスと強い自意識があるらしい。だから、自分たちに居心地のいい場所をつくろうと閉じた同質集団を求める。ただ、この時期って自意識の鎧をもてあますのと同時に自分の知らない世界の住人に心惹かれたりするものではないのか。自分が十代だった頃を振り返っても、中学の同級生だった暴走族に入って暴れていた不良少女と高校の同級生だった放課後の図書室でひとりドストエフスキーを読みふけっていた文学少女のことはやけに印象に残っている。どちらも陰気なロック少年だった私とは話をしたって噛みあうことなんかなかったが、身近にいる異邦人ということで妙に気になる存在だった。なぜ、マンガの中の若者たちはあれほど同質性に執着するんだろう。社会の細分化がすすんだ結果、小集団間の断絶をアプリオリのものとして受け入れるようになっているんだろうか。その村社会のような排他性はゼノフォビアと根を同じくするものではないのか。そんなもやもやした疑問が読みながら浮かんだ。


たしか1990年代はじめ頃の夏だったと思う。バイトの面接でお茶の水まで行ったところ、一時間も早く着いてしまい、近くにあった鉄道博物館で時間をつぶすことにした。冷房にあたってひと息つき、ベンチに座ってタバコを吸いながら古い機関車をぼんやりながめていたら、すぐ隣に痩せて銀縁メガネをかけた青年が腰掛け、「おたくさぁーこんな中途半端な展示で満足しているんだとしたらまったくもってわかっていないね88系の形式は……」となにやらよくわからない講釈を甲高い声でまくしたてはじめた。やけに挑発的である。彼はこちらとまったく目を合わせず、宙に向かって独り言のように語っているが、平日昼間の博物館には彼と私しか入館者はいない。これ、俺に話しかけているんだよね。「えーっと、鉄道、お詳しいんですか、ぼくはバイトの面接までの時間つぶしに入っただけなので」と意図してやんわりと常識的な言葉を返したところ、その青年は拍子抜けした様子で「あっいや勘違いしてごめんね、こんな場所にひとりで来ているのを見かけたもんだから、ついさあ、いやそのなんだ、カタギさんでしたか、ははは」ととたんに温和な調子になり、独り相撲をとったことに顔を赤くしながらそそくさと去って行った。そうか、おにいさんはマニア同士で蘊蓄のせめぎ合いがしたかったんだね、相手になれなくってごめんよ、なーんてことは当時の私はまったく思わず、後日、彼の滑稽さをネタに友人と笑いあった。「カタギさんだってよ、あはははははは」なんて。我ながら嫌な奴である。というわけでバイトの面接のほうはもはやまったくおぼえていないが、この青年のことはやけに印象に残っている。ちょうど「オタク」という言葉が日本語として定着しはじめた時期のことで、彼の風貌と言動は「げんしけん」の斑目くんにそっくりだった。


朝、目が覚めたら、顔のかたちが変わるくらい口のまわりが腫れていた。前日にボクシングの試合をしたおぼえはない。半年ほど前から蕁麻疹が出るようになったので、どうやらアレルギーによるアナフィラキシー反応のようだった。たいていのアレルギーがそうであるように原因は不明。夢の中で寿司屋のはしごをしたのが悪かったんだろうか。一時間もすると腫れが収まってきたので、出勤して授業もする。生きていくのは色々大変である。