about box96

 世の中に人の来るこそうれしけれ とは云ふもののおまえではなし
                           内田百閒


 このブログは「クロ箱」というWebサイトの更新状況、備忘録、身辺雑記、その他です。

 頻繁に更新するWebサイトではないので、原始的なHTMLの「ホームページ」で十分なんですが、更新状況や身辺雑記はブログのほうが便利そうなので、2011年分からこちらに移行しました。コメントもトラックバックもつけられます。辞書をひくのが面倒な人のために自動生成リンクだってついてます。ブログに限らずSNSはどれも囲い込まれているみたいで居心地が悪いですが、ともかく多機能です。


クロ箱
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/

クロ箱がどんなサイトかはこちらを
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/web_map.htm

クロ箱ファッキュー
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/faq.htm

どんなやつが書いているのかわからないと気味が悪いという方はこちらを
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/murata_hiroshi.htm

ちまちまコメントなんか書いてらんねえよという方はメールで
164box@mail.goo.ne.jp

苺でマウントをとる

 その人は苺が果物ではないという。そんなことも知らないのかという強い調子で、農水省の分類では樹木の実が「果実」で草本が「野菜」と区分されているのだから、草本である苺は野菜なのだという。いえ、それはあくまで役所の「便宜的な区分」であって、日本語として正しいというわけではないですよ、日本語の「くだもの」は「甘くて瑞々しい植物の実」を意味することが多いので、苺や西瓜を「野菜」、胡桃やアーモンドやどんぐりを「果物」と区分するのは、日本語としてはかなり違和感がありますね、なので農水省界隈の業界用語くらいに受けとめておくのがいいんじゃないでしょうかと返したところ、その人は釈然としない顔をしていた。言葉は役所が定義するものではなく、人々の間でどう使われているかによって決まっていくものですからね、国語辞典にしても正しい日本語を定義しているわけではなく、この言葉はこういうふうに使われていますって紹介しているわけですよねと続けたところ、つまらなそうにまあそうですねとあいづちをうっていた。どうやらその人は私と日本語談義がしたかったわけではなく、言葉の誤用を指摘してやり込めたかっただけのようだ。ああ、これが会話でマウントをとるってやつか。いい歳してめんどくせえなあ。

 

 ちなみに昆虫の愛好家や研究者、防虫業界関係者等の「虫屋」の界隈では、虫を「頭(とう)」で数える慣習がある。とくに蝶の専門家はその傾向が強い。由来は諸説あってはっきりしないが、明治・大正の昆虫学黎明期の頃からつづいている慣習らしい。なので、グループで調査・採集をしている際に、虫を「いっぴきにひき……」と数える者がいたら、周囲からシロウトと見なされ、少し軽くあつかわれることになる。ただし、それは愛好家同士の内輪の符丁のようなものにすぎず、昆虫の正式な数え方というわけではない。多少常識のある虫屋ならば、蚤のような小さな生き物を「いっとうにとう……」と数え、その宿主である犬猫のほうを「いっぴきにひき……」と数えることには、これ日本語としてどうなのと違和感をおぼえるだろう。あくまで虫屋の内輪の慣習として、虫を数える際に「頭」を用いることが多いというだけなので、このクイズ番組のように、蝶の正式な数え方は一頭二頭が正解ですと言い切ってしまうのかなり問題があるように思う。こどもの学習ドリルじゃないんだからさ、なんにでも正解があるってわけじゃないよ。

蝶を数えるときの正式な単位は? テレビ静岡

 

 以前、「です・ます」の丁寧表現について、身分の上下に由来する尊敬表現や謙譲表現とは分けて考えるべきで、丁寧表現を敬語に括るのは違和感をおぼえるという話をしていたところ、相手は文科省の敬語の分類を持ち出し、敬語は丁寧語・尊敬語・謙譲語の三つから成り立っているんだから、その主張はそもそも前提から間違っているとやはり妙に勝ち誇った調子で言われたことがある。そういう話をしてるんじゃないんだけどなあ。敬語の分類くらい知ってるよ。役所の便宜的な区分をあたかも宇宙の法則であるかのように思い込んでいる人はあちらこちらにいるらしい。どうも私はこの手の人たちから嫌われることが多い気がします。

 

かもしれません

 「明日は雪が降るかもしれません」「国会の解散もあるかもしれません」「景気が良くなるかもしれません」「部下の心をつかめるかもしれません」……そうかもしれないしそうでないのかもしれない。そりゃあどっちかは必ず当たるだろうけどさ、インチキ占いじゃあるまいし、それはなにも言っていないのといっしょだよ。そんなに予防線を張るほど自らの発言に責任をとりたくないのなら、そもそもなにも言うべきではない。ああ、言うべきなのかもしれないしそうでないのかもしれません。たぶん。

 

 「ちゃんとしてほしい」「しっかりやろうと思う」「きちんとしないとダメだ」、中身のない発言ほど、こういう言葉を使いがちだ。ちゃんとするとは具体的にどうなってほしいのか、しっかりやるとは具体的になにをやることなのか、きちんとしていないとは具体的にどういう状態をさしているのか、それを考えているのなら、そもそもこんなぼんやりとした発言はしないだろう。中身がないからこそ、考えずに言えて発言の責任もとらずにすむ。うかつに中身のあることを言ってしまうと、あの時ああ言ったではないかと後になって追及されることになる。その点、こういうなにも言っていないのといっしょのぼんやりとした言葉は使い勝手がいい。でもさあ、なにも考えていないのなら、そもそも言葉など発するべきではないのだ。ああ、きちんと話すべきなのかもしれないしそうでないのかもしれません。知らんけど。

ポリティカル・コンパス 右翼と左翼

 「右翼」「左翼」という言葉は、大まかに政治的立場に表すのに便利なので、しばしば用いられている。「まるで右翼の言いぶんだ」「それでは左翼思想ではないか」などなど。とくに近頃では、相手に右翼・左翼のレッテルを貼ることで排除しようとする発言を多く見かけるようになった。言っている側は、それが相手への有効な批判になると思っているようだが、キリスト教徒やイスラム教徒に向かって「おまえはクリスチャンだ」「おまえはムスリムだ」と言ってるのと変わらないので、言われた側は「だからどうした」としか思わないだろう。ひどく不毛なやり取りをしているように見える。現代では江戸時代の切支丹のように信仰や思想を理由に火あぶりになったりはしない。

 

 もともとはフランス革命に由来する言葉で、王政支持派の議員たちが革命議会の右側の議席に、王政打倒派の議員たちが左側の議席に座ったことから、保守派を右翼、改革派を左翼と呼ぶようになった。この頃は国王をどうするのかという明確な論点があったのでわかりやすかった。ところが、20世紀になるとファシズムが台頭してきたり、富の再分配がとなえられるようになったりして、ファシズムをはじめとする極端なナショナリズムをとなえる人々を「右翼」、労働者の権利向上や貧困救済をとなえる人々を「左翼」と呼ぶようになる。ここから一気に話がややこしくなる。両者は対立概念ではないからだ。極端なナショナリズムをとなえる人物が同時に貧困救済を主張してもまったく矛盾しない。実際に戦前の日本の右翼思想は、天皇を日本という家父長制社会の「家長」と見なし、ナショナリズムによる求心力によってすべての日本人を拡大家族とする考え方なので、貧困状態に陥っている「家族」がいたら手を差し伸べ、日本人同士が互いに支えあわねばならないと説いている。五・一五事件青年将校たちも、ナショナリズムへ傾倒する一方で、クーデターにおける彼らの主張は、「私腹を肥やす政治家と官僚に天誅を下せ」「財閥支配を打倒せよ」「身売りする貧農の娘たちを救え」なので、社会主義との親和性がきわめて高い。そのため、戦前には、右翼から左翼へ、左翼から右翼へ「転向」するケースも多かった。対立概念ではないものを右翼・左翼と呼ぶようになったため、20世紀以降の政治状況では、この言葉を使うとかえって混乱するようになっていく。
 
 国家権力の強化とナショナリズムによる民族的一体性を重視する国家主義の対立概念は、社会主義ではなく、個人としての自由と権利を重視する自由主義のほうである。また、富の再分配による経済的平等を説く社会主義の対立概念は、市場競争にすべてをゆだねるアダム・スミスの自由放任主義である。国家主義自由主義、経済的平等と市場競争、このふたつの軸を用いて2次元座標に示すことで、大まかに政治的立場を表すことができる。こんな感じである。
 
・国家と個人の関係
                     国家主義 ←―――――――――――――――→  自由主義                    
  (国家への忠誠とナショナリズムによる連帯)   (個人の自由と人権保障)

 

・富の再分配
                   経済的平等 ←――――――――――――――→  市場競争                    
         (社会保障による経済的平等)           (市場競争による経済活動の自由)

 

 国家と個人の関係をタテ軸、富の再分配をヨコ軸にとると次のようになる。
 

 15年前にこれを思いついたときは、大発見をしたつもりになって、得意げにこの図を友人たちに披露したが、もちろん、そんなことはとっくに誰かが考えついており、その後、この座標のことを「ポリティカル・コンパス」と呼ぶことを知った。不勉強で恥ずかしい限りである。現在ではネット上にもたくさんのポリティカル・コンパスのサイトがある。

ポリティカル・コンパス - Wikipedia

 

 この座標に代表的な政治思想・政治体制を入れると次のようになる。
 

 ソ連型の共産主義と北欧型の社民主義は、ともに「左翼」とくくられがちだが、政府による言論統制思想統制をすすめるソ連型の共産主義と個人の自由と権利を重視する北欧型の社民主義とでは、志向する社会のあり方が大きく異なる。マルクス主義の場合、土地や工場などの生産手段を人々の共有財産とするため、どうしてもそれを管理する国家官僚の権限が大きくなり、政府関係者が特権階級化するとともに政府批判をゆるさない政治状況を形成しやすい。とくに共産党以外の政治活動を認めないソ連共産主義では、より中央政府に権力が集中しやすく、労働者による平等な社会を目指して発足したにもかかわらず、ことごとく強権的な独裁体制へ移行した。一方、北欧型の社民主義の場合、社会権の保障による積極的自由の増大を志向しており、自由主義的傾向が強く、左下へ位置する。

 

 富の再分配への批判として、平等な社会では自由が失われるという発言を耳にすることがある。しかし、これはあきらかに誤った認識で、経済的平等によって自由が制限されるのは、富裕層の経済活動だけであり、逆に貧困状態にある人々の生き方の自由は、富の再分配によって増大する。もし富の偏りが大きいほど自由の総量が増大するのならば、奴隷制社会には自由が満ちあふれていることになるだろう。また、言論の自由や思想の自由については、ヨコ軸の富の再分配は関係ない。貧富の差の拡大によって、教育水準が低下し、結果的に政府に無批判に従う人々が増加するという間接的な影響はあるが、直接的な影響はタテ軸のほうで、上の国家主義の方向へすすむほど言論や思想の統制は強化される。言論の自由の本質は政治権力への批判を自由に言えることである。そのため、南米の軍事独裁政権やミャンマー軍事独裁政権の場合、極端に富の偏りがある社会にもかかわらず、言論弾圧が日常化している。言論統制ソ連共産主義だけの問題ではない。

 

 日本の保守派は昔から北欧の福祉国家が大嫌いで、こんな社会では人間が怠け者になって堕落する、こんなやり方が長続きするはずがない、福祉国家はまもなく破綻するとくり返してきた。しかし、それからもう半世紀以上たったが、福祉国家が経済破綻する気配は一向にない。日本経済がこの30年間落ち込み続けのに対し、北欧諸国の経済はむしろ順調で、現在、ひとりあたりの平均所得は日本の1.5倍に達する。福祉国家の場合、若くて元気なうちはとにかく働いて高い税金を払ってもらわなければ支えきれないしくみなので、人々の働くことによる社会参加意識は日本よりも高い。また、福祉国家への批判として、平等な社会では人間は生きる目的を見失い、社会から活力が失われ、自殺者が増加するというものもあった。こういう批判をする人は金儲けだけが唯一の生きがいだと思っているんだろうか。2012年から国連が毎年おこなっている各国の幸福度調査では、こうした批判とは逆の結果が出ており、北欧諸国が常に上位を独占している。人口あたりの自殺者数も日本より少ない。福祉国家の最大のハードルは、高い税金をあずけられるほどの信頼が日本政府にないことである。

世界幸福度報告 - Wikipedia

 

 一方、市場競争を重視する右側の立場も、国家への強い忠誠を求めるファシズムと国家統制を嫌うリバタリアニズムとでは、政治的スタンスが大きく異なる。リバタリアニズムというのは聞き慣れない言葉だが、ポリティカル・コレクトネスも銃規制も社会保障もいらない、とにかく国は放っておいてくれという西部劇の登場人物のようなスタンスで、こういう人のことを「リバタリアン」という。アメリカに多く、アメリカ人の10%程度がリバタリアンだといわれている。アガサ・クリスティのミステリー小説にしばしば登場する親の遺産で遊んで暮らしているような連中も広い意味でここに入る。彼らは豪華客船や高級ホテルの暮らしを謳歌しているエピキュリアンたちなので、国家主義を息苦しいものとして疎んじており、自分たちの取り分が目減りしてしまう富の再分配については冷笑で応じる。ポワロやミス・マープルのあつかう殺人事件の多くは、そういう社会階層の人々による遺産相続をめぐる諍いだ。

リバタリアニズム - Wikipedia

 

 戦前の日本社会の場合、自然権としての基本的人権を認めず、富の再分配が存在しなかったので、右上に位置する。その後の開発独裁のはしりのような政治体制といえる。そうした戦前の日本社会を「悪い社会でなかった」と肯定するネット右翼(日本版オルタナ右翼)の人々も同様に右上に入る。

 
 この座標に代表的な人物を入れると次のようになる。

 ホリエモンはとりあえず右下に入れたが、人権を軽視する発言がやたらと多いので、右上のひろゆきに近いところのほうが妥当かも知れない。ただ極端に右寄りの市場原理主義者であることは間違いないだろう。彼の取りまきや若いIT経営者には、世の中に平等などいらないというタイプが多い。しかし、基本的人権は平等の思想に基づくものなので、それは基本的人権などいらないと言ってるのと変わらない。こうした人物と一緒に働くのはあまり愉快ではなさそうだ。

 
 20年前、ビル・ゲイツアメリカの大学生たちとディスカッションをするというテレビ番組に出演した際、いきなり「アメリカの富裕層への税率は低すぎる、私のような者にはもっとたくさん税金をかけるべきだ」と言いだした。椅子から転げ落ちそうなくらい驚いた。ビル・ゲイツ社民主義者なのは、いまではよく知られるようになったが、それまで彼のことをパソコンと自分の財産にしか興味のない人物だろうと思い込んでいた。彼はさらにこう続けた。「私は運良くチャンスをつかんで、現在の地位と富を得ることができたが、アメリカにはそうでない若者たちやこどもたちが大勢いる、経済的に成功した者には、こどもたち・若者たちの未来のためにより多くの税を負担する社会的責任がある」。その後、ビル・ゲイツマイクロソフトのCEOを退いた後、その言葉どおりに自らの財団を設立し、貧困問題と環境問題への支援をはじめた。

 

 たいていの人は自らの立場からの損得勘定で好ましい社会のあり方を思い描く。私もビル・ゲイツのような大金持ちだったら、むしろホリエモンのように「貧乏人ってさ、けっきょく怠け者なんだよね」なんて言いながら、フェラーリを乗り回したり、ロケットを飛ばしたりしていたかもしれない。ジョン・ロールズは、そうした自らの立場からの功利主義的な損得勘定を排除するために無知のベールという思考実験をおこなう。そこでは自らの出自や能力・資質について一切伏せられており、その状況下で、これから自分が生まれることになる社会のあり方を議論する。肌の色は黒いのか白いのか、生まれつき足が不自由で歩けないのか、男か女か、恵まれた家庭環境に生まれるのかそうでないのか、そうした自らの立場が一切わからない状況で、これから自分が生まれる社会について、好ましい社会のあり方を議論しようという。


 この座標に日本の代表的な政党を入れると次のようになる。位置取りは下の28の質問項目から割り出した。

 

 与党の自由民主党は大きな政党なので、所属する国会議員の政治的スタンスも幅広い。ただし、20世紀末から新自由主義を推進する立場をとっており、年々右側へ移動している。また、2000年代末に政権の座を失った際、ネット右翼の取り込みに力を入れたことから、国家主義的性質を強めた。とくに安倍・菅政権は自民党の中でもっとも国家主義的なグループが主導しており、この図では上の方に位置する。その後、政権を継いだ岸田政権は、自民党のほぼ中央に位置する。


 もうひとつの与党である公明党は、創価学会を支持母体とする政党で、以前は貧困家庭への支援や憲法九条改正反対を政策に掲げていたが、自民党と連立政権を組むようになってからは、そうした主張を表立って言わなくなった。この座標では、とりあえず自民党に近いところへ配置したが、現在、公明党がどのような政策をおこなおうとしているのか正直なところさっぱりわからない。


 旧民主党は、政権交代を目指して複数の政党が合併してできた政党のため、自民党以上に議員・党員の政治的志向は幅広い。とくに社会党出身の議員と自民党出身の議員との差が大きい。その後、民進党と名前を変え、2017年、小池百合子希望の党への参加をめぐって政治的立場の違いから分裂し、立憲民主党と国民民主党に分かれた。さらに2020年、国民民主党の大多数が立憲民主党に合流した。立憲民主党社会保障を重視する立場、国民民主党の政策は自民党に近い。分裂して政党の政治的スタンスはわかりやすくなったが、政権交代は遠のいた。


 日本共産党ソ連型の一党独裁は志向しないと表明しているので、この図では下のほうへ位置する。消費税廃止をとなえている政党は、日本共産党とれいわ新選組のふたつなので、この座標ではもっとも左側へ位置する。


 日本維新の会は、国家主義と市場競争を重視する立場をとっており、自民党のもっとも国家主義的なグループとの親和性が高い。自民党出身の議員も多く、杉田水脈のように自民党安倍派(清和会)へ移籍したケースもある。

 
 ポリティカル・コンパスについてのWebサイトはたくさんあるが、質問項目があいまいでわかりにくかったり、日本の政治状況に即していなかったりするものが多いので、オリジナルの質問項目を28ほどつくってみた。自分がどういう社会を指向しているのかを知る材料として利用していただけたらと思う。(自動集計ではないので、やる際には、自分で数えてください。)

 

1.学校の式典やスポーツイベントでの国歌斉唱を義務づけ、起立して歌わない者は処罰すべきだ。

そう思う(上へ1)・どちらでもない・そう思わない(下へ1)

2.死刑制度は続けたほうがいい。

そう思う(上へ1)・どちらでもない・そう思わない(下へ1)

3.警察の監視カメラ(防犯カメラ)は市街地にできるだけたくさん設置したほうがいい。

そう思う(上へ1)・どちらでもない・そう思わない(下へ1)

4.オリンピックをはじめとするスポーツの国際大会では、愛国心を高めるために国をあげて自国の選手の応援すべきだ。

そう思う(上へ1)・どちらでもない・そう思わない(下へ1)

5.近代史の授業では、日本によるアジアの人々への加害や戦争責任の問題は取りあげるべきではない。

そう思う(上へ1)・どちらでもない・そう思わない(下へ1)

6.日本のマスメディアは自国の政府に批判的すぎると思う。

そう思う(上へ1)・どちらでもない・そう思わない(下へ1)

7.日本政府を批判する外国人は日本から出て行ってほしい。

そう思う(上へ1)・どちらでもない・そう思わない(下へ1)

8.選択的夫婦別姓の法制化を支持する。

そう思う(下へ1)・どちらでもない・そう思わない(上へ1)

9.同性婚の法制化を支持する。

そう思う(下へ1)・どちらでもない・そう思わない(上へ1)

10.自転車用のヘルメットは、事故の際に自分の身を守るためのものなので、それを着用するかどうかは、本人が判断すべきであり、法律でヘルメットの着用を義務づけることには反対だ。

そう思う(下へ1)・どちらでもない・そう思わない(上へ1)

11.友人間の賭け麻雀や賭けポーカーなどの私的なギャンブルは、本人たちが楽しむために行う娯楽であり、他者に危害を与える行為ではないため、国は法律で規制するべきではない。

そう思う(下へ1)・どちらでもない・そう思わない(上へ1)

12.日本の植民地支配にルーツのある在日韓国・朝鮮・台湾の人たちへ日本国籍を保障し、彼らの二重国籍を認めるべきだ。

そう思う(下へ1)・どちらでもない・そう思わない(上へ1)

13.戦争中の空襲で被害を受けた民間人にも、戦場で負傷した軍人と同じように保障すべきだ。

そう思う(下へ1)・どちらでもない・そう思わない(上へ1)

14.原発の是非やオリンピック招致(しょうち)のような重要議題は、国民投票で決めるべきだ。

そう思う(下へ1)・どちらでもない・そう思わない(上へ1)

15.所得税累進課税制度を撤廃して一律課税にすべきだ。

そう思う(右へ1)・どちらでもない・そう思わない(左へ1)

16.自治体は学校給食・公立図書館・児童館・学童保育の民間委託をすすめるべきだ。

 そう思う(右へ1)・どちらでもない・そう思わない(左へ1)

17.投資を活性化させるために株式取引への課税をもっと引き下げるべきだ。

そう思う(右へ1)・どちらでもない・そう思わない(左へ1)

18.企業が安い労働力を求めて工場を海外移転させるのは良いことだ。

そう思う(右へ1)・どちらでもない・そう思わない(左へ1)

19.公務員の数をもっと削減すべきだ。

そう思う(右へ1)・どちらでもない・そう思わない(左へ1)

20.自治体は生活保護の審査をもっときびしくすべきだ。

そう思う(右へ1)・どちらでもない・そう思わない(左へ1)

21.企業活動の自由化をすすめることが社会の発展をもたらす。

そう思う(右へ1)・どちらでもない・そう思わない(左へ1)

22.最低賃金をもっと引き上げるべきだ。

そう思う(左へ1)・どちらでもない・そう思わない(右へ1)

23.自治体が運営する駅前の駐輪場をすべて無料にすべきだ。

そう思う(左へ1)・どちらでもない・そう思わない(右へ1)

24.消費税を廃止し、そのぶん富裕層の所得にもっと重く課税すべきだ。

そう思う(左へ1)・どちらでもない・そう思わない(右へ1)

25.国公立大学の学費を無料にすべきだ。

そう思う(左へ1)・どちらでもない・そう思わない(右へ1)

26.正規雇用か非正規雇用かに関係なく、同じ仕事をしていたら同じ賃金を支払うべきだ。

そう思う(左へ1)・どちらでもない・そう思わない(右へ1)

27.医療費や介護費の公的負担をもっと増やすべきだ。

そう思う(左へ1)・どちらでもない・そう思わない(右へ1)

28.公立の保育園を増やし、利用料金を無料にすべきだ。

そう思う(左へ1)・どちらでもない・そう思わない(右へ1)

 ときどき「自分は自民党支持だから移民規制に賛成」「自分は共産党支持だから消費税に反対」という人に出会うが、それではまるで政党の家畜のようなもので、順序が逆である。「同性婚に賛成だから○○党を支持する」「国立大学の学費を無料にしてほしいので○○党を支持する」というように自分の政治的スタンスに基づいて支持する政党のほうを選ぶべきである。自らの自律的な判断を放棄してしまい、家畜のように指示通りに動かされる「組織票」が政治状況を大きく左右するようになると民主制は形骸化する。そういう意味でも、自らがどういう社会を志向しているのかを知っておくことは重要である。

 

 ただし、ポリティカル・コンパスには限界もある。この座標は、国家と個人の関係をタテ軸、富の再分配をヨコ軸にしたものなので、そこからはみ出す防衛問題や環境問題のような項目は扱えない。とくに環境問題は、緑の党のように人権保障から「持続可能な環境」を主張するケースとナチスのようにナショナリズムから「国土の保全」を主張するケースの両極のアプローチがある。また、アメリカのマリファナ解禁をめぐって、ネオコン市場原理主義の立場からヒッピーは自由主義の立場からそれぞれ解禁支持にまわったように、本来、政治的立場の大きく異なる人たちが利害の一致から結びつくケースもあり、このタテ軸・ヨコ軸で捕捉しきれない社会課題も多い。

 

iPhone 15 Pro 159800円

 モデルチェンジする度に値段がどんどん上がっていくiPhone。とうとう16万円だそうだ。高校生たちにiPhoneを使っているか聞いてみたところ、クラスの半数がiPhoneユーザーだった。日本は世界で最もiPhoneのシェア率が高いとよく言われているが、どうやら本当らしい。一方、日本の平均所得はこの30年間下がりつづけており、ついにG7で最低水準になった。給料のほうはぜんぜん上がらないもんね。なんであんな高いスマホ使ってるの、お金持ちなの、家庭内バブルなのと尋ねると、「えー、だってみんな使ってるしー」となんだかすごーくアタマの悪そうな答えが返ってきた。うーむ。
 
 ネットの対戦ゲームでなんとしても勝ちたいから、バイト代すべてつぎ込んで30万円のパソコンを買ったというのは、まあわかる。ネットの対戦ゲームの場合、パソコンの処理速度が勝敗を左右するので、グラフィックの処理が遅れるようでは勝ち目がない。なんとしても勝つために、処理速度の速い、あの真っ黒けでLEDのイルミネーションが光る巨大なタワー型の「オタクのパソコン」を買ったというのは、そこまでネットゲームにのめり込むことの是非はさておき、目的と手段が直結しているという点で、わかりやすい。なるほど物量を投じてでも勝ちたかったのね、納得でありまする。かくいう私も25年前からタワー型のパソコンを中身を入れ替えながらずっと使っておりまする。光らないけど。
 
 一方、スマホの場合、そこまで処理速度が要求されることはほとんどない。16万円のiPhoneでできることは、たいてい3万円のアンドロイドでもできるし、3万円のアンドロイドでできないことは、たいてい16万円のiPhoneでもできない。たくさんのポリゴンを使った3Dゲームや複雑な統計処理と思考ルーチンの求められる本格的なシミュレーター、あるいは動画編集のような重い処理が求められる用途は、依然としてパソコンの領分だ。なので16万円のスマホを買っていったいなにに使ってるんだろうというもやもやした疑問はずっと残る。ちなみにたいていのパソコンゲーマーたちは、スマホのゲームのことをアタマもテクニックも必要としない底の浅い運ゲーのくせに課金ばかり要求すると見なしており、かなり見下している。彼らのつまらないゲームに対する罵倒の言葉は、「なんだよ、スマホゲーかよ」である。

 「Steam」は、そんなPCゲーム至上主義者の牙城であり、日々世界中から集い、真っ黒けなタワー型パソコンへの愛とスマホゲーへの毒と家庭用ゲーム機とのクロスプレイへの不満を吐き出している。(もっとも、PC勢の劣勢は明らかなので、牙城というより、最後の砦なのかも知れない)。

Welcome to Steam

 

 以前はMacユーザーの妙な選民意識が鼻についた。Macの蘊蓄を得意げに語る彼らは、カルティエやデュポンのライターをひけらかしている成金趣味の田舎者とかわらないように見えた。iPhoneがこれだけ普及したいまもアップル製品のユーザーであることに優越感をいだいている人ってまだいるんだろうか。それにしても、新型iPhone16万円、デザインがこじゃれているだけの用途のはっきりしないデジタルグッズをがまんすればハワイ2往復できるよ。

 

 生徒のひとりに回線契約と同時に1円でiPhoneを入手したというのがいた。ああ抱きあわせ販売。もしかして日本でiPhoneのシェア率がやたらと高いのはこの回線契約との抱きあわせ販売のせいかもしれない。でも、それ、転売やらなんやらで社会問題になって公取からケチつけられたよ、たぶん今後、規制されることになるよ、次に買い換えるときは16万円だよ、どうする、次もiPhoneにするのと尋ねると、「うーむ」と彼もうなっていた。

 

ウィニー裁判

 この一週間、ずっとウィニーWinny)のことを考えている。きっかけは、映画「Winny」も公開されたし、ひさしぶりにウィニーの裁判を授業で取りあげてみようと思ったことだった。授業の資料用の文章を書き直しはじめたが、調べては書き、書き直しては調べ、書きながら考え直し、また考えて書き直すのくり返しで、スーパーで買い物をしているときも散歩の最中もずっとウィニーのことを考えている。いままで間違った理解をしていたことも多く、以前書いた文章には、P2Pネットワークのしくみについてへんな説明をしている箇所がいくつもあった。今回、いちおうファイル共有ソフトの基本的なしくみについては理解できたと思うけど(そう思いたい)、ブロックチェーンの分散保存がなぜデーター改ざん防止の強固なネットワークを構築するのかについては、いくら解説文を読んでもわからなかった。あれ、数台の端末がシャットダウンしてしまったら、データーの欠損がおきないの。

 

 十数年前にこのウィニー裁判を授業で取りあげた際には、かなりの数の生徒がさっぱりわからないという顔で「ウィニーってインターネットとは別の無線通信装置かなんかですか」という質問まであったので、コンピューターネットワークのしくみとファイル共有ソフトのしくみについては、とくにかみくだいて説明することにした。いちおう授業の資料の文章は書きおわったけど、どれだけの生徒がこの基礎知識編で脱落せず裁判までたどり着けるのかはわからない。逆に自分でフリーソフトのプログラミングをしているような生徒は、当然、私よりもずっとくわしいだろうし、この基礎知識の解説になにを当たり前のことを長々と説明しているんだと不満に感じるだろう。とにかく取り扱いの面倒な物件である。ただ、こうした技術系の問題は、その分野の専門家だけが是非を判断すればいいという問題ではない。その是非を判断するにはもちろんある程度の知識は必要だが、コンピューター技術もバイオテクノロジー原子力発電もすべての人に生活に影響をおよぼす重要な社会的課題であり、シロウトは口出すな式の発言には、まったく賛同できない。政治学社会学の分野では、権力・権威・権限は厳密に区別される。社会構造を分析する際に手がかりとなる重要な概念なので、もし政治学のゼミで学生がこの三つをあいまいに用いたら、きびしく指摘されるだろう。ただそれはあくまで学問領域の話である。先のシロウトは口出すな式の論法だと、権力と権威と権限の区別もつかないような政治学の基礎知識もない連中は、政治に口出すな、そもそもそんな連中に参政権を与えるなということになるが、それはけっして好ましい社会のあり方ではない。あ、話がそれた。

 
 で、ウィニー裁判である。(おぼえていますか、ウィニー。)

 ウィニーWinny)はウィンドウズ用のファイル共有ソフトで、2002年にプログラマー金子勇(かねこ・いさむ)氏によって開発され、2ちゃんねるフリーソフトとして公開された。それ以前に開発されたNapsterWinMXがいずれも著作権侵害の温床として社会問題化したように、ウィニーのネットワークもまもなく動画・音楽・マンガの画像・ゲームプログラムなどの著作物の違法コピーであふれるようになった。ウィニーの場合、最初にアップロードした者のIPアドレスが暗号化されるしくみになっているため、違法コピーをネット上にあげている者の特定が困難だったが、京都府警はウィニーのBBSから利用者を探しだし、2004年にふたりの容疑者を著作権法違反で逮捕・起訴した。それにあわせて、同年、開発者の金子勇氏もこのふたつの著作権侵害事件のほう助罪で起訴された。「幇助(ほうじょ)」というのは「手助けする」という意味の法律用語である。たとえば「これから人を殺しに行く」という者に刃物を貸し与えたり、「ここを刺すといい」とアドバイスをしたり、殺人現場で見張りをしたりする行為のこという。金子勇氏の裁判は、主犯のふたりと面識も金銭のやりとりもなく、ただウィニーを開発・公開した行為に著作権侵害のほう助が適用されるのかが争点になった。

 

 個人的には、開発者が刑事で起訴されるというのは違和感をおぼえる。検察側としては、ウィニーによる個人情報の流出や児童ポルノの流出もあとを絶たず、重大な人権侵害をもたらしていること重く見て、なんとしても刑事裁判でウィニー開発者の犯罪性を示したかったんだろう。2007年には、千葉で、生徒の個人情報をウィニー経由で流失させたことを苦にした教員が自殺する事件までおきた。検察側の意図はわからなくはないが、ウィニー経由の情報流出で一義的に悪いのはどう考えても暴露ウイルスをウィニーでばらまいている連中である。ウィニーそのものにスパイウェアのような仕掛けがあるわけではないので、情報流出の道義的責任までウィニー開発者に負わせようというのは強引すぎるように見える。2000年にアメリカで行われたナップスターNapster)訴訟のように、民事で著作権者がウィニー開発者へ損害賠償を請求するのが妥当だったのではないかと思う。
 
 判決は一審の京都地裁が有罪で罰金150万円。控訴審の大阪高裁は逆転無罪。上告審の最高裁でも無罪で確定した。うーん、無罪ねえ。この一週間、ずっとぐるぐると考えをめぐらせていて、先日はそのせいで駅のホームを間違えてしまって電車を一本乗り損ねた。そんなこの一週間の思考過程をAとBの脳内会話に変換してみるとこんな感じである。

 

「結局、最高裁では、金子勇(かねこ・いさむ)氏がウィニー開発時に大多数のウィニーユーザーが違法コピーに使うとまでは予想していなかったとして、彼の無罪が確定したわけだけど、これ、おかしくないかな。だって、彼がつくったウィニーファイル共有ソフトだよ。2ちゃんねるファイル共有ソフトを公開すれば、2ちゃんねらーたちが違法コピーに使うようになるのは火を見るよりあきらかだよ。いまも20年前も2ちゃんねるはずっとそういうところだよ。いちおう金子勇氏は、「悪用しないように」と言っているけど、2ちゃんねるで「悪用しないように」なんて冗談でしかないし、「もっとやれ」とあおっているのと大差ない。それにウィニーには、IPアドレスを暗号化する機能が備わっているから、CDやDVDやテレビ録画からの違法コピーをネット上に公開しても捕まりにくい。だからウィニーは、2ちゃんねらーを中心にあっという間に違法コピー目的のユーザーを増やしていった。このウィニー裁判では、金子勇氏を刃物製造者にたとえて「刃物を使った殺人事件で刃物製造者をほう助罪で逮捕するようなものだ」と彼を擁護(ようご)する意見が多かったけど、2ちゃんねるウィニーを公開した彼の行為は、たんなる刃物製造者よりも、むしろ、「これから人を殺しに行く」と言っている者に「これを使えよ」と刃物を渡す立場のほうにずっと近いと思うよ。だから、彼の行為は、著作権侵害のほう助にあたるんじゃないかな。」

「でも、それは、いまみたいにYouTubeもたくさんのSNSもあって、手軽に動画や音楽を投稿できるようになったからこそ言えるんじゃないかな。いまあえてファイル共有ソフトを使う人は、違法コピー目的以外には考えられないけど、金子勇氏がウィニーを開発した2002年には、まだ、YouTubeSNSもなかった。もしかしたら、ウィニーがその後のYouTubeみたいな色々な使われ方をする可能性だってあるって考えていたのかも知れないよ。違法コピーを公開する人がいる一方で、自作のおもしろ動画や楽器演奏を公開する人もいて、YouTubeみたいにそれを見た人たちがああだこうだ言いあって盛り上がっているような未来の可能性だってあり得たはずだよ。」

金子勇氏がウィニーを開発した2002年には、すでにファイル共有ソフトがいくつもあって、どれも違法コピーの温床になっていたよ。とくにNapsterナップスター)の場合、音楽ファイルの違法コピーがあふれて、そのせいでCDの売り上げが一気に落ち込んでしまったことから、2000年、レコード会社から600億円もの賠償金(ばいしょうきん)を請求されて、アメリカで大騒動(おおそうどう)になった末、サービスは停止された。Napsterをまねて日本でつくられたWinMX(ウィンエムエックス)も同じように違法コピーの道具として使われたことから、すぐにサイトは閉鎖された。ウィニーより2年もはやくピュアP2Pを実現したGnutellaグヌーテラ)もやはりすぐに公開停止になった。金子勇氏は、WinMXの代替ソフトとしてウィニーをつくったわけだから、こうしたファイル共有ソフトの状況を知らなかったはずがない。もし自分のつくったウィニーだけがその後のYouTubeみたいな建設的な使われ方をして、たくさんの人たちをつなげるメディアに育っていく可能性があると思っていたとしたら、あまりにも非現実的なおとぎばなしだよ。」

「2001年に公開されたBitTorrent(ビットトレント)の場合、IPアドレスの暗号化機能がないために違法コピーに使いにくく、合法的なフリーソフトの配信に用いられたり、初期のSpotifyでは、音楽配信のしくみとして利用されたりもしていたよ。たしかに、Napsterの場合、流通しているファイルの9割くらいがCDからリッピングされた違法コピーだったけど、その一方で、自分の演奏を公開しているアマチュアのミュージシャンやセミプロのミュージシャンもいたよ。Napsterは、損害賠償訴訟のためにわずか1年間でサービス停止に追い込まれてしまったけど、もし、閉鎖されていなかったら、Napsterでの配信をきっかけに、プロのミュージシャンとして活動するようになる人たちもたくさん出てきたと思う。それはちょうど、YouTubeへの動画投稿をきっかけにデビューした歌手やミュージシャンがたくさんいるみたいにね。そうなれば、Napster自体も、YouTubeみたいなメディアに成長していく可能性もあったんじゃないかな。ウィニーにも同じことがいえると思うよ。それに、ファイル共有ソフトの場合、いちいち動画サイトにアップロードしなくても、自作の動画や音楽のファイルを自分のパソコンの公開フォルダーに入れておくだけで、手軽に世界中の人に公開できるっていうメリットもある。2000年代はじめ頃は、まだ、光ファイバーの高速通信が普及していなかったので、100メガバイト程度のファイルのアップロードでも、10分以上の時間がかかったからね。」

「でも、ウィニーの場合、BitTorrentと違って、IPアドレスががっちり暗号化されるから、利用者のほとんどが違法コピー目的だったよ。2007年の警察庁の調査では、ウィニーで流通しているファイルの9割くらいは、やはり著作権侵害の違法コピーだって指摘されている。それに金子勇氏は、「2ちゃんねらー向けのファイル共有ソフト」として2ちゃんねるウィニーを配布したわけでしょ。2ちゃんねらーたちが違法コピー目的に使っている特殊な媒体(ばいたい)に自作の音楽や顔出しの動画を公開するなんて考えられないよ。自分が顔出しで歌っている姿を2ちゃんねらーに見られたくなんかないよ。」

「それは人によるよ。2ちゃんねるの運営者だったひろゆき氏がその後、2ちゃんねる流の人を煽(あお)ってあざ笑う発言でテレビタレントやコメンテーターとして活動するようになったケースもあるし、2ちゃんねる系のメディアから新しいミュージシャンや芸人が出てくる可能性もないとは言い切れないよ。そういう意味で、ウィニーYouTubeみたいなメディアとして成長していく可能性があったことは、完全には否定できないよ。YouTubeだって、2005年のサービス開始当初は、違法コピーのアップロードが氾濫(はんらん)していて、日本のテレビや新聞は、もっときびしく取り締まれってさかんに批判していた。そういう状態から、YouTubeは、いまみたいな大勢の人たちが様々な動画を投稿して活用する大きなメディアに成長していったわけだよね。」

「でも、YouTubeの場合、アップロードされた動画は運営会社によって管理されているから、違法コピーやポルノ動画や差別的な発言は定期的に削除されている。そうした投稿をくり返す悪質なユーザーには、利用停止措置もとられている。それに対して、ウィニーの場合、全体を管理する人が誰もいないから、違法コピーや流出した個人情報は、ネットワーク内の端末にずっと残されて、利用者が増えるほどコピーされてますます増えて、無法地帯になっていく。基本的なしくみがまったく違うわけだから、ウィニーYouTubeを同列には論じられないよ。ウィニーをはじめとするファイル共有ソフトの場合、はじめから自作の動画・音楽・プログラムだけを公開するように機能を制限するか、有料会員制にして会費から著作権料を支払うようにしない限り、合法的な運用は不可能なしくみだよ。だから、どのファイル共有ソフトも、利用者間の違法コピーがくり返されるようになって社会問題化し、各国で公開禁止措置がとられるようになった。そうしたファイル共有ソフトの特性は、2002年の時点ですでにあきらかだったし、ウィニーの開発者である金子勇氏は、そのことを誰よりも理解していたはずだよ。」

「ところで、ウィニーによる情報流失の問題については、開発者の責任を問わないの?ウィニー経由で企業の顧客情報や官公庁の内部情報が大量に流出して、こちらも大きな社会問題になったよね。2007年には、千葉で、自宅のパソコンから児童の個人情報を流出させてしまった小学校の先生がそれを苦にして自殺する事件までおきた。検察が金子勇氏の刑事告訴に踏み切った背景には、こちらの情報流出による経済損失や社会的混乱を重くとらえたからだって言われていたけど。」

「それはなんといっても暴露ウイルスをウィニーで公開して、ネットワークにばらまいている連中が圧倒的に悪いよ。ウィニー自体に情報を流出させるスパイウェアーみたいな機能があるわけではなく、情報流出はあくまでウイルス感染によるものだからね。その責任まで、開発者の金子勇氏に負わせようっていうのは、強引すぎると思うよ。一方、違法コピーは、ファイル共有ソフトの性質によっておきるべくしておきた根本的な問題だよ。ファイル共有ソフトは、インターネットを介して見知らぬ人たちとファイルをやり取りするためのものだから、必ず利用者のあいだで違法コピーがくり返されるようになる。さらに、YouTubeみたいに管理する人が誰もいないから、違法コピーは削除されることなく、どんどん増えていく。ウィニーの場合、Napsterと違ってファイル検索のためのサーバーも必要としないから、ウィニー利用者同士のネットワークがいったん稼働(かどう)しはじめると、もうとめることもできない。こちらの違法コピーの問題については、そうしたファイル共有ソフトの性質を知りながらウィニーを開発・公開した金子勇氏とウィニーで違法コピーをしている利用者との関係性は深いよ。だから、この裁判も、あくまでふたつの著作権侵害事件のほう助罪として、金子勇氏は起訴されたわけだよね。」

「でも、ファイル共有ソフトの、サーバーを介さずにファイルをやりとりして、ネットワーク内の端末同士でファイルを共有しあうしくみは、違法コピーをやりとりするような使い方だけでなく、様々な可能性をもっているよ。LINEやビットコインもこのP2Pのしくみを利用して、ネットワークにつながった端末間でデーターを共有している。金子勇氏もウィニーを試作品として公開して、そのプログラムがコンピューターのネットワークとしてどのように機能するか検証しながら、P2Pの可能性を模索(もさく)していたんじゃないかな。」

「それはなんとも言えないよ。金子勇氏がつくったのは、あくまで「P2Pファイル共有ソフト」であって、LINEやビットコインのような「P2Pを利用したまったく新しいジャンルの画期的なソフト」ではないし、初期のSpotifyのような「P2Pを利用した有料会員制音楽配信サービス」でもないからね。たしかに金子勇氏のオタク気質の性格から、おそらく彼は、P2Pネットワークでなにができるようになるかに夢中で、それが社会にどのような問題をもたらすかなんて自分が訴えられるまで興味もなかっただろうし、ましてや自分でウィニーを違法コピーに使おうなんて考えもしなかったんじゃないかと思うよ。ちょうどこどもが新しいおもちゃに夢中になっているみたいに、P2Pのプログラミングに夢中になっていたんだと思う。記者会見でも、プログラミングの話になるといきなり早口になって熱く語っていたよね。だから、検察側の「著作権制度の破壊のために、愉快犯的(ゆかいはんてき)にウィニーを開発・公開して、意図的に違法コピーをあふれさせた」っていう主張は、ただの言いがかりだと思う。でも、金子勇氏がP2Pの可能性になにを思い描いていたかについては、この裁判の本筋とは関係ないことだよ。刑事裁判は、被告人の良心を道徳的に裁く場ではなく、あくまで被告人の行為が法に触(ふ)れるかどうかを判断する場だからね。この事件ではっきりしていることは、P2Pファイル共有ソフトは、すでに2002年の時点でいくつもあったし、いずれも違法コピーの温床になっていたにもかかわらず、金子勇氏がウィニー2ちゃんねるで公開したという事実だよ。」

「でも、新しい技術を生み出すのは、たいていこういうひとつのことに夢中になってまわりが見えなくなるタイプの人だよ。それはプログラミングに限らず、バイオテクノロジーや宇宙開発でも共通している。実際、ウィニーのプログラムは、コンピューター・ネットワークの技術者たちからも高く評価されている。ウィニーを「十年の一度の傑作」と評価して、ウィニーのネットワークのしくみを工学部の授業の教材に使っていた大学の先生もいた。金子勇氏は、最高裁判決の2年後、42歳の若さで病死してしまったけど、彼のことをいまでも「天才プログラマー」と評価して、その死を惜しむ声も多い。こういう革新的な技術を生み出す人を警察が取り締まってしまったら、他のプログラマーたちも萎縮(いしゅく)して、新しい分野に挑戦しようとしなくなってしまうよ。そうなると新しい技術革新は生まれにくくなるだろうし、日本の産業も停滞してしまうんじゃないかな。」

「技術的に優れているかどうかと犯罪性があるかどうかもまったく関係ないことだよ。優れた技術が大規模な損害や大量殺戮(たいりょうさつりく)をもたらしたことは過去にいくらでも例がある。たとえば、原子爆弾を開発したマンハッタン計画は、当時のお金で20億ドルもの国家予算がつぎ込まれた巨大プロジェクトだったし、さらにB29はその1.5倍の予算をつぎ込んで開発された大型爆撃機で、どちらも最先端技術の塊のような存在だったわけだけど、だからといってそれらが日本各地で大勢の人たちを焼き殺したという事実は変わらない。優れた技術だから裁くなという主張は暴論だし、そういうテクノロジー至上主義はいびつな考え方だよ。それにインターネット分野で日本企業の進出がたちおくれたのは、レコード会社や映画会社や放送局や出版社がパッケージ販売にこだわって、ネット配信に消極的だったこと、あと、日本の著作権法がやたらときびしくてフェアユースのような柔軟な運用ができないことが大きいと思うよ。それはおもに経済的・文化的理由によるものであって、技術革新どうこうは関係ないよ。もし、日本の企業がインターネット・ビジネスにはやくから積極的だったら、資金力のある大手企業が世界中から優秀なプログラマーを好待遇で集めて、大々的に動画配信サービスをはじめたり、画期的なSNSをつくって世界中の人たちに利用してもらうことだってできたわけだからね。それに、そもそも金子勇氏がつくったのは、ウィニーっていうファイル共有ソフトだよ。ウィニーがどれほど技術的に優れていても、合法的な使い道なんかないし、ウィニーがもたらしたのは、違法コピーと個人情報の流出による社会的混乱だけだよ。」

「そこまで言うのなら、法律でウィニー自体を有害ソフトに指定して、使用禁止にすればいいことじゃないかな。なのにそれはできなかった。ウィニー自体の違法性が立証されていないのに、開発者を刑事裁判で起訴するっていうのは、スジが通らないと思うよ。」

「ほう助罪の場合、犯罪への関与の「度合い」で判断されるものだから、ウィニー自体の違法性を立証しなくても、状況証拠を積み上げて、開発者が利用者の著作権侵害に関わりが深いことを示していけば、十分有罪にできるよ。くり返すけど、ファイル共有ソフトは、インターネットを介して見知らぬ人たちとファイルをやり取りするしくみだから、自作の動画・音楽・プログラムだけを公開するように機能を制限するか、有料会員制にして会費から著作権料を支払うようにしない限り、合法的な運用は不可能だよ。どのファイル共有ソフトも必ず違法コピーがあふれるようなったというのは、それがファイル共有ソフトの性質によるものだからだよ。そのことはすでに2002年の時点であきらかになっていた。それをわかった上で、ウィニーを公開した金子勇氏の行為は、その後のウィニーユーザーによる著作権侵害事件と深く関与していたといえるんじゃないかな。」

「でも、ファイル共有ソフトには、違法コピー以外の使い道やそのしくみを応用した将来的な可能性がある以上、それは「疑わしい」というだけであって、ウィニー開発者が著作権侵害に協力したとまでは断言できないと思うよ。刑事裁判の場合、たとえ「黒に近い灰色」だったとしても、疑問の余地のある限り「無罪」ということになる。「疑わしい」というだけで人を処罰してしまったら、深刻な人権侵害をもたらすことになるからね。だから、民主的な社会では、「疑わしきは被告人の利益に」は、刑事裁判の大原則になっている。刑事裁判では、弁護側が無罪を立証する必要はなく、検察側が疑問の余地なく犯罪性を立証しない限り、被告人を有罪にしてはならない。英語で「guilty or not guilty(有罪か有罪でないか)」という言い方をするけど、「not guilty」は必ずしも「innocence(潔白)」である必要はない。「疑問の余地なく犯罪に関与した」と証明されない限り、刑事裁判では、「有罪とまではいえない」という意味で、すべて「not guilty」とされる。はたして、このウィニー裁判の場合、疑問の余地なく金子勇氏が著作権侵害をほう助したと言い切れるのかな。」

「もしかしたら、最高裁判決の「例外的とはいえない範囲の者がそれを著作権侵害に利用する蓋然性(がいぜんせい)が高いことを認識、認容(にんよう)していたとまで認めることは困難である」というもってまわった回りくどい判決文も、判事たちが「きわめて疑わしいけど被告人は本当にその後の事態まで予測していたと言い切れるんだろうか」と何度も考えをめぐらせて悩んだ末のものかもしれないね。」

「そうだね。判事によって判断が分かれたのもそのためだと思うよ。」

 

 このAとBの脳内会話はわりとうまく書けた気がするので、そのまま授業の資料にする予定。で、この一週間の脳内会話の結論は、「かなり黒に近い灰色」。黒に近い灰色は、会話文にもあるように、刑事裁判では「有罪とまではいえない」という意味で無罪となる。ただし、民事で著作権者から訴えられたら、Napster訴訟と同様にウィニー開発者には賠償責任があったと考えている。まあどれもいまさらだけどさ。

 

男のくせにだらしないわね!

 しばらく前、テレビシリーズの「エヴァンゲリオン」を再放送していた。最初の数話は、主人公の男の子が男のくせにと周囲からなじられつづける。

 

 「男のくせにいつまでもぐじぐじ言ってんじゃないわよ!」
 「男の子でしょ!しっかりしなさい!」

 「男のくせに女々しいわね!」

 「男のくせにいつまでもみっともないわよ!」
 「男だったらやるときはやらなきゃ!」
 「しゃきっとしなさい!男でしょ!」
 「ふん、男のくせにだらしないわね!」
 「立ち上がるべき時に立ち上がらないなんて男じゃないわよ!」
 
 あれえ「エヴァンゲリオン」って、こんな男塾みたいなアニメだったっけ。男の子だからってそんなに追い詰めなくてもいいじゃない。そんなに責めたてられたら、かえって立たなくなっちゃうよ。

 アニメが制作された四半世紀前、「女のくせに」はすでに禁句だったが、「男のくせに」のほうはまだ許容されていたらしい。劇中の理不尽なやり取りがえんえんと続く様子に気が滅入ってきたので、はじめの数話を見ただけで途中でやめてしまった。以前見たときは、主人公がいつもいじけてる陰気で宗教くさいアニメという印象だけで、序盤でこんなマチズモを強要する会話がくり返されていたことはすっかり忘れていた。おぼえていないということは違和感を感じていなかったということなので、この居心地の悪さが四半世紀における自分のジェンダー感覚の変化なんだろう。逆にいまこのやり取りに居心地の悪さを感じないのは、日本維新の会杉田水脈の支持者くらいではないだろうか。杉田水脈はあいかわらず「男女平等は反道徳の妄想」と性別役割分業の正当性を説いているが、同じような男女観の持ち主から「女の分際で政治に口出すな」と言われたら、この人はなんと答えるんだろう。

 「男のくせにだらしない」と「女のくせに口をはさむな」は対の関係にあり、もちろん、セクシャルハラスメントは男の子や男性に対して行われても人権侵害である。この認識が日本にもようやく定着したことで、それまでニヤニヤ笑いとともに下ネタとして語られる話題でしかなかった、ジャニー喜多川が自らの立場を利用して事務所の男の子たち四百数十人に対して手をつけていた行為についても「深刻な犯罪」と見なされるようになった。庵野秀明の作品には、しばしば癇癪持ちの女の子が登場して、男の子をぼかぼか殴る場面が描かれる。彼の好みなんだろう。でも、女の子が男の子を殴るのも男の子が女の子を殴るのも暴力であることに変わらない。それがコメディシーンとして提示されることの違和感にもやはり四半世紀の時間の流れを感じる。

 「近頃はなんでもセクハラにされるからなにも言えなくなった」とぼやく人がいる。しかし、セクハラの概念がなかった頃から、それでつらい目にあっていた人たちは大勢いたはずで、「なにも言えなくなった」という発言には、そうした人たちの存在がまったく視野に入っていない。ポリティカル・コレクトネスの表面しか見ていない人にとっては、たんに言えない言葉が増えただけで窮屈になったと感じるのだろうが、「女のくせに」も「男のくせに」も、社会状況の変化に関わりなく、もともと言うべきではなかったのだと思う。

 

 で、結局、主人公くんは「男のくせに」で追い詰められたあげく、「男らしく」ロボットに乗ることになるんでしょうか?

 

シンプルマン

 四年ぶりに母親と会った。すっかり老け込んでいて、年齢通りの80すぎの老人になっていた。こどもはしばらく会わないとどんどん変わっていくものだが、年寄りも同じなのだなと思った。母は十数年前から、なぜかいきなりネトウヨ婆さんになり、会うたびに中国と韓国がいかに腹黒く、韓流ドラマがいかに低俗かをえんえんと聞かされる羽目におちいってしまい、異論をはさむと、おまえみたいな奴は日本から出て行けと激昂するので、もううんざりという感じだったが、四年ぶりに会った母は共産党支持になっていた。振れ幅が大きいなあ。どうやら、近所のネトウヨ老人たちとの付き合いがなくなったためらしい。なんだかアタマの悪い中学生がつきあう仲間しだいで不良になったり行儀良くなったりするみたいだ。

 

 以前、父と母について書いた文章があったので、こちらに再掲しておく。浮草のような暮らしをしていたある家族についての小さな昭和史みたいな文章です。

 

シンプルマン 2011-03-05

 

 町山智浩Newsweek日本版のコラムでレーナード・スキナードについて書いている。レーナード・スキナードは、アメリカ南部出身の白人ブルースロックバンドで、やたらと保守的なメッセージをこめた歌が多い。最近では、ティーパーティの反オバマ集会で彼らの歌がよく流されている。

「神と銃」レーナード・スキナードが歌うアメリカ
Wikipedia「レーナード・スキナード」


 町山は「シンプルマン」の歌詞を取り上げ、その背景にあるキリスト教福音派の「神は素朴な者こそを愛する」という考え方を指摘する。

 ガキの頃、ママが言った
 お空の上には神様がいるんだよ
 だから坊や、単純な男になっておくれ
 (「シンプルマン」)

 ただ、この単純な男になれという価値観には、キリスト教福音派の宗教的背景だけでなく、社会階層の問題もふくまれているはずだ。私の父の口癖は「理屈を言うな」だった。その言葉の次にはげんこつが飛んできた。「つべこべ言ってないで体を動かせ」「世の中そういうものだ」ともよく言われた。父はいっさい本を読まなかった。「本ばかり読んでると理屈をこねるだけのろくでもない奴になる、世の中のことが知りたければ新聞さえ読んでいれば十分だ」というのが父の社会観だった。父は昭和三年長崎生まれ、当時の社会情勢を反映して熱烈な軍国少年として育ち、大戦末期に自称志願兵として海軍に入隊。戦後は自称長崎大英文科中退後、流れ者のバーテンダーとして米軍キャンプやバー・キャバレーを転々したという。私が幼い頃、米兵がときどき家に遊びに来て、父はやけにブロークンな英語で米兵と談笑していたが、それはどう見ても米軍キャンプのバーテンダーとして身につけた英会話で、英文科で学んだというのは事実ではないだろう。新聞以外に本を読む必要がないという発想も文学部出身者のものではない。父は戦後も軍国主義者で、テレビで高校野球の開会式をやっているときまって、最近の若い連中の行進はだらしなくて見てられない、軍隊に入れて鍛え直すべきだとぼやいていた。ただ、海軍の慣習をあまりにも美化して語るので、実際に入隊して本当にそれらを体験したのかも疑わしいと思っている。軍隊を経験した者は、自らの体験に苦さと懐かしさの入り交じった複雑な思いを抱いていることが多い。彼らは軍隊批判の声にうなだれ、その一方で、軍隊賛美の声には憮然とする。とくに戦地で生死の境をさまよった者はその強烈な体験をあらわす言葉が見つからず、しばしば自らの思いを飲み込むように押し黙る。父の無邪気に軍人の凛々しさを語る様子はそれとは明らかに異なっていた。おそらく実戦を経験しないまま佐世保あたりの訓練所で敗戦を迎えたか、さもなくば、志願入隊もでまかせで、地元の青年団で軍の下働きをしながら海軍兵学校に憧れていただけというところだろう。敗戦前後の長崎で瓦礫の撤去作業に携わったらしく、被曝者手帳を持っていた。被爆間もない長崎の様子について尋ねると、「ひどかったな」というだけで原爆についてはそれ以上話したがらなかった。


 父はキャバレーでバーテンダーをしているときにホステスとして同じ店につとめていた母と知り合った。母によると、女にはまめな性格でホステスたちには人気があったという。幼い頃、父に連れられて喫茶店へ入ると、そこは水商売のお姉さんたちのたまり場になっていて、厚化粧のお姉さんたちは私のことを気まぐれでかわいがったりからかったりしながら始業までの時間をつぶしていた。父はその後、いくつかの小さな店を持ってはことごとくつぶし、食品工場のライン労働に職を見つけ、そこも上司とぶつかってやめ、私が中学生の時によそに女を作って家を出て行った。養育費を送ってきたことは一度もなかった。大学一年の時、父から話があるというので待ち合わせの喫茶店へ行くと、税金控除のために確定申告でお前を扶養に入れていいかという話だった。ふざけるなと断ると後日、いったいお前はどんな教育をしているのかと母に電話があったという。以来、もう数十年、会っていない。生きていれば83歳になるが、もう生きてはいないだろう。

 

 父は政治的には少々ややこしいスタンスをとっていた。軍人の凛々しさと軍隊式の教育方法を得意顔で語り、日中戦争と太平洋戦争を「しかたのない戦争だった」と肯定する一方で、民族主義的なナショナリズムを嫌っており、とくに在日朝鮮人への差別的な発言を耳にすると眉間にしわを寄せた。さらに社会党を支持しており、憲法改正自衛隊には否定的だった。どうしてこんな入り組んだ考えをいだくようになったのか、長いこと不思議に思っていたが、ある日ふと気がついた。ただたんに自分が身を置いてきた状況に順応してきただけだったんだと。父の語る軍人の凛々しさや「しかたのない戦争」という言いぶんは、戦時下で受けてきた軍国教育そのものだし、日中戦争が始まった頃に父方の祖母が再婚した相手は在日朝鮮の人だった。祖母によると前の夫よりも人間的にはずっと立派だったとのことだが、父親違いの末弟は日本国籍ではなかった。そのことで地域の中でひどいあつかいを受けたのだと思う。末弟はぐれてしまい、やがて山口組系の団体の組員になった。在日朝鮮人というだけでまともな働き口のなかった時代のことである。ただ組員になって羽振りがよかったらしく、父は店をつぶすたびに十以上も歳のはなれたこの末弟から金を融通してもらっていた。父は食品工場のライン労働をするようになって職場の労働組合に入った。社会党系の労組で、憲法改正反対もそこで同僚たちから聞かされたんだろう。順応し、自己肯定してきただけで、おそらく父は自らの考えを検証することも矛盾を感じることもなかったのではないかと思う。


 母からは学校の勉強をするよううながされたことはない。むしろ、高校進学の時も大学進学の時も、「ふーん、お前はよっぽど学校が好きなんだな」と冷ややかだった。祖母と折り合いの悪かった母は、17歳で夜間高校を中退して家を飛び出し、以来ずっと水商売で生計を立ててきた。はじめはキャバレーのホステスとして、その後、小さなバーの経営者として。その経験から得た母の人生訓は、「学校へ行くよりも働いたほうがはるかに学ぶことが多い」というものだった。それは事実だろう。学校へ通うことで、そのぶん他にできたかもしれないことを失っているはずだ。だから、母からは学校の勉強についてとやかく言われることはなかったが、かわりにこどもの頃からことあるごとに「お前は甲斐性なしだ」となじられた。よほど働かせたかったらしい。母に大学院で哲学をやろうと思うと話したときは、「いつまで学校に通うつもりだ」とうんざりした顔をしていた。もっとも、奨学金と学費免除で通っていたので、母の承諾を得る必要はなく、それはたんなる報告にすぎなかった。母はなにかと高圧的な言動で息子をコントロール下に置こうとしたが、その日の気分次第で変わる母の言動に振りまわされるのはまっぴらだった。そうした母を軽く見る気持ちは態度にも現れていたんだと思う。母とは事あるごとに衝突した。母は甲斐性なしの息子と同様に教師たちのことも嫌っていた。酔ってくだを巻くタチの悪い客には教師が多いという。「あいつらは学歴や職業ですぐに人を見下すようなことを言う」と。たしかに教師にはその傾向が強い。たいていの学校で生徒の親の学歴の話題は職員室の日常会話のひとつだ。店をやっているときには、そのことでさぞや嫌な思いをしたんだろう。


 高校一年の時、少々トラブルがあって母親とともに学校に呼び出された。きっかけは制服を着るのが面倒だったので普段着のまま登校したことだった。服装の乱れは精神の乱れ、おまえには自分を律する克己心がない、おまえのような奴には本校の生徒の資格がないとくり返すクラス担任に、「ちょっとよろしいでしょうか、公立学校は近所の図書館と同様に税金で運営されている公共サービスですよね」と言葉を返した。「もし、公立図書館が利用者にドレスコードを設けて、規定の服装で来館しない市民には本の貸し出しを行わないと言い出したら、いったいどうなってるんだということになりますよね、公立学校も同じではないでしょうか、教育を受ける権利はすべての市民に保障された基本的人権だし、公務員の役割はすべての市民に奉仕するサービス業のはずです、そもそも公立学校は学問の基礎を学ぶところであって、行儀作法の教室ではありませんよ」と言ったところ、担任の顔はみるみる赤く変わっていき、おまえは全共闘かぶれかと怒鳴りはじめた。できるだけおだやかに話したつもりだったが、それが余計にかんに障ったようだった。全共闘運動なんてとっくに下火になっていたのにねえ。そのクラス担任は平和教育に力を入れているというベテランの男性教師だったが、とんだ平和主義者である。で、おまえじゃ話にならないと、母親ともども呼び出されることになった。母は会議室に通されるなり、「ちょっとすいません、こちら、灰皿ないんですか?」と灰皿を要求し、私まで呼び出されて迷惑だとばかりに不機嫌な顔でぶかぶかと煙草を吹かしはじめた。そして、周囲の教師たちにも聞こえるような大声で「おまえ、こんなろくでもない学校、いつまで通ってるつもりだ」と言い出した。おお、水商売のおばさん、肝が据わっていらっしゃる。爆笑しそうだった。あれはなかなか痛快だったよ、かあさん。以後、私は問題家庭の問題生徒ということになり、なにかと母親ともども呼び出されては、その度に自由なんとか学園への転校を学年主任とクラス担任からすすめられた。体よく追い出そうという魂胆らしい。自由なんとか学園にとってはずいぶん迷惑な話である。結局、意地になって三年間通ったが、いまにして思えば、あんなろくでもない学校とっとと見切りをつけて、大検(いまの高卒認定試験)を受けながら駿台代ゼミにでも通えばよかった。


 大学生の頃、同級生たちに父や母の話をすると「倉本聰のドラマみたい」という反応が返ってきた。離婚家庭も水商売で生計をたてている人間もとりたててめずらしくはないし、こどもの進学を快く思わない親だって世の中にいくらでも存在するはずだが、地方の中流家庭出身の彼らにはまるでリアリティがないようだった。もっとも、こちらも、弟や妹の受験で家中がピリピリしてるなんて話を聞かされても、受験なんて河原でめずらしい石を拾うのと変わらないごく個人的イベントにすぎないのに、なんで家族全員が振りまわされるんだ、バカじゃねえかこいつらとしか思わなかったので、まあ、お互い様というところだろう。いまも昔もこの社会はけっして皆が同じ文化を共有する平たい社会というわけではない。定時制高校で教えていると生徒たちの家庭環境はむしろうちと似たようなケースのほうが多い。一億総中流というのは、人なみでありたいという願望が生み出した幻想の中の日本人像だと思う。


 私は父や母の期待に反して、本ばかり読んで理屈をこねるろくでもない奴になった。論理と知識は父や母が住んでいる独善的で小さな世界から自分を解放してくれる道しるべであり、どうにか自分の足で立ち、よろけながらも自力で歩けるようになるための杖だった。それは「自由の翼」なんて格好のいいものではない。自分の頭で考えたいというのは渇望のようなもので、学歴を職やなにかを得るための手段として考えたことはない。世の中そういうもんだなんて、たんなる思考停止じゃないか。だから、学問や教養を身につけることを無条件に良しとする価値観には、いまも違和感をおぼえる。着飾るための学問やひけらかすための教養にいったい何の意味があるというんだ。知識と理論は、自ら物事を判断しようとする意志があってはじめて機能する。自律的な判断を放棄してしまったら、どれほど有用な知識や理論だろうとそれは着飾るための衣装にすぎない。難読熟語の読み書きが達者にできることより、その概念を用いて自ら考えを組み立てられるようになるほうがずっと重要だし、円周率を長々と暗記するより、円の面積がなぜ半径×半径×円周率で求められるのかを説明できるほうがずっと意義がある。まあ、ムダ知識をたくさん仕入れてクイズ番組で賞金を稼ぎたいっていうなら止めないけどさ。なので、自分が「シンプルマン」になれなかったことについては多少の後ろめたさを感じている。母はいまも私と話をするのを嫌っていて、お前の言葉は相手を追い詰めると言う。いやそうじゃなくて、考え方の異なる者同士で話すには、すじみちだてて説明しないと通じないじゃないかと私は言うが、母には通じない。歳をとってより意固地なり、考え方が異なること自体、耐えがたいらしい。そういう意味では、労働者階級の社会観は日本も欧米社会も大して変わらないのではないか。イギリスのテレビドラマを見ていると、そこに登場するワーキング・クラスの人々の言動は父や母にそっくりだ。彼らは言う。「理屈を言うな」「体を動かせ」「単純に生きろ」と。


Lynyrd Skynyrd - Simple Man

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本日の気温は80℃

 年々、夏の期間が長くなっているので、この時期になるとこのまま永遠に夏が終わらないんじゃないかという気がしてくる。最近、自分は夏休みは大好きだけど夏がとくに好きなわけじゃないということに気がついた。人生の真理をひとつ見つけた気分である。悟りを開く日が来るのもそう遠くないはずである。

 

 もっともよく考えたら、5℃や10℃程度の気温変化で体調が悪くなったり気分が悪くなったりするのは、人間のからだが脆弱だからいけないのである。マイナス100℃から100℃までへっちゃらな丈夫なからだがほしいものである。今日は80℃であたたかくていいですねえ、なんてご近所さんと小粋な挨拶を交わしたりしてさ。メーテル、おいらにも機械のからだをおくれよ。アンドロメダまでいっしょに行くからさ。

 

流しっぱなしのラジオ

 NHKラジオの音楽番組は変だ。私は家にいるとき、たいていラジオを流しっぱなしにしているのだが、NHKを流しているともやもやした気分にさせられることが多い。月曜から金曜まで夜9時過ぎにFMで帯番組として放送している「ミュージックライン」では、南波志帆(なんばしほ)という若い歌手が番組進行役になり、やはり若い歌手やミュージシャンたちをゲストに招いて、ゲストの新曲を流しながら、おしゃべりをしている。もう10年くらい続いている番組にもかかわらず、番組内でライブ演奏やセッションをしているのは一度も聞いたことがない。「犬派か猫派か」とか「好きなハンバーグの食べ方は」といった中身のないゆるい会話が毎回約1時間にわたってつづく。彼らはどうしてスタジオライブもセッションもしないんだろう。プロのミュージシャンたちじゃないの。もちろん、音楽に造詣の深い人たちが過去の名盤をかけながら、楽曲を解説したり、当時の状況を話す音楽番組には意義があるし、ピーター・バラカンが土曜の朝にやっている番組や大友良英が土曜の深夜にやっている番組は楽しみにしている。しかし、「ミュージックライン」の場合、ミュージシャンがミュージシャンを招いて番組を作っているのに、いっさいその場でライブ演奏もしなければ、ゲストと一緒にセッションもしないのでは、音楽番組としての存在意義がないように思う。番組に出演する若いミュージシャンたちは、番組進行役の南波志帆も含めて、自らを「アーティスト」と称している。もしかして、「アーティスト」って「音楽でなにかを表現したい人」ではなく、「音楽のできない人」なんだろうか。そもそも、歌を歌っていれば「歌手」で、ピアノを弾いていれば「ピアニスト」なのは「事実」だが、それらの行為を「アート」と見なすのは「評価」である。その価値判断は聞く側がすべきものであって、自分から「アーティスト」と称するのは、映画の寅さんじゃないけど、それをいっちゃあおしめえよって感じである。ラジオを流しっぱなしにしているため、つい自称アーティストたちの中身のないダベリをだらだらと聞いてしまうことも多いが、近頃は、南波志帆が妙に作った声で毎回一字一句同じ言葉を発するのが聞こえてくると、意識してラジオを消すようにしている。

 

 土曜の昼に放送(再放送)している「望海風斗のサウンドイマジン」も歌わない。望海風斗(のぞみふうと)は宝塚出身の舞台俳優で、いまもミュージカルを中心に活動している人なので、南波志帆よりもずっと歌えるんじゃないかと思うんだけど、毎回、俳優としての心構えのような妙に説教臭い話とゲストを相手に互いにほめ合うくすぐったい会話が展開されるばかりでなぜか歌わない。番組がスタートして約半年、ずっとそんな調子である。なにやってんだろう、NHK。番組ゲストに呼ばれる人たちもたいてい宝塚出身者かミュージカル俳優なので、ゲストと一緒にデュエットすればいいのにと思うんだけど、なぜかやらない。彼女の熱烈なファンは「望海風斗の意外な一面」が聞けてそれで満足なのかもしれないが、そうでない私としては、フラストレーションがたまるばかりで、番組を聞いて今度は彼女の歌声を劇場で生で聞きたいと思うこともない。なんせ歌わないんだから。もしかして、彼女の熱烈なファン「だけ」に向けて作られている番組なんだろうか。TBSラジオで日曜の夜に放送されている「井上芳雄 by MYSELF」に彼女がゲスト出演した際には、ピアノの生演奏をバックに井上芳雄とデュエットしていたのに。こちらの井上芳雄の番組は30分間の生放送で、彼の話を挟みながらポップスとミュージカルの楽曲をそれぞれ一曲ずつ少しアレンジを加えて歌う。ゲストの来る回ではゲストとデュエットで歌う。ちょうどホテルのラウンジで小規模なコンサートをやっているような感じの番組である。番組がはじまってもう5年くらいになるが、毎週生放送であれを続けているのは大した熱量だと思う。彼と相棒のピアニストがあいついで新型コロナに感染して自宅から出られなくなったときは、自宅からリモートで歌っていた。なにが彼をそこまでさせているのか知らないが、歌の力を感じられる番組である。ラジオから流れる井上芳雄の歌声を聞いてミュージカルに興味を持ったという人も多いんじゃないだろうか。この番組はなんとなく流しっぱなしにするのではなく、番組がはじまるとできるだけラジオに耳を傾けるようにしている。

 

 平日の朝方にNHKで放送している「音楽遊覧飛行 映画音楽ワールドツアー」では、俳優の紺野美沙子が少し古めの映画を紹介しながら、その映画音楽を流している。なんだけれど、ある回で彼女が「私はこの映画、まだ見たことがないんですが」と言い出した。椅子からころげおちそうになった。なんだそりゃ。選曲もストーリー紹介もぜんぶスタッフが用意して、紺野美沙子はただ台本を読んでるだけかよ。こういう番組は、その映画が好きで好きでたまらないという人が「こんな面白い映画があるよ」「あの場面でこんないい曲が流れるんだよ」と情熱をもって語るべきものであって、そうでない人は、公共の電波で話してはいけないと思う。自分の言葉で話す語り手は、滑舌が悪くても訥々と話していても聞いていれば情熱が伝わってくる。まあ、この番組のような薄い映画紹介とありきたりな感想が台本通りに破綻なく進行するものは、毒にも薬にもならず、流しっぱなしの環境音にちょうどいいといえばいいんだけど、でもこういうのに慣れてはいけないと思う。なので、やはりこの番組がはじまると意識してラジオを消すことにしている。

 

1986年夏

 古い白黒フィルムを近くの駅ビルに入っている写真屋でデジタルスキャンしてもらった。解像度は3089×2048でだいたい4K画像くらい。おどろくほど鮮明に写っている。35mmの白黒フィルムってこんなに情報量が多かったのね。写真の中で若い母が猫を抱えて笑っている。いっしょに暮らしていた頃、母とはいがみあってばかりだったような気がするが、こんなふうに笑うこともあったんだ。抱きかかえられた猫はぬいぐるみのクマちゃんのようなもこもこした毛並みで満足げな顔をしている。別の写真では、風を通すために開け放された玄関のコンクリートに猫が長々と寝そべって涼んでいる。季節は日射しの強さと生い茂った庭の草むらの様子から初夏の頃だと思う。写真の中の猫はまだ若く、ひと暴れしたそうな良からぬことを考えている顔でこちらを見ている。近所で一番ケンカが弱くて、負けてばかりだったくせに。何十年も前の風景なのに、画像がやけに鮮明だからなのか、自分の体験を切りとった瞬間だからなのか、あるいは写真に作為性がないからなのか、つい昨日の出来事のように思える。とっくの昔に失われた風景、遠い記憶の中の暮らし、なのに、モニターに大きく映し出されたその画像を見ていると、ついさっき、そこに身を置いていたような感覚をおぼえる。手を伸ばせば、猫のもこもこした毛並の感触もコンクリートのひんやりした感触も指先に触れそうに思えてくる。こりゃ、ちょっとした時間旅行の気分です。日頃「5つあるリンゴのうち2つ食べたら残りは3つ」式の発言しかしていないので、自分でもすっかり忘れていたが、元来、ひどく感覚的な性質なんだと思う。もっと写真を撮っておけば良かったような気もするけど、一方でこれくらいあれば十分という気もする。たくさんあっても散漫になるし。とりあえず5シートぶんデジタルスキャンしてもらったけど、これ以上はもういいかな。そのうちボケてきたら、古い写真なんか見なくても勝手に時間旅行をするようになるんだろう。

 

 

うめちゃん

 大学時代、知り合いに立川の高校を卒業した連中が何人かいて、彼らは互いに高校の頃からのへんなあだ名で呼び合っていた。

 

「ねえ、なんで石井さんは"うめちゃん"って呼ばれているの?」
「青梅から来てるからだよ」
「ちょっと、それ、ひどくないか」
「どうして?かわいいのに」
「ちゃんづけすればかわいいってもんじゃないよ」
「でも、うめちゃんは高校の時からずっとうめちゃんだよ」
「誰か止めてやれよ」
「みんなうめちゃんって呼んでたもん」
「じゃあ、吉田くんはなんで"ごっちゃん"なの?」
「五日市から来てるからだよ」
「ひどい、ひどいよ、それ」
「えー、吉田くんはごっちゃん!って感じだよ」
「なにいってるのかぜんぜんわからないよ」
「ふつうつたわるよ」
「じゃあ、田中さんが"あきるちゃん"なのも?」
「うん、秋留から来てるからだよ」
「その論法だとあなたも"たっちゃん"か"かわちゃん"でないと不公平だよ」
「そこはほら、立川は地元で生徒も多いし、なんたって都会だし」
「ねえ、立川の住民は青梅線五日市線の住民を見下してる?」
「そんなことないよ、みんな仲良しだよ」
「本人たちは嫌がっていないの?」
「うん、みんな気に入ってるよ、たぶん」
「適当だなあ」
「そっちこそ、青梅線沿線の自治体は5期20年の領主様みたいな首長ばっかりとか、住民の8割は暴走族だとか、各家庭に釘バットが常備されていて365日臨戦態勢だとか、青梅線の乗客はみんな鼻ほじりながらワンカップ片手に車内でぐびぐびやってるとか日々偏見をまき散らしているくせに」
「それはかぎりなく事実だよ」
「むう、我々青梅線沿線住民は思い上がった中央線沿線住民に鉄槌を下すべく宣戦を布告する!」
「あなた、そっち側につくのね」
「まあ、つきあいもあるし」


 そんな伊奈かっぺい津軽漫談かビートたけしの足立区ネタみたいな会話をしたことを立川駅の妙に隔離されたところにある青梅線の1番2番ホームに立ちながら思い出した。伝統的村落共同体の崩壊した東京郊外の住宅街では、このように鉄道沿線ごとに地域間派閥が生まれるのだった。青梅線はいまだに中央線からの接続がやけに悪い上に一本逃すと20分近く待たされるので、あの電車に乗ると自分のテリトリー外に来たという気分になる。ドアの開け閉めにいちいちボタンを押さなきゃならないのもローカル線という感じ。もしかして青梅線沿線から来ている子が地名で呼ばれるのは立川でいまも続く伝統慣習なんでしょうか。

カスパロフ対ディープブルー

 授業で1997年に行われたカスパロフ対ディープブルーのチェス六番勝負を見る。番組は同年にNHKが制作した「世紀の頭脳対決~人間VSコンピュータ・チェス戦徹底分析~」というテレビドキュメンタリー。最近はなにかとAIが幅をきかせているが、その先駆けになったのがこの対局で、コンピューター側が人間の世界チャンピオンに2勝1敗3引き分けと勝ち越したことから、ずいぶん話題になった。当時はまだ人工知能についての認識は、コンピューターなんてプログラム通りに動いているだけなんだから、それをつくった人間に知的作業で勝てる日が来るなんてありえないというのが一般的だった。ずいぶん素朴な発想である。1990年代はじめ、哲学研究室の大学院生だった私は、先生たちに人工知能の可能性について尋ねたことがあるが、先生たちもみな口をそろえてそう言っていた。日頃から「知覚」や「理性」なんて言っている哲学の研究者もその程度の認識だったわけだ。この1997年の対局は、そうした人工知能についての認識を改めるようせまるもので、テレビニュースや新聞でもずいぶん大きく取りあげられた。

 もっとも、たいていの人にとっては、「コンピューターなんてどうせたいしたことない」から、「なんかよくわからないけどすごい」や「なんかよくわからないけど怖い」に変わっただけで、コンピュータープログラムがどのように学習し、どのように判断しているのかについての理解がすすんだわけではないように思う。

ディープ・ブルー (コンピュータ) - Wikipedia

 

 

 ディープブルーは、IBM製のスーパーコンピューター上で、それにあわせてチューニングされた専用のチェスプログラムを走らせていた。開発チームは、5人のコンピューターサイエンスの研究者とひとりのチェスアドバイザー。プログラムの特徴は、過去のチェス名人たちが残した膨大な棋譜のデーターベースをプログラマーが手作業で入力し、データーベースにない局面では、計算速度の速さを生かして、10手先、11手先の未来をしらみつぶしに検索し、点数評価するという力まかせのもので、いまにして思うとずいぶん原始的である。こうしたチェスプログラムは、その後、計算速度の遅いパソコンで走らせることを前提に、力まかせに未来の局面を検索するのではなく、勝ちにつながる局面を効率よく検索できるようにした思考ルーチンが導入されるようになっていく。さらに2010年代になると、「ディープラーニング」と呼ばれる手法が用いられるようになる。これは、過去の名人たちの棋譜のデーターベースを人間が手作業で入力していたのにかわって、コンピューターに自分対自分のシミュレーション対局を何百万回と行わせ、それによって勝ち筋を機械的に学習させていくという手法である。自己のシミュレーション対局による学習から思考ルーチンが自律的に生成されるため、人間が関与する部分はほとんどなく、なぜその局面にその点数評価をしたのか、なぜその手筋を選択したのかといったことは、もう開発者のプログラマーにもわからない。こうなるとやはり「人工知能」と表現したほうが適切に思える。このディープラーニングの導入によってコンピューターの棋力は一気に加速していった。

ディープラーニング - Wikipedia

 

 IBMは打倒ガルリ・カスパロフのプロジェクトに大きな資金を投じたが、この対局が大きく報道されたことで、それ以上の広告効果があったようだ。この対局後、「ディープブルーが就職先を探しています」というディープブルーと同型のスーパーコンピューターを企業向けにリースする広告をしばしばネット上で見かけた。人間のチェスチャンピオンとコンピューターとが賞金をかけて対局するイベントはその後もしばらく行われていたが、2000年代中頃からは下火になっていった。もうコンピューターの優位性は誰の目にも明らかだったからだ。現在ではスマホのチェスアプリでも人間のトッププレイヤーよりはるかに強い。

 

 ディープブルーがカスパロフに勝った1997年頃、将棋では、コンピューターはまだアマチュア2段か3段くらいの棋力にとどまっていた。それについて、「将棋はとったコマを再び利用できるから、チェスよりも未来の局面がずっと多く、コンピューターは当分人間に勝てない」という発言をしばしば耳にした。さらに将棋という日本独自のゲームへのナショナリズム的幻想から、「将棋はチェスよりもずっと優れたゲームであり、コンピューターが人間を上回ることは永遠にない」という人までいた。しかし、コンピューター将棋の開発がチェスに遅れたのは、たんにプログラマーの数が少なく、開発規模も小さいというだけのことである。世界中で行われているチェスに対して、将棋は日本独自のゲームなので、思考ルーチンの開発者もほぼ日本人に限定され、チェスにくらべて圧倒的に数が少ない。また、チェスのプログラムが大資本をバックにコンピューター・サイエンスの研究者たちによって組織的に開発されたものが多いのに対して、将棋の場合、市場が小さいことから、プログラマーが自宅のパソコンで個人的に制作しているケースがほとんどである。私はプログラミングにくわしいわけではないが、この分野に興味があるので、ときどきYSSの開発者である山下宏さんのWebサイトを覗く。すると掲示板では、しばしば制作者同士で「次の大会は負けませんよ」「私はニューマシンを導入しますよ」なんてやり取りをしていて、有力なプログラムの制作者はほぼ顔見知りのようである。それくらい人数も開発規模も小さい。そうした小規模な環境で自主制作されたものが市販の将棋ソフトに思考アルゴリズムとして組み込まれたり、フリーソフトやWebゲームとして公開されているというのが実情である。ただ、掲示板での彼らのやり取りはいかにもプログラミングの愛好家の集いという感じで見るたびに楽しそうだなあと思う。

YSSと彩のページ

 

 チェスプログラムの開発スピードにおくれた将棋プログラムも2010年代にディープラーニングが導入され、2010年代半ばには、プロ棋士の棋力を上回るようになる。2015年の羽生善治のコメントがその状況を端的にあらわしている。

「今、将棋の人工知能は、陸上競技で言えば、ウサイン・ボルトくらいです。運が良ければ勝てるかもしれない。しかしあと数年もすれば、F1カーのレベルに達するでしょう。そのとき、人間はもう人工知能と互角に勝負しようとは考えなくなるはずです」

コンピュータ将棋 - Wikipedia

 プロ棋士とコンピューターとの将棋の対局イベントは、2010年代半ばまではしばしば行われていたが、その後はチェス同様に下火になった。ドワンゴの主催でネット中継もしていた電王戦も2017年をもって終了した。理由は明白で、羽生善治の指摘通り、こちらもコンピューターの優位性が誰の目にも明らかになったからだ。対局しているプロ棋士自身もコンピューターにはもうかなわないことを自覚している。それにもかかわらず、対局後、予想どおり負けてしょんぼりしている棋士に記者会見させ、感想を言わせるのは悪趣味な見世物である。その後は、スマホの将棋アプリでもチェス同様に人間を上回るようになったことで、今度は棋士同士の対局でのカンニングが問題視されるようになった。

 

 囲碁は2010年代になってもコンピューターがプロ棋士に歯が立たず、人間プレイヤーが牙城を守っていた。囲碁の場合、好きな場所に石を置けることから、未来の局面がチェスや将棋よりもケタ違いに多いため、力まかせの検索が通用せず、効率よく勝ち筋を検索するといっても限界があった。転機がおとずれたのは2016年。ディープマインド社が開発した「AlphaGo(アルファ碁)」という人工知能が次々にトップ棋士を負かしていった。ディープマインド社は人工知能の研究・開発を行っているイギリスのベンチャー企業で、2010年に創業され、2014年にグーグルに買収されて傘下に入った。それまでの囲碁のプログラムは、将棋と同様にプログラマーが自宅のパソコンで自主制作したインディーズなものがほとんどだったが、そこに大資本による人工知能のプロジェクトチームが参入してきたかたちだった。AlphaGoは、ウィキペディアの解説によるとディープラーニングの学習効果を上げることに特化した特殊な演算ユニットを並列処理させているハードウェアーを持ち、そこに専用の囲碁のプログラムを走らせて数千万回の自己対局を行い、その自己対局の学習から自律的に思考ルーチンを生成させたという。2代目のバージョンは、2016年に韓国のトップ棋士イ・セドルとの五番勝負で4勝1敗と圧勝し、この対局イベントは人工知能のひとつの到達点として、1997年のカスパロフ対ディープブルーのチェス対局と同様に世界的に大きく報道された。さらに3代目のバージョンも、世界ランキング上位のトップ棋士たちとのネット対局で60連勝、世界ランキング首位の柯潔(かけつ)との三番勝負も3連勝と快進撃を続けた。4代目からは人間との対局をやめてしまったが、4代目のAlphaGo Zeroでは、過去の名人たちが残した棋譜を一切使用せず、全くの初心者の状態から3日間の自己対局の学習だけで2代目のレベルに到達し、40日間の学習後には2代目に100戦全勝、3代目とは89勝11敗だったという。機械学習による人工知能の優位性は明白で、こうなると囲碁においても、パソコンやスマホのソフトにトップ棋士が歯が立たなくなるのは時間の問題だろう。

AlphaGo - Wikipedia

 

 

 ただし、こちらの日経の記事によると、ディープラーニングによって生成されたAlphaGoの思考アルゴリズムは、人間が読める論理コードが存在せず、完全にブラックボックスになっているという。そのため、人工知能が誤った判断をした際に原因の究明がきわめて困難になるという問題点が指摘されている。囲碁の手筋ならまだしも自動運転や医療の画像診断といった分野にこうした人工知能が用いられるようになり、奇妙な判断をした際に原因の究明もデバッグもできないとなると深刻である。「なぜ」そうした判断をしたのかわからない正体不明の存在に生命や社会インフラをゆだねる未来像はあまり愉快なものではない。

圧勝「囲碁AI」が露呈した人工知能の弱点: 日本経済新聞

 

AlphaGoのハードウェアー。写真は5代目のバージョンのAlpha Zero。

 授業の終わりに、囲碁や将棋のプロ棋士という職業が100年後も存在していると思うかと生徒たちに聞いてみた。囲碁や将棋やチェスというゲーム自体は、人工知能がどれほど強くなろうと100年後も存在するだろう。「いまの待った!」「ダメ!待ったなし」なんて言いあいながら、100年後の人たちもこうしたゲームを楽しんでいるはずだ。それらは複雑な推論を要求される非常に良くできたゲームなので、人間が絶滅しているか地球がよっぽどひどいことになっていないかぎり、100年後も1000年後も廃れることはないだろう。「碁敵は憎さも憎し懐かしし」の思いは、むかしもいまもおそらくこれから先もかわらない。一方、プロ棋士の立場は微妙である。プロ棋士が社会的地位を得てきたのは、たんに強いからというだけでなく、真理の探究者として敬われてきたことが大きいはずである。藤井聡太のような20歳そこそこの若者が「先生」と呼ばれ、将棋の愛好家たちから畏敬の念をいだかれるのも彼がいままで誰もたどり着けなかった高みを目指して歩む存在と見なされているからだろう。囲碁や将棋のプロ棋士たちは、年齢に関係なく、みな「先生」と呼ばれ、周囲から丁重なあつかいを受ける。しかし、盤上の真理に最も近い存在、マンガの「ヒカルの碁」ふうに大げさにいうと「神の一手」に近づく存在、「3月のライオン」だと「はるかな高み」に立つ存在は、もはや人間ではなく人工知能ということになった。今後、人工知能との力の差は広がる一方だろうし、新しい定石・定跡を生み出していくのももっぱら人工知能ということになるだろう。人間のプレイヤーはそうした人工知能の生み出す定石・定跡を「手本」として学ぶ側にまわり、プロ棋士の立場も「人間にしてはまあまあ強い」というところにとどまる。そうなったときに碁打ちや将棋指しという職業が成立するのだろうか。生徒たちの意見は、「人間の知性がどこまで届くのかを示し、棋士たちは人間の可能性をあらわす存在として、100年後も尊敬されているだろうし、プロ棋士という職業も存在する」という立場と「このままコンピューターとの力の差が開いて、アプリを起動するだけで、あらゆる局面で正解が得られるようになってしまったら、人間が挑戦する意味が失われてしまい、娯楽としてただ楽しむだけになる」という立場のふたつにわかれた。

 

 一足先にコンピューターに歯が立たなくなったチェスでは、意外なことにトッププレイヤーによる世界選手権はいままで以上に人気だそうである。考えてみれば、野球にしてもいくらでも速い球を投げるピッチングマシンはつくれるが、だからといって速球投手の存在意義がなくなってしまったわけではない。ピッチングマシンなら時速200kmや300kmの超剛速球も可能だろうが、あくまで野球は人間がやるスポーツである。野球が人気のプロスポーツである限り、「160kmの剛速球」で打者をうちとる投手はファンの賞賛を集めるだろう。同様にコンピュータープログラムがいくら強くなっても人間がやる知的スポーツとしてのチェスの価値が下落するわけではないし、トッププレイヤーが行う試合の魅力が損なわれるわけでもない。それがプロスポーツとして成立するかどうかは主に市場原理によるもので、人工知能の優位性うんぬんはあまり関係ないように思う。ただ一方で、日本には囲碁や将棋を修練の道としての「棋道(きどう)」と見なす価値観がある。剣道・弓道・茶道・華道などとともに「道」の発想である。そこではトップ棋士たちは盤上の真理へ至る道を模索する求道者と見なされる。過去の名人たちは「先達(せんだつ)」であり、彼らの残した棋譜は真理へ至る「道しるべ」である。しかし、過去の名人たちの対局をなにも知らず、自己のシミュレーション対局だけで強くなった人工知能に人間がまるで歯が立たなくなり、アプリ起動でそこに正解が表示されるようになってしまえば、そうした求道者へのありがたみは失われる。なので、先の問いは、囲碁や将棋を盤上の真理を模索する棋道と見なすか、それともチェス同様に人間同士が盤上で格闘する知的スポーツと見なすかが分かれ道になるのではないかと思う。

 

 

うるせえ、行きたいから行くんだよ、バーカ!

 テレビのHDDレコーダーの容量確保のため、録りだめておいた「プラネテス」の再放送をまとめて見る。全26話。物語の舞台になるのは、宇宙での暮らしがいまよりも身近になった未来の世界。観光や仕事で地球軌道の宇宙ステーションや月のステーションに人々がおとずれるのがめずらしくなっているが、その一方でまだ木星より遠くの宇宙には誰も行っていない、そんなすこし先の未来。物語は地球の衛星軌道上にある宇宙ステーションを舞台に、宇宙船の安全な航行のために「スペース・デブリ」と呼ばれる宇宙ゴミを回収する宇宙飛行士たちの活動が描かれる。デブリは過去に打ち上げられた人工衛星の残骸からネジ一本まで、大小様々なものが大量に地球軌道を周回しており、それは秒速数kmという高速で移動しているので、宇宙船に直撃したら大惨事になりかねない。そこで安全航行の妨げになりそうなデブリをその都度、宇宙飛行士たちが回収していく。物語はその回収作業の様子や彼らの宇宙ステーションでの生活を追いながらすすんでいく……と、舞台はなかなか興味深いんだけど、ちっとも話が広がっていかない。そのうち面白くなるんじゃないかと我慢して見つづけたけど、結局最後まで巻き返すことはなかった。

 

 

 物語はひとりの若い女性が新入社員としてデブリ課に配属されるところからはじまる。この新人は、事あるごとにこどもっぽい正義感を振りかざし、周囲の人間や会社のやり方に突っかかっていく。「そんなのおかしいですよ」と「愛は世界を救うんです」が彼女の口癖。大卒で入社ということになっているが、その言動は中学生くらいの女の子に見える。では、そんな彼女は宇宙飛行士としての経験をつむにつれて成長しいくのか。ぜんぜんそうならない。彼女の成長が描かれるどころか、途中から主役を降りてしまい、相棒の宇宙飛行士の安否におろおろするだけの世話焼き女房の役どころに納まっていく。ずいぶんひどい扱いである。女は帰るべき港だなんて未来の宇宙ステーションは昭和歌謡の世界なのであった。26話を通して物語に視点の軸がないので、ひどく散漫に見える。もし彼女の成長していく様子を全体の軸にすえて、彼女のまなざしを通して、人々の宇宙での暮らしや宇宙開発の意義や矛盾が提示されていけば、もう少し劇中の世界に広がりと物語に深みが出たんじゃないかと思うんだけど。

 

 もうひとりの主人公は同じデブリ課に所属する若い男。原作のマンガではアニメと違って彼が一貫して主人公らしい。若いがそれなりに経験があるようで、デブリ回収の腕はいい。なんだけれど、やはり彼も精神的に非常に幼稚で、気に入らないことがあるとすぐに激昂し、あたりかまわず怒鳴り散らす。よくこんな情緒不安定な若者に宇宙空間での船外活動なんてやらせてるよなあ。スペース・デブリの回収は、デブリの速度や質量からその動きを予測しつつ、自分たちの安全を確保しながら冷静に対処することが求められるきわめて専門性の高い業務のはずだけど、未来の宇宙は人材不足なんだろうか。彼は20代半ばくらいのようだが、すぐに周囲に当たり散らす様子はやはり思春期まっただ中の中学生男子といった感じ。劇中では、このあまり魅力的ではない、精神的にやけに幼いふたりが毎回大声でわめきちらしながらケンカを繰り広げる様子がデブリ課の日常としてくり返し描かれる。ああもう見る気しなくなってきたでしょ。うん、なんども途中でやめようと思ったよ。なんせ26話もあるし。

 

 劇中のデブリ課は利益につながらない業務内容であることから、社内で軽んじられており、出世コースから外れたはみ出し者たちの吹きだまりとされている。しかし、デブリ回収は、宇宙船の安全航行のために不可欠な重要ミッションだし、宇宙服を着ての船外作業は危険を伴う高度に専門的な業務なので、その作業員たちはみなデブリの軌道予測と船外活動に長けたスペシャリストのはずである。短期間のトレーニングで誰でもできるようになる簡単な仕事というわけにはいかないだろう。空港だって滑走路やその周囲の安全管理をおざなりにしているところなんかないはずだ。したがって、本来なら、デブリ回収班は社内でも一目置かれるスペシャリスト集団のはずで、劇中のデブリ課の位置づけ自体がそもそも不自然である。劇中で繰り広げられる宇宙空間でのデブリ回収作業の緊迫した描写とも整合性がとれない。また、劇中のデブリの回収作業では、しばしば船外作業員たちの生死に関わるようなトラブルに遭遇する場面が描かれる。そうした危険と隣り合わせの職場の場合、ちょうど落盤事故の多い炭鉱労働でヤマの男たちがみな強いきずなで結ばれていたように、仲間との結束は必然的に強まる。仲間への信頼がなければ、宇宙空間の船外作業などできないはずだし、そこでの互いの関係性はたんなるビジネスライクなつきあいには収まらないだろう。そういう特殊な職場環境での人間模様というのは、ドラマの「ER」のような興味深い群像劇になるはずだし、こちらとしてはそれを期待して見続けたんだけど、一向にそんな人間模様に焦点があたることもなく、彼らの人物像が掘り下げられることもない。回がすすんでも一話目とかわらず、オフィスでのドタバタが出来の悪いコントのようにくり返される。主人公くんは気に入らないことがあるとすぐにふてくされて周囲に当たり散らし、新入社員ちゃんはそれに憤慨して抗議する。「そんなのひどすぎます!愛は地球を救うんです!」。なにこれ。

 

 

 劇中には様々なデジタル機器が登場する。コンピューター、通信機器、カメラ、テレビ、どれもこれもこの作品が制作された20年前の機材を元に描かれてるため、デザインがやけに古くさい。たびたび登場するオフィスのノートパソコンなんて20年前の機種そのままだ。ひとりで描いているマンガなら小道具のデザインまで手が回らないのは仕方ない。しかし、大勢のスタッフが参加しているアニメーションの場合、宇宙での暮らしが身近なものになった21世紀末のデジタルガジェットについて考証し、それをデザインする専門のスタッフくらいつければいいのに。シド・ミードでなくてもいいからさ。些細な問題と言えばそうなんだけど、こういう作品の場合、未来像を提示するのは作品の重要な要素のはずで、そのディテールを手抜きするとひどく安っぽく見えてしまう。まあ、鉄腕アトムのように黒電話で宇宙と通信するくらいに描かれていれば、あえてリアリティを排除したマンガ的手法と解釈できるけど。

 

 物語の舞台になっている未来世界でも、宇宙開発は莫大な国家予算が必要とされる巨大事業ということになっており、各国の威信や政治的思惑、宇宙開発関連企業の利権が渦巻いている。その点で原子力事業とよく似ている。では、その莫大な投資の見返りはなにか。劇中では、惑星や衛星で採掘される資源ということになっている。でも、その頃には、いまよりもずっと効率の良いソーラーパネルがホームセンターで手軽に入手できるくらい安く大量に出回っているだろうから、人間が地球で活動しているぶんには、エネルギー問題はとっくに解決しているはずだ。戸建て住宅なら、屋根そのものをソーラーパネルでつくっているかもしれない。では、資源確保以外に人間が宇宙へ進出する意義はなにか。もちろん「夢と希望」である。科学調査と資源採掘だけなら、無人探査船で事足りる。大航海時代の船団では、海図の存在しない未知の海域へ向けて、百人くらいの奴隷のような扱いの水夫たちを乗せて出航していった。水夫の生命は軽く、病気や飢えで亡くなった者は、人肉食をふせぐために海へ投げ捨てられることもあった。マゼランの世界一周の航海では、二百数十人の乗組員のうち、帰還できたのは十八人だけだった。しかし、宇宙探査では、その危険な任務はロボットとコンピューターに置き換えが可能である。それによって、乗組員を危険にさらすことなく、かつ、空気・水・食料・居住スペースといった乗組員の生命維持のための設備が不要になるため、数十分の一から数百分の一の費用での運用が可能になる。むしろ、宇宙船に人間の乗組員を乗船させる合理的理由がない。そのため、人間が宇宙へ活動領域を拡大することの意義について、劇中ではくり返し「人類の夢と希望」が語られる。このへんも原子力村の論理によく似ている。しかし、夢や希望は「人類」や「人間」といった大きな主語で語るべきものではない。大きな主語で夢や希望を語るのは、山師が出資者を煙に巻く際の論法である。当然、劇中の世界でも、宇宙開発への批判の声があがっている。貧困や紛争や環境問題など地上に問題があふれているのに、宇宙開発に巨額の国家予算を投じるのはおかしいというお馴染みの批判である。お馴染みではあるが、それは至って理性的な判断であり、かつ問題の本質を的確に射ている。劇中では、それに対して「なにをいまさら」と応じるだけで、その批判に正面から向き合うことはない。

 

 メジャーリーグで活躍することを夢見ている若者がいたとする。メジャーリーグのマウンドに立ち、剛速球で強打者たちから三振をとるのが夢だと彼は語る。大いにけっこうだ。ところが「俺がメジャーで180kmの剛速球を投げるのは人類の夢と希望だ」と言い出した。よっぽど自分のことが好きらしい。さらに「180kmの剛速球という前人未到の偉業のために各国はGDPの0.1%を俺のトレーニングに拠出すべきだ」と彼はつづけた。もう自己評価は青天井だ。あまり知られていない事実だが、じつはこの世界は彼を中心に回っていたのだ。当然、周囲の連中はそれを冗談だと受け取って笑っていると、「笑うな!メジャーで180kmの剛速球を投げる偉業にくらべたらGDPの0.1%なんてタダみたいなもんじゃないか!俺は本気だ!」と怒鳴りだした。どうしよう、こいつマジだぜ。この「180kmの剛速球」は「100mを8秒台」や「テトリスで1000万点」と置き換え可能である。もちろん「木星へ行く」に置き換えてもいいし、「高速増殖炉の実用化」でもいい。夢と希望という点ではどれも同じことである。しかし、日々の暮らしに精一杯で宇宙への夢どころではない人も世の中にはいくらでも存在する。そうした人たちも含めて徴収した税金が投入されるわけだから、宇宙開発は自らのポケットマネーで行く登山旅行とは異なり、そこに山があるからではすまない。宇宙へ行くことでこういうメリットが人々にもたらされると提示されねばならない。それは経済的利益に限定する必要はなく、宇宙の謎の究明という自然科学的アプローチでもいいし、人間が地球外に居住することによる社会変化という社会科学的アプローチでもいい。それが具体的に提示されてはじめて、それは事実なのか、実現可能なのか、本当に人が乗り込む必然性があるのか、費用に見合うだけの価値があるのか、社会保障や途上国支援よりも優先すべき事案なのかといった検証がはじまる。しかし、劇中では結局最後までなにも提示されない。そのかわりに主人公くんは言う、「うるせえ、行きたいから行くんだよ、バーカ!」。あーあ。

 

 そこまで開き直ってタンカを切るなら国家や企業のサポートなんかに寄りかからないで、個人プロジェクトとしてクラウドファンディングで同好の士から資金を募るところから立ち上げればいいのに。きっと少ない小遣いの中から彼の夢に出資してくれる奇特な人もいることだろう。限られた資金の中で彼が乗ることになる宇宙船は、もしかしたら最貧国の町工場でつくられたものかもしれない。でも、そこでのドラマのほうが本作で登場人物がしたり顔で語るうわべばかりの経済格差や貧困問題なんかよりもずっと前向きで波瀾万丈な物語になるはずだ。

 

 劇中では、宇宙開発への批判に最後まで正面から向き合うことはない。そのかわりに、宇宙開発を批判する人々を極端に醜く描くことによって、その批判を回避しようとする。宇宙開発の問題点を指摘する記者は、宇宙飛行士を罠にかけ貶めようとする悪意ある人物として描かれ、宇宙開発に反対する人々は、開発阻止のためなら無差別殺人を平気で実行する残忍で狂信的なテロリスト集団として描かれる。それはまるで陰謀論者の思い描く世界像である。そうすることでなんら検証されないまま、宇宙開発への異議申立ては劇中から排除される。フィクション作品に作り手の主張を盛り込むのはかまわない。古今東西の物語には、たいていなんらかの政治的主張が込められている。しかし、それに対するアンチテーゼを悪役に負わせることで排除しようとする手法は、ひどく独善的でアンフェアだ。それはこの作品の中でもっとも嫌らしい部分といえる。またそれは、小林よしのりが「ゴーマニズム宣言」でくり返し用いてきた手法でもある。極端な例をあげれば、アメリカの南北戦争を舞台に、黒人奴隷制度の正当性を掲げて南軍に入隊する若者を「高い志を抱く英雄」として描き、逆に、リンカーンをはじめとする黒人奴隷の廃止をとなえる人々を薄っぺらな偽善者、北軍の兵士たちを狂気のカルト集団として描写すれば、劇中で基本的人権や人種的平等を全否定することだってできる。この作品における宇宙開発の是非をめぐるやり取りは、それとなんらかわらない。

 

 で、宇宙開発についてなんの検証もないまま、主人公くんは木星へ行ってしまう。(あ、以下、ネタバレってやつです。この文章を読んで「プラネテス」を猛烈に見たくなったっていうチャレンジャーはあまり多くないでしょうが、念のため。)税金を湯水のようにつぎ込んで建造された最新型の高速宇宙船に乗って、一緒に宇宙船に乗り組んだ父親からは、船乗りにとって女は帰るべき港だとかなんとか昭和歌謡みたいなことを言われて、本当に世話焼き女房になってしまった新入社員ちゃんを地球に残して。この「木星へ行く」という行為は、人類が次のステップへ進むための到達点としてアーサー・C・クラークの「2001年宇宙の旅」で描かれ、以来、人類進化の象徴として様々な作品で引用されている。本作の木星行きもそうした意味合いをもたせているんだろう。その根底にあるのは、超越的な存在によって意図的に人類進化がもたらされ、人類は地球の生命進化の頂点に立っているとする生命観である。そこでは、ダーウィンの説くランダムな変異としての生命進化は否定され、生命進化と人間の歴史は進歩・発展のひとつづきの連続的な歩みと解釈される。だから、人類の宇宙進出は「生命の新たな一歩」とされる。その自己中心的な生命観は、西洋諸国による植民地支配や障害者の殺処分(施策としての死の強要は「安楽死」ではない)を「人類の進歩をもたらす」として肯定した社会ダーウィニズムと根を同じくするものである。宇宙開発の正当性について、なんら合理的理由を提示できないまま、最後に持ち出してくる拠り所がこの疑似科学の生命観だったというのは象徴的である。

 

 じゃあ、それまで劇中で描かれてきたスペースデブリの回収業務っていったいなんだったのか。もちろん、社内の落ちこぼれがやらされてる取るに足りないルーティンワークであって、主人公くんはそれを惰性で嫌々つづけてきたにすぎない。なんたって男子たるもの宇宙の彼方を目指してこそ一人前なのである。夢は星々の彼方にあるのだ。その第一歩が木星であり、木星へ行かないことには、人類(=男子)は次の段階へ進めないのである。その重要さにくらべたら、地球周回軌道上のゴミ拾いなんて文字通りゴミのような仕事であり、最低賃金のアルバイトにでもやらせておけばいい。主人公くんのような志の高い宇宙飛行士がデブリ回収屋としての生き方に疑問をいだくのは当然であり、職場でいつもふてくされていたのも仕方ないことなのである。一方、女は仕事や社会に余計な口をはさんだりせず、男の帰るべき港として家庭をしっかり守れるようになってこそ一人前なのである。じつは未来の宇宙ステーションは浪速恋しぐれの世界だったのである。そりゃわいはアホや、酒もあおるし女も泣かす、せやかてそれもこれもみんな木星へ行くためや、いまはこないなゴミ拾いで食いつないでおっても、いつかきっとわいは木星へ行ったるんや、木星やで、木星!わかってるやろ、お浜、なんやその辛気くさい顔は!酒や酒や酒買うてこい!!実際にJAXAスペースデブリの回収計画に取り組んでいる人たちは、劇中のひどい扱いに抗議の声をあげなかったんだろうか。

 

 というわけで見てる間は苛々がつのり、見終わった後はひどく後味の悪さが残る作品でした。そのもやもやした気分をここに吐き出したくなるくらいにさ。2022年の夏休みを返せ。

 

プラネテス - Wikipedia

 

女性を対象にしたクオータ制の導入

 以前つくったクオータ制をめぐる資料をもとに会話文を書き足して、女性の採用を対象にしたクオータ制の導入について、高校生向けの課題を作成した。課題は次の通り。

 

女性を対象にしたクオータ制の導入

 

 社会的に弱い立場におかれてきた人たちへの支援を「アファーマティブ・アクションポジティブ・アクション)」といいます。このアファーマティブ・アクションで、しばしば議論の的(まと)になるのは、入学試験や就職試験で採用枠の一部をあらかじめマイノリティ(社会的弱者)に割り当てる「クオータ制」です。日本では、企業や公務員の採用で女性の割合を30%以上にすることを義務づけるクオータ制の導入を求める声が女性たちを中心にあがっており、検討されています。
 あなたは、日本で、国や自治体や企業が女性を30%以上採用することを義務づけるクオータ制の導入を支持しますか。クオータ制について議論している次の会話文を読み、あなたの考えをなぜそう考えるのか理由を示しながら、述べなさい。

 

A「マイノリティ支援の中でも、クオータ制はあらかじめ社会的弱者に採用枠の一部を割り当てるというやり方だから、かなり乱暴だよね。大学入試でクオータ制を導入しているアメリカでは、入試の点数が低くても、マイノリティということで優遇(ゆうぐう)されて合格する学生も出てくる。これについては、白人の学生から、人種を基準にして黒人やヒスパニックを優遇する合格枠を設定するのは不公平だと不満の声があがっていて、過去に何度も裁判になっているよ。」

 

B「インドでも国立大学や公務員の採用で10%程度、低位カーストの人たちを優先的に採用する枠を設定しているけど、やはり、上位カーストの人たちからは、逆差別だって不満が出ているね。インドでは、このクオータ制をめぐって、不満をいだいた上位カーストの人たちによる暴動までおきているよ。」

 

C「日本では、すでに1960年代から障害のある人たちの社会参加を実現するために、国や自治体や企業は、障害のある人たちを雇用することが法律で定められているね。障害のある人たちの場合、競争原理だけでは、どうしても不利な立場におかれてしまうからね。現在では、国や自治体は2.5%以上、従業員が100人以上いる企業は2.2%以上、障害のある人たちを雇用することが義務づけられている。これも広い意味でクオータ制といえるよ。この障害のある人たちの採用枠については、きちんと守られていないケースも多いけど、おおむね日本で受け入れられているように見えるよ。」

 

D「人生のスタートラインは人それぞれ違っているからね。恵まれた家庭環境に育つ人もいれば、そうでない人もいるし、障害を持って生まれた人もいる。そうした生育環境の格差を一切補正せずに、結果の点数だけで合否を判断するのは、ジョン・ロールズも指摘しているようにフェアな社会のあり方とはいえないよ。もちろん、公正な機会均等(きかいきんとう)が完全に実現していて、格差も差別もない社会なら、クオータ制なんて必要ないけど、人間の歴史でそんな社会が実現したことなんてないからね。」

 

E「こどもの学力と親の社会的地位や収入は、比例する傾向にあるから、なんらかのマイノリティ支援がないと、名門大学の学生は裕福な家庭の子ばかりという状況になってしまうよ。実際、日本でも、すでにそういう状況になっていて、東大生の親の平均年収が1000万円を超えていることや学費の高い私立医大の場合、学生の半数以上が親も医師であることがしばしば指摘されている。こういう状況が続くと日本もしだいに階級社会になってしまうだろう。すこし前に「親ガチャ」っていう言葉が流行ったけど、どういう家庭に生まれたかによって、こどもの将来の社会的地位や職業が決まってしまうのは、けっしてフェアな社会とはいえないよ。貧困家庭に育ったこどもたちや差別される立場のこどもたちが高等教育を受けられるようにするためには、多少乱暴でも、大学入試のクオータ制は有効だと思うよ。」

 

F「クオータ制がより有効なのは、面接が重視される就職試験のケースだね。面接試験の場合、重要なのは「印象」であって、学力テストのように結果が点数化されるわけではない。だから、就職の面接で、女性やマイノリティをすべて不採用にしてしまっても、今回はたまたま男性の応募者に優秀な人材が多かっただけで差別的な意図はないと言われれば、外部の者には実態がわからないからね。」

 

G「クオータ制への批判に、純粋に能力だけで競争すべきで、マイノリティの特別枠を設けるのは、公正な能力競争を阻害(そがい)するものだという意見がある。でも、女性だからとか、移民のこどもだからとか、あるいは、親が失業中だったり離婚していたりといった理由で採用試験でふるい落としてしまう状況は、そもそもフェアな能力競争が行われていないわけだよね。クオータ制の導入は、こうした差別的なふるい落としをふせいで、それまで競争に参加させてもらえなかった人たちが同じスタートラインに立てるようにするためのものだから、けっしてフェアな競争を否定するものではないはずだよ。」

 

H「たしかに応募書類に親の勤務先や役職まで書かせる日本の慣習は、フェアな競争とはいえないね。もし、親が財務省や日銀の幹部職員なら、履歴書(りれきしょ)に記入するだけで銀行や証券会社の就職は圧倒的に有利になるだろうけど、それは実質的にコネ採用とかわらない。だから、アメリカのように、履歴書への記入は、本人の学歴と職歴だけにして、本人の業績とは関係のない、親の職業や家族構成や年齢・性別は、一切問うべきではないと思うよ。」

 

I「日本では、女性の自立を支援する団体から、企業や公務員の採用で女性を対象にしたクオータ制導入を求める声がずいぶん前から出ているね。日本の場合、いまだに女性社員を敬遠する企業があるから、採用試験で女子学生のほうが不利になりやすい。2018年に日本の多くの医学部で女子受験生の点数を減点していたことが発覚して大きな社会問題になったけど、やはりその背景には、女性医師を敬遠する医療現場の問題があった。女の医者は長時間労働を嫌がるから使い物にならない、女子の合格者を2割程度におさえてほしいっていう医療現場からの要望を受けて、女子の点数を減点していたんだよね。」

 

J「そうだね。そうした女性差別をふせぐためには、企業や公務員の採用試験であらかじめ女性を3割以上採用する枠を設けるクオータ制の導入は有効だね。この3割っていう数字は、ひとつの目安になるもので、職場に3割以上女性がいれば、女性は職場で「例外的存在」でも「少数派」でもなくなって、当たり前の存在として受け入れられるようになっていくって言われている。欧米諸国で女性を3割以上採用するクオータ制を導入している国が多いのもそのためだよ。そういう意味で、日本でも女性を3割以上雇用することを義務づけるクオータ制の導入は、職場の男女比率を半々に近づける大きな一歩になるはずだよ。」

 

K「でも、消防隊員や警察官や自衛官のような体力が求められる職種にまで、女性を3割以上採用するよう義務づけるのは無理があるんじゃないかな。それに、ヨーロッパ諸国では、国会議員についても女性議員の割合を30%以上にするクオータ制が導入されている国が多いけど、これもやりすぎだと思うよ。選挙は有権者の判断にゆだねるのが民主主義の基本だよ。」

 

L「とは言っても、日本の国会における女性議員の割合は、20%程度にとどまっていて、先進国中最低だよ。これはもちろん日本の女性の能力が低いからではなく、女性を低く見てきた日本の社会的要因によるものだよね。そもそも、日本における女性の参政権は、戦後のGHQによる民主化によってようやく実現したわけだから、問題の根は深い。いまでも年輩(ねんぱい)の男性の中には、「女に政治は無理だ」っていう発言をする人もいる。こうした社会状況を打開(だかい)するためには、女性議員を30%以上にする国政選挙のクオータ制導入も検討する価値があると思うよ。」