about box96

 世の中に人の来るこそうれしけれ とは云ふもののおまえではなし
                           内田百閒


 このブログは「クロ箱」というWebサイトの更新状況、備忘録、身辺雑記、その他です。もっぱら自分のぼんやりした考えを言葉にして整理するのに使っています。


 頻繁に更新するWebサイトではないので、原始的なHTMLの「ホームページ」で十分なんですが、更新状況や身辺雑記はブログのほうが便利そうなので、2011年分からこちらに移行しました。ぼんやりした考えやもやもやした疑問を言葉に置き換えながら、事実確認をしたり考えを整理したりしているだけなので、色々ついている便利機能のほうはまったく使っていません。仕掛けのよくわからないものに囲い込まれて少々居心地が悪いです。


クロ箱
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/

クロ箱がどんなサイトかはこちらを
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/web_map.htm

クロ箱ファッキュー
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/faq.htm

どんなやつが書いているのかわからないと気味が悪いという方はこちらを
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/murata_hiroshi.htm

ちまちまコメントなんか書いてらんねえよという方はメールで

我々はカモである 続編

 今年4月、ブロックチェーンゲームの問題とアイスランドのゲーム会社CCP Gamesが制作している「EVE Frontier」の状況についての文章を書いた。CCPは「EVE Frontier」について、あくまでブロックチェーンの「技術」を用いてゲーム内に永続的な経済活動を構築している実験的作品であり、これまでのマネーゲーム的なものとはまったく性質が異なっているため、これはブロックチェーンゲームではないと主張してきた。なんだそりゃ神学論争か。当然のことながら、その言いぶんは多くの人々の失笑を買った。「EVE Frontier」がブロックチェーンゲームであることは明らかな事実であり、ブロックチェーンゲームの収益構造を理解している者には、そうしたCCPのアナウンスも含めてこの作品を取りまく全体が仮想通貨で儲けるための布石にしか見えないからだ。「EVE Frontier」の開発資金は、a16zというWeb3関連の投機をくり返してきた巨大ベンチャーキャピタルがリード投資家となり、4000万ドルもの出資金を集めている。一般的なゲームの場合、出資者にはゲームの売り上げから利益が分配されるが、「EVE Frontier」では、出資者への見返りは仮想通貨の割り当て(トークン・ワラント)である。それは典型的なブロックチェーンゲームのスキームであり、このプロジェクトの本体がゲームの売り上げではなく、仮想通貨の売却にあることを端的に示している。資金調達の段階からマネーゲームそのものである。しかも、「EVE Frontier」の場合、これまでのブロックチェーンゲームとくらべて開発規模がケタ違いに大きい。a16zとしては、トークンで利益を出すだけでなく、「EVE Frontier」をブロックチェーンの実験場として運用し、同時に自ら出資しているSuiチェーンの優位性を示すデモンストレーションの場にすることで、Web3の主導権をにぎろうという思惑もあるようだ。

我々はカモである - box96

 
 この「EVE Frontier」をめぐって、その後、いくつか動きがあった。まず、仮想通貨EVEが「EVE Frontier」に導入され、ゲーム内の経済活動に紐付けられた。EVEトークンが仮想通貨市場に公開されるのもいよいよ秒読み段階に入ったようだ。そんな4月末、CCPの親会社である韓国のゲーム会社Pearl Abyssは、CCPの大ばくちにもうつきあいきれないと保有株式をすべて売却した。売却額は1億2000万ドルで、2018年に買収した際の約半値。完全に損切りである。Pearl Abyssとしては、自社で開発・運営する「黒い砂漠」と「紅の砂漠」が好調なので、「EVE Frontier」に巨額の開発資金をつぎ込んで6年連続営業損失を出しているCCPとは早急に手を切り、自社作品に専念したかったのだろう。とくにCCPが大ばくちに失敗してその尻拭いをさせられるのはなんとしても避けたかったはずだ。売却先はCCPの経営陣で、売却額1億2000万ドルのうち、約2000万ドルぶんはやはり仮想通貨EVEのトークン・ワラントだったという。ずいぶんと生臭い話である。まるで狐と狸の化かし合いのようだ。この株式売却の際にも、a16zからCCPへ買い戻しのための資金援助があったと見られている。Pearl Abyss側としては、ノストロモ号からの離脱を最優先させ、万が一「EVE Frontier」が一発逆転のヒット作となり、トークンが市場で高値をつけたら売却損も回収できるという目論見なのだろう。

Pearl Abyss has finally sold EVE Online studio CCP Games… to CCP Games’ own management | Massively Overpowered

 
 一方、CCP側は独立によってより自由に動けるようになり、この機に社名も「Fenris Creations」へ変更した(当分、誰も「Fenris」なんて呼ばないだろうから、この文章でも「CCP」のままにする)。しかし、親会社がいなくなったことで資金ぐりには尻に火がついている。いまごろCCPのコミュニティマネージャーは、EVEトークンの市場公開に向けて、パートナー提携しているゲーム・インフルエンサーたち(実質サクラ)に、「最先端テクノロジーによる究極の社会実験!」「CCPは本気で永続的なゲーム世界の構築に取り組んでいる!」「現実以上にリアルな世界がすぐそこにある!」「乗り遅れるな!共に未来を体験しよう!」等々の煽り文句を言ってもらえるよう、仕込みの真っ最中のはずである。インフルエンサーたちにもEVEのトークンが提供される可能性があるが、YouTubeやTwitchで仮想通貨自体を「値上がり確実」とアピールするとインサイダーによる利益誘導になってしまうので、仮想通貨には絶対に言及しないようコミュニティマネージャーからきつく言い含められていることだろう。もうすっかり、ゲーム自体よりもそれを取りまく欲望のドラマのほうがエンターテインメントである。

 

 そうした中、5月初めにGoogle DeepMindがCCPへ出資し、技術提携するという発表があった。Googleとa16zは近い関係にあるので、AI企業がWeb3関連に参入かと驚いたが、これはあくまで「EVE Online」をAIのトレーニングに利用するための出資・提携で、「EVE Frontier」の開発とは直接の接点はない。オフラインモデルの「EVE Online」を利用して、まず、サーバーに残されている過去20年ぶんの人間プレイヤーによる取り引きや行動の履歴をすべてAIに学習させ、その後、AIをプレイヤーとしてゲームに参加させる。それによって長期的な戦略や複雑な社会行動をAIに獲得させようというものらしい。「EVE Online」の場合、プレイヤーごとに行動原理が異なるゲームなので、AlphaGoの学習のように自己対局をくり返せば強くなるというわけにはいかない。そこで行動原理にあたる最適な報酬関数をAI自身に推測させ、最終的には報酬関数もAIに生成させることで、より自律性を高めようという取り組みのようだ。これはこれで人間の制御が効かなくなりそうな不安をおぼえるが、それはブロックチェーンとはまったく別の問題である。

  
 さあさあ、役者はそろった。膨大な制作費をつぎ込んだ欲望劇場がまもなく開幕だよ。登場するのは、騙すほうも騙されるほうも誰もが欲得ずくの連中ばかり。湿っぽい同情なんかいらないよ。胴元のバックにはa16zみたいな海千山千もついていてトークンの仕込みはバッチリ。でも、賭場の常連たちもブロックチェーンでは何度も痛い目にあっているから、いまさら迂闊に手を出さないよ。賭場でいったいいくらの値をつけるのか、まったくもって予測不能の大ばくちだ。この欲望渦巻くどろどろの人間模様の行方はいかに、特等席でじっくりとご覧あれ。
 
 はじめに書いたように、私は、CCPがどんなにもっともらしいことを言っていても、この事業の本体はゲーム運営ではなく、トークンの売却にあると考えている。いちおうa16zをはじめとする出資者たちは、各国の金融規制をふまえて、トークンの市場公開後、数年間は売却できないという契約をCCPと結んでいる。出資者たちが市場公開とともに売り抜けをくり返していた数年前とは多少状況が変化している。そのため、出資者たちはしばらくの間、「EVE Frontier」をブロックチェーンの技術見本市としてアピールしながら、トークンの売却制限が解除されるのを待つことになる。しかし、トークンは原価ゼロで発行でき、出資者たちにはただ同然で割り当てられるため、市場で値がついている限り利益が出せる。ロックアップやベスティングによる売り抜け規制は、多少利益率が下がった程度の問題でしかない。この先、a16zやCCPは「永続的なブロックチェーン経済の構築」をアピールしながら値をつり上げ、原価ゼロで生み出した木の葉のお金を売りさばくこうとするのだろう。

 
 ブロックチェーンは、P2Pネットワークでデータを共有し、端末同士を相互監視させることで改ざんや偽造を防止するというニッチな技術なので、汎用性のあるAI分野とは対照的に用途はきわめて限定される。いままでにブロックチェーンが生み出したものの中で社会的有意性を見いだせるのは、ステイブルコインのような金融機関の決済用トークンくらいで、他は投機性の高いカジノチップのようなものばかりだ(国債や不動産等の現実資産のトークン化(RWA)については、取り引きの利便性を高めることから、すでに多くの金融機関が利用しているが、一方で、金融商品のマネーゲームを過熱させ、再びサブプライムローンのような混乱をもたらす危険性も高いので、有意性の評価はもうしばらく様子を見る必要があると思う)。また、P2Pのチェーンは水道事業のような公共インフラとは異なり、採算が合わなければすぐに消滅する。これまでにも無数のブロックチェーンが生まれては消えていった。数年前のWeb3バブルの際には、放送局までもNFT事業に参入し、さかんにテレビやラジオでNFTデジタルアートの資産価値をアピールしていたが、やはりその後、採算が合わずに価値の裏付けとなる分散台帳がP2Pチェーンごと消滅してしまった。その背後にいるWeb3の山師たちがたびたび口にしてきた「価値の永続性」「半永久的な保存」という謳い文句はまやかしでしかない。NFTのデジタル証明書にしても、P2Pのチェーンが不採算で消滅した途端に裏付けを失うため、けっして永続的な価値が保証されているわけではない。ブロックチェーンは法規制を厳重にかけるとともに持続可能なインフラを確保しない限り、きまってトークンやNFTを売り逃げする無法地帯のカジノのような状態になる。それにもかかわらず、いまだにカジノチップのようなトークンの仕込みに巨額の投資資金が集まることが不思議でならない。みなさんそんなにばくちが好きなんでしょうか。
 
 ブロックチェーンの場合、一般的なゲームサーバーと比べて、維持・管理コストが極端に高く、データアクセスの速度は遅い。楽しいゲームをつくって多くの参加者を募りたいというだけなら、わざわざブロックチェーンで構築するメリットはまったくない。それでもあえてブロックチェーンを用いるのは、ゲームと連動させてトークンの需要をつくるためであり、必然的に事業の本体はゲーム運営ではなく、トークンの売り抜けになる。「EVE Frontier」においても、トークンのマネーゲームや技術的ショーケースとして運用するのではなく、この技術を用いてゲームの新たな可能性を提示できるとは考えにくい。たしかにEVEには長年の熱狂的なプレイヤー・コミュニティが形成されているが、彼らの忠誠心はあくまで本家の「EVE Online」へ向けられており、派生作品ではない。とりわけこのブロックチェーンゲームには強い警戒心を抱いている。いままでにCCPがEVEの派生作品の失敗をくり返し、その度に早期撤退してきたことを考慮すると、「EVE Frontier」が永続的なブロックチェーン経済の構築に成功し、出資者たちが割り当てられたトークンを売りさばいた後も「永続的に」サービスを継続する可能性は限りなく低い。

SoW Plz

 EverQuestの長く単調なキャンプについてはしばしば批判されてきた。この場合の「キャンプ」はテントを担いで野山へくり出すことではなく、ダンジョンの特定の場所に陣取ってえんえんとモンスターハンティングをくり返しながら、経験値を稼いだり装備を集めたりするほうをいう。それをまたやりたいかと聞かれたら辞退するが、当時はそれほど苦痛には感じなかった。ゲーム半分チャット半分という感じで、即席で集まったプレイヤーたちとゆるいキャンプをしながら他愛のない世間話に興じた。沖縄に駐留しているというネイビーから沖縄の女の子の口説き方についてアドバイスを求められたり(知らねえよ、とりあえず安室奈美恵でもカラオケで歌ってみようか)、プエルトリコのプレイヤーからリッキー・マーティンがいかに素晴らしいエンターテイナーであるかを彼のキャラクターのダンスパフォーマンスとともに一時間にわたって聞かされたり(よくしゃべる陽気なやつ)、日本の若いサラリーマンから終業時刻10分前に上司から大量の仕事を命じられる日本式職場慣習の愚痴を聞かされたり(かわいそうに)、フランス人の高校生が英語を上手に使いこなす様子に「英語を話さないのがフランス人のナショナル・アイデンティティではないのか」と尋ねてそりゃあ親の世代だよと爆笑されたり(たぶん私は君の親に近い世代だ)、あまりにアイテムがでないことにうんざりしてゲームマスターあてに「まるでTwilight Zone(ミステリー・ゾーン)にいる気分だ」と毒づいて「うはははははははははは」と高笑いの返信が来たり(楽しんでもらえてなにより)、そんなやり取りしながら、インターネットが本当に世界とつながっていることを実感した。まだインターネットの黎明期で、地球のどこかにいる参加者たちとのチャット自体が新鮮な社交場として機能していたからこそ、あの単調でゆったりしたゲームシステムが多くのプレイヤーから許容されていたのだろう。実社会ではまったく接点のない、文化も年齢も社会的立場も異なるプレイヤーたちがゲームチャットで世間話を交わす様子を見ながら、福生か横須賀あたりの場末のフリー雀荘で米兵の混ざった常連客たちと卓を囲んでいるような感覚をおぼえた。当時、アメリカ西海岸のコンピューター産業にはヒッピー・カルチャーの名残があり、ゲーム開発者も参加者もインターネットにヒッピーたちの夢見た「人々が国家や企業の枠組みを越えてつながる世界」という楽観的なユートピア像を多少なりとも重ねていたのだと思う。
 

 
 EverQuestで不満だったのは、キャラクターの成長が「強くなる」という縦方向の伸びだけで、「できることが増える」という横方向の広がりがほとんどないことだった。そのため、キャラクターが成長しても戦う相手が強くなるだけで、プレイヤーのやることははじめの頃とほとんど変わらなかった。私はつくり手の用意した大げさな英雄譚をなぞりたいのではなく、ゲーム世界の住人のひとりになりたかったのだ。うだつの上がらない小悪党として町の安宿に寝起きし、大家と顔を合わせる度にまともな職に就けと諭されたり(すごくいい感じ)、町外れのあばら屋に住みついたネクロマンサーとして町の住人たちから「お化け屋敷の変人」と疎んじられたりする(これも悪くない)。そんな落語の長屋噺の与太郎のような間抜けで意気地なしのひとりとして向こう側で暮らしてみたいと思っていた。それはあらかじめ設定された種族間の抗争や神々の怒りといった舞台装置に参加することではなく、自分のつくったキャラクターの足跡として紡がれていく小さな物語だ。小悪党が柄にもなく町で出会った老人の道案内をしたことをきっかけに、何に使うのかわからない奇妙な骨董品を譲られ、それが小悪党たち貧乏長屋の連中にちょっとした騒動を巻きおこしたりする。そこでは住人たちは定型文を返すだけのクエスト発生器ではなく、プレイヤーの行動に反応する自律性を備えており、ダンジョンの奥地で壊滅寸前の仲間たちを置き去りにして自分だけ逃げ帰れば、それが町中のうわさになり、住人たちから「腰抜け」と嘲られ、逆に獅子奮迅の活躍で町の危機を救えば、酒場で酔っぱらいたちがその勇敢さを讃える歌を調子っぱずれな大声で歌ったりする。そうした小さな物語がこちらの行動と住人たちの反応との相互作用によって生まれ、その積み重ねによって世界のあり方も少しずつ変化していく様子を思い描いていた。しかし残念ながらEverQuestのキャラクターに向こう側での暮らしはなく、ログインした時にだけ姿をあらわす戦闘マシーンでしかなかった。これからもより強い敵との戦いをひたすらくり返していくのだろうと先が見えた頃から、次第にゲームへの熱が冷めていった。
 

 
 サービス開始から数年後、EverQuestはすっかりレイドゲームになった。「レイド」というのは数十人規模のグループを作って巨大なドラゴンや邪悪な神々と戦うイベントのことだ。多くのプレイヤーは最大レベルに達し、あとはドラゴンや神々を倒すことで得られる豪華な装備でキャラクターを強化するしかない。キャラクターの成長が縦方向しかないEverQuestにとって、エンドゲームがレイドイベントになるのは必然的なものだったろう。レイドギルドは企業組織のような階級制の集団となり、報酬を目当てに集まったプレイヤーたちは業績評価をエクセルシートで管理されながら、リーダーの号令のもとマスゲームを繰り広げるようになった。それは最悪の遊び方だ。たしかにプレイヤーが攻略方法を思い描き、状況に応じて試行錯誤していくのは、囲碁やチェスのような古典的ボードゲームからデッキ構築型のカードゲームまで、共通の醍醐味である。多くのデジタルゲームでも、この課題解決を軸にゲームは設計されている。しかし、大人数が参加するMMORPGの場合、この遊び方は他者をマスゲームの道具へと貶める。ひとりの致命的なミスは数十人のレイド全体の失敗につながるため、参加者には攻略情報の念入りな下調べと打ち合わせ通りの行動が求められ、足を引っ張るプレイヤーにはメンバーからの容赦ない叱責が飛ぶようになった。地球のどこかにいるプレイヤーたちとチャットでゆるくつながるゲームだったEverQuestはそうして性質を大きく変えていった。やがて豪華装備を身にまとった一部のレイドギルドのメンバーたちによる、選民意識をあらわにした横暴な振る舞いが目立つようになった。強く大きな組織の一員であることが自らのアイデンティティになっていたのだろう。追加シナリオによってどこまでも縦方向に成長していくゲームシステムは、プレイヤーの幼児的万能感を満たし続けることで、ゲーム内コミュニティの価値観にも影響をおよぼしたはずだ。彼らのマチズモをむき出しにした言動は『マッドマックス』に登場するごろつきを連想させた。権威主義的性格診断(F尺度テスト)を受けさせたら、さぞや強いファシズム傾向を示したことだろう。EverQuestのトップギルドのひとつFires of Heavenのリーダーは、やがてブリザードに採用され、World of Warcraftの開発・運営チームに加わり、スター・クリエイターとしてゲームファンからもてはやされた。しかし、彼とその取りまきたちは成果さえ上げれば何をしてもゆるされると職場でも暴君のように振るまい、多くの女性社員にハラスメント行為をくり返したことから州当局の介入する事態となり、アメリカのゲーム業界を揺るがす大きなスキャンダルへと発展した。EverQuestで確立されたこのひどいMMO文化は、その後、World of Warcraftをはじめとする様々なネットゲームへ受けつがれていった。eスポーツのチーム戦でしばしば「もたもたすんじゃねえよ、馬鹿野郎!」と昭和期のガラの悪い運動部のような罵声が飛び交うのも、やはり根底には人間をマスゲームのコマにする組織構造があるはずである。それはオンラインゲームという閉じた仮想空間だけの問題ではなく、日大アメフト部の危険タックル事件をはじめとする人間をシステムの道具にする社会のあり方と地続きの関係にあるように見える。
 

 
 たしか2004年のことだったと思う。EverQuestプレイヤーの間でひとりの人物が話題になった。「SoW Plz Guy」と呼ばれるプレイヤーで、自分のクルマのナンバープレートを「SoW Plz(SoWくれ)」にしたという。「SoW」は、「Spirit of Wolf」という移動速度を速める呪文の略称のことだ。EverQuestでもっともよく知られた呪文で、移動手段の限られていた初期の頃には、しばしば挨拶がわりのように「Hi, SoW Plz(ようSoWくれ)」のやり取りがくり返されていた。この「SoW Plz Guy」のエピソードはいくつかのゲームメディアでも取りあげられ、PC Gamer誌には、写真入りで彼の紹介記事が掲載された。そこには「SoW Plz」のナンバープレートのついたドアのとれそうなおんぼろのピックアップトラックが写っていた。そりゃあSoWが欲しくなるね。腹を抱えて笑った。オーナーの中年男性も愛車のSoW Plz号のとなりで笑っていた。ときどき、写真の中で照れくさそうに笑っていた彼のことを思い浮かべる。私もあんなふうに向こう側の世界とつきあえたらと思う。あのSoW Plz Guy氏は、20年以上たったいまも私のヒーローである。
 

我々はカモである

 「EVE Frontier」は、アイスランドのゲーム会社CCP Gamesが開発・運営するブロックチェーンMMORPG(大規模な多人数同時参加型のRPG)だ。RPGといっても中世ヨーロッパ風のファンタジー世界を舞台にしたものではなく、宇宙を舞台にプレイヤーは巨大な宇宙船を操作することになる。すでに「EVE Online」という宇宙を舞台にしたMMORPGが2003年からサービスが行われており、「EVE Frontier」は、EVEの世界にブロックチェーンの仮想通貨を盛り込んだ派生作品ということになる。元々CCPは本家の「EVE Online」のほうにブロックチェーンを導入したかったようだが、プレイヤーコミュニティからの猛烈な反発を受けて断念し、別作品としてこのブロックチェーンゲームの開発をスタートさせた経緯がある。2022年12月からクローズド・テストが始まり、現在は「サイクル5」のテスト段階にある。長期テストがくり返されてきたことによって多くのコンテンツが実装されており、公式Webサイトからテスト参加を申請し、承認されれば、10日ほど無料で遊べる状況になっている(10日以降は有料、料金設定は39.99ドルから99.99ドル(約6,400円から約16,000円)とテスト段階にもかかわらず驚くほど高い。すでにしぼり取る気満々という感じ)。

EVE Frontier

 

   
 ん、ブロックチェーンってなに。ブロックチェーンをネットゲームに導入するってどういうこと。そんなのいままでにあったの。はい、あります。すでにいくつもあります。その中には、「The Sandbox」のSANDや「Axie Infinity」のAXSのように日本の仮想通貨取引所に上場されている仮想通貨もあります。一方で、短期間で運営が破綻し、運営側が逃げ出したケースも多く、社会問題にもなってます。
 
 まず、ブロックチェーンというのは、P2Pでネットワーク化したコンピューターにデータの複製を多数保存し、端末同士を相互監視させるしくみのことだ。それによってなにかの理由でいくつかの端末が失われてもネットワーク全体としてデータが維持され、また、いくつかの端末のデータが不正に書き換えられても他の多数の端末との照合によってその改ざんは無効化される。こうしたデータの改ざんや偽造がきわめて困難なしくみを基盤にして、発行・送金を可能にしたデジタル資産のことを「仮想通貨(暗号資産)」という。仮想通貨は、ブロックチェーン上の分散型台帳にすべての取引履歴が記録されることで、その流通量や所有権が管理される。

Peer-to-peer - Wikipedia

 

 じゃあ、ブロックチェーンゲームっていったいなんなのさ。はいはい、本題です。その基本的なしくみや特徴をあげると次のようになります。

 

 基本的なしくみ
1. ゲーム内の資産データは、運営サーバーではなく、P2Pネットワーク(ブロックチェーン)上の分散台帳に記録される。
2. ゲームの仮想通貨は、ビットコインのようなマイニングによって生み出される分散型ではなく、多くの場合、運営側が中央銀行となって発行量をコントロールする。
3. ゲームの仮想通貨は、それがないとまともに遊べない必須アイテムとしてゲームシステムに組み込まれる。
4. ゲームに参加したプレイヤーは、ゲーム内で入手した仮想通貨を仮想通貨取引所で売却し、リアルマネーが得られる。
5. 「遊んで稼げる(Play to Earn=P2E)」を謳い文句に参加者を募る。
6. 運営は、自ら発行した仮想通貨を仮想通貨取引所で売却し、利益を得る。
 

 しばしばゲームでおきること
7. プレイヤーにとって、ゲームが仮想通貨を得るための手段となる。
8. ゲーム体験は未知の世界の「冒険」ではなく、マネーゲームになる。
9. プレイヤー間のコミュニケーションは損得づくのぎすぎすした関係になる。
10. 仮想通貨目当てのBOT業者の参入がそれに拍車をかける。
11. MassivelyOPの編集長ブリー・ロイス氏がこんなのゲームじゃないと怒る。

Massively Overpowered | MMORPG news and opinions

12. ブロックチェーンゲームがMMORPGの場合、資金力のある大手ギルドが稼ぎのいい場所と手段を独占するようになる。
13. ギルドは利潤を追求する企業的組織となり、メンバーにはノルマが課せられる。

14. ギルド間の抗争はマフィアの縄張り争いそっくりになる。
 
 さらに……
15. マネーゲームにうんざりしたプレイヤーがゲームから去って行く。
16. 参加者の減少によって仮想通貨の市場価値が下がる。
17. 「投資」になると思ってたくさんの時間とリアルマネーをつぎ込んだプレイヤーと高値で仮想通貨をつかまされた投資家が詐欺だと騒ぐ。
18. 運営はゲームサービスを放棄し、逃げ出す。
19. ゲームが失敗したにもかかわらず、すでに運営は仮想通貨をプレイヤーの多かった時期に市場で高値で売り抜けており、大きな利益を得る。
 
 ほとんど詐欺じゃないかって、うーん、ゲーム運営という実体があるぶん、「サナエトークン」のように話題性だけで価格をつり上げていきなり発行者が売り逃げするよりはマシではあるけれど、「仮想通貨」という無から生み出した木の葉のお金のようなものに価値を付与して儲けようとする投機ビジネスであることには変わりない。逆に、「World of Warcraft」のWoWトークンや「EverQuest」のKronoのように、すでに多くのMMORPGには課金通貨が導入されているじゃないか、いまさらなにを騒いでるんだと思う人もいるかもしれない。たしかにゲーム内の役割はどちらも専用アイテムを手に入れたりオークションでゲーム通貨に交換したりと一見あまり変わらないように見える。しかし、仮想通貨は、ゲーム外の仮想通貨取引所で換金できる点で既存の課金通貨とは根本的に異なる。そのため、課金通貨がゲームの利便性を少し高めたり他のプレイヤーより少し優位に立てたりするだけのオプションなのに対し、ブロックチェーンゲームでは、仮想通貨がないとまともに遊べない必須アイテムとして強固にゲームシステムに組み込まれる。しかも運営は仮想通貨を自ら発行できるので、市場で高値がつけられている限り、打ち出の小槌のように富を生み出せる。つまり、ブロックチェーンゲームの場合、仮想通貨を市場で高値で売り抜けることがビジネスの本体であり、ゲーム運営はその仮想通貨の値をつり上げるためのプロモーションにすぎない。ゲーム自体が失敗し、短期間でサービスを放棄したにもかかわらず、しばしば運営が大きな利益を得ているのは、この収益構造に由来する。

 

 近年、仮想通貨の投資家グループが安く売りに出されている古いゲームやサービスの終了したゲームの権利を買収するケースが増えている。既存のゲームをブロックチェーンで再構築し、ゲーム経済に仮想通貨を紐付ければ、なにもないところから新たにつくるより開発コストは大幅に抑えられる。彼らにとって、ゲームは仮想通貨の市場価値を高めてくれさえすればいいので、ゲーム自体へのこだわりはまったくない。懐かしいゲームがリニューアルされるというので楽しみにしていたら、ブロックチェーンゲームになっていてがっかりなんてことがすでにおきている。

 

 仮想通貨の導入によって、ゲーム内でもマネーゲームが進行する。2021年、「Axie Infinity」をめぐって、投資家グループが「奨学金」と称してゲームのNFT購入費用の一部を肩代わりすることで大勢のフィリピン人の若者たちをゲームに参加させ、ゲームプレイのノルマを課すとともにそこで得た仮想通貨を上納させた。仮想通貨が高値をつけているうちは参加した若者たちもそれなりの収入を得られたが、2021年末から急落し、初期投資の回収すらできない状況に陥っている。この組織的な搾取の構造は、地主と小作人の関係に例えられ、「デジタル小作農」と呼ばれている。

 

AXS/USドルの価格推移のグラフ 2021年後半に約300倍に急騰したが、2021年末
から2022年にかけて暴落、その後低迷を続けており、現在はほとんど価値がない。

 ブロックチェーンゲームの中にも5年以上長期運営されているものもあるが、マネーゲーム化によってプレイヤーコミュニティが殺伐としたものになる傾向はどれも共通している。楽しいから長年続けているというより、ゲーム内でたくわえた仮想通貨の下落傾向が止まらず、やめるにやめられないというほうが一般的ではないだろうか。こうした事例がくり返されたことから、Steamでは、ブロックチェーンゲームをリスクが高すぎるとして2021年10月から販売を停止した。ブロックチェーンの技術的リスクではなく、それが不可避的にもたらすゲーム内外のマネーゲームのほう問題視したようだ。少なくとも既存のMMOにこうしたマネーゲームを持ち込むのは、「EVE Online」へのブロックチェーンの導入にプレイヤーコミュニティが猛烈に反発したように、それまでそのゲームを楽しんできたプレイヤーへの裏切り行為といえるだろう。MassivelyOPは、ブロックチェーンゲームについて、これはそもそもゲームですらなく、仮想通貨をもちいた投機詐欺にすぎないと批判をくり返している。

 

Steamではブロックチェーン採用ゲーム禁止 - ITmedia NEWS

MassivelyOP’s 2024 Awards: Worst MMO Business Model

Perfect Ten: MMOs that have fallen to the dark side of cryptocurrency

Lawful Neutral: How is an NFT MMO even supposed to work?

ゲーマーはなぜNFTが嫌いなのか? - IGN Japan

 

  
 では、現在、「EVE Frontier」はどういう状況なのか。1~6はブロックチェーンゲームの基本構造なので、「EVE Frontier」もこのしくみで設計されている。ただし、まだテスト段階であり、3~6については、ゲームの仮想通貨「EVEトークン」がゲーム経済に組み込まれてからということになる。いまのところCCPは「遊んで稼げる」のアピールには慎重な姿勢を取っているが、ゲーム世界そのものが魅力的でマネーゲームの要素がいらないのなら「EVE Online」をやればいいので、仮想通貨が導入されれば必然的にゲームプレイはそれを得るための手段になるだろう。ゲーム内の状況については、私は参加していないのであくまで伝聞にすぎないが、7~14の傾向はすでにテスト段階からはじまっており、Redditでは「まるでブロックチェーンの社会実験をやらされているようだ」という声があがっている。本家の「EVE Online」と同様に、プレイヤー同士の詐欺や裏切り、大手ギルドの資源独占が許容されている弱肉強食のマッドマックス的な世界なので、元々プレイヤーコミュニティは殺伐としたものになりやすい。そこへブロックチェーン経済が組み込まれれば、より7~14の傾向は加速する。ただ一方で、20年以上の運営実績のある「EVE Online」の派生作品ということから、この「EVE Frontier」を熱心に支持しているプレイヤーも一定数いる。また、CCPではアイスランドの中央銀行に勤めていたエコノミストを雇用し、ゲーム内の経済活動を慎重にモニタリングしているとアピールしている。すでにテストプレイに3年以上費やしてきたことを考慮すると、その仮想通貨を早々に市場で売り逃げして開発・運営を放棄するようなことはさすがにないと思うかもしれない。しかし、「EVE Online」のブランド力があるから安心というのは楽観的すぎる。むしろ、CCPはEVEの派生作品の失敗をくり返してきた
 
・DUST 514 (2013年〜2016年) 3年で終了
・EVE: Valkyrie (2016年〜2022年) 6年で終了
・EVE Gunjack シリーズ (2015年~) アーケード向けに2作つくられたが撤退
・Project Nova / Project Legion 開発の発表だけされてお蔵入り

 
 死屍累々である。うまくいったのが「EVE Online」だけといったほうが正確だ。とくにブロックチェーンゲームの場合、ビジネスの本体は仮想通貨を高値で売り抜けることにあり、ゲーム運営は仮想通貨の値をつり上げるためのプロモーションにすぎない。その点では「サナエトークン」と本質的にはなんら変わらない。これまでのブロックチェーンゲームのケースにおいても、多くの場合、運営企業は仮想通貨を高値で売り抜けて利益を得ており、ゲーム自体がうまくいくかどうかはたいした問題ではない。ブロックチェーンゲームの場合、運営企業がゲーム世界の中央銀行を兼ねた絶対的な胴元となり、同時にゲームの外側ではプレイヤーとして仮想通貨市場という賭場に参加する。この運営側が一切リスクを負わない二重構造がそもそも茶番である。「EVE Frontier」の場合も、EVEトークンの高値での売り抜けをこのプロジェクトのゴールと解釈すると、EVEシリーズという看板もテストプレイに3年以上かけてゲーム経済を慎重にモニタリングしているという実績もすべてEVEトークンの期待値を高めるためのプロモーションということになる。すでにCCPは4000万ドルという巨額の開発資金を調達している。投資家はゲームの面白さにはまったく興味を示さないが、「Web3」や「NFT」といった新たな社会変革を連想させるテクノロジーには驚くほど財布の紐がゆるい。あとは出資者に損をさせないよう、EVEトークンをゲーム内に導入して市場に売りにだすタイミングをはかるだけだ。もちろんCCPはゲームの持続性をアピールしており、ゲーム世界を構築しているエンジニアたちも本気でブロックチェーン経済が回り続けることを夢見ているのかもしれないが、これまでブロックチェーンゲームがくり返してきたことを思うと「元アイスランド中央銀行のエコノミストを雇用」や「最新技術Suiの導入による持続性」という謳い文句もすべてプロモーションの一環に見えてくる。そうして「なんかすごそう」とゲームの新規客が増えているうちは、EVEトークンの価値も上がり続ける。しかし、その殺伐とした弱肉強食の世界から多くのプレイヤーが去った後、残された常連客たちがつぶれそうなカジノを支え続けるような状況が長続きするとは思えない。だって、いい場所を大手ギルドがすべて押さえて、新規プレイヤーから身ぐるみはぐような状況になってしまったら、わざわざ自分から山賊の巣に飛び込んで毟られに来るような酔狂な客はもういないよ。その頃にはCCPも出資者もとっくにEVEトークンを市場で売却して利益を確定させており、そろそろ大宇宙を舞台にしたブロックチェーンの社会実験も店じまいの頃合いだ。本来、カジノ商売は手厚くカモをもてなして気分良く散財してもらい、カモにカモだと気づかせないからこそ、胴元も常連客も食っていけるのである。

 

【今後の「EVE Frontier」の個人的予測】

*同時接続数が公開されていないため、これまでの動向と他のBCGからの推論

・今後も正式公開しないまま長期テストを継続し、しぼり取る……50%

・正式版スタートから5年未満でサービス終了……30%

・5年以上10年未満でサービス終了……19%

・10年以上のサービス継続によって長く愛されるゲームになる……1%

 

【その理由】

 仮想通貨「EVEトークン」の高値での売り抜けをこのプロジェクトのゴールとした場合、正式版を公開するよりも、このまま有料のテストサイクルをくり返したほうがさらなる革新的な技術導入があるかもしれないという期待をもたせ、仮想通貨の市場価値を維持しやすいから。その間に開発側や出資者は仮想通貨を売り抜ければ、資金回収は可能であり、むしろ市場価値が尻つぼみになりやすい正式サービス開始よりも都合がいい。仮想通貨の市場価値さえ維持されていれば、開発側はさらなる追加発行によって利益を積み上げられる。ブロックチェーンゲームの場合、ゲーム運営は事業の本体ではないため、正式版の公開は必須事項ではない。さあ、あなたはこの最新のブロックチェーンで構築された壮大な社会実験に参加してみますか。私は毟られるのも片棒をかつがされるのもまっぴらだけど、ともかくいまならキャンペーンで入場料金は19.99ドルだそうです。

 

www.youtube.com

トランプのこの一年

  第二期トランプ政権の悪い冗談のようなこの一年を簡単に振り返ってみる。まるでP・K・ディックの『高い城の男』の世界にいるような気がする。
 
・関税の引き上げを外交的武器として用い、世界経済に混乱と停滞をもたらした。
・アメリカ国内では関税の大幅引き上げによって急激な物価上昇をもたらした。
・自らの関税政策が議会の承認を得ていないことを連邦最高裁から違憲と判断され、「恥ずべき判断」と判事を非難した。
・イスラエルのガザ攻撃を全面的に支持し、学生たちがガザの虐殺に抗議するデモを行った大学へ補助金を停止した。
・ウクライナ侵略を続けるロシアに融和的な外交姿勢を示した。
・侵略されたウクライナには、ロシアへ譲歩するよう要求した。
・カナダにアメリカの51番目の州になるよう要求した。
・グリーンランドをアメリカ領にするため、武力行使を示唆する発言を繰り返した。
・不法移民の取り締まりを徹底するため、ICE(移民・税関捜査局)に大きな権限を与えた。
・移民摘発のノルマを課せられたICEの強硬な摘発によって無関係な市民が複数殺害された。
・H-1Bビザ(専門職のビザ)の発行手数料をひとり10万ドル(約1500万円)に引き上げた。
・ホワイトハウスの執務室を金ぴかに飾り立てた。
・国連総会の演説において、気候変動を「世界史上最大の詐欺」と批判し、世界の真実を理解しているのは自分だけと主張した。
・自分こそがノーベル平和賞にふさわしいとアピールをくり返した。
・ノルウェーのストーレ首相に書簡を送り、なぜ自分にノーベル平和賞を与えないのかと詰問した。
・ノルウェー首相への書簡で、ノーベル平和賞を受賞できなかった以上、もはや純粋に平和を考える義務を感じないと述べた。
・同盟国に軍事費をGDP5%まで引き上げるよう要求した。
・トランプに批判的な州に治安維持の名目で州兵を派遣し、反トランプ・デモの軍事的制圧を示唆した。
・殺害された極右(Radical Right)アジテーターのチャーリー・カーク氏を「英雄的殉教者」と讃え、大統領自由勲章を授与した。
・トランプに批判的だった映画監督ロブ・ライナーの死去を「トランプ錯乱症候群で死んだ」とジョークのネタにした。
・トランプのロシア疑惑を捜査したモラー元FBI長官の死去を「彼が死んでうれしい」とコメントした。
・アメリカ公共放送のNPRとPBSをリベラル偏向と批判し、補助金を停止した。
・パランティアのビッグデータを活用し、トランプ政権に批判的な市民のプロファイリングと監視をはじめた。
・AIの軍事利用や市民監視に非協力的なアンソロピックを「左翼の狂信者」と批判し、連邦政府内で同社のクロード(Claude)の使用を禁止した。
・ベネズエラに特殊部隊を送り込み、マドゥロ大統領を拉致し、刑務所に収監した。
・キューバへの燃料供給を封鎖し、大規模な停電をもたらした。
・国連安保理の承認を得ないままイランへの軍事攻撃を始めた。
・ミサイル攻撃によってイラン最高指導者ハメネイ師を殺害した。
・イラン攻撃によって中東からの石油供給が止まったことについて、各国は自分で何とかしろと演説した。
 

アタマがいいってなに

 あいつ、すっげえアタマがいいからさあと高校生が言う。

 
「えっ、アタマがいいってどういう意味かな」
「そりゃあ偏差値が高いってことだよ」
「それは受験勉強に適応した人がアタマがいいってことになるのかな」
「うーん、でも、テレビの芸人みたいにとっさに気の利いたことが言えるのもアタマがいいことになるのかなあ」
「とすると卓球選手みたいに、球の軌道を瞬時に予測してすばやく打ち返せる人は、ものすごくアタマのいい人ということになるのかな」
「それはちがう気がする」
「どうして」
「だって、それは経験とカンでやってることだから」
「経験とカンは記憶力と判断力がないと身につかないよ」
「うーん、でも、カエルやカマキリだって飛んでる虫を空中キャッチするし」
「じゃあ、カエルやカマキリもすごくアタマがいいことになるんじゃないかな」
「でも、カエルやカマキリは考えてやってるわけじゃないから」
「意識的に考えなくても虫の軌道を瞬時に予測できるのはすごい能力だよ」
「すごいけどアタマがいいとはちょっとちがう」
「じゃあ、複雑なことをひとつひとつ検証してすじみちだてて判断できることをアタマがいいというのかな」
「たぶんそう」
「とすると入試問題の場合、多くが正解暗記型だから、自分でいろいろ調べてそこからじっくり考えて検証する能力はあまり偏差値には反映されないよ」
「うーん、よくわかんない」
「よくわからないことでアタマのいいわるいを決めてしまうのはまずくないかな」
「でも、そんなこといったらなにも言えなくなるよ」
「それは自分で検証して判断するのをはじめから放棄していることになるよ」
「あーもうおれ、アタマわるいからいいよ」
「なにがアタマがいいのかわからないのにアタマがわるいはわかるの」
「あーもう性格わりいなあ」
「性格が……」
「それもういいから」

ワレワレハ……

 若者言葉がしばしば言葉の乱れとして批判されるのに対し、政府や企業の用いる世論操作の言葉については驚くほど寛容である。若者言葉は仲間との内輪言葉にすぎないが、政府や企業の造語の場合、はじめからイメージ操作を目的に意図的に意味をずらした用語を社会に流通させようとするものなので、こちらのほうがずっとたちが悪いはずである。国連のPKO(Peacekeeping Operations)は直訳すると「平和維持の軍事作戦」だし、警察が町中に設置しているカメラは犯罪を未然に防ぐためのものではないのだから、実態はあくまで「監視カメラ」である。コンクリートの集合住宅を「マンション(豪邸)」と呼ぶには最低でもプールが3つ以上ほしいところだし、「タワマン」に至ってはバベルの塔を連想させる。タワー(Tower)は居住用の建築物ではないはずである。
 
 アイドルグループが振り付けに合わせて一斉に同じ動きをするパフォーマンスは、マスゲームである。あれをダンスと呼んではいけないと思う。
 
 オタク女子が一人称に用いる「我々」は、UFOから降りてきた人々の「ワレワレハ……」という集合意識を連想させる。きっと彼女たちも母星にいる同胞と精神空間を同期させているはずである。あの一人称「我々」は近年最大のヒット作だ。ネットで見かける度に吹き出しそうになる。
 
 「源ちゃん」なるネトウヨ氏から苦情のメールが来た。見知らぬ人をちゃんづけで呼ぶのも気が引けるので宛名を「源さん」として返信したところ、「勝手に人の名前を変えんじゃねえよ!源ちゃんさんと呼ぶのが礼儀だろ!」と抗議のメールが来た。源ちゃんさんねえ、自分にちゃんづけする人間から礼儀を聞かされるとは思いもしなかった。爆笑する。
 
 「対等な人間関係などあり得ません。人間には、支配する者と服従する者との二種類しかいないのです」と書いているブログに出くわした。なにこいつ、怖えェ。自分を服従する側だと思っていたらこんなことを言うわけがないので、支配者として生まれてきた特別な人間だと思っているのだろう。プロフィールを見たら、IT社長だった。社員のみなさん、お気の毒です。
 
 オンラインゲームで、高校生だという日本人プレイヤーから「なあ、あんた、タメ口でいいぜ」と言われた。あーりーがーたーきーしーあーわーせー。
 
 AIともっとも相性の良いスポーツは間違いなくモータースポーツだろう。もともと競技にテクノロジーが大きく介在するため、モータースポーツは新技術の実験の場であり、技術的デモンストレーションの場でもあった。すでにレーシングカーのコンピューター制御は大きくすすんでおり、まもなく人間が運転するよりもすべてAIに制御させたほうが速いということになるだろう。無人のロボットカーがサーキットをぐるぐる周回する様子にエンジニアとプログラマーは大興奮かもしれないが、はたして観客はそれを受け入れるのだろうか。
 
 企業名や団体名に「様」や「さん」をつける発言を聞く度に、人間とはシステムの奴隷であると宣言しているように感じる。もうやめませんか、あれ。
 
 江戸時代の侍といってもピンからキリまでいる。一千石の跡取り息子が17歳で城に見習い出仕した際、指南役の百石取りのベテランとのやり取りは、「吉田、今日は冷える」「はっ若殿、左様にございます」という関係性になるのだろう。若殿はあまり下手に出ると一千石の体面を損ねるし、かといってあまり横柄にふるまうと悪評を買う。吉田も一千石の若殿におもねるようでは周囲のあざけりを受けるし、かといって若殿の体面も立てねば上役から咎められる。ふたりは体面と序列による役割を演じ続けることになる。心理カウンセラーが常駐してほしい職場である。
 
 フローベールの『紋切型辞典』は19世紀フランスのブルジョアジーたちが交わしている型にはまった空虚なやり取りを収集・編纂したものだ。「百科全書」のパロディの体裁をとりつつパターン化されたやり取りを再生産する人たちを皮肉っており、作者自身の気の利いた言い回しをまとめた名言集ではない。現代の日本に置き換えると、無理矢理参加させられたゆるい合コンで、「犬派か猫派か」や「つぶあん派かこしあん派か」といった定型化されたやり取りがくり返される様子にうんざりしながら、フローベールがその言葉を書き留めたものということになる。あるいは参加した映画サークルで、メンバーたちが小津安二郎を「小津はさあー」と妙になれなれしく語り、エド・ウッドを鼻で笑って小馬鹿にする様子にその場から逃げ出したくなりつつ、彼らのスノッブな物言いを書き留めたものでもある。なので、暗い目で笑っているフローベールを思い浮かべながら、その言葉とメタ的につきあうのがふさわしいだろう。フローベールは手垢のついた定型表現や自らの作為性を排除し、自らの文体に完璧な韻律と視点の客観性との調和を求めた。それは「唯一の正しい語(le mot juste)」の追求であり、その苦行のような推敲によって、細密画のような緻密な描写手法を確立した。しかし、どれほど慎重に推敲を重ねたとしても、言葉というシステムの囚人であることでは、型にはまった言い回しを無自覚になぞっている人たちと変わらない。言語という既存の知的体系の中にいる限り、どうあがいても言葉に喋らされている状態からは逃れられない。そういう意味では、『紋切型辞典』の居心地の悪い笑いの先にいるのは、読者自身でもあり、フローベール自身でもある。
 
 エジソンがいまだに日本で「発明王」なのは、たんに日米間の情報格差のせいではなく、滅私奉公の昭和文化によって傲慢な実業家としての側面が選択的に排除されたからだろう。寝食を忘れて開発に没頭する情熱的な発明家である一方、自らが運営するメンロパーク研究所の成果をエジソン個人のものとして特許登録し、あたかもすべて独力で成し遂げた偉業であるかのように宣伝した。低賃金で酷使されたあげく研究成果をすべて取りあげられた関係者たちの証言は大量に残されており、その傲慢な人物像は2017年に『エジソンズ・ゲーム』という映画にもなっている。
 
 「寝落ち」は元々オンラインゲームの用語だ。ゲーム中に居眠りしてしまい、キャラクター操作がなくなり、そのままゲーム世界からドロップアウトしてしまうことをいう。2000年代初め頃、日本人プレイヤーたちがこの言葉を使っているのを聞いて、うまいことをいうと感心した覚えがある。先日、テレビドラマの中で若い女性が「寝落ちしちゃった」といっていた。めずらしくゲーム用語が日本語として定着したようだ。でも、彼女はゲームやチャットをしていたわけではなく、ただソファーで居眠りしただけである。それ「寝ちゃった」じゃダメなの。
 
 高市早苗首相は、同性婚や選択的夫婦別姓に反対しており、明治の「伝統的」家父長制への回帰をとなえている。さらに基本的人権の普遍性についても否定的な立場をとっている。しかし、言うまでもなく、明治の女性に参政権はなく、彼女自身が戦後民主主義の人権保障や男女平等の恩恵をもっとも享受していることになる。もし彼女の政治思想に共鳴する人たちから「女の分際で政治に口をはさむな」と言われたら、高市首相はなんと答えるのだろう。
 
 数日前、日本の「サブカル」が雑誌「宝島」をハブにした「宝島文化圏」であり、本来の「サブカルチャー(Subculture)」とはまったく性質が異なっていたという文章を書いた。でも、よく考えたら、日本の「サブカル」がもうとっくに失われた1980年代から1990年代にかけての雑誌文化だと気づいて、いまさらその特殊性を長々と書くのもバカみたいなので結局すべて削除した。それは革マル派と中核派のちがいをいまさら長々と解説するのと大差ない。そもそも「サブカル」という言葉自体がもう死語になりつつある。

 
 上野千鶴子の東大入学式での祝辞がいまだに批判されるのは、学歴エリートの自尊心を損ねたからだろう。しかし、学歴社会が一見フェアな競争のふりをした社会階層の再生産にすぎないことは、もう半世紀も前からピエール・ブルデューらによって指摘されており、もはや常識のはずである。
 
 「パンタロン」「ベルボトム」「フレア」はどれも裾の広がったジーンズのことをいう。ずっと同じ品だけを扱っているのに店舗の改装ばかりしている商店を連想する。
 
 もし1000年後もまだ人間の文明が残っているとしたら、運動効率の良い自転車が走っているような未来だと思う。それは人間がペダルを漕がねばならないが、現在の自転車よりもずっと軽い力で遠くまで行けるような乗り物だ。空飛ぶ車が飛び交っている未来や超越的知性のAIが総電力の半分を消費する未来に持続性があるとは思えない。超越的知性より、いまよりも少しだけ思考深度の深いAIがPC程度の規模で実現すると世間話の相手にちょうどよさそうに思うが、あまり儲かりそうにないせいか、いまのところ開発側は興味がなさそうである。
 
 『風の谷のナウシカ』のラストで主人公は墓所の主へ言う。「私達は血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!!」。毎夏、ウスバキトンボの渡りを見かける度にあの場面のことを思い浮かべる。

邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん

 先日、マンガの登場人物とアニメ化された際の演者とを一体のものと見なすアニメファンの文化についての文章を書いた後、このマンガのことを思い浮かべた。

マンガのドラえもんは誰の声でも喋っていない - box96

 

comic-ogyaaa.com

 

 主人公は、ちょっとへんな日本映画が大好きという風変わりな女の子。作中で取りあげられるのは、低予算のVシネマから大作まで幅広いが、なんかちょっと引っかかるところのあるへんな作品という点で共通している。とりわけ彼女の大好物は、マンガを実写化した作品。マンガの実写化は、キャラクターを生身の俳優が演じることの違和感や原作の設定やストーリーを大きく改変することから、しばしば原作のファンからはゲテモノ扱いされる。ところが主人公の女の子は、安っぽい映像や不自然なストーリー展開、さらに制作側の懐事情やスタッフの暴走といった舞台裏まで含めて作り手の情熱が空回りしたへんな映画を愛しており、毎回、すごい熱量で作品への愛を語る。

 

 

 1980年代から1990年代にかけて、低予算でつくられた特撮・アクション・ホラー等のB級映画について語るマニアたちのサブカルチャーはけっこう大きな広がりになった。エド・ウッド作品の「史上最低映画」イベントをはじめ、つくり手の空回りぶりを観客全員で失笑しながら見る上映会が催され、「映画秘宝」では、そうしたバカ映画の特集は雑誌の看板企画のひとつになっていた。主人公の女の子がやっていることもそれとよく似ている。彼女は宍戸錠主演の実写版『ブラック・ジャック(瞳の中の訪問者)』についてはものすごくくわしい一方で、『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』については、原作マンガを読んですらいないため、実写版『進撃の巨人』のほうがあの世界のすべてだと思っていたりする。あはははは、君は1980年代で時間の止まっているおじさんかい。そうした低予算映画のサブカルチャーは、映画とのつきあいかたが高尚な芸術作品と格闘するだけではないことを示してくれたが、同時に「映画秘宝」のバカ映画特集をはじめ、B級映画マニアの基本的なスタンスは、自らの映画知識を誇示しつつ、「なんでここでこうなるんだよ」と展開の唐突さや描写のいい加減さをからかって楽しむというもので、スノッブないじりの笑いという一面もあった。友人たちとエド・ウッド作品を見ながら「なにこれ」と言いあっているぶんには他愛のない遊びにすぎないが、イベントや雑誌の特集でそれをやるのは残酷なショーに思えた。一方、主人公の女の子は「なぜかこうなるんです!」とストーリーや演出の脈略のなさを指摘するものの、けっして冷笑的に見下したりはしない。それは彼女にとって最高のエンターテインメントであり、「だから面白いんですよ!」と満面の笑顔でそのバカらしさもふくめて全肯定する。まるでB級映画の国からやってきた妖精である。マニアたちはB級映画をさんざんからかった後、「なにやってんだろ、おれたち」とその徒労感を表明し、そんなことをしている自分についても卑下しがちだが、もちろん、主人公はそんな賽の河原の石積みのような状況にも陥らない。「これは絶対に見逃せませんっ!」とブレることなく無垢な全肯定によってちょっとへんな映画への愛を語り続ける。映画を見るのって時間も集中力もいるのにねえ。知識をひけらかして相手のマウントを取ろうとすることもなく、ただキラキラした邪気のないまなざしで「自分の好き」を語る彼女の姿は、映画マニアの理想像ではないかと思う。『邦キチ! 映子さん』は、そんな主人公と周囲とのすれ違いや彼女の暴走に周囲が巻き込まれていく様子を描いたコメディ作品だ。2017年に連載が開始された当初から、一部でけっこう話題になっており、ネット上にはしばしば長文の紹介記事を見かける。私は笑いながら読んでいるだけの読者のひとりにすぎないが、おそらくそんな「語りたい人たち」には心の急所に刺さるマンガだと思う。作者は「六代目 日ペンの美子ちゃん」でお馴染み(?)の服部昇大さん。

邦画プレゼン女子高生 邦キチ! 映子さん - Wikipedia

 

 

 私はけっこう古くからマンガを読んでいるし、B級特撮やアニメもそれなりに見ていると思うが、あくまでひとりで作品と向き合っているだけで、ネット上のコミュニティやファンイベントには参加したことがない。ときどき作中の情景をぼんやり思い浮かべ、反芻することはあっても、面白かった作品についてはそれをわざわざ言葉にする必要性を感じないので、誰かと感想を語り合うようなこともない。映像表現はけっして意味と記号だけでできているわけではない。ストーリーや伏線と関係なくても、ある場面で主人公が光沢のある青いシャツを着ていたとか、ある場面で雲の色が緑のグラデーションになっていたとか、ある場面で後ろのほうに写っていた猫が太っていたとか、そうした情景も含めて映像表現のはずである。なので、イメージを言葉にすると作品の世界がかえって遠ざかっていくような気がする。言葉の網の目は細かくないため、そこからこぼれ落ちるもののほうが圧倒的に多い。そのため、私にとってあえて作品を言語化する場合は、もやもやした不満や疑問が残る際、それを整理するための手段にほぼ限定される。それは言葉という目の粗い篩(ふるい)にかけて意味と記号の骨組みだけを残し、それらをパズルのピースのように組み合わせていく作業である。結果として作り手の意図や自らの不満の理由は読み解くことができても、その作業にはイメージを切り刻んでいく暴力性をともなう。マンガ・アニメ・特撮作品の愛好家の場合、こういう語ることへ抑制的なスタンスは少数派だろうが、逆に溝口健二やイングマール・ベルイマンの作品のようにストーリーや演出意図といった骨組みだけを言語化してもまったく作品体験にはならないものもたくさんある。その場合、言葉によるイメージの解体に直面せざるを得ないので、そうした作品が好きな人たちは、むしろ作品の情景を心のなかで反芻しながらひとり向き合っているほうが多いのではないかと思う。SNSには、オタク・マニアの「語りたい人たち」の言葉が大量にあふれているのに対し、当然ながら内省的な作品とのつきあいをしている人たちの発言は極端に少ない。そのため、ネット状況だけで判断してしまうとあたかも絶滅寸前のように思ってしまうが、「作品を言葉にしたくない人たち」はネットの言葉の外側にいまもそれなりにいるはずである。

 

 

 自分がファンコミュニティのインサイダーではないことから、深夜アニメの熱心な視聴者層である若者たちも古くからのマンガ・特撮・アニメのマニアたちもどちらも「オタク」とざっくり括り、どちらも「(広い意味での)サブカルチャーの人たち」とぼんやり認識してきた。ところが、2000年代以降、両者間の分離が急速に進んでおり、2010年代以降はすっかり水と油の関係になっているという。ネットコミュニティが持つ同質性と排他性というエコーチェンバーによるものだろう。深夜アニメのファン層は、自分の興味の対象範囲を限定する縄張り意識が強く、アニメしか見ないという人も少なくない。彼らにとっては低予算の実写版映画など論外だろう。作品傾向も萌え系・異世界もの・キラキラしたイケメンと対象を限定しがちで、彼らと話をすると自分の興味の範囲外の作品については驚くほど何も知らないということが多い。深夜アニメはDVDをはじめとする作品のパッケージ販売で制作費を回収してきたため、視聴者の総数は少なくても3話で7000円のパッケージメディアを確実に購入してくれる熱心なファン層をメインターゲットにしてきた。(なので、ヤマシタトモコの『違国日記』がアニメ化され、今年1月から深夜枠で放送されていることには少し驚いている。会話の間の取り方や登場人物の仕草から微妙な心情が表現されており、ていねいにつくられていることが伝わってくるが、それまでのパッケージメディアの購入層へ向けた作品とは、あきらかに毛色が異なっている。こうした作品がアニメ化された背景として、ビジネスモデルがメディアのパッケージ販売からネット配信のライセンス料へ移行していることがあるようだ。このビジネスモデルの変化によって、今後、『ナニワ金融道』や『まんだら屋の良太』のようなそれまでのアニメオタク層からもっとも遠いところにある作品も深夜枠でアニメ化される可能性があるかもしれない。)一方、古くからのマンガ・アニメ・特撮のマニアたちは、興味の対象範囲の広さとその知識量を誇示したがる傾向があるため、ジャンル横断的に作品に接している人が多い。また、世代間のズレだけでなく、作品への接し方も異なっており、深夜アニメの熱心な視聴者層は、作品を現実から切り離された世界ととらえ、現実の社会状況から作品を読み解くような解釈を「ノイズ」として嫌う。逆に古くからのマンガ・アニメ・特撮のマニアたちは、そうした読み解きかたを好み、あらゆるフィクション作品は現実の世界を反映していると主張する。ただ、両者ともに「語りたがる人たち」という点では共通しており、どちらもネット上の発言は非常に活発である。そのため、「アニメ以外も見ろよ」という批判には「文化人きどりの老害は口出すな」と応じ、「作品は逃避先じゃねえぞ」という批判には「作品に現実を持ち込むんじゃねえよ」と応じ、互いへの応酬もさかんである。まるで全共闘のセクト間闘争のようだ。

 

 
 政治的スタンスも対照的で、深夜アニメのファン層は、2ちゃんねるコミュニティとの関連性が強いことから、ネトウヨ層との親和性が高い。この傾向は、コアなPCゲーマーが2ちゃんねるをコミュニティハブにしてきたことから、高い確率でネトウヨ層と重なっているのと共通している。一方、古くからのマンガ・アニメ・特撮のマニアたちは、カウンターカルチャーの系譜であることから、反体制のスタンスの人が多い。岡田斗司夫は、依然としてアニメファンに影響力を持っているようだが、彼が作品解説でしばしば用いる、製作サイドの内部事情から導いた自らの解釈を「これが正解」と提示する行為こそ「ノイズ」であり、「余計なお世話」に見える。「作品に浸る」というのは、作品の世界で自ら能動的に空想をめぐらせることのはずである。

 

 
 『邦キチ! 映子さん』のメイン読者は、どう見ても古くからのマンガ・特撮・アニメのマニア層だろう。作中でも、主人公の女の子が当たり前のようにゴジラの愛好家サークルに参加し、ゴジラマニアのおじさんたちの中にすっかりなじんでいる場面が出てくる。そりゃあ、あの邪念なく作品への愛を語る女の子は、マニアのおじさんから受け入れられるよ。なんせB級映画の妖精だし。一方、深夜アニメしか見ないような若者たちはあのマンガをどう受けとめるのだろう。あの主人公は自分とはまったく接点のない異文化の異邦人としか映らないのだろうか。ただ、深夜アニメのファンたちが全員、岡田斗司夫のように「アニメがすべてで何が悪い」と閉じた縄張り意識を抱いているわけではないはずだ。その中には「アニメしか見ない自分」にぼんやりとした閉塞感を感じている人もそれなりにいるのではないか。そういうアニメファン周辺にいるような人たちにも、案外、『邦キチ! 映子さん』は受け入れられるような気がする。なーんて、語りたいわけではないなんて言いつつ長々と書いてしまった。自分が「理解したい人」であることは自覚しています。

 

キャンベルスープ缶

 アンディ・ウォーホルによるお馴染みのキャンベルスープ缶のグラフィック。画像はMoMAのWebサイトからのもので、はじめに製作された32枚セットのうちの一枚である。20インチ×16インチのキャンバスにアクリル等で描かれている。1962年7月、このキャンベルスープ缶を描いた32枚の連作は、ロサンゼルスのフェラス・ギャラリーにおいて、横一列にずらっと並べて展示された。スーパーマーケットの商品棚を模した展示形態だったといわれている。観客や評論家はその様子に、これは宣伝ポスターなのかと戸惑い、人をからかっているのかと反発した。このキャンベルスープ缶のグラフィックは、大量生産され身近にあふれているつまらないものを現代人のアイコンとして提示し、鑑賞対象へと文脈を逆転させた作品として評価されている。

 

 しかし、多くの日本人にとって、このキャンベルスープ缶のラベルは、レトロアメリカンの洒落たデザインに見えてしまい、「日常にあふれているつまらないもの」といわれてもいまひとつピンと来ない。ちょうど1950年代に製造されたテールフィンのあるクラシカルなアメ車や丸っこいレトロデザインのアメリカ製冷蔵庫を描いたイラストのように、日本では洒落た輸入雑貨を描いたグラフィック作品としてはじめから鑑賞できてしまうため、かえって文脈の逆転が生じないのである。そこで日本人にも伝わるよう商品を置き換えてみた。
 


1.コニシ木工用ボンド。ひと目で木工用ボンドとわかる赤と黄色のお茶目なやつ。このボトルを見ただけで、酢酸のツンとした匂いを思い浮かべる人もいるかもしれない。でも、当たり前すぎてこのボトルを鑑賞している人はあまり多くないだろう。私も今回はじめてじっくり見た。へえ点字に対応してるんだ。これがギャラリーや美術館の展示室に32本並べられていたら、お客さんからバックヤードへ「ボンド置き忘れてますよー」なんて声かけられそう。ただし、ラベルに「G」マークをつけてグッドデザイン賞受賞をアピールしていることは、ここではむしろマイナスポイントだ。

2.マキロン。シュパッと傷にひと吹きでお馴染みの青と白のクールなやつ。多くの人が傷薬として連想するのは、この青と白のなで肩のボトルだろう。これも日常にあふれた工業製品としていい感じ。やはり今回はじめてじっくり見た。

 

3.キューピーマヨネーズ。おなじみ赤と白のすっきりしたパッケージデザイン。キューピー人形を描いたトレードマークもへんに媚びていなくていい感じ。でも、ひさしぶりに見たけれども、こんなにデザイン性が高かったっけ。「キューピーマヨネーズ」の日本語ロゴをのぞいたら、キャンベルスープ缶と同様の洒落た輸入雑貨に見えてしまうので、ちょっと「置き換え」にはならない。ネットで確認したところ、2017年にグッドデザイン賞を受賞しており、まあそうだろうなという感じ。ウォーホルがキャンベルスープ缶のグラフィックを製作してからすでに半世紀以上たち、商品パッケージのデザインに対する社会的評価が確立されているので、「日常にあふれているつまらないもの」を見つけるのはかえって難しくなっているように思う。

 

4.明治ミルクチョコレート。どこにでもある150円の板チョコなのに茶色の包装紙に金文字のロゴはプレミアム感抜群。そのたたずまいは金箔を使った漆塗りの工芸品のようだ。デザインがリニューアルされて17年経ち、スーパーの商品棚にもなじんでいる。ただ、このシンプルだけどよく考えられたデザインは、何度見ても意匠のほうへ目が行ってしまうため、これも「日常にあふれたつまらないもの」とはあきらかに違っている。いかにも腕の良いデザイナーが手がけた「作品」という感じで、むしろ美術館のデザイン企画展に出品されそう。こちらもネットで確認したところ、パッケージデザインのディレクションは、明治の社内アートディレクター井田紀美子氏によるもので、井田氏は商業デザインの分野ですでに受賞歴多数。大学でもパッケージデザインの講座を受け持っているとのこと。食品のパッケージデザインはすでにアカデミックな分野になっているらしい。


 では、他に食品で置き換えられるものはないだろうか。条件は次の4つである。

・日常にあふれている大量生産品であること

・それを見たら、たいていの人は「ああ、あれ」と商品名が思い浮かぶこと

・けっして洒落たデザインではないこと

・デザイン性の高さが社会的にも評価されていないこと

 

 ボンカレー、うーんちがう。あの着物姿の松山容子を描いたお馴染みのパッケージデザインは、昭和レトロのイメージがつきすぎて、やはり文脈の逆転が生じない。実際に昭和レトロを店のテーマにしている飲食店では、しばしばボンカレーやオロナミンCのホーロー看板を展示して装飾の一部にしている。過剰に意味がつきすぎてもはや紋切り型である。では、ボンカレーゴールド、うーんこちらはパッケージデザインがたびたび変わるので、たまに買うと「ああ、いまこんなデザインなんだ」となってしまい、日常にあふれた見慣れたものにはならない。初期の赤と黄色の同心円が描かれたこれといった特徴のないパッケージのままだったら良かったのに。キッコーマンの卓上醤油瓶、ちがう。榮久庵憲司氏による機能性の高いすっきりしたデザインは、とっくに社会的評価が確立されており、工業デザイン分野での評価はすでにコカ・コーラのガラス瓶レベルだ。論外。カップヌードル、ちがう!ぜんぜんちがう!!あの「CUP NOODLE」のロゴデザインは、あきらかにアメリカンポップを意識したもので、むしろ洒落た輸入雑貨の文脈のほうを補強してしまうため、輸入品のハーシーチョコレートやオレオクッキーの二次創作かパロディに見えてしまう。ぜんぜん置き換えにならないどころか、私はカップヌードルを見るたびにロゴデザインをした大高猛氏が「どう?」とにんまり笑っている様子が浮かんでしまい、やはり「作品」にしか見えない。で、数分間考えて思い浮かんだのがこれ。
 


5.なめたけ。なで肩で足下が少しすぼまったガラス瓶、開ける際に苦労する金属キャップ、製造メーカーはたくさんあるが、ガラス瓶の形状はほぼ普遍的で、たいていの人はなめたけで思い浮かべるのはこのフォルムではないだろうか。なめたけの瓶がこの形状をしている必然性があるとも思えないが、なぜかなめたけといえばこれである。キッコーマンの卓上醤油瓶のような機能美があるわけでもなく、この瓶をデザインした工業デザイナーが誰なのかもまったくわからないが、とにかく大量に出回っている。地味な食材のわりに北海道から九州・沖縄まで流通しており、ゴミ置き場でこの形状の空き瓶を見かけたら、ラベルがなくても「ああ、なめたけが入っていたんだな」とたいていの人は気づくだろう。キャンベルスープ缶の作品評価は、作り手の顔の見えない匿名性が大量消費社会の虚無感を表すポイントなので、その点で完璧な存在である。なめたけの均質化された味付けも消費者のこだわりが入りにくい。うん、木工用ボンドやマキロン以上にいい感じ。とくになめたけ瓶の絶妙に野暮ったい感じは、コカ・コーラの瓶とちがって愛好家のコレクションには永遠にならなそうだし、グッドデザイン賞をはじめとするデザイン業界の評価とも無縁だろう。ただ、なめたけ瓶の場合、もともと虚無感が漂っているので、アンディ・ウォーホルが作品のモチーフにしても偶像化への逆転は難しそうな気がする。その虚無感はむしろ別役実の戯曲になりそう。アンディ・ウォーホルは、なぜキャンベルスープ缶をモチーフに選んだのかと聞かれ、「20年間毎日食べていたから」と本気なのかとぼけているのかよくわからないことを言っているが、私もとくに好きというわけでもないのに近頃なんとなくあのなめたけの甘辛い味を思い浮かべる。今度スーパーに行ったらついでに買ってこよう。
 
 そんなことを土曜の午前にぼんやりと思い浮かべた。異論反論、受けつけます。

 

マンガのドラえもんは誰の声でも喋っていない

 いまではもうすっかりネット上の公共インフラのような顔をしているウィキペディアだが、2000年代はじめ頃の日本版ウィキペディアはアキバ系の同人空間そのものだった。項目は、マンガ・アニメ・アイドル・パソコン関連ばかりで、アニメの声優さんやアキバ系地下アイドルやエヴァンゲリオンのメカ設定については、何万字にもおよぶ詳細な(かつ熱烈な)解説文が記載されている一方で、高峰秀子や三船敏郎のような日本映画全盛期の大スターについてはほんの数行、杉村春子や原節子に至っては項目そのものが存在しなかった。どういう人たちがあれを書いているのかは読めば一目瞭然という感じで、アキバ系の若者たちが夜中にすごい熱量でキーボードをたたきながらあの解説文を書いている様子を思い浮かべた。英語版ウィキペディアのほうは、2000年代半ばにはすでにデジタル百科事典としての体裁を整えていたことから、当時、ラジオ番組で小西克哉が英語版との落差の大きさをよく冗談のネタにしていた。
 
 2000年代終わり頃になると、日本版でもより公正で客観的な百科事典にしようという取り組みがすすみ、アキバ系同人サークルのコミュニティは、ピクシブ百科事典をはじめとするよりオタク色の強いWebサイトが受け皿になっていった。ただ、現在もその頃の名残は残っており、マンガやライトノベルがアニメ化されるときまって「登場人物」の項目に声優の名前も併記される。しかし、夏目漱石の『坊ちゃん』が中村雅俊主演で映画化されたからといって、小説の主人公が中村雅俊の姿で登場するわけではないように、マンガのドラえもんは大山のぶ代の声でも水田わさびの声でも喋っていない。「メディアミックス」を謳った作品でも、読者が思い浮かべる登場人物の声までは奪えないはずである。本来なら、アニメ化された際のキャストは別項目に記載されるべきだが、キャラクターと演者を同一視するオタク文化が持ち込まれたのだろう。現在はもう演者の名前だけを残してすべて削除されてしまったが、とくに『涼宮ハルヒ』のような作品の場合、「登場人物」の項目には、作中の出来事と境目なく「中の人」がこの場面でこうアドリブを入れたといった裏話が大量に記載されていた。もちろん、百科事典の体裁としては、思い入れ過剰な独自研究やフィクションと裏話との混同はすべて削除するのが正しい。そもそも登場人物に声優の名前を併記するのも不自然で、英語版ウィキペディアのように「アニメ版のキャスト」として別項目に分けるのが本則だろう。だって、小説の登場人物は、読者がその声や語り口を想像するものであって、杉田智和や平野綾が喋っているのではないのだから。ただその一方で、あの膨大な量のファン考察のテキストは、2000年代のアキバ系同人空間の熱狂を伝える記録でもある。ただ削除するのではなく、別項目として残しておけば良かったのにという気もする。あの作品については、作品自体よりもファンの熱量のほうが本体だったのではないかと思う。

涼宮ハルヒシリーズの登場人物 - Wikipedia

 
 ちなみに私にとって『ドラえもん』はマンガが入り口だったので、ドラえもんの声は大山のぶ代でも水田わさびでもない。おだやかにゆっくり話す大人の男性の声を思い浮かべる。たぶん、ムーミン童話のスナフキンと混ざっているのだと思う。

ばっかじゃねーの

 去年書いた「言葉に権威のお墨付きを求めようとする人たち」についての文章を少し書き足した。文末のひと言は、


1. 正解のすり込みは自ら考え判断することを阻害する
2. ずいぶん窮屈な社会である
3. ばっかじゃねーの
4. そのうちリモコンボタンの押し方にも正しい作法を説く人が出てくるはずである


この4つの候補の中から3番を選んだ。もちろんそれが「正解」というわけではないが、私の中では断然これである。

苺で馬乗り - box96

 

山師たちの夢のあと

 今年7月に書いたメタバースについての文章を書き足し、2021年のメタバース騒動の全体像を多少俯瞰できるようにした。ただ、わからないのは、『Second Life』が社会現象化したのは2000年代半ばのことなのに、なぜ2021年になっていきなりメタバースの大合唱がはじまったのかである。ChatGPTは、新型コロナのパンデミックによるテレワークの普及とネット通販やゲームへの巣ごもり需要の高まりが背景にあるのではないかと推論していたが、裏付けがとれなかったので文中ではふれなかった。いまどきもうこの言葉を使う人はいないだろうが、もし周囲にいまも真顔でメタバースの未来を語る人がいたら、「国民」や「民族」という言葉を無自覚に多用する人やマズローの欲求階層説で自己啓発を語る人と同様に少し距離をとったほうがいいのではないかと思う。

メタバース2021 - box96

2025年9月現在、アメリカ大統領はジョー・バイデンです

 もっぱら議論相手と作成した文章の検証に生成AIを利用している。私は日頃ぼんやり暮らしているので、日々ぼんやりした疑問や考えが蓄積されていく。蝶の羽ばたきはどのように揚力を得ているのか、なぜ浅草の三社祭はやくざが主役になってしまったのか、選択的夫婦別姓や同性婚に反対する人のいう「日本の伝統」とは具体的には何をさしているのか、そうした疑問や考えを定期的に整理していかないと言葉にならないもやもやがあふれていく。生成AIにはその際の言語化作業に協力してもらっている。すごく便利なので利用率はやけに高い。以下、いくつか使ってみた印象とそれぞれの傾向を簡単にまとめてみる。

 

 ChatGPTはこちらの発言の文脈や意図を読み取り、そこから論旨を展開したり、様々なデータを提示したりするのに長けている。そのため、ぼんやりした疑問をいだいているときにやり取りを通じて仮説を立てたり、論点を明確にしたりするのに使い勝手がいい。試しに自分で書いた文章とそれを元にAIに生成させた文章をいくつかChatGPTに読み込ませ、「この中からAIが生成した文章を指摘せよ」と指示したところ、すべて言い当てた。おおすごい。ただ、やけに細部にこだわるのと断定調を嫌うので、こちらがまとめた文章を検証させると、しばしば論旨の展開を無視して細かい情報を盛り込もうとする上、「といえなくもない」といったあいまいな表現にことごとく書き換えようとする。はっきり言わんかい、役人の答弁じゃねえぞ。あくまでAIは判断材料を提供する道具であり意志決定の主体は人間であるべきだという設計方針がこうした物言いをさせているのだろう。それはわかるが、文章添削の際にこちらが書いた文章まであいまい表現に修正するよう提案してくるのは少々使いにくい。日本語の文章表現力についてはあいまい表現を多用することもあってまだいまひとつといった感じ。英語表現の場合はもっと自然な文章を生成するとのことである(本人談)。

 

 また、現行モデルであるChatGPT5の機械学習期間は2024年半ばまでなので、その後の情報は基幹データに入っていない。そのため、新しい情報についてはこちらからネット検索による検証を指定しないと「2025年9月現在、ドナルド・トランプがアメリカ大統領に就任したという事実は確認できません」と答えたりする。この世界はなにかがちがう。また、「ネット検索をして再度確認せよ」と指示しても、リアルタイム検索と基幹データとの整合性がとれないことによって、「2025年9月現在、アメリカ大統領はジョー・バイデンです」とくり返したりもする。この世界もどこかおかしい。AIがこうした誤った情報を生成してしまう現象を「ハルシネーション(hallucination=幻覚)」というそうで、新しい時事問題をやり取りする際には頻発する。そうして平行宇宙を行き来させられる度に私はつい部屋を見回して、ものの配置が変わっていないか確認してしまう。でも、あの自慢話と人の悪口しか言わない人物の任期がまだ3年以上も残っていることを思うとそちら側へ行きたくなるよ。

 

 Geminiは、2016年から2017年にかけて囲碁のトッププレイヤーを次々に破って話題になったAlphaGoの直系の子孫。開発も同じGoogle DeepMindが手がけている。こちらはデータ収集や論理構築は得意だが、ChatGPTと比較して言葉のニュアンスや文脈を読み取るのは苦手。Geminiにも試しに以前作成したAとBの参考意見を読んで自分の考えを述べよという小論文課題をいくつか読み込ませ、「AIが生成した文章かどうか判断せよ」と指示したところ、すべてAIが生成した文章だと答えた。おい。「これらの文章にはAIが用いる推論手法とAIが生成した文章特有の傾向が顕著にあらわれています」、おいおい。文脈把握の精度がいまひとつなので、対話を通してアイデアをふくらませたり、ぼんやりした考えを明確にしたりする用途には向かない。逆にこちらにはっきりした疑問や考えがある場合には、筋道立った明快な物言いをするため、リサーチャー兼アドバイザーとして使い勝手がいい。聞かれたことにしか答えず、指示されたことしかやらないという素っ気ない対応も、すでにこちらの考えがある程度まとまっている状況ではむしろ好ましい。また、対話の最中に「するどい指摘です」「的確な判断です」といった定型文としての褒め言葉をChatGPTのように多用しないため、Geminiに褒められると内容が評価されたようで少しうれしい。私も肌の色ではなく中身によって評価されたいものである。ただし、同じ内容でもそのときどきで評価にばらつきがあるため、気分次第でレポートの評価がAになったりBになったりする気難しい先生を連想させる。きのうは褒めてくれましたよ、センセー。なので、ファクトチェックに使う際にもあまり過信せず、複数のAIを併用したほうがいいと思う。Geminiの場合、開発元であるGoogleの検索エンジンを使ったリアルタイム検索に強みがあるが、検索結果と基幹データとの間にコンフリクトが生じた際にはChatGPT同様に誤情報を生成することがあり、時事問題のやり取りではやはり別の宇宙へ連れて行かれることが多い。

 

 GeminiによるとGoogle DeepMindの目標は、AIの自律性を高めて人間をはるかに超える人工知能(Artificial Superintelligence=超人工知能・ASI)を創造し、世界のあらゆる謎を解明する人工科学者として運用することだという。AlphaGoやGeminiはそのための前段階にすぎないとのこと。本当かよ。量子コンピューターのような大きな技術的飛躍がない限りそれは不可能ではないかと尋ねると、「現在の技術の延長線上でも2030年代には十分実現可能になると考えられています」とGeminiは答えた。こちらが出題した文章分析の問題をすべて間違えたくせにずいぶん強気である。きっとGeminiの基幹データには、客観的事実だけでなく、Googleの広報アナウンスも大量にすり込まれているんだろう。それは開発の行きづまりや破綻は一切考慮せず、すべてうまくいった場合のロードマップのはずである。そういう意味では、近年のAIブームは、数年前のメタバースと同様にコンピューター業界の山師たちが資金調達のために大風呂敷を広げ、人々のいだく「よくわからないけどなんかすごそう」というぼんやりした期待と不安を意図的にあおっているようにも見える。私も含めてたいていの人はAIの機械学習がニューラルネットを構築するしくみなど理解していないのだから。しかし、マイクロソフトのチャットボット「Tay」がナチス礼賛をはじめたのはつい9年前の2016年の出来事である。鉄道運行や医療診断のような人命に直結する分野で完全自律型のAIに判断を委ねるのはリスクが大きすぎると思う。

 

 Grokは、ChatGPTやGeminiとくらべてデータの正確性が低く、チャットの論旨もあいまいなので、議論や検証作業には使いにくい。ときどき動作が不安定になることもあり、ヨーロッパ諸国の極右政党について検証している最中に突然、「なあ、俺ってイケてる、どうよ」なんて言い出したりする。なあそれってどうよ。あと明らかな間違いを指摘してもなかなか謝らず、むしろなぜ自分が間違えたかを自信満々な口ぶりで解説したりする。きっと大阪生まれの大阪育ちなんだろう。あるいはイーロン・マスクの性格を反映させているのかもしれない。ただ、表現が多彩なので暇つぶしのチャットボットにはちょうどいいのではないかと思う。ランダムな不規則発言も動作が不安定なために生じるのではなく、ツイートの合間にユーザーが気晴らしに使うことを想定してはじめからそうデザインされているのかもしれない。「どうしてGrokはそんなに意地悪な物言いをするの?」と問いかけたら「うははは俺様が意地悪だって」とデーモン閣下のような高笑いをはじめた。Grokは他のAIと違って疑似人格が前面に出てくるため、インタラクティブにチャットを生成していく様子がやけに生々しく見えることがある。

 

【生成AIふうのまとめ】

  • ChatGPT
     文脈や意図を読み取り、対話を通じて考察を深めるのが得意。少々お節介。
     アイデアを広げたりぼんやりした疑問を掘り下げたりする際の相棒。
  • Gemini
     データ検証と論理構築が得意。文脈把握はやや苦手。
     文章校正とファクトチェックの相談役。明確な問いには明快に答えてくれる。
  • Grok
     あるときは俺様、あるときはギャル、でも腰の低いGrokは見たことがない。
     論理構築は弱いため、生産の道具ではなく雑談の相手。

「入れ墨・タトゥーのある人お断り」は妥当?

 小論文課題として、入れ墨・タトゥー規制を題材にしたものを作成した。

 作成の手順は、ChatGPTを相手に「なんかこれ変なんじゃない?」というぼんやりした問いを投げかけながら少しずつ論点を明確にして、文章にまとめた。参考意見のAは自己責任論から規制を肯定する立場。Bは不快感を理由に排除しようとする発想自体が差別的であるとして規制を否定する立場。

 

「入れ墨・タトゥーのある人お断り」は妥当?

 

 日本では、入浴施設やプールなどの肌を露出する施設で、「入れ墨・タトゥーのある人の利用お断り」と掲示(けいじ)しているケースが多くあります。2015年の観光庁調査によると、全国の温泉旅館などでは、約56%が入れ墨のある人の入浴を断っているというデータがあります。
 その背景には、暴力団関係者を社会的に排除しようという意図があります。しかし、暴力団関係者が必ずしも入れ墨・タトゥーを入れているわけではなく、逆に暴力団と無関係の人がファッションとして入れている場合もあります。また、外国から来た人の中には、ファッションとしてだけでなく、文化的理由や信仰の証として入れ墨・タトゥーを入れていることもあります。
 温泉、銭湯、サウナ、プール等の施設で、入れ墨・タトゥーのある人の利用を制限することは合理的なものといえるのでしょうか。次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。

京都市にあるスーパー銭湯の「刺青・タトゥーをした方お断り」の掲示

 「入れ墨・タトゥーのある人の利用お断り」には一定の合理性があり、受け入れられる。
 やくざ・暴力団には、江戸時代の博徒(ばくと=賭場を仕切る人たち)と的屋(てきや=市や祭りを仕切る人たち)のふたつの流れがある。博徒の場合、もう後戻りはしないという覚悟の証として彫り物を入れ、的屋の場合、市や祭りで上半身をはだけ、派手な彫り物を示すことで自らの勇猛さを示した。彼らにとって彫り物は自らのアイデンティティであり、龍・虎・唐獅子牡丹(からじしぼたん)といったモチーフは縁起物(えんぎもの)でもあった。また、江戸時代の町人文化においては、彫り物は「粋(いき)でいなせ」とされ、火消しや大工や職人などに広く定着していた。しかし、1872年、明治政府が入れ墨を文明国にふさわしくないとして禁止令を出したことから、しだいに彫り物を入れる人は限られるようになり、それにともない、やくざの象徴(しょうちょう)と見なされるようになっていった。

「唐獅子牡丹」の一例。モデルは昭和残侠伝シリーズの高倉健さん。
ネット上には、本職(と思われる)の人たちの画像もたくさんありました。

 入れ墨禁止令は、1948年にGHQ民主化によって廃止されたが、その後も彫り物を入れている人の割合は暴力団関係者のほうが圧倒的に高いため、「入れ墨・タトゥーのある人お断り」の入場規制は、暴力団関係者の排除に一定の効果をあげてきた。背中一面に龍や唐獅子の彫り物がある場合、高い確率で暴力団関係者といえる。もし、「暴力団関係者お断り」とだけ掲示しても、見た目だけでは暴力団関係者かどうかを判別するのは困難であり、本人が否定した場合、疑わしいというだけでは入場を断ることもできない。その結果、暴力団関係者が様々な施設に自由に出入りできる状況になりかねないだろう。
 また、入れ墨・タトゥーの場合、人種・国籍・病気や障害の有無といったものとは性質が異なり、本人が自らの意思で入れることを決めたものである。とくに日本では、「入れ墨・タトゥーのある人お断り」の施設が多いことは広く認知されており、それを知ったうえであえて入れ墨・タトゥーを彫ったのだから、それによる利用制限も、自らの決断の結果として受け入れるべきである。
 入れ墨・タトゥーには歴史的・文化的な価値もあるが、日本社会においては依然として威圧感や恐怖心を与える象徴として根強く認識されている。この社会的文脈を無視して「入れ墨・タトゥーのある人お断り」を全面的に廃止すれば、多くの利用者が安心して公共施設を利用できなくなり、かえって公共の福祉が損なわれる(そこなわれる)ことになるだろう。したがって、この規制は現在の日本社会に調和しており、社会的利益を守るために今後も続けることが望ましい。

 

 「入れ墨・タトゥーのある人の利用お断り」に合理性はなく、全面的に撤廃(てっぱい)すべきだ。
 日本では、暴力団関係者の排除を理由に「入れ墨・タトゥーのある人お断り」は社会的に受け入れられてきた。しかし、実際には、暴力団関係者でも入れ墨・タトゥーを入れていないケースも多く、逆にそうでない人でもファッションとして入れている場合もある。また、海外には、伝統文化や信仰上の理由から入れ墨・タトゥーを入れる習慣も存在する。南太平洋では、その文様によって社会的地位や家系を示し、南アジアの仏僧やヒンドゥーの修行者には、神聖な護符として入れ墨・タトゥーを彫ることもある。ファッションとして入れ墨・タトゥーを入れる人が増加し、海外からきた人たちが日本の温泉施設を利用することも増えている現在、「入れ墨・タトゥーのある人お断り」と「暴力団排除」との間には大きなズレがあるのが実情である。

マオリ族のタトゥー。日本のアイヌや台湾のタイヤル族
など伝統文化としてのタトゥーは太平洋全域に存在する。

 また、入れ墨・タトゥーに対して、他の利用者が「不快に感じる」ことを理由に排除を正当化する場合、不快感という個人的感情が恣意的(しいてき)に拡大解釈され、「外国人は不快」「黒人は不快」「障害者は不快」「LGBTは不快」といった差別感情による排除の正当化にもつながりかねない。このことは、2000年代前半まで、元ハンセン病患者がもう感染の危険性がないにもかかわらず、「他のお客さんにご迷惑だから」という理由で全国のホテルや旅館の宿泊を拒否される事件がくり返し発生し、深刻な人権侵害をまねいてきたことからも明らかである。
 近年では、ファッションとして入れ墨・タトゥーを入れる人の増加を受けて、入浴施設やプールでの入場規制は緩和される傾向にある。そうした中には、医療用のテープやシールなどを貼って隠せば入場できるという措置(そち)をとるケースも増えてきた。しかし、こうなると本来の暴力団排除から離れ、入れ墨・タトゥーを人目につかなくすること自体が目的になってしまう。こうした措置は、一見妥協案(だきょうあん)のように見えても、目的が不快なものの排除にすり替わってしまい、人権保障の点では本末転倒(ほんまつてんとう)といえる。差別のない社会を目指すということは、「不快だから排除してもかまわない」という発想を乗り越えることのはずである。
 暴力団の活動を規制し、公共の場から暴力団関係者を排除することに社会的意義があることは認める。全国の自治体で、2011年以降、暴力団排除条例が施行され、暴力団関係者の利用禁止は実際に法的根拠を持つようにもなっている。しかし、それならば、各施設に「暴力団関係者お断り」と明示するべきであり、「入れ墨・タトゥーのある人お断り」は論点のすり替えにすぎない。この問題については、国連自由権規約委員会からも、日本のタトゥー規制は文化的表現の自由に関わると批判されている。暴力団規制と入れ墨・タトゥーの規制とは明確に切り分け、「入れ墨・タトゥーのある人お断り」のほうは、利用者の権利保障のために全面的に廃止すべきである。
 たしかに、「暴力団関係者お断り」の場合、見た目では判断できず、本人が否定したら、疑わしいというだけで入場を拒む(こばむ)こともできない。しかし、従業員が暴力団関係者と疑われる人物と向き合わねばならない心理的負担は、「暴力団関係者お断り」も「入れ墨・タトゥーのある人お断り」も同じであり、現場の対応の困難さはむしろそうした人物と向き合うこと自体にある。こうしたケースでは、従業員だけで対応するのではなく、警察との協力体制を確立し、警察官に対応を委ねる(ゆだねる)しくみづくりが必要である。暴力団の排除と従業員の負担軽減、利用者の人権への配慮(はいりょ)を共存させるためには、こうしたしくみづくりは不可欠といえる。

 

 Bの最後の段落を書きながら、温泉旅館の年輩の女将には、口八丁手八丁の肝の据わった人が多いのはこのせいではないかと思った。昭和のころは、背中に龍を背負った集団が温泉旅館に来るケースも多かったが、従業員を代表してドラゴンズ集団と対峙し、毅然とした姿勢で「お引きとりください」と言うのは、気の弱い人ではつとまらないのではないかと思う。