サービス開始から数年後、EverQuestはすっかりレイドゲームになった。「レイド」というのは数十人規模のグループを作って巨大なドラゴンや邪悪な神々と戦うイベントのことだ。多くのプレイヤーは最大レベルに達し、あとはドラゴンや神々を倒すことで得られる豪華な装備でキャラクターを強化するしかない。キャラクターの成長が縦方向しかないEverQuestにとって、エンドゲームがレイドイベントになるのは必然的なものだったろう。レイドギルドは企業組織のような階級制の集団となり、報酬を目当てに集まったプレイヤーたちは業績評価をエクセルシートで管理されながら、リーダーの号令のもとマスゲームを繰り広げるようになった。それは最悪の遊び方だ。たしかにプレイヤーが攻略方法を思い描き、状況に応じて試行錯誤していくのは、囲碁やチェスのような古典的ボードゲームからデッキ構築型のカードゲームまで、共通の醍醐味である。多くのデジタルゲームでも、この課題解決を軸にゲームは設計されている。しかし、大人数が参加するMMORPGの場合、この遊び方は他者をマスゲームの道具へと貶める。ひとりの致命的なミスは数十人のレイド全体の失敗につながるため、参加者には攻略情報の念入りな下調べと打ち合わせ通りの行動が求められ、足を引っ張るプレイヤーにはメンバーからの容赦ない叱責が飛ぶようになった。地球のどこかにいるプレイヤーたちとチャットでゆるくつながるゲームだったEverQuestはそうして性質を大きく変えていった。やがて豪華装備を身にまとった一部のレイドギルドのメンバーたちによる、選民意識をあらわにした横暴な振る舞いが目立つようになった。強く大きな組織の一員であることが自らのアイデンティティになっていたのだろう。追加シナリオによってどこまでも縦方向に成長していくゲームシステムは、プレイヤーの幼児的万能感を満たし続けることで、ゲーム内コミュニティの価値観にも影響をおよぼしたはずだ。彼らのマチズモをむき出しにした言動は『マッドマックス』に登場するごろつきを連想させた。権威主義的性格診断(F尺度テスト)を受けさせたら、さぞや強いファシズム傾向を示したことだろう。EverQuestのトップギルドのひとつFires of Heavenのリーダーは、やがてブリザードに採用され、World of Warcraftの開発・運営チームに加わり、スター・クリエイターとしてゲームファンからもてはやされた。しかし、彼とその取りまきたちは成果さえ上げれば何をしてもゆるされると職場でも暴君のように振るまい、多くの女性社員にハラスメント行為をくり返したことから州当局の介入する事態となり、アメリカのゲーム業界を揺るがす大きなスキャンダルへと発展した。EverQuestで確立されたこのひどいMMO文化は、その後、World of Warcraftをはじめとする様々なネットゲームへ受けつがれていった。eスポーツのチーム戦でしばしば「もたもたすんじゃねえよ、馬鹿野郎!」と昭和期のガラの悪い運動部のような罵声が飛び交うのも、やはり根底には人間をマスゲームのコマにする組織構造があるはずである。それはオンラインゲームという閉じた仮想空間だけの問題ではなく、日大アメフト部の危険タックル事件をはじめとする人間をシステムの道具にする社会のあり方と地続きの関係にあるように見える。
ほとんど詐欺じゃないかって、うーん、ゲーム運営という実体があるぶん、「サナエトークン」のように話題性だけで価格をつり上げていきなり発行者が売り逃げするよりはマシではあるけれど、「仮想通貨」という無から生み出した木の葉のお金のようなものに価値を付与して儲けようとする投機ビジネスであることには変わりない。逆に、「World of Warcraft」のWoWトークンや「EverQuest」のKronoのように、すでに多くのMMORPGには課金通貨が導入されているじゃないか、いまさらなにを騒いでるんだと思う人もいるかもしれない。たしかにゲーム内の役割はどちらも専用アイテムを手に入れたりオークションでゲーム通貨に交換したりと一見あまり変わらないように見える。しかし、仮想通貨は、ゲーム外の仮想通貨取引所で換金できる点で既存の課金通貨とは根本的に異なる。そのため、課金通貨がゲームの利便性を少し高めたり他のプレイヤーより少し優位に立てたりするだけのオプションなのに対し、ブロックチェーンゲームでは、仮想通貨がないとまともに遊べない必須アイテムとして強固にゲームシステムに組み込まれる。しかも運営は仮想通貨を自ら発行できるので、市場で高値がつけられている限り、打ち出の小槌のように富を生み出せる。つまり、ブロックチェーンゲームの場合、仮想通貨を市場で高値で売り抜けることがビジネスの本体であり、ゲーム運営はその仮想通貨の値をつり上げるためのプロモーションにすぎない。ゲーム自体が失敗し、短期間でサービスを放棄したにもかかわらず、しばしば運営が大きな利益を得ているのは、この収益構造に由来する。
フローベールの『紋切型辞典』は19世紀フランスのブルジョアジーたちが交わしている型にはまった空虚なやり取りを収集・編纂したものだ。「百科全書」のパロディの体裁をとりつつパターン化されたやり取りを再生産する人たちを皮肉っており、作者自身の気の利いた言い回しをまとめた名言集ではない。現代の日本に置き換えると、無理矢理参加させられたゆるい合コンで、「犬派か猫派か」や「つぶあん派かこしあん派か」といった定型化されたやり取りがくり返される様子にうんざりしながら、フローベールがその言葉を書き留めたものということになる。あるいは参加した映画サークルで、メンバーたちが小津安二郎を「小津はさあー」と妙になれなれしく語り、エド・ウッドを鼻で笑って小馬鹿にする様子にその場から逃げ出したくなりつつ、彼らのスノッブな物言いを書き留めたものでもある。なので、暗い目で笑っているフローベールを思い浮かべながら、その言葉とメタ的につきあうのがふさわしいだろう。フローベールは手垢のついた定型表現や自らの作為性を排除し、自らの文体に完璧な韻律と視点の客観性との調和を求めた。それは「唯一の正しい語(le mot juste)」の追求であり、その苦行のような推敲によって、細密画のような緻密な描写手法を確立した。しかし、どれほど慎重に推敲を重ねたとしても、言葉というシステムの囚人であることでは、型にはまった言い回しを無自覚になぞっている人たちと変わらない。言語という既存の知的体系の中にいる限り、どうあがいても言葉に喋らされている状態からは逃れられない。そういう意味では、『紋切型辞典』の居心地の悪い笑いの先にいるのは、読者自身でもあり、フローベール自身でもある。