カスパロフ対ディープブルー

 授業で1997年に行われたカスパロフ対ディープブルーのチェス六番勝負を見る。番組は同年にNHKが制作した「世紀の頭脳対決~人間VSコンピュータ・チェス戦徹底分析~」というテレビドキュメンタリー。最近はなにかとAIが幅をきかせているが、その先駆けになったのがこの対局で、コンピューター側が人間の世界チャンピオンに2勝1敗3引き分けと勝ち越したことから、ずいぶん話題になった。当時はまだ人工知能についての認識は、コンピューターなんてプログラム通りに動いているだけなんだから、それをつくった人間に知的作業で勝てる日が来るなんてありえないというのが一般的だった。ずいぶん素朴な発想である。1990年代はじめ、哲学研究室の大学院生だった私は、先生たちに人工知能の可能性について尋ねたことがあるが、先生たちもみな口をそろえてそう言っていた。日頃から「知覚」や「理性」なんて言っている哲学の研究者もその程度の認識だったわけだ。この1997年の対局は、そうした人工知能についての認識を改めるようせまるもので、テレビニュースや新聞でもずいぶん大きく取りあげられた。

 もっとも、たいていの人にとっては、「コンピューターなんてどうせたいしたことない」から、「なんかよくわからないけどすごい」や「なんかよくわからないけど怖い」に変わっただけで、コンピュータープログラムがどのように学習し、どのように判断しているのかについての理解がすすんだわけではないように思う。

ディープ・ブルー (コンピュータ) - Wikipedia

 

 

 ディープブルーは、IBM製のスーパーコンピューター上で、それにあわせてチューニングされた専用のチェスプログラムを走らせていた。開発チームは、5人のコンピューターサイエンスの研究者とひとりのチェスアドバイザー。プログラムの特徴は、過去のチェス名人たちが残した膨大な棋譜のデーターベースをプログラマーが手作業で入力し、データーベースにない局面では、計算速度の速さを生かして、10手先、11手先の未来をしらみつぶしに検索し、点数評価するという力まかせのもので、いまにして思うとずいぶん原始的である。こうしたチェスプログラムは、その後、計算速度の遅いパソコンで走らせることを前提に、力まかせに未来の局面を検索するのではなく、勝ちにつながる局面を効率よく検索できるようにした思考ルーチンが導入されるようになっていく。さらに2010年代になると、「ディープラーニング」と呼ばれる手法が用いられるようになる。これは、過去の名人たちの棋譜のデーターベースを人間が手作業で入力していたのにかわって、コンピューターに自分対自分のシミュレーション対局を何百万回と行わせ、それによって勝ち筋を機械的に学習させていくという手法である。自己のシミュレーション対局による学習から思考ルーチンが自律的に生成されるため、人間が関与する部分はほとんどなく、なぜその局面にその点数評価をしたのか、なぜその手筋を選択したのかといったことは、もう開発者のプログラマーにもわからない。こうなるとやはり「人工知能」と表現したほうが適切に思える。このディープラーニングの導入によってコンピューターの棋力は一気に加速していった。

ディープラーニング - Wikipedia

 

 IBMは打倒ガルリ・カスパロフのプロジェクトに大きな資金を投じたが、この対局が大きく報道されたことで、それ以上の広告効果があったようだ。この対局後、「ディープブルーが就職先を探しています」というディープブルーと同型のスーパーコンピューターを企業向けにリースする広告をしばしばネット上で見かけた。人間のチェスチャンピオンとコンピューターとが賞金をかけて対局するイベントはその後もしばらく行われていたが、2000年代中頃からは下火になっていった。もうコンピューターの優位性は誰の目にも明らかだったからだ。現在ではスマホのチェスアプリでも人間のトッププレイヤーよりはるかに強い。

 

 ディープブルーがカスパロフに勝った1997年頃、将棋では、コンピューターはまだアマチュア2段か3段くらいの棋力にとどまっていた。それについて、「将棋はとったコマを再び利用できるから、チェスよりも未来の局面がずっと多く、コンピューターは当分人間に勝てない」という発言をしばしば耳にした。さらに将棋という日本独自のゲームへのナショナリズム的幻想から、「将棋はチェスよりもずっと優れたゲームであり、コンピューターが人間を上回ることは永遠にない」という人までいた。しかし、コンピューター将棋の開発がチェスに遅れたのは、たんにプログラマーの数が少なく、開発規模も小さいというだけのことである。世界中で行われているチェスに対して、将棋は日本独自のゲームなので、思考ルーチンの開発者もほぼ日本人に限定され、チェスにくらべて圧倒的に数が少ない。また、チェスのプログラムが大資本をバックにコンピューター・サイエンスの研究者たちによって組織的に開発されたものが多いのに対して、将棋の場合、市場が小さいことから、プログラマーが自宅のパソコンで個人的に制作しているケースがほとんどである。私はプログラミングにくわしいわけではないが、この分野に興味があるので、ときどきYSSの開発者である山下宏さんのWebサイトを覗く。すると掲示板では、しばしば制作者同士で「次の大会は負けませんよ」「私はニューマシンを導入しますよ」なんてやり取りをしていて、有力なプログラムの制作者はほぼ顔見知りのようである。それくらい人数も開発規模も小さい。そうした小規模な環境で自主制作されたものが市販の将棋ソフトに思考アルゴリズムとして組み込まれたり、フリーソフトやWebゲームとして公開されているというのが実情である。ただ、掲示板での彼らのやり取りはいかにもプログラミングの愛好家の集いという感じで見るたびに楽しそうだなあと思う。

YSSと彩のページ

 

 チェスプログラムの開発スピードにおくれた将棋プログラムも2010年代にディープラーニングが導入され、2010年代半ばには、プロ棋士の棋力を上回るようになる。2015年の羽生善治のコメントがその状況を端的にあらわしている。

「今、将棋の人工知能は、陸上競技で言えば、ウサイン・ボルトくらいです。運が良ければ勝てるかもしれない。しかしあと数年もすれば、F1カーのレベルに達するでしょう。そのとき、人間はもう人工知能と互角に勝負しようとは考えなくなるはずです」

コンピュータ将棋 - Wikipedia

 プロ棋士とコンピューターとの将棋の対局イベントは、2010年代半ばまではしばしば行われていたが、その後はチェス同様に下火になった。ドワンゴの主催でネット中継もしていた電王戦も2017年をもって終了した。理由は明白で、羽生善治の指摘通り、こちらもコンピューターの優位性が誰の目にも明らかになったからだ。対局しているプロ棋士自身もコンピューターにはもうかなわないことを自覚している。それにもかかわらず、対局後、予想どおり負けてしょんぼりしている棋士に記者会見させ、感想を言わせるのは悪趣味な見世物である。その後は、スマホの将棋アプリでもチェス同様に人間を上回るようになったことで、今度は棋士同士の対局でのカンニングが問題視されるようになった。

 

 囲碁は2010年代になってもコンピューターがプロ棋士に歯が立たず、人間プレイヤーが牙城を守っていた。囲碁の場合、好きな場所に石を置けることから、未来の局面がチェスや将棋よりもケタ違いに多いため、力まかせの検索が通用せず、効率よく勝ち筋を検索するといっても限界があった。転機がおとずれたのは2016年。ディープマインド社が開発した「AlphaGo(アルファ碁)」という人工知能が次々にトップ棋士を負かしていった。ディープマインド社は人工知能の研究・開発を行っているイギリスのベンチャー企業で、2010年に創業され、2014年にグーグルに買収されて傘下に入った。それまでの囲碁のプログラムは、将棋と同様にプログラマーが自宅のパソコンで自主制作したインディーズなものがほとんどだったが、そこに大資本による人工知能のプロジェクトチームが参入してきたかたちだった。AlphaGoは、ウィキペディアの解説によるとディープラーニングの学習効果を上げることに特化した特殊な演算ユニットを並列処理させているハードウェアーを持ち、そこに専用の囲碁のプログラムを走らせて数千万回の自己対局を行い、その自己対局の学習から自律的に思考ルーチンを生成させたという。2代目のバージョンは、2016年に韓国のトップ棋士イ・セドルとの五番勝負で4勝1敗と圧勝し、この対局イベントは人工知能のひとつの到達点として、1997年のカスパロフ対ディープブルーのチェス対局と同様に世界的に大きく報道された。さらに3代目のバージョンも、世界ランキング上位のトップ棋士たちとのネット対局で60連勝、世界ランキング首位の柯潔(かけつ)との三番勝負も3連勝と快進撃を続けた。4代目からは人間との対局をやめてしまったが、4代目のAlphaGo Zeroでは、過去の名人たちが残した棋譜を一切使用せず、全くの初心者の状態から3日間の自己対局の学習だけで2代目のレベルに到達し、40日間の学習後には2代目に100戦全勝、3代目とは89勝11敗だったという。機械学習による人工知能の優位性は明白で、こうなると囲碁においても、パソコンやスマホのソフトにトップ棋士が歯が立たなくなるのは時間の問題だろう。

AlphaGo - Wikipedia

 

 

 ただし、こちらの日経の記事によると、ディープラーニングによって生成されたAlphaGoの思考アルゴリズムは、人間が読める論理コードが存在せず、完全にブラックボックスになっているという。そのため、人工知能が誤った判断をした際に原因の究明がきわめて困難になるという問題点が指摘されている。囲碁の手筋ならまだしも自動運転や医療の画像診断といった分野にこうした人工知能が用いられるようになり、奇妙な判断をした際に原因の究明もデバッグもできないとなると深刻である。「なぜ」そうした判断をしたのかわからない正体不明の存在に生命や社会インフラをゆだねる未来像はあまり愉快なものではない。

圧勝「囲碁AI」が露呈した人工知能の弱点: 日本経済新聞

 

AlphaGoのハードウェアー。写真は5代目のバージョンのAlpha Zero。

 授業の終わりに、囲碁や将棋のプロ棋士という職業が100年後も存在していると思うかと生徒たちに聞いてみた。囲碁や将棋やチェスというゲーム自体は、人工知能がどれほど強くなろうと100年後も存在するだろう。「いまの待った!」「ダメ!待ったなし」なんて言いあいながら、100年後の人たちもこうしたゲームを楽しんでいるはずだ。それらは複雑な推論を要求される非常に良くできたゲームなので、人間が絶滅しているか地球がよっぽどひどいことになっていないかぎり、100年後も1000年後も廃れることはないだろう。「碁敵は憎さも憎し懐かしし」の思いは、むかしもいまもおそらくこれから先もかわらない。一方、プロ棋士の立場は微妙である。プロ棋士が社会的地位を得てきたのは、たんに強いからというだけでなく、真理の探究者として敬われてきたことが大きいはずである。藤井聡太のような20歳そこそこの若者が「先生」と呼ばれ、将棋の愛好家たちから畏敬の念をいだかれるのも彼がいままで誰もたどり着けなかった高みを目指して歩む存在と見なされているからだろう。囲碁や将棋のプロ棋士たちは、年齢に関係なく、みな「先生」と呼ばれ、周囲から丁重なあつかいを受ける。しかし、盤上の真理に最も近い存在、マンガの「ヒカルの碁」ふうに大げさにいうと「神の一手」に近づく存在、「3月のライオン」だと「はるかな高み」に立つ存在は、もはや人間ではなく人工知能ということになった。今後、人工知能との力の差は広がる一方だろうし、新しい定石・定跡を生み出していくのももっぱら人工知能ということになるだろう。人間のプレイヤーはそうした人工知能の生み出す定石・定跡を「手本」として学ぶ側にまわり、プロ棋士の立場も「人間にしてはまあまあ強い」というところにとどまる。そうなったときに碁打ちや将棋指しという職業が成立するのだろうか。生徒たちの意見は、「人間の知性がどこまで届くのかを示し、棋士たちは人間の可能性をあらわす存在として、100年後も尊敬されているだろうし、プロ棋士という職業も存在する」という立場と「このままコンピューターとの力の差が開いて、アプリを起動するだけで、あらゆる局面で正解が得られるようになってしまったら、人間が挑戦する意味が失われてしまい、娯楽としてただ楽しむだけになる」という立場のふたつにわかれた。

 

 一足先にコンピューターに歯が立たなくなったチェスでは、意外なことにトッププレイヤーによる世界選手権はいままで以上に人気だそうである。考えてみれば、野球にしてもいくらでも速い球を投げるピッチングマシンはつくれるが、だからといって速球投手の存在意義がなくなってしまったわけではない。ピッチングマシンなら時速200kmや300kmの超剛速球も可能だろうが、あくまで野球は人間がやるスポーツである。野球が人気のプロスポーツである限り、「160kmの剛速球」で打者をうちとる投手はファンの賞賛を集めるだろう。同様にコンピュータープログラムがいくら強くなっても人間がやる知的スポーツとしてのチェスの価値が下落するわけではないし、トッププレイヤーが行う試合の魅力が損なわれるわけでもない。それがプロスポーツとして成立するかどうかは主に市場原理によるもので、人工知能の優位性うんぬんはあまり関係ないように思う。ただ一方で、日本には囲碁や将棋を修練の道としての「棋道(きどう)」と見なす価値観がある。剣道・弓道・茶道・華道などとともに「道」の発想である。そこではトップ棋士たちは盤上の真理へ至る道を模索する求道者と見なされる。過去の名人たちは「先達(せんだつ)」であり、彼らの残した棋譜は真理へ至る「道しるべ」である。しかし、過去の名人たちの対局をなにも知らず、自己のシミュレーション対局だけで強くなった人工知能に人間がまるで歯が立たなくなり、アプリ起動でそこに正解が表示されるようになってしまえば、そうした求道者へのありがたみは失われる。なので、先の問いは、囲碁や将棋を盤上の真理を模索する棋道と見なすか、それともチェス同様に人間同士が盤上で格闘する知的スポーツと見なすかが分かれ道になるのではないかと思う。