男のくせにだらしないわね!

 しばらく前、最初のテレビシリーズの「エヴァンゲリオン」を再放送していた。最初の数話は、主人公の男の子が男のくせにと周囲からなじられつづける。

 

 「男のくせにいつまでもぐじぐじ言ってんじゃないわよ!」
 「男の子でしょ!しっかりしなさい!」

 「男のくせに女々しいわね!」

 「男のくせにいつまでもみっともないわよ!」
 「男だったらやるときはやらなきゃ!」
 「しゃきっとしなさい!男でしょ!」
 「ふん、男のくせにだらしないわね!」
 「立ち上がるべき時に立ち上がらないなんて男じゃないわよ!」
 
 あれえ「エヴァンゲリオン」って、こんな男塾みたいなアニメだったっけ。男の子だからってそんなに追い詰めなくてもいいじゃない。そんなに責めたてられたら、かえって立たなくなっちゃうよ。

 アニメが制作された四半世紀前、「女のくせに」はすでに禁句だったが、「男のくせに」のほうはまだ許容されていたらしい。劇中の理不尽なやり取りがえんえんと続く様子に気が滅入ってきたので、はじめの数話を見ただけで途中でやめてしまった。以前見たときは、主人公がいつもいじけてる陰気で宗教くさいアニメという印象だけで、序盤でこんなマチズモを強要する会話がくり返されていたことはすっかり忘れていた。おぼえていないということは違和感を感じていなかったということなので、この居心地の悪さが四半世紀における自分のジェンダー感覚の変化なんだろう。逆にいまこのやり取りに居心地の悪さを感じないのは、日本維新の会杉田水脈の支持者くらいではないだろうか。杉田水脈はあいかわらず「男女平等は反道徳の妄想」と性別役割分業の正当性を説いているが、同じような男女観の持ち主から「女の分際で政治に口出すな」と言われたら、この人はなんと答えるんだろう。

 「男のくせにだらしない」と「女のくせに口をはさむな」は対の関係にあり、もちろん、セクシャルハラスメントは男の子や男性に対して行われても人権侵害である。この認識が日本にもようやく定着したことで、それまでニヤニヤ笑いとともに下ネタとして語られる話題でしかなかった、ジャニー喜多川が自らの立場を利用して事務所の男の子たち四百数十人に対して手をつけていた行為についても「深刻な犯罪」と見なされるようになった。庵野秀明の作品には、しばしば癇癪持ちの女の子が登場して、男の子をぼかぼか殴る場面が描かれる。彼の好みなんだろう。でも、女の子が男の子を殴るのも男の子が女の子を殴るのも暴力であることに変わらない。それがコメディシーンとして提示されることの違和感にもやはり四半世紀の時間の流れを感じる。

 「近頃はなんでもセクハラにされるからなにも言えなくなった」とぼやく人がいる。しかし、セクハラの概念がなかった頃から、それでつらい目にあっていた人たちは大勢いたはずで、「なにも言えなくなった」という発言には、そうした人たちの存在がまったく視野に入っていない。ポリティカル・コレクトネスの表面しか見ていない人にとっては、たんに言えない言葉が増えただけで窮屈になったと感じるのだろうが、「女のくせに」も「男のくせに」も社会状況の変化に関わりなく、その言葉はもともと言うべきではなかったのだと思う。

 

 で、結局、主人公くんは「男のくせに」で追い詰められたあげく、「男らしく」ロボットに乗ることになるんでしょうか?