シンプルマン

 町山智浩Newsweek日本版のコラムでレーナード・スキナードについて書いている。レーナード・スキナードは、アメリカ南部出身の白人ブルースロックバンドで、やたらと保守的なメッセージをこめた歌が多い。最近では、ティーパーティの反オバマ集会で彼らの歌がよく流されている。

「神と銃」レーナード・スキナードが歌うアメリカ
Wikipedia「レーナード・スキナード」


 町山は「シンプルマン」の歌詞を取り上げ、その背景にあるキリスト教福音派の「神は素朴な者こそを愛する」という考え方を指摘する。

 ガキの頃、ママが言った
 お空の上には神様がいるんだよ
 だから坊や、単純な男になっておくれ
 (「シンプルマン」)


 ただ、この単純な男になれという価値観には、キリスト教福音派の宗教的背景だけでなく、社会階層の問題もふくまれているはずだ。私の父の口癖は「理屈を言うな」だった。その言葉の次にはげんこつが飛んできた。「つべこべ言ってないで体を動かせ」「世の中そういうものだ」ともよく言われた。父はいっさい本を読まなかった。「本ばかり読んでると理屈をこねるだけのろくでもない奴になる、世の中のことが知りたければ新聞さえ読んでいれば十分だ」というのが父の社会観だった。父は昭和三年長崎生まれ、当時の社会情勢を反映して熱烈な軍国少年として育ち、大戦末期に自称志願兵として海軍に入隊。戦後は自称長崎大英文科中退後、流れ者のバーテンダーとして米軍キャンプやバー・キャバレーを転々したという。私が幼い頃、米兵がときどき家に遊びに来て、父はやけにブロークンな英語で米兵と談笑していたが、それはどう見ても米軍キャンプのバーテンダーとして身につけた英会話で、英文科で学んだというのは事実ではないだろう。新聞以外に本を読む必要がないという発想も文学部出身者のものではない。父は戦後も軍国主義者で、テレビで高校野球の開会式をやっているときまって、最近の若い連中の行進はだらしなくて見てられない、軍隊に入れて鍛え直すべきだとぼやいていた。ただ、海軍の慣習をあまりにも美化して語るので、実際に入隊して本当にそれらを体験したのかも疑わしいと思っている。軍隊を経験した者は、自らの体験に苦さと懐かしさの入り交じった複雑な思いを抱いていることが多い。彼らは軍隊批判の声にうなだれ、その一方で、軍隊賛美の声には憮然とする。とくに戦地で生死の境をさまよった者はその強烈な体験をあらわす言葉が見つからず、しばしば自らの思いを飲み込むように押し黙る。父の無邪気に軍人の凛々しさを語る様子はそれとは明らかに異なっていた。おそらく実戦を経験しないまま佐世保あたりの訓練所で敗戦を迎えたか、さもなくば、志願入隊もでまかせで、地元の青年団で軍の下働きをしながら海軍兵学校に憧れていただけというところだろう。敗戦前後の長崎で瓦礫の撤去作業に携わったらしく、被曝者手帳を持っていた。被爆間もない長崎の様子について尋ねると、「ひどかったな」というだけで原爆についてはそれ以上話したがらなかった。


 父はキャバレーでバーテンダーをしているときにホステスとして同じ店につとめていた母と知り合った。母によると、女にはまめな性格でホステスたちには人気があったという。幼い頃、父に連れられて喫茶店へ入ると、そこは水商売のお姉さんたちのたまり場になっていて、厚化粧のお姉さんたちは私のことを気まぐれでかわいがったりからかったりしながら始業までの時間をつぶしていた。父はその後、いくつかの小さな店を持ってはことごとくつぶし、食品工場のライン労働に職を見つけ、そこも上司とぶつかってやめ、私が中学生の時によそに女を作って家を出て行った。養育費を送ってきたことは一度もなかった。大学一年の時、父から話があるというので待ち合わせの喫茶店へ行くと、税金控除のために確定申告でお前を扶養に入れていいかという話だった。ふざけるなと断ると後日、いったいお前はどんな教育をしているのかと母に電話があったという。以来、もう数十年、会っていない。生きていれば83歳になるが、もう生きてはいないだろう。


 父は政治的には少々ややこしいスタンスをとっていた。軍人の凛々しさと軍隊式の教育方法を得意顔で語り、日中戦争と太平洋戦争を「しかたのない戦争だった」と肯定する一方で、民族主義的なナショナリズムを嫌っており、とくに在日朝鮮人への差別的な発言を耳にすると眉間にしわを寄せた。さらに社会党を支持しており、憲法改正自衛隊には否定的だった。どうしてこんな入り組んだ考えをいだくようになったのか、長いこと不思議に思っていたが、ある日ふと気がついた。ただたんに自分が身を置いてきた状況に順応してきただけだったんだと。父の語る軍人の凛々しさや「しかたのない戦争」という言いぶんは、戦時下で受けてきた軍国教育そのものだし、日中戦争が始まった頃に父方の祖母が再婚した相手は在日朝鮮の人だった。祖母によると前の夫よりも人間的にはずっと立派だったとのことだが、父親違いの末弟は日本国籍ではなかった。そのことで地域の中でひどいあつかいを受けたのだと思う。末弟はぐれてしまい、やがて山口組系の団体の組員になった。在日朝鮮人というだけでまともな働き口のなかった時代のことである。ただ組員になって羽振りがよかったらしく、父は店をつぶすたびに十以上も歳のはなれたこの末弟から金を融通してもらっていた。父は食品工場のライン労働をするようになって職場の労働組合に入った。社会党系の労組で、憲法改正反対もそこで同僚たちから聞かされたんだろう。順応し、自己肯定してきただけで、おそらく父は自らの考えを検証することも矛盾を感じることもなかったのではないかと思う。


 母からは学校の勉強をするよううながされたことはない。むしろ、高校進学の時も大学進学の時も、「ふーん、お前はよっぽど学校が好きなんだな」と冷ややかだった。祖母と折り合いの悪かった母は、17歳で夜間高校を中退して家を飛び出し、以来ずっと水商売で生計を立ててきた。はじめはキャバレーのホステスとして、その後、小さなバーの経営者として。その経験から得た母の人生訓は、「学校へ行くよりも働いたほうがはるかに学ぶことが多い」というものだった。それは事実だろう。学校へ通うことで、そのぶん他にできたかもしれないことを失っているはずだ。だから、母からは学校の勉強についてとやかく言われることはなかったが、かわりにこどもの頃からことあるごとに「お前は甲斐性なしだ」となじられた。よほど働かせたかったらしい。母に大学院で哲学をやろうと思うと話したときは、「いつまで学校に通うつもりだ」とうんざりした顔をしていた。もっとも、奨学金と学費免除で通っていたので、母の承諾を得る必要はなく、それはたんなる報告にすぎなかった。母はなにかと高圧的な言動で息子をコントロール下に置こうとしたが、その日の気分次第で変わる母の言動に振りまわされるのはまっぴらだった。そうした母を軽く見る気持ちは態度にも現れていたんだと思う。母とは事あるごとに衝突した。母は甲斐性なしの息子と同様に教師たちのことも嫌っていた。酔ってくだを巻くタチの悪い客には教師が多いという。「あいつらは学歴や職業ですぐに人を見下すようなことを言う」と。たしかに教師にはその傾向が強い。たいていの学校で生徒の親の学歴の話題は職員室の日常会話のひとつだ。店をやっているときには、そのことでさぞや嫌な思いをしたんだろう。


 高校一年の時、少々トラブルがあって母親とともに学校に呼び出された。きっかけは制服を着るのが面倒だったので普段着のまま登校したことだった。服装の乱れは精神の乱れ、おまえには自分を律する克己心がない、おまえのような奴には本校の生徒の資格がないとくり返すクラス担任に、「ちょっとよろしいでしょうか、公立学校は近所の図書館と同様に税金で運営されている公共サービスですよね」と言葉を返した。「もし、公立図書館が利用者にドレスコードを設けて、規定の服装で来館しない市民には本の貸し出しを行わないと言い出したら、いったいどうなってるんだということになりますよね、公立学校も同じではないでしょうか、教育を受ける権利はすべての市民に保障された基本的人権だし、公務員の役割はすべての市民に奉仕するサービス業のはずです、そもそも公立学校は学問の基礎を学ぶところであって、行儀作法の教室ではありませんよ」と言ったところ、担任の顔はみるみる赤く変わっていき、おまえは全共闘かぶれかと怒鳴りはじめた。できるだけおだやかに話したつもりだったが、それが余計にかんに障ったようだった。全共闘運動なんてとっくに下火になっていたのにねえ。そのクラス担任は平和教育に力を入れているというベテランの男性教師だったが、とんだ平和主義者である。で、おまえじゃ話にならないと、母親ともども呼び出されることになった。母は会議室に通されるなり、「ちょっとすいません、こちら、灰皿ないんですか?」と灰皿を要求し、私まで呼び出されて迷惑だとばかりに不機嫌な顔でぶかぶかと煙草を吹かしはじめた。そして、周囲の教師たちにも聞こえるような大声で「おまえ、こんなろくでもない学校、いつまで通ってるつもりだ」と言い出した。おお、水商売のおばさん、肝が据わっていらっしゃる。爆笑しそうだった。あれはなかなか痛快だったよ、かあさん。以後、私は問題家庭の問題生徒ということになり、なにかと母親ともども呼び出されては、その度に自由なんとか学園への転校を学年主任とクラス担任からすすめられた。体よく追い出そうという魂胆らしい。自由なんとか学園にとってはずいぶん迷惑な話である。結局、意地になって三年間通ったが、いまにして思えば、あんなろくでもない学校とっとと見切りをつけて、大検(いまの高卒認定試験)を受けながら駿台代ゼミにでも通えばよかった。


 大学生の頃、同級生たちに父や母の話をすると「倉本聰のドラマみたい」という反応が返ってきた。離婚家庭も水商売で生計をたてている人間もとりたててめずらしくはないし、こどもの進学を快く思わない親だって世の中にいくらでも存在するはずだが、地方の中流家庭出身の彼らにはまるでリアリティがないようだった。もっとも、こちらも、弟や妹の受験で家中がピリピリしてるなんて話を聞かされても、受験なんて河原でめずらしい石を拾うのと変わらないごく個人的イベントにすぎないのに、なんで家族全員が振りまわされるんだ、バカじゃねえかこいつらとしか思わなかったので、まあ、お互い様というところだろう。いまも昔もこの社会はけっして皆が同じ文化を共有する平たい社会というわけではない。定時制高校で教えていると生徒たちの家庭環境はむしろうちと似たようなケースのほうが多い。一億総中流というのは、人なみでありたいという願望が生み出した幻想の中の日本人像だと思う。


 私は父や母の期待に反して、本ばかり読んで理屈をこねるろくでもない奴になった。論理と知識は父や母が住んでいる独善的で小さな世界から自分を解放してくれる道しるべであり、どうにか自分の足で立ち、よろけながらも自力で歩けるようになるための杖だった。それは「自由の翼」なんて格好のいいものではない。自分の頭で考えたいというのは渇望のようなもので、学歴を職やなにかを得るための手段として考えたことはない。世の中そういうもんだなんて、たんなる思考停止じゃないか。だから、学問や教養を身につけることを無条件に良しとする価値観には、いまも違和感をおぼえる。着飾るための学問やひけらかすための教養にいったい何の意味があるというんだ。知識と理論は、自ら物事を判断しようとする意志があってはじめて機能する。自律的な判断を放棄してしまったら、どれほど有用な知識や理論だろうとそれは着飾るための衣装にすぎない。難読熟語の読み書きが達者にできることより、その概念を用いて自ら考えを組み立てられるようになるほうがずっと重要だし、円周率を長々と暗記するより、円の面積がなぜ半径×半径×円周率で求められるのかを説明できるほうがずっと意義がある。まあ、ムダ知識をたくさん仕入れてクイズ番組で賞金を稼ぎたいっていうなら止めないけどさ。なので、自分が「シンプルマン」になれなかったことについては多少の後ろめたさを感じている。母はいまも私と話をするのを嫌っていて、お前の言葉は相手を追い詰めると言う。いやそうじゃなくて、考え方の異なる者同士で話すには、すじみちだてて説明しないと通じないじゃないかと私は言うが、母には通じない。歳をとってより意固地なり、考え方が異なること自体、耐えがたいらしい。そういう意味では、労働者階級の社会観は日本も欧米社会も大して変わらないのではないか。イギリスのテレビドラマを見ていると、そこに登場するワーキング・クラスの人々の言動は父や母にそっくりだ。彼らは言う。「理屈を言うな」「体を動かせ」「単純に生きろ」と。


Lynyrd Skynyrd - Simple Man