所得の再分配と税の公平性

 以前書いた所得の再分配についての課題文を書き直してみる。こんな感じ。

所得の再分配 所得税の累進制は公平なのか?



 現在、所得税は、ほとんどの国で累進制というしくみが取り入れられています。この累進課税制度は、たくさん所得のある人には高い税率を、所得の少ない人には低い税率を適用するというものです。

 日本では、国に収める所得税最高税率は1986年まで70%でしたが、その後しだいに引き下げられて、現在は40%になっています。現在の日本の所得税は6段階の累進制で、次のような税率です。



・195万円以下の所得 → 5%

・195万円を超え330万円以下の所得 → 10%

・330万円を超え695万円以下の所得 → 20%

・695万円を超え900万円以下の所得 → 23%

・900万円を超え1800万円以下の所得 → 33%

・1800万円超える所得 → 40%



 年間の所得が150万円の人の場合、150万円×5%で、だいたい7万円が国に納める所得税ということになります。もしこの人にこどもがいたり、高齢の親を介護していたり、健康保険を支払ったりしていれば、そのぶん税は控除されます。一方、年間所得2000万円の人だと、300万円〜400万円くらいの所得税になります。「あれっ、2000万円×40%だから800万円じゃないの?」と思うかもしれませんが、40%というのは、あくまで1800万円を超える部分にかかる税率で、2000万円全体に40%が課税されるわけではありません。1800万円以下の部分については、それぞれもっと低い税率で計算されます。また、扶養控除、住宅控除、医療費控除などによって税額が控除されるので、300万円〜400万円くらいが国に納める所得税ということになります。(なので、テレビでタレントやスポーツ選手が「日本ではいくら稼いでもほとんど税金にとられちゃう」とぼやいているのをときどき見かけますが、あれは大げさな表現です。現在の税の仕組みでは、年収1億円の人でも国に納める所得税は多くて3000万円程度で、地方税とあわせても半分以上を所得税に取られるようなことはありません。)

 こうした累進課税のしくみは、高額所得者に多く課税することで所得の再分配をうながすために採用されていますが、はたして、富裕層がより多くの税を負担するというこのしくみは、公平なのでしょうか。次のAとBの文章を参考にして、あなたの考えを述べなさい。



A 不公平である。

 たしかに年間所得が5000万円も1億円もある人たちにとって、2000万円や3000万円を税にとられたからといって、生活には困らないだろう。しかし、生活に困るかどうかと、社会的に公平かどうかとは別の問題である。

 累進課税制度は、次のふたつの点で問題をかかえている。まず、社会を支える責任はすべての人に等しくあるということをあげられる。だからこそ、基本的人権はすべての人に等しいのであり、所得に関係なくすべての人の参政権は一票なのである。高額所得者に高い税率を課すのならば、税率に応じて、二票三票ぶんの参政権が保障されなければ、公平な社会とは言えない。逆にすべての人の参政権が等しく一票ならば、所得に関わりなく、税率は一定にすべきである。

 もうひとつの問題として、高い税率を課すことで勤労意欲を低下させてしまう点をあげられる。所得というのは、その人が仕事につぎ込んだ努力と才能と時間の成果である。もしも、何億円稼いでもそのほとんどが税に持っていかれてしまう社会だったら、がんばって仕事に打ち込もうという気力が失われてしまうだろう。それのようなやり方は、仕事につぎ込んだ努力と才能と時間が本人自身のものでなく、国のものだというのと同じであり、きわめて全体主義的なやり方である。人々の仕事に対する努力や情熱を失わせないために、仕事で成功した人たちがむくわれる社会でなければならない。一律課税を「金持ち優遇」と批判する人は多いが、このしくみはたんにひとにぎりの高額所得者を優遇するものではない。誰もが努力し幸運に恵まれれば経済的に成功する可能性をもっている。そうなったときに所得の多くを税にとられてしまうのでは、仕事で成功しようという意欲や夢が失われてしまうはずである。オバマ大統領による保険制度改革や税制改革で増税されるのは上位20%くらいの高額所得者にすぎなかったが、それにもかかわらず、多くのアメリカ人がオバマ大統領の改革に反対の声をあげた。その中には年収2万ドル(約160万円)以下の低所得者たちも大勢ふくまれていた。彼らは仕事で成功したいという意欲とアメリカンドリームを失わないために反対したのである。

 豊かな者が貧しい者を支えるというしくみは、本人の自発的な善意で行われるならば、大いに賛成である。しかし、高額所得者に対して、政府が強制的に高い税率を課すというのは、臓器提供を強制させるのと同じである。たしかに、臓器提供は人助けであり、腎臓ならばひとつ失っても生きていくことはできる。しかし、その人の身体が本人自身のものである以上、臓器提供を政府が強制することは社会正義として認められない。それと同様に、所得もまた本人自身の努力と才能と時間の成果であり、その人のものである。したがって、政府が高額所得者に高い税率を課し、強制的に所得の再分配をうながすやり方はまちがっている。所得税はすべての人に等しい税率を課すべきである。



B 公平である。

 所得の格差は、本人の努力や才能よりも、おもに社会的格差によって生じるものだからである。

 まず、人生のスタートラインは人によって異なり、ふぞろいである。前の総理大臣である鳩山由紀夫氏のように、祖父は総理大臣、父は外務大臣、母はブリヂストン会長の娘で、母親から毎月1000万円も「おこづかい」としてもらっている人もいれば、ホームレスとして道端で暮らしている親から生まれた人もいる。人生のスタートラインがそろっていないのに、その結果である所得についてだけ一律に課税すべきというのは矛盾している。

 また、社会的地位や所得の格差は、多くの場合、親から子へ引きつがれる。社会階層の固定化は多くの国でも見られるが、日本やアメリカのような貧富の差の大きい社会では、とくにこの傾向がはっきりあらわれている。日本の場合、高額所得者のほとんどは、働いて稼いだ「勤労所得」ではなく、不動産や株式から得られる「財産所得」を主な収入源にしている。例えば、鳩山家の場合、一切働かなくてもブリヂストン株の配当金だけで年間3億円近い所得がある。鳩山家はそれ以外にも莫大な不動産や株式を所有しているので、財産が生みだす所得は毎年十数億円にものぼる。勤労意欲を下げるという点では、このようなお金がお金を生みだす社会の仕組みのほうがよほど悪影響をおよぼしているのではないだろうか。たしかに、貧しい家庭に生まれ、苦学して学び、努力の末に社会的に成功したという人物もごくわずか存在する。しかし、こうした人たちは例外中の例外だからこそ、美談としてもてはやされるのであり、彼らを指して「ほら見ろ」という発想はまちがっている。こうした人たちは生き方の手本にはなるが、例外的な存在である彼らを基準にして社会政策のあり方を決めるべきではない。

 「そうは言っても、成功した人は努力も勉強もしているし、現代社会は封建社会みたいに、なにもせずに親の社会的地位を引き継げるわけではない」という人もいるかもしれない。しかし、そもそも、努力しようという意欲や「やればできる」という価値観は、家庭環境をはじめ、まわりから与えられたものである。東大生の親の平均年収が1000万円を超えており、他の大学よりも際だって高いのもそのためである。もしも、父親は強盗で刑務所に服役中、母親は麻薬常用者という家庭に生まれ、幼い頃から親に虐待され、「どうせお前なんか」となじられて育ったとしたら、「自分だって努力すればできるんだ」とはなかなか思えないだろう。

 さらに、才能や努力は本人のものだとしても、それを生かせる社会環境にめぐりあったことはたんなる偶然にすぎない。たとえば、イチローが野球選手として恵まれた才能を持っていることも、日々努力していることも疑う余地はないだろう。しかし、野球が人気スポーツで、スター選手に高額の契約金が支払われるという社会状況は、イチロー自身の才能や努力とは関係のないところで決まる事柄である。現在、イチローの年間契約金は1800万ドル(約15億円)であり、メジャーリーガー全体の平均は240万ドル(約2億円)である。240万ドルという額は、アメリカ人の平均年収の50倍にも達する。しかし、メジャーリーガーが昔から高額所得者だったわけではない。1975年の平均は4万5千ドルにすぎず、当時のアメリカ人の平均年収の3倍程度にとどまっていた。アメリカのスポーツビジネスはこの40年間で大きく変化し、野球選手の契約金も近年になって急激に高騰したのである。イチローが1975年ではなく、2010年の現在に現役選手であることは、本人の才能や努力とはまったく関係のないことであり、たまたまそういう社会状況に巡りあっただけのことである。さらに野球以外のスポーツ、例えばカーリングやアーチェリーのようなマイナースポーツの場合、選手たちは競技だけでは生活できないので、たとえ世界大会で一位になった選手でも、コンビニやスポーツクラブでアルバイトをしていることもある。彼らとイチローとでは、千倍近くの所得格差があるが、その才能や努力や情熱に千倍もの格差はないはずである。

 つまり、高額所得者というのは、恵まれた家庭環境に生まれ、「やればできる」と親や教師からはげまされて育ち、その才能や努力が社会的に評価される時代にたまたまめぐりあった幸運な人たちである。こういう人たちがそうでない人たちを支援するために、税をより多く負担するというのは、けっして不公平な社会のあり方ではないはずである。

 メジャーリーガーの1975年の平均年棒が4万5千ドルで当時のアメリカ人の平均年収の3倍程度というのは、先日NHKで放送していた「メジャーリーグ アメリカを映す鏡」というドキュメンタリー番組から。ベーブ・ルースジョー・ディマジオも大スターであったわりには、野球選手としての収入は大したことなかったという話はあちらこちらでよく見かける。



 文章を書きながら、年末にたまたまテレビで見た「ドラえもん」のことを思い出した。勉強も野球もサッカーも駄目なのび太にとって、唯一の取り柄はあやとりが上手なこと。でも、のび太が得意のあやとりを学校で披露してもクラスのみんなは冷ややかな反応しかしてくれない。そこでのび太は「もしもボックス」をドラえもんに出してもらって、「もしもみんながあやとりに夢中の世界だったら!」と叫ぶ。するとその瞬間から世界は一変する。学校へ行くとあやとりのテストがあり、休み時間にはスネ夫が得意げな顔で「ぼくの開発した新技なんだ」とあやとりを披露してクラスの人気者になっている。テレビでは「あやとり世界選手権」が中継されており、お父さんもお母さんも夕食を食べながら、プロ選手がくりだす華麗なあやとりの技に夢中になっている。お母さんはため息をついて言う。「はあー、のび太も少しはあやとりの才能があったらねえ、学校の宿題なんていいからもっとあやとりの勉強をしなさい、こんなことじゃ大学へも行けないわよ」。その世界では、大学入試にもあやとりの実技試験があり、あやとりのプロ選手になれば何億円も稼げるという。お父さんは苦笑いしながら言う。「おいおいお前、あんまりのび太に無理言うなよ、あやとりのプロ選手なんて雲の上のほんのひとにぎりの特別な才能の持ち主だけがなれるんだからさ、ははは」。のび太は、プロ選手の技をその場でやって見せ、「あんなの大したことないよ」とさらにアレンジを加えたあやとりをふたりに披露する。目を丸くするお父さんとお母さん。のび太の天才少年ぶりはまたたく間に町中の噂になる。のび太が町を歩けば知らない人たちから次々とサインを求められ、「ぜひうちとプロ契約を」とスカウトだかエージェントだかが野比家を訪問して一億円の契約金を提示する。しずかちゃんをはじめ女の子たちはみなあこがれのまなざしでのび太を見つめ、いじめっ子のジャイアンまで「今度オレにもあやとりを教えてくれよ」と羨望と尊敬のまなざしをのび太に向ける。のび太は上機嫌で言う。「いやあ、なんて素晴らしい世界だろう、世界は本来こうあるべきだったんだよ」……。



 30年ぶりに見たテレビシリーズの「ドラえもん」は、予想外に風刺のきいたセンス・オブ・ワンダーの世界だった。原作よりもシナリオが緻密に作られていて、主人公ののび太は小学5年生の少年としてそれなりに複雑な内面をもった存在として描かれていた。以前のテレビシリーズののび太は、ジャイアンスネ夫にからかわれるとすぐにべそをかいてドラえもんに泣きつくだけだったが、新しいシリーズではちゃんと言い返すのだ。さらにむくれたりおろおろしたりと表情も豊かで精神年齢が以前よりもぐっと上がった感じ。驚いたことにのび太が生身の男の子に見えるのだ。一方、ドラえもんは以前よりもちょっと駄目な相棒として描かれている。めんどくさがりでだらしなくて気に入らないことがあるとすぐ押入にこもってふて寝してしまう。そこでのドラえもんは、あくまで不思議な世界を開いてくれるのび太の友だちであって、けっして何でも夢をかなえてくれる保護者ではない。その解釈は物語の方向性として正しい。だって、ドラえもんが道具を出してすべて事件を解決してくれるのなら、それで話が終わっちゃうじゃない。道具は入り口にすぎず、その先に広がっている不思議な世界を主人公ののび太の視点を通して体験し、そこで彼が何を考え、どう行動するのかにこそ、この物語の魅力がある。のび太が近所の公園の池で恐竜の赤ちゃんを育てる話や死んだおばあちゃんにタイムマシンで会いに行く話は、読んでからもう30年以上たっているににもかかわらず、いまだに印象に残っている。ところが、はじまった当初のテレビシリーズでは、10分くらいの短編3本構成で、エピソードはきまってのび太が例の土管のある空き地でジャイアンたちにいじめられてドラえもんに泣きつくというものだった。「のび太のくせに生意気だぞー」「ドラえもーん!」というお馴染みのやりとりではじまる一連のエピソードを起承転結で示すと次のようになる。



 起 → のび太ジャイアンスネ夫にいじめられる

 承 → のび太ドラえもんに泣きつく

 転 → ドラえもんの道具によって、のび太の望みは一時的にかなえられる

 結 → のび太は道具の使い方をまちがえてしまい、最後にしっぺ返しを食う



 ほとんどのエピソードでこのプロットがくり返される。その記号化された世界では、のび太ドラえもんジャイアンスネ夫も書き割りか舞台装置にしか見えない。君たちは虫かよって感じ。10分程度の短い時間では、ドラえもんがポケットから取り出す道具は、話の山場であり、同時に話のオチでもある。そこから先に物語が展開していくことはない。もう30年以上もつづいているテレビシリーズなので、テレビアニメから「ドラえもん」に入ったこどもたちのほうが多いのかもしれないが、原作の愛読者だった小学生の私は、すぐにを見るのをやめてしまった。道具の向こう側に物語のない「ドラえもん」なんて、鼻でもほじって寝てるほうがずっとマシだった。ところが、先日見た新しいテレビシリーズでは、その後の30年間の変化なのか、リニューアルされた影響なのか、登場人物たちは生身の人間として動いていて、「その先にある不思議な世界」がていねいに描かれていた。驚きである。新しくなった主題歌も良かった。テレビの「ドラえもん」、少し見なおしました。