NHK FMシアター「薔薇のある家」

バイクで長い距離を走るとき、片耳にイヤフォンを入れてラジオドラマを聞いている。案外ラジオドラマは集中力を要求する。家で聞いていると集中力が持続できなくて、ついついお湯をわかしたり冷蔵庫の中を漁ったり部屋を片付けたりと結局途中で聞くのをやめてしまったりすることが多い。逆に運転中に聞くラジオは妙に集中力が高まる。深夜の閑散とした国道を走りながら聞いていると物語に吸い込まれるような感覚になる。最近聞いた中では、NHKでやっていた「薔薇のある家」という作品が良かった。(検索すれば動画サイトにアップされている海賊版が見つかると思います。)

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登場人物はふたり。場面転換は一切なく、一幕物の芝居のようにマンションの一室でのふたりの会話だけでドラマは展開していく。登場人物のひとりは往年の大女優という高齢の女性。もうひとりはその付き人の中年女性。往年の大女優を奈良岡朋子が、その付き人を大竹しのぶが演じている。女優は銀幕のスターとして華やかな過去を持っているが、年齢による衰えと怪我のため、役者としての出番はもうなく、実質的に引退生活を送っている。そのせいで、少々愚痴っぽく付き人にあたり、華やかだった頃の思い出を語るときは夢見る乙女のような口ぶりになる。その様子は切なくて少し怖い。付き人の中年女性は、そんな彼女のことを「先生」と敬意を込めて呼び、長年にわたって献身的に支えている。女優の愚痴や思い出話にも一定の距離をとりながらつきあい、相手のわがままをいさめるように対応する。ところがふたりの会話がすすむにつれて、付き人の女性には「先生」に対してふくむところがあること、さらにふたりの関係はたんに女優とその付き人ではないことがわかってくる。このあたりの会話の転がり方がうまい。やがてふたりのやりとりは、互いの心の急所をぐりぐりえぐるような調子を帯びてくる。あの時あなたはこう言った、いやあの時私はこう言ったつもりだった、でもそれならどうして……と。怖い、とくに大竹しのぶが怖い。ふたりの関係や相手に抱いているコンプレックスや後ろめたさは、イングマール・ベルイマンの「秋のソナタ」によく似ている。表面的には穏やかに接していているふたりがふとした一言で、それまでため込んできたわだかまりや嫉妬心が吹き出す。「秋のソナタ」のイングリッド・バーグマンとリヴ・ウルマンのやりとりも、互いの心のもろい部分をえぐるような会話がえんえんと続いて、見ながらのたうち回った記憶がある。



ドラマは終始マンションの一室でのふたりの会話によって進行し、ナレーションもモノローグも一切入らない。会話だけで心の中をひたすら縦に掘り下げていく感覚。最後まで聞いて打ちのめされてもうぐったり。ラジオドラマは会話が際立つぶん、一幕物の心理劇に向いていると思う。脚本はオカモト國ヒコという関西の小劇場で活動している人。憶えておこう。こういうシナリオは舞台中心に活動している作家でないと書けないんじゃないだろうか。

→ Blog オカモトの「それでも宇宙は広がっている」