猫をなでる

勤務先に隣接している看護学校には、玄関先に猫小屋がふたつならんでいて、有志の職員や学生によって野良猫が保護されている。猫小屋のわきには連絡帳が置かれていて、猫の体調や補充したエサについて詳細に記されている。ずいぶん大事にされている様子で、そのため片目のないおばあさん猫のほうはすっかり人慣れしており、日中、のそのそと猫小屋を出てきては、看護学校に出入りする人間たちをものともせず、入り口の玄関マットに長々と寝そべっている。昼休みに彼女のアタマを撫でるのがすっかり日課になっている。


猫が街角で昼寝をしている風景というのは、自分とは違う時間を生きている存在を身近に感じられていいと思うのだが、人間様の論理がすべてだと思っている人には目障りに映るらしい。路地裏をうろうろしている野良猫を見かける機会が減ってきているにもかかわらず、役所に寄せられる猫の苦情件数は増加傾向にあるという。20世紀なかば、ドイツの思想家たちはこうした発想を「道具的理性」と呼び、近代的理性への批判を展開した。近代的理性は先入観を捨て公正で客観的なまなざしによる論理的判断とされてきたが、彼らによると、実際には、人間がいかに利用するかという発想に基づいて自然を道具化する思考様式だという。例えば、目の前に樹齢千年の巨木があるとする。近代的理性は、その巨木に生命の神秘や畏敬の念を感じるのではなく、切り倒して丸太にしたら一本いくらで売れるのか、引っこ抜いて跡地を駐車場にしたら月々どのくらいの収益が見込めるのかという考え方をする。身も蓋もない言い方だが、それが近代人の「理性」の正体であり、同時にこの思考様式が近代人の孤独感の原因になっていると指摘する。そこでは、30年ローンで買った建て売り住宅の玄関先には、「一歩たりとも」の意志表明として水の入ったペットボトルがずらっと並べられ、逆に観光地の客寄せに利用できる場合には動くキャラクターグッズとして持ち上げられる。排除も愛玩も、自然を人間から切り離された存在として対象化し、人間が利用するための道具と見なしている点ではかわらない。


野良猫への風当たりがきびしくなる一方で、猫好きの間では「完全室内飼い」がさかんに推奨されている。ネットのコミュニティは同調圧力の強い閉じた小宇宙になりやすいため、愛護をとなえる人たちも駆除をとなえる人たちも同じような考え方の人たちばかりが集まって、そこでのコンセンサスも極端な方向へ転がっていく。完全室内飼いを推奨している人たちによると、猫を屋外に出すことで、病気感染や交通事故のリスクが飛躍的に大きくなり、屋内で飼育されている猫が十数年生きるのに対し、野良猫の平均寿命は三年だという。極端な人になると、「猫を外に出すなんて虐待と同じ」「完全室内飼いできない人には猫を飼う資格がない」と主張している。ただ、野良猫の平均寿命が三年というのは一種の数字のトリックで、野良猫の場合、一歳未満の仔猫の死亡率がやたらと高いために平均すると三年になるという意味である。ちょうど「江戸時代の平均寿命が四十歳」というのと一緒である。私がこどもの頃、隣家の床下になかば野生化したメスの野良猫が住みついていて、毎年、春から夏にかけて数匹の仔猫を産み、彼女の懸命の子育てにもかかわらず、そのほとんどは一歳まで生きられなかった。そのため、「野良猫の平均寿命が三年」といっても、江戸時代の人間が四十前後で老け込んで寿命を迎えたわけではないように、野良猫は病気や怪我で三歳くらいまでしか生きられないという意味ではない。また、猫の感染症としてしばしば指摘されているのはネコエイズ(FIV)だが、ヒトのエイズHIV)とは性質が異なり、近年急激に感染が広がったというものではなく、死亡率もHIVのようには高くない。むかしからネコ科の動物の感染症としてあったものが、近年のウィルス研究によってしだいにそのしくみが解明されてきたというだけなので、あまり神経質にならなくてもいいのではないかと思う。


私は生き物といっしょに暮らすことを生きたぬいぐるみとして愛玩する行為ではなく、彼らを通して自然をのぞき見ることだと考えている。なので、猫を室内飼いにするのか屋外に出すのかも、生活状況や周囲の環境に応じてそれぞれ飼い主が判断すればいいのではないかと考えている。アニミズム信仰の根強かった日本では、古来、猫も狸も狼も山の神のたぐいと見なされてきたが、私の彼らへのまなざしもそれに近い。昔、我が家に住みついていた大きな猫も隣家の床下に住みついていた母猫も、みな生きる術に長けていて、連中を見ているとなんだか自分がこの世界のことをなにも知らないひ弱な存在に思えた。何年か前、ヤフーの掲示板を見ていたら、完全室内飼いを推奨していると思われる人から「なぜいまだに猫を屋外に出す人がいるんでしょうか?」という少々批判めいた質問があったので、こんな文章を書いたことがある。わりとうまく書けたような気がするので、少し手直しして、ここに載せておきます。

 現代では猫にネズミ取りの役割が求められなくなってきたため、外猫や野良猫への風当たりはしだいにきびしくなってきました。ただ、猫は本来屋外で生活する動物ですし、日本のように外猫や野良猫に神経質になっている社会というのはかなり特殊な状況です。世界中どこでも人間の暮らす土地ならば猫たちは屋外をうろうろしていますし、南欧や東南アジアでは、屋台や安食堂にもよく猫がやってきて、じっと客の顔を見つめ、ちょうだいと無言の圧力をかけたりしています。もちろん、しょうがないなあと食べ物をわけてあげる人もいれば、あっちへ行けと追い払う人もいるわけですが、たいていの店主はそれを黙認していて、あえて猫を閉めだすようなことはしません。人と猫の関係はそれくらいがちょうどいいのではないか、声高に排除をとなえるのも高価なアクセサリーのようにペットの猫を溺愛するのも同じように自然を道具化する行為ではないか、と思っています。


 猫が古代エジプトやシュメールで家畜化されて数千年になると考えられていますが、その間、猫たちはネズミ取りのためにただ放し飼いにされてきた存在です。家畜といっても、イヌやヒツジやウシやブタとちがって、繁殖をコントロールされることもなく、品種改良もされていないので、姿形や習性は原種のヤマネコとほとんど変わりません。人間の暮らしのまわりで放し飼いにされ、エサをもらったり追い払われたりしながら、数千年にわたって人とつかず離れずの関係で共生してきた「半野生動物」というのが彼らの生態ではないでしょうか。その暮らしぶりをいまふうにいうと「野良猫」ということになりますので、私はむしろ野良猫や外猫の暮らしこそ、猫本来の姿ではないかと思っています。猫を「ペット」として室内のみで飼育するのは、わずかここ十数年の習慣にすぎませんし、猫と人間とのかかわりの歴史という点では、むしろこちらのほうが特殊なケースのように見えます。そういう意味で、完全室内飼いこそが「正しい猫の飼い方」で、猫を外に出すのは「おくれた考えかた」という発想は、少々視野が狭いのではないかと思います。


 ただ、日本の多くの地域では、都市化が進行したために、しだいに猫を外に出しにくくなっていることも事実です。高層住宅で猫を飼っていたり、家のすぐ前を四車線の国道が通っていたりする場合には、猫を外に出すのは非現実的です。逆に、古い家に住んでいて、家のまわりには里山や雑木林があるという環境の場合、猫を室内だけで飼うのはやはり非現実的ではないでしょうか。とくに縁側があるような解放構造の日本家屋の場合、猫を外に出さずにいるためには、暖かい季節になっても縁側を締め切ってエアコンで暮らさねばならないので、完全室内飼いにするのは無理があるように思います。なので、暮らしている環境に応じて、猫を外に出すか、室内で飼育するかを判断すればいいのではないかと思います。そもそも猫が屋外で暮らしにくい環境というのは、人間にとっても暮らしにくい環境ではないかと思います。


 また、野良猫をひきとった場合、仔猫のときから室内飼いにされてきた猫とちがって、完全な室内飼いにするのはかなりの困難がともないます。多くの場合、猫はストレスのためにカーテンに飛びついたり広げた新聞紙を引き裂いたりして、外に出せとアピールします。そういう場合でも根気よくしつけていけば、野良猫を室内飼いにすることは可能ですが、住んでいる地域がよほど猫が暮らすのに向いていないのでない限り、あえてそこまでして室内飼いを強いることには疑問を感じます。


 生き物といっしょに暮らすことは、ペットとしてただ可愛がるだけでなく、彼らを通して自然をのぞき見る窓を手に入れることでもあります。たしかに猫を外に出すことで、事故や病気感染や心ない人による虐待の心配があるのも事実ですが、その一方で外に出ることで猫が学ぶこともたくさんあります。他の猫たちとのつきあいかたを学び、狩りの方法を学び、犬やカラスのような危険な存在への対処方法を身につけ、自然環境の中で生きていくすべを身につけていきます。とくに里山や雑木林のある地域では、本来の生き物としての姿を見せるようになります。そうした彼らの様子に触れることで、身近な自然への理解も深まっていくのではないかと思います。彼らといっしょに暮らす意義は、人間の側に引き寄せて擬人化することではなく、人間の論理や尺度が通じない存在と身近に接することで、気持ちが通じたり通じなかったりしながら、自らのまなざしを相対化できることにあるのではないでしょうか。なので、地域の環境や住環境が許すならば、猫を外に出したほうが彼らにとっても人間にとってもメリットが大きいのではないかと考えています。


昔、我が家に住みついていた大きな野良猫。オス。年齢不明。長いことうちの界隈のヌシのような存在で、我が家ではクロと呼んでいたが、方々で違う名前で呼ばれていた。私が中学生の時に夕飯の残り物をあげたことが縁で我が家の軒先に住みつくようになった。じゃれたり鳴いたりすることは一切なく、呼びかけるとじっとこちらを見据えてかなり的確に意図を読み取っているようだった。そうやって周囲の人間たちをよく観察することで世知辛い世の中を渡ってきたんだろう。大したもんだと思う。やけに立派な奴だったので、縄張り巡回中のところに出くわして、近所を一緒に並んで歩いていると自分のほうがこの世界のことをなにもわかっていない赤ん坊のように思えた。晩年はげっそりと痩せてしまい、西日の当たる窓辺でいつも寝ていたが、写真はまだ元気だった頃のもの。私はいまもこの猫のことを我が家の軒先にしばらく住みついていた山の神のたぐいだと思っている。写真左端に写っている金盥みたいなのは大食いのヌシ殿のお供え物用。野良猫生活の長いクロは出された食料はすべて一度に平らげた。


雨の日のクロ。本日の縄張り巡回から帰ってきたところ。勤勉である。後ろのふにゃふにゃにしたのは子分のチビ。クロは強面の見かけによらず、仔猫や若い猫の面倒見が良かった。子分のチビ以外にも、時々見かけない仔猫を連れてきて自分の食料を分けてやったりしていた。自分の縄張りにいる仔猫や若い猫はぜんぶ自分のこどもだと思っていたのかもしれない。私はクロのことが大好きだったが、すべての猫が好きなわけではないし、そもそもすべての猫を知っているわけでもないので、猫好きなんですかと聞かれると返答に困る。猫の場合、明確に自我があるので、「カブトムシが好き」とか「ネオンテトラが好き」とは同列に語りにくい。猫にも気の合う奴とそうでない奴とがいるのである。


隣家の床下に住みついていた野良猫の息子。母猫の懸命の子育てにもかかわらず、夏に生まれた仔猫の生存率はとくに低く、五匹生まれて冬を越せたのはこいつだけだった。大雪の降った二月には、兄弟の一匹が我が家の軒先で凍死していた。子別れで母猫に追い払われた春頃から我が家のほうにやってくるようになり、結局、そのままうちの猫になった。逆三角形の神経質そうな顔と用心深い性格は母猫にそっくり。半ば野生化していた母猫からサバイバル術を徹底的に仕込まれたおかげで身のこなしに隙がなく、たいていのことはそつなくこなした。母猫のほうは夕暮れ時になると「ギャーローン」と化け猫のような声で鳴いて周囲の住民を陰気な気分にさせていたが、そこは幸い似なかった。母は自分を頼ってくる無力な存在というのが大好きらしく、唯一生き残ったこいつを溺愛するようになり、猫のほうも母以外には懐かなかった。写真でも、いつでも逃げ出せるよう前足に重心をかけ、こちらをうさんくさそうに見ている。なーんだよ、おまえという感じ。溺愛する母のせいで栄養状態がいいらしく、背中が妙にてかてかと黒光りしている。母の転居先に連れて行かれ、1999年に13歳で死んだ。