ドッグ・ウィスパー

CS放送でやっているドッグトレーナーの番組をまとめて見ている。飼い主からの依頼を受けてドッグトレーナーが家庭訪問し、「我が家の困ったわんちゃん」の再教育をするというビフォー・アフター番組。番組ホストはシーザー・ミランというロサンゼルスを拠点に活動しているドッグトレーナーで、番組もアメリカで製作されている。
http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/411
http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/589


我が家の困ったわんちゃんの典型的なパターンは、飼い主のいうことをぜんぜん聞かない、攻撃性が強い、他の犬に噛みつく、散歩中に通行人に襲いかかる、おもちゃや食料に執着して取りあげようとすると飼い主にまで牙をむくというもの。あきらかに飼い主との主従関係が逆転したことによる犬の支配行動である。こういう場合、ドッグトレーナーがどんなにうまくしつけても、飼い主のところへ帰ると一週間もしないうちに元の困ったわんちゃんに戻ってしまう。犬の問題行動の原因が飼い主のリーダーシップの欠如にあるからだ。そこで、シーザー・ミランのやり方は、犬のトレーニングよりも飼い主のトレーニングのほうに重点を置いている。「犬はいまを生きています、どんな過去のある犬でも、飼い主であるあなたが変われば変わります」と彼は言う。そうして飼い主が犬に対してリーダーシップをとれるよう、あれこれとアドバイスしていく。


彼のトレーニング方法は、群れのリーダー犬が仲間に対して行う行為を手本にしている。まず、犬に対してこちらがリーダーであることを示す。犬の目を見ない、犬に話しかけない、犬が吠えても後ろにさがらない。穏やかに毅然とした態度で犬に近づき、こちらがボスなんだとわからせる。やがて犬があきらめて服従したところで、やってはいけない行為をひとつひとつ教えていく。他の犬に飛びかかろうと身構えたらその場で注意する。自分よりも先に外に出ようとしたらやはりその場で注意する。待てと言っているのに動いたらまたその場で注意する。彼は犬に注意するとき、「シッ」という短い警告音を発し、犬の首筋を指先でつかむ。リーダー犬が仲間に警告する際、首筋を軽く噛む動作を模したものだという。そうしてやってはいけない行為をその場その場で犬に教えながら、同時に飼い主にも同じようにリーダーシップをとるよう要求する。たいていの場合、飼い主が同じことをやろうとするとうまくいかない。そこで、「いまのは腰がひけてましたね、もっと毅然と」「そこで後ろにさがらない」「犬を先に行かせない」「犬を叱るときは名前を呼ばないこと、犬が混乱しますよ、名前を呼ぶのはこちらへ来させるときとほめるときだけにしましょう」「攻撃的な犬が飼い主の膝の上に乗ろうとするのは、相手を服従させようとする支配行動です、よく強い犬が弱い犬にのしかかって群れの中の順位を確認しようとするでしょう、あれといっしょです、甘えてるわけじゃありませんので、そこで頭をなでてしまったら、また、犬の子分に逆戻りですよ」という調子で具体的にアドバイスしていく。彼のアドバイスはいたって明解だが、犬の状態を見きわめるには、熟練していないと難しそうだ。たとえば犬が低くうなり声をあげていても、それが支配行動なのか、おびえているのか、たんに縄張りを主張しているだけなのか、それによって対応も異なるのだが、なかなか素人目には判断がつかない。番組に出演した飼い主たちも口をそろえて「まるで魔法みたいだ」とシーザー・ミランのトレーニングぶりに驚嘆する。しかし、それが魔法に見えてしまったら再現性がないわけで、彼の鮮やかな腕前を披露するエンターテインメント番組としては良くできていても、実用的な犬のトレーニング番組としては情報量が不足している。そのせいか、毎回、番組の冒頭に「素人がマネするな」という警告文が表示される。マネできないのなら役に立たないじゃん。


たいていの犬と飼い主は、番組のトレーニングを経て見違えるように改善する。彼は言う。「飼い主のみなさんは、群れのリーダーとして穏やかに毅然と振る舞いましょう、問題を抱えた多くの犬は、愛情だけを与えられてきたせいで精神的に不安定な状態に陥ってます、犬に必要なのは運動と規律と愛情です、あなたが良いリーダーになることで犬には心の安定がもたらされます、心の安定した犬は最高の友達です」。そうしてめでたしめでたしで、毎回、番組はエンディングを迎えるのだが、ただ、番組を見るたびにいつもひとつの疑問が頭をよぎる。そもそも犬は「ペット」に向かない動物ではないのかという疑問だ。


働く犬たちは、番組に出てくる犬のような問題行動を起こさない。狩りの相棒として野山を駆けまわり、牛や羊の群れを追っているような犬たちは、運動も十分だし、一日の終わりに「今日はよく頑張ったな」と頭をなでられるときの充実感もひときわ大きいだろう。仕事という明確な目的を目指して犬と飼い主は結びついているので、わざわざ服従訓練などしなくても、そこには必然的に指示を出す者と実行する者との間に規律や主従関係が生まれる。ペットとして飼われている犬たちにはそのいずれもない。なにをすればいいのかわからない暮らしは犬にとってさぞやフラストレーションがたまるだろう。飼い主が忙しくて散歩もままならないという場合、シーザー・ミラントレッドミル(ルームランナー)を用意する。犬は本来、一日に数十kmも移動するほど行動範囲の広い動物なので、合理的といえば合理的なやり方だが、ベルトコンベアの上を太り気味の犬がせっせと走っている映像を見ながら、そうまでして犬を飼うのかと思う。一方、多くの飼い主たちはペットとして犬をただ可愛がる。そもそもペットというのは可愛がることを目的に飼育される存在だから、それは当然の行為だ。そこには働く犬との関係のような一定の距離や規律はない。犬は「家族の一員」であり、小さなこどものように飼い主一家の愛情を一身に集める。しかし、犬と人間では習性が大きく異なる。犬のコミュニケーションは基本的に支配と服従の関係で成り立っており、飼い主が犬のことを「うちの可愛いベイビー」だと思っていても、犬にとって溺愛して甘やかす飼い主は自分の言いなりになる下僕でしかない。飼い主が愛情を注げば注ぐほど、犬はますます支配的になり、自分への服従を要求する。悪循環が生まれ、犬の支配行動はエスカレートし、ついには飼い主の手に負えなくなる。番組に警察官をしているという中年男性が登場した。彼は奥さんと中学生くらいのこどもと郊外の住宅地に暮らしている。そこに一年ほど前から、ポメラニアンみたいな小型犬が「家族の一員」となった。彼は仕事のストレスとその反動で、その小型犬を溺愛している。家にいるときはいつも膝の上に乗せ、つぶらな瞳を見つめてはふさふさした背中をなでている。当然、犬は家中を支配するようになり、気に入らないことがあると飼い主にも牙をむくようになった。「ふだんは可愛いんですけど、暴れ出すともう手に負えなくって、小さな天使が悪魔に豹変するんです」と奥さん。「息子さんが問題行動を起こしたら叱ったでしょう、犬は叱らないんですか?」とシーザー・ミランはなかばあきれ気味に言う。「あたしは叱るんですけど、夫が甘くって」と奥さん。一方、警察官氏は「いやまあ」とあいまいに言葉を濁して苦笑する。どうやら思春期で難しい年頃の息子よりも犬のほうがよっぽど可愛いという様子。「息子に噛みついても、うちの人は叱らないんですよ」と奥さんもあきれ気味。そこでシーザー・ミランはこうアドバイスする。「警察官として働いているときの雰囲気はいまとまったくちがいますよね、犬に接するときも警察官として振る舞ってください、自分はいま治安の悪い地区をパトロールしている、そう自分に言い聞かせて周囲を支配する毅然としたエネルギーを出してください、そうしないかぎり犬の問題行動はなおりませんよ」。彼が警察官モードに入ると犬の様子は一変した。群れのリーダーとして認めたのである。シーザー・ミランは言う。「愛情と尊敬はちがいますよね、リーダーとして尊敬を得ないと犬は言うことを聞いてくれません、リーダーの仕事は24時間休みなしです、その調子でがんばりましょう」。番組に登場した夫婦は愛犬が良い犬になったと喜んでいたが、24時間警察官モードだなんて私には悪い冗談としか思えない。そもそもこのお父さんは仕事のストレスから解放されたくて愛玩犬を飼い始めたというのに、これでは本末転倒ではないのか。家に帰っても警察官を演じなければならないとなると、今後、あのお父さんはいったいなんのために犬を飼うのだろう。つぶらな瞳のふわふわしたやつをなでていたいだけなら、犬のようなアグレッシブな捕食動物ではなく、ウサギやハムスターのほうが向いてるのではないのか。テレビを見てるときも昼寝してるときも常にリーダーらしく毅然と振る舞いましょうなんて、まるで自分の家がゲルマン・アーミーの駐屯所になったみたいである。


イヌ科の動物はキツネを除いて「ハンティング・パック」と呼ばれる群れをつくる。草原での狩りに適応した結果であり、ネコ科の動物が瞬発力で狩りをするのとは対照的に、イヌ科の動物の狩りは、獲物を長時間にわたって追跡し、じわじわと追い詰めていく。そうした追跡型の狩りでは、群れの仲間との連携がとくに重要になる。オオカミやジャッカルは、獲物を追い込む地点にあらかじめ数匹を配置させたり、追跡中に数匹が回り込んで獲物の退路を断つといった高等戦術まで用いる。そのため、群れの仲間とはふだんからコミュニケーションを密にとっており、ことある事に群れの中の順位を確認する。順位が上の個体は相手にのしかかり、下の個体は腹を出して寝そべって服従の姿勢をとる。だから、群れの秩序を保つためにリーダーは常に穏やかで毅然と振る舞えというシーザー・ミランのアドバイスは、イヌ科の動物の生態に基づいており、その点では、理にかなっている。また、大型犬の場合、飼い主のコントロールを失うと危険でもある。なんせ彼らはオオカミの末裔であり、ノミの刃のように鋭くとがった牙は人に致命傷を与えることができる。ただ、狩猟犬や牧羊犬やそり犬のように、なにかをさせるためにそういう支配と服従の関係を築いていくならわかる。そこにはそうせざるを得ない目的と必然性があるからだ。しかし、ペットの犬の場合、主従関係を築いた先にはなにもない。狩りをするわけでもなく、羊の群れを追わせるわけでもなく、雪原でそりを引かせるわけでもなく、ただ人間に従順な存在にすること自体を目的に犬を服従させる。「信頼できるリーダーに服従するとき、犬の心はもっとも安定した状態になります」とシーザー・ミランは言う。たしかにイヌ科の動物は序列のある群れをつくり、リーダーの命令一下で群れは動く。それはイヌ科の動物の習性だから良いとか悪いとか言うようなことではない。しかし、人間はそうではない。人間の側が狩りをするわけでもないのに犬を飼い、犬の習性にあわせて日夜ハンティング・パックのリーダーとして暮らすというのは、なにかひどく倒錯的なことをしているように見える。それはSMプレイや兵隊ごっこを日常的に繰り広げるようなものではないのか。父権主義を標榜し、マッチョであることを生き方の指針にしている人ならそれでもいいだろうが、たいていの人はそうではないだろう。少なくとも私は誰の主人にも下僕にもなりたいとは思わない。


また、番組内では一切触れられていないが、現在、純血種の犬の品種改良はかなり危機的な状況に陥っている。19世紀末のイギリスで犬を「ペット」として飼育する習慣がはじまると、人々の間によりめずらしい犬がほしいという需要が高まっていく。飼い主の所有欲や美意識を満たすために犬の品種改良はエスカレートし、ダックスフントの足は年々短くなり、ブルドッグは年々鼻面が縮められ、チワワをはじめとする小型犬はますます小さく品種改良されていった。その結果、多くのダックスフント椎間板ヘルニアの持病を抱えるようになり、ブルドッグやパグは慢性的な呼吸困難を患っている。さらにチワワなどの小型犬はあまりにも小さく品種改良されたため、自然分娩は不可能になり、出産時には獣医師による帝王切開が必要になる。犬が安産の象徴だったのはもはや過去の話である。ペットの場合、労働犬と異なり、明確な目的があって飼育されるわけではないので、品種改良も需要と供給の市場原理によって歯止めがきかなくなりやすい。その品種改良は近親交配をくり返すことで行われ、現在、ダックスフントの足もブルドッグの鼻面も150年前とくらべて半分くらいにまで縮められている。そのため、純血種の犬には、先天的に健康上の問題をかかえている犬が多い。こうした状況をふまえて番組を見ると、「犬は最高の友達」というシーザー・ミランの言葉が皮肉な意味合いをおびてくる。


私の自然観は、おもにこどもの頃に夢中で読んだ「ファーブル昆虫記」と学生のころに愛読したスティーブン・グールドの科学エッセイからできている。私にとって身近にいる生き物たちは自然をのぞき見る窓であり、細い路地をのそのそと猫が歩いているのを観察するのも、近所の池に産卵したヒキガエルの寒天状の卵塊を観察するのも、庭のエノキの葉にテントウムシの小さなサナギがついているのを観察するのも、それを通して自然をのぞき見る行為だと思っている。しかし、テレビのペット番組は、犬や猫を人間の側に引き寄せるばかりで、向こう側がまったく見えてこない。お手やちんちんをする犬も、音楽にあわせて踊る猫も、私は少しも可愛いとは思えない。それよりも、野犬の群れや放し飼いの猫たちが人の目の届かないところでどんな暮らしを送っているかのほうがよほど興味深い。生き物といっしょに暮らすというのは、彼らを人間の支配下に置いて動くぬいぐるみとしてあつかう行為ではないはずである。この種の番組を見るたびにいつもそんなことを思う。