選挙の戸別訪問

 選挙における戸別訪問の是非について課題を出した。出題は次の通り。


 論述問題 選挙の戸別訪問

 選挙活動の際に候補者やその支援者が自分の考えを知ってもらうために家々を訪問してまわることを「選挙の戸別訪問」といいます。日本では公職選挙法138条で禁止されています。
 選挙の戸別訪問の禁止については裁判でも争われており、1981年の最高裁判決では、選挙買収を予防し、訪問を受ける人の静穏な生活を守るために、戸別訪問の禁止には合理性があるという判断が示されています。
 しかし、直接面会して候補者の話を聞くことは、誰に投票するかを決める際に重要な判断材料になります。そのため、日本以外のほとんどの国では、候補者やその支援者による戸別訪問は選挙活動のひとつとして認められています。また、選挙カーが大音量で候補者の名前を連呼する日本独自の選挙活動が広まった背景には、戸別訪問が禁止されていることがあります。
 はたして選挙の戸別訪問は認められるべきなのでしょうか。次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。ただし、「選挙に興味がないから」「来られるとめんどうだから」という個人的事情ではなく、どうすればより良い社会になるのかという公共の利益の立場から論じること。

 

A 選挙の戸別訪問を認めるべきである。
 選挙の候補者が家々を回って自分の考えを説いて回り、支持を集めることは議会制民主主義の根本であり、それを禁止するのは表現の自由に対する重大な侵害である。訪問セールスや宗教の訪問勧誘がそれぞれ「経済活動の自由」「宗教活動の自由」として認められているのに、選挙の戸別訪問だけ禁止されているのはきわめて非合理的である。民主的な社会を守っていくという点では、むしろ、選挙の戸別訪問のほうがセールスや宗教の勧誘よりも社会的重要性は高いはずである。
 日本における選挙の戸別訪問の禁止は100年近くも昔の大正時代にはじまった。この頃は、多くの人たちが民主主義や選挙がどういうものなのか理解しておらず、候補者の戸別訪問は選挙買収の温床になるというのが禁止の理由だった。しかし、現代では、教育の普及によって、民主主義における選挙の役割やその重要性は多くの人に理解されているはずである。また、選挙買収については、現在ではきびしい罰則がもうけられており、たとえ缶ジュース1本でも6年以下の懲役刑が科せられる。選挙買収の予防的措置として戸別訪問を禁止する合理性はもはや失われている。
 1981年の最高裁判決では、人々の静穏な生活を守る上で戸別訪問の禁止には合理性があるという判断が示されたが、当時と現在では、日本人の生活様式は大きく異なっている。1980年代はじめ頃までは、ほとんどの家庭は玄関にカギをかけず、暖かい季節には玄関を開け放っており、訪問セールスや新聞の勧誘の人たちが勝手に屋内に上がってきてセールストークをまくしたてるという光景が日常的に見られた。このような生活環境では、選挙の候補者やその支援者が勝手に上がってきて話し込んでいくという状況も想定できた。しかし現在では、もし話を聞きたくなければ玄関先で断ればいいだけのことであり、わざわざ法律で選挙の戸別訪問を禁止する根拠にはならないはずである。
 候補者の話をじっくり聞いた上で誰に投票するかを判断するというのは、議会制民主主義のあるべき姿である。日本では選挙の戸別訪問が禁止されているためにその代わりとして選挙カーでひたすら名前を連呼する選挙活動が行われているが、むしろ法律で規制すべきなのは戸別訪問ではなく、大音量で名前を連呼するばかりでなんら中身のない選挙カーのほうではないだろうか。

 

B 選挙の戸別訪問の禁止を維持するべきである。
 現代では、静かでおだやかな生活を求める傾向はますます強まっている。現代人にとって、自室というプライベートな空間で静かにすごしたいという願望は、プライバシー権と同様にもはや基本的人権のひとつといえる。だからこそ、日本の住宅は密閉性と防音性を重視した構造になり、どこの家でも玄関にカギをかけるようになったのである。こどもが友だちの家に遊びに行く際にもあらかじめ電話で連絡するのが一般的になっている現代において、いまさら選挙の戸別訪問を解禁するというのは、日本人のライフスタイルの変化に逆行するものである。
 選挙の戸別訪問は、「民主主義における重要なイベント」という大義名分があるぶん、訪問セールスや宗教の勧誘よりも押しつけがましいものになりやすい。もし選挙の戸別訪問が解禁されたら、玄関先で訪問を断った相手から、「あなたは日本の社会になんの疑問も感じていないんですか!あなた馬鹿なんですか!」と罵倒(ばとう)されることもありえる。
 たしかに直接会って話を聞くことによって、選挙公報やインターネット上のWebサイトだけではわからなかった候補者の人柄や話しぶりにふれることができる。しかし、そうした機会は公園や公民館のような場での演説会や討論会をもよおすことで確保できる。民主社会の基本はあくまでひとりひとりの「能動的な」社会参加である。自宅への候補者や支援者の訪問という受動的な機会をつくるよりも、人々が自らの意思で参加する演説会や討論会を数多く開催することのほうが能動的な社会参加という点ではるかに建設的ではないだろうか。