初島の猫


初島相模湾に浮かぶ周囲約4キロの小さな島。住民は200人あまり。古くから漁業と農業がさかんで、近年ではリゾート開発がすすみ、観光地化している。この島で多くの猫が餓死しているという。原因は野良猫が多いのは観光地としてイメージダウンになるという判断から、十数年前から、島をあげて猫へのエサやりをやめるよう呼びかけていることによる。島のあちらこちらに「猫へのエサやり禁止」のポスターが貼られ、猫にエサを与えようとする観光客には、住民から注意がうながされている。その結果、多いときには200匹近くいた野良猫は、現在では50匹前後にまで減少した。これに対して動物愛護団体から、食料を絶つことでじわじわと餓死させ、全滅に追い込むというやり方はあまりにも残酷だとクレームがつくが、自治体も島民も取り合わず、猫の保護活動をしているボランティアと自治体・島民との間で対立がつづいている。当初、愛護団体は猫に不妊手術を施すとともに「地域猫」として島で生きていけるよう自治体に働きかけていたが、島民・自治体からの理解は得られず、現在は飢えた野良猫にエサをやるとともに、島から「救出」し、熱海市にある愛護団体の「猫シェルター」で保護しながら、里親をさがしをつづけている。一方、島民・自治体からは、この「救出活動」についても支持されておらず、猫を保護しようとする愛護団体のボランティアは、島民から狂信的なカルト集団のように見なされており、しばしば罵声が浴びせられているという。また、自治体は「猫殺しの残酷な島」というイメージが広まることによる観光業へのダメージに神経質になっており、愛護団体のWebサイトの初島の状況を批判する文書に対して削除要求をするなど、自治体と愛護団体との間でも対立が続いている。

 → Wikipedia「初島」

 → 初島の猫の救出活動をしている団体「静岡動物愛護 犬猫ホットライン」のWebサイト

 → 保護活動に参加している人のブログ「時歌の日記♪」2009-01-18

 → 猫シェルターの様子「世界はニャーでできている。」2009.01.25

 → 静岡県生活衛生局生活衛生室「初島の猫について」

 → 静岡動物愛護犬猫ホットラインWebサイトによせられた熱海市からの文書削除要求

 → 熱海新聞に25回にわたって連載されたエッセイ「わが輩は初島の猫である」

 → 同エッセイのPDF版(ダウンロード)



たしかに逃げ場のない小さな島で、兵糧攻めによって野良猫をじわじわと餓死に追い込んでいくやり方は、ひどく残酷に見える。この初島の状況について、保護活動をしている人たちやそれを支持する人たちの言いぶんをまとめるとだいたい次の3つに集約される。


1.初島の野良猫たちは、ネズミ退治のために本土から連れてこられた猫の子孫である。その後、ネズミが減り、野良猫が増えたからといって、今度は邪魔者あつかいするのはあまりにも勝手である。

2.猫は野生動物ではない。野生の猿や鹿と異なり、野良猫が人間からエサをいっさいもらえなくなったら、飢え死にするしかない。どうしても野良猫の数を減らしたいのなら、去勢手術や不妊手術をほどこしていけば、殺すことなく十数年後には「猫のいない島」になるはずである。その手間と費用すら惜しみ、ただエサを止めることで猫を餓死に追い込み、生命をうばうやり方はあまりにも残酷である。初島のような小さな島では猫たちに逃げ場すらない。

3.野良猫が観光業にマイナスになるという発想がそもそも時代錯誤である。野良猫の多い観光地は日本各地に数多く存在する。「駅長のたま」のように人慣れした野良猫が観光の目玉になっている土地もある。野良猫が観光客や住民からエサをもらってのんびりしている風景は、多くの人をなごませ、観光地ののんびりした雰囲気を演出することにもなる。

個人的には3つめの言い分については全面的に支持する。野良猫のいないリゾート地という発想はいかにも土建業者的という感じがする。島全体を遊園地のような人口空間にしたいのなら別だが、そうでないのなら野良猫と人とが共存している暮らしは観光地としてけっしてマイナスにはならないだろう。世界各地をバイクで旅しながら犬や猫のエッセイを書いているこちら↓の人のブログによると、世界中どこの街にも野良や半野良の犬猫がいて、近所の人からエサをもらったり、可愛がられたり、ときどき追い払われたりしながら、人とつかずはなれずで共存しているという。野良の犬猫が近所をうろうろしてるくらいで目くじらをたてるほどではないという感覚なんだろう。とくに途上国ほどそういう傾向が強いようだ。

 → 「ぽこ&けんいち通信 」世界の犬と猫



とはいうもののこうした言い分は、いずれも猫が好きな人の中でしか通用しない。猫が好きな人にとって、初島で行われていることは、「かけがえのない生命を軽んじる残酷な行為」となるが、野良猫をドブネズミ同様に生活と観光業の邪魔者としか見ていない人にとっては、たんなる「害獣の駆除」にすぎず、「駆除してなにが悪いのか」となる。このまなざしのズレが野良猫や野良犬とのつきあい方について、社会的コンセンサスがなかなか得られない原因になっている。「好き・嫌い」に立脚点をおかない論理を導きださない限り、愛護団体の言い分は玄関先に水の入ったペットボトルをずらっと並べているような人の理解は得られないだろう。私の住んでいる東京の住宅地では、以前ほど路地裏をうろうろしている野良猫の姿を見かけなくなったが、役所によせられる猫の苦情件数のほうは逆に増加しているという。住宅が密集するほど野良猫に神経質な人がふえるのは仕方ないのかもしれない。



好き嫌いに立脚点をおかない野良猫とのつきあい方というところで、私の考えも止まってしまう。「駆除してなにが悪いのか」という人に対して、私は「なにもそうまでしなくても」というくらいの言葉しか思いつかない。またその一方で、猫の愛好家たちが主張するように「猫は野生動物ではない」と言いきってしまうことにも違和感をおぼえる。猫は犬ほど品種改良されておらず、原種のヤマネコとほとんど変わらない。ましてや牛や豚のように完全に家畜化された動物とは大きく異なる。数千年の間、ねずみ取りのために放し飼いにされ、人とつかず離れずの関係をつづけてきた猫の暮らしぶりは、「餌づけされた野生動物」というのが実態に近いのではないかと思う。そのため、オーストラリアなどの本来猫が生息していなかった土地に人の手によって持ち込まれ、やがて野生化し、在来種を生態系から駆逐してしまったケースは数多い。日本でも西表島で人によって持ち込まれた猫が野生化し、在来種のイリオモテヤマネコを駆逐しつつあることがしばしば指摘されている。猫=イエネコはきわめて適応力の大きい種で、エサになる小動物が多い環境下では、野生動物として十分に生きていくことが可能である。


ただ、初島西表島とは異なり、ほぼすべての土地が宅地・農地・観光施設として開発されているので、たしかに野良猫が生きていくには厳しい環境である。人からエサをもらえなくなった初島の野良猫たちが大きく数を減らすのは間違いないが、漁港から出る残飯とわずかに残された林という環境で、たとえ細々とでも生きていけるのなら、それも猫のあり方のひとつなのではないかというふうにも思う。完全に人間の管理下に置かれた「ペットのネコちゃん」と人間社会から隔離された自然環境で暮らす野生化したネコに二分してしまうのではなく、その間には、様々なかかわり方が連続的にあるのではないか。そもそも人間から隔離された「自然」と徹底的に管理された「人口空間」とに二分しようとする発想がいびつではないのか。私には、野良猫が一匹もいない町というのは、血統書の肩書きとフリルのドレスで装飾されたペットを溺愛する行為と同じくらい不気味な存在に思える。両者は一見対極にあるように見えても、実際には、どちらも自然を徹底して自らの管理下におこうとする発想に由来する点で変わらない。もちろん愛護団体が行っている「レスキュー」と「里親捜し」の活動を否定するつもりはない。猫を飼える余裕のある人は、ペットショップで高価な血統書つきを求めるのではなく、ぜひこういう猫たちの里親になってほしいと思う。「猫を飼う」ことが「里親になる」のを意味するくらいに定着すれば、もう少しましな世の中になるのではないか。ただその一方で、「ペットのネコちゃん」として愛玩されることだけが「猫の幸せ」ではないだろうとも思っていて……、あ、やっぱり同道めぐりだ。これについてはもう少し考えてから、またあらためて書きます。

 → Wikipedia「初島の航空写真」