ベネトンの広告

 ベネトンの広告についての解説文と課題を全面的に書き改めた。ずいぶんややこしい話になってしまって、もはや高校生向けの課題というよりもメディア論のゼミみたい。まあ、高校生の中にもこういう話を面白がってくれる者がひとりふたりはいるでしょう。この十年の間に、ベネトンジャパンの広報部に話を聞きに行ったり、何度も課題文を書き直したりして、けっこう手間のかかっている課題である。えっ、十年考えてこの程度かって、はい、この程度でございます、すいません。


*課題文は2023年10月に加筆修正。


ベネトンの広告
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benetton.htm


【課題】
 次の資料はユーゴスラビアの和平を呼びかけるポスターです。ユーゴスラビア内戦の激しかった1994年に、イタリアのアパレルメーカのベネトン社によって制作されました。

 当時のユーゴスラビアでは、共産主義体制崩壊後の混乱の中で、極端なナショナリズムをとなえる政治指導者によって民族・宗教のちがいから互いに憎しみがあおられ、やがてその対立は、武器を手にした市民同士による市街戦へとエスカレートしていきました。この内戦では、兵士の多くはにわかづくりの民兵たちで、互いに顔見知りの隣人同士が民族や宗教のちがいをめぐって銃口(じゅうこう)を向け合い、各地で民間人に対するジェノサイド(=大量虐殺のこと)が行われるという凄惨(せいさん)な事態をまねきました。その結果、ユーゴスラビアは解体され、旧ユーゴスラビアの各共和国がそれぞれ独立することになりましたが、内戦から20年以上たったいまも、隣人同士で殺し合った記憶は、バルカン半島の人々に暗い影を投げかけています。

 また、ユーゴスラビアの内戦は、多くのヨーロッパの人々にとって非常にショッキングな出来事でした。ヨーロッパの社会は、18世紀以降、ナショナリズムのぶつかり合いによる戦争を幾度となくくり返してきましたが、第二次世界大戦を最後にそうしたナショナリズムの問題を克服(こくふく)してきたと多くの人は考えていたからです。例えば、フランスとドイツは近代の歴史の中で何度も戦争をしてきましたが、現在、フランスとドイツの間に再び戦争が勃発(ぼっぱつ)することはもはや考えられない状況です。ところが、ユーゴスラビアの内戦では、民族対立による殺戮(さつりく)が21世紀を目前にして再びくり返されてしまったわけです。

 このポスターはそういう中でユーゴスラビアの和平と難民の救済を呼びかけるキャンペーンとして制作されたものです。ポスターの制作者であるオリビエーロ・トスカーニ氏は、「広告の世界はウソばかりだ。商品を売り込むためにありえないほど理想化された世界を描いて、消費者を欺いて(あざむいて)きた。そういうウソばかりの広告はもうやめよう。広告は現実の問題をもっと取りあげるべきだし、そうした問題に企業が取り組む姿勢を示すことこそが最大の広告になる」という主張を様々な場で展開しています。つまり、企業には社会的責任があり、その社会的責任について、企業が自らの考え方や取り組みを広告を通じてアピールし、それに賛同する人たちに商品を買ってもらうことは、企業と消費者の関係として最良のコミュニケーションになるいうわけです。

 あなたはこのユーゴスラビア反戦を呼びかけるポスターをどのように評価しますか。次のAとBの会話文を読み、あなたの考えをすじみちだてて述べなさい。


*注意*
 「自分は死刑制度を支持しているので、ベネトンの一連の広告は許せない」「自分は死刑制度に反対なので、ベネトンの広告姿勢を歓迎(かんげい)する」という主張はしないこと。それは「自分と同じ考え方なら表現を認める・自分と違う考え方なら表現を認めない」と言っていることになるので、表現の自由そのものを否定する姿勢です。死刑制度の是非についての自分の考えはひとまずわきに置いて、ベネトンの広告表現のあり方の是非を論じよう。



A「このポスターは戦死した若い兵士の遺品(いひん)を大きく映し出すことで、もうこの世界にはいないひとりの若者のことを見る側に想像させているよね。血まみれになって死んでいったこの17歳の若者はいったいどんな若者だったのか。彼はどんな音楽が好きだったのか、うれしいときにはどんな顔で笑ったのか、恋人はいたのか、軍に入隊するとき彼の親はなんと言ったのか。そういう私的なことを見る側へ想像させることで、このポスターはユーゴスラビアの和平を訴えている。戦死者のことを「ただの数字」や「どこかの誰かの死」としか思っていなければ、和平の呼びかけに共感することなんてないからね。そういう意味で、手法としては、広島や長崎の原爆資料館に展示されている被爆者(ひばくしゃ)の遺品によく似ていると思う」


B「たしかにインパクトのあるポスターだね。広島や長崎の原爆資料館に展示されている黒こげになった服や弁当箱が被爆者たちになにがおきたのかを雄弁(ゆうべん)に語っているように、このポスターも言葉でユーゴ紛争について解説されるよりもずっと印象に残る。ユーゴ紛争で、兵士の多くがこの17歳の若者のように、にわかづくりの民兵だったこともポスターから伝わってくる。だから一枚のポスターとしては優れていると思うし、これが日米で広告賞を受賞したのも納得できるよ。ただ、この血で真っ赤に染まったTシャツの映像は、あまりにも強烈で暴力的だよ。いくら現実に起きていることとはいえ、このポスターを公共の場へ展示して、不特定多数の人へ見せようっていうのは、乱暴すぎるんじゃないかな。想像してみなよ、町中の看板(かんばん)や電車の釣り広告にこのポスターが使われているところさ」


A「うーん、たんに映像がショッキングというだけなら、ホラー映画のポスターなんかはもっとどぎついものがたくさんあるよ。血まみれのゾンビがチェーンソーを持ってせまってくるポスターとか。ベネトンのポスターがショッキングなのは、たんなる映像としてのどぎつさではなく、そこに映し出されているものが「事実」であることだよね。でも、こういう大事なことを訴えているポスターこそ、公共の場に展示して、多くの人に見てもらうことに意義があると思うよ。ほら、ユニセフが紛争地のこどもの救済を呼びかける広告で、よくアフリカの飢えたこどもたちの映像を使っているよね。難民キャンプで撮影されたがりがりにやせた姿のこどもが出てくるコマーシャル。あのユニセフの広告だって、こんな悲惨(ひさん)な映像をテレビで流すなって怒る人もいる。たしかにあれを見て愉快(ゆかい)に感じる人はいないだろうけど、だからといって、不愉快だから放送するなって言うのは、自分の都合しか考えていないように見えるよ」


B「でも、このポスターの場合、ユニセフやUNHCRのような国連の機関と違って、ベネトンっていうファッションブランドが制作したものだよね。もうけを目的に活動する私企業がこういうポスターをつくって、反戦人道支援を呼びかけるのは偽善的な感じがするよ。ベネトン側は商品の売り上げをのばすためにこういうポスターをつくっているわけではないって主張してるけど、本音はどうかわからないわけだし」


A「たしかにベネトンが広告で人権問題を呼びかける一方で、もし、アジア系やアフリカ系の従業員に差別的な扱いをしていたり、発展途上国の従業員を劣悪(れつあく)な労働環境で働かせていたりしたら、広告の人権尊重の主張は口先だけということになるから、その点ではしっかり検証していく必要があるよね。でも、ベネトンの場合、広告だけでなく、CSRとしてユニセフやUNHCRにも協力もしているよ。もしも、そうした社会活動までふくめて売名目的の宣伝行為だったとしても、良いことをして企業評価を上げているわけだから、批判されるようなことではないと思うよ」


B「そうかなあ。もし、服の売り上げを伸ばすためにこういう広告やCSRをやってるんだとしたら、結果として、他人の不幸を自分たちのもうけに利用することになるわけでしょ。その点で釈然(しゃくぜん)としないよ」


A「それを言ったら、新聞や雑誌の事件報道だって他人の不幸を記事にして利益を得ているという点では同じだよ。でも、新聞や雑誌が事件のスクープ報道で発行部数を伸ばしたからといって、批判されたりはしないよね。新聞や雑誌の売り上げはあくまで結果なんだから。ベネトンの広告もそれといっしょだと思うよ。むしろ偽善的という点では、実際には従業員に残業手当を支払わずに長時間労働を強いていたり、従業員を大量解雇して使い捨てにしたりしているようなブラック企業が一方でコマーシャルの中ではそんな問題とは無関係であるかのように人気タレントがにっこり笑っているようなケースじゃないかな。実際にそういう企業がたくさんあるけど、それこそ白々しいし、偽善的だと思うよ」


B「たしかに違法労働や発展途上国の人々に劣悪(れつあく)な労働環境を押しつけてつくられている商品だったら、それがどんなに安くても、あるいは機能やデザインが優れていても、買うのは気がとがめるね。だから、企業にも社会的責任があるという考え方には賛成だよ。でも、そういう社会問題の追及(ついきゅう)は報道機関の役割であって、わざわざ広告でやる必要はないんじゃないかな。なので、企業広告は人気タレントがにっこりでかまわないと思うよ」


A「でも、企業がこういうポスターをつくることは、社会問題に目を向けるひとつのきっかけになるよ。例えば、ベネトンが1989年に制作した、白人の赤ちゃんが黒人女性の乳を吸っているポスターは、アフリカの豊かさを白人たちが搾取(さくしゅ)している社会状況を象徴的に描いたものだけど、これは当時、南アフリカ共和国で行われていたアパルトヘイトに抗議する国際世論を喚起(かんき)した作品として評価されている。一枚のポスターにはそういうふうに社会を動かす力もあるはずだよ」


B「それは国連のような公的機関やNGOがやるぶんにはいいと思うけど、私企業がブランドイメージの確立をねらって、こういう社会正義を訴えるポスターを制作するのは、やっぱりあざとい感じがするよ」


A「現在では、ステルス・マーケティングやタイアップ広告のような、広告と気づかせずに商品をすり込んでいく手法がネットやマスメディアに氾濫しているよね。それに対して、ベネトンの一連の広告は、「自分たちはこう考える」というのをアピールして、それに賛同(さんどう)してくれる人たちが自分たちに興味を持ってくれたらいいなというやり方をしている。そういう意味では、すごく直球勝負の広告だと思うよ。オリビエーロ・トスカーニも言っているように、企業が広告の中で自分たちの考え方や社会的取り組みをアピールして、それに賛同する人たちがその商品を買うというのは、企業と消費者の関係として理想的なものじゃないかな」


B「でも、反戦や反アパルトヘイト、反エイズ患者差別ならまだしも、2000年の死刑廃止キャンペーンみたいに、賛否の分かれる問題を企業が一方の立場から、広告として発信するのは傲慢(ごうまん)だと思うよ。実際に事件の被害者遺族の中からはベネトンの死刑囚広告は許せないって声もあったし、こうしたデリケートな社会問題について、センセーショナルな広告キャンペーンを行うのはちょっと無神経じゃないかな」


A「欧米の企業の場合、スターバックス同性婚を支持したり、ナビスコゲイパレードの記念クッキーをつくったり、2020年には、ナイキがブラック・ライブズ・マター(BLM)の黒人権利運動を支持したりと賛否の分かれる社会問題に企業としての立場を表明するのはよくあることだよ。むしろ、日本の企業のほうがこうした人権問題に鈍感(どんかん)すぎるんじゃないかな。それにベネトンスターバックスナビスコもナイキも、たくさんある私企業のひとつにすぎないわけだから、その企業姿勢や主張に納得できなければ、消費者は商品をボイコットすることでいくらでも対抗できるよね。ベネトンの主張に納得いかないから、今後いっさい、ベネトンの服を買わないことにしても生活に困ることはないよね。同じようにナイキのスニーカーを履(は)かなくても、スターバックスのコーヒーを飲まなくても、ナビスコのオレオ・クッキーを食べなくても、生活に困ったりはしないよね。意見広告で問題なのは、電力会社が一方的に原発推進のメッセージを流したり、政府が政策推進のメッセージを流したりするケースで、こちらは独占状態にあるわけだから、人々の側には対抗手段がない。原発に反対でも地域の電力会社を使わざるを得ないし、政策に反対でも税金を払わないわけにはいかない。それに対して、ベネトンの場合、商品ボイコットも覚悟(かくご)の上で死刑廃止キャンペーンをやっていたわけだから、フェアだと思うよ」


B「うーん、ベネトンのような多国籍企業の場合、広告の影響力も大きいから、気に入らなければ商品ボイコットをすればいいではすまない問題だと思うよ。納得できない人たちに同じだけの反論の場を提供して、アクセス権を保障しないかぎり、フェアとはいえないと思うんだ」


A「マスメディアへのアクセス権は、政治権力への対抗手段という考え方が根底にあるわけだから、反論の機会が保障されるべきなのは、やはり、政府広報や電力会社の原発推進広告のようなケースじゃないかな。こちらは政治権力と一体化したプロパガンダなわけだから、世論誘導(よろんゆうどう)としてははるかに深刻な問題だと思うよ」


B「そうかなあ、ベネトンの一連の広告の場合、人々の注目を集めるために、わざとショッキングな映像をつかったり、戦争や人種差別や死刑といったショッキングなテーマを取りあげたりしているように見えて、釈然(しゃくぜん)としないんだけど。それは炎上商法(えんじょうしょうほう)とかわらないんじゃないかな」


A「でも、ベネトンの一連のポスターは、おもしろ半分にショッキングな映像を使ってるわけじゃなくて、現実に起きている社会問題に目を向けてもらおうとして、あえてやっているわけだよね。もしも、ユーゴスラビアの和平を呼びかけるこのポスターが、「見た人に不快感を与えないため」という理由から、紙おむつや生理用品の広告のように血を青い色に加工してあったら、そのほうがずっと不誠実だと思うよ。それこそポスターの中の17歳の若者の死を冒涜(ぼうとく)する行為ではないかな」


B「そうは言っても、実際、このポスターはほとんどのヨーロッパ諸国で公共の場への展示が認められなかったわけだよね。ヨーロッパ諸国の場合、不特定多数の人が目にする街中の看板やテレビの地上波放送については、暴力表現や性表現を見たくない人に配慮(はいりょ)して、日本よりもずっときびしく表現が規制されている。そういう意味で、この血で真っ赤に染まったポスターの映像はあまりにもショッキングだし、不特定多数の人の目に触れる場に展示するには、もっと配慮が必要だと思うよ。広告っていうのは、本人が能動的に見るものではなく、向こうから一方的に飛び込んでくるものだからね」




CSR  企業の社会的責任のこと。「Corporate Social Responsibility」の頭文字。フィランソロピーメセナのような、慈善事業(じぜんじぎょう)や文化事業にお金だけ寄付してさようならという活動とは異なり、企業が継続的(けいぞくてき)に社会的影響に責任をもち、社会からの様々な要求に対して適切な意思決定をすることを意味している。


アパルトヘイト  南アフリカ共和国で1994年までつづけられた人種隔離政策(じんしゅかくりせいさく)のこと。人口で15%の白人が多数派の有色人種を支配する手段として人種間の隔離がおこなわれ、黒人たちは電気も水道もないスラム街へ押し込められていた。


ステルス・マーケティング  消費者に広告と気づかせずに商品をすり込む手法のこと。日本では、もっぱらクチコミを装った(よそおった)バイラル・マーケティングのことを意味し、「ステマ」の略称で呼ばれている。例えば、学校で人気のある若者に企業が新製品を貸与(たいよ)し、宣伝であることをふせて「うん、これけっこう良いよ」と彼らに言わせ、それとなく周囲にすすめる。テレビタレントやモデルが、企業から宣伝を依頼された商品をあたかも私物であるかのように「これすっごく気に入ってます」とSNSに商品の写真付き記事を投稿する。あるいは、企業の宣伝担当者がユーザーになりすまし、ネット上で「ついに買っちゃいました。めっちゃいいです。星5つ!」等の投稿をくり返すといった行為のことを指す。こうしたバイラル・マーケティングは2000年代半ばのアメリカではじまり、各国で社会問題化したため、欧米の主要国では、消費者を欺く(あざむく)行為として法的に規制されている。日本では、長年、法的規制がなかったため、匿名性(とくめいせい)の高いネット上ではこの種のやらせが氾濫(はんらん)していると指摘されてきたが、2023年10月からようやく法的規制がスタートした。


*タイアップ広告  映画やテレビ番組や雑誌記事と連動した広告手法のこと。たとえば映画では、企業がスポンサーとなって資金提供をする見返りとして、映画の中にその企業の商品を登場させる。近年のハリウッド映画では、数分に一回くらいの割合で画面の中にタイアップ企業の商品が登場する。とくに主人公が愛用している腕時計やスポーツカーといった重要なアイテムは、ほぼまちがいなくタイアップ商品であり、登場回数や見せ方まで広告契約で規定されている。また、雑誌やテレビドラマの中でモデルや俳優が使用している服やバッグもタイアップ広告であり、とくにファッション雑誌は一冊丸ごとタイアップ広告というのが実態である。こうしたタイアップ広告も、ステルス・マーケティングと同様に、消費者に広告と意識させずに商品をすり込む手法のひとつといえる。


*アクセス権  新聞記事やテレビ番組や広告などによって批判された人や団体がマスメディアへアクセスし、反論する機会を得る権利のこと。日本では、産経新聞自由民主党による日本共産党批判の意見広告を掲載したことをめぐって、日本共産党産経新聞社に反論の場として同じだけの紙面を提供するよう要求したケースがアクセス権の判例として有名。


プロパガンダ  政府がおこなう政治的宣伝のこと。ナチス時代のドイツでヒトラーナチス政権を賛美するポスターが町中に張られたり、スターリン時代のソ連スターリン共産主義体制を賛美するポスターが様々な場に掲示されたように、政治権力の暴走した独裁国家でしばしばおこなわれる。現在も北朝鮮の街角には、「核保有国の誇りを持とう」というスローガンの書かれた垂れ幕がかかっている。ジョージ・オーウェルの小説「1984年」では、生活のあらゆる場面でプロパガンダがすり込まれ、人々の考え方がコントロールされている悪夢のような未来世界が描かれている。