所得の再分配と税の公平性

 毎年、レポートの課題がうまく設定できずに悩んでるテーマがある。所得の再分配についてである。数年前、消費税の値上げをテーマにその是非を論じたが、うまくいかなかった。まず、税のしくみは複雑で、直間比率を解説し、それぞれの税の問題点を指摘するだけでもう手一杯。生徒も税のしくみを理解するので精一杯で、肝心の「ではどうすればいいのか」というところまで考えが行かないという様子だった。また、同じ消費税の値上げを支持する立場でも、小さな政府を支持する立場から直間比率を消費税へシフトするのを主張する者もいれば、逆に社会保障の充実のために消費税値上げを支持する者もいて、ディスカッションしてもなかなか話がかみ合わない。で、去年は小さな政府と大きな政府の是非をテーマにしたが、こちらはテーマが大きすぎて、具体的な議論にはなりにくい。きまって「社会保障もやり方しだいだねえ」で終わってしまう。具体的で、かつ、ピンポイントに所得の再分配の是非を考えるテーマはないものか。入り口の敷居は低く、具体的に考えることができ、行き先は深い所までたどりつけることが好ましい。



 考えた末に、今年は所得税累進課税制度をテーマにした。累進課税と一律課税とでは、どちらがより公平なしくみなのかという問いである。今回のアメリカの中間選挙でも、一律課税はティーパーティをはじめとしたリバタリアンたちがさかんに主張していたし、古くて新しいテーマである。出題はこんな感じ。



所得の再分配 所得税の累進制は公平なのか?



 現在、所得税は、ほとんどの国で累進制というしくみが取り入れられています。この累進課税制度は、たくさん所得のある人には高い税率を、所得の少ない人には低い税率を適用するというものです。

 日本では、国に収める所得税最高税率は1986年まで70%でしたが、その後しだいに引き下げられて、現在は40%になっています。現在の日本の所得税は6段階の累進制で、次のような税率です。



・195万円以下の所得 → 5%

・195万円を超え330万円以下の所得 → 10%

・330万円を超え695万円以下の所得 → 20%

・695万円を超え900万円以下の所得 → 23%

・900万円を超え1800万円以下の所得 → 33%

・1800万円超える所得 → 40%



 年間の所得が150万円の人の場合、150万円×5%で、だいたい7万円が国に納める所得税ということになります。もしこの人にこどもがいたり、高齢の親を介護していたり、健康保険を支払ったりしていれば、そのぶん税は控除されます。年間所得2000万円の人だと、300万円〜400万円くらいの所得税になります。「あれっ、2000万円×40%だから800万円じゃないの?」と思うかもしれませんが、40%というのはあくまで1800万円を超える部分にかかる税率で、2000万円全体に40%が課税されるわけではありません。1800万円以下の部分については、それぞれもっと低い税率で計算されます。また、扶養控除、住宅控除、医療費控除などによって税額が控除されるので、300万円〜400万円くらいが国に納める所得税ということになります。(なので、テレビでタレントやスポーツ選手が「日本ではいくら稼いでもほとんど税金にとられちゃう」とぼやいているのをときどき見かけますが、あれは大げさな表現。現在の税の仕組みでは、年収1億円の人でも国に納める所得税は多くて3000万円程度で、地方税とあわせても半分以上を所得税に取られるようなことはありません。)

 こうした累進課税のしくみは、高額所得者に多く課税することで所得の再分配をうながすために採用されていますが、はたして、富裕層がより多くの税を負担するというこのしくみは、公平なのでしょうか。次のAとBの文章を参考にして、あなたの考えを述べなさい。



A 不公平である。

 たしかに年間所得が5000万円も1億円もある人たちにとって、2000万円や3000万円を税にとられたからといって、生活には困らないだろう。しかし、生活に困るかどうかと、社会的に公平かどうかとは別の問題である。

 累進課税制度は、次のふたつの点で問題をかかえている。まず、社会を支える責任はすべての人に等しくあるということをあげられる。だからこそ、基本的人権はすべての人に等しいのであり、所得に関係なくすべての人の参政権は一票なのである。高額所得者に高い税率を課すのならば、税率に応じて、二票三票ぶんの参政権が保障されなければ、公平な社会とは言えない。逆にすべての人の参政権が等しく一票ならば、所得に関わりなく、税率は一定にすべきである。

 もうひとつの問題として、高い税率を課すことで勤労意欲を低下させてしまう点をあげられる。所得というのは、その人が仕事につぎ込んだ努力と才能と時間の成果である。もしも、何億円稼いでもそのほとんどが税に持っていかれてしまう社会だったら、がんばって仕事に打ち込もうという気力が失われてしまうだろう。それのようなやり方は、仕事につぎ込んだ努力と才能と時間が本人自身のものでなく、国のものだというのと同じであり、きわめて全体主義的なやり方である。人々の仕事に対する努力や情熱を失わせないために、仕事で成功した人たちがむくわれる社会でなければならない。一律課税を「金持ち優遇」と批判する人は多いが、このしくみはたんにひとにぎりの高額所得者を優遇するものではない。誰もが努力し幸運に恵まれれば経済的に成功する可能性をもっている。そうなったときに所得の多くを税にとられてしまうのでは、仕事で成功しようという意欲や夢が失われてしまうはずである。オバマ大統領による保険制度改革や税制改革で増税されるのは上位20%くらいの高額所得者にすぎなかったが、それにもかかわらず、多くのアメリカ人がオバマ大統領の改革に反対の声をあげた。その中には年収2万ドル(約160万円)以下の低所得者たちも大勢ふくまれていた。彼らは仕事で成功したいという意欲とアメリカンドリームを失わないために反対したのである。

 豊かな者が貧しい者を支えるというしくみは、本人の自発的な善意で行われるならば、大いに賛成である。しかし、高額所得者に対して、政府が強制的に高い税率を課すというのは、臓器提供を強制させるのと同じである。たしかに、臓器提供は人助けであり、腎臓ならばひとつ失っても生きていくことはできる。しかし、その人の身体が本人自身のものである以上、臓器提供を政府が強制することは社会正義として認められない。それと同様に、所得もまた本人自身の努力と才能と時間の成果であり、その人のものである。したがって、政府が高額所得者に高い税率を課し、強制的に所得の再分配をうながすやり方はまちがっている。所得税はすべての人に等しい税率を課すべきである。



B 公平である。

 所得の格差は、本人の努力や才能よりも、おもに社会的格差によって生じるものだからである。

 まず、人生のスタートラインは人によって異なり、ふぞろいである。前の総理大臣である鳩山由紀夫氏のように、祖父は総理大臣、父は外務大臣、母はブリヂストン会長の娘で、母親から毎月1000万円も「おこづかい」としてもらっている人もいれば、ホームレスとして道端で暮らしている親から生まれた人もいる。人生のスタートラインがそろっていないのに、その結果である所得についてだけ一律に課税すべきというのは矛盾している。

 また、社会的地位や所得の格差は、多くの場合、親から子へ引きつがれる。社会階層の固定化はどこの国でも見られるが、日本やアメリカのような貧富の差の大きい社会では、とくにこの傾向がはっきりあらわれている。日本の場合、高額所得者のほとんどは、働いて稼いだ「勤労所得」ではなく、不動産や株式から得られる「財産所得」を主な収入源にしている。例えば、鳩山家の場合、一切働かなくてもブリヂストン株の配当金だけで年間3億円近い所得がある。鳩山家はそれ以外にも莫大な不動産や株式を所有しているので、財産が生みだす所得は毎年十数億円にものぼる。勤労意欲を下げるという点では、このようなお金がお金を生みだす社会の仕組みのほうがよほど悪影響をおよぼしているのではないだろうか。たしかに、貧しい家庭に生まれ、苦学して学び、努力の末に社会的に成功したという人物もごくわずか存在する。しかし、こうした人たちは例外中の例外だからこそ、美談としてもてはやされるのである。彼らを指して「ほら見ろ」という発想はまちがっている。こうした人たちは生き方の手本にはなるが、例外的な存在を基準にして社会政策のあり方を考えるべきではない。

 「そうは言っても、成功した人は努力も勉強もしているし、現代社会は封建社会みたいに、なにもせずに親の社会的地位を引き継げるわけではない」という人もいるかもしれない。しかし、そもそも、努力しようという意欲や「やればできる」という価値観は、家庭環境をはじめ、まわりから与えられたものである。東大生の親の平均年収が1000万円を超えており、他の大学よりも際だって高いのもそのためである。もしも、父親は強盗で刑務所に服役中、母親は麻薬常用者という家庭に生まれ、幼い頃から親に虐待され、「どうせお前なんか」となじられて育ったとしたら、「自分だって努力すればできるんだ」という価値観を抱けただろうか。

 さらに、才能や努力は本人のものだとしても、それを生かせる社会環境にめぐりあったことはたんなる偶然にすぎない。たとえば、イチローの年俸は約1800万ドル(約15億円)である。彼がすぐれた野球選手であることに疑いの余地はないし、彼が野球選手として恵まれた才能を持ち、日々努力していることもまちがいないだろう。しかし、野球が人気スポーツで、プロ野球選手に高額の年俸が支払われている時代にイチローが現役選手としてプレーしていることは、たんなる偶然にすぎない。現在、メジャーリーガーの平均年俸は240万ドル(約2億円)にのぼり、アメリカ人の平均年収の50倍にも達するが、メジャーリーガーが昔から高額所得者だったわけではない。1975年の平均年棒は4万5千ドルにすぎず、アメリカ人の平均年収の3倍程度にとどまっていた。スポーツビジネスはこの40年間で大きく変化し、野球選手の年棒も近年になって急激に高騰したのである。イチローが1975年ではなく、2010年の現在に現役選手であることは、本人の才能や努力とはまったく関係のないことであり、たまたまそういう社会状況に巡りあっただけのことである。さらに野球以外のスポーツ、例えばカーリングやアーチェリーのようなマイナースポーツの場合、選手たちは競技だけでは生活できないので、たとえ世界大会一位の選手でも、コンビニやスポーツクラブでアルバイトをしていることも多い。彼らとイチローとでは、千倍近くの所得格差があるが、その才能や努力や情熱に千倍もの差はないだろう。

 つまり、高額所得者というのは、恵まれた家庭環境に生まれ、「やればできる」と親や教師からはげまされて育ち、その才能や努力が社会的に評価される時代にたまたまめぐりあった幸運な人たちである。こういう人たちがそうでない人たちを支援するために、税をより多く負担するというのは、けっして不公平な社会のあり方ではないはずである。

 う〜ん、Aが弱い。納税と参政権とを同列に論じるのも乱暴だ。参政権基本的人権で平等原理に由来する事柄だが、納税はそうではない。一律課税を擁護する説得力のある主張はないものでしょうか。で、生徒の反応は、一割ちょっとくらいが一律課税を支持、九割弱が累進課税を支持という感じだった。Aのお粗末な立論にもかかわらず、一律課税の支持者が一割以上もいることに少々おどろいている。十年後には、日本にもティーパーティーのような団体が登場するかも知れない。