Big Brother is watching you


78歳の不機嫌な老人が選挙で勝ってしまって、またしばらく私の上司になることが決まった。彼の名前は給与明細にまで書いてあるので、給料をもらうたびに自分がまるであの偏狭な老人の使用人になったような気がして情けないかぎりである。学校は役所の出先機関みたいなものだから末端への影響も大きい。近頃は学校側からも、授業ではセンター試験対策用に教科書と問題集を全部消化してほしいというような話ばかりを聞かされる。自分が高校生だったころ、「ここは入試によく出題されるからよくおぼえておくように」なんていう授業をしている教師は生徒からバカにされていた記憶があるが、学校も生徒の意識もずいぶん変わったようだ。本腰を入れて転職先をさがそうと思う。なにはともあれ、まずは食っていかないと。


前回の「電力会社の広告の禁止」についての文章は、東京電力のWebサイトからいつの間にか草野仁出演のCM動画が消えてるのを見て、ずいぶんせこいことするなあと書いたものです。中部電力のWebサイトからも薬丸裕英勝間和代のCM動画が消えてますね。これもイメージコントロールってやつでしょうか。さらにさかのぼると、十年ほど前にベネトンの広告を授業で取りあげて以来、ずっと気になっていたことでもあります。ベネトンの死刑囚広告があれほど批判されたのに、なぜ日本では電力会社の原発推進広告には批判の声が出ないんだろう。世論操作という意味では、その規模も独占体制であることも、はるかに深刻な問題をはらんでいるはずなのに。


ベネトンの死刑囚広告の場合、消費者に選択権があり、商品ボイコットも可能な状態の中で企業メッセージを発信しているので、私にはあのやり方が当時批判されていたほどアンフェアなものには見えなかった。あれだけ強いメッセージを発信すれば、当然批判されるのも予測していただろう。それを覚悟のうえで死刑廃止キャンペーンを展開したんだから、むしろ、CSRのあり方として腹がすわっているように見える。ベネトンはあくまでたくさんあるファッションブランドのひとつにすぎないので、選択権は消費者の側にあり、その企業姿勢に賛同する者がベネトンの服を買えばいいだけのことだと考えている。一方、独占体制の電力会社の原発推進キャンペーンの場合、そういうわけにはいかない。(以前書いたベネトンの広告についての文章はこちらにまとめてあります。)

→ オリビエロ・トスカーニによるベネトンのポスター集
→ ベネトンの広告


その後、ベネトンのメッセージ広告については何度か授業で取りあげた。生徒たちの批判の多くは死刑囚広告に集中する。死刑のように賛否のある問題について、大企業が一方的なメッセージ広告を発信するのはまずいと彼らは言う。では、東京電力原発推進広告はどうなのかと逆に生徒に問いかける。「ベネトンは一私企業にすぎないけど、東京電力は公共性の高い独占企業だよね、そこが原発推進のメッセージ広告を大量に発信しているほうがずっと深刻な問題じゃないの?」。ところが、大方の生徒たちの反応はさめている。「いやそれは問題がちがうと思います」「表現のどぎつさのほうが問題だと思う」「俺、原発には反対じゃないし」「それは過剰反応ですよ、センセーは原発反対なんですか」というような反応が大半をしめる。
「えっそういう問題じゃなくてさ、独占企業の世論誘導は、原発に賛成か反対かという以前の問題じゃないの」
「ふーん、そうですかね」
「死刑囚広告はいくらでもボイコットで対抗できるけど、電力会社の広告はそういうわけにいかないよ」
「まあそうですね」
「あの原子力はクリーンエネルギーっていうのを聞くたびに、なめたこと言ってんじゃねえよって思わない?」
「うーん、あんまり」
「それはちょっと慣れすぎてるんじゃないの」
「そうかも知れないですね」


どうやら日本では、電力会社による原発推進キャンペーンは、水や空気のような存在として抵抗なく受け入れられているようだった。その様子は、高圧的な命令で人々が動かされる状況よりも、むしろずっと問題の根が深いように見えた。なので、前回書いた文章にずいぶん大きな反響があって、その多くの人たちが独占企業の広告にはなんらかの規制が必要と言っていることに少々おどろいている。今回の原発事故が人々の意識を変えたんだろうか、それとも、以前から熱心に反原発運動をしていた人たちばかりが拙文に声を寄せてくれたんだろうか。いずれにしても、独占企業の広告になんらかの規制をするなら、いまが大きなチャンスであることはまちがいない。産業界やマスメディアからは反発があるだろうが、政治家を動かして法律をつくるだけなので、手続き自体はそれほど難しいことではないはずである。



原発をどうするのかというきわめて重要な決定は、支持するにせよ、反対するにせよ、人々の自律的な判断によってなされるべきものである。そうした重要な問題について、電力会社による大量の意見広告が世論やマスメディアを動かしている状態は、原発の是非を論じる以前の問題である。それはビッグブラザーによる統治を連想させる。原発推進のコマーシャルを気にならないと言っていた若者たちは、いまの状況で放送されても、やはり「うーん、あんまり」なんだろうか。