暑い日


うだるような暑さの中、授業で近代の世界観についての話をする。教室へ向かう廊下で女の子同士がキャアキャアいいながら抱きあっていた。よっぽどうれしいことでもあったんだろう。「暑くないんですか?おふたりさん」と尋ねるとふたり声をそろえて暑くなんかありませーんという返事。そして再びキャアキャアいいながら抱きあっていた。ハッピーでなによりです。


近代の世界観では、まず、事物の世界から考えはじめる。自分の目の前には事物の世界が広がっていて、それは自分がなにを考えていようと何をしていようと関係なく、客観的な物理空間としてそこにある。それを対象化し、分析し、解き明かすことで人間は自然を支配下におけるというのが、近代科学の手法であり目的だ。でも、それは認識の順序からいうとすごく不自然なものだ。なぜかっていうと、我々が日々体験する出来事はすべて意識の世界の中でおきてるもので事物の世界ではない。我々は事物の世界を直接体験することはできず、あくまで自分が認識している意識の世界の向こう側には、事物の世界が広がってるんだろうなと類推しているだけだ。えっどういう意味かって?例えばここに一本のボールペンがある。赤いボールペンだ。君らが見ているこのボールペンは、意識の中にボールペンのイメージを形成することで「一本の赤いボールペン」として認識される。目の前にあるこの物体を目で見て、そのイメージを心の中に形成することではじめて「一本の赤いボールペン」という認識が生まれる。だから、この赤いボールペンを見ていても、ひとりひとりが意識の中に形成しているこのボールペンの色も形もそれぞれ異なっているだろう。だって、意識の世界はひとりひとり違っているはずだからね。それと同じように、きょうの暑さもやたらと強い日射しもさっきの休み時間に隣のクラスの女の子たちが廊下でキャアキャアいいながら抱きあっているのを見かけたのも、すべて意識の中での体験だ。では、日々の体験がすべて意識の中でおきているのなら、それは夢と区別がつくんだろうか。いま、我々がこの教室にいて、この暑い中、僕が眠くなるような話をしていて、みんながそれを訝しげに聞いているという体験が夢ではないと証明できる人いる?ほっぺたをつねってみる?でも、リアルな夢は夢の中でも痛みを感じるよ。リアルな夢の中でクルマにはねられてガードレールに激突したりすれば、やはりものすごく痛い。あまりの痛さにびっくりしておきてしまうっていう経験、みんなにもあるんじゃないかな。夢も現実もどちらも意識の中で体験しているわけだから、その中にいる者には、両者の区別を論理的に証明することなんて不可能だよ。でも、いま我々がこの教室にいることが現実の出来事だっていうのはなんとなくわかる。もしも、みんなの中にこれが夢だと本気で思ってる人がいたら、ちょっとあぶない人だよね。いまは意識もはっきりしているし、感覚と認識の結びつきも夢の中の体験よりも明確だし、目の前の世界も夢よりもずっと詳細に認識できている。あ、そうじゃない人もいるみたいだけどね。なので、夢のように意識の中だけで完結してるのではなく、たぶん、いま・ここで体験している意識の世界には、外側に事物の世界が広がってるんだろうと類推できる。つまり、事物の世界は直接認識できないから、あくまでそうやって類推することしか我々にはできない。そういう意味で、事物の世界をあらかじめ客観的に存在するものとしてとらえ、そこから考えはじめる近代の物心二元論の世界観は、我々の認識のあり方からいうと順序が逆になっていてすごく不自然なものということになる。だから、近代以前の社会では、文化を越えて必ず魔術や呪術のようなものが信じられてきた。呪文をとなえると嵐がおき雷が落ち、星の動きを見ることで人の生き死にがわかり、呪いの言葉や儀式によって誰かが死んだりよみがえったりする。そうした物語や伝説はははるか昔から語られてきたし、いまもこども向けの童話やアニメではしばしばそういう描写を見かける。「ハリー・ポッター」から「おジャ魔女どれみ」まで、たくさんあるよね。それは人間の認識の性質に由来するものだ。我々はあくまで意識の世界の住人であって、事物の世界を直接体験してるわけではない。我々には事物の世界は意識の世界から類推する以外にわからないわけだから、意識の世界と事物の世界にはなんらかの関連性があって、心の中で強く念じれば事物の世界も変化すると考えるほうが自然だからね。それが正しいかどうかはべつにしてね。


とまあそんなカントの認識論の入門講座みたいな話をする。やたらと教室が暑かったせいか、生徒の多くはあやしい宗教でもはじめたのかという様子でぽかんとした顔をしていたが、ひとりの女の子だけ、こちらを見てはニヤニヤしつつせっせとなにかメモをとっていた。自作の小説のネタにでもするつもりなんだろうか。まあ楽しんでもらえてなによりです。