映像から意味を読み取るのが苦手な人

 町山智浩のブログで、セリフで説明されないと映画が理解できない評論家のことが紹介されている。

 → ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記「2008-08-27 映画を観る能力がまったくない映画評論家」



 映像から意味を読み取るのが苦手な人というのはけっこう多い。授業の資料でドキュメンタリーフィルムを見ていても、ナレーションやセリフの少ないものだとすぐに生徒たちは居眠りをはじめる。それにしてもプロの映画評論家で映像から意味が読み取れないというのは致命的というか、本当にそんな評論家がいるんだろうかと、本人の書いた「映画評論」を読むまでは信じられなかった。読んでびっくり誤読と曲解の連発。しかもこういう映画評論家というのは少なくないという。本当だろうか。もしかしたら、日々職業として大量の映画を見ているうちに、一本の映画を集中して見ることができなくなってしまったのかもしれない。だとしたらずいぶん気の毒な人たちである。



 映画の場合、いい作品ほど説明的なセリフは省かれ、映像によって意味やニュアンスが語られる。そのぶん見る側には集中力を要求されるが、集中して見ていれば、セリフがなくても登場人物の微妙な表情やしぐさが饒舌に語りかけてくる。そこに説明的なセリフやモノローグが入ったらすべてぶちこわしである。逆にテレビは、見る側を信用していないので、やたらめったら言葉で説明される。「打ちました大きい大きい入ったぁホームラン!」ってそんなこと言われなくても見てればわかるよ、「おおっとドリブル突破抜いた抜いた入ったぁゴール!」って知ってるよ見てるんだからさ。さらに最近のテレビニュースでは、「感動的です」「怒りをおぼえますね」と感想の方向性まで見る側を誘導しようとする。視聴者をよっぽど馬鹿だと思っているんだろう。テレビドラマでもセリフですべてが語られる。以前、橋田壽賀子がインタビューで、自分は演出も役者も信用していないからセリフですべて伝えられるように書いているんだと得意げに話していた。あまり得意げにされても困るが、画面を見ていなくても理解できるように書くのが橋田壽賀子ドラマのポリシーということらしい。演出と役者だけでなく、視聴者も信用していないんだろう。さらにテレビアニメに至っては、会話だけでなく、心の中の言葉までぜんぶセリフで語られる。まあわかりやすいという点では、ラーメンをすすりながらでも掃除機をかけながらでも理解できて便利なんだけど、こういうのばかり見ていると集中力と映像に対する感性が麻痺しそうで不安でもある。映画も最近ではそういう感覚の麻痺した人たち向けにセリフでなんでも説明するようになってきて、見終わって余韻もなにも残らないものが多い。先の評論家はテレビアニメの評論でもやるといいんじゃないかと思ったら、「崖の上のポニョ」まで読み違えているという。つわものである。宮崎アニメは心の声まではセリフで説明されないので、少々難しかったんだろうか。こういう想像力豊かな人は、評論ではなく小説でも書いたほうがいい。柴田元幸によると、作家には、どこをどう読み違えてそんな解釈をしているんだというような独善的で思い込みの激しい人物が多いとのこと。きっと目の前の作品よりも常に自らのデーモンと対話しているんだろう。誤読と曲解は創造の泉である。