ゴマちゃんはオスかメスか


前回はやけにぎすぎすした内容になってしまったので、今回は精神的なバランスをとるためにぼんやりしたことをぼんやりと書いてみます。もちろん、福島原発でいまおきているような事柄についてではなく、ときどきふと思い浮かぶぼんやりとした疑問についてです。ひとときぼんやりしたいかたはご覧ください。

べつに答えを知りたいわけではないけどときどきなんとなく気になることというのがあります。アザラシのゴマちゃんってオスだっけメスだっけとか、引退した野茂英雄はその後どうしてるんだろうとか、焼きそばに長ネギを入れるのはありだっけとか、五月みどりのディナーショーってどんな様子なんだろうとか、中村主水は仕事人の報酬をどうやってへそくりしてるんだろうとか、散髪のときにもみあげどうしますかと聞かれてみなさんどう答えてるんだろうとか、まあそういうどうでもいいよしなし事というやつです。

いまはネットで調べればたいていのことはわかるわけですが、べつに事実をつきとめたいわけではないので、そういうぼんやりと気になることをつらつらと思いをめぐらして勝手な妄想をふくらませたりします。それはなかなか楽しいひとときで、たいていの場合、それらの答えを知るよりもずっと愉快です。「磯野家の謎」や「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」を読んだみなさん、そうじゃありませんでしたか。そもそもぼんやりとわからないという状態自体、ちょうどいい湯加減の風呂につかっているような感覚で心地良かったりします。そこで、まわりの人ともその湯船をわかちあってみようと声をかけてみます。

「ねえ、アザラシのゴマちゃんって、オスだっけ、メスだっけ?」

もちろん種明かし本のような「答え」が返ってくることなど期待していません。たいていの人はゴマちゃんは知っていても、それがオスかメスかなんて気にもしてませんから。ただ、そのぼんやりした問いかけの湯加減は大事です。熱すぎると「じゃあ調べてみよう」になってしまうし、ぬるすぎると「さあ」で話は終わってしまいます。うまくぼんやり具合がつたわるよう、ほどよい湯加減にすると、ある人は「うーむ」とうなって考え込み、またある人はにやにやとうす笑いをうかべて奇妙な自説を展開してくれます。ところが近頃、どう湯加減を調節しても、「さあ、ネットで調べてみたら」という前向きなのか投げやりなのかよくわからない反応しか返ってこない人がふえてきました。「いえ、答えを知りたいんじゃなくて、答えを知らなそうなあなたががアザラシのゴマちゃんをぼんやり思い浮かべながらどうでもいいことについてどんなふうに言うのかが知りたいだけなんです」なんてことを言ってもこういう人にはつたわらなそうだし、まして怒りだしたら面倒なので、そんなときは「そうだね」と早々に話を切り上げます。

インターネットは答えを知りたいときやなにかを調べるときは便利ですが、ぼんやりと思いをめぐらしたり、ぼんやりをまわりの人とわかちあったりするには、きわめてじゃまな存在です。なんせ調べるという行為の敷居がやたらと低いので、ぼんやりしてればいいことまでついつい調べてしまって、せっかくの貴重な湯船をまたひとつ失っていくわけです。なので、「わからないことはなんでも調べましょう」ではなく、いい具合にぼんやりとした疑問については調べたりせず、大事にとっておいたほうがいいと思うんです。クイズ番組で賞金を稼ぎたいっていうなら別ですが。ちなみに小説の売り上げは世界的に低迷してますが、その原因はたんにネットと電子機器が普及したからではなく、それらの普及で人々の考え方が変化してるからじゃないかと思ってます。つまり、小説が提示する答えも結論もないぼんやりとした世界に、多くの人がつきあえなくなっているんじゃないかと思うわけです。まあ、ぼんやりとですが。


ところで、ネットのデマにすぐだまされる「60代うちのオカン」について書いたこのブログはおかしかったです。本当にイソジン買いだめた人って世の中にはいるのね。ネットのウワサに右往左往してる人たちと「あるある大事典」を見て健康食品に飛びついたような人たちとは別の種類だと思っていたんですが、このオカン観察記を読むかぎり関連性があるようです。ただ、うちのオカン観察記としてはおもしろいけど、それだけを例に世代論を語るのは少々乱暴に見えます。

kobeniの日記 なぜ、オカンはデマを真に受けるのだろう
http://d.hatena.ne.jp/kobeni_08/20110324/1300982184