業者敬語

 ラジオで若い女性タレントが言う。「この間、NHKさんに出演させていただきまして、そのときウッチャンナンチャンさんにお会いさせていただだきまして……」。なんだろう、このムズムズするへんな感じ。さらに自分が乗ってるクルマを「わたし、トヨタさんのプリウスに乗らせていただいてるんですが」と言う。なんらかの事情でトヨタからプリウスを無償貸与されているのかと思ったら、どうやら自分のクルマのことを「乗らせていただいている」と言ってるらしい。事務所からそう言えと教育されているんだろうか。でも、彼女はなんでそこまでへりくだっているんだろう。機械的に話している感じでなにかに敬意をいだいているようには感じられない。むしろ、自分のパーソナリティを遮断しようとする厚い仮面のようなものを感じる。ビートルズさんやローリングストーンズさんを楽しく聞かせていただいたり、台湾さんや韓国さんを楽しく旅行させていただいたりしているんだろうか。ここ数年、若いタレントたちがこの業者敬語みたいなへんな喋り方をするのをやたらと耳にするようになったが、本来、「さん」は人に用いる尊称である。丁寧に話したいのならNHKの「みなさん」だし、ウッチャンナンチャンの「おふたり」のはずである。

 企業名・団体名に「さん」を用いるのは、少し前まで、すれっからしの業界人が使うかなり下卑た業者用語だった。たとえば、営業所で同僚と「いやあ凸凹産業さん、契約渋くってさあ」「凸凹さんってあれだろ、何度も呼びつけたあげく結局断るって評判のさ」とぼやきあう。あるいは外務官僚がぶら下がりの記者たちにオフレコと念を押して「今回の交渉はアメリカさんが手強くってね」とぼやく。もちろんこうした会話は内輪の軽口に限定されるもので、公式の場やお客さんの前では使えなかったはずである。少なくとも、1990年代末に深夜のテレビ通販で、アクの強い通販業者たちがパナソニックさんやカシオさんを連発しながらセールストークをまくしたてるようになるまでは、場を選ぶ言い回しだった。もし、証券会社のセールスマンが個人客に対して、「いまはイオンさんやダイエーさんあたりの流通業界さんが狙い目ですねえ」などと言い出したら、業界の方しか向いていない様子が透けて見えるので、顧客の信頼は得られないだろう。あるいは公的な発表の場で、「今回、三菱さんとの合併がまとまりまして」とか「アメリカさんとの通商交渉が締結いたしまして」などと担当者が言い出したら、社員や職員の教育はどうなってるんだと組織としての信用を落としかねない。

 元々下卑た業者用語なので、そこにはしばしばあざけりのニュアンスも込められる。相手チームをカモにしている野球選手が試合後の会見で「いやあ、阪神さんにはいつもお世話になってます」などとコメントしたら、そのなめた物言いに次の阪神戦では、彼のアタマめがけて剛速球が飛んでくるだろう。

 学校関係者にこうした話し方をする者は少ないが、それでも「中学さん」や「高校さん」という人間を時々見かける。教育産業の業者という感じ。1980年代に出版された干刈あがたの小説『黄色い髪』(だったと思う)に、中学生の娘を持つ母親が高校の学校説明会で学校関係者が「中学さん」というのを聞いて席を立つという場面がある。彼女はこんな物言いをする教師には娘をあずけられないと憤慨する。

 つきつめれば、その根底にあるのは、個人と組織のどちらを社会的主体と見なすかという思想の問題である。個人を主体と見なす者にとって、企業や団体は人がより良く生きるための「装置」にすぎないので、それを擬人化して「さん」や「様」をつけるのは、滑稽で悪趣味な物言いと写るだろう。逆に、組織こそ社会的主体と見なす者にとっては、人はそれらに「生かしていただいている」存在なので、NHKさん、トヨタさんと尊称をつけないことにはどうにも据わりが悪いと写るのだろう。現在の日本でどちらが優勢かといえば、この四半世紀でこうした物言いがやたらとはびこるようになったことから旗色は明らかである。個人は矮小化され、社会システムとマーケティングの網の目ばかりが細かく張り巡らされるようになった。ラジオで喋っていた彼女に皮肉めいた調子はなく、それが少し前までぼやきやあざけりのニュアンスを含んだ業者言葉だったことを知らない人も多いんじゃないだろうか。

 

クオータ制

 クオータ制について、要点をまとめた問題を作成した。うまく書けた気がするので、こちらにも転載しておく。

 

  

 社会的に弱い立場におかれてきた人たちへの支援を「アファーマティブ・アクションポジティブ・アクション)」といいます。このアファーマティブ・アクションで、しばしば議論の的(まと)になるのは、入学試験や就職試験で採用枠の一部をあらかじめマイノリティ(社会的弱者)に割り当てる「クオータ制」です。クオータ制について議論している次の会話文の中から、誤った事実認識をしている発言を選びなさい。

 

  1. 「マイノリティ支援の中でも、クオータ制はあらかじめ社会的弱者に採用枠の一部を割り当てるというやり方だから、かなり乱暴だよね。とくに大学入試をめぐっては、入試の点数が低くても、マイノリティということで優遇(ゆうぐう)されて合格する学生も出てくるわけだから、アメリカでは、白人の学生から、人種を基準にして黒人やヒスパニックを優遇する合格枠を設定するのは不公平だと不満の声があがっていて、過去に何度も裁判になっているよ。」
  2. 「インドでも国立大学や公務員の採用で10%程度、低位カーストの人たちを優先的する枠を設定しているけど、やはり、上位カーストの人たちからは、逆差別だって不満が出ているね。インドでは、このクオータ制をめぐって、上位カーストの人たちによる抗議デモや暴動までおきているよ。」
  3. 「でも、人生のスタートラインは、人それぞれ違っているよね。恵まれた家庭環境に育つ人もいれば、そうでない人もいる。そうした生育環境の格差を一切補正せずに、結果の点数だけで合否を判断するのは、ジョン・ロールズも指摘しているようにフェアな社会のあり方とはいえないよ。もちろん、公正な機会均等(きかいきんとう)が完全に実現していて、格差も差別もない社会なら、クオータ制は必要ないけど、人間の歴史でそんな社会が実現したことなんてないからね。」
  4. 「こどもの学力と親の社会的地位や収入は、比例する傾向にあるから、なんらかのマイノリティ支援がないと、名門大学の学生は裕福な家庭の子ばかりという状況になってしまうよ。実際、日本でも、すでにそういう状況になっていて、東大生の親の平均年収が1000万円を超えていることや学費の高い私立医大の場合、学生の半数以上が親も医師であることがしばしば指摘されている。貧困家庭に育ったこどもたちや差別される立場のこどもたちが高等教育を受けられるようにするためには、多少乱暴でも、大学入試のクオータ制は有効だと思うよ。」
  5. 「クオータ制がより有効なのは、面接が重視される就職試験のケースだね。面接試験の場合、重要なのは「印象」であって、学力テストのように結果が点数化されるわけではない。だから、就職の面接で、女性やマイノリティをすべて不採用にしてしまっても、今回はたまたま男性の応募者に優秀な人材が多かっただけで差別的な意図はないと言われれば、外部の者には実態がわからないからね。」
  6. 「クオータ制への批判に、純粋に能力だけで競争すべきで、マイノリティの特別枠を設けるのは、公正な能力競争を阻害(そがい)するものだという意見がある。でも、女性だからとか、移民のこどもだからとか、あるいは、親が失業中だったり離婚していたりといった理由で採用試験でふるい落としてしまう状況は、そもそもフェアな能力競争が行われていないわけだよね。クオータ制の導入は、こうした差別的なふるい落としをふせいで、それまで競争に参加させてもらえなかった人たちが同じスタートラインに立てるようにするためのものだから、けっしてフェアな競争を否定するものではないはずだよ。」
  7. 「たしかに応募書類に親の勤務先や役職まで書かせる日本の慣習は、フェアな競争とはいえないね。もし、親が日銀や財務省の幹部職員なら、履歴書(りれきしょ)に記入するだけで銀行や証券会社の就職は圧倒的に有利になるだろうけど、それは実質的にコネ採用とかわらない。だから、アメリカのように、履歴書への記入は、本人の学歴と職歴だけにして、本人の業績とは関係のない、親の職業や家族構成や年齢・性別は一切問うべきではないと思うよ。」
  8. 「日本では、女性の自立を支援する団体から、企業の採用試験での女性を対象にしたクオータ制導入を求める声がずいぶん前から出ているね。日本の場合、いまだに女性社員を敬遠する企業があるから、採用試験で女子学生のほうが不利になりやすい。2018年に日本の多くの医学部で女子受験生の点数を減点していたことが発覚して大きな社会問題になったけど、やはりその背景には、女性医師を敬遠する医療現場の問題があった。女の医者は残業を嫌がるから使い物にならない、女子の合格者を2割程度におさえてほしいっていう医療現場からの要望を受けて、女子の点数を減点していたんだよね。」
  9. 「そうだね。企業や公務員の採用試験で女性差別をふせぐためには、あらかじめ女性を3割以上採用する枠を設けるクオータ制の導入は有効だね。就職で女性の採用枠を設定するクオータ制については、多くの日本企業も賛同しているから、日本でも企業側の主導でまもなく導入される見通しだよ。」
  10. 「でも、消防隊員や警察官のような体力が求められる職種にまで、女性を3割以上採用するよう義務づけるクオータ制を導入するのは無理があるんじゃないかな。あと、ヨーロッパ諸国では、国会議員についても女性のクオータ制が導入されている国が多いけど、これもやりすぎだと思うよ。選挙は有権者の判断にゆだねるのが民主主義の基本だよ。」
  11. 「とは言っても、日本の国会における女性議員の割合は、20%程度にとどまっていて、先進国中最低だよ。これはもちろん日本の女性の能力が低いからではなく、女性を低く見てきた日本の社会的要因によるものだよね。そもそも、日本における女性の参政権は、戦後のGHQによる民主化によってようやく実現したわけだから、問題の根は深い。こうした社会状況を打開(だかい)するためには、女性議員を30%以上にする国政選挙のクオータ制導入も検討する価値があると思うよ。」

 「誤った事実認識」をしているのは、もちろん9番目の発言で、日本の企業がクオータ制導入に前向きなわけがない。なので問題を解くこと自体は難しくないが、それよりもこの会話文は、クオータ制をめぐる論点を整理するための基礎知識といえる。まあ、そこから先に考察や議論をすすめていくためのたたき台みたいなものです。生徒たちの反応は、クオータ制が「割り当て制」だというしくみだけを解説して、企業や公務員の採用で3割以上女性を採用する枠を設定することの是非を尋ねると、だいたい7割が導入に反対する。しかし、この問題をやった後であらためて質問すると賛否の割合は逆転し、支持が7割から8割にのぼる。

 

マンモスのクローン再生

 新型コロナの緊急事態宣言で学校は自宅学習とのことで、課題を作成する。お題はマンモスのクローン再生の是非について。この分野の研究者というと、社会的視野の狭いオタクが集まっている印象が強いので、研究者たちはみな手放しでやりたがってるのかと思っていたら、案外、賛否が分かれいていて、社会的意義と科学的意義の両面から議論されているという。資料2の近畿大学の先生による解説文も非常に抑制的で、環境面・倫理面で問題がクリアーできなければやるべきではないという立場をとっている。何年か前、近大の別の先生がテレビの科学番組に出演した際、やけに浮かれた調子で「あと一歩なんですよぉ、もういまからわくわくが止まりません!」と自らの研究にまったく疑問をいだいていない様子だったのとは対照的。

 資料には入れなかったが、別のナショナルジオグラフィックの記事によると、絶滅動物の再生の是非について、2013年に研究者だけでなく環境NGOも招いて国際会議も開かれたとのこと。


【課題】
 現在、世界中でマンモスをクローンで再生させようという研究が進められています。毎年、4月1日のエイプリルフールには、世界の様々な新聞の一面に「マンモスの赤ちゃん誕生!」のウソニュースが載るのが定番になっており、この研究は世界的によく知られています。日本では、近畿大学のグループが中心になって研究が行われています。

 マンモスは約400万年前から約1万年前にかけて、ユーラシア大陸北アメリカ大陸に生息していたゾウの仲間です。とくに氷河期の寒冷地に適応した毛の長いケナガマンモスが有名です。マンモスというとやたらと巨大なゾウを思い浮かべるかも知れませんが、これはまちがったイメージで、実際のケナガマンモスはアジアゾウくらいの大きさで、アフリカゾウよりも一回り小さく、種としてもアジアゾウに近いことがわかっています。

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ケナガマンモスの復元図 画像はWikipediaより

 クローン再生の方法は、当初、氷づけで発見されたマンモスの肉から遺伝子を取り出し、それを種の近いアジアゾウの未受精卵に核移植(かくいしょく)し、メスのアジアゾウの子宮内で発生させようとしていました。クローン羊ドリーや映画の『ジュラシック・パーク』と同じ手法です。しかし、DNAは不安定な物質なので、氷づけになっていた数万年間の間に遺伝情報は劣化してしまっており、マンモスの完全な遺伝子を入手するのは難しいことがわかりました。

 そこで現在では、読み取ったマンモスの遺伝情報を元に、ゲノム編集技術によってアジアゾウの遺伝子を改変させてマンモスに近いゾウをつくろうという研究や、iPS細胞を使ってマンモスと同じ遺伝子を持つ精子卵子をつくって人工子宮内で発生させようという研究など、複数のアプローチから研究がすすめられています。

 マンモスのクローン再生に取り組んでいる研究者たちは、この研究の意義を次のように主張しています。

  • マンモスを再生させることで、化石や骨を分析しているだけではわからなかったマンモスの様々な生態をあきらかにできる。
  • マンモスのクローンをつくるためにマンモスの遺伝子をくわしく分析することによって、ゾウがどのような進化の道すじをたどってきたのかあきらかにできる。
  • マンモスは恐竜とともにこどもたちに人気のある絶滅動物であり、マンモスを再生させれば、世界中の人々の地球環境問題への意識が高まる。
  • ゲノム編集やiPS細胞の技術は様々な遺伝病の治療にも応用できる技術であり、絶滅動物の再生の分野でこの技術が発展し、実用化できれば、医療分野でも様々な病気の治療に利用できる。

 一方、マンモスの再生には批判の声もあがっています。その批判は次のようなものです。

  • マンモスが生きていた数十万年前とは、地球の環境は大きく変化している。マンモスの生態をあきらかにするには、十数頭のマンモスの群れを自然環境に放ち、長期にわたって調査を続ける必要があるが、現在の地球上に野生のマンモスの群れが生きていける場所は存在しない。
  • もし、クローン再生したマンモスの群れをシベリアやアラスカに強引に放したら、生態系のバランスに大きなダメージを与えることになる。マンモスを環境に放つことでかえって野生のヘラジカやトナカイを絶滅に追い込む危険性もある。
  • 環境保護のために絶滅した動物のクローン再生を行うというのは、優先順位が間違っている。現生のゾウもすでに絶滅の危機にあり、絶滅の恐れのある野生動物の保護活動にこそ力を入れるべきだ。
  • マンモス、もしくはマンモスもどきの遺伝子組みかえゾウを製造したとしても、実験室や動物園のような閉鎖環境で飼育されることになる。自然環境に放つことができず、実験材料や人々の見世物にするために絶滅動物を再生させようというのは、科学的な意義にとぼしい上、倫理的に問題がある。
  • ゲノム編集やiPS細胞の技術は、はじめから医療分野に限定して利用していくべきだ。絶滅動物の再生のような人命に直接関係のない分野まで、研究者の好奇心からゲノム編集やiPS細胞を用いて既存の生命の遺伝子を作りかえるようになってしまったら、バイオテクノロジーに歯止めがきかなくなってしまう。

 あなたはマンモスを再生させようという研究をどのように評価しますか。積極的に進めていったほうがいいと思いますか。それともやめたほうがいいと思いますか。資料の記事も読んで、あなたの考えを書きなさい。(約800字)

 

 以下資料。

よみがえるマンモス  先端技術とその危うさ
トム・ミューラー ナショナルジオグラフィック日本版 2009
 絶滅した動物をクローン技術でよみがえらせることは、もはや夢物語ではない。問題は、それが果たして賢明な選択かどうかだ。
 シベリアの永久凍土から冷凍マンモスが見つかるたび、この動物を復活させるアイデアが話題になる。
 技術は着々と進んでいる。昨年11月に神戸市、理化学研究所若山照彦率いる研究チームが、16年間冷凍保存されたマウスのクローンづくりに成功した。数週間後には、米ペンシルベニア州立大学のウェブ・ミラーとステファン・シャスターらのチームが、マンモスのゲノム(全遺伝情報)の70%を解読、公開した。
 「スピルバーグ監督が、絶滅種のクローンづくりは現実になると言ったとき、私は笑ったものです」と、映画『ジュラシック・パーク』のメイキング・フィルムの科学顧問も務めた遺伝学者ヘンドリック・ポイナーは言う。「でも、今はもう笑えない。マンモスだって現実になりつつある。あとは細部を詰めていくだけです」
 だが、ポイナーも認めるように、その細部にかなりてこずりそうだ。マンモスに限らず、絶滅種のクローン作成には、大きく二つの段階がある。まず、その動物の完全なDNAの塩基配列(マンモスなら45億対以上とされる塩基配列のすべて)を解明すること。そして、この情報をもとに生きた動物を再現することだ。
 マンモスのゲノムがある程度解読されたことは、第一段階クリアに向け前進と言えるが、まだあと30%の解読作業が残っている。それに古い動物のDNAは、長い歳月の間に劣化が進むほか、バクテリアなどのDNAが紛れ込んでいるおそれもある。こうした誤差を除くには、何度か解読を重ねなければならない。
 配列がわかったら、今度はそれを染色体に収める必要があるが、現段階ではマンモスの染色体の数さえわかっていない。それでもDNAの解析技術はどんどん進んでいるので、こうした難題もいずれは克服できるだろう。「もはや技術の問題ではなく、単純に時間とカネの問題になっています」と、シャスターは言う。
 DNA情報がそろっても、そこからマンモスをよみがえらせる作業ははるかに困難だ。ただし、アフリカゾウなど現生の近縁種がいることは助けになる。ペンシルベニア州立大学チームがマンモスの断片的なDNAをつなぐ際にも、アフリカゾウのゲノムを参照した。
 生体を再現するには、たとえばゾウの染色体上のマンモスと塩基の並びが異なる箇所(推定40万カ所)を組み替えて、ゾウの細胞核をマンモスの核に改造する方法がある。また、マンモスのDNAがどのように染色体にパッケージされているかがわかれば、マンモスのゲノム全体を人工的に合成する方法もある。もっとも、技術的には今のところ、マンモスのゲノムの1000分の1ほどの長さの、細菌のゲノムをかろうじて合成できるレベルである。
 マンモスの染色体が手に入れば、それを膜で包んで人工の細胞核をつくる。それをゾウの体に移植すれば、クローンを作成できる。
 体細胞からクローンをつくる技術は、1996年にクローン羊「ドリー」を誕生させた英国のロスリン研究所チームが確立している。マンモスの場合、ゾウの卵子に人工合成したマンモスの細胞核を挿入、電気刺激を与え、卵子を分裂させてクローン胚をつくる。それを代理母役のゾウの子宮に着床させればよい。
 ただし、この手順の一つひとつに、大きな問題がつきまとう。たとえば、マンモスの細胞核を作成する技術は未開発だし、ゾウの卵子を採取するのも簡単ではない。マンモスのクローン胚をゾウの子宮に入れて、果たして妊娠させられるかどうかもわからない。
 もっと実現性の高い課題に取り組む科学者もいる。絶滅が危惧される現生動物、あるいは近年に絶滅した動物のクローンづくりだ。サンディエゴ動物園ニューオーリンズのオーデュボン絶滅危惧種研究所は、絶滅危惧種のDNAを保存している。2003年にはバイオ関連企業がこのDNAから、絶滅の危機にある東南アジアの野牛バンテンのクローンをつくった。卵子や子宮は家畜のウシのものを使った。
 同様の方法で、ジャイアントパンダやボンゴ、スマトラトラのクローンづくりも検討されている。フクロオオカミなど近年に絶滅した動物をよみがえらせることも期待できそうだ。
 今や絶滅種のクローンづくりに立ちはだかる最大の壁は、技術的な壁ではなく、倫理的な問題かもしれない。「マンモスは、ゾウと同じく社会性をもつ賢い動物です」と、ロンドン自然史博物館の古生物学者で、マンモスの専門家であるエイドリアン・リスターは話す。「クローン技術で1頭だけ再生できた場合、そのマンモスは動物園か研究所で孤独に暮らすことになります。もとの生息地は残っていませんから。見世物の動物をつくるようなものです」
 シャスター、ウェブらとマンモスのDNA抽出技術を開発したコペンハーゲン大学のトム・ギルバートは、生きたマンモスが歩く姿を一目見たいのは山々だがと断った上で、絶滅種のクローンづくりが賢明な選択かどうか、有用性があるのか、よく考えてみる必要があると語る。「マンモスをよみがえらせるなら、死んだ生き物なら何でも再生できることになります。地球がほかに大きな問題を抱えるなかで、果たしてそれが賢明な選択なのでしょうか」


マンモス再生は、どこまで現実に近づいているのか? 研究者が解説
ナショナルジオグラフィック日本版 2019
 東京・お台場の日本科学未来館で企画展「マンモス展」-その『生命』は蘇るのか- が開催されています(2019年6月7日~11月4日)。マンモスをはじめ、古代のシベリアの動物たちの冷凍標本が展示されるほか、冷凍マンモス標本を使った「マンモス復活プロジェクト」についても紹介しています。ここでは長年、研究に携わってきた近畿大学先端技術総合研究所の加藤博己氏に「マンモス再生研究の最前線」について語っていただきます。

 ケナガマンモス(Mammuthus primigenius、以下マンモスと略します)は、北半球の広範囲にわたって生息、氷河期の終了とともに減少し、4000年前に絶滅した非常に著名な動物です。永久凍土からは、マンモスの骨だけでなく筋肉などの軟組織も発掘されることから、それらの組織を用いて個体再生ができるかもしれないと、各国で研究が進んでいます。
 近畿大学では、近年急速に発達した発生工学的手法を用いれば古代の生物も再生できるのではないかと考え、20年以上にわたり、シベリアでマンモスの組織を発掘し、回収された細胞核を用いて体細胞核移植実験をおこなってきました。2019年3月には、2万8000年前のマンモス細胞核が生物学的な特性を維持していることを初めて確認した論文を、科学誌「Scientific Reports」に発表しました。ここでは、私たちの研究をはじめとするマンモス再生研究の最前線、さらにその課題についてお伝えします。

体の組織を手に入れる
 マンモスの細胞核の移植実験をおこなうには、まず、マンモスの組織を入手しなければなりません。私たちは、1997年と1999年の2回、ロシア連邦サハ共和国ヤクーツク市にあるマンモスミュージアムと共同研究をおこない、コリマ川流域でマンモスの組織の発掘を試みました。
 初めて古代の動物の皮膚の発掘に成功したのは、1999年のことでした。その一部を近畿大学へ運び、放射性炭素による年代測定をおこなったところ、この動物の皮膚は約3万年前のものであることがわかりました。しかし、この皮膚から得られたDNAの塩基配列を解析した結果、マンモスと同時期にシベリアに生息していたケサイ(Coelodonta antiquitatis)のものであると結論されました。
 マンモスとの出会いは2002年でした。岐阜県の支援を受け、ヤクーツクの北1200キロの北極圏に位置するマクスノーハ河畔からマンモスの脚を発掘しました。マンモスの脚は凍った状態のままヤクーツク市のマンモスミュージアムへ運ばれ、皮膚、筋肉、骨および骨髄の各組織が採集され、翌年に近畿大学へ運ばれました。放射性炭素年代測定によると、これらの組織は約1万5000年前のものであり、DNAの解析からマンモスのものであることも確認できました。
 いよいよ細胞核の移植実験です。私たちの研究では、あらかじめ核を除いたマウスの卵に、マンモスの細胞核を注入する方法を試みました。その結果、マンモスの細胞核が変化すれば、マンモスの組織に由来する細胞核が数万年の時をこえて、その生物学的特性を維持していることがわかる、というシナリオです。
 マンモスの組織から細胞核を採集し、全部で149個のマウス除核卵へ、慎重に注入しました。卵を培養し、核の注入後1時間と7時間において顕微鏡下でマンモスの核の変化を観察しました。しかし、すべてのマウス除核卵において、注入後に何らかの変化をおこしたマンモスの核はありませんでした。
 この実験において、注入後のマンモスの核に変化がおこらなかったのは、マンモスの核とマウスの卵の組み合わせが不適当だった可能性や、実験に用いたこのマンモスのサンプルそのものが、生物学的特性を失っている可能性が考えられました。しかし、この一例だけで結論を出してしまうのは性急に過ぎると判断し、次の機会を待ちました。

細胞核が動いた!
 2011年12月に、ロシア連邦サハ共和国科学アカデミーの研究者から、非常に状態の良いマンモスの個体が発見さたとの連絡がありました。2005年に愛知万博で展示されたマンモスの頭部「ユカギルマンモス」と同じ地域で発見された若い雌個体であることから「YUKA」と名づけられました。
 内臓はほぼ失われていましたが、四肢や鼻を含む頭部は非常によく保存されていました。2013年7月、私たちは「YUKA」から採集した筋肉組織や骨髄組織を近畿大学へ運び、さまざまな実験をおこないました。 まずわかったのは、「YUKA」が2万8000年前のマンモスであること、そして、たしかに細胞核の成分が存在していることでした。そこで、筋肉組織から回収したマンモスの細胞核を、マウス卵に注入し、マウス卵を生かしたまま細胞核の動きを観察しました。
 その結果、マンモス細胞核が新たにマウス由来の細胞核タンパク質を取り込みはじめ、なかには細胞分裂をする直前の形になるものも存在しました。さらに、マンモス細胞核の一部が最終的にマウス卵の細胞核の中に取り込まれる現象まで確認できました。

マンモス再生への道のり
 今回の研究において、いくつかのマンモスの細胞核が、永久凍土の中で2万8000年間も生物学的特性を維持してきたことが初めて明らかになりました。しかし、「YUKA」のように状態が非常に良いと考えられるサンプルでも、DNAの断片化がかなり進んでいることもわかりました。つまり、現在の核移植技術では、マンモスの体細胞クローン個体作製には至らないことを示す結果となりました。
 今後は、「YUKA」のように状態がよいサンプルから、DNAやタンパク質情報など、マンモスを構成する情報を集め、それらの情報を基に新たにマンモスの細胞を合成することを考えています。細胞が合成されれば、iPS細胞技術を用いて精子と卵を作出し、受精を経てマンモスの胚を作製します。また、並行してこのマンモスの胚を育てる人工子宮が開発されれば、マンモスを再び見ることができるかもしれません。
 「絶滅種を復活させることにどんな意味があるのか?」という声もあると思います。私たちは、マンモスは、手の届く可能性のある絶滅した動物の代表であると考えています。絶滅した動物というと、まず「恐竜」が思い浮かぶ方が多いのですが、恐竜の絶滅は6550万年前のことで、恐竜のDNAが保存されていたとの報告はこれまでになく、恐竜の生物学的な情報は希薄です。これに対して、マンモスは氷河期に生息していたため、現代に冷凍標本が発見され、それらの標本から得られた生物学的な情報が集積されつつあります。
 また、マンモスを復活させることを研究する過程で開発された様々な技術は、マンモスだけでなく、他の種の復活等にも応用が可能です。現在、先に書きました体細胞をiPS細胞化した後に精子と卵を作製し、受精卵を得ようという方法は、最後の雄個体が死に、絶滅が目前に迫ったキタシロサイの復活のためにも利用が考えられている技術です。さらに、近年人間による乱獲や外来の伝染病の蔓延などによって姿を消したニホンオオカミニホンカワウソでは、日本における「生態系の正常化」という意味において、その復活に大きな意味があると考えています。

単に蘇らせればよいということではない
 ただし、単にマンモスを蘇らせればよいということではありません。例えば、過去にマンモスが生息していた地域はマンモスステップと呼ばれる草原であったと考えられていますが、現在ではタイガと呼ばれる針葉樹林やツンドラと呼ばれる平原になっており、マンモスが生息していた頃とは気候や環境が大きく異なっています。そのような場所へ、蘇ったマンモスを放すことができるのでしょうか? そしてマンモスを放すことによって生じる現在の生態系への影響はどのようなものなのでしょう?
 もしも自然環境へ蘇ったマンモスを放すことができないのであれば、蘇ったマンモスはその一生を人工的な閉鎖環境下ですごさなければなりません。さらに、現生のゾウは群れを作って生活をしています。マンモスも、その生活に群れを必要とするのではないでしょうか?
 ほかにも課題はあります。私たちは人工子宮内でのマンモスの胚の育成を考えていますが、人工子宮から生まれたマンモスの子供はおそらく、植物の消化能力を持ちません。草食動物の多くは、消化管内で微生物の助けを借りて植物を消化しています。草食動物の子供は親の糞を食べるなどのかたちで消化管内の微生物を受け継ぎ、植物の消化能力をもつようになります。人工子宮から生まれたマンモスの子供には、どのようにして植物を消化する能力を持たせればいいのでしょうか? 絶滅した古代の動物を再生するのには、単純に再生するだけではなく、再生に伴う様々な問題を解決しなければならないのです。
 国際自然保護連合(IUCN)の種の保存委員会(SSC)が定めている「保全のための絶滅種の代用種作製に関る基本理念」は、現在の技術では絶滅種の忠実な複製を作製することはできないため、作製されうるものは絶滅種の代用種であると考えています。また、絶滅種の代用種の作製について、それが正当であるとされるのは、原種の絶滅によって失われた可能性がある生態系の働きや推移を修復することができる場合であるとしています。私たちは、このような考えに従って、絶滅動物の再生に関わる倫理的問題、環境的問題および動物福祉の問題等が解決されなければ、絶滅動物の再生をおこなってはならないと考えます。

加藤 博己(かとう ひろみ)
 近畿大学 先端技術総合研究所 生物工学技術研究センター教授。ウシやヒツジの体外受精における卵の体外成熟の研究や、世界初のウマの顕微授精による産仔作製等に関与した。約20年前から近畿大学においてマンモス復活プロジェクトに携わる。専門は生殖生理学、分子生物学、古生物学。

 

新卒一括採用 メモ

 先日書いた新卒一括採用の是非について資料を集めている。
 こんな記事を見つけた。
 
なんだかんだ言っても新卒一括採用が最も合理的
海老原嗣生  日経ビジネス 2021.4.6
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00271/032600009/?n_cid=nbpnb_mled_mpu

 

 日本企業の場合、社内の配置転換で欠員を埋め、業務を回しているため、下っ端のヒラ社員から経験を積むごとに少しずつ繰り上がっていく。そのため、毎年、新卒一括採用で下っ端を補充していくのが合理的という趣旨の文章である。
 たとえば、自動車会社でエンジンの設計をしていた人物が退職・転職し、空きができたとする。エンジンの設計者のような専門性の高い人材を社外から補填する場合、異業種からの転職では業務内容に対応できないので、必然的にその人材は他の自動車会社でエンジンまわりの設計をしていたエンジニアに限定される。しかし、そうした狭い労働市場アメリカのように同業他社間の引き抜き合戦になってしまったら、企業にとって負担が大きく疲弊する。そこで、日本企業は社内の移動で欠員をまかなってきた。まず、空席になったエンジンの設計部門にそれができる人材が社内の配置転換によって補填され、さらにそれによって空いた席に別の人材が補填される。その玉突きの一番最後の空席をヒラ社員が昇進することで埋める。そのため、日本の大手企業では、下っ端のヒラ社員を補充するだけで業務が回るしくみになっているというわけである。なるほど、ここまではいたって明快だ。記事にはそのしくみの図もそえられている。

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 ところが、ヒラ社員の補充が新卒一括採用でなければならないという肝心なところの説明が一切されていない。記事のタイトルは「なんだかんだ言っても新卒一括採用が最も合理的」なのに。下っ端として業務を一から経験させるのなら、こちらは異業種からの転職でもいいはずだし、派遣社員やパート従業員を正規雇用に転換してもいいはずである。あるいは定職についていないオーバードクターや新卒時の就職活動がうまくいかずにアルバイト生活をしている既卒者に門戸を開いてもいいはずである。それがなぜ「新卒者」の「一括採用」でなければならないのかという説明がまったくないので、ちょっとこれは資料として使えません。四年時の就職活動がうまくいかなかった学生が来年度の新卒枠に残るためにわざと留年したり、研究に興味もないのに大学院へ「避難」したりする状況は、「きわめて非合理的」だと思うんだけど。

 それに文章では「エンジンの設計者」という技術職を例にあげて、その専門性の高さから労働市場の小さいことを理由に社内異動で補填した方が合理的だと説いているのに、図ではそれが「部長」「課長」という役職へとすり替わっている。部長や課長はあくまで管理職なんだから、こちらは異業種から転職であっても対応可能なはずである。自動車会社の「部長」や「課長」がすべてエンジンの設計ができる人材というわけではないだろう。記事を書いたのはリクルートの研究所で企業の組織分析をしてる人。ずいぶんいいかげんだなあ。

 

 ところで日経ビジネス、記事やコラムは良いのが多いんだけど、コメント欄がなぜかいつもネトウヨおじさんたちの集会場になっている。「記事はつまらなかったが、こちらのコメント欄には励まされた」なんて書き込みもあちらこちらで見かけたりして、退職してヒマを持てあました右翼おじさんたちがネットのコメント欄に居場所を見つけたという感じ。異文化探訪としてたまに覗くぶんには興味深いが、自らと政治的スタンスの異なる書き手に対して差別的な言葉で人格攻撃するコメントがずらずら並んでいる様子はやはり気分のいいものではない。

 

「つきあってください」は不自然?

 論述問題の課題として、「つきあってください」は変じゃないのかというのを作成した。どうも最近は中学生や高校生だけでなく、いい歳したおとなまで言うらしいのである。どうなってんのさ。先日ラジオを聞いていたら、スウェーデンから来日したというゲストに30代くらいの日本人ふたりが「えええっ!!スウェーデンじゃつきあってくださいって告白はないの!?」と盛大に驚いていたけど、あるわけないじゃんそんなの、それ日本の若者の特殊な慣習だよ、むしろ、自分の常識を疑おうとしない彼らの姿勢のほうが驚きだよ。そもそも色恋や友情は約束によって成立するもんじゃねえですぜ。なんだか近頃、高校生たちよりも30代40代の人たちにカルチャーギャップを感じるケースが増えてます。

 私はこの「つきあってください」や「友だちになろうよ」のセリフをドラマやマンガで見かける度にゲマインシャフトゲゼルシャフトが浸食してくるような居心地の悪さを感じる。てやんでえ人を囲い込むような姑息なマネすんじゃねえよって感じ。自覚していなかったが、こどもの頃に読んだ「ど根性ガエル」と「あばれはっちゃく」が自分の人格形成にもたらした影響は大きいらしい。というわけで、課題の参考意見は、個人的にはAの言いぶんを全面的に支持するというかAは私自身のいだいている違和感です。Bのほうは半日かけて心にもないことをひねり出してみました。

 

「つきあってください」は不自然?

 校舎裏や屋上に意中の相手を呼び出し、「つきあってください」と相手に告白するというのは、学園もののドラマやマンガでおなじみのシーンです。しかし、本来、恋愛は商品の売り買いやアルバイトの採用とは異なり、契約によって成立するものではなく、互いの個人的な感情によって親しくなった末に成り立つ関係性です。そのため、よく知らない相手にいきなり、「これから先、互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を共にしよう」という踏み込んだ関係を「つきあってほしい」という約束によって成立させようとするのは、かなり乱暴なものに見えます。また、逆に、手をつないで一緒に出かけるくらい親しくなった相手に、「つきあおう」と言うのもいまさらという感じでやはり不自然に見えます。
 恋人の約束をする慣習が日本の若者に広まったのは、1980年代から90年代にかけてテレビで放送された合コン番組の中で「告白タイム」という演出が用いられ、参加者が意中の相手に「つきあってください!」と告げるシーンを番組の山場としたことがきっかけになり、定着していったものです。日本の若者独特の慣習で、日本以外には、恋愛を約束によって成立させるケースはほとんど見かけません。ビーチや酒場で気に入った相手に声をかけることは世界中にありますが、それはあくまで親しくなるきっかけづくりです。
 恋愛を「つきあってほしい」という約束によって成立させようとするのは不自然な行為なのか、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを書きなさい。(約800字)


A 強い違和感をおぼえる。
 恋愛感情や友情は親しくなっていく過程で育まれるものであり、「つきあってください」や「友だちになろうよ」という言葉によって恋人や友だちになったりするものではないからだ。つまり、行動を共にしたり、会話を交わしたりする中で、一緒にいると楽しい、もっと一緒にいたいという思いが生まれるもののはずである。
 もしその相手と親しくなりたいのなら、「今度、一緒に映画に行かない?」と誘ってみたり、自分が気に入っている小説やゲームを「これ面白かったよ」と薦(すす)めてみたりして、少しずつ互いの共通体験をつくっていくべきだ。同じ出来事を共に体験して一緒に泣いたり笑ったりケンカしたりしていく中で、互いの関係性は深まっていく。そうした過程を飛ばして、相手のことをよく知らないまま、いきなり「つきあってください」と恋愛感情や性的体験をともなう深い関係を求め、約束によって互いの関係性を固定しようとするのは、あまりにも乱暴である。
 結婚は互いの合意によって結ばれる契約なので、相手に花束を差し出して「Marry me !(結婚して!)」と申し出るプロポーズは世界中で行われている。派手なサプライズイベントにするか、そっと申し出るかは人それぞれだが、ふたりの約束がないと結婚が成立しないのは世界共通である。一方、恋愛や友情は、互いの親しさによって成り立つ連続的な関係であり、約束によってその日から「恋人」になったり、「友だち」になったりするものではない。「つきあってください」という交際の申し出が日本以外にほとんど存在しないのもそのためである。日本では、1980年代におもに中学生や高校生に広まったものだが、これは恋愛経験にとぼしく、結婚と恋愛のちがいをわかっていない若者たちによる幼稚な慣習といえるのではないだろうか。
 恋愛で重要なのは、ふたりの間にいままでなにがあったのかという中身のほうであり、「つきあっている」という関係性のワク組みではない。一緒に過ごした楽しい思い出がたくさんあれば、恋人の約束などなくてもそれは充実したいい関係だし、そうした中身がなければ、恋人の約束をしていても形だけのカップルにすぎない。同じことが「友だちになろうよ」という言葉の不自然さにもいえる。もし「口約束だけでは心持たないから」と誓約書(せいやくしょ)の提出を求められたら、恋愛や友情に契約が入ってくることの違和感に誰もが気づくだろう。恋愛や友情は純粋に互いの気持ちによってのみ成り立つ関係であり、だからこそ損得(そんとく)や打算(ださん)を越えたきずなが生まれるのではないだろうか。

 

B 不自然ではない。
 日本で恋愛結婚が広まったのは1960年代なかば以降で、それ以前は、お見合い結婚のほうが一般的だった。とくに中流以上の家庭では、ほとんどがお見合い結婚だった。それまで顔も名前も知らなかった相手とお見合いし、親しくなる間もなく結婚し、こどもをつくり、家庭をかまるというのが日本人の一般的な生きかただった。そこでは関係性のワク組みが先にあり、相手との親しい関係はその後から築かれていく。現代においても、合コンやお見合いパーティはカジュアルなお見合いであり、古くからのお見合い文化の延長線上にある。そのため、合コンやお見合いパーティで知り合った相手に、これから先、結婚を前提とした交際をしていきたいという意思表示として、「つきあってください」と申し込むのは、適切な表現である。形から入ろうとするのは日本的慣習といえる。
 一方、結婚を前提としない自由恋愛は、欧米諸国とは異なり、日本では現在も定着しているとはいえない。複数の相手と親しくなり、その中から気のあった相手とより深い関係を築いていくというのは、恋愛としてはごく自然な成り行きのはずだが、そうした関係性のワク組みを先に決めない交際の場合、積極的に人と関わろうとする社交性とある程度のコミュニケーション・スキルがないと関係を深めていくのは難しい。また、はじめから相手をひとりに絞らない交際は、トラブルを生みやすく、日本では、しばしば「不誠実」「だらしない」と批判されがちである。
 テレビの合コン番組の「告白タイム」も結婚のプロポーズを模(も)したものだった。男性参加者が意中の女性参加者の前に立って手を差し伸べ、自分の気持ちを伝える。違いは、花束を差し出して「結婚してください!」と告げる代わりに「つきあってください!」と叫ぶことだった。この疑似プロポーズとしての「つきあってください」が1980年代に若者たちから支持され、その後、慣習として定着していったのも、いまも多くの日本の若者が恋愛を結婚の前段階と見なしているからではないだろうか。こうした恋愛と結婚を連続的にとらえる傾向は、他のアジア諸国にも共通しており、恋人の約束は、日本の若者だけでなく、アジア各国に慣習として存在する。恋愛と結婚を連続的にとらえているなら、恋愛も結婚同様にふたりの関係を明確にする約束があったほうが好ましい。「つきあってください」という言葉はそのためのものである。

 

〔追記〕 周囲の人たちにこれどう思うか聞いてみたところ、小学生の娘がいる女性が少し憤慨しながらこう話していた。「そうそう、うちの娘のクラスでね、この友だちになろうっていう約束がグループづくりに使われてて問題になってるのよ。うちの娘、友だちになる約束をしたのに他のグループの子たちと遊んでるなんてずるいって言われているらしくて、なんかグループ内で裏切り者扱いされてるみたいなのよ」とのこと。友だちは約束してなるものっていう予約システムみたいな仕組みだとこういうめんどうな状況にもなりますわな。

 

新卒一括採用

 授業の課題として、新卒一括採用の是非を作成した。個人的には、新卒一括採用は日本社会の諸悪の根源だと思っているのだが、生徒の反応は、新卒採用がなくなってしまうのは不安という声が多く、存続派が6割、廃止派が4割という割合だった。

 

新卒一括採用は必要か

 日本では、企業の社員募集は「新卒一括採用」というやり方が一般的です。
 これは、まだ在学中の学生と「卒業後に入社する」という就職内定の契約を結び、卒業と同時に新入社員として一斉に入社するしくみです。そのため、卒業の近づいた大学4年生や高校3年生は、就職活動のためにいくつもの企業を訪問して採用面接を受けることになります。近年では、日本の経済状況の悪化を受けて、学生たちの就職活動の時期は年々早くなり、大学3年生のうちから就職活動をはじめ、数十社も企業訪問をするのが一般的になっています。
 こうした新卒一括採用は、高度経済成長期の1960年代に多くの日本企業に広まり、定着していきました。当時は日本の経済規模が年々拡大していた時期で、各企業は設備投資を活発におこない、事業拡大をすすめていきました。その事業規模拡大にともなう労働力不足を解消するためにとられたのが、まだ在学中の学生に「卒業後、うちの会社にこないか」ともちかけて就職内定の契約を結び、卒業とともに大勢の若者をまとめて採用する「新卒一括採用」というやり方だったわけです。
 高度経済成長期のように、年々経済規模の拡大している右肩上がりの経済状況では、大勢の若者をまとめて採用することのできる新卒一括採用は効率の良いやり方でしたが、それから半世紀たち、日本経済は長い低迷期に入っており、社会状況にそぐわなくなっているという批判も出ています。また、日本では一般的な新卒一括採用ですが、世界的にはこうした採用方法をとているところはほとんどありません。
 欧米の場合、若者の就職活動は、卒業が決まった後に個人個人で企業の採用試験を受けるというのが一般的です。欧米の大学は、卒業審査が日本とくらべて非常にきびしく、毎年、卒業できずに留年する学生が2割程度いるので、卒業前に就職のための企業訪問をくり返しても意味がないからです。むしろ逆に大学4年生になると学生たちは学位をとるための勉強にかかりっきりになります。就職活動は、その卒業審査をクリアーして卒業が決まった後、各自がそれぞれ行うことになります。また、いきなり正社員として採用されるケースはまれで、はじめはアルバイトやインターン(見習い)として採用され、採用担当者がそこでの働き具合を見ながら、真面目によく働く者へ正社員としての雇用をもちかけていきます。そのため、入社時期はひとりひとり異なっており、企業側も年齢、新卒・既卒を問わず、随時(ずいじ)、従業員を募集するというやり方をとっています。
 日本での新卒一括採用は今後も続けたほうがいいのか、それともやめたほうがいいのか、次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを書きなさい。(約800字)

 

A 続けたほうがいい。

 新卒一括採用では、若者たちは就職活動について学校側から様々な支援を受けることができる。高校3年生なら、クラス担任の教師が就職の相談にのってくれるし、大学4年生や専門学校の2年生なら、就職課の職員から専門的なアドバイスをもらうこともできる。近年では、模擬面接を学校側がセッティングして、面接での受け答えを指導してくれたり、履歴書や志望動機書の添削をしてくれるというのも一般化している。欧米で一般的な卒業後に個人個人で就職活動を行うやり方では、こうした学校側からのサポートがなく、いきなり個人として社会の中に放り出されることを意味している。

 そのため、新卒一括採用をやめてしまったら、若者の失業率が増加することが予想される。16歳から24歳の失業率は、日本が10%程度なのに対し、アメリカでは15%程度、EU諸国では20%程度に達する。新卒一括採用のない欧米式のやり方では、学生時代から目指す企業でアルバイトやインターンをしているという者以外は、卒業後、無職の状態から職探しをスタートさせることになる。学校は卒業したけれども、就職の見通しもたたず、収入もないという生活は多くの若者にとって不安なものになるだろう。自分がどこにも所属せず、社会の中に自分の居場所がないという状態は孤独なものである。そのため、若者の失業率の高いEU諸国では、そのことがしばしば社会問題になっており、若者たちによる就職状況の改善を求めるデモも頻繁(ひんぱん)に行われている。欧米の企業の場合、採用を新卒者に限定せず、随時募集しているが、人気のある企業の場合、応募が殺到(さっとう)するので、いままで働いた経験のない若者が採用されるのは、たとえアルバイトやインターンであっても狭き門である。

 たしかに、経済状況によって特定の世代が就職で不利益を被ったり、新卒者の多くが一年以内に退職してしまうのは、新卒一括採用の問題点である。しかしそれは、既卒第二新卒の採用枠を拡大して対応すればいいことであり、新卒一括採用そのものを廃止する理由にはならない。新卒一括採用を全面的に廃止して、卒業後、多くの若者が無職の状態から職探しをするようになったら、親の経済的負担はいちだんと増すことになる。

 ひとりの自立した人間として社会と向き合って生きていこうとする若者にとっては、卒業後、一時的に無職になることなど取るに足りない問題かもしれない。また、学生のうちに十分な技能や専門性を身につけ、自分の力で生きていこうという若者にとっては、就職支援のレールなど敷かれていなくても、条件の良い就職先に自分を売り込むこともできるだろうし、自ら会社をおこすことも可能だろう。しかし、すべての若者がそういう強い気持ちを持っているわけでもないし、高度な専門性を身につけているわけでもない。自分になにができるのかまだわからないという多くの若者たちにとって、学校側からのサポートを受けながら「みんなでいっしょに」就職活動を行う新卒一括採用の日本式慣習は心強いものになるはずである。だからこそ多くの大学や専門学校がこぞって就職支援の充実を売り物にするようになったのである。

 産業構造が高度化し、業務の多くに高度な専門スキルが要求されるようになった先進諸国では、社会階層の二極化が起きている。アメリカの場合、シリコンバレーのコンピューター産業やウォール街の金融機関などの専門性の高い職種に就職した若者たちは、入社一年目から1000万円を超える年収を得ている一方で、そうした専門スキルを身につけていない者は、中国やインドをはじめとする新興国との競争の中で低賃金労働を余儀なくされている。アメリカでトランプ氏のような極端な発言をする人物に支持が集まったのも産業の高度化に適応できない人たちが大勢いたためである。トランプ氏が大統領時代、コンピューター業界をくりかえし批判し、安価な製品を大量に輸出している中国を敵視していたのも、彼の支持層に向けての政治的姿勢といえる。こうした社会階層の二極化は、新自由主義経済のアメリカだけでなく、イギリス、フランス、ドイツといったヨーロッパ諸国でもおきている。先進国で産業構造の高度化が進んでも、若者がみな高度な専門スキルを身につけているわけではないし、社会に適応できているわけでもない。そうした若者たちが社会からドロップアウトしないよう、安定した働き口を保障するしくみとして、日本の新卒一括採用方式はいまも機能しており、学校と企業とが連携しながら手厚い就職支援によって新卒者を新入社員として送り込んでいる。こうしたしくみは今後も必要なものである。

 

B やめたほうがいい。

 新卒一括採用の最大の弊害(へいがい)は、新卒採用の時期を逃してしまうとまともな就職先がほとんどなくなってしまうということである。2008年のリーマン・ショックや2020年の新型コロナ・ウイルス騒動のように経済状況が悪化した年に、たまたま大学4年生や高校3年生だった者は、就職が極端に難しくなる。日本の場合、アルバイトや派遣社員から正社員として採用される道すじがほとんどないため、新卒時の就職活動がうまくいかず、いったん非正規雇用になってしまうとそこから抜け出すのは難しい。「就職氷河期」と言われた1990年代末から2000年代はじめにかけて高校や大学を卒業した者が40歳代になった現在もフリーターや派遣社員を続けているケースが多いのもそのためである。大学4年時に就職活動がうまくいかなかった者の中には、来年のチャンスにかけるためにわざと休学や留年をしたり、研究に興味もないのに大学院へ進学するケースも一般化している。ひどく無駄なことをしているように見えるかも知れないが、それくらい日本企業の採用における新卒と既卒の扱いの差は大きい。

 アルバイトや派遣社員であっても、収入が十分にあって生活できるのなら悪くはないが、日本の場合、「同一労働・同一賃金」を徹底しているEU諸国と異なり、正規雇用と非正規雇用との賃金格差は極端に大きい。福利厚生や退職金や年金まで含めて計算すると、正社員に対して派遣社員なら1/3程度、アルバイトなら1/5程度の収入にとどまる。企業側がアルバイト社員や派遣社員を正社員として再雇用することを渋り、低賃金の非正規雇用として雇い続けようとするのも人件費の抑制のためである。正社員への道が新卒採用時の一回しかチャンスがなく、たまたま卒業の年に不景気にめぐりあったとことで特定の世代の人たちが生涯にわたって不利益を受けるというのは、あまりにもアンフェアーである。

 また、いままで働いたことのない学生たちをいきなり正社員として雇用するというやり方は、企業側・労働者側の双方にとってリスクが大きい。数回の面接だけで正社員として採用する企業側のリスクはもちろん、働く側にとっても、実際に働いてみてはじめてわかることがたくさんあり、「こんなはずではなかった」と業務内容や職場環境に失望して辞めていく若者も多い。そのため、日本における新卒採用者の離職率は極端に高く、毎年、入社1年以内に30%以上の若者が会社を辞めている。3割以上の新卒採用者が1年以内に辞めてしまうのでは、新卒一括採用はもはや若者のドロップアウトをふせぐしくみとして機能していない。この点において、欧米で一般的におこなわれている、はじめはアルバイトやインターンとして雇用し、働き具合を見ながらあらためて正社員として採用するというやり方は合理的である。企業側にとっては、実際に働き具合を見ながら正社員としての採用を判断でき、働く側にとっても、いくつかの職場を体験し、職場を比較検討しながら自分の働き方を選択できるというメリットがある。こうした採用方式では、卒業時に就職先の決まっていない若者が増えたとしても、新卒以外にも正社員として雇用されるチャンスはいくつも存在する。日本のように学校から会社へと新卒一括採用のベルトコンベアーに乗せられた生き方では、自立した個人という意識は育みにくい。卒業後、しばらくの間、アルバイトをしたり、バックパッカーとして世界を旅行したり、ボランティア活動に参加したりしながら、自分と向き合い、これから先、どう生きていきたいのか模索する期間は、むしろあったほうが長い目で見れば自分のためになるのではないだろうか。私たちは働くために生きているのではなく、生きるために働くのである。

 景気の悪化した1990年代なかば以後、多くの大学が「手厚い就職サポート」を売り物にするようになったが、それは一方で大学の就職予備校化という問題をもたらしている。就職活動が本格化する大学3年生、4年生になると学生たちは、授業にはほとんど出席しなくなってしまう。日本の大学には、欧米の大学のように学位認定の審査をきびしく行うしくみがないため、試験も受けず、卒業論文すら提出しなくても、就職の決まった学生は卒業させてくれるので、授業に出席しないことも問題にならない。日本の場合、大学の社会的評価は大手企業にどれだけ学生を送り込んだかによって決まるので、就職が内定している学生を留年させてしまったら大学側にとっても都合が悪いため、学位認定の審査を欧米の大学のように厳しくしようという動きもない。それは多くの高校が受験予備校化しているのと根を同じくする問題である。そのため、大学のゼミもどのような研究をしているかではなく、大勢の卒業生を大手企業に送り込み、企業とどれだけ太い人脈があるかによって学生から支持されるケースが多い。しかし、本来、大学は物事を深く考え、真理を探究する場のはずである。エントリーシートの書き方や面接の受け答えばかり達者になり、その一方で、プラトンサルトルドストエフスキーも読んだことすらないまま卒業していく学生が多数派になっている現在の状況は、もはや大学としての機能を果たしていない。いまの日本の大学は実質的にサラリーマン養成所であり、就職のための踏み台という役割を取り除いたら中身は空っぽである。

 新卒一括採用が日本で一般化した高度経済成長期、しばしば企業経営者たちは、新卒者の教育は入社してからこちらで行うので、大学は学生に余計な知恵をつけないでほしいと語っていた。それは要するに、学生時代にマルクス主義フェミニズムを学んだりすると面倒なことを言う扱いにくい社員になるから、大学は余計なことを学生に教えずに会社の言いなりになる人材を送り出してほしいというわけである。社会経験の乏しい新卒者をわざわざ優先的に採用する新卒一括採用の背景にあるのは、若者たちを産業のコマとしか見なしていないこうした考え方である。たしかに高度経済成長期のように右肩上がりの経済状況では、新卒一括採用は大勢の労働力をまとめて確保できるという点で効率の良いやり方だった。その頃は、各企業ともに毎年、大量の若者を採用していたので、卒業した年による就職の有利・不利も大した問題にならなかった。しかし、新卒者をまとめて雇用し、社内教育で愛社精神と根性主義をたたき込むことで「会社人間」を作り上げるというやり方は、安価な商品を低賃金労働と長時間労働で大量生産する労働集約型の社会だったからこそ通用した手法である。高度経済成長期から半世紀以上たった現在では、こうした日本式の慣習はむしろパワハラや過労死をもたらすブラックな職場環境の原因になっている。新卒一括採用はすでに社会状況にそぐわなくなっており、新卒者と既卒者に平等にチャンスを与え、正規雇用と非正規雇用の待遇格差を改めていくべきである。

 

奴隷商人像の撤去

 Black Lives Matter運動をめぐる奴隷制度に関わった人物の銅像撤去について、論述問題を作成した。撤去の是非は、像を歴史的遺産ととらえるか、それとも政治的シンボルととらえるかが別れ目。AとBの参考意見を読み返してみたところ、どうにもAが弱い。参考意見について、ここをこうしたほうがいいという指摘があったらコメントをもらえると助かります。

 ネット上の記事で参考になったのは、ナショナルジオグラフィックのこれ。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/070100392/?P=1

 課題は次の通り。

 

奴隷商人像の撤去

 2020年、「Black Lives Matter」といわれる黒人の権利向上を求める抗議デモが世界的に広がるにつれて、黒人奴隷制度に関わった人物の像を撤去する動きが世界各地ですすんでいます。次の資料は、ロンドンの街中に設置されていた奴隷商人ロバート・ミリガンの銅像が撤去されたことを伝える新聞記事です。

 

「人種差別の象徴だ」奴隷商人らの銅像、英国で撤去続く
 朝日新聞 2020年6月11日
 米国で起きた白人警官による黒人男性の暴行死事件を受けて、英国でも抗議デモが広がり、各地で奴隷商人像を撤去する動きが出ている。
 ロンドン博物館前に設置された像が、周辺を管理する団体によって9日に撤去された。英メディアによると、撤去されたのは、18世紀のジャマイカで500人以上の奴隷を使って砂糖のプランテーションを経営していた商人ロバート・ミリガンの像。博物館は「記念碑(像)は白人中心という現在も続く問題ある制度の一部だと認識している。ミリガンが犯した人道に対する犯罪の遺物と今も闘う人たちの痛みを無視するものだ」としている。 

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 ロバート・ミリガンは18世紀イギリスの貿易商で、奴隷貿易で財をなすとともにジャマイカで500人以上の黒人奴隷を使役して砂糖のプランテーション農園を経営した人物です。彼の銅像は、ロンドンの発展に貢献した彼の業績を讃えるものとして、ミリガンの死後間もなくの1809年にロンドンのドックランズ博物館前の広場に設置されました。
 こうした実在の人物の像は、歴史的記念物であるのと同時にその人物を歴史上の偉人として讃えるという政治的シンボルの性質も持っています。ロバート・ミリガンのような黒人奴隷制度に深く関わった人物の像を残すべきなのか、それとも撤去すべきなのか、つぎのAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。

 

A 残すべきである。
 奴隷商人の像を撤去することは、たんにうわべを取りつくろうだけであり、歴史を変えることはできない。歴史は過去にあった事実の積み重ねであり、数多くの残酷な出来事が存在したことで現在の社会は成り立っている。像の撤去は、そうした過去の事実から目をそらす行為である。
 たしかに、いま新たにロバート・ミリガンのような奴隷商人の像を広場に建設しようとするのは、愚かな行為である。しかし、このロバート・ミリガン像は、彼の死後間もなくの1809年に建設されたものであり、200年間ロンドンの広場に立ち続け、それ自体、歴史的価値を持っている。歴史的遺物がつくられた場所にそのまま残されているということは、過去の事実を理解する重要な手がかりとなる。ロンドンの街中でこの銅像を見ることで、200年前のイギリス社会がロバート・ミリガンという奴隷商人をどう評価し、当時の人々が奴隷貿易や奴隷農園をどのように考えていたのか知ることができる。イギリスには、ロバート・ミリガン以外にも数多くの奴隷商人の銅像が各地に設置されており、それらの像は、18世紀、19世紀のイギリスが奴隷貿易によって経済発展していったことをいまに伝えている。
 過去の事実は時間とともに急速に風化していく。手がかりとなる資料を失えば、わずか数十年前の出来事さえ、真相は闇の中へ消え、デマや憶測(おくそく)があたかも事実であるかのように語られるだろう。過去の事実を記録し、その歴史を直視するための歴史的遺産として、ロバート・ミリガン像は、ロンドンの街中にそのまま残しておくべきである。
 歴史的な業績を残した人物は、現在の倫理観ではかるとなんらかの問題を抱えているケースが多い。大西洋を渡ってアメリカ大陸に到達したコロンブスは、アメリカ先住民からすれば、殺戮(さつりく)をくり返した残忍な侵略者である。アメリカ独立宣言を起草した第3代アメリカ大統領のトマス・ジェファーソンは、人権思想をうたう一方で、奴隷農園を経営しており、14歳の黒人の少女を愛人にし、彼女との間に生まれた5人のこどもたちも奴隷にしたことで知られている。また、日本では「太閤(たいこう)さん」の愛称で親しまれている豊臣秀吉は、一方でキリスト教徒に残忍な刑罰を科した宗教弾圧者であり、朝鮮半島での虐殺と略奪を命じた侵略者でもある。だからといって、各地に存在するコロンブス像、ジェファーソン像、秀吉像をすべて撤去することは、彼らの業績をも否定することになり、過去が消される危険性をはらんでいる。人間の歴史は、偉大な業績と愚かなあやまちの歩みである。現在の価値観で過去を裁き、あやまちを人目につかないよう隠してしまったら、それはもはや人間の歴史とはいえない。

 

B 撤去すべきである。
 実在の人物の像は、たんに歴史的記念物というだけでなく、その人物を「偉人」と見なし、業績を讃えるという意図でつくられている。貿易商のロバート・ミリガンは、18世紀にロンドンの発展に貢献した地元の名士であるが、その一方で奴隷貿易と奴隷農園の経営で財をなした人物でもある。こうした奴隷商人を歴史上の「偉人」として讃え、公共の場に像を残すことは、「奴隷制度は悪いものではなかった」というメッセージを発信し続けることになる。「Black Lives Matter」運動の参加者たちがこの銅像の撤去を要求したのもそのためであり、彼らの主張は歴史上の虐殺や弾圧をなかったことにしようとする歴史修正主義とはまったく立場が異なる。「Black Lives Matter」運動の参加者たちは、黒人奴隷制度をなかったことにしようとしているのではなく、奴隷商人を地元の名士として200年間受け入れてきたイギリス社会の無神経さとエスノセントリズム(自民族中心主義)に抗議しているのである。
 像の撤去はけっして歴史上の事実から目をそらす行為ではなく、あくまで歴史の再評価である。歴史は常に再評価されるべきものであり、歴史観も社会とともに変化していくものである。コロンブスアメリカ大陸で先住民の大虐殺を行ったことが詳細にわかっている現在でも、人々の抱くコロンブスのイメージが「偉大な航海者」のままだとしたら、むしろそちらのほうが問題である。歴史に目を向けるとは、様々な角度から過去の事実を検証することであり、一面的な見方で英雄物語をでっち上げ、その像をつくって崇拝(すうはい)することではないはずである。
 もし、人種差別がすっかり過去のものになっていて、もはや誰も肌の色で差別的なあつかいを受けることがなくなっているのなら、ロバート・ミリガン像も過去にそうした差別が存在したことを知る歴史的遺産としてロンドンの広場に残しておくのもいいだろう。始皇帝兵馬俑(へいばよう)やアレクサンドロスの石像が「人類の遺産」として大切に保存されているのも、あくまで遠い過去にふれるための重要な手がかりだからであり、始皇帝アレクサンドロスを偉大な人物として讃えるためではない。しかし、人種差別は現在進行形でおきている深刻な社会問題であり、いまも肌の色のことで学校でいじめられたり、地域社会で差別的なあつかいを受けたり、進学や就職で不利な状況におかれている人々が大勢いる。アメリカで警察官による職務質問の際に暴力をふるわれるケースは、黒人のほうが白人よりも圧倒的に多い。こうした現在の社会状況で、ロバート・ミリガン像を兵馬俑アレクサンドロス像と同列に論じることはできない。ロンドンの広場に、過去の黒人奴隷制度に目を向けるための記念碑を設置するのなら、奴隷商人像を残すのではなく、新たに人権尊重のシンボルになるようなモニュメントをつくるべきである。ヒトラー像が平和の象徴にならないように奴隷商人の像は人権尊重の象徴にはならない。
 黒人奴隷制度や植民地支配を「悪いことではなかった」と主張している白人至上主義者は現在も存在し、アメリカでトランプ前大統領の重要な支持層となり、ヨーロッパ諸国でネオナチの団体や排外主義(はいがいしゅぎ)の政党を結成するなど、21世紀になってもなお一定の政治的影響力を持っている。奴隷商人像を公共の場に残すことは、そいうした人々により所を与え、政治的シンボルとして利用される危険性をはらんでいる。その動きに歯止めをかけ、黒人奴隷制度が歴史上の大きなあやまちであり、人種差別が愚かな行為であるという価値観を社会全体で共有するためにも、奴隷制度に関わった人物の像は公共の場から撤去すべきである。

選挙の戸別訪問

 選挙における戸別訪問の是非について課題を出した。出題は次の通り。


 論述問題 選挙の戸別訪問

 選挙活動の際に候補者やその支援者が自分の考えを知ってもらうために家々を訪問してまわることを「選挙の戸別訪問」といいます。日本では公職選挙法138条で禁止されています。
 選挙の戸別訪問の禁止については裁判でも争われており、1981年の最高裁判決では、選挙買収を予防し、訪問を受ける人の静穏な生活を守るために、戸別訪問の禁止には合理性があるという判断が示されています。
 しかし、直接面会して候補者の話を聞くことは、誰に投票するかを決める際に重要な判断材料になります。そのため、日本以外のほとんどの国では、候補者やその支援者による戸別訪問は選挙活動のひとつとして認められています。また、選挙カーが大音量で候補者の名前を連呼する日本独自の選挙活動が広まった背景には、戸別訪問が禁止されていることがあります。
 はたして選挙の戸別訪問は認められるべきなのでしょうか。次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。ただし、「選挙に興味がないから」「来られるとめんどうだから」という個人的事情ではなく、どうすればより良い社会になるのかという公共の利益の立場から論じること。

 

A 選挙の戸別訪問を認めるべきである。
 選挙の候補者が家々を回って自分の考えを説いて回り、支持を集めることは議会制民主主義の根本であり、それを禁止するのは表現の自由に対する重大な侵害である。訪問セールスや宗教の訪問勧誘がそれぞれ「経済活動の自由」「宗教活動の自由」として認められているのに、選挙の戸別訪問だけ禁止されているのはきわめて非合理的である。民主的な社会を守っていくという点では、むしろ、選挙の戸別訪問のほうがセールスや宗教の勧誘よりも社会的重要性は高いはずである。
 日本における選挙の戸別訪問の禁止は100年近くも昔の大正時代にはじまった。この頃は、多くの人たちが民主主義や選挙がどういうものなのか理解しておらず、候補者の戸別訪問は選挙買収の温床になるというのが禁止の理由だった。しかし、現代では、教育の普及によって、民主主義における選挙の役割やその重要性は多くの人に理解されているはずである。また、選挙買収については、現在ではきびしい罰則がもうけられており、たとえ缶ジュース1本でも6年以下の懲役刑が科せられる。選挙買収の予防的措置として戸別訪問を禁止する合理性はもはや失われている。
 1981年の最高裁判決では、人々の静穏な生活を守る上で戸別訪問の禁止には合理性があるという判断が示されたが、当時と現在では、日本人の生活様式は大きく異なっている。1980年代はじめ頃までは、ほとんどの家庭は玄関にカギをかけず、暖かい季節には玄関を開け放っており、訪問セールスや新聞の勧誘の人たちが勝手に屋内に上がってきてセールストークをまくしたてるという光景が日常的に見られた。このような生活環境では、選挙の候補者やその支援者が勝手に上がってきて話し込んでいくという状況も想定できた。しかし現在では、もし話を聞きたくなければ玄関先で断ればいいだけのことであり、わざわざ法律で選挙の戸別訪問を禁止する根拠にはならないはずである。
 候補者の話をじっくり聞いた上で誰に投票するかを判断するというのは、議会制民主主義のあるべき姿である。日本では選挙の戸別訪問が禁止されているためにその代わりとして選挙カーでひたすら名前を連呼する選挙活動が行われているが、むしろ法律で規制すべきなのは戸別訪問ではなく、大音量で名前を連呼するばかりでなんら中身のない選挙カーのほうではないだろうか。

 

B 選挙の戸別訪問の禁止を維持するべきである。
 現代では、静かでおだやかな生活を求める傾向はますます強まっている。現代人にとって、自室というプライベートな空間で静かにすごしたいという願望は、プライバシー権と同様にもはや基本的人権のひとつといえる。だからこそ、日本の住宅は密閉性と防音性を重視した構造になり、どこの家でも玄関にカギをかけるようになったのである。こどもが友だちの家に遊びに行く際にもあらかじめ電話で連絡するのが一般的になっている現代において、いまさら選挙の戸別訪問を解禁するというのは、日本人のライフスタイルの変化に逆行するものである。
 選挙の戸別訪問は、「民主主義における重要なイベント」という大義名分があるぶん、訪問セールスや宗教の勧誘よりも押しつけがましいものになりやすい。もし選挙の戸別訪問が解禁されたら、玄関先で訪問を断った相手から、「あなたは日本の社会になんの疑問も感じていないんですか!あなた馬鹿なんですか!」と罵倒(ばとう)されることもありえる。
 たしかに直接会って話を聞くことによって、選挙公報やインターネット上のWebサイトだけではわからなかった候補者の人柄や話しぶりにふれることができる。しかし、そうした機会は公園や公民館のような場での演説会や討論会をもよおすことで確保できる。民主社会の基本はあくまでひとりひとりの「能動的な」社会参加である。自宅への候補者や支援者の訪問という受動的な機会をつくるよりも、人々が自らの意思で参加する演説会や討論会を数多く開催することのほうが能動的な社会参加という点ではるかに建設的ではないだろうか。

 

論述問題 原子力エネルギーのPRポスター

 8年前にちらのブログに書いた原子力発電のポスターを資料にして、授業用の論述問題を作成しました。

 

 元記事はこちら。

 https://box96.hatenablog.com/entry/20110406/1301977771

 

 今回作成した課題は次の通り。

 

 日本では、2011年の福島第一原発事故まで、国をあげて原子力発電を推進してきたため、原子力エネルギーのPR活動にも力を入れてきました。毎年、政府だけで70億円、電力会社や外郭団体もふくめると数百億円の資金が投じられ、様々なポスターやコマーシャルが大量に制作されてきました。次のポスターはそうした原子力エネルギーをPRするものです。

 

 

 

 

 

 上の3枚のポスターは、文部科学省経済産業省が主催した原子力ポスター・コンクールで優秀賞や入選などに選ばれた作品です。小学生を対象としたこのコンクールは2010年まで毎年開催され、受賞した作品はいずれも「原子力で笑顔」「原子力は地球を守る」「原子力すごいぞ」「原子力で明るい未来」という原子力エネルギーを讃える(たたえる)メッセージが込められています。こうしたポスターは印刷され、博物館をはじめとする様々な公共施設に展示されました。また、政府は10月26日を「原子力の日」としており、この日には鉄道車内の中吊り広告がすべてこどもたちの原子力ポスターで埋め尽くされるといったこともありました。
 下は四国電力の制作した商業広告用のポスターです。「プルサーマル」というのは、使用済み核燃料から取り出したプルトニウムによって再び核燃料をつくり、再使用するというものです。プルサーマル方式の原子力発電を実現させることで核燃料のリサイクルを行い、ひまわりのような大輪の花を咲かせようというメッセージが込められています。
 原子力発電の是非のような世論を二分する問題について、政府や電力会社が巨額の資金を投じて推進の立場からPRすることについて、あなたはどのように評価しますか。次のAとBの参考意見を読み、あなたの考えを述べなさい。

 ただし、「自分は原子力発電に賛成だからポスターにも賛成」「原子力発電に反対だからポスターにも反対」という主張はしないこと。それは「自分と同じ考えなら表現を認める」「自分と違う考えは表現を認めない」といっているだけなので、表現の自由そのものを否定する姿勢です。原発の是非についてのあなたの考えはいったんわきに置いて、政府や電力会社のような公的な団体が税金や公共料金を使って政治的宣伝を行うことの是非を論じてほしい。

 

A 支持する。
 「原子力エネルギーの平和利用」は、2011年に福島第一原発事故がおきるまで、日本政府の方針だった。国の方針である以上、政府がPR活動に力を入れるのは当然である。原子力発電のような巨大プロジェクトは、国家事業でなければ実現できないものであり、いったんやると決めたからには、ポスターやコマーシャルを通じてメッセージを発信し、できるだけ多くの人々の理解を得られるよう努めることは、政治をあずかる政府の責任である。
 日本は議会制民主主義の国であり、人々は原子力発電の推進をとなえる政党を選挙で選んできたのである。原子力発電の推進を選挙公約にかかげて選挙に勝った以上、それを政府の方針とすることは議会制民主主義の基本原則といえる。したがって、政府が原子力エネルギーのPR活動に力を入れてきたことは民主的手続きに基づくものであり、ポスターの表現だけを取りあげて、独裁国家プロパガンダのようだと批判するのは的外れである。
 日頃、原子力発電に興味のない人は、これらのポスターを目にすることで、原子力エネルギーについて考えるきっかけになるだろう。また、誤った認識から原子力発電を不安視している人々は、原子力エネルギーを正しく理解し、根拠のない不安を解きほぐすきっかけになるだろう。つまり、原子力エネルギーのPR活動は、一方的に政府の方針を押しつけるためのものではなく、原子力発電に興味を持ってもらい、正しく理解してもらうためのきっかけづくりであり、日本のエネルギー問題を多くの人々に考えてもらうための啓発活動といえる。

 

B 支持しない。
 選挙による多数決が民主主義のすべてではない。原子力発電の是非について国民投票をしたわけでもないのに、政府が一方的に推進のPRをして人々をしたがわせようとするのは、独裁国家のやり方である。
 民主社会においてもっとも重要なことは、ひとりひとりが見識を深め、社会問題について自ら能動的に判断することである。そのため、政府には、人々が様々な角度から検討できるよう情報公開をすすめていくことが求められる。ところが、これらのポスターは、原子力発電について、「みんな笑顔」「地球を守る」「未来をはこぶ」「ひまわりのような大きな花を咲かせる」と一方的に賛美するメッセージでしかなく、人々が原子力発電への理解を深める役割をまったく果たしていない。
 原子力発電を推進するメッセージは、2011年に福島第一原発が事故をおこすまで、至るところで目にした。郵便箱を開けると「原子力はクリーンエネルギー」と書かれた電力会社のチラシが入っており、電車に乗ると中吊り広告には「原子力でベストバランス」のポスター、テレビをつけると「原子力は地球環境に優しい」というコマーシャルが流れ、さらには野球場の看板にまで原子力発電を推進するメッセージが掲示されていた。こうした大量のメッセージを人々に浴びせるやり方は、いわばソフトな洗脳であり、人々の思考力をマヒさせ、主体的な判断をさまたげる。だからこそ、独裁国家では、世論を操作するために、政策推進のスローガンをとなえるポスターが町中に貼られるのである。
 ナチス時代のドイツでは、「我らの総統を讃えよう」というヒトラーを賛美するポスターが町中に貼られ、ソ連では、「五ヵ年計画を実現させ、輝かしい未来をひらこう」という共産主義体制を賛美するポスターが貼られた。いまも北朝鮮では、「核保有国の誇りを持とう」という核戦略の推進をとなえる垂れ幕が大通りにかかっている。
 原子力発電の是非のような賛否の分かれる社会問題について、政府と電力会社が巨額の費用を使って世論を誘導しようとしてきたことは、独裁国家プロパガンダの手法であり、民主的な政府のやるべきことではない。民主社会において、重要な社会問題を判断する主体は、政府ではなく、私たちひとりひとりである。政府は私たちが決めたことをすすめるための装置にすぎない。そのことは、原子力発電の是非に限らず、東京オリンピックの開催や消費税の引き上げといった問題についても同じことがいえる。

 

 

不思議の国の自転車

 自転車ブームがつづいているそうでうちの近所でもここ数年で自転車の大型チェーン店が目につくようになった。私もオートバイを手放して以来、家から20km圏内はもっぱら自転車で移動しており、すっかり身軽な暮らしの相棒になっている。構造がシンプルなので手入れをしてやるとそのぶんよく走るようになるのもわかりやすくていい。ただ、ブームに乗って自転車やグッズを売りたい業者とそれに乗せられた自転車乗りたちが嘘だらけの奇妙な煽り文句を流通させているのは気になるところである。ここではそうした自転車をめぐるお伽噺を挙げてみます。

 

・自転車は渋滞に巻き込まれてもスイスイ!

 いったいそれはどこのワンダーランドの話だろうか。日本ではほとんどの道路に自転車専用車線がないので、クルマが渋滞していれば必然的に自転車も巻き込まれる。また、幹線道路の場合、5台に1台は工事用の大型車両なので、クルマの左側をすり抜けることも困難で、排気ガスを浴びながらダンプの後ろにつくことを余儀なくされる。さらに前後を大型車にはさまれてしまうともう逃げ場すらなくなり、スイスイどころか非常に危険である。自転車の車道走行は道路環境が整備されていないぶん、クルマと同じペースで走行できるオートバイよりもむしろ交通事故のリスクは高い。渋滞など関係ないというのは、車道と歩道を行ったり来たりしながらクルマをすり抜け、赤信号も無視して突っ走る無謀運転の自転車だけである。

 

・片道5kmの自転車通勤で楽々ダイエット!

 たかだか5kmの自転車通勤でみるみる体重が減ったとしたら、それは健康上きわめて深刻な状態なので、即、病院へ行って診てもらったほうがいい。自転車の運動強度は案外低く、平らな道を25km/h以下でだらだら走っているのなら散歩程度の負荷にすぎない。週五日自転車通勤したところで体重はほとんど変わらないだろう。食事制限もせず他の運動も一切せず、片道5kmの通勤だけで体重を落としたいと本気で思っているのなら、行きも帰りもランニングするべきだ。慣れてきたら最後の1kmは全力疾走。それくらいの負荷をかけなければ片道5km程度では運動にならない。自転車で痩せたと言っている人たちに共通しているのは、額から汗がしたたり落ちるくらいの運動強度で週に200kmも300kmも自転車で走るという暮らしを何年も継続していることだ。もっともその運動量はフルマラソンを3時間台で走る人のトレーニングとかわらないので、そりゃあそれだけ体を動かしていればどんな運動だろうと体脂肪が落ちてくるのは当たり前といえば当たり前の話です。


・自転車に乗ることはランニングよりも有酸素運動としてずっとすぐれている!

 自転車とランニングの両方を本格的に取り組んでいる人は少ないため、本の解説やネットの発言はたいていどちらか一方のひいきになりやすい。自転車関係者は自転車に乗ることの良い点ばかりを挙げ、ランニング関係者は走ることの良い点ばかりを挙げ、公平性を欠いたまま互いに布教活動をしているという感じ。ここ何年か自転車とランニングの両方をやってみた経験から、両者を比較して自転車の長所・短所をあげるとこんな感じになる。

 

 良い点

  1. 遠くまで行ける。
  2. ランニングとくらべて、ひざへの負担が少ない。
  3. 自転車で遠出すれば、運動と旅行が同時に楽しめる。
  4. 近所に峠や長い坂があるなら、自転車での坂登りは結構いい運動になる。
  5. 機材が介在するので、機械いじりが好きな人は整備・調整も楽しめる。

 悪い点

  1. 初期費用が最低でも5万円くらいかかる。
  2. 車道を走ることになるため、走行中、クルマから幅寄せされたり、煽られたりすることが多く、しばしば不愉快な思いをする。そうした運転は本来、危険運転行為に該当するはずだが、車道を走っている自転車を目の敵にしているドライバーは少なくない。
  3. 転倒のダメージはランニングよりもはるかに大きい。
  4. 信号機だらけの都市部に暮らしている場合、自転車に乗っている時間の半分は信号待ち。
  5. 時間あたりの消費カロリーはランニングの半分以下。
  6. ランニングはほとんどのスポーツの基本動作になるが、ペダルを漕ぐ運動が上達しても他に応用がきかない。
  7. 機械いじりが苦手な人にとって自転車のメンテナンスは苦行。
  8. 自転車の愛好家には「ねばならぬ」式の発言をする偏狭なマニアが多く、愛好家のコミュニティは運動を大らかに楽しみたい人には不向き。

 メリットとデメリット双方あるが、機材が介在するぶん、自転車のほうがランニングよりもどうしても敷居が高くなる。ときどき「はじめから高価な自転車を買ってしまえば後々運動を続けるモチベーションにもなる」という発言を耳にすることがあるが、それが高い自転車を売るためのセールストークでなく、本気でそう言っているのだとしたら、ヒトをモノの奴隷におとしめる発想である。また、楽しみや体力づくりのために体を動かすのなら、その日の気分や体調にあわせて自分のペースで運動すればいいはずだが、自転車の場合、ランナー人口よりも全体のパイが小さいぶん愛好家のグループも競技志向が強くなりがちで、「速いほどエライ」という価値観と序列を形成しやすい。「遊びじゃないんだ!」という言葉は、学校の運動部で多用される決めぜりふだが、本来、アマチュアスポーツはすべて遊びである。遊び大いに結構。それで生計をたてているわけでもないのに熱心に取り組んでいるのは、楽しいからじゃないの。遊びをなにかとくだらないものとして貶めようとするのは、学校的価値観に毒されすぎてやいませんか。

 というわけで、運動不足解消や減量が目的なら、手軽にできるランニングのほうが向いている。とくに都市部に暮らしている場合、ほぼ100m間隔で信号があるので、自転車の市街地走行では信号ダッシュと信号待ちのくり返しになってしまい、有酸素運動としての効率は著しく低下する。市街地を数分ごとに信号待ち休憩をはさみながら自転車で2時間走るより、休まずに1時間ジョギングしたほうがずっと運動効率はいい。逆に田舎暮らしで近所に買い物に行くにもクルマという生活をおくっているなら、自宅から半径5km圏内の移動を徒歩、15km圏内を自転車に切り替えれば、それだけで運動不足解消と環境対策の両方が同時に実現しますってまあこれもごく当たり前の結論ですね。


ロードバイクはあなたの行動範囲を大きく広げる!

 確かにきちんと整備されたロードバイクはまるで路面を滑空するように走る。ホームセンターの9800円ママチャリしか乗ったことのない人はきっと驚くだろう。しかし、ロードバイクはあくまでレース用の機材であって日々の生活の相棒にはならない。たとえば、「せっかく良いバイクを買ったんだから」と週末に日帰りのツーリングに出かけたとする。6時間せっせとペダルを漕ぎ、汗をかいて埃や排気ガスも浴びたので、帰りに銭湯へ寄ってひとっ風呂浴びようと思いついた。名案だ。まだ明るいうちに入る銭湯の広い湯船はさぞや極楽だろう。高いところの窓から夕日が差してきて富士山のペンキ絵が赤く染まったりしてさ。でも、まもなく風呂屋の入り口に停めた30万円のカーボンバイクが気になりはじめる。盗まれやしないか、悪戯されやしないか、勝手に動かされてひっくり返されたりしないか。ロードバイクは軽く精密に作られているぶんデリケートなので、ちょっとぶつけられただけでも当たり所が悪いと、即、調子が悪くなる。買ったばかりの高級車は帰り道に変速機からガラガラと不快な音をたてはじめるだろう。それを思うとおちおち湯船にも入っていられない。で結局、やっぱり銭湯はまた今度にしようとあきらめる。また別の休日、「せっかく高いの買ったんだから」と少々足を伸ばして古本屋の梯子をしようと思い立ったとする。しかし、店に着く度に自転車をワイヤーロックでぐるぐる巻きにする手間を思うと気が重くなる。それにたとえフェンスに三重にくくりつけたとしても盗難や悪戯を完璧に防げるわけではないので、やはりおちおち本も選んでいられないだろう。で結局、やっぱりクルマで行けるブックオフでいいやとなる。こうなるともう完全に本末転倒で、行動範囲を広げるどころか高価な自転車がかえって行動の自由をさまたげることになる。レース用の機材であるロードバイクの用途は峠と家の往復しか存在しない。レースに出場するつもりがないのなら無用の長物だし、自転車は身軽な暮らしの相棒であってほしいと思っているのなら、むしろそれは「くびき」でしかない。


ロードバイクは自転車の王様である!

 自転車には用途に応じて「種類」があるだけだと思っていたのだが、自転車の国にカースト制度があったとは驚きである。しかし、ロードバイクにはなんら生産性はない。労働生産性という点では豆腐屋のリヤカー付き自転車やヤクルトレディの電動アシスト自転車のほうがはるかに上等な存在である。それともこれは「働かない」という意味で貴族的だと言ってるんだろうか。ヨーロッパの自転車ロードレースは、ボクシングと同様に一攫千金を夢見る貧しい労働者階級の青年が大怪我のリスクと隣り合わせに競い合うイベントとして広まっていったものだが、なぜか日本では小金持ちのおじさんたちの気どった趣味として普及したせいか、この手の鼻持ちならない発言をよく耳にする。彼らが実用車を見下すのは、ちょうどフライフィッシングに興じている旦那衆が生活のために魚を捕っている漁師を馬鹿にするのと一緒で、きわめてタチが悪い。フライフィッシングロードバイクも旦那衆の道楽にすぎず、なにも生み出さない。もっとも、だからといって「やめろ」とはいわない。たいていの娯楽に生産性などないし、周囲に多少の迷惑をかけるものだからだ。あなたが用もないのにクルマでドライブに出かければ大気汚染や交通渋滞の原因になるし、山登りをすれば遭難して他人の手を煩わせることもある。あるいは夕暮れの公園で気分よくスケボーに乗ってトリックを決めていれば、近所の住民からうるさいと苦情が来るだろう。この社会は「人に迷惑をかけない」という道徳的命題が大好きだが、他者に一切迷惑をかけられない社会ほど息苦しいものはない。なので、周囲に多少気兼ねしながらそれらの非生産的行為をささやかに愉しんでいるぶんには、いずれも悪くない趣味だと思う。ただ、その成果を得意げに吹聴するのは無意味だし、その非生産的行為に特権意識を抱くのは愚かだ。あなたが草レースで表彰台に乗ったところで、難民キャンプのこどもたちが救われるわけではないし、難病患者の治療方法が見つかるわけでもない。もちろん我が家の今晩のおかずが一品増えたりもしない。まあ、オリンピックで表彰台に乗れば、テレビ局とナショナリストたちは「感動をありがとう!」と盛大に感激してくれるかも知れないけど、スポーツ選手を国家英雄として祭り上げるのは20世紀にナチスがはじめた政治手法である。


・自転車のベルは使わない!

 自転車のベルはクルマのクラクションに相当するもので使い方も一緒である。もっぱらクルマのクラクションの使い方は「邪魔だよ、どけよ!」と「おせーな、早く行けよ!」のふたつだが、もちろんこれは誤りで、交通事故を回避するために注意喚起をするのが本来の用途である。たとえば、向こうから携帯電話を見ながらふらふらと蛇行している自転車がやって来たとする。こんな時、じゃりン子チエのテツのように「どこ見てんのんじゃこのど阿呆!前見て運転せんかいボケナス!」と怒鳴るより、ベルを鳴らして前方への注意をうながしたほうがスマートである。また、中学生の集団が道いっぱいぞろぞろと横に広がって通行を妨げていたとする。やはり「おんどりゃインベーダーゲームか!一列縦隊で歩かんかいマヌケ!」と怒鳴るより、ベルを鳴らしたほうがスマートである。他にも脇道から飛び出してくるこども、右側を逆走しながら衝突コースで向かってくる自転車、信号を無視して道を横切ろうとするお年寄り等々、ベルの使いどころは結構たくさんある。むしろ問題は、ベルの音が小さくてクルマのドライバーに聞こえないことのほうである。肩にこすりそうなくらいすれすれの間隔で強引に追い抜いていくクルマやウィンカーを出さずにいきなり左折しようとするクルマには、それが危険行為であることを注意喚起させたくても、自転車のベルの音はドライバーに届かない。なので、クルマのクラクションと同じ音量が出る電子ホーンを自転車にもつけたいところである。自転車で車道を走る際には、クルマを運転しているときよりも怖い思いをすることが多いので、使う機会も多いだろう。もっとも、こういう自己中心的な運転をするドライバーは自転車側から注意をうながされると逆に暴れ出しそうなので、自転車乗りは護身術も身につけてほうがいいだろう。アスファルトジャングルで生きのびるのは色々大変である。ちなみに東京の京王バスは、車道を自転車が走っていると道幅が狭かろうがバス停直前だろうが何が何でも追い抜こうとクラクションを鳴らしながら右からかぶせてくるにもかかわらず、バスの後部には「左側すり抜け危険」という大きなステッカーが貼ってあったりする。喧嘩売ってんのかてめえ。京王グループCSRって言葉、知ってる?


・105以下のコンポなんて話にならない!

 うるせえよ。あ、「105」というのは、シマノという大阪の機械メーカーが製造・販売している中くらいの価格帯の自転車部品のブランド名です。クルマもオートバイも降りて自転車生活をしている私にとって、自転車の魅力はモノへの執着から開放されて清々した気分になれるところにあると思っているのだが、意外なことに自転車の愛好家には、モノマニアの機材オタクのほうが多いみたいなのである。自転車旅行の文化は1960年代のヒッピーカルチャーに由来するので、愛好家たちもスナフキンハックルベリー・フィンみたいな風通しのいい自由人なんだろうと想像していたんだけど、どうも違うようなのである。地平線の彼方にはまだ見ぬ自由が広がってるんじゃないの。彼らはモノマニアの常として大量生産された工業製品に物神性を見出そうとする。自動車マニアがポルシェの水平対向六気筒エンジンを美術品のように扱い、オーディオマニアが500万円のスピーカーをヴィンテージワインにたとえるのと同じ調子で高級パーツの魅力を語る。息苦しいなあ。いい歳しておもちゃ大好きっていうのは「恥ずかしながら」の性癖のはずで、そんな自分を自嘲気味に笑っているうちはまだ可愛げがあるんだけど、得意げに吹聴するようになると完全に迷惑な人である。そもそも自転車の場合、最大のパーツは自分のカラダなんだから、機材の蘊蓄を語るより先にてめえのカラダを鍛えるほうがずっと有意義なはずだが、もちろんそんな身も蓋もない言いぶんも物神性の崇拝者には通じない。まあこれも先の生産性の話と一緒で、夜中にひとりガレージで自転車をなで回しながら一杯やって悦に入ったりして「ああ愛しいしと」なんてつぶやいてるぶんには、気持ち悪いだけなので、お好きにどうぞって感じだけど、周囲の人たちやネット上に「ねばならぬ」式の蘊蓄をたれ流すようになるときわめて有害な存在である。


・自転車が趣味ならお金をかけるのは当たり前!

 否。それはただの悪趣味である。


・9kg以上の自転車なんて自転車じゃない!

 つべこべ言ってないでまずは体脂肪をヒトケタまで落とそう。機材の軽量化はトレーニングで身体を絞った選手が最後に手をつけるべきものだ。えっ、レースはやってない?ちょっと何を言ってるのかわからないんですが、レースでタイムを競うわけでもないのに機材の軽量化にこだわるっていうのは不思議の国の作法かなんかでしょうか。壊れやすくなるだけだよ。

 

・室内保管は絶対!

 この手の発言をする人はやはりたいていがロードバイクの愛好家だ。まあぬかるみに突っ込んで泥だらけになったマウンテンバイクやツーリングバイクを室内に持ち込もうとは思わないもんね。それにしてもロードの愛好家は神経質なのが多すぎるんじゃないか。私たちはモノの奴隷ではなく、自転車はどんなに高価なものでも移動のための手段にすぎない。ヒトとモノの関係において主従を逆転させるその倒錯的行為にきっと家族は顔をしかめているだろう。彼らによると自転車を屋外に出しておくと雨や埃や紫外線で痛むのだそうだ。でもさ、自転車は屋外で走らせるものだよ。雨や埃や紫外線くらいでダメになるのならそれは自転車としての用をなさない。あなたが不幸にしてそんなやわな自転車を買ってしまったのならさっさと手放したほうがいい。きっとモノに振りまわされる生活が改善して家族からも歓迎されるはずだ。もっとも不思議の国の住人たちは、そのうち「自転車を屋外で走らせるなんて」と言い出すのかもしれない。また、彼らは自転車を屋外に置いておくと盗まれると主張する。でも、それは彼らの自転車がワックスとつや出し剤で磨き上げられ、常にピカピカのコンディションを保っているからだ。もしその自転車が泥だらけになっていて一見したところ動くのかどうかも怪しい状態だったら、常習犯も魔が差した者もわざわざ他人の敷地に入り込んで自転車を持ち去るようなリスクは冒さないだろう。自転車をわざと泥だらけにして製造メーカーもわからないくらい汚らしくしておくというのは、昔から自転車旅行者にとって泥棒よけのもっとも手っ取り早い手段である。私は古いマウンテンバイクをもう25年以上カギをかけずに玄関先に停めているが、盗まれたことは一度もない。フレームはそこら中にすり傷や錆があるし、元の色がもうわからないほど退色しているが、使い込んだあとだと思えば気にならない。自転車は見た目がどんなにみすぼらしくなっても駆動部さえ定期的にメンテナンスしていれば問題なく走る。最近、前後ホイールをはじめとして駆動系一式を新しくしたので、この25年間でもっとも調子がいい。なによりわざわざ汚さなくてももはや盗まれる心配がないのはすごく便利だ。本屋の駐輪場に停めて3時間立ち読みしても平気だし、出先で酔っ払って自転車を駅前の無料駐輪場に一晩置きっぱなしにしても翌日取りに行けばちゃんと同じ場所に停まっている。サイコー。まあ、買ったばかりの高級車を外に置いて汚れるのはイヤというのはわからなくもないけどさ、そのバイクが10年後も20年後も買ったときのままピカピカだったら味気ないよ。ちなみにヨーロッパ諸国や北米ではマウンテンのほうがロードよりも倍ちかくマーケット規模が大きい。日本のようにロードの圧倒的優勢がつづいているのはかなり特殊な状況で、その理由は神経症的なモノマニアが多いからじゃないかと思う。


・ヘルメット着用は自転車乗りの最低限のマナーである!

 大笑いである。いつからヘルメット着用がマナーの問題になったんだ。ヘルメットをかぶらずに自転車に乗ることは、無灯火で夜間走行したり、スマホ片手に右側を逆走したりする行為とは異なり、交通事故を誘発するものではない。また、狭い道で向こうから来た歩行者がわざわざ脇に寄って道を譲ってくれたのに頭も下げないといった礼儀知らずの行為とも異なる。ヘルメットの着用は、万が一の交通事故にそなえて自らの衝突安全性をどの程度確保したら良いのかという純粋にテクニカルなテーマであって、交通マナーとはまったく関係のない事柄である。要するにてめえの身がかわいいからヘルメットをかぶっているだけのことなので、とりたてて威張るようなことではないし、そうでない人間に文句を言うようなことでもない。両者を混同して、社会道徳の観点からノーヘルを糾弾するのは明らかにお門違いであり、愚かである。警察官は「きちんとヘルメットをかぶってえらいですね」と褒めてくれるかも知れないが、この場合の「きちんと」に倫理的意味はなく、「警察の言いなりになってくれる扱いやすい市民」くらいの意味である。もしもヘルメット着用が本当にマナーの問題だとしたら、近所のスーパーに買い物に行くにもフルフェイス・ヘルメットに全身プロテクターのフル装備でかためている人は、お釈迦様かイエス様のように品行方正な人物として礼賛されねばならないはずである。

 ヘルメット着用がテクニカルな議題である以上、着用するかどうかはそれぞれ自分で判断すればいいことである。プロの自転車レーサーの格好だけをまねて、穴だらけの華奢なヘルメットとぴたぴたの自転車ウェアをサイクリストの「正装」だと思い込んでいる人はたんなる思考停止にすぎない。自転車用ヘルメットは魔法の兜ではない。万全を期したい人は、大型オートバイに乗るような頑丈なフルフェイス・ヘルメットとハード・プロテクターの入ったジャケットを着用すれば良いし、そんなの煩わしいという人はなにもつけずに乗ればいい。多少は備えておきたいという人は、その両極端の間から必要だと思う装備を選択すればいい。いずれにせよ、自転車に乗る際にどの程度の衝突安全性を確保したら良いのかといった問題は、自分で判断すべきことであり、他人や法律に強制されるようなことではない。同様にオートバイのヘルメット義務化やクルマのシートベルト義務化も、テクニカルな議題をマナーの問題にすり替えたことによる誤謬であり、本来、国家が法律で強制するような事柄ではないはずである。ちなみに風車とチューリップと自転車の国として知られるオランダの場合、自転車用ヘルメットは不要と見なされており、かぶっているサイクリストはほとんどいないとのことである。個人的には、市街地走行では、ヘルメットをはじめとする衝突安全対策よりも、反射板を増設したり反射材のついた服を着るなどしてクルマのドライバーからの視認性を上げ、事故回避にウェイトを置くほうが安全対策として効果的だと考えている。なので、反射板をすべて取り払ってしまい、小さな尾灯だけで市街地を走っている人物が「ヘルメット着用は最低限のマナーだ」なんて言うのは「私はバカです」という札をぶら下げているようなものだ。逆に自転車のロードレースの場合、市民レースもふくめて、集団での高速走行が不可欠になるため、ヘルメット着用が義務づけられているにもかかわらず、毎年、落車で大勢の死傷者を出している。出場者が骨折するような大事故がこれほど頻発する競技は他にないんじゃないだろうか。ロードレースの場合、レギュレーションにフルフェイス・ヘルメットと胸部・脊椎プロテクターの着用が入っていないのは合理性を欠いているように見える。


・ヘルメットをかぶれば自転車事故の死亡率は四分の一になる!

 この主張は日本の警察と自転車関連業界がさかんに展開しているヘルメット着用の推進キャンペーンのものである。しかし、自転車の交通事故で亡くなった人のうち頭部損傷の割合は六割程度である。たとえヘルメットが頭部への致死的ダメージをすべて防いでくれたとしても死者は六割しか減らず、「死亡率は四分の一になる」という言いぶんはあきらかに水増しである。この四分の一という数字の根拠になっているのは、警察の外郭団体である交通事故総合分析センターが発表した次のレポートである。
https://www.itarda.or.jp/itardainfomation/info97.pdf

 このレポートの図12と表1では、2007年から2011年にかけての五年間に自転車の交通事故で頭部損傷を負った死傷者について、ヘルメット非着用者と着用者を比較している。非着用者が死傷者94922人のうち死者2121人で割合は2.2%。それに対して着用者は死傷者4697人中死者27人で割合は0.5%となっており、ヘルメットを着用することで死者の割合が四分の一になったというものである。つまり、四分の一というのは頭部損傷に限定した数字であり、自転車事故で頭部損傷を負った人の総数約10万人のうち、すべての人がヘルメットをかぶっていたら死者は500人程度になるというデーターである。それをヘルメット着用によってあたかも自転車の死亡事故総数が四分の一に減るかのようにキャンペーンを展開するのは、数字の捏造である。くり返すが、自転車用ヘルメットは魔法の兜ではない。
 では、自転車の交通事故全体で見るとどうなるのか。このレポートの図10によると、2009年から2011年の三年間で死者は1981人、そのうち頭部損傷による死者は1265人となっており、はじめに指摘したように自転車の死亡事故に占める頭部損傷の割合は約六割である。もしこの人たちがすべてヘルメットをかぶっていたら、頭部損傷の死者は約300人、全体の死者数は約1000人となり、全体での減少率は約五割となる。ただ、このレポートでは、ヘルメット着用でどの程度ダメージが軽減されたかは触れられていない。自転車用の華奢なヘルメットが死に至るほどの深刻なダメージを完全に防いでくれるというのは非現実的なので、ヘルメット着用によって重軽傷に緩和されたというところだろう。ヘルメットが頭部への衝撃緩和に効果があるのは紛れもない事実なので、よりダメージを軽減したいのなら自転車に乗る際にもオートバイ用の頑丈なフルフェイス・ヘルメットを常用すればいいということになる。また、この交通事故総合分析センターのレポートでは、ヘルメットの有用性を訴えるために頭部損傷にばかり着目しているが、交通事故による脊椎損傷で寝たきりや車イス生活を送っている人もいるはずである。こちらの対策としては、エアバッグジャケットや胸部プロテクターの着用が有効である。
 では、そもそも自転車を利用する人のうち一年間に死亡事故に遭遇する確率はどのくらいなのか。警察庁の発表した統計データによると一年間の自転車による交通事故の死者数は最近ではだいたい600人前後で推移しており、先の交通事故総合分析センターの古いデーターより減少している。

  ・2013年 604人

  ・2014年 542人

  ・2015年 577人

http://www.garbagenews.net/archives/2047920.html

 また、交通事故全体の死者数は、1970年の16765人をピークにその後減少し、近年は年間4000人くらいで推移している。
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikokoutsu

 一方、分母のほうの自転車の利用者は国内にどのくらいいるのか。総務省の報告書では、日本で暮らしている人のうちふたりにひとりが自転車を保有し、通勤・通学で利用している人は14.6%である。
http://www.soumu.go.jp/main_content/000354710.pdf

 通勤・通学以外に買い物やレジャーも含めると日常的に自転車を利用している人の割合は二割から三割にのぼるだろう。四人にひとりが日常的に自転車を利用していると仮定してその数は約3000万人。この人たちが一年間自転車に乗って死亡事故に至る確率は3000万分の600。もしもすべての人がヘルメットをかぶって自転車に乗るようになれば3000万分の300ということになる。これをパーセントで表すと大多数がヘルメットをかぶっていない現状で約0.00002%、すべてヘルメット着用で約0.00001%となる。先の約50%という死亡事故の減少率だけを取りあげればヘルメットの効果は絶大に見えるが、一年間に死亡事故に遭遇する確率も含めて算出するとヘルメット着用による生存率向上はわずか0.00001%の差すぎない。警察とヘルメットメーカーと保険会社はすべての自転車利用者の頭にヘルメットをかぶせたいのだろうが、この数字では説得力にとぼしいように見える。日本よりもずっと自転車の交通環境の整備されたオランダで、自転車用ヘルメットが不要と見なされているのもうなずけるところである。もちろん、この0.00001%死亡率が減少するという数字から、「たとえわずかでも交通事故で死ぬ確率を減らせるのならヘルメットをかぶろう、頭部損傷や脊椎損傷で重大な後遺症を負うことのないよう常に頑丈なフルフェイス・ヘルメットと胸部プロテクターを着用しよう、歩行中の交通事故だってゼロではないんだから外出の際には常にフルフェイス・ヘルメットをかぶろう」と受けとめる人がいてもいい。ただ、その判断はヘルメットやプロテクターの効果と煩雑さとを天秤にかけた上で本人がすべきものだ。ヘルメット着用の義務化は、自宅の玄関にカギをかけない者を法で処罰しようとするのと同じであり、著しく合理性に欠ける。もしヘルメットをかぶらない者を全体の利益の立場から他者が道徳的に糾弾するとしたら、それはファシストの社会である。
 もちろん、ヘルメット必要論を展開するのも、ヘルメット不要論を展開するのも各自の自由である。それが衝突安全性をどの程度確保するべきかというテクニカルな議論である限り、自らと異なる考えを耳にしても腹をたてるようなことはないだろう。両者の言い分は自転車に乗る者にとってヘルメット着用の判断材料になるはずだ。ただし、この問題について、「推進キャンペーン」や「全廃キャンペーン」のような他者への強制がともなう主張は大きなお世話であり、慎むべきである。

 

ドーピングの禁止

ときどきスポーツ選手のドーピング問題について考える。どうすればドーピングをなくせるかではない。なぜドーピングはいけないかである。いくら考えてもさっぱりわからない。なぜダメかがわからないので、「ドーピング撲滅」と言われてもまったく共感できない。べつに薬物使用の解禁を主張しているわけではない。良いも悪いもなく、禁止の根拠が見いだせないのである。最初にこれが気になったのは学生の頃だから、もう三十年も考えていることになる。ずっと引っかかっているので、テレビニュースや新聞記事でこの問題が取りあげられていると注意して見るようにしているが、それらは常にドーピングはダメという前提に立って、「はびこる現状」や「積極的な対策」が紹介されるばかりなので、なぜダメなのかという肝心なところの理解は一向にすすまない。「いかにやるか」より「なぜか」のほうが先でしょう。で、見終わるともやもやがつのるばかりなので、またはじめからつらつら考えることになる。そうして二つめの疑問がわいてくる。なぜこれほどあいまいなドーピングの禁止が社会的に受け入れられ、その前提に立って様々な議論がすすめられているのかと。みなさん、この問題については思考停止に陥ってるんでしょうか。いちおう日本版ウィキペディアで挙げられているドーピング禁止の理由は次の四つである。


1.フェアではない。
2.スポーツの価値を損なう。
3.反社会的行為である。
4.健康を害する。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B0


1の「フェアではない」というのは、ルールで禁止されてるから薬物を利用するのはフェアではないというだけのことなので、公に認めてしまえば薬物使用もフェアな手段ということになる。きっと「ケミカル・トレーニング」とでも名付けられて、パフォーマンスを高める効率の良いトレーニングとして定着するだろう。したがって、これは「そう決められているからダメ」といってるだけの循環論法なので、なぜドーピングを規制しているのかという根拠を示していない。


もしも、この「フェアな競技」という言いぶんが「選手の肉体改造に薬品をはじめとするテクノロジーを一切用いるな」というメッセージだとしたら、大会運営側ははっきりそう主張するべきだ。それがないことには何も議論がはじまらない。ドーピング禁止の根拠として「肉体改造にテクノロジーを用いるな」という価値基準の提示があってはじめて、フェアな競技とは何か、ドーピングの線引きはどうするのか、といった議論がはじまる。フェアな競技とは何かという基本的な価値基準が示されないまま、いかにドーピングを規制するかばかりが議論されている現在の状況は本末転倒に見える。なお、テクノロジーを用いた体質改善をすべて排除するならば、レーシックの手術はもちろん、メガネも歯列矯正もアレルギーの薬も一切ダメということになり、生まれ持った遺伝的形質がより重要になってくる。しかし、生まれついた体質はあくまで偶然の産物にすぎず、それを絶対視する発想は優生思想と同様に私にはけっして「フェア」だとは思えない。


2の「スポーツの価値を損なう」というのは意味不明である。そもそもドーピング規制をとなえる人々の抱く「スポーツの価値」とは何なのかが提示されていないので、それが「損なわれる」と言われても、まるで雲をつかむような言説である。週50時間のデスクワークをしている平均的な中年男性を例にあげて考えてみる。彼は通勤以外に体を動かすことはほとんどなく、体重は十代の頃よりも20kg以上増加している。そんな人物が一念発起し、一年がかりの週末トレーニングによって100mを13秒台で走れるようになったとする。そのことは、遺伝的に運動能力に優れた資質を持った専業のスポーツ選手が一年365日をトレーニングに当てて9秒台で走るよりも、私には健康増進という点で「ずっと価値がある」ように見える。しかし、私のような考え方はいまのところ少数派のようで、ウサイン・ボルトの9秒58に観客たちが熱狂したように、多くの人は超人サーカスとしてショーをスポーツに期待しているらしい。ならば、運動能力を飛躍的に高める新薬を使って100mを7秒台で走る選手が現れたとする。彼は自らがその新薬を使っていることを公表している。また、その新薬は彼にしか適合せず、有害な副作用がないことも医学的に証明されている。この場合、彼が新薬の力を借りて7秒台で走るパフォーマンスを多くの人々が見たいと望んでいるのなら、その超人サーカスはスポーツの価値を大いに高めることになる。つまり、スポーツの価値とは、人々が何を求めているかによって異なる問題であり、2の言いぶんは、薬物が介在した途端に超人サーカスの価値が下落する根拠を具体的に示さねば空疎である。


3の「反社会的行為である」というのは、平たく言うと「いけないことだ」という意味なので、やはり1と同様に「いけないことだからダメ」と言ってるだけの循環論法でまったく根拠になっていない。それにしてもこのウィキペディアの文章はひどい。書いた人はまともな教育を受けていないんだろうか。循環論法が証明にならないのは論理学の初歩である。「決まりだから守れ」「ダメだからダメ」という循環論法が何の根拠も提示していないことは、小学生だってちょっとアタマの回る子なら気づくはずだ。
循環論法(じゅんかんろんぽう)とは? 意味や使い方 - コトバンク


4の「健康を害する」というのは一理ある。肉体を強化する薬品の多くが多量に摂取すると健康を害することが医学的に立証されており、この指摘は四つの中で唯一検討に値する。しかし、この健康を害するという言いぶんは、次のふたつの点で問題をはらんでいる。


まず、そもそも過度の運動は不健康である。運動が健康増進につながるというのはせいぜい初心者レベルまでの話であり、たいていのスポーツは上達すればするほど体に無理な負荷をかける。ジョギングで膝を痛めることもあれば、ゴルフで腰を痛めることもある。こどもの野球だって無理な投げ込みをすれば肘の調子がおかしくなる。ましてやプロスポーツ選手やオリンピック出場者になれば常に怪我との戦いであり、体をすり減らしながら競技に取り組んでいるというのが実情である。もしプロのアメフト選手を十年以上続け、なんの障害も負わず、引退後に車イス生活にならなければそれは幸運なケースといえる。また、女性選手の場合、無理な減量とハードトレーニングで月経が慢性的に止まってしまい、深刻な後遺症を負うケースも多い。にもかかわらずドーピングに限って「健康を害する」と否定するのは矛盾している。「腕がちぎれても投げます」という高校球児の発言を美談として持ち上げるスポーツメディアがドーピングになると手のひらを返したように「不健康だ」と批判するのは、限りなく偽善的だし、プロボクシングの試合で、顔面への強烈な連打による血まみれのKOシーンに歓声をあげている観客たちがもしもボクサーのドーピングを「体に悪い」となげくとしたら、もはや悪い冗談である。


もうひとつは、もし本当に運動選手の健康を気づかって薬物使用の規制が行われているのだとしたら、違反した選手は「保護」の対象になるはずであり、彼らが社会的批判にさらされる合理性はないということである。薬物の使用は当人の健康を害するだけであり、他者になんら危害を加えるものではないからだ。それはコカインや覚醒剤のような法的に規制されている依存性の強い薬品も一緒であり、被害者が存在しないという点で、暴力を振るったり、だましてお金を巻きあげたり、差別発言をネット上にまき散らしたりする行為とは根本的に異なる。オランダやカリフォルニアのような自由主義的傾向の強い社会で体へのダメージの少ない大麻が解禁されたのものそのためである。清原和博覚醒剤使用で逮捕された際、多くの人が「裏切られた」と語っていたが、清原がシャブで良い気分になったところで誰も危害を加えられたわけではなく、あなたも私も痛くも痒くもなかったはずだ。したがって、当人の健康を気づかって薬物使用を問題視しているのなら、「これ以上からだを壊さないよう、はやく薬物依存から抜け出せると良いね」と手をさしのべる、あるいは見まもることが周囲の理性的な対応であり、声高に批判をあびせることではない。


そうして、この三十年間くり返してきたようにまた振り出しに戻る。今回、イギリスのプロボクサーがドーピングについて語っているインタビュー記事をネット上に見つけた。彼の発言は次のような主旨である。

 スポーツ選手には短命な者が多い。健康を損ねるという点ではハードなトレーニングも薬物使用も大差ない。命を縮めるとわかっていて薬物を使うのはあくまで本人の問題であり、使用するかどうかの判断も本人の覚悟次第だ。それに多くのスポーツ選手が実際には薬物を使っているんだから、公にドーピング使用を許可したほうが正直者が馬鹿を見ることがなくなり、むしろフェアになる。

http://www.afpbb.com/articles/-/3067919


何年か前に「ステロイド合衆国 〜スポーツ大国の副作用〜(原題:BIGGER. STRONGER. FASTER)」というドキュメンタリー映画を観た。監督のクリス・ベルもやはり「なぜドーピングはいけないのか」という疑問から出発する。映画のはじめに彼は選手の持久力を高めるための赤血球を増やす方法を三つ紹介する。ひとつめはマラソン選手がしばしば行っている高地トレーニングや低酸素カプセルでのトレーニング。酸素濃度の低い環境に置かれることで徐々に体が順応し体内の赤血球が増加していく。要するに高山病を防ぐための高地順化を利用したやり方である。ふたつめは自己輸血。これは単純で、自分の体から血を抜いて保存し、レース直前に自分に輸血して戻すことで赤血球量を増やし、高地トレーニングと同様に体内の酸素供給効率を高めるというものである。三つめはより直接的に赤血球を増やす薬品を摂取するというもの。いずれも効果は同じだが、オリンピックで認められているのはひとつ目の高地トレーニングだけである。では、なぜ自己輸血と赤血球増加剤はダメなのか。楽だから?でも、それはより効率的な方法と言い換えることができる。インチキだから?でも、それは禁止されているからインチキなのであって禁止の理由にはならない。体に悪いから?たしかに赤血球が増えることで血管が詰まりやすくなり、心筋梗塞のリスクが高まるが、それは高地トレーニングでも一緒だ。わからない、なぜこの線引きがなされているのかさっぱりわからない。で、彼もそこから出発して考えをめぐらしていく。もっとも、彼は私のようにただぼんやり考えているだけでなく、このもやもやした疑問に答えを出すべく、様々な立場の人々に会って取材していく。エライなあ。このドキュメンタリー映画はその取材記録であり、そこにはステロイドのせいで高校生の息子を亡くしたという親へのインタビューもあれば、ステロイド使用を公言しているボディビルダーの話もある。監督のクリス・ベルの語り口は陽気でテンポ良く、マイケル・ムーアのドキュメンタリー手法とよく似ている。そうして様々な声を集めていくことで観る側はアメリカのステロイド事情やドーピング規制には詳しくなっていくが、もちろん最後まで、なぜドーピングがいけないのかというそもそもの問いに答えは出ない。まあそこから先はひとりひとりが考えてくれということなんだろう。うん考えているよ、もう三十年もずっとさ。なんだか私ばかり考えさせられているような気がするので、ぜひ大勢の人にこの映画を観てもらいたい。私は地球上すべての人をドーピングをめぐるこのもやもやした問いに巻き込みたい気分である。

http://www.cinematoday.jp/page/A0001781

http://d.hatena.ne.jp/kick_ass_1978/20101119/1290132424

所得の再分配 − 所得税の累進制は公平なのか −

税率をはじめデーターが古くなっていたので、修正・加筆しました。

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/saibunpai.htm


文中Aの累進課税をやめてすべて一律課税にしろという言いぶんは何度書き直してもうまく書けない。どう書き直しても「なんで俺の払った税金で見ず知らずの貧乏人を救ってやらなきゃいけないんだ」と言っている嫌な奴にしか見えない。もうお手上げ。ちょっと前までレッセフェールな人たちはやたらと鼻息が荒かったけど、私に代わって高校生向けの資料としてトリクルダウンの正当性を主張してもらえないものだろうか。経済成長に有利かどうかという損得勘定ではなく、社会正義の観点から。

石斧を握りしめて空を見上げる

左肩の激痛で朝早くに目が覚めた。左肩が外れかかっているようだった。起き上がろうとしたら左腰と左股関節にも痛みが走る。腰もひねっているようだった。なにがあったのかわからないが満身創痍である。私は眠っている間にいったいなにと戦っていたのだろう。


授業で脳死の問題を取りあげると、毎年、数名の生徒から、「死の概念や生命観は人それぞれであり、法律で死の定義を定めることは無意味だ」という発言が出てくる。そこで1999年に千葉県成田市でおきたライフスペース・ミイラ事件のことを紹介する。事件はホテルの一室で中年男性の遺体が発見されたところからはじまる。発見された遺体は死後数ヶ月経過しており、腐敗が進行し、干からびてミイラ化していた。間もなく、その部屋に長期にわたって宿泊していた30代の男性が死体遺棄の容疑で逮捕され、警察の取り調べによって遺体が彼の60代の父親であること、彼がライフスペースという静岡県に本部のある宗教団体の熱心な信者であることが判明した。さらに、遺体で発見された父親のほうは、数ヶ月前に脳梗塞で倒れ、病院の集中治療室にいたところを教組の指示を受けた息子をふくむ信者数名によって強引に連れ出され、ホテルの一室に監禁されて生命エネルギーを活性化させるという「宗教的治療」を施されていたことが明らかになり、その異常さから週刊誌とワイドショーはこの話題で持ちきりになった。オウム真理教の一連の事件からまだ日の浅い頃のことで、多くの人はまたかと思った。それから間もなく、息子は保護責任者遺棄致死で、主犯の教祖は殺人で起訴された。ふたりとも殺害を意図していたわけではないので、誘拐・監禁の末の過失致死のように見えるが、検察側は、瀕死の重体患者を病院から強引に連れ出してホテルに監禁し、死亡させた行為は殺人にあたると判断したようだった。しかし、ライフスペースでは、心臓が完全に停止した後も人間は仮死状態にあり、さらなる生命エネルギーの注入によって回復可能だと考えている。そのため、教祖は裁判の中でもミイラ化した父親が生きていたという主張を展開し、父親を殺したのは我々の治療をやめさせ、司法解剖を行った千葉県警のほうだと訴えた。たしかに死生観は人それぞれ異なり、いくら議論しても完全に一致することなどない。しかしその一方で、ある程度の社会的合意の形成がなければ、人間の社会が成り立たないのも事実である。結局、この事件で息子のほうは懲役2年6月・執行猶予3年が一審で確定、教祖のほうは最高裁まで争われた末、2005年に懲役7年が確定した。
成田ミイラ化遺体事件 - Wikipedia


今年五月、シベリアの永久凍土から肉片のついたマンモスの骨が発掘された。ラジオのニュース解説には、マンモスのクローン再生研究をしているという近畿大学の学者が出演し、この発見がマンモスのクローン再生においていかに重要かを喜々として語った。遺伝子の読み取りはすでに九割方完了しているという。彼はマンモスをクローン再生することで骨を見ているだけではわからなかった様々な生態が解明されるのだと語る。しかし、生態をあきらかにするためには、十数頭のマンモスの群れを自然環境に放ち、野生の状態で数世代にわたって追跡調査を続けねばならないはずである。そもそも現在の地球上にマンモスが野生動物として暮らしていける場所は存在しない。トキやドードーのような近代化の中で人間が絶滅に追いやった動物については、クローン再生の個体を野性に返せる可能性があるが、人間が文明を築くはるか以前の氷河期に絶滅したマンモスの場合、クローンで産みだしても動物園で見世物にされるだけだろう。研究者としてはクローン再生がやりたくてたまらないのだろうし、実現すればきっと話題にもなるだろうが、見世物にするために絶滅動物をクローン再生することに科学的意義は見いだせない。マンモスのクローン再生も宇宙開発も人型ロボットも高速増殖炉も、研究者たちはその夢を熱く語るが、「やりたいからやりたい」というのが本音で社会的有用性は後付けにすぎないのではないか。現代において「科学技術の発展」は必ずしも錦の御旗ではない。授業でこのマンモスのクローン再生を取りあげると、生徒たちの賛否はほぼ半々に分かれる。


モンサントの社長から生化学研究室の学生まで、バイオ産業の関係者たちはみな口をそろえて将来の食糧難にそなえて遺伝子組みかえ食品の開発は欠かせないのだと主張する。業界の合言葉になっているようだ。しかし、あきらかに詭弁である。食糧難は食糧の絶対量の不足によるものではなく、社会的要因によるものだからだ。単位面積あたりの収量をどれほど増加させても、富の偏りの問題が放置され、飢えた人々にトウモロコシを回すよりも牛に食わせて太らせたほうが儲かるという経済システムで世界が回っている限り、飢餓はなくならない。それは二十世紀の歴史によってすでに証明済みである。この先、収量を倍にするスーパーコーンや三倍の速さで成長するスーパーサーモンが市場に出回るようになったとしても、バイオ産業の懐を潤すだけで、生活のために片方の腎臓を売らざるを得ない途上国のスラム街生活者の口に入ることはないだろう。一方、日本も含めて先進国では、生産された食料の約七割は捨てられている。生産段階で規格外のものや余剰分が廃棄され、流通段階では各店舗で賞味期限切れが廃棄され、家庭や飲食店では残飯や冷蔵庫の古くなった食料品が廃棄される。その結果、人々の口に入るよりも捨てられるほうが多くなる。どう考えてもこちらもほうが早急になんとかすべき問題じゃないの。


人間はオーラなど発していない。「すっごいオーラを感じた」と言う場合、パブリックイメージの権威に魅せられているだけである。相手をひとりの生身の人間ではなく、自らの思い描く偶像に仕立て上げるとその背後にオーラや後光のような怪しげなものが見えてくるのだろう。それは400年前にフランシス・ベーコンが指摘した「劇場のイドラ」である。この手の発言を無自覚に多用する人が1930年代のドイツに暮らしていたら、ヒトラーの熱烈な支持者になっていたことだろう。きっとオーラ見えまくりのはずである。


自由には責任がともなうという発言をときどき耳にする。しかし、責任がともなうのは権限のほうである。権限と責任は対の関係にあり、両者のつり合いがとれなくなるとそこに不正義が生まれる。権限を行使するのにその責任を一切とろうとしない者は恥知らずの暴君であり、なんら権限がないにもかかわらず責任だけ負わされる者は哀れな奴隷である。後方から新兵たちに「突撃せよ」と号令するのも、若い従業員たちに「経営者目線で働け」と要求するのも、権限と責任の関係を理解していないやり口である。きっと奴隷農園から赴任してきたばかりで権限と責任の関係をわかっていないんだろう。太平洋戦争での戦死者数は圧倒的に日本軍のほうが多いにもかかわらず、現場指揮官の死亡率に限っては、「ついて来い」と自ら先頭に立たねばならなかったアメリカ軍のほうが高い。自らは安全な後方に身を置き、後ろから部下たちに「行け」とけしかける上官は、自分の責務を果たしていない卑劣な腰抜け野郎と軽んじられ、指揮権を維持できなかったからだ。その点で、サンダース軍曹が「リトルジョン、援護しろ」と毎回自ら先頭に立って突撃していたのは、アメリカ軍の実態に即している。152話も彼が生き延びたのは驚異的である。それから70年が経過したが、いまも日本では、権限と責任の関係が理解されているようには見えない。最低賃金で働くバイトくんが最低の勤労意欲と最低の責任感しか持っていないのは当たり前であり、そのことで文句を言われるような筋合いはない。もし彼に経営者なみの責任感を要求するのなら、経営者と同等の待遇と権限を保障せねばならないはずである。


「経験値」という言葉がある。キャラクターの経験を定量化し、数値として表すゲーム用語である。1980年代はじめくらいからコンピューターRPGで用いられるようになり、80年代半ばの「ドラゴンクエスト」のヒットによって広く知られるようになった。40代半ば以上の人でこの言葉を日常会話に使う者はまずいないが、30代くらいのドラクエ世代の人たちは、ゲームの中だけでなく生身の人間の体験についても「経験値が上がった」などと言ったりするようだ。それが日本語として定着しているのかはよくわからない。高校生たちに聞いてみたところ、現実の出来事に「経験値が増えた」と表現するのはゲームオタクの人みたいで違和感をおぼえるという反応が多数派だった。「修学旅行で経験値を大量に稼いだ」や「週末の練習試合でみんなの経験値は上がってるよ」なんて言い回しを例としてあげると彼らはうーんという感じで苦笑していた。個人的には、生身の人間の体験について、「経験値が上がった」という表現に出くわすと、この人は人間の経験を定量化可能とするベンサム思想の信奉者なんだろうか、それともたんにゲーム用語を日常会話に使用するゲームフリークなんだろうかと気になってしまい、少しむずむずする。生身の身体はテレビゲームのように戦えば戦ったぶんだけ強くなるわけではない。


喫煙の問題は本質的には当人の健康問題のはずだが、なぜか道徳やマナーの問題として語られることが多い。そうした道徳的側面から語られる喫煙批判は、当人の健康を気づかってくれているわけではまったくないので、しばしば説教臭いものになる。また、本人が好きで吸ったタバコのせいで勝手に病気になって国の医療費を圧迫するのはけしからんという言いぶんもしばしば耳にするが、これはピンピンコロリ運動と同様にファシストの発想である。私たちは税金を支払うためにこの社会に生きているのではなく、日々の暮らしを楽しむために生きている。国や社会はあくまで人がよりよく生きるための装置にすぎない。たいていの楽しみは体に悪く、周囲に多少の迷惑をかける。山に登れば遭難することもあるし、甘いケーキをたらふく食べれば血糖値は上がる。運動にしても健康増進になるのはあらゆる競技において初心者レベルまでであり、上達すればするほど体には悪い。ゴルフをすれば腰を痛め、テニスをすれば肘を痛める。そもそも、プロスポーツはもちろん、高校生の部活レベルでも、健康のために体を動かしているという選手はいないだろう。また、用もないのにドライブに出かければ大気汚染と交通渋滞の原因になるし、サッカーの試合も野外ライブもサンバパレードも興味のない者にとってはただの騒音でしかない。では、体に悪いタバコや甘いケーキはもちろん、遭難して迷惑をかける登山も、渋滞の原因になる自家用車も、こどもたちのうるさい運動会も、すべて禁止し、生産性のなくなった寝たきり老人は山へ捨ててくるのか。この社会は「人に迷惑をかけない」という道徳的命題が大好きだが、他者に一切の迷惑をかけられない社会というものほど息苦しいものはない。時に体に悪いことを楽しんだりハメを外したりしながら、互いに少しずつ迷惑をかけたりかけられたりするのが人間の社会のはずである。なのでこの手の問題は「何事もまあほどほどに」というゆるい姿勢で構えるのがファシストたちに幅をきかせないための最良の対処ではないかと思う。


ブラックホールの構造が解明されたとしても明日のおかずが一品増えるわけではない。それは社会にどのような利益をもたらすのかではなく、我々のいるこの世界がいったいどんな所なのかという根源的な問いに由来する。石斧を手にマンモスの群れを追いかけていたご先祖様も、ふとその足を止めて空を見上げ、自らが立っているこの世界の有り様に思いをめぐらしたはずである。山の向こうになにがあるのか、足下の大地をなにが支えているのか、空の向こうにはなにが広がっているのか、と。以来綿々とつづくこの世界への問いの末端にブラックホールの究明もある。学問の本質は真理の探究であり、明日のおかずを一品増やすための手段ではない。もちろん、たいていの人にとって明日のおかずのほうがずっと重要であり、いつの時代もそれを思うのは少しへんな人たちである。


いまどき「女性アイドル」といったらAVかグラビアなので、彼女たちに処女性を求めているのは、アニメの声優さんとバーチャルアイドルが大好きなアキバ系のおにいさんだけなのかと思っていた。そういう意味で、しばらく前にAKBの女の子がファンの男の子と交際していることが「スキャンダル」として報道され、すったもんだの末に地方グループへ左遷された出来事は驚きだった。彼女たちは人形やバーチャルの存在じゃないんだから色恋沙汰だってあるだろう。ファンの男の子と交際していたというのは微笑ましいエピソードだと思うんだけど、彼女のファンはその人間的行為を応援してやろうとはならないんだろうか。さらに別の女の子が交際発覚で丸坊主になって謝罪する事態に至ってはもはや集団リンチである。彼女がナチス将校の愛人だったとでもいうんだろうか。AKBの女の子たちはたいてい水着グラビアもやっている。水着姿で不特定多数にセックスアピールするのはOKで、特定個人とセックスするのはダメというのもずいぶん奇妙な価値基準である。えっ、他の男とくっついたアイドルなんか応援するのがバカらしいって。でも、誰とできていようとできていまいと彼女たちはあなたのものになんかならないよ。私は彼女たちの私生活や人柄にはまったく興味がないが、彼女たちのファンがどういう人で彼女たちの偶像になにを求めているのかについては多少興味がある。モーニング娘に人気があった頃、コンサート会場でペンライトを振っているコアなファンたちは、ほとんどが中年男性だったというが、授業を受け持っている高校生たちは、AKBもモーニング娘もあまり関心がなさそうである。そういえば、ラルクのボーカル君がお天気のおねえさんとくっついたとき、彼の熱烈なファンだという若い女性が呆然とした様子で「よりによって大石恵」とぼやいていたのには、爆笑しつつも少々気の毒な感じがした。よりによってねえ。かくして偶像崇拝はすべからく信仰の道へと向かうのである。神様ならスキャンダルとは無縁だし、テレビのバラエティー番組に出演して余計なことをべらべら喋ったりもしないのである。思いを寄せれば寄せるほどただひたすら無限の愛でこたえてくれるはずである。たぶん。


19世紀の進歩史観の名残で、いまも生命進化を劣ったものから優れたものへの「進歩」のあゆみだと勘違いしている人は多いが、進化はあくまで環境への適応である。ダーウィンの進化論は、生命の変化はランダムな現象であり、その中から、たまたまその場の環境に適応したものが生き延びるというものであって、優れたものが勝ち残るという意味ではない。基本的に食料が豊富で安定した環境では、生物は大型化する。体が大きいほうが縄張り争いで有利になるからだ。逆に食料にとぼしく、環境の変化が激しい場合、小さな個体のほうが小回りがきいて少ない食料でも生き延びやすいので、数を増やしていく。それはその場の環境にどういう生物が適していたのかという問題であって、結果から逆算して種の優劣を論じるのは意味がない。日本のモグラの世界では、西日本に大型のコウベモグラ、東日本にアズマモグラが生息していて、長年、糸魚川静岡構造線が両者の生息境界になっていたが、モグラの研究者によると、近年、コウベモグラが箱根の山を越えて東日本に進出しつつあるという。森林が切り開かれて牧草地がふえたことで、開けた場所での縄張り争いに有利な大型の種が生息域を広げているということらしい。そこでコウベモグラとアズマモグラの種の優劣を論じるのは、モグラたちの抗争を吉本の関東進出に重ね合わせるのと同じくらいに無意味である。


人類進化の誤ったイメージ。画像はイエール大学のWebサイトから。
https://yalealumnimagazine.com/articles/3977-march-of-progress


この図は1965年にタイムライフ社から出版された「Early Man」の「ホモ・サピエンスへの道」というセクションに掲載された。19世紀末、進化論が受け入れられるようになると、生命進化は劣った生命から優れた生命への歩みと解釈され、その上昇する歩みの頂点に人間が位置していると考えられるようになった。ダーウィンが「種の起源」を発表した当初、人類が類人猿と共通の祖先から枝分かれしたとする彼の主張は、唯一の主体的存在とされてきた近代の人間像をおびやかすものと見なされ、彼ははげしい批判にさらされた。しかし、人間が生命進化の頂点にいると解釈し直されたことで、むしろ進化論は人間の特権的地位を補強するものになっていった。この図の「愚鈍で野蛮な原始人」から「知的で洗練された文明人」への一本道の連続的な歩みとする人類進化のイメージは、近代社会における進歩・発展の歴史観と合致したことから巷に広く普及し、やがて歴史の教科書にも転載されるようになった。そこでは生命進化と人間の歴史は連続的な現象と見なされ、人間社会は西洋の文明社会を頂点にして、アジア・アフリカのおくれた社会、未開人たちの野蛮な社会と序列化される。植民地支配は人類の進歩をもたらすとして正当化され、アイヌアボリジニーたちには野蛮な習慣をあらためるよう同化政策が強要された。文明人ならナイフとフォークで食事をしろというわけだ。19世紀におこなわれたロンドンやパリの万博では、熱帯の狩猟民たちが檻の中へ入れられ、「原始的な亜人種」として万博会場に展示された。彼らは人か、はたまた猿か、さあさあ紳士淑女のみなさま、とくとご覧あれ!その悪趣味な見世物は「人間動物園」と呼ばれた。さらに20世紀になると、知的障害のある人たちは人類の進歩をさまたげる存在として、各国で本人の同意を得ないまま不妊手術がおこなわれ、ナチス時代のドイツでは、劣等人種や障害者の大規模な殺処分をすすめることで社会の進歩・発展をうながそうとした。この図はそうした近代の歴史観を象徴的に表している。


SF作家には進歩史観の信奉者が多いようで、この誤った人類進化のイメージからさらに想像をふくらませ、しばしば次のような未来を描く。


いずれも知性を高めた人類がテクノロジーと融合したり高度な精神性を獲得したりして新たな生命体として次のステージへ登るという映画やマンガでお馴染みの未来像である。アーサー・C・クラークなんてこんなのばっかりだ。「2001年宇宙の旅」も「幼年期の終わり」も社会ダーウィニズムを連想して、読んでいて気分が悪くなる。


現在わかっている人類の系統は次のようになる。研究者によって細部の見解は異なるが、人類進化が複雑に分岐した系統樹であり、ホモ・サピエンスにつながらない絶滅種が数多く存在したことはもはや常識の範疇だろう。もちろん、人類進化は進歩・発展の一本道の歩みではない。絶滅した人類は、現在化石として発見されているぶんだけでも20種類以上にのぼり、10万年前に登場した現生人類は、幸運にも現在まで生き延びているひとつの枝にすぎない。今後、人類化石の発掘がすすめば、絶滅した人類の枝の数はさらに増えていくだろう。にもかかわらず、なかなか進歩・発展の一本道としての人類進化のイメージはなくならない。もういいかげんあの図を歴史の教科書の最初に載せるのはやめたほうがいいと思うんだけど。

https://opengeology.org/historicalgeology/case-studies/human-evolution/


いまだにテレビでタレントが「日本ではいくら稼いでもみんな税金に持ってかれちゃう」という発言をしているのを聞く。しかし、日本における高額所得者にかかる税率は、アメリカとならんでとっくに先進国中最低である。それを知らずにあの発言をしているのなら愚かだし、わかったうえであえてデマを流しているのだとしたらきわめて悪質である。


ユングは人間の無意識の深層には個人を超えて人類共通のイメージが広がっていると説いた。古代からある神話にいくつもの共通点があり、文化を越えて人々は闇を恐れ、太陽を神聖なものとして祀る信仰が世界中に存在するのはそのためだという。ユングの思想は、その領域を解き明かすことで、人間の「魂」の根源へ至ろうとするやたらと壮大で神秘主義的な性質を持っている。ユング錬金術や降霊術に首を突っ込んだり、UFO研究に夢中になったり、グノーシス主義に心酔したりと彼の思索は常にオカルトの影がつきまとう。たしかに私たちはこの世界の有り様を直知できないので、意識の中に作りだした像から外界を類推することしかできない。目の見える者は見たとおりにこの世界が広がっていると思いがちだが、視覚情報はあくまで意識の中のイメージのひとつであり、実際には目の見えない者と同様に意識の中のイメージから外界を類推しているにすぎない。同じ「青い空」を見ていたとしても、意識の中に像を結んだ「青の色」は人によって異なっているだろう。だから、ユングのいう集合的無意識はこの世界の成り立ちを説明するひとつのフィクションとしてはおもしろいし、実際に多くの作家がそれに惹かれて集合的無意識をモチーフにした作品を数多く創作してきたわけだけれども、でもさあ、なにを根拠にそんなこと言ってんのさ。人間が闇を恐れるのはたんに本能によるもので、神話や昔話に共通点が多いのは古くから人間の移動と交流が多かったっていうだけじゃないの。思想は言ったもん勝ちではないし、面白ければいいというわけでもない。なので、ユング思想もカバラも天中殺もパワースポットもB型人間も酒の肴の与太話にはちょうどいいけど、真顔で語られるとちょっとねえという感じ。


春、玄関先に自生しているエノキの若木は葉が濡れるほど大量の樹液を出す。それに惹かれて、毎年、無数のアブラムシが集まってくる。春に生まれたアブラムシは有性生殖によって卵から孵った個体なので、羽根を持ち、特定の食樹を目指して飛来してくる。うちのエノキに集まってくるのは白い綿状のアブラムシで、そのため、毎年、四月の二週目くらいになると玄関先はまるで粉雪が風に舞っているような状態になる。ところが、四月の四週目くらいになると、今度はそれをエサにするテントウムシの幼虫のほうが目立つようになり、オレンジと黒の幼虫がせっせと枝を這いまわり、アブラムシの捕食をくり返すようになる。テントウムシは成虫で冬を越し、春にアブラムシの多い樹木に産卵する。ナミテントウナナホシテントウは成虫も幼虫もアブラムシだけを食料源にしているので、その生活サイクルもアブラムシの活動と完全に一致する。テントウムシがアブラムシの臭いに反応して飛来するのか、それともアブラムシの食樹の樹液のほうに反応して集まってくるのかはわからないが、そのへんは実験すればすぐに判明しそうなので、生物学専攻の学生さん、レポートの課題用にぜひどうぞ。もっとも、ゴキちゃんと違ってテントウムシを誘引する物質を特定しても商品化は難しそうだけど。ともかく、我が家の玄関先では、テントウムシの大群による補食の結果、五月の連休が終わる頃には、綿状のアブラムシはほぼ姿を消し、エノキの枝や葉の裏には大量のテントウムシのサナギが残って、ひと月におよぶスペクタクルに幕が下りる。我が家の春の風物詩である。


こどもの頃、雑誌掲載時に少しだけ読んで続きが気になっているけれどもそれからずっと放ってあるマンガというのがたくさんある。夜中にビールを飲みながらテレビニュースをぼんやり見ているときなどに、ふとそんなマンガの一場面がアタマの中に浮かぶことがある。それはファンタジーよりも当時の社会風俗が色濃く反映されている作品で、「釣りキチ三平」とか「がんばれ元気」とか「レース鳩アラシ」とか「サイクル野郎」とか松本零士の四畳半ものとかあのへん。三平は行方不明のお父さんと再会できたのか、元気と先生はその後うまくいったのか、丸井輪太郎は日本一周を達成できたのか、アラシは結局どうなったのか、時々気になることもあるけどネット検索はあえてしません。きっとまたいつか読む機会もあるだろう。


思想家には奇人変人のたぐいが多い。社会のあり方を考える最大の原動力は「いまの社会はどこかおかしい」であり、常識的で現状に満足している者は思想家になどならないからだ。しかし、二千年前の常識的な人々は、奴隷制度を社会に必要なものと見なし、残酷で非人道的だとは思わなかったろう。世の中がそういう常識的な人間ばかりだったら、二千年後の現在も奴隷制度は続いていたはずである。


校舎裏に意中の相手を呼び出し「つきあってほしい」と言う。学園もののドラマでおなじみの告白シーンである。実際にそんなことをやっているのかは知らないが、他の国の映画やドラマでこういうシーンを見たことがないので、もしあったとしても日本のティーンエージャーだけの独特な慣習だろう。それに私が中学生や高校生の頃はいまほど一般的ではなかったので、それほど古くからのものではないはずだ。おそらく、1980年代にとんねるずの合コン番組でやたらと「告白タイム」や「つきあってる」が連発されたことが普及にひと役かったんじゃないかと思う。しかし、この場合の「つきあう」が「コンビニへガリガリ君を買いに行く」や「ダンボール八箱ぶんの可燃ごみを焼却場まで運ぶ」ではなく、「互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を継続的に共にする」である場合、それは個人的な感情をベースにした流動的なものなので、本来、契約関係とは異なり、互いの行為の結果として形成されるはずである。つまり、デートをしたりベッドを共にしたりしながら一緒にいて楽しいと感じられる中で「たぶんこれはつきあっているといえるんじゃないかあ」と後になって漠然と自覚するものである。その自覚をラーメン屋からの帰り道にふと思うか、出産直後の病院のベッドの上で実感するかは人によって異なるだろうが、行為や感情よりも先に関係性のほうを自覚するということはありえない。だから、多少でも恋愛経験があれば、「つきあおう」と関係性の構築を契約によって求めることの不自然さに気づくはずなので、恋に恋する若者以外、そんな無茶な要求はしなくなる。同じことが「友達になろう」にもいえる。友達も恋人もあくまで親しくなった結果としてなるものであり、商取引のように契約によって成立するものではない。もし口約束だけでは心許ないからと誓約書への署名を求められたら、その不自然さに誰もが気づくだろう。そもそも、それまで言葉を数回交わしただけのよく知らない相手から、「これから先、互いに恋愛感情を抱きつつ生活や行動を共にしよう」とやたらと重たい契約をせまられたら、ゲマインシャフトゲゼルシャフトが浸食してくるような不気味さをもたらすので、たいていの場合、その要求は受け入れられないはずだ。当人は疑似プロポーズのような感覚なのかも知れないが、契約によって成立し、社会制度的に補強される婚姻関係と互いのパーソナルな親和性で築かれる恋愛とでは性質がまったく異なる。色恋沙汰のような個人的関係にまで制度的なお墨付きが欲しいんだろうか。ずいぶん奇妙な慣習が定着したものである。えっ、じゃあどうすればいいのかって。本気でその相手と親しくなりたいのなら、一緒に海へ行こうでも一緒に千本ノックしようでもぶつかり稽古百連発でもいいから互いの共通体験をつくることのほうが先なんじゃないでしょうか。


自分を信じろとせまる者はそもそも信用に値しない。信用されたいのなら、自らの主張の根拠を判断材料として提示する必要がある。あらゆる問題は信じるかどうかではなく、常に判断すべきなのだ。判断材料を示さないまま、いまこの場で自らを信じるか否か返答せよとせまるのは、相手を支配下に置こうとする行為であり、詐欺師とファシストの常套手段である。


スポーツの試合では、互いの実力が拮抗している場合、かならずどちらかが押している状況がひと試合の中で何度も行ったり来たりする。選手の心理状態や戦術的な駆け引きによってこうした押し引きの展開がつくられるらしい。日本語では「流れ」というが、英語の野球中継を聞いていたら「momentum(モメンタム=勢い)」と呼んでいた。では、スロットマシンやパチンコのようなランダムな確率のゲームに「流れ」は存在するのか。あるわけがない。スロットマシンで「いま流れが来ている」というのはどう考えても錯覚である。偶然を偶然のまま放置することができず、ランダムなパターンの中になんらかの意味を読み取ろうとするのは人間の思考の癖のようなもので、人は立った茶柱に吉事の兆しを思い、突然の春の雪に人生の転機を重ね合わせる。ギリシア悲劇万葉集からドストエフスキーまで古今東西みなそうだ。そもそも「見立て」とは偶然性に意味を見出す行為だろう。その運命論的解釈は確率論による解釈よりもずっとおもしろいので、麻雀劇画では勝負手になるときまって神の見えざる手やら運命の歯車やらが登場する。ただし、それはあくまで物語として面白いのであって、本当に賭け事が強くなりたいのなら、妙なイマジネーションをふくらませるよりも確率論を基礎から学ぶほうがずっと効果的なはずだ。ゲームで微妙なのは、麻雀やポーカーのようにランダムな確率とプレイヤーの心理的駆け引きとが組み合わされたもので、イカサマでもしないかぎり牌やカードのディールに「流れ」などあるわけがないが、プレイヤー間の駆け引きにはある。もし、はじめて入ったフリー雀荘で、小指のないおじさんがこちらに鋭い視線を向けて「リーチ」とおもむろに万札を卓に出したら、もうそれだけで自分の手が縮こまっちゃうでしょ。それは明らかに「流れ」をつかみそこねた状況といえる。これらのゲームの場合、チェスや囲碁のような複雑な推論を求められるゲームとちがい、牌やカードの取捨選択は誰でもある程度まではすぐに上達するので、そこから先の勝負事の強さというのは、心理的プレッシャーのかかる場面でどれだけ冷静に状況判断できるかによって決まる。麻雀やポーカーにしばしばお金のやり取りがともなうのも、プレイヤーにあえて心理的負荷をかけることでゲーム性を高めようとしているんだろう。


テレビに登場する占い師たちがしばしば差別を助長する発言をくり返しているのは、あらゆる事象には意味があるとする運命論的な世界観に由来するのではないか。そこでは、大病を患ったのは「日頃の行い」のせいであり、生まれつき障害を負っているのは「前世の報い」とされる。一方、人権思想の根底には、偶然性がもたらす社会的不合理を是正しようという平等の理念があるので、この世界に偶然など存在しないとする運命論とは根本的に相容れない。占い師でありながら、同時に障害者支援や難民救済に熱心に取り組んでいる人権活動家というのは、きっと世界中探しても見つからないだろう。


趣味人への第一歩は物事を嫌うところからはじまる。朝顔の花を陰湿だと嫌い、東京風の甘辛い醤油味を田舎くさいと嫌う。ハリウッド映画を仰々しいと嫌い、久谷の彩色をこれ見よがしと嫌い、フランス車を脆弱と嫌い、ブラームスを凡庸だと嫌う。こどもをあざといと嫌い、犬猫を煩わしいと嫌い、小鳥のたぐいを目つきが嫌らしいと嫌う。そうして趣味人を気どる偏狭な美意識が研ぎ出されていく。


授業で代理出産の問題を取りあげると生徒から決まって「こどもがかわいそう」「こどもが学校でいじめられるから反対」という声があがる。私は代理出産について、経済的に困窮している女性たちが食い物にされる危険性が高いので合法化には慎重であるべきだという立場だが、一方で、こどもを哀れむふりをした批判にはまったく同意できない。その本質的な問題は家庭環境の異なる者が見下されたりいじめられたりしても仕方ないとする社会圧のほうであり、その対応策はそうしたこどもが生まれないようにすることではなく、そういうこどもが差別されない社会をつくっていくことのはずである。例えば親が離婚して片親に育てられている子について、十把一絡げに「ああ、離婚家庭の子ね、かわいそうな子」というまなざしを向けるのは、むしろ片親家庭への偏見を助長することになる。ところが「こどもがいじめられるから反対」という言いぶんはずいぶんと使い勝手がいいようで、他にも様々な問題で耳にする。夫婦別姓はこどもがいじめられるから反対、同性カップルが養子を迎えるのはこどもがいじめられるから反対、出かせぎ外国人の来日は日本語の話せないこどもが学校でいじめられるから反対。いずれも問題の本質はそういうこどもがいじめられる社会状況のほうであり、そちらを放置したまま、「だから夫婦別姓は認めるべきではない」「だから同性婚には反対」「だから外国人労働者の制限を強化すべき」と主張を展開するのは論理のすり替えにすぎず、本質的問題はなんら改善されない。そもそも離婚家庭にも様々なケースがあるように、それらの家庭も千差万別のはずであり、代理出産で生まれた子や親の姓が異なる子や同性カップルに引き取られた子を「かわいそう」と決めつける時点ですでに公正な判断を見失っている。


東京の言葉を「関東弁」という人がいるが、東京の言葉は関東弁ではない。関東弁はいわるゆる「だべ言葉」で、「どうすべえ」「参ったべよう」「参ったべなあ」「まあやるべよう」「やるべさねえ」といった調子である。イントネーションに抑揚が少なく、語尾を引っ張るのが特徴で、カールおじさんが話しそうなのんびりした田舎言葉といった感じ。また、身分制に由来する敬語表現がやたらと多い東京言葉に対して、関東方言に敬語は存在しない。「となりのトトロ」に隣人として農家のおばあちゃんが出てくるが、「カンタぁ!はやぐ父ちゃん呼んでこい、メイちゃんがいなぐなっちゃったんだあ」って言っていたあのおばあちゃんの話し方は典型的な南関東の土着の言葉である。いまでも東京郊外や神奈川あたりの農家のお年寄りはあんなしゃべり方をする。北関東になると「だべ」が「だんべえ」や「だっぺ」になったりしてより東北の言葉に近づいていく。そうした関東全域で広く流通していた「だべ言葉」に対して、下町方言も山の手方言も東京言葉は、江戸期に西日本から大量の人口流入があって、江戸という狭い範囲に様々な身分の人間がごちゃごちゃと密集して暮らすようになったことで形成された歴史の浅い言葉であり、土着の関東方言とは大きく異なっている。こういう周囲の地域から孤立した言葉のことを「言語島(げんごとう)」というのだそうだ。というわけで東京の言葉を「関東弁」というのは、ドイツ東部に暮らしているスラブ系の人々が使うソルブ語を「ドイツ語」というようなもので、明らかな間違いです。
 → Wikipedia 言語島
 → Wikipedia 東京方言


高校生くらいの若者ふたり組が「センパイ」から小さなオートバイをゆずってもらうことになる。「センパイ」はバイト先のセンパイでもいいし、部活の卒業生でもいい。その小さなオートバイはセンパイの下宿先の軒下で雨ざらしになっていて、所々錆が浮き、エンジンもかからない。半年くらい乗らずにいたら動かなくなったのだという。センパイはもうすっかり興味を失っている様子で、邪魔だからさっさと持っていってくれとばかりにキーを放り投げ、「まあ、キャブ直せば、動くんじゃねえかなあ、動かなくてもタダなんだから文句ねえだろ」とぞんざいに言う。もっとも放置車両の場合、十中八九キャブレターにトラブルを抱えているので、その言いぶんはそう的外れではない。ともかく、ふたり組はセンパイのアパートからそのポンコツを押して帰る。押して帰ったはいいが、ふたりともキャブレターのしくみどころか、2サイクルエンジンと4サイクルエンジンの違いもわからない。とりあえず近所の図書館からオートバイの修理本を何冊か借りてくるとことから、ふたりの格闘が始まる。台所の流しで腐食ガソリンのたまったキャブレターを分解して親にしかられ、タンクの中の古いガソリンを近所のガソリンスタンドで処分してもらおうとして嫌がられ、プロのアドバイスをもらおうとバイク屋の親父に相談して盗難を疑われる。でも、エンジンオイルとバッテリーと点火プラグは新しいものに交換したし、キャブレターも徹底的に分解洗浄してジェット類とパッキンは新品に交換した。チェーンはたんねんに錆を落としてから油を差し、つぶれたタイヤに空気も入れた。そうしてのべ一ヶ月間の格闘の末、エンジン始動の日がやってくる。エンジンはすぐにはかからない。チョークを引きながら、汗だくになって何度もキックをくり返す。そうしているうちにようやくガソリンが回ってきたようで、ついにエンジンがプスプスと気の抜けた音をたてながら動き出はじめる。エンジンはすぐに止まってしまいそうに力なく回っている様子だけど、ふたりは猛烈にうれしい。笑いがこみ上げてくる。それが私のオートバイについての原風景。単純で原始的な内燃機関による簡便な乗り物。いまもオートバイと聞くとそんな少し感傷的で少しいじけた情景が思い浮かぶ。たぶん、ひと昔前なら、似たような出来事は日本全国どこにでもあったんじゃないかと思う。


もしあなたが岩波の「夏目漱石全集」全28巻を愛読していたとしても、職場でとっさに漱石の「漱」の字が出てこなかったら、「坊っちゃん」を3ページしか読んでいない係長から、「キミ、教養ないね」としたり顔でたしなめられたりすることだろう。もしかしたら係長は「漱」が「すすぐ」の意味だと得意げに教えてくれるかもしれない。それが現代日本における教養の正体である。


夏になると一日に何度も身体を洗うようになる。そうして自分の体臭を消していくと他人の臭いにやけに敏感になる。ちょうど風呂上がりにそれまで着ていたシャツが「汚れ物」と認識され、洗濯かごへ放り込まれるように、こうした感覚は相対的なものなんだろう。私はわりと鼻がきくので、この状態で電車に乗ると、この人は三日以上身体を洗っていない、この人の口臭キツイなあ歯周病かなりひどそう、この人の口臭は酸っぱい臭いがするのでたぶん胃腸を悪くしてるんだろう、こっちの人からは血の臭いがするのでいま生理中なんだろうといったことまで伝わってきて、もう半径二メートル以内には誰も近寄らないでちょうだいって気分になる。潔癖症まであと一歩という感じで、かなり危険な兆候である。おそらく人間を穢れと見なす思想もこの感覚が生み出したはずである。現代では洗浄用品の性能が良くなったせいで、過去の時代に数十日の水行をへて到達した感覚を一日数回のシャワーで得られるようになったわけだけれども、でも、こういうことはあえて鈍感なくらいのほうが大らかでいいと思う、という話を先日ひさしぶりに母親から電話があった際にしたところ、「なーに言ってんだ、オマエ、それはクサイ奴が悪い、とくに口のクサイ奴は極悪人、ほらオマエの高校一年の時の担任、口臭がひどくて面談で向かいに座ってるだけで吐き気がこみ上げてきたわよ、ああいう輩は半径五メートル以内に来ないでほしいね、それにオマエだって夏場以外は時々クサイ、もうクサイ奴は全員家から一歩も出ないでほしいわ」とえんえん清潔ワンダフルワールドについて小一時間聞かされる羽目におちいった。そうか、俺はこういう親に育てられたのか。


古本屋で「げんしけん」と「海月姫」をまとめて買ってきた。どちらもオタクな若者たちの群像劇で、「げんしけん」は大学のマンガサークルを舞台に、「海月姫」は独身女性ばかりが集まった古いアパートを舞台にストーリーが展開していく。彼らは街でおしゃれな人を見かけたらそれだけで逃げ腰になり、遊び慣れた感じの若者が話しかけてきたら露骨に警戒心をあらわにする。自分がオタクであることによほどコンプレックスと強い自意識があるらしい。だから、自分たちに居心地のいい場所をつくろうと閉じた同質集団を求める。ただ、この時期って自意識の鎧をもてあますのと同時に自分の知らない世界の住人に心惹かれたりするものではないのか。自分が十代だった頃を振り返っても、中学の同級生だった暴走族に入って暴れていた女の子のことと高校の同級生だった放課後の図書室でひとりドストエフスキーを読みふけっていた文学少女のことはやけに印象に残っている。どちらも陰気なロック少年だった私とは話をしたって噛みあうことなんかなかったが、身近にいる異邦人ということで妙に気になる存在だった。なぜ、マンガの中の若者たちはあれほど同質性に執着するんだろう。社会の細分化がすすんだ結果、小集団間の断絶をアプリオリのものとして受け入れるようになっているんだろうか。その村社会のような排他性はゼノフォビアと根を同じくするものではないのか。そんなもやもやした疑問が読みながら浮かんだ。


たしか1990年代はじめ頃の夏だったと思う。バイトの面接でお茶の水まで行ったところ、一時間も早く着いてしまい、近くにあった鉄道博物館で時間をつぶすことにした。冷房にあたってひと息つき、ベンチに座ってタバコを吸いながら古い機関車をぼんやりながめていたら、すぐ隣に痩せて銀縁メガネをかけた青年が腰掛け、「おたくさぁーこんな中途半端な展示で満足しているんだとしたらまったくもってわかっていないね88系の形式は……」となにやらよくわからない講釈を甲高い声でまくしたてはじめた。やけに挑発的である。彼はこちらとまったく目を合わせず、宙に向かって独り言のように語っているが、平日昼間の博物館には彼と私しか入館者はいない。これ、俺に話しかけているんだよね。「えーっと、鉄道、お詳しいんですか、ぼくはバイトの面接までの時間つぶしに入っただけなので」と意図してやんわりと常識的な言葉を返したところ、その青年は拍子抜けした様子で「あっいや勘違いしてごめんね、こんな場所にひとりで来ているのを見かけたもんだから、ついさあ、いやそのなんだ、カタギさんでしたか、ははは」ととたんに温和な調子になり、独り相撲をとったことに顔を赤くしながらそそくさと去って行った。そうか、おにいさんはマニア同士で蘊蓄のせめぎ合いがしたかったんだね、相手になれなくってごめんよ、なーんてことは当時の私はまったく思わず、後日、彼の滑稽さをネタに友人と笑いあった。「カタギさんだってよ、あはははははは」なんて。我ながら嫌な奴である。というわけでバイトの面接のほうはもはやまったくおぼえていないが、この青年のことはやけに印象に残っている。ちょうど「オタク」という言葉が日本語として定着しはじめた時期のことで、彼の風貌と言動は「げんしけん」の斑目くんにそっくりだった。


朝、目が覚めたら、顔のかたちが変わるくらい口のまわりが腫れていた。前日にボクシングの試合をしたおぼえはない。半年ほど前から蕁麻疹が出るようになったので、どうやらアレルギーによるアナフィラキシー反応のようだった。たいていのアレルギーがそうであるように原因は不明。夢の中で寿司屋のはしごをしたのが悪かったんだろうか。一時間もすると腫れが収まってきたので、出勤して授業もする。生きていくのは色々大変である。

くじ引きとしての生

この冬、大学入試の小論文対策用の副読本を書くアルバイトをした。私が担当したのは、ジョン・ロールズの「正義論」についての項目で、一昨年にNHKでやっていたハーバードの授業の影響なのか、入試の小論文課題にまでロールズの「公正としての正義」が出題されているらしい。他の項目が「生涯学習」「グローバル経済」といった社会現象のほうを中心にそれを取り巻く状況をざっくりと俯瞰していく内容なのに対し、なぜかこの項目は、ロールズの「正義論」の解説だけで見開き2ページを構成してほしいという注文だった。ここだけやけに専門性が高くてバランスが悪いように見えるんだけど、版元からの注文なので、ともかく「正義論」を読まないことにははじまらない。ひと冬まるまるついやして全800ページの大著にあたる。大仕事である。20世紀の大思想家が生涯を通して書きつづけた大著なんていまどき受験生は誰も読まないだろうから、彼らの代わりに読んでその内容を2ページぶんに要約しろというのが版元側の要望のようだった。安請け合いするんじゃなかったよ。


ロールズは人間の「生まれ」に基づいた社会のあり方を否定する。内戦の最中に難民キャンプで生まれたこどもも、大金持ちの家の跡継ぎとして期待されて生まれたこどもも、新宿の地下街でホームレスの親から生まれたこどもも、黒い肌に生まれてきたこどもも、白い肌に生まれてきたこどもも、男の子も女の子も、生まれつき目が見えないこどもも、生まれつき耳が聞こえないこどもも、本人がそういう生を選択してこの世界に生まれてきたわけではない。言わば自らの生涯を賭けた大がかりなくじ引きの結果として人間はこの世界に誕生し、生きていく。自ら意図しないところで決まるそうした生のあり方をそのまま放置するのは、フェアな社会ではないと彼は考える。スタートラインが人によって異なり、さらにある者は片足で走ることを余儀なくされ、またある者は乗り物に乗ることが許されている中で参加者は競わされ、個々の過程は一切考慮されないまま結果のみで評価され、その報酬がもたらされるとしたら、それは「競争」とは名ばかりの「搾取」にすぎない。そのため、フェアネスの実現した社会というのは、どんなくじを引き、どんな立場に生まれたかを問わず、誰もが機会均等を等しく配分され、同じスタートラインに立てることが条件になる。したがって、ロールズは、生まれの違いがもたらす格差は富の再配分と公的支援によって絶えず補正されねばならないという徹底した平等主義の立場をとる。


彼は興味深い思考実験を展開する。そこでは、あの世の住人たちがこれから自分たちが生まれることなる世界をめぐって、どういう社会にすれば自分たちが新たな生を得た世界でより良く生きられるかを議論している。その会議では、あの世の住人たちの出した結論どおりにその世界の社会のあり方が設定される。ただし、あくまで決められるのは社会のあり方だけで、ひとりひとりが社会のどういう立場に生まれるかは選択できない。男に生まれてくるのか、女に生まれてくるのか、白い肌に生まれてくるのか、黒い肌に生まれてくるのか、障害を持って生まれてくるのか、いっさい本人はコントロールできない。社会的変数を入力してそこで人間がどのように扱われどのように暮らしているかを示していく思考実験は、フランク・キャプラの映画、「素晴らしき哉、人生!」を連想させる。ロールズは、人は誰もがそういう状況に立たされたら、生まれに関係なく平等に扱われる社会のあり方を望むだろうという。たしかに自分がどういう立場に生まれるのかコントロールできない以上、奴隷制社会や貧乏農場のある人生ゲームのような社会はリスクが大きすぎる。人生ゲームでは誰もが同じスタート地点から同じ条件で出発し、行為の結果として億万長者か貧乏農場か行き先が別れるが、現実の社会では、はじめから異なるスタート地点と異なるルールが割り振られることになる。


私たちは多くの場面で自らの立場に基づいて物事を判断する。たとえば、資産家にとって生産手段の国有化をとなえる共産主義は、自らの不動産や株式を失うことになるので、彼らには危険思想だと映るだろう。逆に小作農やスラム街の住人にとっては、共産主義のとなえる誰もが労働者として平等に働く社会のあり方に高い理想を見いだすだろう。あるいはアメリカ南部の白人たちの中にいまだに奴隷制度を擁護する者がいるが、それは奴隷を使う側の発想でしかなく、彼らは自らが黒い肌に生まれてきたらとは考えない。それらはいずれも自らにとって損か得かという判断でしかなく、ロールズはそうした損得勘定に基づく功利主義的判断に社会正義はないと説く。あの世の住人たちの議論という状況設定は、そうした損得勘定を廃するための思考実験といえる。


ロールズは、フェアネスの実現した社会のあり方として、ふたつの基本原理を示している。ひとつめは基本的自由がすべての者に等しく保障されている状態であり、これは基本的人権の保障といえる。しかし、基本的人権が保障され、法の下の平等という形式的平等が実現している社会でも、様々な要因から社会的格差は生じる。例えば、貧困家庭に生まれ、十分な教育を受けられず、低賃金労働を強いられている人がいたとする。この人の場合、競争に参加する機会がはじめからなく、生き方の自由があらかじめうばわれているといえる。もしこの人が生活に困って片方の腎臓を売ることにしたとしても、その決断を「自由な選択」とはいえないだろう。


そこでロールズは、実質的平等の実現のための第二原理を提示する。こちらは公正な機会均等の保障と格差の是正のふたつからなり、社会的に不利な立場におかれている人々への積極的な支援の必要性をとなえている。彼のいう公正な機会均等とは、法の下の平等が保障する形式的な機会均等とは異なり、すべての人が同じスタートラインに立ち、能力のみで競う社会のあり方を意味する。そのためには、人種・民族・性別・家柄などがもたらす社会的格差は、富の再分配と公的支援によって補正され、誰もがイコールの状態でスタートラインに立てるようにしなければならないというわけである。


では、公正な機会均等が実現したとする。人間の歴史上、完全な機会均等の実現した社会など存在したことがないが、それが実現したと仮定する。すべての参加者が同じスタートラインから同時に走り出し、公正なルールの下、純粋な能力競争が行われたとする。その結果として、運動会の競走と同様に誰かが一等になり、別の誰かがビリになった。一般的にフェアな競争の下で生じた結果の差は尊重されるのが基本ルールのはずである。しかし、純粋に能力のみで競う成果主義の社会においても、個人の能力差によって格差は生まれ、とくに障害を持った人々は社会の中で不遇な立場のまま留めおかれることになってしまう。そこでロールズは、能力に応じた成果報酬の差や社会的地位の差を受け入れつつも、同時にその差は社会の中でもっとも不遇な立場の者たちの状況を改善するために用いられねばならないとして、公正な機会均等の下で生じた格差であってもさらなる是正をとなえる。うーむ、ロールズ先生、そこまで言うか。だって障害を持った人たちもあまり高い能力を持っていない人たちも自らそう望んで生まれてきたわけじゃないんだから、成果主義の社会で彼らが不遇な立場に立たされるのを「仕方ないね」のひと言で片づけてしまうのは、フェアな社会とはいえないだろというわけである。明快な論理だ。その考え方の根底にあるのは、能力の差はたんに本人の努力によるものだけでなく、生まれ持った資質や生育環境といった本人のあずかり知らぬ所できまる偶然の要因が多分に含まれている以上、能力差は社会的格差を肯定する絶対的な根拠にはならないという立場である。たしかに、もし、アインシュタインダッカのスラム街に生まれ育っていたら、相対性理論を思いつくどころか、いつもぼんやりと空想にふけっている役立たずの変わり者と見なされたまま、なにも成し遂げることなく生涯を終えただろう。


障害を持った人々がまともな職に就くことができず、社会の中で不遇な立場におかれている状況を「仕方ない」で片付けてしまう発想には、「もしかしたら自分がそう生まれてきたかも知れない」という視点が抜け落ちている。そのため、こうした社会的格差の問題を論じる際には、その人が社会の中でどういう立場にいるかによって見解がしばしば大きく異なってくる。たとえば、インドの不可触民たちはいまもインド社会には深刻なカースト差別があるというが、その一方で、外交官や大学教授といった上流階級の者たちは口をそろえてカースト制度はすでに過去のものになったと主張する。先にあげたあの世の会議というロールズの思考実験は、自分がどう生まれ変わるかわからないという状況を設定することで、自らの社会的立場に基づく分け前の確保という功利主義的な発想を否定する。ロールズの示した社会の三つの段階を図にすると次のようになる。

本を読みながら、去年テレビ放送されていた「輪るピングドラム」のことを思い出した。あの物語では、毎回、運命をめぐる主人公のこんなモノローグからはじまる。

「ぼくは運命って言葉が嫌いだ。生まれ、出会い、別れ、成功と失敗、人生の幸不幸、それらがあらかじめ運命によって決められているのなら、ぼくたちはなんのために生まれてくるのだろう。裕福な家庭に生まれる人、美しい母親から生まれる人、飢餓や戦争のまっただ中に生まれる人、それらがすべて運命だとすれば、神様ってやつはとんでもなく理不尽で残酷だ。あの時からぼくたちには未来なんてなく、ただきっと何者にもなれないってことだけは、はっきりしてたんだから。」


そこでは人間の生は、偶然の産物としてではなく、運命として解釈され、あらゆる社会的格差は個人の生き方の問題へと還元されていく。どんな境遇に置かれても本人の心持ちしだいで幸福にも不幸にもなるというわけだ。社会のあり方へ目を向けようとしないその閉塞した発想は、私にはまるで八墓村の住人たちが語る人生訓のように思えて非常に気持ち悪かったが、日本の場合、「世の中そういうものだ」式の発言をあちらこちらで耳にするので、社会原理はどこからか輸入するもので自らのアタマで判断するものではないと思っている八墓村出身者は、案外多いのではないかという気がする。

次弾、装填完了です!

 半年ほど前、夜中にテレビをつけるとセーラー服姿の女の子たちがドイツの四号戦車に乗って戦車戦をしているアニメをやっていた。


「次の一発で決めます、丘の上から狙えますか?」
「稜線射撃は敵の標的になるから、ファイアフライが次を撃ってくるまでの間が勝負です、華さん、お願いします」
「次弾、装填完了です!」


 って、なにこれ、あちら側ではいったいなにがおきているの。どうやら劇中の世界では、古い戦車に乗って模擬戦をすることが女性の武道として成り立っていて、甲子園の高校野球大会のように高校生たちの戦車戦大会が行われているということになっているらしい。戦車には通常装甲の内側にさらに特殊装甲が施されていて、乗員の安全性を確保しながら実弾を使った模擬戦を可能にしているという設定で、そんなスポーツとしての戦車戦が草野球の試合のように日常的に行われている不思議世界。きっと街道沿いの中古車ディーラーには、軍の放出品のシャーマンやT34が「試乗歓迎」ののぼりとともにずらっとならんでいたりするんだろう。物語は主人公の女の子が転校先の学校で親しくなった仲間たちと仲良し五人組のチームを作り、戦車初心者の彼女たちを率いて高校生の全国大会を勝ち上がっていく。その荒唐無稽なストーリーに反して、CGで組まれた戦車の描写はやたらと力が入っていて、加速時には車体前部が上がり、減速時には前が下がるのはもちろん、射撃の際には衝撃で車体が揺れ、路面の起伏にあわせて転輪が上下し、フロントドライブの車両については加速時にちゃんとキャタピラ上部のたるみが張るのである。おまけに手動式の旋回砲塔の場合、砲手の女の子がせっせとハンドルを回しながら砲塔を旋回させ照準を定めている様子まで描かれている。そんなつくり手である戦車マニアのおじさんたちの夢と希望とオタク魂がてんこもり詰まったワンダーランド。そこでは、軍隊につきもののビンタやしごきや命令絶対の上下関係といった体育会系カルチャーのほうは完全に排除されていて、兵器や銃器や軍服が三度の飯よりも好き、でも、実際に鬼軍曹みたいな上司や教師にしごかれて軍隊式ビンタで根性注入されるのは絶対に嫌っていう少々ややこしい葛藤を抱えた軍事オタクのみなさんも安心して楽しめるようになっている。ずいぶん親切設計のテーマパークである。劇中で女の子たちがきゃっきゃしながら戦車に乗っている様子は子犬がじゃれてるみたいだ。でも、こんなの誰が見てるんだろう、夜中にさあ。


 と思っていたら、なぜか評判がよかったらしく、続編の映画版がつくられることになったという。ますますもって誰が見ているのか不思議な作品である。もっとも、こういう話が映画化されること自体が荒唐無稽なコメディのようでなんだか可笑しい。スケールモデルを取り巻く状況は、この40年間ですっかり様変わりした。小学生の男の子たちがこぞってタミヤのタイガー戦車やハセガワの零戦のプラモデルをつくっていたのは遠い昔のことになり、いまやごくひとにぎりの熱心な愛好家たちによる一見さんお断りの蛸壺的世界になっている。私自身にしても、クルマやバイクのプラモデルをつくるのなら、手間はかかっても、ポンコツ実車を手に入れてレストアするほうを選ぶ。まあ、四号戦車は無理だけど。そういう意味でこの戦車アニメ、完全に特定の視聴者をピンポイントに狙った閉じた小宇宙のはずなんだけど、作り手の情熱がその一点で突き抜けているだけにかえって戦車マニア以外にも訴求力があったりするんだろうか。15年前、戦車模型専門の雑誌が創刊されたのを本屋で見かけた時もいったい誰が読むんだろうと自分の目を疑ったが、あれ以来の衝撃である。その専門誌は出版不況にもかかわらず、驚いたことに15年後の現在も発行をつづけており、先ほどアマゾンで確認したところ今月号の特集はこのアニメ。ああやっぱり小さな世界である。なにはともあれ、うるさそうな諸兄のそろっているミリタリーモデルの愛好家たちにも受け入れられているようでなによりです。こどもの頃、将来は宇宙海賊船かタイガー戦車になろう(乗ろうではない)と思っていた現在小学40年生の私としては、その閉じた小宇宙はずっと気になっているんだけど、深入りすると大事なものを色々と失いそうに思えてどうにか踏みとどまっている(と思う、たぶん)。


 去年、職場で話題になった入試問題がある。「これ、どう思いますか?」と入試問題の分析をしている世界史担当の人からわたされたのは、慶応の法学部の入試問題。1970年代末の兵器の輸出入から国名を答える問題で、表には兵器の名前が英語表記でずらっと並んでいる。
「なんですか、これ」
「うん、今年、一番へんな現代史の問題」
 と、そのセンセー、こちらを見てニヤニヤ笑っている。

(ネット上でもそれなりに話題になったみたいで、問題の画像もありました。世の中には受験産業の関係者でもないのに、毎年、大学の入試問題を解いてる人っているんですね。画像はそんな物好きな人のツイートから拝借。http://twitpic.com/c21g53


「んー……、アはアルゼンチンとイラクに武器輸出している国で、それぞれミラージュ戦闘機を輸出……ミラージュってフランスの戦闘機でしたっけ」
「そうそう」
「えーっと、ミラージュが三菱の小型車じゃなくてフランスの戦闘機だっていうのは、高校生にもわかる範囲の知識なんでしょうか?」
「まあ、兵器の名前以外にも、武器輸出の外交関係から国を判断することもいちおう可能という設問にはなっているけどねえ」
「うーん、1977年にアルゼンチンとイラクにもっとも武器輸出をしていたっていうヒントだけでフランスだと特定するのは、外交の専門家でも不可能じゃないでしょうか、兵器の名前から生産国がわからないと特定することはできないと思いますよ、逆にミラージュがフランスの戦闘機だって知っていれば、一発で解ける問題ですけど」
「やっぱりそうだよねえ」
「で、イはインドとイラクに二番目に武器輸出している国で、T72戦車とカシン級駆逐艦、あと、ミグ戦闘機……これはソ連ですね」
「うん」
「ウはパキスタンに武器輸出している国で、ハイナン級FPB……名前からして中国の軍艦ですかねえ、FPBってなんだろ」
「さあ、小型の哨戒艇かなんかでしょうか、パキスタン、大型艦を買うほどお金ないだろうし」
「で、エはアルゼンチン・イラン・パキスタン・フィリピンに武器輸出している国で、ベル212ヘリコプターとCH47ヘリコプター、これ、ベトナム戦争で使われたアメリカの軍用ヘリでしたっけ」
「さあ、さっぱりわかりません、あははは」
「あとはマーク46トーピードーズ……魚雷でしたっけ、魚雷40発とF8戦闘機、まあ、アメリカでしょうねえ、79年のイラン革命前だがら、イランにも武器輸出してたんですね」
「うん、パーレビ政権は実質アメリカの傀儡だったからね」
「で、オがインドとイランに輸出している国で、シーキング・ヘリコプターとシーハリアー戦闘機、ハリアーは小学生のころプラモデルをつくりましたよ、これはイギリスです」
「おっ、ぜんぶ解けたじゃない、ぼくはミラージュがフランスでミグがソ連の戦闘機ってことしかわからなかったよ、あははは」
「まあ、冷戦をリアルタイムで経験してきた世代にとっては、ミグやミラージュは当時ずいぶんニュースにもなったし、それがソ連やフランスの戦闘機だっていうのも常識の範囲内だと思いますけど、そういう知識を高校生に要求するのは無茶な話だし、こういうのって現代史の授業でもやるんですか?」
「やるわけないじゃない、兵器の名前なんて」
「これ、防衛問題が専門の人が出題したんでしょうかねえ」
「さあ、趣味だと思いますよ、自分の専門分野をこんなオタク・クイズみたいなかたちで出題するとは考えにくいし」
「大学のセンセー、ずいぶんフリーダムですね」
「ねえ、慶応の法学部が軍事オタクの若者を採りたがってるとしか思えないよね」


 そういえば慶応といえば、以前教えていた生徒が学校説明会へ行った時のこと、説明会で大学関係者が「私たちは勝ち組になる若者を育てています」「私たちといっしょに勝ち組になりましょう」と言いだしたという。ちょうど小泉構造改革が本格化し、「勝ち組・負け組」が流行語になっていた頃のことである。さらに「さあ、みなさんもご一緒に」と会場には入学希望者とその親たちによる「勝ち組になるぞぉ!」の連呼が響きわたったとのこと。竹中平蔵の教えが学内に行きとどいているんだろう。まるでインチキ投資会社の出資者セミナーである。彼らが「勝ち組になるぞぉ!」を連呼している間抜けな情景を思い浮かべていたら、笑いが止まらなくなってしまった。腹を抱えてげらげら笑っていると、「でも、うちのお母さん、全共闘世代でそういうの大嫌いだから、もう、かんかんに怒っちゃって、途中でイス蹴っ飛ばして出てきちゃって大変でした、おまえ、あんな大学、ぜぇーったいに行くな、もし、おまえが学問を金儲けの手段としか思っていないようなあんなろくでもないところへ行きたいっていうなら、今後いっさい親子の縁を切る、受験料も学費もぜぇーったいに出さないってもうすごい剣幕で、だから、慶応は受験できなかったんです、ってもうそんなに笑わないでくださいよ、うちでは大騒動だったんですよ」と彼女は続けた。「で、その勝ち組大学、行きたかったの?」と笑いをこらえつつ尋ねると、「うーん、ちょっと」と彼女も苦笑していた。以来、慶応のことは「勝ち組大学(笑)」と呼んでいる。