高校生はアルバイトをするべきか?


2学期中間試験の論述問題もここにまとめておく。中間試験では、日本の学校のあり方をめぐる問題をふたつ出題した。ちなみに現在勤務しているところは、公立高校ではいまや少数派になった原則アルバイト禁止の学校。その学校方針は、高校生にとってアルバイト経験が有意義か否かという教育的配慮から決まったものではなく、有名大学への進学率を上げたいという学校側の事情で設定されたものである。

・高校生はアルバイトをするべきか?


 高校生にとってアルバイトを経験することは、社会性を身につける良い機会になるのでしょうか。それとも学業や学校生活を圧迫するものなのでしょうか。次のAとBの文章を参考にして、高校生にとってアルバイト経験が有意義なものかどうか、あなたの考えを述べなさい。


A 高校生はアルバイトを経験したほうがいい。
 アルバイトをすることは、現実の社会にふれ、お金を稼ぐことの厳しさや社会のしくみを知るための絶好の機会である。家と高校と予備校とを往復しているだけではわからなかった色々なことが見えてくるはずである。それは単純に「仕事はおもしろい」という意味ではない。むしろ、仕事はつらいことのほうが多い。上司に怒鳴られることもあるだろうし、お客さんから苦情を言われることもあるだろう。重労働で体力的にきつこともあるだろう。しかし、そうした失敗や試行錯誤の体験をとおして、社会性や生きるための知恵を身につけられるはずである。万が一、給料をごまかされたり、理由もなく解雇されたりすれば、その時には、法律や制度がどのように自分を守ってくれるのかを実感するはずである。
 学校で学ぶことの目的は、生きるための知恵を身につけることであり、「もの知り博士」になることではない。知識を知恵にするためには、アルバイトをふくめて生活体験は多ければ多いほど望ましい。逆に生活体験にとぼしければ、学校で学ぶことの多くは教科書の中だけの机上の空論で終わってしまうだろう。
 たしかに日本の高校は受験を中心にまわっており、受験の内容は暗記中心なので、大学に合格することだけを考えたら、ひたすら知識を詰め込むことに専念したほうが効率がいい。しかし、大学受験は人生のゴールではない。高校三年間をひたすら受験勉強にだけ費やして有名大学に合格したとしても、長い目で見ればそれはけっしてプラスにはならないだろう。多感な高校生の時期にこそ、アルバイトを経験して現実のきびしさにふれるべきだし、たくさんの本も読むべきだし、たくさんの映画や演劇も観るべきである。その体験は、自分の視野を広げ、見識を高め、心を豊かにするための糧になるはずである。そうした体験と学業とは、二者択一ではなく、両立可能なものである。


B 高校生は学業に専念したほうがいい。
 日本の高校は、良くも悪くも受験を中心にまわっている。そういう中でアルバイトに時間をとられ、授業について行けなくなったり、受験勉強のさまたげになってしまったら、本末転倒である。学生の本分はあくまで学業のはずである。
 たしかに、アルバイトをすることで、学校で学んでいるだけではわからなかった実際の社会を知ることができる。お金を稼ぐことの厳しさも味わうだろうし、仕事を体験することで社会への視野も広がるだろう。そういったことは、家と高校と予備校の往復だけではわからないものである。
 しかし、長い人生の中で、ひとつのことに集中する時期というのも必要ではないだろうか。現代社会では、ひとりひとりに高度な技能や知識が求められている。それはたんに働く技能というだけでなく、社会の一員としても同様である。選挙で投票する際には、日本の社会が抱えている問題や現在に至った歴史を知っておくべきだし、ニュースを見る際にも、たんにひとつのできごとを追うだけでなく、その背景にある社会事情も理解する必要がある。そうした社会の一員としての基礎を身につけるのが高校生の時期である。
 現代の社会は、ますます複雑になっており、高校生が学ばねばならないこともたくさんある。そういう勉学にこそ、いまは時間をかけるべきである。人生は長く、働くことの厳しさや社会の一員であることの責任は、これから先、否が応でも体験することになる。高校生の時期は、そういう将来にそなえて基礎的なことを学ぶ準備期間であり、学業に専念することが望ましいのではないだろうか。アルバイトの体験は、その後にいくらでもできるはずである。

期末試験 外国人お断りのアパート


またまた試験である。今年度は試験と授業の準備に追われる日々が続いている。週フタコマしかない授業で学期ごとに中間・期末の試験をやっていると、ほとんど試験の合間に授業をやっているような感覚である。週フタコマの授業なら、定期試験は年に2回か3回で十分である。現代社会のような科目は、マルバツ式の試験よりも小論文形式のレポートのほうを重視するべきだと思うんだけど、残念ながらカフカの迷宮ではそうなっていない。今回の論述問題は、外国人の権利保障をめぐる2題。


1問目のBはとりあえずもっともらしいことを書いてみたものの、なんだか猛烈に嫌な奴という感じがする。口ぶりは慇懃だが、言ってる内容は因業大家の開き直りである。ところが、生徒の反応は、クラスの5分の1くらいがBを支持するという。驚きである。全体の傾向は、約半数がAを支持、約5分の1がBを支持、残りがわからない・まだ決まらないというところだった。

2問目については、原告支持が約6割、被告支持が約2割、残りがわからない・まだ決まらないというところ。

・外国人お断りのアパート


 日本では、「外国人お断り」の営業方針をしているアパートやホテルが多く、しばしば社会問題になっています。また、「外国人お断り」の営業をしていた北海道小樽市の温泉をめぐっては、その営業方針が差別にあたるかどうか裁判で争われたこともあります。この背景として、日本には、国籍・人種・民族による排除を規制する法律がなく、経営者の判断にゆだねられているという現状があります。とりわけ外国人お断りのアパートは、日本ではなかば慣習化しているほど多く、留学生や外国人労働者が部屋探しに困っているという話をしばしば耳にします。はたして、外国人お断りの営業方針をとっているアパートは、差別にあたるのでしょうか。それとも社会的に許容できる範囲の制限なのでしょうか。次のAとBを参考にして、あなたの考えをすじみちだてて述べなさい。


A 差別的である。
 逆の立場を想像してほしい。あなたがロンドンやパリやニューヨークの大学へ留学したとする。部屋を探そうと地元の不動産屋をあたってみたところ、「日本人お断り」「東洋人は我々と生活習慣が違うから部屋を貸したくない」とことごとく断られてしまった。きっとあなたは自分が見下されたような気分になるはずだ。また、そういう排他的な社会のあり方に対して、「なんて西洋人は傲慢なんだろう」と憤りを感じるのではないだろうか。日本社会が外国人留学生や出稼ぎ労働者に対して長年行ってきたことは、それと同じである。こうした外国人お断りのアパートが社会の中で許容され、なかば慣習化している状況は、多くの日本人が差別の問題にあまりにも無神経であることのあらわれといえるのではないだろうか。
 欧米でも、1960年代までは、人種・民族・国籍を理由に特定の人々を排除するアパートやホテル、レストランは数多く存在した。1960年代には、ロンドンの町中でも、「アラブ人、ムスリム、入店お断り」と張り紙をしたレストランをしばしば見かけたという。しかし、1960年代半ばにアメリカで公民権運動が高まるにつれて、こうした状況は世界各国で大きく変化した。国連でも人種差別撤廃条約が採択され、人種・民族・国籍を理由に排除する営業は各国で取り締まりの対象となり、姿を消していった。現在、外国人お断りのアパートが野放しになっているのは、先進国の中で日本だけである。
 たしかに生活習慣が大きく違うことは、住民同士のトラブルの元になりやすい。しかし、それは住民同士のコミュニケーションやルールづくりによって解決すべきものであり、外国人の排除を正当化する理由にはならない。個人個人を見ようとせず、「外国人」というだけではじめから排除してしまおうとする発想は、それ自体、きわめて差別的である。


B 社会的に許容できる範囲の営業形態であり、差別とまではいえない。
 ほとんどの大家さんは、外国人を見下しているわけでもないし、嫌っているわけでもない。ただ、生活習慣が異なる外国人が入居することで、住民同士のトラブルがおきることや部屋を汚されることを心配して、入居を制限しているだけである。そこには営業上の合理性があり、差別とはいえないはずである。
 また、現在の日本では、外国人の入居を受け入れているアパートは少ないため、外国人を受け入れたアパートでは、外国人ばかりが固まって暮らしているという状況になりやすい。さらに、出かせぎで来日した外国人の場合、低賃金労働で生活が不安定なため、ひとつの部屋に数人で暮らしているケースも多い。アパートがこのような状況になってしまうと、日本人のほうが入居を敬遠するようになってしまう。アパート経営は、人助けではなく、あくまでも利益を目的にした経済活動のひとつである。そのため、安定した家賃収入を得られる日本人入居者を優先する営業方針は、ある程度しかたないのではないだろうか。
 たしかに住民同士のコミュニケーションによって、文化や言葉の壁を越えられればそれにこしたことはない。しかし、それは口で言うほど容易なことではない。言葉が通じずにトラブルがこじれてしまうこともあるだろうし、生活習慣や考え方のちがいから、互いが納得できるルールがなかなか作れないことも多い。こうした状況を避けるため、あらかじめ外国人の入居を規制するやり方には、合理性があるといえるのではないだろうか。

「外国人だから」と宿泊拒む 倉敷のビジネスホテル
朝日新聞 2007年05月17日06時53分
 岡山県倉敷市内のビジネスホテルで4月、広島市在住の中国人男性(45)が、外国人であることを理由に宿泊を拒否されていたことがわかった。旅館業法では、伝染病患者であることが明らかな場合や賭博などの違法行為をする恐れがある場合など以外は宿泊拒否は認められておらず、同市は男性に「不愉快な思いをさせた」と謝罪した。同市は市内の宿泊施設に外国人を理由に宿泊拒否をしないよう周知徹底を図る、としている。
 中国人男性は4月3日夜、最初に訪れた倉敷市内の別のホテルが満室だったため、ホテルの従業員が電話でこのビジネスホテルに空室があることを確認してくれた。しかし、従業員を通じて「外国人は泊めないと言われた」と伝えられた。
 男性がビジネスホテルを訪れて真意をただしたところ、フロントで支配人の男性(70)に「外国人は泊めないのが方針」と言われ、宿泊を拒否されたという。
 男性から話を聞いた知人が数日後、同市の外郭団体の倉敷観光コンベンションビューローに相談し、同市が事実関係を確認。市国際平和交流推進室が4月中旬、「国際観光都市として売り出している中、不愉快な思いをさせて申し訳ない」と電話で男性に謝罪した。
 同ビューローも加盟施設あてに5月7日付で指導の徹底を求める注意喚起の文書を送付した。
 日本で仕事をしている男性は日本語に不自由はなく、「日本人が同じことをされたらどう思うか。非常に心外だし改善してほしい」と憤っている。一方、宿泊を拒んだビジネスホテルの支配人は「外国人客は言葉などの面で対応しきれずお断りしている」と話し、今後も外国人の宿泊を断るという。


・東京都外国籍職員訴訟


 1990年代半ば、東京都の保健所に勤務する在日韓国人二世の女性が、国籍を理由に都の管理職試験が受けられないのは、法の下の平等職業選択の自由を侵害しているとして、東京都を提訴するという裁判がありました。この行政訴訟は長期化し、2005年に最高裁判決が出るまで十年以上にわたって争われました。事件の経緯、原告・被告の主張、各裁判所の判決は次のようなものです。


【事件の経緯】
 在日韓国人2世の女性、鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さんは、1988年から保健師として東京都の保健所に勤務してきた。6年間保健所で働いてきた経験を生かし、管理職として保健プランを立てたいと思うようになり、1994年に都の管理職試験を受験しようとする。
 ところが、鄭さんは都から日本国籍のないものには管理職の受験資格がないとして門前払いを受ける。東京都の見解は、管理職のすべてと一般事務職・一般技術職については、公権力の行使や公の意思の形成にかかわる立場なので、日本国籍をもたない職員がつくのは認められないというものだった。つまり、都の管理職職員は東京都の行政のかじ取りをする立場なので、国籍による制限を設けるのは独立国としての基本原理だという。日本政府や東京都は、この考え方を「当然の法理」と呼んでいる。
 しかし、鄭香均さんはいままで保健師として働いてきた経験上、国籍が業務の障害になったことはない。東京都が主張する「当然の法理」に納得できない鄭さんは、東京都の方針を在日外国人に対する平等権と職業選択の自由を侵害するものだして、1994年に東京都を提訴、行政裁判で管理職試験への国籍条項の撤廃が争われることになった。


【原告・鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さんの主張】
保健師として都の保健所に勤務してきたが、国籍が業務の障害になったことはない。
・保健所の役割は地域の健康促進や感染症の予防対策をおこなうことであり、保健師の管理職に国籍条項を 設ける合理性はない。
・都が主張する「当然の法理」は法律の規定ではなく、具体的にどのような職種かも定められていない。
    ↓
 正当な理由のないまま国籍による制限を設定し、外国籍職員から受験機会をうばうことは、憲法に規定された平等権と職業選択の自由への侵害である。
    ↓
 よって、東京都の管理職試験における国籍制限は差別であり、撤廃すべきである。


【被告・東京都の主張】
・都の管理職は、政治的な決定をし、公権力を行使する立場にある。
・日本が独立国である以上、公権力を行使し、社会の舵取りをするのは、国籍保有者に限られる。
    ↓
 このことは憲法に記すまでもなく、独立国としての基本原理である =「当然の法理」
    ↓
 よって、国籍による都の管理職試験への制限は合理的なもので、差別ではない。


【判決】
第1審 東京地裁 都の主張を支持、鄭香均さんの訴えを棄却する。
   ・国籍による制限は、行政による裁量権の範囲内。
     → 憲法違反とまではいえない。
第2審 東京高裁 逆転判決。原告・鄭香均さんの訴えが認められ、都に損害賠償の支払いが命じられる。
   ・保健所の管理職を「公権力を行使する立場」と見なすのは拡大解釈。
     → 憲法の保障した法の下の平等(平等権)と職業選択の自由への侵害に当たる。
最高裁判決(2005年大法廷) 被告・都側の主張を支持。鄭香均さんの訴えを棄却する。(13対2)
   ・国籍による制限は、行政による裁量権の範囲内。
     → 憲法違反とまではいえない。


 原則論から判断すると、国家としての独立性を保つためには、公権力を行使し、社会の舵取りをするのは、日本国籍保有者に限られるとする都側の主張には合理性があるように見えます。しかしその一方で、日本で生まれ育った鄭さんのような人まで「外国人」とひとくくりにして排除してしまうのは、現実にそぐわないようにも見えます。また、内閣総理大臣や外交官のような国の利益を代表する立場に国籍の制限を設定するのはわかりますが、保健所の管理職を「公権力を行使し、社会の舵取りをする立場」と見なすのは、拡大解釈のようにも見えます。あなたがこの行政訴訟の判事だとしたら、どのように判断しますか。あなたの考えをすじみちだてて述べなさい。

外国籍職員の昇任試験拒否、大法廷で憲法判断へ 最高裁
朝日新聞 2004.9.1
 日本国籍がない職員に対し、東京都が管理職昇任試験の受験を拒んだことの当否が争われた訴訟をめぐり、最高裁第三小法廷(藤田宙靖裁判長)は1日、今月28日に開く予定だった弁論を取り消し、15人の裁判官全員で審理するよう、事案を大法廷に回付した。小法廷がいったん決めた弁論の開催を撤回し、改めて審理を大法廷に回すのは異例。公務員の採用や管理職登用で国籍条項が全国的な議論になるなか、最高裁全体として見解を示し、憲法判断をする必要があると考えたとみられる。
 上告された事件は、三つある小法廷のいずれかで審理され、多くはその場で決着がつく。しかし、(1)判例を変更する場合や新しい憲法判断、違憲判断をする場合(2)小法廷の裁判官の意見が分かれ、決着がつかない場合(3)重要な事案のため、大法廷で審理をして判例を残した方がふさわしいと判断した場合――には大法廷に回付される。  この訴訟をめぐり、第三小法廷は今年6月、双方の主張を聴く口頭弁論を今月28日に開くと決め、関係者に通知した。下級審の判断を維持する場合には弁論を開く必要がないため、「法の下の平等職業選択の自由を定めた憲法に違反する」との判断を示した二審・東京高裁判決を見直すとみられていた。
 しかし、今回、大法廷に回付されたことで、審理は最初からやり直されることになる。
 訴訟の原告は、東京都の保健師在日韓国人2世の鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さん。
 鄭さんは88年に採用され、94年に課長級以上の昇進資格を得るための管理職選考試験に申し込んだ。しかし、日本国籍が必要として拒まれたため、受験資格の確認と200万円の損害賠償を求めて提訴した。
 96年の東京地裁判決は「憲法は外国人が国の統治にかかわる公務員に就任することを保障しておらず、制限は適法」として請求を退けた。しかし、二審・東京高裁は97年、「外国籍の職員が管理職に昇任する道を一律に閉ざすもので違憲」との判断を示して一審を覆した。
 鄭さんの代理人を務める金敬得(キム・キョンドク)弁護士は「二審判決を根本から覆すような、時代の流れに逆行する判決は出ないと期待している」と話した。


外国籍職員訴訟、昇任試験拒否は合憲 都側が逆転勝訴
朝日新聞 2005.1.26
 日本国籍がないことを理由に東京都が管理職試験の受験を拒否したことが憲法の保障した法の下の平等に違反するかどうかが争われた裁判の上告審で、最高裁大法廷(裁判長・町田顕長官)は26日、「重要な決定権を持つ管理職への外国人の就任は日本の法体系の下で想定されておらず、憲法に反しない」との初判断を示した。その上で、都に40万円の支払いを命じた二審判決を破棄し、原告の請求を退ける逆転判決を言い渡した。原告側の敗訴が確定した。
 原告は、都の保健師在日韓国人2世の女性、鄭香均(チョン・ヒャンギュン)さん(54)。都に対して、慰謝料の支払いなどを求めていた。外国籍の人の地方公務員への採用や管理職登用の動きは全国で広がりを見せる一方、採用職種や昇進を制限する自治体もなお多数を占めている。判決はこうした制限を結果的に追認し、自治体の裁量を幅広く認めるものとなった。
 多数意見は13人の裁判官による。これに対し、2人の裁判官がそれぞれ、「外国籍の職員から管理職への受験機会を一律に奪うのは違憲だ」と反対意見を表明した。
 外国籍の人が地方自治体の公務員になれるかどうかについて法律には規定がなく、公務就任の範囲をどこまで認めるかが争点となった。
 多数意見はまず、「職員として採用した外国人を国籍を理由として勤務条件で差別をしてはならないが、合理的な理由があれば日本人と異なる扱いをしても憲法には違反しない」と述べた。
 今回の受験拒否のケースが合理的かどうかを判断するうえで多数意見は、地方公務員の中でも住民の権利義務を決めたり、重要な政策に関する決定をしたりするような仕事をする幹部職員を「公権力行使等地方公務員」と分類。これについて「国民主権の原理から、外国人の就任は想定されていない」という初めての判断を示した。そのうえで、こうした幹部職員になるために必要な経験を積ませることを目的とした管理職の任用制度を自治体が採用している場合、外国籍公務員を登用しないようにしたとしても合理的な区別であり、憲法が保障した法の下の平等には違反しない、と結論づけた。
 これに対し、滝井繁男裁判官は「都の職員に日本国籍を要件とする職があるとしても、一律に外国人を排除するのは相当でなく違憲だ」と反対意見を表明した。
 泉徳治裁判官も「在日韓国・朝鮮人特別永住者地方自治の担い手で、自己実現の機会を求めたいという意思は十分に尊重されるべきだ。権利制限にはより厳格であるべきなのに、今回の受験拒否は合理的な範囲を超えたもので法の下の平等に反する」と述べた。 (01/26 22:05)

Baseball is fun


地球の反対側でやっていた野球のワールドシリーズは異様に盛り上がって幕を閉じた。第6戦の試合後、スタンドの観客たちが夢でも見ているような表情でいつまでも立ちつくしていたのが印象的だった。中西部の田舎対決だったため、アメリカのスポーツメディアとしては盛り上がりがいまひとつだったのかも知れないけど、「フィールド・オブ・ドリームス」の舞台がアイオワのトウモロコシ畑だったように野球は田舎町のほうが似合う。そういう意味で「ワールドシリーズ」の名称は、自虐的なユーモアのように思える。野球は他のプロスポーツとくらべてスペクタクルの要素が圧倒的に少ない。ゆったりとした試合のテンポも、運の要素が大きくて勝ったり負けたりの試合展開も、7回裏に観客みんなで合唱する「野球場へ連れてって」のメロディーも、妙に叙情的で郷愁をさそう。たぶんアメリカ人にとってはなおさらだろう。野球はいま見ているのに想い出の中にいるような錯覚をおぼえる。私はテレビ中継を見ながら、こどもの頃に近所の友達とやったキャッチボールのことやはじめて打った三塁打のことを思い出していた。きっとセントルイスの住人たちは、20年後に2011年のワールドシリーズがいかにすごかったかをこどもたちに得意げに話して聞かせるはずである。日本のプロ野球が人気を失ったのも、幼いころから野球の英才教育を受けてきたスポーツエリートたちがドーム球場の無機質な空間で試合をする様子に叙情性を感じられなくなったからではないかと思う。


CSで映画版の「がんばれベアーズ」を放送していた。物語はウォルター・マッソー扮する少年野球の監督がグラウンドに現れるところからはじまる。彼はグラウンドの駐車場へ到着するなり、古ぼけたオープンカーの車内で缶ビールにウィスキーを混ぜてぐびぐびと飲み始める。人生万事投げやりといった感じ。70年代のアメリカ映画にしばしば登場するこういううらぶれた連中が私は大好きである。彼はマイナーリーガーくずれの中年男で、夢も将来の展望もないまま、いまは金持ちの家のプール掃除をしてその日暮らしをしている。一方、グラウンドに集まったこどもたちも、デブ・チビ・いじめられっ子にオタクと野球経験ゼロの連中ばかりでキャッチボールもろくにできない。監督のウォルター・マッソーは指導料さえもらえれば後はどうでもいいという調子で、「まあポジションは好きな場所をてきとうに守ってろ」とどこまでも投げやりに言う。当然、試合はまったく勝てない。ひと試合目はいきなり地区の優勝候補にあたってしまい、一回表、ワンアウトもとれないまま30点も取られてどうにもならならずに放棄試合。ふた試合目はどうにか六回までこぎつけたものの20対0で大敗。少年野球ものの基本はだめだめチームである。少年野球はこうこなくっちゃいけないのである。ほら、リトルリーグのこまっしゃくれたガキんちょたちが6-4-3のダブルプレーをそつなくこなしてもちっとも可愛くないでしょ。鍛えられてるなあとは思っても、そこからなにか物語を思い描くことはできない。物語っていうのは、だめだめ連中が自分たちのだめさ加減を突きつけらるところからはじまるのである。で、こてんぱんに負けたベアーズの面々は、グラウンドでも学校でもさんざんバカにされてすっかりやる気をなくしてしまう。ふてくされた調子で口々に野球なんかもうやってらんねえよと言いだす。ウォルター・マッソーはこどもたちのあまりのふがいなさに頭にきたのか、ここで突如として鬼監督へ豹変する。練習もしないくせに文句ばかり言うこどもたちに檄を飛ばし、「おまえたち、このまま終わっていいのかよ」とせまる。で、だめだめボーイズの猛特訓がはじまるのかと思いきやそうはならない。ここが「がんばれベアーズ」の不思議なところで、彼はキャッチボールもできないような連中をいくら鍛えたところでどうにもならないとふんだのか、手段を選ばずにとにかく試合に勝つことだけを優先させはじめる。まず子役時代のテータム・オニール扮する野球の天才少女に声をかけ、「野球なんてこどもの遊びもう卒業したわ」と色気づいて嫌がる彼女を説き伏せ、無理矢理チームのエース投手に据えてしまう。さらに、運動神経抜群だけど町一番の不良少年もテータム・オニールの色仕掛けでチームに引っ張り入れる。


野球はエースピッチャーとスラッガーがひとりずついれば後はどうにでもなるので、ベアーズはいきなり快進撃をはじめる。テータム・オニールは剛速球と猛烈に曲がるカーブをびしびし決め、不良少年は試合のたびにホームランを連発する。さらに外野にあがった打球はすべてセンターを守っている不良少年に捕らせるよう指示する。ベアーズは快進撃をはじめるものの、当然、こんなやり方では勝てば勝つほどチームのムードは険悪になっていく。そしてリーグの優勝を決定する最終試合、再び優勝候補のチームと対戦することになる。最初の試合でワンアウトもとれないままこてんぱんに負けた相手である。相手チームの監督は、ウォルター・マッソー以上に勝つためには手段を選ばない。三振したこどもを怒鳴り飛ばし、エラーしたこどもには口汚く罵る。さらにはラフプレーまで指示をする。ホームのクロスプレーでバックアップに入ったテータム・オニールは、相手のスライディングをまともに受けてしまい、スパイクで怪我してしまう。ここでベアーズのこどもたちは一斉に飛び出してくる。いままで女がうちのエースだなんてやってらんねえよと悪態をついていたこどもたちも飛び出してきて、みんなで彼女をかばおうとする。グラウンドは両チーム入り乱れて大乱闘。いままでばらばらだったベアーズはこの乱闘騒ぎでついにひとつにまとまる。ここはなかなかいい場面で、ジャッキー・ロビンソンドジャースの白人選手たちに受け入れられるきっかけになった乱闘事件を連想させる。そして試合は2対2の同点のまま最終回を迎える。監督のウォルター・マッソーはこどもたちを集めてこう言う。「俺が間違ってたよ、野球はみんなでやるもんだ、今日はいままで試合に出られなかったやつも全員打席に立とう、これが今年最後の試合なんだから」。代打に出た小さい子たちは誰も打てない。その裏、怪我をしたテータム・オニールにかわってマウンドに立ったメガネくんは逆に打ち込まれてしまい、ベアーズはサヨナラ負けでリーグ優勝を逃す。でも、ベアーズのこどもたちは、勝った相手チームの子よりうれしそうに笑っている。相手チームの子たちは、最後まで監督にがみがみ言われてしょんぼりしている。彼らは試合には勝ってもカタルシスはない。一方、ベアーズのデコボコ連中はみんな野球が大好きになったという様子でうれしそうに笑っている。映画はそうして笑ってる彼らの記念写真でラストシーンを迎える。デコボコ連中は最初から最後までぜんぜん野球が上達していないので、そんなに満ち足りた顔をしてていいんだろうかという気もするけど、これはひとつの野球チームができるまでを描いた物語だと思えば納得できる。勝ったり負けたりが野球なので、むしろ少年ジャンプ的上昇スパイラルは野球の物語には似合わない。野球が好きになった彼らは、きっと来シーズンも「保釈金ローン」のスポンサーロゴをつけて、勝ったり負けたりふてくされたりしながら野球をつづけるはずである。記念写真の中で笑っている彼らは、そんな来シーズンを予感させつつ物語は幕を閉じる。

ガングロ・ギャル


中間試験の採点をする。めんどくさいなあと思いつつ渋々やっているのでちっともはかどらない。こういうときに限って、地球の裏側でやっている野球の試合がやけに気になったり、ラスベガスの弁護士ドラマを見逃してはいけないような気がしたり、ペンギンがぐるぐる回ってるアニメが突如として傑作に思えたりするのだった。

今回の出題で気に入ってるのはガングロギャルを題材にしたこれ。生徒も職員も誰もほめてくれないが、わりとうまく書けたように思う。もっとも、システムにしたがってやっている定期試験とはいえ、うまくいかないときに文句を言われるだけの職場環境では、なかなか労働意欲は維持できないのである。浮世の渡世は辛うござんす。

 高度経済成長期と現在のライフスタイルの変化について、次の文章を読み、文中の〔 〕にあてはまる語句の組み合わせとして正しいものを下の選択欄から選びなさい。


 高度経済成長期の日本は社会全体が大きな村のような状況であり、人々は世代や性別を越えて同じ大衆文化を共有していた。若者と年長者が同じ流行歌を口ずさみ、プロ野球の人気チームや人気力士の活躍に一喜一憂する光景がしばしば見られた。大晦日の「NHK紅白歌合戦」のテレビ視聴率は、1963年には、81.4%にも達している。「巨人・大鵬・卵焼き」がこどもたちに人気だったのもこの頃である。
 地域社会における近所づきあいは、現在よりも〔 A 〕で、人目を気にする意識が社会規範であり、「そんなことしたら人から笑われるよ」というのがこどもをしかる際のきまり文句だった。そのため、人々には「人なみでありたい」という意識が強く、消費活動においても、隣人がテレビを購入すればわが家も、隣人がクルマを購入すればわが家もという横並びの現象が生じた。そうした中には、お隣がテレビを買ったのに、うちはお金がなくて買えないから、テレビもないのに見栄をはってアンテナだけを屋根にたてたという笑い話まで残っている。このような人なみでありたいという意識が、昭和30年代の「三種の神器」や昭和40年代の「新三種の神器」といった横並びの消費行動をもたらし、高度成長期の日本に「一億総中流化社会」と呼ばれる社会状況をつくりだした。この場合の「中流」は、ヨーロッパ社会における「ミドルクラス」とはまったく異なり、ある特定の社会階層のことではなく、人なみでありたいという願望がつくりだした幻想の中の平均的日本人像といえる。
 現在の日本社会では、様々な情報や商品があふれ、社会全体としては人々の好みは〔 B 〕している。そのため、高度成長期のころとは異なり、むしろ〔 C 〕なライフスタイルを求める傾向が強い。書店には様々な種類の雑誌がおかれ、人々の多様な好みに合わせて〔 D 〕された誌面づくりがおこなわれている。しかしその一方で、同じ価値観を共有する小集団内では、〔 E 〕がすすむ傾向にある。これは情報化社会が高度に発達したことで、マスメディアやインターネットを通じて、小集団内での価値の共有化がすすんでいるためである。近年、しばしば用いられるようになった「〜系」という言葉は、こうした価値を共有する小集団のことを表しており、外部の者にはきわめて奇妙に見える風俗や慣習であっても、その集団内では決まり事にそっておこなわれている。そこでの同調圧力は強く、互いに仲間同士のまなざしや評価は常に気にかけている。この傾向は自分のライフスタイルが確立していない〔 F 〕ほど強い。現在の日本社会には、こうした小集団が無数に存在し、それは閉じた小宇宙のように互いにすれ違いながら、好みや考え方の〔 G 〕を社会の中に生み出している。


1990年代末に流行した「ガングロ・ギャル」(画像はWikipediaより)
 真っ黒に日焼けした肌と隈取りのように目のまわりを白く塗ったメイクが特徴。彼女たちのファッションは、当時の日本社会の中で飛び抜けて奇抜で個性的だった。たいていのおとなたちは、町をゆくガングロ・ギャルの奇抜なファッションに顔をしかめたが、彼女たちはまったく気にしなかった。彼女たちにとって、仲間以外の存在は町の風景とかわらなかったからだ。しかしその一方で、彼女たちは仲間内での評価には敏感に反応した。彼女たちの奇抜な服装やメイクも仲間内の約束事にそってパターン化されたものであり、ひとりひとりの区別がつかないほどみなよく似ていた。その意味では、きわめて没個性的といえる。文中の「閉じた小宇宙」の典型的なケースである。

ア. A 密接  B 画一化  C 個性的  D 絶対化  E 多様化  F 中高年  G 分断
イ. A 疎遠  B 多様化  C 普遍的  D 細分化  E 画一化  F 若者   G 連続
ウ. A 密接  B 多様化  C 個性的  D 細分化  E 画一化  F 若者   G 分断
エ. A 疎遠  B 画一化  C 個性的  D 集団化  E 多様化  F 若者   G 分断
オ. A 密接  B 多様化  C 普遍的  D 相対化  E 画一化  F 中高年  G 連続

リンゴのイデア

 先日、授業でプラトンイデア論について解説した。プラトンは、理性によってとらえられる永遠・普遍・絶対の概念こそがこの世界の本質であり、感覚によってとらえられる不完全で流動的な世界はその概念世界の影にすぎないという立場をとる。


 私はこのイデア論がどうしても理解できない。はじめてその考え方に触れた高校生のとき以来、ずっとわからないままである。たとえば目の前にある花を美しいと思う心の作用は、イデア論では次のように説明される。


目の前にあるひとつの花を「美しい」と感じる
         ↓
目の前の花を通じてイデア界に存在する「美そのもの」にふれたからこそ「美しい」と感じる
         ↓
永遠・普遍・絶対の概念世界であるイデア界がこの世界の本質である
         ↓
絶えず変化している感覚世界には完全なものは存在しない
         ↓
不完全な感覚世界はイデア界の影にすぎない
         ↓
感覚世界にある「美しい花」もイデア界にある「美のイデア」の影にすぎない
         ↓
人間の理性もまたイデア界にあるので、花を見てイデア界にある美の本質を想起することができる


 というしくみである。いかにもギリシア的な理性主義の世界像である。では、目の前にリンゴがひとつあるとする。赤くて丸くてつやつやしており、見るからに美味しそうなリンゴである。このリンゴを見て「美味しそう」と思うのも、イデア界に「美味の本質」があり、我々は目の前のリンゴを通じて、イデア界にある「美味の本質」を想起するからということになる。イデア界は永遠・普遍・絶対の概念世界ということになっているので、「美味のイデア」も個人な好みや文化的な差異を超えてすべての人にあてはまらねばならない。たとえ、生まれてから一度もリンゴを見たことのない人であっても、ひと目リンゴを見るなり「美味」を想起しなければならないはずである。アマゾンの密林で狩猟生活をしている人たちも、北極圏でアザラシ猟をしている人たちも、その赤くて丸い物体を見たとたんに「うまそう」と思わねばならないはずである。イデア界にある本質は理性によって想起されるものなので、文化や生活習慣をこえて誰もがその赤くて丸い物体から「美味」を想起するはずである。そんなことってありえるんだろうか。私にはひどくばかげた考えかたに思える。それはポリスの市民以外をすべて理性の欠如したバルバロイと見下していた連中の傲慢な世界像ではないのか。わざわざリンゴをアマゾンの奥地や北極圏へ持って行って検証してみようという気がまったくおきないくらい、ばかげている。


 また、プラトンはしばしば幾何学を例にあげ、幾何学的概念がイデア界に存在することを主張する。中期の著作である国家論では次のように語られている。

「それなら、つぎのことも知っているだろう?彼ら(幾何学の研究者)は、目に見える形象を補助的に使用し、この形象について論証をおこなうのであるが、彼らが思考をはたらかせて知ろうとしているのは、これら目に見える形象のことではなくて、これらを類似物とする原物についてなのだということは。つまり彼らは、そこに描かれている四角形や対角線のために論証をおこなっているのではなくて、四角形そのもの、対角線そのものを論じているわけであり、その他の場合もまた然りである」
            世界の名著7・プラトンII 中央公論社 より

「それ(幾何学)が知ろうとするのは、つねに<あるもの>のそれであって、特定の時に特定の形で生成したり、亡びたりするものの認識のためではないという点だ」
「それは、誰だってすぐに承認するでしょう。幾何学が認識するのは、つねに<あるもの>のそれですからね」
「したがって、すぐれた友よ、それは魂を真実性へと引っ張っていくものだ、ということになろう」
            世界の名著7・プラトンII 中央公論社 より

 「つねに<あるもの>のそれ」ねえ。ひどい文章だが、言ってることは要するに、砂の上や紙の上に描かれた「平行」は、どんなに慎重に線を引いても完全ではないが、我々は完全な平行を概念として思い描くことができる。また描かれた「円」は、コンパスを使ってどんなに慎重に描いても歪んでいるが、我々は完全な正円を概念として思い描くことができる。それは「平行」や「円」の概念がイデア界に「あらかじめ存在している」からというわけである。太さをもたない「線」を概念化できるのも、面積をもたない「点」を概念化できるのも同様である。しかし、数学は一種の言語であり、記号化された抽象世界である。平行線が永遠に交わらないのも、正円の曲率が完全に一定なのも、そういう約束事になっているからにすぎない。だから、数学的記号として完全な概念があるからといって、感覚世界の事物についても同様に完全な概念を思い描けることは意味していない。砂の上に描かれたいびつな円から完全な円を思い描けるからといって、リンゴを見て同じように「完全なリンゴ」の概念を思い描けるわけではない。経験世界の事物については、赤いリンゴ、青いリンゴ、黄色いリンゴ、大きなリンゴ、小さなリンゴ、丸いリンゴ、いびつなリンゴ、虫食いのリンゴといった無数の個別のリンゴが思い浮かぶだけであり、抽象化された完全なリンゴの概念など存在しない。ひとつのリンゴを見て、「リンゴそのもの」も「美味そのもの」も想起するのは不可能であり、私には言葉遊びをしているようにしか見えない。


 私の理解はいつもここで止まってしまう。だから、プラトンイデア界と感覚世界との二元論の立場をとろうと、「善のイデア」こそが最高のイデアであり「イデアイデア」だと主張しようと、「今週のラッキーカラーはグリーン」と言われるのといっしょであり、だからなんだよとしか言いようがない。根拠を示さないでいいのなら、「この世界は9次元だ」とか「人間の心は12次元だ」とか「あの世は15次元だ」とか、怪しげな仮説はいくらでもたてられる。しかし、それらはどんなにもっともらしい言葉でディティールを補強しようと「今週のラッキーカラー」となんらかわらない。思想は言ったもん勝ちではないはずである。あまりにもわからないので、学生のころ、哲学の先生に上記のリンゴのたとえを説明しながら、プラトンがなにを根拠にイデア界と感覚世界の二元論の立場をとったのかを尋ねたことがある。するとその先生は怒りだし、オマエはテキストをありのまま理解しようとせず、はじめから批判的に解釈しようとするから的外れなことを言い出すのだという。たかが学部生の分際で偉大なるプラトン先生にケチをつけるなんて百年早いと思ったのだろう。1980年代半ばの大学は教授をヒエラルキーの頂点とするカースト社会で、私の周囲の学生たちは哲学研究室のことを「クレムリン」と揶揄していた。しかし、私はアカデメイアに入塾したおぼえはないし、プラトン教団に入信したわけでもない。私にとってプラトンの言葉はけっしてありがたい経典などではなく、どれほど偉大な思想家の著作だろうと、疑問や批判をぶつけながら自分の側に引き寄せて検証していかなければ、思想研究など時間の無駄である。「ああそうか!」と膝を打つような体験もなく、その考えにふれたことで目の前の世界が違って見えるような体験もなく、ただ思想史のカタログづくりをしているような研究など、じじいが盆栽にはさみを入れているのとかわらない。そう私が言うと、先生はさらに激怒し、大げんかになってしまったことがある。私はあくまで一般論としてそう言ったのだが、先生は自分への批判と受け止めたようだった。実際にその先生がじじいの盆栽いじりのような研究をしていたかどうかはわからないが、自分が間違ったことを言ってるとは思えなかったので、訂正も謝罪もしなかった。おかげでいまだにイデア論については納得のいかないままである。ただ、こうしたことをディスカッションしながら検証していくことこそ、哲学の授業のあるべき姿だという考え方はいまも変わっていない。思想は常に批判にさらされながら検証されるべきものであって、テキストをありがたい経典として祭り上げる行為はただの思考停止にすぎない。


 というわけで理解していない者に解説される生徒たちは災難である。生徒たちに悪いので、教科書の内容をひととおり解説した後、自分はイデア論を理解していないし納得もできないと白状し、このイデア論では、経験世界の事物がどのように概念化されると解釈できるのか生徒たちに尋ねてみたが、生徒たちもうーむという反応だった。理解していない者の解説を聞いて意見を求められても困るよというところなんだろう。彼らには申し訳ないかぎりである。

オーパ!

 テレビで、開高健の魚釣り回想録のような番組をやっていた。開高健は、晩年、「オーパ!」という魚釣り紀行のエッセイシリーズを続けていたが、番組では、当時の記録映像にかぶせて、それに参加した人たちが当時のエピソードや開高の人間性について語るという構成だった。


 開高健は陽気で冗談好きの愉快なおっさんだった。いっしょに酒を飲んだり魚釣りをしたりすればさぞや楽しいだろう。ただ、それだけの人間にしか見えなかった。博学というより衒学的、すぐれた洞察というより底の浅い半可通、彼の語る「文明」や「民族」や「野生」は、19世紀の西洋中心主義そのもので、その文明観から語られる日本人論はあまりにも粗雑で類型的だし、聞きかじった動物生態学の知識から人生訓を語る様子は似非科学そのものだった。その様子は、毒にも薬にもならず、19世紀的博物学の世界で遊んでいるだけの無邪気なおっさんでしかない。おそらくレヴィ=ストロースを読んだことすらないのだろう。ところが、番組に登場する人たちやナレーションは、そんな他愛のない開高健テーマパークを「巨大魚との死闘」「過酷な自然と向かい合う」「ただひたすら釣り竿を振る」「そこには人間性への鋭い洞察がある」と大げさな調子で持ち上げる。まるで川口浩探検隊サントリーのコマーシャルである。番組に登場した編集者は、そのまま文章になるような言葉がいくらでもあふれてくると彼の話し上手に驚嘆していたが、私には、深く考えていないからいくらでも言葉が出てくるようにしか見えなかった。学生時代に食堂でビールを一気飲みしてから、おもむろにレポートを書きはじめる奴がいたが、人間は思考力が低下したほうが饒舌になるのである。


 番組の冒頭で開高健ボードレールの「ここではないどこか」という言葉を引く。日々の暮らしが煮詰まったとき、たいていの人は「ここではないどこか」を思い描く。それは近代文学の普遍的なモチーフである。しかし、出版社や広告代理店の人間をぞろぞろ引き連れての大名行列でアマゾンのピラルクベーリング海のハリバットを釣り上げたところで、「ここではないどこか」へ彼がたどり着けたとは思えない。むしろ、それはどこまでもついてくる「いま・ここ」を確認するための作業だったはずだ。地球は丸く、地平線の彼方には、こことはちがう風景と人々の暮らしがどこまでも連続的に広がっている。西洋文明の外側には世界の果てがあると思っていた19世紀ヨーロッパの人間とは異なり、現代の我々にはもう逃げ場はない。社会システムの網の目は世界の隅々まで張り巡らされ、「いま・ここ」は、いつどこにいてもついてくる。開高健が「命がけで釣り上げた」ということになっているハリバット(オヒョウ)にしても、現代の市場経済においては、回転寿司で「ヒラメ」と称してぐるぐる回っているおなじみの寿司ねたにすぎない。そもそもハリバットと命がけで格闘しているのは、凍てつくベーリング海で生活のために日々網を引いている漁師たちのほうであり、彼の行為はそのごっこ遊びにすぎない。もし、開高健があの魚釣り紀行によって「ここではないどこか」への憧憬がかなえられると本気で思っていたのだとしたら、ずいぶんとおめでたい話である。

諸行無常


授業で原始仏教について解説する。日本の仏教は中国経由で輸入されたので、仏教用語にはやたらと四文字熟語が登場する。「諸行無常」や「諸法無我」のようなおなじみの用語から、「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」なんて耳慣れない用語まで、見てるだけで嫌になるようなおどろおどろしい四字熟語がこれでもかというくらい出てくる。おまけに教科書には憶えろと言わんばかりにそれらが太字で列記されている。しかし、重要なのはその概念のほうであって、漢字の字面ではない。そもそもゴータマは漢字文化圏の人ではない。


ゴータマの思想はいたって明快である。この世界は常に変化しており、不変の存在も単独で存在する実体もない。にもかかわらず、人はそれを直視しようとせず、永遠不変のものを求めようとする。しかし、それはどこまで行ってもかなえられることがないので、欲望は際限なくエスカレートし、かなえられない欲望が人に苦しみをもたらす。だから、執着を捨て、変わりゆく世界を直視して、受け入れろと言う。彼は弟子たちに神々に祈るなと説く。神々に長寿や幸福を願うことも欲望であり、現実から目を背ける行為だという。また、彼は私を拝むなと弟子たちに諭す。この世界の有り様を見つめることが悟りへの唯一の道であり、私を拝んでもなにも解決はしないと。「祈るな、よく見て考えろ」という彼の言葉は、信仰のあり方としてはあまりにも過酷だ。だが、原始仏教は信仰なんだろうか。彼は、目で見て、手で触れて、心で感じられるものがこの世のすべてであり、人間の知覚を超えた形而上の存在については、論じても意味がないという不可知論の立場をとる。だから、彼は奇跡も起こさないし、呪術も行わないし、神秘的な言葉であの世について語ったりもしない。神の奇跡も超自然的な力も存在しないこの世界で、無力な人間がよりよく生きていくためにはどうすればいいのかを言葉を積み重ねながら説いていく。よりよく生きるための思索は、今も昔も自らの無力さを自覚するところからはじまる。強く念じれば山を動かし雷を呼べるという全能願望をいだいているかぎり、よりよく生きる教えなど意味を持たない。古い教典がどこまでゴータマの言葉なのかはわからないが、そこから浮かび上がってくる人物像は、生まれたときに「天上天下唯我独尊」と言ったとか、座禅を組んで空中浮遊したとか、同時に何カ所にも存在したといった逸話とは相容れない。それらは彼を偶像化するために後に創作されたものだろう。ゴータマは奇跡をおこさないからこそ、すぐれた思想家なのだと思う。


ゴータマの平易で明快な言葉は、中国を経由するととたんにデコラティブな熟語で装飾される。「ニルヴァーナ」という心安らかな状態を表す言葉は、中国の学僧によって「涅槃寂静」というおどろおどろしいテクニカルタームに置き換えられ、すべての物事は互いに関連し合って存在しており、単独で存在する実体はないという概念は、「諸法無我」というもっともらしい四文字で表記される。それは中国の学僧たちによる知の囲い込みであり、権威づけである。さらにそれを輸入した日本では、漢字で書かれたものこそが「学問」であるという文化状況の中で、よりいっそう特権階級による知の囲い込みと権威づけがすすむ。庶民には理解できない漢文の教典は、教えの内容ではなく、権威によって「ありがたいもの・りっぱなもの」とされる。人々には意味がわからないのだから、教典の内容が密教神秘主義的な宇宙論を説いていようと、ふたりの妻をもつ男の顛末を語ったやたらと下世話な教訓話だろうといっしょであり、僧侶がしかめっ面をして難しい漢字のならんだお経をとなえれば、みなありがたいということになる。そうして、祈るなと説いたゴータマの教えは、言霊信仰の国で奇跡をおこす呪術と同化し、空海は神通力で山を動かし、日蓮は魔法の呪文で嵐を遠ざけ、やがて救いを求める祈祷となっていった。魔法の呪文はむずかしくてわからなければわからないほどありがたみが増す。だから、祈りの言葉は庶民には理解できない漢文の教典によってとなえられ、いまだにその慣習はつづいている。しかし、すべての人々の救済を目指すはずの教えが人々には理解できない言葉で説かれるというは、ずいぶんと人を馬鹿にした話である。


同じことは中世カトリック教会の説教にもあてはまる。祈りの言葉は庶民には理解できないラテン語でとなえられ、信仰と知識は特権階級によって囲い込まれた。人々には言葉がわからないのでやはり話の内容は関係ない。権威主義によるこけおどしが「ありがたみ」という劇場のイドラを演出する。教科書のやたらめったらテクニカルタームを太字で表記する手法も、そうした愚民思想の末裔に見える。憶えろと言わんばかりに用語が太字で表記された文章は、かえって内容の理解をさまたげる。重要なのは概念の理解であり、テクニカルタームは理解のための補助にすぎない。本来ならば概念の解説こそ太字で表記されるべきで、テクニカルタームのほうは、豆知識として下に小さく注釈をつけておけばいいという程度のもののはずである。ましてや入試問題で、それをあらわす四文字熟語を正しく漢字で書きなさいなどという出題を見かけると、その志の低さにめまいがする。そういう出題者は、大学をやめてクイズ番組のライターにでもなったほうがふさわしいのではないかと思っている。

4回目の車検


無駄にでかくて乗ってると少々後ろめたい気分になるうちのバイクも7年目に突入し、4回目の車検がやってくる。1985年製なのでもうすぐ30歳である。車検は5日前にネットで予約をして、自分で立川の検査場へ持ち込んで検査を受ける。自分が乗るものはなるべく自分で状態を把握しておきたいので、特殊工具が必要な作業以外、基本的に修理と整備は自分でやるし、車検も自分で受けることにしている。車検場での検査内容は、左右ウィンカーの点灯確認、ブレーキランプの点灯確認、車体番号と原動機番号の確認、ハンドルロックの確認、前後ブレーキの制動テスト、40km/hのスピードメーターのテスト、ヘッドライトの光軸点検、それだけ。検査時間は約15分。ユーザー車検も4回目で手続きにも慣れた。検査も書類手続きもとくに問題なく終了し、新しい車検証をもらって帰る。費用は自賠責保険14100円+書類代20円+重量税の印紙代6700円で合計20820円也。


ただ、車検のたびにいつももやもやした気分になるのは、車検に合格したからといってバイクの安全性が少しも保証されたわけではないことだ。たとえばサスペンションがへたってまっすぐ走らないような車体であっても、あるいはちょっと渋滞に巻き込まれたら冷却水を吹き上げるようなエンジンであっても、上記の検査さえ合格すれば、新しい車検証が交付される。もちろん、整備不良が原因で交通事故をおこしても、陸運局は一切事故の損害賠償をしてくれない。では、いったい何のための車検制度なんだろう。飛行機やエレベーターや遊園地のジェットコースターが整備不良で事故をおこした場合、必ず検査会社の責任が問われる。ところが、自動車の場合、整備はユーザーの「自己責任」ということになっており、整備不良で事故をおこしても車両検査を担当した陸運局の責任が問われることはない。整備がユーザーの「自己責任」なのに、公的機関が車両の状態を定期的にチェックしてお墨付きを与えるというのは、ひどく矛盾しているように見える。権限と責任は常に対の関係でなければならないはずである。役所が車両の安全性にお墨付きを与えるのなら責任も負うべきだし、役所が責任を負うつもりがないのなら、安全検査を人々に科す権限はないはずである。排ガス検査は公共性の点から意義を認めるが、それ以外の整備不良は警察の取り締まりで十分ではないのか。車検場からの帰り道には、いつもそのことが引っかかる。


うちのボロバイクはいまステアリングヘッドに違和感があって、車検を通した後で、ベアリングを打ち替える予定である。正確にいうと、車検のためにステアリングのオーバーホールを先送りにしたわけである。まったくもって本末転倒だと思う。


*各国の車検制度については、こちらで紹介されている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1414485964
http://www.spin.ne.jp/~sibuya-auto/syaken/kensaseido.html
http://blog.zaq.ne.jp/citroensm/article/505/#BlogEntryExtend


午後、新しい液晶テレビが到着。これでようやく我が家のテレビもデジタル化されたわけだが、うちは地デジ用のUHFアンテナを建てていないので、まるっきりCS放送専用である。デジタル化で地上波にもコピープロテクトがかかるようになったので、ニュース映像を授業の資料用に編集することもできないし、もはや屋根に登ってアンテナを建てる気力もわかない。説明書によるとLANにつなげばYouTubeも見られますとのことだが、YouTubeの動画をテレビの大きなモニターで見て何かいいことってあるんでしょうか。

気になる言葉

AKB48
アキバ系のおにいさんたち限定のアイドルグループからいつの間にか全国区になった。私のような芸能情報に疎いものには、飛躍のきっかけがなんだったのかさっぱりわからないが、いまや小学生の女の子たちにもあこがれの存在らしい(*はい出典)。それよりも「AKB48」と聞くたびに、私はロシア製のカラシニコフ銃を連想してぎょっとする。命中率は悪いけど頑丈で壊れにくいと評判になって大量に出回るようになったあれである。現在もアフガンやアフリカの紛争地でたくさん使われており、ニュース映像の中のひげもじゃのタリバン兵やひげもじゃのダルフール民兵カラシニコフ銃を抱えているのをしばしば目にする。アイドルグループとしてはやけに物騒な名前で猛烈にマイナスイメージだと思うんだけど、みなさん気にならないんでしょうか。

Wikipedhia「AK-47」
http://ja.wikipedia.org/wiki/AK-47


「癖のある人」
十年くらい前、年配の教師と茶飲み話をしている際にこの言葉をはじめて聞いた。なくて七癖、どんな人もひとつやふたつ奇妙な習慣を持っている。なので、癖のある人というのは、個性的な人、人とは違う見かたのできる人、侮っているとときどき物事の本質を突いくる人、油断できない人、味のある人、くせ者、くらいの意味で受け止めていた。「人と同じことをするな」と言われて育った私にとって、ちょっと変わった人というのは基本的にプラスに評価されるべき存在である。しかし、どうも話がかみあわない。相手はあきらかに「癖のある人」をつきあいにくい人、人格的に多少の難を抱えている人という意味で用いている。慣れないと運転しにくいクルマを「癖のあるクルマ」といったりするが、人間に対して同様の意味で用いているのを聞いたのはこれが最初だった。たぶん私も裏でそう言われているんだろう。その後、数回、同様の意味で「癖のある人」「あの人は癖がある」といっている人に出会った。でも、なくて七癖なら、誰にでも癖のひとつやふたつあるんじゃないの。


「わけわかんねー」
やはり十年くらい前に高校生が言っているのをはじめて聞いた。彼らは「わっけわかんねええぇ!」とやたらと力強く発する。たぶんテレビの芸人が言ってるのをマネしたんだろう。私はその言葉を「自分はバカだからさっぱり理解できない」と嘆いているのだと解釈し、そんなに自分の愚かさを力いっぱい表明しなくてもいいんだよとなぐさめたが、さっぱり話がかみあわない。どうやら自分の理解力の欠如を嘆いているのではなく、自分に理解できないことを言う相手を責めているらしい。彼らにとって自分が理解できないのは相手が悪いのである。しかし、批判の言葉として「わけわかんねー」というのは、あまりにも控えめな表現である。「それは君がバカだからわからないんだよ」と返されたら、それで話が終わってしまうじゃない。もし、くだらねえこと言ってんじゃねえよと思ったのなら、はっきりそう言ったほうがいいと思うんだけど、きっと現代の若者たちは謙虚なんだろう。


「うちの奥さん」
昔、私の母は、客人から「ねえ、奥さん」といわれると、「うちにはそんな上等なのはいませんよ」と返して客人といっしょに笑っていた。自分を偉そうに見せるのを嫌うのが東京の下町の人間の美意識らしい。そういう親に育てられたせいか、自分の身内に敬語を使う人に出くわすと、その家意識の強さにぞっとする。この間はとうとう「うちのわんちゃんが去年亡くなって」と自分ちの犬にまで敬語を使っている人に出会った。そんなときには「私はあなたの家の使用人になったおぼえはありません」と返したくなる。身分制に由来する尊敬語や謙譲語はたんなる丁寧表現とは異なり、立場の上下を表している。なんでも敬語で話せばいいってもんじゃないはずである。太宰治の「斜陽」では、娘から見た「お母さま」について過剰な敬語と大げさな形容で語られることによって、没落していく旧家の肥大化した家意識といびつな親子関係が表現されている。

お母さまは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、上体をかがめる事も無く、お顔をしゃんと挙げて、お皿をろくに見もせずスプウンを横にしてさっと掬って、それから、燕のように、とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、スプウンの尖端から、スウプをお唇のあいだに流し込むのである。

私は小松政夫の「おかーたま」を連想してしまうのだが、「斜陽」はこの粘着質の気持ち悪い文体が最初から最後までずっと続くのである。最後まで読み通すのはかなりの忍耐を必要とする。もし、「うちの奥さんがね」という人が「我が家はお前のような下賤の輩(やから)と違って奥座敷のある由緒正しい家柄であり、我が配偶者は奥の間の主として奥方様と呼ばれるのがふさわしい」という肥大化した家意識を抱いていて、さらに「斜陽」と同じようにその不気味さを表現するための仕掛けとしてあえて自覚的に「うちの奥さん」と尊称を用いているんだとしたら、それはそれで大したものだけれど、でも、そんなややこしいセミドキュメンタリー演劇に私は出演するつもりはありませんので、正式なオファーもないまま勝手に巻き込まないでちょうだい。

語源由来辞典「奥様」
http://gogen-allguide.com/o/okusama.html


「やんちゃ」
ラジオの「パカパカ行進曲」を聞いているとよく耳にする。「やんちゃする」と動詞として使うのがポイント。「私、若い頃やんちゃしてまして」と出演者が切り出したら、幼稚園児の頃に腕白だったという意味ではなく、高校時代に暴走族に入って暴れていたことを意味している。一方、「つっぱり」のほうは、カウンターカルチャーの衰退のせいか、近頃では相撲の決まり手でしか聞かなくなった。また、同じワルでも、渋谷のチーマーや岡崎京子のマンガみたいなクラブカルチャーの住人たちは、AMラジオのおともだちではない。もっぱらAMラジオでは、暴走族仲間とおそろいのつなぎを作ろうとして背中にでっかく「愛羅武勇」と刺繍しようとしたのに字がわからなくて「変羅武勇」になってしまったとか、「俺は誰にも背中を見せない」と豪語する走り屋の友人が峠道で一瞬で消え去ったと思ったらバイクごと崖から真っ逆さまとか、まあそんな感じの若気の至り話が「やんちゃしてまして」の後に語られる。もっとも、任侠団体の一員だったとか恐喝で2年間服役してたとかになるともはや「やんちゃして」の婉曲表現を超えているように思うが、紳助にとっては「社会的通念上許容できる範囲」なのかもしれない。ところで、もともと「やんちゃ」は小さなこどもにつける形容としてのみ使われていたはずで、このずらした用法がいつごろはじまったのか気になるところである。十年くらい前に「やんちゃくれ」という大阪局制作の連ドラがあったけど、関西方言ではもともと若者に対しても広く用いられていたんだろうか。


「がっつり」
ガテン系のニュアンスを感じる擬態語である。私はAVのタイトルではじめてこの表現を目にした。「がっつりバコバコ、バックでイキまくり」とかなんとかそんなタイトルだったような気がする。まもなくAV系のWebサイトでは「がっつり」をやたらと見かけるようになった。その後しばらくして、コンビニ弁当のラベルに「がっつり」と書いてあるのを見かけた。「がっつり450g 満足のスタミナ弁当」とかなんとかそんなラベルだったような気がする。私はAVの業界用語だと思っていたので、弁当に「がっつり」と書いてあることに一瞬たじろいだが、それが「スタミナ弁当」であることに妙に納得した記憶がある。現在、すた丼の店のメニューにも「がっつり」と書いてあり、それはまるで遙か以前からすた丼の枕詞であったかのように馴染んでいる。Webの俗語辞典によるともとは北海道地方の方言だそうである。ちなみに2011年現在、グーグルで「がっつり」を検索するとトップに表示されるのは、このエロサイトである。

画像掲示板 がっつり
http://www.ga-turi.com/


「情弱(じょうじゃく)」
最近、ネットで見かけるようになった表現。「インターネットを駆使して情報を集められない人、情報弱者」の意味。要するにこのネットスラングを使っているコンピューターオタクたち以外のすべてである。対になる言葉は「情強(じょうきょう)」。こちらは彼ら自身のことである。どちらもパソコン機器やゲーム機器の掲示板でよく目にする。もちろん、この場合の「情報」はインターネット経由で入手した二次情報のことであって、実際に自ら調査・検証して収集した一次情報を持っているわけではない。ハードウェアー関連の掲示板は、なぜか昔からネット上でもっともガラの悪い場所のひとつで、いつも攻撃的な発言が飛び交っている。コンピューターオタクというと学生時代に不登校気味だった内気な青年を連想するが、そうしたイメージに反して掲示板の住人たちは常時喧嘩上等の臨戦態勢で臨んでおり、気に入らないハードウェアーについて誰かが書き込むと一斉に人格攻撃を浴びせかけ、初歩的な質問に対しては見下して袋だたきにする。ビデオカードがRIVAやVoodooだったインターネット黎明期からずっとそんな調子なので、もはや一種の伝統慣習なのかもしれない。偏狭なディレッタントたちのたまり場なので、「聞くは一時の恥」という社会通念はもちろん通用しない。うかつなことを書くと「過去ログも読めないのかよカス」とレスがついて、過去ログを読んでみれば、誹謗中傷と半可通の知ったかぶりといったノイズばかりで有用な情報はなにもなかったという羽目に陥るだろう。それにしても不思議なのは、彼らがコンピューターオタクである自らを「情強」として誇ろうとするメンタリティである。いい歳したおとながおもちゃ大好きっていうのは「恥ずかしながら」の性癖であって、「いよっ情強!」なんて大向こうから声かけられたらどうしましょ恥ずかしくってもう道も歩けないわってなもんじゃないんですかい。そういう意味で、「スイーツ(笑)」と同じように「情強(笑)」と冷笑を含みつつ用いるのがふさわしいように思う。


ここ数年、情強(笑)の人々に人気があるのはやけにデコラティブな真っ黒けのパソコンである。その偉容は「うちのご本尊様」といったたたずまいで、念の入ったことに、内部のゴテゴテも見えるようサイドには透明のアクリル板まではめ込まれている。我が家では、AMラジオにパソコンからのノイズがけっこう入るので、PCケースのシールドには気をつかってるんだけど、情強(笑)の人々に「電磁波のシールド」という概念は存在しないんだろうか。もし友人宅へ遊びに行って、このダース・ベイダーの甲冑みたいなパソコンがLEDのイルミネーションを点滅させつつ6つのファンのうなりをあげてパイルダーオンしていたら、今後のつきあいかたを少し見直したほうがいいんじゃないかと思う。


ドッグ・ウィスパー

CS放送でやっているドッグトレーナーの番組をまとめて見ている。飼い主からの依頼を受けてドッグトレーナーが家庭訪問し、「我が家の困ったわんちゃん」の再教育をするというビフォー・アフター番組。番組ホストはシーザー・ミランというロサンゼルスを拠点に活動しているドッグトレーナーで、番組もアメリカで製作されている。
http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/411
http://www.ngcjapan.com/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/589


我が家の困ったわんちゃんの典型的なパターンは、飼い主のいうことをぜんぜん聞かない、攻撃性が強い、他の犬に噛みつく、散歩中に通行人に襲いかかる、おもちゃや食料に執着して取りあげようとすると飼い主にまで牙をむくというもの。あきらかに飼い主との主従関係が逆転したことによる犬の支配行動である。こういう場合、ドッグトレーナーがどんなにうまくしつけても、飼い主のところへ帰ると一週間もしないうちに元の困ったわんちゃんに戻ってしまう。犬の問題行動の原因が飼い主のリーダーシップの欠如にあるからだ。そこで、シーザー・ミランのやり方は、犬のトレーニングよりも飼い主のトレーニングのほうに重点を置いている。「犬はいまを生きています、どんな過去のある犬でも、飼い主であるあなたが変われば変わります」と彼は言う。そうして飼い主が犬に対してリーダーシップをとれるよう、あれこれとアドバイスしていく。


彼のトレーニング方法は、群れのリーダー犬が仲間に対して行う行為を手本にしている。まず、犬に対してこちらがリーダーであることを示す。犬の目を見ない、犬に話しかけない、犬が吠えても後ろにさがらない。穏やかに毅然とした態度で犬に近づき、こちらがボスなんだとわからせる。やがて犬があきらめて服従したところで、やってはいけない行為をひとつひとつ教えていく。他の犬に飛びかかろうと身構えたらその場で注意する。自分よりも先に外に出ようとしたらやはりその場で注意する。待てと言っているのに動いたらまたその場で注意する。彼は犬に注意するとき、「シッ」という短い警告音を発し、犬の首筋を指先でつかむ。リーダー犬が仲間に警告する際、首筋を軽く噛む動作を模したものだという。そうしてやってはいけない行為をその場その場で犬に教えながら、同時に飼い主にも同じようにリーダーシップをとるよう要求する。たいていの場合、飼い主が同じことをやろうとするとうまくいかない。そこで、「いまのは腰がひけてましたね、もっと毅然と」「そこで後ろにさがらない」「犬を先に行かせない」「犬を叱るときは名前を呼ばないこと、犬が混乱しますよ、名前を呼ぶのはこちらへ来させるときとほめるときだけにしましょう」「攻撃的な犬が飼い主の膝の上に乗ろうとするのは、相手を服従させようとする支配行動です、よく強い犬が弱い犬にのしかかって群れの中の順位を確認しようとするでしょう、あれといっしょです、甘えてるわけじゃありませんので、そこで頭をなでてしまったら、また、犬の子分に逆戻りですよ」という調子で具体的にアドバイスしていく。彼のアドバイスはいたって明解だが、犬の状態を見きわめるには、熟練していないと難しそうだ。たとえば犬が低くうなり声をあげていても、それが支配行動なのか、おびえているのか、たんに縄張りを主張しているだけなのか、それによって対応も異なるのだが、なかなか素人目には判断がつかない。番組に出演した飼い主たちも口をそろえて「まるで魔法みたいだ」とシーザー・ミランのトレーニングぶりに驚嘆する。しかし、それが魔法に見えてしまったら再現性がないわけで、彼の鮮やかな腕前を披露するエンターテインメント番組としては良くできていても、実用的な犬のトレーニング番組としては情報量が不足している。そのせいか、毎回、番組の冒頭に「素人がマネするな」という警告文が表示される。マネできないのなら役に立たないじゃん。


たいていの犬と飼い主は、番組のトレーニングを経て見違えるように改善する。彼は言う。「飼い主のみなさんは、群れのリーダーとして穏やかに毅然と振る舞いましょう、問題を抱えた多くの犬は、愛情だけを与えられてきたせいで精神的に不安定な状態に陥ってます、犬に必要なのは運動と規律と愛情です、あなたが良いリーダーになることで犬には心の安定がもたらされます、心の安定した犬は最高の友達です」。そうしてめでたしめでたしで、毎回、番組はエンディングを迎えるのだが、ただ、番組を見るたびにいつもひとつの疑問が頭をよぎる。そもそも犬は「ペット」に向かない動物ではないのかという疑問だ。


働く犬たちは、番組に出てくる犬のような問題行動を起こさない。狩りの相棒として野山を駆けまわり、牛や羊の群れを追っているような犬たちは、運動も十分だし、一日の終わりに「今日はよく頑張ったな」と頭をなでられるときの充実感もひときわ大きいだろう。仕事という明確な目的を目指して犬と飼い主は結びついているので、わざわざ服従訓練などしなくても、そこには必然的に指示を出す者と実行する者との間に規律や主従関係が生まれる。ペットとして飼われている犬たちにはそのいずれもない。なにをすればいいのかわからない暮らしは犬にとってさぞやフラストレーションがたまるだろう。飼い主が忙しくて散歩もままならないという場合、シーザー・ミラントレッドミル(ルームランナー)を用意する。犬は本来、一日に数十kmも移動するほど行動範囲の広い動物なので、合理的といえば合理的なやり方だが、ベルトコンベアの上を太り気味の犬がせっせと走っている映像を見ながら、そうまでして犬を飼うのかと思う。一方、多くの飼い主たちはペットとして犬をただ可愛がる。そもそもペットというのは可愛がることを目的に飼育される存在だから、それは当然の行為だ。そこには働く犬との関係のような一定の距離や規律はない。犬は「家族の一員」であり、小さなこどものように飼い主一家の愛情を一身に集める。しかし、犬と人間では習性が大きく異なる。犬のコミュニケーションは基本的に支配と服従の関係で成り立っており、飼い主が犬のことを「うちの可愛いベイビー」だと思っていても、犬にとって溺愛して甘やかす飼い主は自分の言いなりになる下僕でしかない。飼い主が愛情を注げば注ぐほど、犬はますます支配的になり、自分への服従を要求する。悪循環が生まれ、犬の支配行動はエスカレートし、ついには飼い主の手に負えなくなる。番組に警察官をしているという中年男性が登場した。彼は奥さんと中学生くらいのこどもと郊外の住宅地に暮らしている。そこに一年ほど前から、ポメラニアンみたいな小型犬が「家族の一員」となった。彼は仕事のストレスとその反動で、その小型犬を溺愛している。家にいるときはいつも膝の上に乗せ、つぶらな瞳を見つめてはふさふさした背中をなでている。当然、犬は家中を支配するようになり、気に入らないことがあると飼い主にも牙をむくようになった。「ふだんは可愛いんですけど、暴れ出すともう手に負えなくって、小さな天使が悪魔に豹変するんです」と奥さん。「息子さんが問題行動を起こしたら叱ったでしょう、犬は叱らないんですか?」とシーザー・ミランはなかばあきれ気味に言う。「あたしは叱るんですけど、夫が甘くって」と奥さん。一方、警察官氏は「いやまあ」とあいまいに言葉を濁して苦笑する。どうやら思春期で難しい年頃の息子よりも犬のほうがよっぽど可愛いという様子。「息子に噛みついても、うちの人は叱らないんですよ」と奥さんもあきれ気味。そこでシーザー・ミランはこうアドバイスする。「警察官として働いているときの雰囲気はいまとまったくちがいますよね、犬に接するときも警察官として振る舞ってください、自分はいま治安の悪い地区をパトロールしている、そう自分に言い聞かせて周囲を支配する毅然としたエネルギーを出してください、そうしないかぎり犬の問題行動はなおりませんよ」。彼が警察官モードに入ると犬の様子は一変した。群れのリーダーとして認めたのである。シーザー・ミランは言う。「愛情と尊敬はちがいますよね、リーダーとして尊敬を得ないと犬は言うことを聞いてくれません、リーダーの仕事は24時間休みなしです、その調子でがんばりましょう」。番組に登場した夫婦は愛犬が良い犬になったと喜んでいたが、24時間警察官モードだなんて私には悪い冗談としか思えない。そもそもこのお父さんは仕事のストレスから解放されたくて愛玩犬を飼い始めたというのに、これでは本末転倒ではないのか。家に帰っても警察官を演じなければならないとなると、今後、あのお父さんはいったいなんのために犬を飼うのだろう。つぶらな瞳のふわふわしたやつをなでていたいだけなら、犬のようなアグレッシブな捕食動物ではなく、ウサギやハムスターのほうが向いてるのではないのか。テレビを見てるときも昼寝してるときも常にリーダーらしく毅然と振る舞いましょうなんて、まるで自分の家がゲルマン・アーミーの駐屯所になったみたいである。


イヌ科の動物はキツネを除いて「ハンティング・パック」と呼ばれる群れをつくる。草原での狩りに適応した結果であり、ネコ科の動物が瞬発力で狩りをするのとは対照的に、イヌ科の動物の狩りは、獲物を長時間にわたって追跡し、じわじわと追い詰めていく。そうした追跡型の狩りでは、群れの仲間との連携がとくに重要になる。オオカミやジャッカルは、獲物を追い込む地点にあらかじめ数匹を配置させたり、追跡中に数匹が回り込んで獲物の退路を断つといった高等戦術まで用いる。そのため、群れの仲間とはふだんからコミュニケーションを密にとっており、ことある事に群れの中の順位を確認する。順位が上の個体は相手にのしかかり、下の個体は腹を出して寝そべって服従の姿勢をとる。だから、群れの秩序を保つためにリーダーは常に穏やかで毅然と振る舞えというシーザー・ミランのアドバイスは、イヌ科の動物の生態に基づいており、その点では、理にかなっている。また、大型犬の場合、飼い主のコントロールを失うと危険でもある。なんせ彼らはオオカミの末裔であり、ノミの刃のように鋭くとがった牙は人に致命傷を与えることができる。ただ、狩猟犬や牧羊犬やそり犬のように、なにかをさせるためにそういう支配と服従の関係を築いていくならわかる。そこにはそうせざるを得ない目的と必然性があるからだ。しかし、ペットの犬の場合、主従関係を築いた先にはなにもない。狩りをするわけでもなく、羊の群れを追わせるわけでもなく、雪原でそりを引かせるわけでもなく、ただ人間に従順な存在にすること自体を目的に犬を服従させる。「信頼できるリーダーに服従するとき、犬の心はもっとも安定した状態になります」とシーザー・ミランは言う。たしかにイヌ科の動物は序列のある群れをつくり、リーダーの命令一下で群れは動く。それはイヌ科の動物の習性だから良いとか悪いとか言うようなことではない。しかし、人間はそうではない。人間の側が狩りをするわけでもないのに犬を飼い、犬の習性にあわせて日夜ハンティング・パックのリーダーとして暮らすというのは、なにかひどく倒錯的なことをしているように見える。それはSMプレイや兵隊ごっこを日常的に繰り広げるようなものではないのか。父権主義を標榜し、マッチョであることを生き方の指針にしている人ならそれでもいいだろうが、たいていの人はそうではないだろう。少なくとも私は誰の主人にも下僕にもなりたいとは思わない。


また、番組内では一切触れられていないが、現在、純血種の犬の品種改良はかなり危機的な状況に陥っている。19世紀末のイギリスで犬を「ペット」として飼育する習慣がはじまると、人々の間によりめずらしい犬がほしいという需要が高まっていく。飼い主の所有欲や美意識を満たすために犬の品種改良はエスカレートし、ダックスフントの足は年々短くなり、ブルドッグは年々鼻面が縮められ、チワワをはじめとする小型犬はますます小さく品種改良されていった。その結果、多くのダックスフント椎間板ヘルニアの持病を抱えるようになり、ブルドッグやパグは慢性的な呼吸困難を患っている。さらにチワワなどの小型犬はあまりにも小さく品種改良されたため、自然分娩は不可能になり、出産時には獣医師による帝王切開が必要になる。犬が安産の象徴だったのはもはや過去の話である。ペットの場合、労働犬と異なり、明確な目的があって飼育されるわけではないので、品種改良も需要と供給の市場原理によって歯止めがきかなくなりやすい。その品種改良は近親交配をくり返すことで行われ、現在、ダックスフントの足もブルドッグの鼻面も150年前とくらべて半分くらいにまで縮められている。そのため、純血種の犬には、先天的に健康上の問題をかかえている犬が多い。こうした状況をふまえて番組を見ると、「犬は最高の友達」というシーザー・ミランの言葉が皮肉な意味合いをおびてくる。


私の自然観は、おもにこどもの頃に夢中で読んだ「ファーブル昆虫記」と学生のころに愛読したスティーブン・グールドの科学エッセイからできている。私にとって身近にいる生き物たちは自然をのぞき見る窓であり、細い路地をのそのそと猫が歩いているのを観察するのも、近所の池に産卵したヒキガエルの寒天状の卵塊を観察するのも、庭のエノキの葉にテントウムシの小さなサナギがついているのを観察するのも、それを通して自然をのぞき見る行為だと思っている。しかし、テレビのペット番組は、犬や猫を人間の側に引き寄せるばかりで、向こう側がまったく見えてこない。お手やちんちんをする犬も、音楽にあわせて踊る猫も、私は少しも可愛いとは思えない。それよりも、野犬の群れや放し飼いの猫たちが人の目の届かないところでどんな暮らしを送っているかのほうがよほど興味深い。生き物といっしょに暮らすというのは、彼らを人間の支配下に置いて動くぬいぐるみとしてあつかう行為ではないはずである。この種の番組を見るたびにいつもそんなことを思う。

中間試験


中間試験の問題を作成する。まだ4回しか授業をやっていないクラスがあるのに、試験もないだろうと思うのだが、担当者の「現代社会も試験やりましょう」「試験やります」「試験やることになってます」という不思議な三段活用によって、いつの間にか試験をやることになっていた。カフカの世界では現実よりも既存のシステムが優先されるのである。学校から原発まで硬直化した官僚組織では、どこもそうして回っているんだろう。


試験問題は、300字から400字くらいの論述問題が2問と説明文の正誤を問う選択問題をつくっている。できれば論述問題を増やしたいところだが、採点が手に負えなくなるので2問くらいが精一杯である。問題作成の基本方針は、用語の丸暗記を問うような問題を作らないこと。たとえば核燃料サイクルのしくみと問題点を理解していることは、今後の原発のあり方を考える上で手がかりになる。でも、「プルサーマル方式」という言葉だけを暗記したところで、原発問題についてなんら視野を広げてくれることもないし、考えを深めてくれることもない。定期試験のたびにその種の用語の暗記を若者たちに要求するのは、彼らの時間と労力をただ浪費させることになるし、ましてやそんな用語の丸暗記で成績をつけるなんて無意味な行為に思える。なので「〜とはなにか、漢字6文字で答えろ」式の問題は大嫌い。この手の問題を見るたびに出題者の志の低さを感じて気が滅入ってくる。試験問題はクイズじゃねえんだよ。教師によっては教科書に太字で書いてある用語はとにかく暗記させたがる人がいるが、現代社会のテキストには「ディファクトスタンダード」とか「デジタルディバイト」のようなパソコン業界の業界用語のようなものまで太字で表記されているのである。こんなのを若者たちに暗記させていったいどうしようっていうんだろう。それをおぼえさせることで社会への視野が広がるとでも本気で思ってるんだろうか。教科書も学校も入試問題もなにか根本的に間違っているように思う。


社会科の教科書は基本的にどれも制度と法律と用語ばかりがずらずらと列記されている。その一方で、生活体験の延長線上にある社会のしくみや身近な社会問題についてはほとんどふれていない。その傾向は授業でいっそう拍車かかかる。たいていの教師は生活の延長としての社会の有りようを提示することができず、授業は法律と制度の理解と暗記に終始する。その俯瞰による社会像は、自分とは切り離されたどこか遠い世界のものでしかない。また、そうでない教師は「教科書に沿って教えていない」「受験指導に力を入れていない」と見なされしばしば批判の対象となる。しかし、ウェイトは生活の延長線上にある社会にこそ置かれるべきで、法律と制度の解説は一年間の授業のまとめとして最後にやればいいことではないのか。法律や制度の名前ばかりが太字で列記されている教科書は、まるで公務員養成講座のテキストのようである。


システムによって「やることになってます」という定期試験だが、やるからにはせめて社会への視野を広げるきっかけになるような問題をつくりたいものだと思う。今回の論述問題は次の2題。論述問題は正解のある問題ではないので、試験前に出題内容をネットに書いてしまってもいっこうにかまわないのである。生徒たちにも試験一週間前に問題を公開して、あらかじめ考えておくように言っている。生徒は誰もほめてくれないが、「ディファクトスタンダード」と答えさせるような問題よりはずっといいと思っている。

問題1.気候変動枠組み条約をめぐる先進国と途上国の対立


 1992年の地球サミットでは、気候変動枠組み条約の内容をめぐって、先進国と途上国とがはげしく対立しました。先進国と途上国の言い分は次のようなものです。

先進国「地球温暖化問題には世界全体で取りくんでいかなければ効果が上がらない。先進国・途上国を問わず、すべての国にCO2削減の義務づけが必要」
途上国「地球温暖化は先進国が過去100年にわたって排出してきたCO2が原因。そのため、先進国にCO2削減を義務づけるのはわかるが、途上国はこれから経済発展しようとしているところだから、途上国へのCO2規制はしばらく待ってほしい」

 この対立は現在もつづいており、京都議定書にかわる2012年からの新たな議定書づくりでも、再び同じ対立がおきています。日本政府は、発展途上国にもCO2削減を義務づけるべきだという立場をとっており、先進国のみにCO2削減を義務づけた京都議定書がこのまま延長されるとしたら、日本は参加しないと主張しています。

京都議定書延長「反対の国ない」 COP17事務局長

朝日新聞 2011年4月9日3時2分
 地球温暖化対策を話し合う国連気候変動枠組み条約の締約国会議(COP17)に向けたバンコクでの作業部会で8日、フィゲレス条約事務局長が京都議定書の2013年以降の延長について「反対の国はない」と述べ、議定書延長が加盟各国の大勢となっているとの見方を示した。
 日本は議定書延長を阻む考えはない一方で、「延長されても参加しない」との立場を明確にしており、年末のCOP17に向けて議定書延長の国際合意ができた場合、議定書から離脱する可能性が浮上する。
 日本政府代表団は同日、議定書で温室効果ガスの削減義務を負う国のなかで延長に無条件に賛成している国は少なく、「延長が簡単に決まるとは思えない」との見方を示した。 京都議定書は、08〜12年を「第1約束期間」として、先進国に削減義務を課している。COP17で13年以降の「第2約束期間」を設けるかどうかを決めなければ、温暖化対策の法的な枠組みに空白が生まれる。
 昨年末にメキシコで開かれたCOP16では、京都議定書に入っていない米国や、中国やインドなど新興国も自主的な削減策を示すことで合意したが、これを京都議定書に代わる新たな法的枠組みにするまでには時間がかかることから、途上国は空白を生じさせないために同議定書の延長を求めている。
 これに対し日本は「京都議定書が延長されれば、先進国のみが削減義務を負う体制が固定化する」(日本政府代表団)として反対の立場を表明してきた。
 今回の作業部会では、議定書延長問題をCOP17で決着させるための交渉日程を詰めた。フィゲレス事務局長は「年末に政治的な解決策を得ることを各国は望んでいる」として、第2約束期間が設けられる公算が大きいという見方を示した。作業部会は8日、閉幕した。

 気候変動枠組み条約について、CO2削減を先進国のみに割り当てるべきなのか、それとも先進国・途上国を問わずすべての国に割り当てるべきなのか、あなたの考えを述べなさい。


問題2.原子力発電の事故の確率


 原発を推進してきた人たちは、しばしば事故の確率の小ささを主張してきました。その主張を要約すると次のようなものです。

 たしかに原子力発電所といっても人間が建設し、運営するものだから、理論上は事故の確率はある。しかし、その確率は、数万分の一、数億分の一というごく小さなものであり、それは大きな隕石が落下して、大惨事をもたらす確率に等しい。日々の生活の中で、巨大隕石が自分の頭の上に落ちてくるのを心配しながら暮らしている人はいないだろう。それなのに、原発というとなにかと事故を不安視するのは矛盾した姿勢ではないだろうか。原子力発電所が大事故をおこす確率と比較したら、交通事故にあう確率のほうがはるかに高い。したがって、原子力発電所の事故を心配するよりも、道を歩いていてクルマにはねられないよう気をつけることのほうがはるかに現実的な問題のはずである。

 この主張についてあなたはどう考えますか。あなたの考えを述べなさい。


ちなみに2問目は、池田信夫のコラムを読みながら思いついたものである。彼の原発についての文章を読むたびに、本当にこういうことをいう人が世の中には存在するんだと驚かされる。授業で生徒たちにこの主張をどう思うか尋ねたところ、9割の生徒が批判するか、あきれていた。もちろん論述問題では、生徒がどういう立場から論じてもそれで採点に差をつけるようなことはしないので、この主張を支持する生徒についても、すじみちだてて自分の考えが書いてあれば、大いに評価するつもりである。

葬式


連休中に祖母が死んだ。94歳だった。18年前に脳内出血で倒れて以来、祖母は「要介護の高齢者」ということになり、車イスに乗るのが精一杯という状態だった。当初は自力で車イスにも乗れたが、年々衰弱していって寝たきりとなり、ここ2年くらいは、私が誰かもわからなくなっていた。連休最後の日の夜中、介護施設から電話があり、息をしていないということで、バイクを飛ばしてかけつけ、母とともにまだあたたかい祖母の体にふれながら死に立ち会った。その日の昼に会いに行ったとき、祖母はただ眠っていて、最後もそのまま眠るように死んでいったという。身近なものの死に立ち会うことは、否が応でも自分がいまいるこの世界について考えさせられる。いま・ここはいったいどういう世界なんだろうと。きっとこどもが生まれる瞬間に立ち会った人も、そういう思いにさせられるんだろう。祖母は今回の地震のことも、原発事故のことももうわからなくなっていたが、ともかく百年近い歳月の間、この世界にいて、去って行った。この世界はいったいどんなところだったんだろうかね、ばあちゃん。


祖母は7人兄弟の末娘だった。祖母の兄弟たちはとっくに亡くなっていて、親戚づきあいもなかったので、葬式は母とふたりだけでおこなった。葬式といっても、焼き場で遺体を花といっしょに焼いてもらっておしまい。4世代の東京者で母も私も兄弟がいないから、まあ、そんなものだろう。「○○家の墓」というのもない。骨壺もひとまず母のところへ置くことにした。母は柄にもなく、仏壇どうしよう墓もどうしよう骨壺は部屋の東に置けばいいのか西に置けばいいのかとやけに形式めいたことを言い出す。信仰もないくせにそんなのどうでもいいじゃねえか、部屋に骨壺を置いとけば毎日ばあちゃんと話ができていいぞと私は応じる。昼飯を食べながら険悪なムードになる。骨壺を東に置くか西に置くかなんてことよりも、ときどき花でも捧げてばあちゃんに話しかけるほうが大事なんじゃねえのかい。いいや、ばあちゃんの介護は私が全部やってきたんだから、おまえがえらそうに意見を言う資格なんかない。じゃあ五重塔でも金閣寺でも建てて気のすむようにしたらいい。後からやってきた葬儀社の人にたしなめられる。まあまあこういうことは気持ちの問題ですからと。親子して大人げないかぎりである。ばあちゃん、申し訳ない。

原発をどうするべきか 高校生たちの声


2年生の授業で原発の問題を取りあげる。まずはじめに、今後、原発をどうしたらいいのか、4つの選択肢をあげて、どれを支持するか生徒に聞いてみたところ、全体の傾向は次のようなものだった。

  1. 【積極的賛成】 より安全対策を行ったうえでなら、新たな原発建設を支持する。2〜5%
  2. 【消極的賛成】 新たな原発建設には反対だが、いまある原発は安全対策をしたうえで、寿命まで使う。30〜40%
  3. 【消極的反対】 風力発電太陽光発電天然ガス火力を積極的に建設して、原発からシフトしていく。10年くらい時間をかけて徐々に原発を廃止していく。約50%
  4. 【積極的反対】 既存の火力発電所と新エネルギーの利用、さらに節電を徹底することで、なるべく早く原発は全面的に廃止する。(いま止まっている原発はもう再稼働しない)。約10%

2番の「消極的賛成」と3番の「消極的反対」だけで8割を超えている。背景には電力不足への漠然とした不安があり、「原発は事故や放射能汚染が不安だけど、なくしてしまうと電力が足りなくなりそうだし、当分はある程度の原発はしかたないんじゃないかなあ」という反応である。こうした「本当は嫌だけど、文明の必要悪としてある程度はしかたない」という反応が多いのは、マスメディアの世論調査でも同じ傾向が見られる。原発の問題では、支持するものの中でも「原発は素晴らしい」という積極的肯定の声がほとんどないのが特徴といえる。


それぞれの生徒たちになぜそう考えるのか、理由を聞いてみた。まず、1の積極的肯定派から。

  • 原発は安く大量の電力を安定的に供給できるので、日本の今後の経済発展には必要だと思う」
  • 「せっかく用地買収もして、建設に取りかかっているのに、途中で取りやめてしまったらもったいない」
  • 「一度の失敗で原子力をあきらめるべきではない」

といった反応が返ってきた。そこで、「福島第一の事故があれだけ大惨事になっているのに、まだ新しいのをつくるの、日本は地震大国だから、いくら安全対策をしても、万全ということはないんじゃないかな」という反論をして、生徒の考えを引き出すことにした。

  • 「今回の事故を教訓にして、より安全対策をしっかりしたものにするはずだから、今後、日本の原発はより安全なものになると思う」
  • 「風力や太陽光は、まだこれからの技術で発電コストもかかるし、安く大量の電力を確保するには、いまのところ原発が一番実用的だと思う」


全体の3分の1をしめる2の消極的肯定派は次のような根拠をあげた。

  • 「新たな建設には反対だけど、いまあるものは使っていかないと電力が足りなくなると思う」
  • 「本当は不安だけど、日本の経済発展のためには、ある程度原発はしかたないかなあと思う」
  • 「夏にエアコンを使えないのは困る」
  • 「いま日本は不景気だから、当分の間、エネルギー状況は変えないほうが経済に負担をかけないですむと思う」

現状維持的な意見が目立つのが特徴である。そこでふたつの点から反論をした。まず、ひとつめ。「本当に原発をやめたら電力が足りなくなるんだろうか、2003年には、電力会社のトラブル隠しが発覚して、このときには日本全体の原発をすべて停止して再点検したけど、夏場の電力はおきなかった、日本では、7割くらいの火力発電所が停止状態にあるから、これをもっと活用すれば、原発をやめても、電力は十分たりるという指摘もあるよ」。

  • 「今回は、火力発電所も被災して止まっているし、先月の計画停電で東京は大混乱したから」
  • 「テレビや新聞がさかんに夏場の電力不足を指摘してるのは、それなりに根拠があると思う」
  • 「去年みたいな猛暑になったら、原発がないと電力は不足するし、発電はある程度余裕をもってしておかないと、いつ停電になって電車や工場が止まってしまうようなぎりぎりの状況では、社会が混乱すると思う」

次に発電コストについて指摘した。「今回の福島第一の被害は、数兆円におよぶと見られている、この莫大な損害賠償や核廃棄物の処分費用にかかる費用を含めて、発電コストを計算すれば、原発はけっして安上がりの発電方法ではない、今回の数兆円っていう損害賠償もふくめて考えれば、むしろ火力発電の何倍もコストが高くなるはずだ、これについてはどう思う」。

この指摘については、消極的原発支持の生徒たちは「うーむ」という反応で、反論は出てこなかった。ディスカッションの前に、事故の損害賠償についての新聞記事を紹介し、数兆円におよぶ損害賠償は東京電力だけでは払いきれそうにないので、税金から投入されることになりそうだと解説したばかりということも影響したのかも知れない。


次に全体の約半分を占める3の消極的原発反対派の根拠。

  • 「いますぐ原発を全面廃止するのは無茶だと思うけど、十年くらい時間的余裕を持って、風力や太陽光へシフトしていくのは可能だと思う」
  • 「福島の事故は不幸なことだったけど、このことは、太陽光発電風力発電を普及させるきっかけになると思う、逆にいま原発にこだわっていたら、自然エネルギーの普及や技術開発はずっと遅れてしまって、他の国において行かれると思う」
  • 「将来的に自然エネルギーへ移行するのは、もうまちがいないというか、石油も石炭もウランもいつか枯渇するわけだから、将来的にはそれしかない状況だし、この事故をきっかけに、日本ももっと開発と普及に力を入れたほうがいいと思う」

3の消極的否定派には、自然エネルギーへのシフトとソーラーパネルの開発強化をあげているものが多かった。そこで、しばしば産業界から指摘されている自然エネルギーのコストの悪さから反論をぶつけてみた。「自然エネルギーはまだまだ発展途上のエネルギーだよね、発電コストも高い、どうしても電気代も高くなってしまうだろう、電気代の値上がりは、家計を締め付けるという以上に、工業生産に大きな打撃を与えることになる、大きな工場は大量の電気を使うから、電気代の値上げは生産コストの上昇をまねいて日本製品の価格競争力を低下させるよね、日本はただでさえ不況なのに、これ以上、工場が海外へ移転してしまって、産業の空洞化が進んだら、失業問題がますます深刻になるよ、現時点では安く大量の発電ができる原発は、日本の経済競争力を高めるためにある程度、必要じゃないの」。

  • 「でも、発電コストのことをいったら、原発だって、放射能のゴミの処分とか、事故の損害賠償とかふくめたら、ちっとも安くないわけだし、短期的に原発のコストが安いっていうのは、未来にツケを残すようなものだと思う」
  • 液晶テレビがこの五年で価格が五分の一くらいに安くなったみたいに、ソーラーパネルや風車だって大量生産するようになれば、価格は安くなるはずだし、安くなればさらに売れるし、メーカーだって技術開発に力を入れるようになるわけだから、もっと効率のいい技術も開発されるようになると思う、その循環が生まれるように、政府が自然エネルギーの普及を支援して、そういう循環が生まれるきっかけを作ることが大事だと思う」
  • 「風力も太陽光も、いまはまだコストが高いけど、開発をすすめることで将来的には火力発電よりも安く発電できるようになると思う」
  • ソーラーパネル風力発電は、今後、世界的に大きな需要が生まれるはずだから、日本でいまから開発をすすめていけば、将来的には、大きな輸出産業になるはずだし、産業の面でもプラスだと思う、日本は技術的には高いものをもっているのに、その技術を活用しないのはもったいないと思う」


最後に4番目の積極的反対派。

  • 原発はもう信用できない、さっき、一度の失敗で原子力をあきらめるべきではないっていってたけど、あんな大事故は一回でもう十分、福島があんなに大惨事になってるのに、止めてる原発を再稼働させようとか、さらに新たな原発を建設しようなんて、なに考えてるんだろうって思う」
  • 原発事故の不安の中で暮らすよりは、電力不足で停電がおきる方がずっとマシ、夏にエアコンが使えなくてもがまんする」
  • 「火力発電所の70%が停止してるっていうなら、それを活用しながら、風力や太陽光を増やしていけば、原発を再稼働させなくても大丈夫だと思う、実際、2003年の夏は原発なしで乗り切れたわけだし、テレビが夏場の電力不足をやたらというのは騒ぎすぎだと思う」

彼らには安全性の面から反論してみた。「さっき、原発の建設を支持する意見の中で、今回の事故を教訓にして、より安全対策をしっかりすれば、今後、日本の原発はより安全なものになるはずだっていう意見があったよね、これについてはどう思う」。

  • 「いくら安全対策をしても、完全に事故の確率をゼロにできるわけじゃないから、原発事故の被害規模の大きさを考えると納得できない」
  • 「日本の場合、地震が多いから、これから先も予想できないような災害はいくらでもおきると思う、そういうケースにすべてそなえるなんて不可能だと思う」
  • 「もしも、ものすごい巨大地震や高さ50メートルの津波でも万全な原発なんてつくったら、それだけでやたらとお金がかかってしまって、発電コストもやたらと高いものになるから、本末転倒だと思う、そんなことをするくらいなら、風力や太陽光発電をつくっていったほうが将来にもつながるし、ずっと建設的だと思う」


■損害賠償のあり方 国の放射能基準値をどうとらえるか


次に各論。ここでは、福島原発事故の損害賠償のあり方、原発事故の確率、過疎対策としての原発建設の三つの点について、生徒の考えを聞いてみた。まず、損害賠償のあり方では、国の放射能基準値のしくみを解説しながら、被曝と健康被害の関係性から損害賠償のあり方を考えることにした。基本的に放射線や体内に取り込んでしまった放射性物質がどの程度の健康被害をもたらすのかというのは、連続的な現象であり、「ここまでは安全」で「ここからは危険」というような線引きのできない性質のものである。年齢や体質によっても大きくちがうし、数十年後にガンになったとしても、福島原発の事故との因果関係をはっきり示すのは不可能である。したがって、国の定める基準値というのは、外部被曝でも食品の残留放射能でも、たんなる「目安」にすぎない。もっと少ない値でも健康被害が出るという研究者もいれば、もっと大きな値でも大丈夫という研究者もおり、専門家でも見解も分かれるグレーゾーンの大きい問題である。これを図にすると次のようになる。



ある細胞ががん細胞か正常細胞かということは、「0か1か」という性質の問題であり、専門知識のある者なら、一目で判断がつく。また、もしも上のグラフが階段状のものならば、階段が跳ね上がるところで線を引けば良い。しかし、被曝と健康被害の関係は連続的に推移する現象であるため、「安全か・安全でないか」という明確な線引きは不可能である。そのため、国の基準値以下でも「食べたくない」という人がいるのは当然だし、そういう人を批判することはできない。国の基準値は「目安」にすぎず、食べる・食べないの最終的な判断は各自がするしかないからだ。このような連続的な現象では、基準値以下でも不安を感じるという人について、「風評に踊らされている」と批判するのは非論理的である。実際に、福島やその近県産の野菜や魚は、国の基準値以下でも市場ではほとんど売れない状況になっている。こうした基準値以下でも売れない農家や漁業関係者についても、東京電力は損害賠償をするべきなのか、生徒に聞いてみた。

  1. 損害賠償は必要ない。あくまで損害賠償は国の基準値を越えたものにのみ行う。10〜20%。
  2. 損害賠償は必要。国の基準値とは関係なく、市場で売れない野菜や魚については、原発事故に原因がある。80〜90%。

1を支持する生徒にその理由を尋ねたところ、次のような意見が返ってきた。

  • 風評被害で売れない野菜や魚にまで損害賠償したらきりがないと思う」
  • 「どこかで線を引かなきゃならないなら、国の基準値で線を引くのが妥当だと思う」
  • 「基準値以下でも売れない野菜や魚については、損害賠償ではなく、電力会社や国の「買い取り」にすればいいと思う」
  • 風評被害をこれ以上広げないためにも、基準値以下の食べ物が安全だということをもっと広めたほうがいいと思う」

2を支持する生徒にその理由を尋ねたところ、次のような意見が返ってきた。

  • 「国の基準値に関係なく、実際に市場で売れないことの原因は、そもそも原発事故にあるわけだから、電力会社には損害賠償の責任があると思う」
  • 「国の基準値以下でも、健康被害については、グレーゾーンにあるわけだから、食べたくない人に文句は言えないし、不安を感じるのは当然だと思う」
  • 「そもそも、安全か安全でないかなんて、はっきりとした線引きなんて不可能なんだから、ほんの微量でも放射性物質が検出されれば、電力会社には賠償責任があると思う」
  • 「税金を使って「買い取り」にするのは反対、まず東京電力の責任をはっきりさせて、東京電力に損害賠償させるべきだと思う、税金を使って被害者を救済するのは、それだけでではたりない場合に限定されるべきだと思う」


■事故の確率 「原発事故の確率はきわめて小さい」という主張をどうとらえるか


原発を推進してきた人たちは、しばしば事故の確率の小ささを主張してきた。つまり、原発が大事故をおこす確率は、数万分の一、数億分の一というごく小さなもので、それは大きな隕石が落下して、大惨事をもたらす確率に等しい。しかし、隕石が自分の頭の上に落ちてくるのを心配しながら日々を暮らしている人はいない。それなのに、原発というとなにかと事故を不安視するのは非論理的ではないかという主張である。原子力安全・保安院の審議官も、国会に呼ばれた際、原発が大事故をおこす確率は、理論上はあり得るが、それは天文学的に小さいものだと主張していた。また、そうした人たちは、原発事故よりも自動車事故にあう確率のほうがずっと高いと主張し、クルマにはねられることを心配したほうがずっと現実的だという。この主張についてどう考えるか。

  1. 支持する。10〜20%。
  2. 納得できない。80〜90%。

1を支持する生徒にその理由を尋ねたところ、次のような意見が返ってきた。

  • 「その通りだと思う、毎年、交通事故で亡くなる人は大勢いるわけだから、クルマによく注意することのほうがずっと現実的だと思う」
  • 「たしかに原発事故はおきてしまったけど、事故の確率が小さいということには変わりないと思う」
  • 「今回の事故を教訓にして対策を進めれば、事故の確率はさらに小さなものにできるわけだから、実際に事故の確率は天文学的に小さいものになると思う」

一方、2の納得できないという生徒にその理由を尋ねたところ、次のような意見が返ってきた。

  • 「事故がおきる前なら、それで納得したかも知れないけど、福島原発のあの状況を見てしまうと、確率論だけで原発を正当化する考え方には、納得できない」
  • 「いったん事故がおきたときの被害の大きさが交通事故とは比べものにならないから、確率論だけで正当化するのはあまりにも乱暴だと思う」
  • 「巨大隕石が落下するのは何百万年に一度だけど、大きな原発事故はこの30年だけで、2回も起きているわけだから、巨大隕石と原発事故との確率を同じだという根拠は何もない、確率計算自体にそもそも誤りがあると思う、そんな次元の低い議論が国会で行われていたなんて信じられない」
  • 「隕石は天災だけど原発事故は人災だから比較できない」
  • 原発事故はたとえ確率が小さくても、福島やチェルノブイリみたいにいったんおきてしまったら大惨事になってしまう、だから、確率が小さいではダメで、ゼロでないかぎりもうつくるべきではないと思う」
  • 「交通事故は自分が注意すれば程度避けられるけど、原発事故はそういう性質の事故ではないから、比較対象にするのはおかしいと思う」


■過疎対策 原発建設は過疎地の経済対策なのか、過疎地の弱みにつけ込んでいるのか


日本では、原発は都市部につくってはいけないことになっているので、原発建設は常に過疎の問題と深く結びついている。だから東京電力原発が首都圏から遠く離れた、福島県新潟県の過疎地に建設されている。原発を受け入れてくれた地域には、巨額の補助金が国や電力会社から入ってくるので、原発のある自治体へ行くとやけに立派な体育館や公民館が建っている。また、建設作業や原発作業員の下請け業務も発生するので、地域に新たな働き口もできる。しかし一方で、そのやり方は過疎地の財政難や仕事のなさという弱みにつけ込んで、多くの人がいやがるものをカネの力で押しつけているというふうにも見える。こうした原発建設のやり方について、どう判断するか、生徒に聞いてみた。

  1. 過疎対策としてプラスに評価できる。約30%。
  2. 評価できない。過疎の弱みにつけ込んで、カネの力で原発を地方に押しつけている。約70%。

1を支持する生徒にその理由を尋ねたところ、次のような意見が返ってきた。

  • 「過疎で仕事がないよりは、原発作業でも仕事があるほうがまだいいと思う」
  • 「財政難の過疎の村や町にとって、一億円もの補助金は大きいと思う、高齢化と過疎で村や町がなくなってしまうよりは、原発を受け入れて財政を立て直すほうが現実的な解決策になると思う」
  • 「最終的に原発を受け入れるかどうかは、地域の人たちが判断するわけだから、一概に「押しつけている」とはいえないと思う」
  • 「やっぱり働き先ができるのは大きいと思う、まあたしかに、つらい決断ではあるけど、自治体と国・電力会社は、持ちつ持たれつの関係だから、原発を受け入れる決断をした自治体に補助金を出すのはいいと思う」

働き先ができることの利点をあげている生徒が多かったので、福島原発での作業について指摘してみた。「ほら、いま福島原発の強い放射線の中で、被曝しながら突撃隊みたいな作業してる人たちいるよね、あの人たちはほとんどが地元で採用された下請けの作業員たちだ、つまり、原発を受け入れることで地元地域に生み出される働き口ってあれだよ、東京電力は「協力会社」なんてもってまわった言い方をしているけど、ふつうの日本語では「下請け会社」のことだ、仕事ができていいんじゃないかっていう人が多かったけど、いざ事故がおきた場合の仕事の内容はあれだ、強い放射線の中で被曝しながら、汚染された水をポンプで吸い上げたり原発の部品を交換したりさ、僕はあの状況を見るたびに胸が痛くなる、たとえ日給十万円くれるって言われても、僕はあれだけは勘弁だって思うんだけど、みんなはあの突撃隊みたいな仕事をやれるのかな、自分だったら絶対嫌っていう仕事なのに、どこかの過疎地の見知らぬ失業者に割り当てるぶんには、それは失業対策として有効だし、過疎対策として効果的だっていう考え方は、人道的に問題じゃないかな、どう」。

  • 「うーん、たしかに」
  • 「でも、事故さえおきなければああいう状況にはならないわけだし」
  • 「たしかに事故がおきたらそうなんだけど、でも、誰かがやらなきゃならない仕事だし」
  • 「うーん、たしかにたとえ日給十万でも自分にはできないと思う」
  • 「ただ、それを引き受けたのは地元の彼らなんだから、自分たちで決めたことについて、いまさら泣き言を言ってもしかたないと思う」

一方、2を支持する生徒にその理由を尋ねたところ、次のような意見が返ってきた。

  • 「たしかに自分たちで決めたことではあるんだけど、それは冷静な判断によって原発を引き受けたわけじゃなくて、財政難と過疎で困っているところに、補助金と仕事っていう餌をちらつかせて釣り上げてるわけだから、それを「自業自得」みたいな言い方をするのは、ちょっとひどすぎるというか、間違ってると思う」
  • 「うーん、なんか、札びらで顔をはたいて押しつけているみたいに見える、ほらカネがほしいんだろって補助金を突きつけるやり方は、社会正義として納得いかないものがある」
  • 「過疎対策は原発建設とは関係なくすべての自治体にやるべきことで、原発受け入れを取引材料にするっていうこと自体、間違ってると思う」
  • 「過疎地の財政難や仕事のなさで悩んでる自治体っていうのは、借金をかかえて困ってる人みたいなもので、そういう人に強い立場にある者が言うことを聞かせるのは簡単なんだと思う、それを引き受けた側の「自己責任」って、一方的に引き受けた側に責任があるようにいうのは、視野の狭い考え方だと思う」
  • 「過疎地に原発を押しつけてきた首都圏の人間にも責任はあると思う、事故がおきる前なら、それは持ちつ持たれつの関係だって思ったかも知れないけど、福島の事故がおきたいまは、もうそういう考え方はできない」


というところだった。授業で使った資料とレポートの課題は先日書いたこちら。


原子力発電は必要か
http://d.hatena.ne.jp/box96/20110313/1299988959

1000年後の世界

3年生の選択授業で、科学技術に対する人々の意識の変化について話をする。


20世紀半ば、科学技術は人間に利益のみをもたらすと考えられていた。そういう中で科学技術がもたらすバラ色の未来像がさかんに描かれようになる。超高層ビルの谷間をぬうように流線型の空飛ぶクルマが飛び回る未来都市では、科学技術の発達によって食料も資源も飛躍的に増えたことで地球上に飢えた人はいなくなり、医療の進歩であらゆる病気は過去のものとなり、最新型の「マイカー」に乗れば気軽に月旅行にも火星旅行にも行けるようになる。それは「鉄腕アトム」の21世紀であり、「ドラえもん」の22世紀である。十万馬力の科学の子は原子力エネルギーで空を飛び、星の彼方で地球の平和を守った。当時は原子力も夢のエネルギーで、まもなく登場したアトムの妹は「ウランちゃん」だった。「アトムおにいちゃん」「なんだいウランちゃん」というふたりの会話はいま聞くとなかなかブラックである。科学技術がもたらすユートピアとしての未来世界は、日本だけではない。宇宙船エンタープライズ号に乗ったカーク船長は銀河の彼方で宇宙人美女とのロマンスをくりひろげ、宇宙家族ジェットソンのお父さんは空飛ぶマイカーで月や火星の職場へせっせと通勤した。まだ、ほとんどの人たちは、科学技術のマイナス面に気づいていなかった。三重県四日市で大気汚染によるぜんそく患者が発生しはじめた1950年代、四日市の化学コンビナートに隣接していた小学校では、「工場からもくもくあがる白い煙は私たちの希望です、日本の明るい未来です」という校歌がつくられた。その小学校では、高度経済成長の最盛期、もくもくあがる白い煙によって児童の40%がぜんそくを患うことになる。1962年、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」がアメリカで出版された。そこに書かれているのは、DDTをはじめとする強い農薬を大量に散布すると土壌汚染や水質汚染をもたらし、ひいては食物連鎖によって人間にも健康被害をもたらすという現在の我々にはすっかり常識となった内容だったが、科学のもたらすバラ色の未来を思い描いていた当時の人々には受け入れがたいものだった。カーソンはやがて学会からも産業界からもはげしい批判にさらされることになった。


20世紀後半に入って、ようやく人々は科学技術のマイナス面に気づきはじめる。品種改良や農業技術の革新で食糧が増産されても、いっこうに南北問題は解決せず、飢える人は後を絶たなかった。あたりまえだ。飢餓や貧困は本質的に社会制度に起因する問題なので、科学技術が発達すれば自動的に解決してくれるわけではない。飢えてる人たちにトウモロコシをまわすよりも牛に食わせて太らせたほうが儲かるという経済システムで世界がまわっているかぎり、いくら大規模農場で食料が大量生産されても貧富の差を拡大させるだけだからだ。またこのころ、公害の問題が世界各地で深刻化し、人類に利益のみをもたらすはずだった化学物質が人体に悪影響を与えることがあるということを人々はようやく理解しはじめた。さらに米ソの冷戦が激化する中で、広島型原爆の数百倍・数千倍という威力を持つ巨大な核兵器が次々に開発され、核実験の巨大なキノコ雲の映像は、いったん全面核戦争が勃発したら、人類が絶滅する可能性があることを見せつけた。夢のエネルギーのはずだった原子力は、チェルノブイリ原発の事故によって放射能汚染が人間の住めない空間を作り出すことを現実のものとしてつきつけた。1980年代に再びアニメ化され、リニューアルしたアトムは、いつの間にか核融合電池で動くようになっていたが、もう以前ほどの人気はなかった。そういう中で、20世紀後半、科学技術がもたらすカタストロフィーとしての未来像が次々と描かれるようになる。「猿の惑星」では、地球の支配者はチンパンジーとゴリラとオランウータンに取って代わられ、そこでの人間は知性を失い、類人猿たちの奴隷にされていた。教会でオランウータンの神父が「主は御自らの姿に似せて我ら類人猿をつくり、言葉と理性を与えたもうた」なんて説教している場面は、「人間」に特権的地位を与えてきた近代理性主義への皮肉だろう。「マッドマックス」では、全面核戦争によって世界は瓦礫と化し、わずかに生き残った人々は食料を奪い合い、荒くれ者たちが村々を襲っては略奪をくりかえしていた。「ブレードランナー」では、酸性雨が降り続く陰気な都市を舞台に、バイオ産業の暴走によって生み出された人造人間たちが人間社会への反乱をはじめていた。「風の谷のナウシカ」では、環境汚染と人工知能の暴走で科学文明は崩壊し、人々は遺伝子操作によって生み出された奇怪な生物に脅かされながら中世のような暮らしをしていた。科学技術は全肯定からいきなり全否定されたかのようだった。プラス面とマイナス面の両方を考慮しながら、リアリティのある未来像を思い描くのは難しい。

すべてを疑うか、すべてを信ずるかは、ふたつとも都合のいい解決法である、どちらも我々は反省しないですむからである。――アンリ・ポアンカレ「科学と仮説」


授業のはじめに1000年後の世界がどうなっていると思うか生徒たちに聞いてみた。その頃には宇宙船に乗って銀河の彼方へ自由に旅行できるようになっていると思うかと聞いたところ、そう思うと答えたのはSFアニメ大好きの男の子ひとりだけ。女の子たちは、口をそろえてまったくリアリティを感じないという。「ドラえもん」の未来のような、「ママ、いまから火星のレストランで食事してから帰るわね」なんていう世界はおとぎ話にしか思えないらしい。きっとJAXAはがっかりだろう。日本でSFドラマがほとんどつくられないのもこのへんに理由があるんじゃないかと思う。でも、1000年もあれば、技術的なブレイクスルーはなんでも可能なんじゃないのと聞くと、宇宙の彼方で人間が暮らしている未来世界よりは、産業社会が崩壊して昔のような自給自足の暮らしをしているか、人類が絶滅している未来のほうがずっとリアリティがあると彼女たちはいう。「環境問題にしても、核エネルギーにしても、バイオテクノロジーにしても、たんに技術開発をすすめることより、うまくコントロールしながら利用していくことのほうがずっと難しいと思う」とのこと。それは「人類は核兵器を作り出す程度には賢い、しかしそれを使わずにいられるほど賢くはない」と語った物理学者の言葉を連想させる。そういう中でひとりの女の子はこう言った。「1000年前っていうと紫式部清少納言がいたころですよね、1000年後の未来で人間がどんな暮らしをしているのかなんて想像もつかないけど、そこでもたぶん、「春はあけぼの」なんていってる人もいるんじゃないかって思うんです」。春はあけぼのだと思える未来というのは悪くなさそうだ。そうあってほしいと思う。そんなことを福島原発から300キロ離れた春の日の教室で思う。

 人間が滅亡したあと、この地球はゴキブリの時代になる――最近よく聞くこのたぐいの話は、いかにも生活力のたくましいゴキブリから連想された神話です。
 人間が開発し、人間が暖房している台所に適応したゴキブリは、その条件が取り除かれればたちまちその生活基盤が失われるはずです。まず、寒い地方からの大幅な撤退を余儀なくされるでしょう。そして、かつてのように山林原野でのほそぼそとした静かな生活に戻っていくことでしょう。
 そんなことよりも、この人類が、次の時代を他の動物にゆだねるような、そんなりっぱな絶滅のしかたをするかどうかのほうがずっと問題でしょう。――梅谷献二「虫の博物誌」

電力会社の広告の禁止 追記 


先日書いた「電力会社の広告の禁止」について、もし、電力会社からの広告によって、今回の原発報道がゆがめられているのだとしたら、広告費を受け取っていないメディアと比較しながら、具体的に記事や番組内容の問題点を指摘するべきだというコメントをいただいた。たしかにその分析は重要だし、マスメディアによる個々の報道を全否定してしまうのは合理的な判断とはいえない。また、番組出演者や記者の中にも原発に批判的な人たちは大勢いるだろう。しかし、マスメディアが巨額の広告費を電力会社から受け取り、自らの媒体を通じてさかんに原発推進のメッセージを発信していたことは、すでにジャーナリズムとして中立の立場から原発事故を報道していないことを意味している。それはひとつの報道機関としての社会的責任の問題であり、個々の記事や番組のあり方をどうこう言う以前の問題のはずだ。


そういう意味で、放送局や新聞社がまずやるべきことは、自らの媒体を通じて原発推進のメッセージを発信してきたことについて、どう責任を感じているのか、今後、電力会社からの広告をどう取り扱うのか、立場をあきらかにすることのはずである。原発事故をめぐっては、放送局も新聞社も自らの媒体で原発推進のメッセージを発信してきた以上、すでに中立の立場にはいないのだから、その釈明がなされないかぎり、いくら個々の記事や番組がすぐれた内容であっても、報道機関としての信頼は得られないはずである。


2004年、イラク戦争におけるアメリカの姿勢に手厳しい報道をくり返していたアルジャジーラに手を焼いたブッシュ政権は、アメリカ政府による全額出資のアラビア語ニュース専門チャンネル「アル・フーラ(自由な人々)」を開局させることにした。その中東向けニュースチャンネルで、ブッシュがいかに思いやりのある人物で、アメリカの中東政策がいかに人道的なものかを中東の人々に向けて発信し、あわよくばアルジャジーラからメディアの主導権を奪おうと画策したのである。悪い冗談のような話だが、実際に一億ドルの予算がつぎ込まれ、アル・フーラはヴァージニア州スプリングフィールドにある工業団地の中に設置された。工業団地内にあるスタジオには最新の設備がそろえられ、ヴァージニア州発、アラビア語による中東向け24時間放送の衛星チャンネルがスタートした。集められたアラブ人記者たちは、自分たちがブッシュ政権プロパガンダに利用されるのではないかと不安をいだきつつも、ジャーナリストとしてできるだけ良質なニュース番組をつくろうという意欲は高かった。しかし、アメリカ政府が全スポンサーになったニュースチャンネルなど、いったい誰が見るだろう。アル・フーラの視聴率は低迷し、中東の人々はアル・フーラを「チェイニー・チャンネル」と揶揄するようになった。もちろん、あの見るからに陰険そうな副大統領からとったあだ名である。番組スタッフの士気は低下し、やがて局内ではいざこざと派閥争いが頻発するようになった。政府はなんとかアル・フーラの中東での影響力を高めようと数度にわたってテコ入れを行い、さらに数億ドルが投入されたが、アル・フーラは現在にいたってもなお、視聴者不在のまま迷走をつづけている。


今回の原発事故の報道で、電力会社によるなんらかの圧力が働いているのか、外部の人間である私にはわからない。地方のテレビ局に勤めているというこちらの人のブログによると、営業と報道は別組織なので、番組にスポンサーからの圧力はありえないという。


ニセモノの良心 2011年4月12日「東京電力の広告費で別にマスコミは黙らない。」
http://soulwarden.exblog.jp/13363279/


一方、「ニュースステーション」で長年メインキャスターをつとめた久米宏は、当時、大手のスポンサーによる番組内容への圧力に苦慮したことをときどきラジオ番組で語っている。また、こちらの朝日ニュースターの動画では、大阪の毎日放送で、原発の危険性を訴える京大の研究者たちの活動を追ったドキュメンタリー番組を放送したところ、関西電力毎日放送からすべての番組提供を引き上げたというエピソードを青木理が語っている。
http://www.youtube.com/watch?v=uZZn4vq7m5M&sns=em


青木理の話に出てくるドキュメンタリー番組は、こちらに動画がアップされている。


なぜ警告を続けるのか〜京大原子炉実験所・”異端”の研究者たち〜
http://video.google.com/videoplay?docid=2967840354475600719#


上記の人たちが語っていることはまったく正反対なので、ブログ氏か、久米宏青木理のどちらかがウソをついていることになる。さもなくば、ブログ氏がとてつもなくにぶい人で、まわりが見えていないだけということになる。たいていの放送局は大所帯なので、報道部門に関わりがなければ、スポンサーによる圧力など一度も経験がないという人もいるだろう。番組づくりの実態がどうなのか私には判断しかねるが、「パソコン批評」から「週刊金曜日」まで、いままで広告を廃した雑誌がいくつか創刊され、そうした雑誌に関わった編集者やライターたちが口をそろえて、広告主からの圧力がいかに強いかを語っているところを見ると、ブログ氏がとてつもなくにぶい人である可能性が高い。たしか、筑紫哲也も「週刊金曜日」の創刊号で、自分のやっているニュース番組がいかにスポンサーに気をつかって番組づくりをしているかをぼやいていたはずである。


もっとも、くり返しになるが、今回の原発報道で実際に電力会社から報道内容への圧力があったかどうかは、問題の本質ではない。放送局や新聞社が自らの媒体を通じて原発推進のメッセージを発信してきたことは、ジャーナリズムとしてすでに中立の立場にいないことを意味している。それは記事や番組の内容以前の問題である。アル・フーラが中東の人々から「チェイニー・チャンネル」と揶揄され、そっぽを向かれたように、電力会社から巨額の広告費を受け取り、原発推進のメッセージを連日発信してきたメディアが原発事故の報道をしたところで、いったい誰が信用するというのだろう。もしも、新聞の同じ紙面に、上半分には「原子力は地球に優しいクリーンエネルギー」の広告が、下半分には「福島第一原発、復旧のめど立たず、放射能汚染深刻化、事故評価レベル7へ」の見出しがならんでいたとする。たとえ下段に記されている記事がどれほど深い洞察と鋭い分析に満ちた内容であったとしても、その紙面は悪い冗談にすぎない。それは報道機関として破綻している様子をさらすものであり、記事の内容をどうこう言う以前の問題のはずだ。広告がたとえ一ヶ月前のものであってもそれは同じである。


→ Wikipedia「アル・フーラ」