Alison

エルビス・コステロの歌には、ある人たちのある情景を切りとったものが多い。たとえば彼の代表曲のひとつである「Alison」は、昔の恋人にパーティ会場かなにかでばったり再会した場面から歌ははじまる。彼女は彼を振った後、よりによって彼の友人とくっついてしまって、いまはそいつと結婚している。一方、彼のほうはいまも彼女に未練たらたらで、ひさしぶりの再会なのに泣きの入った調子で一方的にねちねちと嫌みを言いはじめる。そんなどうしょうもなく情けない彼とそんな彼にうんざりしている元恋人との寸劇で、なんだかシチュエーション・コメディの一場面といった感じ。「ダーマ&グレッグ」にもこんなエピソードがあったような気がします。こんな歌詞です。


Elvis Costello "Alison" 1977
http://www.elviscostello.info/wiki/index.php/Alison


いちおう訳してみます。まず一番目の歌詞。

君と再会するなんて可笑しいね、ずいぶんひさしぶりじゃないか
僕にはわかるよ、君がいま心を動かされていないってことをさ
でもさ、聞いたよ、あいつが君のパーティードレスを脱がしたんだってね
僕は感傷的になんかなってないよ
未練がましい元カレみたいな連中とは僕はちがうんだ
だって、君が誰かを愛しているとしても、それが僕じゃないってことだけははっきりしてるからね


アリソン、僕にはわかってる、この世界が君を押しつぶそうとしてることを
ああ、アリソン、僕の目標は率直であることなんだ


もうなんかたまらない歌詞です。ひさしぶりの再会にもかかわらず、彼の挙動不審ぶりとうんざりした顔で彼のことを冷ややかに見ている元恋人との情景が浮かんできます。まるでウディ・アレンの映画を見ているような居心地の悪さです。二番の歌詞では、この状況がさらにエスカレートしていきます。

ああ、君に夫がいることは僕もわかってるよ
あいつが君の指をウェディングケーキの中へ入れたんだよな
そして君はあいつを抱きしめたんだ、君のその手で
あいつは手に入れられるものすべてを手にしたんだ


勝手に彼女が恋敵と抱き合ってる場面のディティールを再現して彼は嫉妬心から気持ちが高ぶっていきます。自分で言った言葉に自分が傷ついてる状況です。めんどくせえ奴。そうして感情の高ぶった彼はしだいに語調が荒くなっていきます。

ときどき君がくだらない話をしてる声が聞こえてくるんだ
そんなとき、その話し声を止められたらいいのにって思うよ
誰かこの光をかき消してくれれば良いのに
だって、もう耐えられないよ、こんなふうに君の姿が見えるのは


夢オチです。よりによって夢オチです。今までの未練たらたらなセリフはすべて妄想の中の彼女へ語りかけていたのでした。情けなくてもうなんか泣けてきます。歌ってる彼の声も泣きが入ってます。そして再びサビ。

アリソン、僕にはわかってる、この世界が君を押しつぶそうとしてることを
ああ、アリソン、僕の目標は率直であることなんだ


というわけで、この居心地の悪いシチュエーションと彼の情けない様子を引きつった笑いとともに聞くのが「Alison」の正しい聞き方だと思うわけです。というか、聴衆にはそれしか対処のしようがない歌だと思うんです。イッセー尾形のひとり芝居にひとり言をぶつぶつ言ってるへんなおじさんたちが登場するけど、ちょうどあれを見せられているような感じ。そんなわけで、エルビス・コステロはこの曲のヒットによって、ロックに演劇性とユーモアを持ち込んだとして評価されるわけです。熱心なファンの中には、楽譜を分析したり、歌詞のダブルミーニングを考察したりしてる人もいるみたいですが、これ、そんな深遠な歌じゃないと思うんです。だってこの歌詞だよ。たしかに切ない恋心を歌っていることにはちがいないけど、ストレートなラブソングではなく、引いたまなざしによって恋する者の愚かさをトラジコメディ(悲喜劇)として提示してるのがこの歌の持ち味だと思うんです。人間が必死になってやってることはたいてい滑稽だというのは、シェイクスピアからMr.ビーンまで、イギリスのコメディの伝統です。


では、曲もどうぞ。1999年のウッドストックでのライブ演奏からです。YouTube便利ね。



それにしてもエルビス・コステロの声はいつ聞いても魅力的です。黒ぶちメガネをかけたさえないルックスのおじさんが、少しかすれていて、でも、管楽器みたいによく響く歌声を発すると、その瞬間に彼がロックスターだということに納得がいきます。桜井和寿がまねしてみたくなったのもよくわかります。とくにこの1999年のライブは、1977年の録音よりずっと声に深みがあって思わず聞き入ってしまいました。ステージ通しの映像はこちら。58分。


Bei Mir Bist Du Schön

梅雨の晴れ間でひさしぶりに青空を見る。気分が良いので駅まで40分の道のりを歩いて出勤する。途中、後ろから自転車に乗ったおねえさんが猛烈に調子っぱずれな歌を大声で歌いながら追い越していく。彼女もよっぽど気分が良かったんだろう。なんだか朝からいいものを見てしまったという感じ。みーたーぞー。


先日、なぜか突然アタマの中で「Bei Mir Bist Du Schön」のメロディが鳴って以来、鼻歌でヘビーローテーション中。歌詞もメロディもうろ覚えなので全部てきとう。えーとこの歌あそこのところはどんなメロディだっけほらあれあれ、こんなときはYouTube。なんせスタンダードナンバーなので、アンドリュー・シスターズの有名なやつから、男三人組のコミックバンドがラッパをふがふがいわせながらずっこけてるものややけにセクシーなおねえさんがハスキーな声でスローに歌うものまで、検索すると大量にヒットする。なかでも気に入ったのは、プッピーニ・シスターズの三人組がアカペラで歌っているこれ。見てて圧倒されるくらい気持ちよさそうに歌ってます。朝の自転車のおねえさんといい勝負。こちらはなんの歌かわかるところが大きなちがいだけれど、もしかしたら朝のおねえさんは元歌が何かわからないくらい音を外していたのではなく、自作のオリジナルソングだったのかもしれない。



プッピーニ・シスターズはイギリスのグループだそうで、こちらのブログで詳しく紹介されてます。
http://sleepyluna.exblog.jp/6967807/
http://earpawscratch.jugem.jp/?eid=2


ちなみに「Bei Mir Bist Du Schön 」の歌詞はこんなの。影のある曲調のわりに歌詞は他愛もないラブソングです。
http://www.songteksten.nl/songteksten/61636/the-andrew-sisters/bei-mir-bist-du-schon.htm


追記 聴きくらべ Bei Mir Bist Du Schön


オリジナルのアンドリュー・シスターズもの。プッピーニ・シスターズよりもずいぶんゆっくり。


で、こっちはドイツのおねえさん三人組。オーソドックス。この歌で思い浮かぶイメージはこんな雰囲気。


イタリアの女装三人組、マリネッティ姉妹。CDも出してます。


オランダのウクレレおねえさん三人組。ウクレレの音色は夜の酒場より昼間の喫茶店の感じ。


イギリスのジャズバンドによるアレンジをきかせた演奏。ヴォーカルのおねえさん、カメラに向かって一切媚びないのがいい。


ニューヨークのスイングバンドによるやたらとゆるい演奏。キャブ・キャロウェイみたい。ダンスホールでのライブ演奏のようです。

MotoGP

CS放送で二輪のグランプリ・レースを中継していた。最近は「MotoGP」というらしい。出走前にピットのスタッフや選手の様子が映し出され、選手やレーシング・チームが紹介されていく。選手たちはみな若い。おどろくほど若い。彼らの多くはニキビ顔のティーンエイジャーたちである。小排気量のクラスだと中学生くらいにしか見えない子もいる。なにこれ、筑波サーキットのちびっ子大会じゃないよね。私は、自動車レースというと二輪でも四輪でも、スティーブ・マックイーンの映画のような、なにかと金をせびりに来る飲んだくれの父親との長年にわたる確執とか、こどもの頃は仲が良かったのに些細な行き違いですっかり疎遠になってしまった弟のこととか、別居中の妻との愛憎入り交じるややこしい関係とか、心に刺さった棘をいくつも抱えている中年男たちが死と隣り合わせのスピードの世界にのめり込んでいる――そんな少し屈折した影のある人々を思い浮かべていたので、ニキビ顔の少年たちが時速300kmで競い合っている光景はなにか異様なものに映った。


二輪でも四輪でもレーサーの低年齢化は世界的な傾向のようで、彼らの多くは四歳、五歳の頃からレーシング・スクールでポケバイやカートに乗って英才教育を受け、国内レースを勝ち抜いた子たちが十代なかばでプロ・レーサーとして世界選手権にデビューするというのが近年の一般的な道筋になっているらしい。よほど家庭が裕福で親がレース好きでなければ、四歳のこどもに自動車レースを習わせようとは思わないだろうから、元有名レーサーのこどもや孫といった二世三世が増えているのも最近の傾向である。昨年のMotoGPチャンピオンは十六歳で世界選手権にデビューし、MotoGPでの初タイトルは二十二歳。一昨年のMotoGPチャンピオンは十五歳で世界選手権にデビューし、十九歳で250ccの年間タイトルをとっている。たしかに「乗り物を上手に乗りこなす」という点で、中国雑伎団スタイルの英才教育は理にかなっている。小学生ならば数日もあれば器用に一輪車を乗りこなすようになるが、おとなではなかなかそうはいかない。レーシング・テクニックの習得も、こどもたちの場合、さぞや効率よく吸収していくだろう。そうしてグランプリ・レースが少し屈折した中年男たちによるスティーブ・マックイーン的世界だった時代は過去のものとなり、企業が巨額の開発費を投じてつくりあげたレーシング・マシーンにニキビ顔の少年たちが乗って競い合う状況ができあがっていった。ただし、それが死と隣り合わせの競技であることはいまも変わっておらず、二輪レースでは毎年のように若いレーサーが事故死している。


モーター・スポーツにかぎらず、スポーツ・シーンというのは、そこから物語性を取り除いたら、跳んだりはねたりしているだけの物理現象にすぎない。飛距離160mの大ホームランにしても、フィギュアスケートの四回転ジャンプにしても、まあ色々抱えてるものがあるんだろうなという人間がやっているから興味をひかれるわけで、そこに物語性を読み取れなければ、ロボットが圧縮空気を使って時速500kmの剛速球を発射するのを見ているのとかわらない。時速500kmの剛速球がうなりをあげて飛んでいく様子はさぞや迫力があるだろうし、その威力もすさまじいだろうけど、でも、そんな物理現象の観察は一回見れば十分でしょ。ロボットが120球完投勝利するのを最後まで見届けたりしないでしょ。もちろん、若いレーサーたちを「ロボット」だと言うつもりはない。ただ、物心つくかつかないかの頃からオートバイ・レースの英才教育を受け、そのままプロのレーサーになった少年たちに私はなんの物語も思い描けなかったので、結局、そのレース中継は派手な色に塗られたオートバイがただぐるぐる周回しているだけの奇妙で不気味な見世物にしか見えなかった。レース会場はイギリスのシルバーストーン・サーキットだったが、スタンドにレーサーと同世代のティーンエイジャーの姿はほとんど見当たらず、観客は40代50代くらいの男性ばかりだった。日本のオートバイ・レースでは、よく冗談でスタンドの平均年齢は毎年一歳ずつ上がっていると言われるが、オートバイの愛好家が年配の男性ばかりというのは世界的な傾向のようだ。彼らはニキビ顔の少年たちが死と隣り合わせの時速300kmの世界で競い合っている光景に、いったいどんな物語を思い描いていたんだろう。


レースの後、テレビのインタビューに、小排気量クラスにエントリーしているという日本人の男の子が登場した。ずいぶんインタビュー慣れしているようで受け答えは大人びていたが、やはり中学生くらいのようだった。学校はどうしてるんだろう。次のレースへの意気込みを聞かれて、彼は声変わりしたばかりのような声でこう話した。「オランダGPのアッセンは、まだテレビゲームでしか走ったことがないんだけど、がんばります」。


motogp.com
http://www.motogp.com/ja

謎の彼女X


ある日、クラスに転校生の女の子が入ってくる。転校生は無口で無愛想。長く伸びた前髪に隠れて表情もよくわからない。休み時間のたびに机に突っ伏して寝てしまい、転校したばかりで心細いだろうと気づかったクラスの女の子たちが話しかけても、「私いま眠いから、悪いけどじゃましないでくれる」ととりつく島もない。まもなく彼女はクラス中から「へんな奴」と認識されるようになり、誰も積極的にコミュニケーションをとろうとしなくなる。そんなある日、隣の席の男の子がカバンを取りに放課後の教室に戻ると、「へんな奴」である転校生の少女が机に突っ伏したままひとり寝入っている。彼女は熟睡している様子で、少しひらいた口元からよだれが流れている。彼は彼女をしょうがない奴だなと思う。もう下校時間だぞとゆすり起こすと彼女は眠たげに顔を上げる。それを見て彼ははっとする。あいつこんな顔をしてたんだ、けっこう可愛いんだな。誰もいなくなった夕暮れの教室で、少年は彼女の口元によだれのついた顔をアタマの中でくり返し反芻する。彼女の机にはよだれがまだついている。彼はそれを少し指に取り、なめてみる。不思議なことにそれはすごく甘い味がする。その晩、彼は彼女の夢を見る。どこか知らない奇妙な町でふたり手を取って踊っている。そこは町全体が見世物小屋のように装飾過剰な雑然とした空間で、ふたりは町を見下ろすようにつくられたステージの上で手を取り合って踊っている。いつもは無愛想な彼女がそこでは屈託のない笑顔で彼にほほえみかけ、彼の手を取ってくるくると踊っている。その日を境に、へんな転校生は彼にとって妙に気になる存在になり、彼の日々はその少し風変わりな少女を中心に回り始める。


数年前から「月刊アフタヌーン」に連載されている「謎の彼女X」はこんなふうにはじまる。夢見る少年ではない私は、その娘さん、糖尿検査をしてもらったほうがいいのではないかと思ってしまうのだが、恋する少年である主人公はもちろんそんなことは考えない。彼はやがてよだれを介してヒロインと感情や想いを共有するようになる。彼女が悲しいときのよだれをなめると彼も悲しくなるし、うれしいときのよだれをなめると彼もうれしくなる。ヒロインも彼のよだれをなめると彼の考えていることや昨晩見た夢の内容までつたわる。ずいぶんと非現実的な話だが、物語はほぼすべて主人公のまなざしを通して描写される恋する少年の意識の世界なので、そこに客観性は介在しない。そこでは主人公にとってヒロインのよだれは甘く「感じる」し、よだれを介して恋するふたりには互いの気持ちが「伝わる」のであって、物理的に彼女のよだれが甘いのかどうかは関係ない。


ヒロインは無口で無愛想だけど妙に純情でまっすぐな少女。高校2年生という設定のわりに大人びていて、物怖じせず、自分の考えをはっきり言う。だから、クラスで変わり者あつかいはされていてもとくに嫌われているわけではない。このヒロインの魅力が作品を支えている。気の強いヒロインが怒ったような表情で主人公をにらみつけ、その直後に顔を赤らめて走り去っていく描写は、恋する少年でなくてもどきどきさせられる。書き手がこのヒロインに惚れて描いているのも伝わってくる。一方、主人公は、片思いをこじらせてフェチに走ったという感じの男の子。勉強ができるわけでもなくスポーツが得意なわけでもなく、むしろ、高校2年生にしてはその言動は幼い。冒頭の机についたよだれをなめる行為にしても、小学生が好きな子のリコーダーの吹き口を自分のとつけ替えるようなもので、ふつう高校生にもなったら自尊心がじゃまをしてそんなことはしない。ヒロインが芯の強いしっかりした女の子として描かれているだけに彼の稚拙さはより際立っている。精神年齢がちがいすぎるので、当然、ふたりがつきあうようになっても、彼はヒロインから一方的にやり込められるばかりでケンカにすらならない。では、ヒロインはそんな主人公のどこが好きなのか。これがさっぱりわからない。ヒロインが主人公にとってミステリアスな存在で、恋愛感情に明確な根拠などないとしても、彼女が主人公の言動にはっとさせられる場面やなんらかの事件を通して絆を確認するエピソードが描かれないと、このアンバランスなふたりにリアリティのあるラブストーリーは成立しないはずである。


ヒロインのような女の子は、現実ならば、年上の恋人がいて同級生の男の子なんか相手にしないタイプに見える。もしもヒロインに大学生くらいの恋人がいて、主人公がそんな少し大人びた彼女に片思いしているというのなら、その関係は猛烈にリアリティがある。きっとそんな男の子は実際に大勢いるだろう。ところが劇中では、よだれによるふたりの絆という飛び道具のような仕掛けによって、いきなりふたりは恋いにおちる。それは「こんな可愛い子が自分の彼女だったら良いなあ」という男の子の願望の世界の物語であり、リアリティがないという点で、空から降ってきた女神様や常世の国の乙姫様とむすばれる話とかわらない。だから、主人公のなまなざしを通して描かれるこの物語の中でヒロインは常に他者であり、相手のまなざしをおそれて卑屈になることも自己嫌悪にさいなまれることもない。そこには恋愛感情にともなう痛みやつらさもなく、ただふたりが顔を赤らめて見つめ合っている高揚感だけが続く。しかし、恋愛は偶像崇拝やファン心理とは異なり、一方的に偶像視しているだけでは成立しない。だって、生身の人間にとって、その一方的な偶像視のまなざしは怖いもん。


連載がはじまったころの絵柄は1970年代から80年代にかけての少年漫画という感じでかなり古くさい。とくに女の子のプロポーションと丸っこい横顔はあの頃の吾妻ひでおの絵柄によく似ていて、夢のシーンにはナハハやシベールも登場する。作者が自分の高校時代を振り返りながら、あの頃にこんな恋人がいたら、あの時にこうだったらと自分の体験と重ねて描いているということなので、意図的にこうした絵柄を用いていたんだろう。劇中でくり返し描かれる黄色く染まった夕暮れの風景の中を学校帰りの主人公とヒロインが歩いているシーンはそれが遠い記憶の中の出来事のように見える。そのため、携帯電話やインターネットも登場しないし、登場人物たちはセーラー服に詰め襟の古めかしい制服を着ている。ただ、最近は絵柄や作風もずいぶん変化して、物語世界そのものよりも個々の登場人物のほうに焦点が当てられるようになってきた。長期の連載でしだいに登場人物たちが自意識を持って動き出すようになったんだろう。これはこれで等身大の若者たちの現在進行形の青春像という感じで良いんだけど、心の深い部分へ降りていく展開を期待していた者としては少々物足りなさも感じる。前々作の「ディスコミュニケーション」では、学園生活を舞台にしたドタバタギャグとシリアスな内面世界の描写とをはっきり分け、それによって作風も変えていたが、両者はそんなに明快に分かれるようなものではないはずだ。あわただしい日々のなかに得体の知れないものが顔を出すこともあるし、遠い記憶のなかにも下世話でバカげたものもある。両者を織り交ぜながら、心の中を縦に掘り下げていくような展開になればいいのにと思う。


1巻より
ふたりのいる風景はいつも夕焼けに染まり、アスファルトにはふたりの長い影が伸びている。この叙情的な風景は主人公が見る夢以上に夢の中にいるような感覚を覚える。それは目の前の風景がどこか遠い出来事のように感じる既視感と似ていて、記憶の中にある中学生の頃に見ていた風景もこんなふうにあかね色に染まっているような気がする。ヒロインはこの常世の国の乙姫であり、主人公はそこに迷い込んでしまった訪問者である。そこでは季節が移り変わっても時間は経過せず、ふたりは成長しまいまま高校二年生の一年間を何周もループし、ふたりの関係もどんな事件がおきても必ず最後には元通りに修復される。はじめの数話の暗くあやしい雰囲気は、これから先、ふたりにどんな大事件がおきるんだろうと期待させるが、結局、話はどこにも転がっていかず、常に元通りの場所へ戻ってくる。なので、枝葉の部分を切り払ってしまえば、ふたりがチッチとサリーのように顔を赤らめて見つめ合ってるだけの漫画である。きっと乙姫であるヒロインはこの男の子の願望の世界を動かすために夜中になると世界のねじを巻いているはずである。



2巻より
学校からの帰り道にヒロインのよだれを主人公がなめるのがふたりの日課。よだれを介してふたりは感情を共有するが、ストーリーが毎回単純なので、それがふたりの内面を掘り下げる仕掛けとしてあまり生きてこないのは残念なところ。永劫回帰の構成にくわえて、ストーリー展開よりも場面場面の情景描写の密度の濃さで見せていく漫画なので、物語としての広がりはほとんどない。この回のエピソードは、幼い頃に亡くなったという主人公の母親の墓参りへふたりで行く。墓の前で、彼が母親についての記憶がほとんどなく、亡くなったときに悲しかったどうかも覚えていないと話すと、彼女は彼の口に指を差し入れ、そのよだれをなめる。すると彼女の目に涙があふれてくる。いまはもう覚えていないけど、あの時のあなたはやはり泣いたのよと彼女は言い、その回は終わる。ずいぶんあっさりした展開である。よだれをなめる行為から彼女が涙を流す描写までの間に、ふたりの内面を掘り下げるエピソードがはさまれないので、読む側は傍観者としてふたりのやり取りを眺めるだけになってしまう。たとえば、墓の前でよだれをなめたとたん、ヒロインは幼い主人公の通う幼稚園の先生になっている。職場の同僚から、幼い主人公が母親を亡くしたばかりだと聞かされるが、彼は砂場で「お仕置きだべえー」なんて言っていて悲しそうなそぶりを見せない。不思議に思った新任の美琴先生はその理由をしらべはじめる。夢なのか記憶なのかわからないその体験の後、母親の面影にふれたことで、ふだんへらへらしている主人公はうつむいて黙り込み、逆にいつも冷静なヒロインは声を上げて泣き出す。ストーリーづくりの上手い作家なら、この墓参りのエピソードはいくらでも話をふくらませられたのではないか。そうして強烈な共通体験によって一時的にふたりの立場を逆転させないと、この男の子の願望の世界にラブストーリーとしてのリアリティは成立しないように思う。「じゃあ、また明日ね」という何気ないひと言も、なにか特別な出来事をふたりで共有した後では、重みがまったくちがってくる。この回はふたりに絆を確認させることでシリーズ全体のキーになるエピソードになったのではないかと思う。



8巻より
7巻目から登場する妙に色っぽい同級生。ぞくっと来る場面である。微妙な心理をあらわす女の子の表情や状況描写は陽気婢の漫画を連想させる。連載がつづくにつれて、叙情的な情景描写よりも登場人物の心理描写にウェイトが置かれるようになっていった。ラブストーリーは登場人物たちのまなざしの物語なので、そのまなざしに映る情景をどれだけ魅力的に描けるかにかかっている。読む側は彼らのまなざしを通して体験を共有するので、第三者から見て彼らがカエルに見えようがニワトリに見えようが一向にかまわない。映画やドラマの場合、その描写に生身の肉体が介在するので、不特定多数の観客を物語の世界に惹きつけるためにどうしても美男美女の俳優が役柄を演じることになりがちだが、漫画はこの主観の世界をそれ自体として完結できる表現媒体である。なんせ絵なんだから。登場人物のまなざしに映る一瞬の情景が切り取られ、その絵に魅力があれば、ヒロインが学校一の美少女だろうとカエルだろうとどうでもいいはずである。そういう意味で物語のヒロインをアイドルにたとえるのは的外れである。それはキャラクターグッズで儲けようとする者のまなざしであって、物語の中で体験するまなざしではない。



8巻より
絵柄が変化するとともにヒロインも感情をはっきり表に出すようになり、彼女の視点からの描写も増えた。8巻では、勘違いで落ち込んだり、焼きもちを妬いて道端でずっこけたりといそがしい。はじめのころの夜中に世界のねじでも巻いてるのではないかという雰囲気はすっかり影をひそめ、もうほとんど「りぼん」か「なかよし」の恋するヒロイン。これはこれで等身大の高校生の恋愛模様という感じで可愛い。彼女の未熟な面が描かれるようになったことで、主人公の男の子との釣り合いもとれてきたように思う。上のシーンでは、ヒロインの心理描写として、髪が逆毛立ったり、背景に白い玉ボケが盛大に飛んだり、「かあああああ」の書き文字が集中線の役割をしていたりとけっこう芸が細かい。

あたい

自分のことを「あたい」という人物には二種類いる。桃井かおりと落語の与太郎である。ATG映画で桃井かおり演じるはすっぱな若い女がけだるい調子で言う「あたいさあ〜」と落語の与太郎が素っ頓狂な声で言う「あたいはねっ」とではニュアンスがまるで異なる。もちろん私が親近感をおぼえるのは与太郎のほうで、与太郎と若旦那の間抜けな会話を聞いているととても他人とは思えないのである。


デジタルカメラは機械としてあるべき形から大きくはずれているように思う。35mmフィルムカメラの場合、横長の平たい直方体から垂直にレンズが出ている形状は、使いやすいからそうなっているのではなく、パトローネと呼ばれる金属ケースに入ったロールフィルムを内部に納め、横方向に巻き上げながら撮影していくためのものだ。同じようにムービーカメラは長尺のフィルムを縦方向に高速で巻き上げながら撮影していくので、形状も縦長になっている。それは自転車のふたつの車輪が縦にならんでいるのといっしょで、構造的な必然によるものである。デジタルカメラの場合、そうしたメカニズムによる制約がないにもかかわらず、フィルムカメラと同じ形をしている。平たい箱の四隅をつまむようにして持ち、それをわざわざ顔の前にかざして撮影する様子は、見るからに使いにくそうだ。「手持ちの液晶モニターを見ながら撮影する機材」としては、PSPに回転式のレンズがついているような形状が本来あるべき姿だと思う。現在、「デジタルカメラ」として売られているすべての商品は、私にはフィルムカメラを懐かしむためのレトログッズに見える。近いうちにすべて消えていくだろう。


ほとんどの場合、自分が言葉で考えていないことに気づいた。たいていの物事は視覚イメージや手触りや臭いで把握され、それらを幾何学的なイメージの中でパズルのピースとして組み合わせることで概念化される。たとえば、「そろそろバイクの冷却水を交換しなくてはいけないなあ」というのは、エンジン各部の形状と必要な道具と冷たい水の感触と固いボルトの手触りとを思い浮かべ、それらの要素をパズルのピースとして組み合わせることで「冷却水を交換する手順」として認識される。同様に、「はやく確定申告を済ませなくてはいけないなあ」というのも、確定申告の書類と税務署までの道順と窓口でやることを映像イメージで思い浮かべ、各要素をパズルのピースとして組み合わせることで「確定申告の手順」を把握するといった具合だ。話をしたり文章を書いたりするのは、私の場合、その映像イメージや手触りや臭いの感触を幾何学的に組み合わせ、言語に翻訳する作業なので、けっこう時間がかかる。そういう意味で、いまこうして文章を書いているのは言葉で考えるためのトレーニングのようなものである。早口でまくしたてるように喋る人やあっという間に長文の文章を書き上げる人というのは、きっとふだんから言葉で物事を認識しているんだろう。コミュニケーションは楽そうだが、それが認識の手段として便利なのかどうかはわからない。言葉の網の目はけっして細かくはないので、そこからこぼれ落ちるものも多いのではないかと思う。


CBSの「60 minutes」でクレイグ・ヴェンターのインタビューをやっていた。ヒトゲノム解読や人工バクテリア製造でリーダー的役割をしていた生物学者だ。インタビューの中で彼は「私は視覚的なイメージでものごとを考えない」と話していた。常に抽象概念として物事を把握しているのだそうだ。映像を介さず抽象概念として物事を把握するというのはいったいどういうことなんだろう。彼がバイオテクノロジーについて語っている内容よりも、そのことのほうが気になった。


テレビやっていた宝塚の舞台中継を少しだけ見た。あいかわらずのオーバーアクションと大げさなセリフまわし。ほとんど歌舞伎かオペラだ。とても現代演劇とは思えない。もし自分が演出を担当したら、つかこうへいみたいに「てめえら鏡を見ながら毎晩オナニーしてるだろ」なんて誰彼かまわず毒づきそうだ。あの特殊な様式がなぜ宝塚にかぎっていまだに受け入れられているのか不思議でならない。金髪たて巻きカールの登場人物たちが「あーらよろしくってよ、お手並み拝見ですわ」なんて奇妙な日本語をオーバーアクションで話している様子はまるっきりコントだ。なぜ芸人たちはあれをパロディーにしないんだろうか。あ、でも、つかこうへいの娘って、宝塚だっけ。


最近の洗濯機はたいてい全自動なので、人間がやることは汚れた服と洗剤を入れてボタンを押すだけである。日本語ではそれを便宜的に「自分で洗濯する」と言っているが、私には「機械に洗ってもらってる」としか思えない。このボタンを押すだけの行為を「自分で洗濯している」と言っていいんだろうか。掃除ロボットの起動ボタンを押すだけの行為を「自分で掃除している」と表現する人が出てくるのもそう遠くないことのように思う。


日本の国語教育と英語教育は文学偏重であるという批判が出て、十年くらい前から授業内容は大きく変わった。いまや英語のテキストにオー・ヘンリーの短編小説は登場せず、その代わりに工業用ロボットアームのマニュアルやES細胞の解説文が載っているらしい。現代文の言語表現という単元では、冷蔵庫や掃除機を生まれてから一度も見たことのない人に向けてそれらがどのようなものか800字で説明しろなんていう課題をだしたりするとのこと。実用的といえば実用的だが、どうせなら実際に冷蔵庫や掃除機を分解・組み立てさせたほうが内部構造も理解できていいんじゃないかと思う。そもそも、冷蔵庫がどういう原理で冷やしているのか、掃除機がどういう原理でほこりを吸い込んでいるのか理解していない者にそれらがどういうものかを説明させようというのも乱暴な話である。機械メーカーで設計やメンテナンスをやってるような人間は、たいてい中学生や高校生の頃に親の自転車やパソコンを勝手に分解してしかられた経験があるはずだ。


ふと思い立って笹沢佐保の「木枯し紋次郎」をまとめて読んだ。当然ながら、原作にはテレビシリーズの高らかに歌い上げる主題歌も講談調のナレーションもなく、そのぶん紋次郎の寂寥感と刹那的な生き方が強調される。「あっしには明日なんてものはありやせん。今日が終わればただ次の日が来るだけのこって」「あっしの旅に目的なんてものはねえんですよ。無宿人の渡世に居場所なんてものはどこにもねえから、旅をつづけているだけでござんす」。だから、彼は誰もあてにしないし、誰にも期待しない。他者になにかを求めても裏切られるだけだからだ。そうやって彼は幼い頃から自らの腕だけを頼みにして生き抜いてきた。紋次郎が咥えた爪楊枝を笛のように鳴らす、かすれた物悲しい響きは、そんな彼の抱く寂寥感の象徴である。物語は天保の飢饉後の殺伐とした社会状況を背景に、人々の困窮した暮らしぶりと貪欲さがくり返し描かれる。紋次郎は人との関わりを常に避けているが、行く先々で彼を利用しようとする者たちに出会う。他者を出し抜いて生きようとする者にとって、彼のような腕の立つ流れ者は都合の良い捨て駒として映る。彼の出会う実直な行商人は盗賊の黒幕であり、母親思いの孝行息子は追いはぎであり、大店の貞淑な女房はやくざの情婦である。登場人物たちの見せるその二面性と冷酷さに読む側は驚かされるが、紋次郎は彼らの思惑を知っても顔色一つ変えない。幼い頃から人間とはそういうものだとくり返し思い知らされてきたからだ。それに浮草暮らしの中で生きるためにあがいているという点では彼らも紋次郎とかわらない。だから、彼らの企みが露見した後も、紋次郎は自らに降りかかった火の粉を払うだけで制裁を加えることもなく、物語の終わりでは決まって、その場から逃げるように爪楊枝のかすれた響きとともに峠道を去って行く。「木枯し紋次郎」はそんなエピソードが短編連作の形でつづられていく。

もっとも、シリーズが安定期に入る四五冊目あたりから、しだいに単調に感じるようになる。このあたりから物語は永劫回帰のパターンに入り、紋次郎のキャラクターが確立されるとともに彼は三十代前半のまま歳をとらなくなる。エピソードは主人公の前をただ通り過ぎていくだけになり、紋次郎に何の変化ももたらさない。やくざの抗争に巻き込まれて激しい斬り合いを繰り広げても次のエピソードでは傷一つ負わずに峠道を歩いているし、めずらしく彼が心を許した相手から手ひどく裏切られてもやはり次のエピソードでは何事もなかったかのように別の土地を旅している。雑誌に掲載された一本の読み切り短編としてはそれでもいいが、単行本として短編連作の形にまとめられると主人公になんの変化も起きないこの構成はしんどい。物語の入口と出口は違うところにあるべきだし、物語の事件を通して主人公の変化していく姿が提示されるべきなのだ。それをやめてしまったら、読者と主人公との体験の共有は失われ、物語は遊園地のアトラクションのように娯楽としてただ消費されていくだけになってしまう。というわけで只今八冊目で挫折中である。


小学生の頃、同じクラスだったよっちゃんの家へ遊びに行くとたいてい近所のこどもたちが誰か彼か遊びに来ていた。よっちゃんはみんなでいっしょに遊ぶ楽しみ方をよく知っていて、いつも鷹揚で誰に対しても意地悪なところがなかったので、自然とよっちゃんを中心にこどもたちは集まった。みんなよっちゃんといっしょに遊びたかったのだ。少しわがままで自分勝手な私はとくによっちゃんを独り占めしたがった。よっちゃんは運動や勉強が得意だったわけでもなく、リーダーとしてみんなを仕切っていたわけでもないが、よっちゃんは私のヒーローだった。そうして我々は雑木林に秘密基地を建設し、銀玉鉄砲で銃撃戦を繰り広げ、畑をはさんで互いにロケット花火を連射し合い、リモコン戦車のひっくり返しっこに興じた。サービス精神旺盛なよっちゃんは銀玉が命中するとぐええ〜と盛大に痛がって倒れた。中学へ入ってややこしいことを考えるようになった頃からしだいによっちゃんとは疎遠になり、ちがう高校へ進んだことでつきあいもなくなっていったが、30になったくらいの頃、よっちゃんが結婚したというので結婚祝いの手土産を持って新婚宅へ遊びに行ってみた。新婚のよっちゃんの家は古い木造の平屋で玄関も窓も開けっぴろげだった。「おう来たな」と通されたよっちゃんの部屋は、古いマックやらゲームディスクやらが散乱しており、なぜかそこには小学生くらいの男の子たち数人がいてバーチャファイターの対戦で盛り上がっていた。さらに新たなこどもたちが次々に窓から部屋をのぞき込んでは、「あっやってるやってる」と言いながら勝手に上がり込んできた。「親戚の子?」「ううん、近所の子、最近、勝手に上がってくるようになっちゃてねえ」。引っ越してきたばかりの頃、よっちゃんが自室でテレビゲームをしていたら、開けっ放しの窓からこどもたちがやりたそうな顔でのぞき込んでいたので、「やるか?」と声をかけて以来、近所の子たちが集まってくるようになったという。よっちゃんはあいかわらず鷹揚で、おもちゃ箱のような部屋はきっと居心地が良いんだろう。そんなゲーム会場を横目で見ながら、「いいんですかい、これで?」と新婚の奥さんに聞くと、彼女も「まあよっちゃんだからねえ」と笑っていた。うん、なんたってよっちゃんだもんね。よっちゃんはあいかわらずよっちゃんだった。


ときどき凧揚げがしたくなる。風をはらんで凧が空に舞い上がっていく様子を見ていると、あれは人間がつくりだしたものの中で最も美しい造形をしているように思えてくる。きっと新宮晋もそう思って風で動くオブジェをつくりはじめたはずだ。とくに好きなのはパラフォイルやスレッドカイトと呼ばれる骨組みのない凧で、内部に風をはらむことで気室をつくり構造体にする。それは一枚の布に風をはらませるという点でより純粋な形態ではないかと思う。骨組みがないので、パラフォイルが空に揚がっていく様子はクラゲやタコのような軟体動物が海を漂っている姿を連想させる。外国のカイト制作者がつくったものの中には、まるで宇宙船のような不思議な形をしているものもあって見ているだけで楽しい。糸をいっぱいまで出して、はるか上空で凧が風をはらんでいる様子を見ていると、自分の意識も空に吸い込まれていくような感覚を覚える。そうして風に流されながら地上を見下ろしているとき、自分も少しだけ風通しが良くなったような気がする。

Bosnian Soldier 1994


今回はベネトンの広告についても授業で取りあげたので、記号選択問題のほうで一問出題した。こちらもAとBの会話文を読ませて、「で、あなたはどう考える?」という論述問題にしたいところだけど、試験時間の都合とすでにレポートの課題にしたこともあって、今回は記号選択問題として出題。

 次の資料はユーゴスラビアの和平を呼びかけるポスターです。ユーゴスラビア内戦の激しかった1994年に、イタリアのアパレルメーカのベネトン社によって制作されました。当時のユーゴスラビアでは、ナショナリズムをとなえる政治指導者によって民族間の憎しみがあおられ、やがて人々は民族の違いをめぐって隣人同士で対立し、その対立は武器を手にした市民同士による市街戦へとエスカレートしていきました。この内戦によって、ユーゴスラビアは解体され、各共和国は独立することになりましたが、内戦から10年以上たったいまも、隣人同士で殺し合った記憶は、バルカン半島の人々に暗い影を投げかけています。このポスターについての次のAとBの会話を読み、下の問いに答えなさい。


A「このポスターは戦死した若い兵士の遺品を大きく映し出すことで、もうこの世界にはいないひとりの若者のことを見る側に想像させているよね。血まみれになって死んでいったこの17歳の若者は、いったいどんな若者だったのか。どんな話し方をしたのか、どんな音楽が好きだったのか、スポーツや勉強は得意だったのか、恋人はいたのか。そういう私的なことを見る側へ考えさせることで、このポスターはユーゴスラビアの和平を訴えている。戦死者のことを「どこかの誰かの死」としか思っていなければ、和平の呼びかけに共感することなんてないからね。そういう意味で、手法としては、広島や長崎の原爆資料館に展示されている被爆者の遺品によく似ていると思う」

B「たしかにインパクトのあるポスターだね。原爆資料館に展示されている黒こげになった服や弁当箱が被爆者たちになにがおきたのかを雄弁に語っているように、このポスターも言葉でユーゴ紛争について解説されるよりもずっと印象に残る。ただ、この血で真っ赤に染まったTシャツの映像は、あまりにも強烈で暴力的だよ。いくら現実に起きていることとは言え、このポスターを公共の場へ展示して、不特定多数の人へ見せようっていうのは、無茶じゃないかな。想像してみなよ、電車の釣り広告にこのポスターが使われているところさ」

A「うーん、こういう大事なことを訴えているポスターこそ、公共の場に展示して、多くの人に見てもらうことに意義があると思うんだけど。ほら、ユニセフが紛争地のこどもの救済を呼びかける広告で、よくアフリカの飢えたこどもたちの映像を使っているよね。難民キャンプで撮影されたがりがりにやせた姿のこどもが出てくるコマーシャル。あのユニセフの広告だって、こんな悲惨な映像をテレビで流すなって怒る人もいる。たしかにあれを見て愉快に感じる人はいないだろうけど、だからといって、不愉快だから放送するなって言うのは、自分の都合のことしか考えていないように思うよ」

B「でも、このポスターの場合、ユニセフのような国連機関と違って、ベネトンっていうファッションブランドが制作したものだよね。もうけを目的に活動する私企業がこういうポスターをつくって、反戦人道支援を呼びかけるのは偽善的な感じがするよ。ベネトン側は商品の売り上げをのばすためにこういうポスターをつくっているわけではないって主張してるけど、本音はどうかわからないわけだし」

A「まあ、企業にも社会的な責任はあるわけだし、利益とは関係なく、企業がこういうポスターをつくることに意義はあると思うよ。それにベネトンの場合は、ポスターをつくってるだけじゃなくて、社会貢献のひとつとして国連の人権機関や難民救済機関にも協力しているわけだよね。たとえ、もしそれが売名目的の宣伝活動だったとしても、良いことをして企業評価を上げてるわけだから、批判されるようなことではないと思うよ」

B「そうかなあ。もし、セーターの売り上げを伸ばすためにこういう広告やCSRをやってるんだとしたら、他人の不幸を自分たちのもうけに利用することになるわけでしょ。その点で釈然としないよ」


 会話文のBの言っていることの主旨として、もっともあてはまるものを次の中から選びなさい。

ア.企業広告は商品のアピールのために作られるべきだと主張しており、商品の登場しないこのポスターについては批判的な立場をとっている。
イ.日本企業が欧米と比較してCSRに積極的ではないことを不満に思っており、その背景には、企業に甘いマスメディアの体質や消費者の声がなかなか社会に反映されない問題があると考えている。
ウ.和平を呼びかける一枚のポスターとしては高く評価しているが、そのショッキングな映像表現のため、公共の場への展示には批判的であり、企業広告のありかたとしても疑問を感じている。
エ.現実の社会問題を優れた映像で表現していると評価しており、こういうポスターこそ、積極的に公共の場へ展示して、より多くの人に見てもらいたいと考えている。
オ.実際に難民の支援活動をしている国連機関やNGOがこうしたポスターを制作することは支持するが、そうでない団体ならば偽善的だと考えており、ポスターを制作した企業が具体的にどのような形で国連に協力しているのかを気にしている。


ちなみにベネトンの広告について以前書いた拙文はこちらにまとめてあります。

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benettonad.htm
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benetton.htm

憲法9条の改正


もうひとつは憲法9条の改正についての出題。問題文のABの参考意見は、両論併記を公平だと考えているからではなく、複数の異なる考え方にふれることで、自分の考え方についても再検証してもらうためのものである。最近はマスメディアでもネット上でも、ディベートのような攻撃的な言論が目立つが、こうした問題は、相手を言い負かすことよりも、自分の考えを再検証して考えを深めることこそが重要だと思っている。ABの参考意見はそのためのたたき台である。そもそもディベートにしても、本来はくじ引きで立場を決め、互いの主張を論理的に検証するトレーニングとしてやるものであって、テレビの討論番組のような政治的信念をぶつけあう場ではない。こちらの9条問題のAとBはわりとうまく書けたように思う。生徒は誰もほめてくれないけど。

憲法9条と自衛隊
 憲法9条では、次のように平和主義を規定しています。

憲法9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 1950年に警察予備隊が創設されて以来、日本では、憲法9条自衛隊の関係をめぐって、はげしい議論がたたかわされてきました。その是非が議論される中、自衛隊の規模と活動範囲は年々拡大し、近年では、国連PKOやアメリカ軍への協力のために、自衛隊が海外へ派遣される機会も増えてきました。それにともない、憲法9条の改正についても議論が活発になっています。新聞各紙の世論調査では、憲法9条の改正を支持する人は約3割、支持しない人は約6割という状況です。
 あなたは憲法9条自衛隊の関係について、どのようにあるべきだと考えますか。次のAとBの意見を参考にして、あなたの考えを述べなさい。


A  個人に「正当防衛」の権利があるように、独立国には「自衛権」が認められている。外国から軍事的な侵略を受けて、それを食い止める手段が実力の行使しかない場合、防衛のために戦うことは主権国家の権利といえる。それは憲法に記すまでもなく、近代社会の基本原理のひとつである。もしも、憲法9条が防衛のための実力行使もふくめて禁じているとしたら、日本は主権国家とはいえないのではないだろうか。
 たしかに、憲法がとなえる平和主義の理想は尊いものである。しかし、現実の国際社会には紛争が絶えない。冷戦の終わった現在でも、北朝鮮核武装や中国の軍事力強化など東アジア情勢は混沌としており、とくに中国の急激な軍事力拡大と強硬な外交姿勢は、アジア全体にとって脅威になりつつある。
 その一方で、国連は国際紛争を抑えるだけの権限も力もそなえていない。PKO活動にしても、停戦が実現している地域に入って、再び戦闘が勃発しないよう監視するためのものである。PKOは紛争地域を軍事的に制圧するのではなく、あくまで政治的圧力によって戦闘の再発をふせぐというものであり、それが現在の国連の力では精一杯という状況である。だからこそ、国連は、集団的自衛権までふくめて、各国に自衛権を認めているのである。こうした国際情勢の中で、憲法9条を防衛のための戦いや防衛力までも放棄していると解釈するのは、あまりにも非現実的であり、世界の現実から目をそむけている。また、防衛力というのはあくまで相対的なものであり、中国が急激な軍拡路線を歩んでいる中、自衛隊の規模や装備はよりいっそう充実させていく必要がある。
 自衛隊の前身である警察予備隊が設立された1950年以来、日本政府は、憲法9条自衛権を否定するものではないとして、自衛隊の正当性をとなえてきた。この日本政府の姿勢は、憲法がとなえる平和主義の理想と現実の国際情勢とのバランスをとってきたという意味で評価できる。また、自衛隊の海外での活動についても、国連PKOアメリカ軍への協力は、「国際社会への貢献」であり、けっして、憲法の理念に反するものではないはずである。
 憲法9条の改正については、いったん改正すると歯止めがきかなくなってしまうという不安もあるが、自衛権と防衛力の保持は主権国家の権利であり、憲法にはっきりと明記したほうが良い。現在のように、自衛隊憲法上あいまいな位置におかれたまま、世界の紛争地で活動させられるのでは、自衛隊員たちがかわいそうである。9条の改正にあたって、集団的自衛権までふくめて認めるのか、あるいは個別的自衛権に限定するのかは、多くの声をあつめ、世論の合意の上で決めればいいのではないだろうか。


B  歴史上、「侵略する」と言って戦争をはじめた国は存在しない。戦争の口実は常に「防衛のため」であり、「自国民の保護のため」である。ナチス・ドイツポーランド侵略をはじめたときも、日本が中国を侵略したときも、その口実は、「自国の防衛と自国民の保護のため」だった。したがって、「自衛のためなら軍事力を持ってもかまわないし、戦うのもやむを得ない」という考え方は、戦争を認めているのと同じであり、憲法の平和主義から大きく外れる考え方である。
 近代の歴史の中で、日本の侵略によってアジアの多くの地域が植民地支配され、中国や東南アジア各地では、日本軍による虐殺もおこなわれた。日中戦争と太平洋戦争によって、約500万人の日本人の命が失われたが、その一方で、1500万人以上のアジアの人々が日本軍によって殺害されている。こうした侵略と殺戮を再びくり返さないため、現在の日本国憲法には、戦争の放棄と戦力を保持しないことが盛りこまれたのである。日本の近代史をふまえて考えた場合、憲法9条は防衛の名のもとの戦争も防衛力の保持も認めていないと見るべきである。「自衛のための手段まで否定してしまうのは非現実的だ」と主張する人は多いが、むしろ、侵略戦争の歴史を持つ日本にとって、「自衛の名のもとの侵略」をくり返す危険性のほうが、より現実的な問題ではないだろうか。
 日本政府によると、自衛隊憲法9条2項で禁じられている「戦力」ではなく、「必要最小限度の実力」ということになっている。しかし、こんな詭弁(きべん)が通用するのは国内だけである。どこの国でも、自国の防衛のための武装集団のことを「軍隊」という。世界有数の装備を持つ自衛隊はどう見ても「軍隊」であり、実際に海外では「日本軍」と見なされている。現在の日本の防衛予算は、アメリカ・中国・ロシア・フランス・イギリスに次ぐ規模であり、自衛隊は予算と装備の面では、フランスやイギリスとならぶ世界有数の軍隊である。防衛力の増強は自分たちにとっては安心に思えるかも知れないが、周囲の国々にとっては驚異であり、結果的にさらなる緊張関係を国際社会にもたらすことになる。日本では、アジア情勢の危機というと、中国の軍拡や北朝鮮核武装をあげる人が多いが、アジア諸国にとっては、日本の自衛隊の規模拡大も同様にアジアの危険要素のひとつである。
 「世界から紛争がなくなったら日本も防衛力を放棄する」という考え方をしている限り、世界はなにも変えられない。また、憲法9条を「足かせ」と見なす発想には、なんら平和主義の理想はない。むしろ、日本から率先して、憲法の平和主義を実践し、平和主義の理想を世界に発信していくべきである。すでに現在、世界には軍隊をもたない国が27カ国存在する。ただちに自衛隊を解散するのは難しいとしても、自衛隊の規模を縮小するとともに役割を災害救助と人道支援に限定し、将来的に日本も軍事力を持たない国になるべきである。


こちらについては、試験前の授業で、論点を三つに分けて生徒の考えを聞いてみた。


1.憲法9条の規定と自衛隊の存在には矛盾があると思うか。

矛盾してると思うが約6割。その理由を尋ねると、ほとんどの生徒が「自衛隊憲法9条第2項で禁じられている陸海空その他の戦力にあたると思うから」と答えた。

一方、矛盾してるとは思わないは約4割。こちらは女子に多く、「自衛隊は日本の防衛のために存在するので軍隊ではないと思うから」という理由を挙げている生徒がほとんどだった。この主張は日本政府の公式見解でもあり、日本国内ではしばしば耳にする。しかし、どこの国でも自国の防衛のための武装組織のことを「軍隊」と呼んでいる。そこで次のように指摘してみた。「ふつうどこの国でも、軍隊は自国の防衛のために存在するものだ。だって、我々の軍隊は侵略軍であるなんていう国は地球上に存在しないからね。ケロロ軍曹じゃあるまいしさ。だから、軍隊の役割は常に「防衛のため」だよ。フセイン時代のイラクですら、軍隊の名前はイラク共和国防衛隊だった。でも、イラクの防衛隊を軍隊ではないって思ってる人はいないよね。そういう意味で、日本の自衛隊が防衛のための組織だから「軍隊」ではないっていう主張は、論理的に無理があるんじゃないの?」。この指摘については、生徒たちはうーむという反応で、反論は返ってこなかった。


2.自衛隊は今後どうあるべきだと思うか。

規模を拡大して装備もより充実させるが約2割。その理由としては中国の軍拡をあげる生徒が多かった。問題文のAにもあるように、防衛力というのは相対的なものなので、周囲の脅威が大きくなれば、それに対応した規模と装備が必要という主張だった。

現状維持が約4割。これ以上大きくすると軍事大国になりそうで不安だし、でも、自衛隊の規模を小さくするのも防衛上不安だしという漠然とした消去法で現状維持をとなえる声が多かった。

規模縮小、もしくは災害救助に専念するが約4割。「必要最小限度の実力」という政府の見解のわりに、世界第6位の防衛予算は規模が大きすぎるという理由を挙げる生徒が多かった。また、日本から平和主義の理想を世界に発信するためにも自衛隊を解体すべきという積極的縮小派は全体の2割弱というところだった。これについては、「心情的にはそうあってほしいと思うけど、一方で、現実にそれが本当に実現可能とはなかなか思えない」という指摘も多かった。


3.憲法9条を改正すべきか。

改正すべきは約3割。自衛隊の規模拡大を主張する者と現状維持の一部がこの立場だった。改正点としては、第2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を「防衛のための戦力は保持する」に改めて、自衛隊の位置づけを憲法の規定ではっきりさせたほうが良いという意見が多かった。

一方、改正すべきではないは約7割。「いまの自衛隊は認めるけど、だからといって憲法まで改正してしまったら、歯止めがきかなくなって軍国主義になりそうで不安」という反応と「憲法9条の平和主義をたんなる理想で終わらせないためには、自衛隊の規模縮小をすすめて実践していく必要がある」という反応とがほぼ半々というところだった。


ついでにドイツの例をあげて、徴兵制の導入についてどう思うかも聞いてみた。

「いま、自衛隊の規模を今後どうするかについて聞いたら、みんなの反応は、規模拡大と現状維持をあわせると過半数を超えていた。ある程度の防衛力が必要というのなら、日本でも徴兵制を導入したらどうだろうか。ある程度の防衛力は必要だと思うけど、自分がそれに参加するのはまっぴらというのでは、その主張に正当性はない。このことはドイツでも、第二次大戦後にやはり議論になった。日本では徴兵制の議論はタブーになっていて、徴兵制の導入を主張するのは超軍国主義者くらいしかいない。しかし、ドイツの場合、軍隊の民主化のために、戦後、徴兵制を復活させることにした。つまり、ある程度の防衛力が必要だというのなら、国民全員でそのしくみを支えていく必要がある。自治の精神こそが民主主義の基本だからね。また、徴兵制を導入することで、軍隊を軍国主義者の集団から民主的な組織に変えていく効果も期待できる。志願兵制度の場合、どうしても軍隊には軍国主義的な人が集まりやすくなってしまう。この傾向はどこの国でもそうで、日本でも、やはり自衛官には田母神さんタイプの人が多い。平和主義者はふつう軍に入隊しようとは思わないからね。戦後の西ドイツでは、制服を着た市民が軍の担い手になることで、そうした状況を回避し、軍の組織改革を進めることにしたわけだ。だから、いまのドイツ軍はナチス時代とは大きくかわった。様々な人種・民族の人がいるし、労働組合もある。公務員同様に軍人のストライキ権も認められている。思想・信条・信仰といった理由から、軍に入隊したくない人には、良心的兵役拒否といって、地域ボランティアに参加すれば兵役を免除するしくみもある。先ほど、今後の自衛隊についてみんなに聞いたところ、約4割が現状の規模を維持、約2割が規模拡大が必要と答えた。ならば、日本でも徴兵制について検討すべきではないだろうか。」

と長めに説明して、生徒の考えを聞いてみたが、徴兵制の導入を支持するものはひとりもいなかった。ふーむ、ある程度の防衛力が必要という声が多いわりには、自分ではやりたくないらしい。たしかに日本の場合、徴兵制の導入をとなえているのはひとにぎりの超軍国主義者だけなので、民主主義の根幹は自治の精神だといわれても、ドイツみたいにはいかないことは容易に想像がつく。しかし、自分と社会との関わり方というもっとも基本的な部分を視野に入れないまま、防衛問題だけを議論しても、空想の世界で遊んでいるだけにすぎない。システム先にありきという日本の社会状況がこうした社会問題を自分に引きつけて考えることを阻害してるのではないか。日本で天下国家を論じる声がみな「どこかの誰か」に「やらせる」議論ばかりなのと根を同じくする問題のように思う。自分は安全地帯に身を置いて、後ろのほうから「尖閣諸島問題では一歩も引くな!」なんてただ勇ましい声を張り上げているだけの連中とくらべたら、田母神のほうがまだマシである。

消費税の値上げ


学校はまたまた定期試験である。週フタコマしかない授業なのに、中間・期末ごとに試験があるので、もう試験ばかりやっているような感じである。試験の合間に授業をやっているというか、試験のついでに授業もやっているというか、そんな本末転倒な状況。今回の小論文のテーマは消費税の値上げと憲法9条の改正。小論文については、正解のある問題ではないので、毎回、あらかじめ試験一週間前に出題内容を公開して、生徒たちに考えておいてもらうようにしている。わずか60分間の試験時間でいきなりこんなややこしいテーマを論じろというのも無茶な話だし。消費税の値上げのほうはこんな出題。

【論述問題・消費税の値上げ】
 現在、消費税率を10%に値上げすることが議論されています。次のAとBの意見を参考にして、消費税率の引き上げについて、あなたの考えを述べなさい。


A  消費税を値上げすべきである。
 現在、日本では、国と地方自治体とをあわせて、900兆円もの借金を抱えている。これは国民ひとりあたり約700万円もの借金を背負っている計算になる。これほど巨額の借金を抱えたまま財政赤字を放置したら、近い将来、日本でもギリシアでおきたような財政破綻(はたん)がおきてしまうだろう。
 国の借金や地方自治体の借金は、国債・地方債という債権の形で発行され、満期になったら利子をつけて債権者に返さねばならない。現在、新たな借金をくり返すことで借金を返すというつなわたりがつづいており、国債の返済だけで国の予算の3分の1が消えていくという異常事態になっている。
 財政を健全化し、景気対策社会保障を充実させていくためには、税収を増やすことが不可欠である。大騒動で行われた「事業仕分け」でも、財政の無駄づかいが削減されたのはせいぜい1兆円程度にすぎない。また、たばこ税やガソリン税を値上げしても、900兆円という巨額の財政赤字には焼け石に水であり、財政を立てなおすためには、消費税を大幅に値上げするしかない状況である。
 また、所得税最高税率を値上げし、高額所得者に高い税率を課すことは、働く意欲を奪うことになってしまう。努力して仕事や事業で成功しても、所得の半分以上が所得税で持って行かれるようでは、成功した者があまりにも報われない。努力して社会的に成功した者が報われるためにも、税収は、所得税より消費税を重視していくべきである。もしも、年収が5億円あっても、その半分以上が所得税で持って行かれてしまうような社会では、一所懸命働いて成功しようとか、会社を作って事業を成功させようという意欲が失われてしまい、社会の活力がなくなってしまう。
 欧米各国でも、税収で消費税のウェイトを重くする傾向がすすんでおり、ほとんどの国で消費税は10%以上、北欧諸国などでは、20%もの税率になっている。巨額の借金を抱えている日本で、消費税率が5%というのは低すぎるのではないだろうか。財政の健全化のために、消費税の値上げを急ぐべきである。


B  消費税を値上げすべきではない。
 日本の社会保障は先進国中最低水準、人口比にしめる公務員数も先進国中最低であり、先進国の中でもっとも「小さな政府」である。それにもかかわらず、GDP比での予算規模は大きく、巨額の財政赤字を抱える事態になってしまった。その原因はムダな飛行場や道路を各地に建設するなど、公共事業・補助金事業がやたらに多く、国の予算の多くがそこへ消えていくからである。公共事業や補助金事業に予算が吸い込まれていくしくみを変えない限り、消費税を引き上げたところで根本的な解決にはならない。いまの状況で消費税を値上げしても、税金だけ高くなって、財政赤字を抱えたまま、社会保障は最低水準という状況がこの先も続くことになるだろう。
 消費税の最大の欠点は、裕福な人も貧しい人も同じ税率が課せられるために、低所得者の生活を圧迫することにある。月収100万円以上の高額所得者にとって、消費税が10%になったところで大した問題ではないが、月収10万円のアルバイト生活者や派遣労働者にとっては、それ以上生活費を切りつめるのは不可能であり、消費税値上げは生活を直撃する。そのため、消費税の値上げに賛成しているのは、おもに生活に余裕のある富裕層である。
 たしかに900兆円の借金は深刻だが、日本の国債の場合、ギリシャとは異なり、ほとんどが国内の投資家や金融機関によって購入されている。この点で、ギリシャ国債のようにその多くが外国の金融機関に購入され、国債の信用低下が財政破綻に直結する状況とは大きく異なっている。
 日本では小泉政権以来、財政赤字の抑制として社会保障を切りつめる政策をとってきた。その上さらに、消費税を値上げするというのでは、財政の失敗のしわ寄せをすべて低所得者にまわすことになってしまう。このような政府のやり方はあまりにも無責任である。
 財政の赤字が深刻だというのなら、まず、役所の無駄づかいをもっと切りつめるべきであり、それでも足りないのなら、所得税最高税率を値上げし、高額所得者にもっと課税するべきである。日本では、財政赤字が雪だるま式にふくらんでいるにもかかわらず、所得税最高税率は、この40年間で、75%から40%へ35%も引き下げられてきた。こうした金持ち優遇の税制が近年の「格差社会」を日本にもたらしたのである。すでに日本では、高額所得者は自らの努力で成功した人たちではなく、親から社会的地位や財産を受けついだ人たちばかりであり、社会階層の固定化が進んでいる。どのような家に生まれたかでこどもの将来が決まってしまう社会は、人間の可能性と尊厳を踏みにじるものではないだろうか。
 たしかに、欧米諸国の消費税は、10%以上の高い税率だが、これはそのぶん社会保障が充実していて、低所得者の生活を圧迫しないしくみがあるからである。ヨーロッパ諸国では、公立学校の学費や公立病院の医療費は、どこも無料であり、失業保障も充実している。こうした手厚い社会保障のない日本では、高額所得者にこそもっと課税し、所得の再分配をうながしていくべきである。

国の総予算:228兆7659億円 過去最大を更新
毎日新聞 2012年1月25日 2時30分
 財務省は24日、12年度予算案の一般会計と特別会計を合わせた国の総予算が11年度当初予算比8兆4904億円(3.9%)増の228兆7659億円になったと明らかにした。一般会計は同2.2%減の90兆3339億円と6年ぶりに減額したが、特会は震災復興事業や財投債の元利払い費などの経費が軒並み増加し、総予算は過去最大を更新した。
 内訳では、国債の元利払い費が前年度を3%上回る84兆6775億円。社会保障費は1%増の75兆8101億円で、両経費だけで全体の約7割を占める。震災復興経費としてインフラ投資や被災自治体へ財政支援したことで、公共事業費が4.7%増の6兆1811億円▽地方交付税等が5.3%増の19兆9317億円と膨らんだ。
 政府は、一般会計については国債費を除いて前年度以下に抑える大枠を定めているが、特会には目標がなく、歳出抑制は進んでいない。【坂井隆之】


基礎的財政収支:消費税10%でも赤字 内閣府が試算
毎日新聞 2012年1月23日 15時00分
 消費税率を15年10月に10%に引き上げても、政府が財政健全化の指標としている基礎的財政収支(国と地方の合計)が2020年度時点で9兆〜16兆円強の赤字になる見通しであることが23日、明らかになった。内閣府が24日に公表する予定の「経済財政の中長期試算」で示す。政府は財政健全化目標として20年度の基礎的財政収支の黒字化を掲げるが、それには、消費税換算でさらに最大7%程度の財源が必要になる計算だ。【赤間清広】
 基礎的財政収支の赤字を放置すれば、国や地方の債務残高が膨らみ、財政危機が深まる。このため、政府は財政再建に向けた第一歩として国内総生産(GDP)に対する基礎的財政収支の赤字の比率を15年度に10年度(6.4%)比で半減の3.2%にする目標を設定。さらに、20年度には黒字化することを目指している。
 しかし、内閣府の今回の試算では、20年度までの平均実質成長率を1%強とする「慎重シナリオ」では、「税と社会保障の一体改革」に基づき消費税率を15年10月に10%に引き上げても、15年度に17兆円弱の赤字(GDP比では3・3%程度)が残り、10年度比の赤字半減目標に届かない。ただ、消費増税の効果がフルに出る16年度は赤字幅がGDP比で3%程度まで改善する。
 しかし、消費税の10%への引き上げによる財政改善効果には限界もあり、20年度時点でも基礎的財政収支は16兆円台半ば(GDP比3%)の赤字が残る。
 一方、政府の新成長戦略の目標の2%を達成した「成長シナリオ」に基づく財政試算では、消費税10%を前提にした15年度時点の基礎的財政収支の赤字は約14兆円(GDP比で2.5%程度)となり半減目標を達成する。しかし、この場合も20年度時点では約9兆円(GDP比で1.5%程度)の赤字が残り、黒字化には消費税換算で4%近い財源が必要になる計算だ。

 ◇基礎的財政収支プライマリーバランス
 毎年度の予算で、過去の借金の返済に充てる国債費を除いた政策経費を、新たな国債発行(借金)に頼らず、税収や税外収入で賄えているかどうかを示す財政指標。収支が赤字の場合は、社会保障などの行政サービスを借金なしでは賄えないことを意味する。赤字が続けば国の借金残高がその分積み上がり、将来世代に負担を付け回すことになる。


消費増税案に反対57%、賛成34% 朝日新聞世論調査
朝日新聞 2012年1月14日22時57分
 野田内閣の改造を受けて朝日新聞社が13、14日に実施した全国緊急世論調査(電話)によると、野田佳彦首相が政権の最大の課題に掲げている消費増税の政府案について、賛成は34%で、反対の57%を大きく下回った。内閣支持率は29%(前回12月31%)と横ばいで、不支持率は47%(同43%)。改造による政権浮揚効果は見られなかった。
 政府は、消費税を2014年4月に8%、15年10月に10%へ引き上げる税と社会保障の一体改革の素案を6日に決めた。消費増税の具体的な案の賛否を聞くのは今回の調査が初めてだ。
 これまで消費増税に比較的理解のあった男性でも賛成は40%で、反対は52%にのぼった。女性は賛成28%、反対61%。首相の足元の民主支持層でも賛成、反対が46%で並んだ。
 消費増税の前提とされる国会議員の定数削減や公務員の人件費削減について、首相が削減を「できると思う」と答えた人は19%しかなく、「できないと思う」が67%を占めた。消費増税の際の景気については「大いに」「ある程度」を合わせて80%が「考慮する必要がある」と答えた。
 首相は増税法案を国会で成立させる前に「衆院を解散して総選挙を実施すべきだ」と答えたのは49%で、「その必要はない」の38%を上回った。しかし、民主支持層ではそれぞれ29%、64%と逆転している。
 内閣改造の目玉である岡田克也氏の副総理起用については「評価する」が50%で「評価しない」は33%。参院で問責決議を受けた2閣僚を退任させたことは「評価する」51%、「評価しない」28%だった。
 野田首相のこれからの仕事ぶりに「期待する」は「大いに」「ある程度」を合わせて43%。昨年11月の59%に比べ、大幅に減った。

アバクロンビー What's going on ?

アメリカに本社のあるアパレルメーカーに「アバクロンビー&フィッチ」というブランドがある。「ハリウッドスターも愛用している高級カジュアルブランド」というキャッチフレーズでかなり大規模にチェーン展開をしており、ちょうどGAPの高級路線といった感じである。もっとも、やたらと服の値段が高いので、「カジュアル」というには少々違和感もおぼえる。日本にも2009年に銀座店ができた際、けっこうマスメディアで話題になっていたので、名前を聞いたことのある人も多いのではないかと思う。近頃では「アバクロ」の略称で呼ばれているようで、ある程度お金があってファッションにうるさい人向けのブランドとして、日本でもそれなりに定着しつつあるらしい。


8年ほど前、アバクロンビーは従業員への人種差別で問題になったことがある。当時はまだ日本に店舗もなかったので、日本ではほとんど話題になることはなかったが、アメリカのメディアではけっこう大きく報道されていた。アバクロンビーの基本路線は「リッチでマッチョでパーティー好きの体育会系の若者」だそうで、購買層は私立の名門大学へ通っているような中産階級以上の白人の若者たちをメインターゲットにしている。なんせTシャツ1枚100ドルもするので、そういう社会階層の若者でないとちょっと手が出ないだろう。なのでイメージモデルも金髪で青い目の白人ばかり。ポスターやカタログのモデルたちはみな露出の多い姿で見事に割れた腹筋を披露している。モデルが白人ばかりというのは、差別的な美意識が支配するルックス至上主義のファッション業界ではべつにめずらしいことではないが、イメージ戦略を徹底するアバクロンビーでは、店舗での接客担当までルックスの良い白人の若者を優先的に採用して、アジア系・ヒスパニック・アフリカ系の従業員は倉庫の雑用係に回されているという内部告発まで出てきた。


では、本当にそうなのか実際に試してみようとアメリカのニュース番組が調査報道を行った。手法はいたって単純で、番組スタッフのアジア系とアフリカ系の青年に求職者のふりをさせてアバクロンビーの店舗へ行かせる。「アルバイトしたいんスけどぉー」。ふたり組がそう切り出すと、どの店舗でもマネージャーたちは示し合わせたかのように同じ対応をする。「いやあ接客業務のほうはちょうどいまさっき決まってしまってさぁ、ちょっと空きがないんだよ、倉庫作業のほうならまだ募集してるけどどうかな」。結局、ふたり組はことごとく断られてしまう。「じゃあ次はおまえ行ってみろ」と今度はすらっと背の高い白人青年の番組スタッフに同じ店舗を回らせてみる。するとマネージャーの反応は先ほどとはまったく違う。「いやあ君みたいな人材を探していたんだよ、ちょうどいま接客業務のほうに空きがあるんだ、君、採用、で、いつから出勤できるかな」といった調子で、彼はことごとく採用される。番組ではそのやり取りを隠しカメラで撮影し、放送していた。


アバクロンビーの従業員への人種差別は、CBSの「60 minutes」でも取りあげられた。モーリー・セイファーが元従業員たちにインタビュー取材を行いながら、各店舗のバックヤードでは大勢のフィリピン系やヒスパニックの従業員たちがお針子や雑用係として働いているにもかかわらず、彼女たちは接客業務からは退けられ、店内にはブロンドで青い目の「アメリカンビューティー」な演出ばかりがあふれている様子がレポートされる。こうしたイメージ戦略や美意識の問題は制度的な差別とちがってわかりにくいが、人々の意識により直接的に作用するので問題の根は深い。残念ながらその回の動画は見つからなかったが、ニュースレポートの概要は番組Webサイトで読むことができる。

The Look Of Abercrombie & Fitch
http://www.cbsnews.com/stories/2004/11/24/60minutes/main657604.shtml?tag=mncol;lst;4


アメリカの世論はこうした人種問題には敏感に反応する。黒人団体をはじめとしてアバクロンビーに対して抗議の声が上がり、やがて不買運動にも発展した。さらに、人種を理由に倉庫の雑用係に回されていたアジア系やヒスパニックの従業員たちが集団訴訟を起こし、アバクロンビー側は450万ドルの和解金を支払うとともに、今後、人種やルックスを基準にした従業員の採用・配置をあらためるとして謝罪することになった。「企業の社会的責任」という言葉を聞くと、私はいつもこの2004年の出来事を思い浮かべる。「60 minutes」のテレビレポートの中で、フィリピン系の女子学生がアバクロンビーでの屈辱的な体験を目に怒りをためて語っていた姿を思うと、たとえシャツのデザインがどれほど垢抜けていたとしても、あるいは半額セールをやっていたとしても、アバクロンビーで服を買ってみようという気はおきない。むしろ、アバクロンビーの服を得意げに着ている人物を見かけたら、そうした人種観や美意識を共有しているのではないかと警戒するだろう。


2009年に日本1号店として銀座にアバクロンビーが出店したとき、日本のマスメディアは「アメリカで大人気の高級カジュアルブランドが日本上陸」とずいぶん大きく取りあげた。店舗では、モデルふうのマッチョな「イケメン店員」が上半身裸で接客するという派手なパフォーマンスもあって、多くのメディアで開店時の賑わいぶりが紹介されていた。しかし、不思議なことに、賑わいぶりを浮かれた調子で伝えるレポートばかりで、従業員への人種差別問題についてはどのメディアもまったく言及していなかった。あの事件はアメリカで大きく報道されていたから、日本の報道関係者が知らなかったはずがない。開店のお祭りに水を差すのは無粋だと考えたのか、うかつなことを言って名誉毀損で訴えられたら面倒だと腰がひけたのか、それとも資金力のある外資系企業にはぜひスポンサーになってほしいと色目を使ったのかはわからないが、意図的に黙殺したんだと思う。


マッチョな美青年が大好きなブルース・ウェーバーによるアバクロンビーのポスター。アバクロンビー&フィッチ、カルバン・クラインラルフ・ローレンのイメージビジュアルは、いずれもゲイ・テイスト濃厚なブルース・ウェーバーによるモノクロ写真なので、私にはブランドロゴがないと三社の広告の区別がつかない。画像はAbercrombie & FitchのWebサイトより。


銀座店のマッチョなイケメン店員たち(画像はこちら↓のブログから拝借)
http://crowdwagon.com/blog/wagonr35/?p=9148


銀座店に入ると、このイケメンくんたちがジム通いでつくりあげた腹筋と剃り上げた下腹部を見せびらかしつつ、「What's going on ?(どーしたの?)」とやけに馴れ馴れしい調子で出迎えてくれるとのこと。アバクロンビーは人種やルックスを基準にした従業員の採用・配置をあらためるんじゃなかったの。銀座店の様子からは、フーターズ方式の接客でなにが悪いんだと開き直っているようにしか見えないんだけど。それともこれはイケメンとミスコンが大好きな日本市場に限定した「特別サービス」なんだろうか。なんだか彼らのジーンズのずり下がり具合は、パンツに万札を突っ込むとよりスペシャルなサービスをしてくれるお店みたいである。

すき家にて


ときどき家の近所にあるすき家へ食べに行く。「朝定食」についてくるピリ辛の白菜漬けが気に入っていて、300円くらいの豚汁セットというのをよく注文する。ただ、すき家の場合、深夜・早朝・夕方といった客の少ない時間帯は基本的にひとりシフトのようで、店員はけっこう広い店内を走り回って厨房と接客とレジを全部ひとりでこなしている。当然ながら、どこの店舗でもひとりシフトのバイトくんはぐったりした顔をしていて、見てるこちらまでしんどくなってくる。時給は900円くらいなんだろうか。年収3000万円の産科医や麻酔科医が3時間睡眠の激務のために人手不足と聞いてもそれがどうしたって感じだが、30すぎのバイトくんが牛丼店で青い顔をして働いている様子には身につまされる思いがする。昨年秋、朝早い時間に近所のすき家に行ったところ、しばらくしても店員が注文をとりにこない。厨房の奥を覗くと目の下にクマをつくった店員が頭を抱えてその場にうずくまっている。


「ちょちょっとおにいさん、大丈夫?」
「あ、すいません……」
「救急車呼ぼうか?」
「あ、いえ、すいません、大丈夫です、少々お待ちください」
「だって立ち上がれないんでしょ、救急車呼んだほうがいいよ」
「あ、いえ、少しじっとしてればおさまると思います……すいませんお待たせして……」


そんな出来事があったころ、全国の吉野家松屋すき家の強盗発生件数がニュースになった。松屋0件、吉野家6件なのに対してすき家だけが年に百件くらいと群を抜いて多い。理由は、松屋が食券方式、吉野屋がひとりシフトをつくらない方針なのに対して、深夜ひとりシフトで券売機もないすき家はレジ強盗に狙われやすいからだという。この傾向は以前から続いていて、すき家はこれまでにも警察から防犯体制の強化を要請されてきたとのこと。

牛丼店強盗、9割が「すき家」=レジ1台に現金集約など−警察庁が防犯体制強化要請
時事通信 2011/10/13-10:16

 今年1〜9月に発生した牛丼チェーン店への強盗事件(未遂含む)は71件で、うち9割に当たる63件は「すき家」に集中していたことが13日、警察庁のまとめで分かった。同庁は「治安悪化の要因になり得る」と指摘。すき家を運営する外食大手「ゼンショー」に防犯体制の強化を要請した。
 警察庁によると、すき家を狙った強盗事件は2009年ごろから増加。同庁は、被害が集中する要因として▽深夜にアルバイト店員が1人で勤務▽レジが出入り口付近に1台しかなく、現金が集約される▽人通りの少ない郊外に店舗が多い−といった点を挙げている。
 被害は19都道府県に広がり、同一店舗が2回被害を受けたケースも、埼玉や愛知、京都で計4店に上った。
 警察庁は昨年11月、ゼンショーに夜間の勤務体制強化などを要請。しかし、今年6月に調査したところ、被害店舗を含め、ほとんど改善が見られなかったという。
 すき家をめぐっては、インターネットで防犯対策の甘さを指摘する書き込みがあるほか、警察が摘発した容疑者が「1人勤務で狙いやすい」と供述したケースもある。今年3月には京都市の店舗に強盗が入り、アルバイト店員が切り付けられる事件もあった。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201110/2011101300209


TBSラジオでこのニュースが紹介された際、番組コメンテーターの山田五郎は、「強盗に入られた上に警察からお叱りまで受けたんじゃ、すき家がかわいそうな気がしますね」と語った。ええええええっ、かわいそうなのはひとりで強盗と対峙しなきゃならないバイトくんのほうですき家じゃないでしょ。経営側は、強盗のリスクと人件費の増額とを天秤にかけた上で、たんに人件費をケチっているだけなんだから。利益損失という点だけで比較したら、全国の店舗で深夜ふたりシフトにする数十億円の人件費増加に対して、たかだか一件あたり数十万円程度のレジ強盗など大したことはない。その冷徹な計算のいったいどこがかわいそうだと言うんだろう。山田五郎はこういうとんちんかんなコメントが多いように思う。


昨年末から、すき家も各店舗で深夜ふたりシフトにしはじめたという。先のニュースはそれなりに話題になったので、これ以上レジ強盗に目をつけられたらたまらんと考えたんだろう。もっとも、うちの近所の店は、早朝、依然としてひとりしかいないんだけど、バイトくん、裏でタバコでも吸ってるんだろうか。

深夜も複数体制 すき家強盗逮捕 川崎で現行犯
東京新聞 2012年2月18日 夕刊
 十八日午前三時四十五分ごろ、川崎市宮前区潮見台の牛丼チェーン店「すき家川崎潮見台店」で、客を装った男がカウンター越しに男性店員(19)にスタンガンを突きつけ、レジから一万円を奪って逃げた。別の男性店員(23)が店の外で男を取り押さえ、一一〇番で駆けつけた宮前署員が強盗容疑の現行犯で逮捕した。
 「すき家」では、深夜に店員が一人になるため強盗事件が多発。警察庁が昨年、チェーン店を運営するゼンショーホールディングスに対策を求め、同社は今年三月までに全店で深夜帯の店員を複数にする方針を決めていた。
 同署によると、逮捕されたのは同市多摩区菅四、無職村上孝二容疑者(52)。同店では昨年二月にも、強盗未遂事件があった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012021802000185.html

ウィニー裁判


年末に最高裁判決が出て無罪が確定したので、ウィニー裁判の文章を加筆・修正する。


ウィニー裁判
http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/winny.htm


ウィニー裁判は大阪高裁の判決が出た2年前にも授業で取りあげたことがある。
授業の後、ひとりの男子生徒がやってきて、「おれ、ウィニー使ってるんすけどまずいっすかね」と聞いてきた。
ウィニー自体は違法ソフトじゃないから、それを使って違法コピーさえしなければ著作権侵害にはならないよ」と答えるが、彼は依然として難しい顔をしている。


「ん?どうした」
「うちのおやじ警視庁勤務なんすよ」
「おっと」
「で、ウィニーはおやじのパソコンに入れてるんすけど」
「それはすごくまずいね」
「やっぱまずいっすよね」
「まずいよ」
「やっぱそうっすか」
「もしおとうさんの仕事のデーターがウィニー経由で流出したら大変なことになるよ」
「あ、それは大丈夫っす、おやじ家でパソコンはぜんぜん使ってないっすから」
「まあ万が一ってこともあるし、お父さんの職場での立場ってものもあるから、はやめに削除したほうがいいよ」
「そうするっす」


息子に勝手にウィニーをインストールされるんじゃお父さんも大変である。わたしゃ彼のお父さんに同情するっす。
えっとP2Pはパソコン同士を直結してデーターをやりとりするしくみなので、ダウンロードもはやいけどパソコンの中身を人から覗かれる危険性も高くなる。職員の私物のPCにまでウィニーを入れるなと通達を出す役所のやり方は余計なお世話というものだが、仕事のデーターや人に見られたくないデーターの入ったPCにP2Pを導入するのは避けたほうがいい。というよりもたいていのPCにはそういうデーターがいろいろ入っているものなので、ファイル交換用にP2Pを導入するなら、それ専用に中身を覗かれてもかまわないPCを新たに用意するくらいのことはすべきだ。少なくともP2Pを新譜の音楽ファイルをタダで入手できるソフトくらいにしか思っていないような人が手を出すのは、著作権侵害をどうこう言う以前にリスクが大きすぎると思う。

教員免許更新制度

授業の準備をしつつ試験問題をつくり採点もしてその合間に教員免許の更新講習を受けてとやたらとあわただしかった11月と12月を乗り越え、どうにかこうにか年も越せそうである。なんだか今年はやけに働かされている気がする。昨日ははるばる葛飾まで行って教員免許更新の試験を受けてきた。


えっ教員免許の更新制度なんてまだやってるのかって?そう、まだやってるのである。民主党政権がぐだぐだしているせいでいまだに廃止になっていないのである。とんだ災難である。えっ非常勤講師も免許更新の講習を受けなきゃならないのかって?そう、理不尽なことに受けなきゃならないのである。いままで一切連絡がなかったので、これについては私も知らなかった。11月になって勤務先の事務室から、このままだと半年後の来年3月で教員免許が失効になると指摘されてはじめて知ったのだった。


おそらく教員たちには、学校経由で免許更新の連絡が行ってるのだろうし職場の話題にもなっているのだろうが、私の場合、基本的に授業だけでしか学校との関わりがないため、この手の情報がまったく入ってこない。新しい制度が導入されても学校側からは説明もないし、たとえ授業を受け持っている生徒が暴力事件を起こして警察沙汰になったとしても、情報の共有はなく蚊帳の外に置かれる。学校によっては、職員室が騒然としているので何があったのかこちらから尋ねても「うーんちょっとね」などと口を濁す職員ばかりというところもあって、学校の内部事情については生徒たちよりも疎い。そういう学校にかぎって「生徒ひとりひとりの事情に応じた指導」なるものを要求してきたりするが、できるわけねえだろそんなもん。寝言は寝てから言えってんだよ、馬鹿野郎。もっとも情報の共有がないことを普段はとくに不満に思っているわけではないし、むしろ学校運営や生活指導になど関わりたくもないが、ときどきこうして不便なことがあるのも事実だ。なので、講師も免許講習を受けろというのなら、せめて運転免許証の更新のように教育委員会が自宅宛に案内を送付するくらいのことはすべきではないか。ところが、東京都の教育委員会に電話で問い合わせてみたところ、文科省と各教育委員会のWebサイトに講座を開設している大学の一覧表が載っているから自分でネット検索して調べろの一点張り。おまえら2ちゃんねらーかよ。きっとこういう連中は町でお年寄りから道を訊かれても「自分でネット検索しろ」と応じるんだろう。その担当者の名前を聞いておけばよかった。ともかく、政府は各教育委員会に丸投げし、教育委員会は講座開設している大学に丸投げというのが免許更新講座の実態のようである。


この教員免許の更新制度は、国家主義者の安倍晋三国粋主義の思想団体である文部科学省と手を組んで、2007年に教育職員免許法を改正し、2009年からスタートした。医師・弁護士・建築士公認会計士司法書士といった他の主だった資格については、免許更新制が導入されていないので、教員の国家統制を強化しようという政治的意図が露骨にあらわれている。こんなのに賛同してる人間が世の中にいるんだろうかと思ったら、いたいたネット上にうじゃうじゃと。日本の諸悪の根源は日教組であると信じているようなある特殊な政治思想の持ち主にはいたって好評のようだ。彼らによると、PISAの学力テストで日本の高校生の点数が悪いのも福島原発が爆発したのもバブル崩壊オウム事件911テロもリーマンショックギリシア財政破綻も日本が戦争に負けたのもみんな悪の秘密結社である日教組の陰謀ということらしいので、ショッカーもびっくりの大活躍である。そりゃあなにがなんでも教員を拘束しなきゃね。


そんなふうにはじまった教員免許の更新制度だが、講習の内容が優れたものならばまだ救いがある。しかし、学校経営や施設の安全管理やモンスターペアレントへの対処の仕方といったものばかりで、まるで管理職試験の対策講座のようである。非常勤講師に学校経営や施設管理を教えていったいどうしようっていうんだろう。私は授業以外で学校と関わらずにすむから、この仕事をやっているというのに。また、面倒な保護者に「モンスター」のレッテルを貼って切り捨てようとするのも組織防衛の発想でしかない。非常勤の場合、保護者から苦情が出たら、それがどんなに理不尽なものであっても、その学校との契約は年度末に確実に打ち切られてさようならなので対処もなにもない。トカゲの尻尾も面倒な保護者同様にただ切り捨てられるだけである。いま受け持っている授業と自分の興味が重なる分野としては、ヨーロッパ各国におけるナショナリズム多文化主義の現状やフーコーによる近代理性主義批判といったあたりだが、そういう専門性の高い講座はひとつもなかった。必修講座のテキストもまたひどい内容で、「文部科学省の定義では」「文部科学省の調査では」「文部科学省の位置づけでは」「文部科学省の報告書では」と役所すじの見解ばかりがずらずらと列記されている。テキストの執筆は教育学の研究者たちによるものだが、たかが一役所の見解をあたかも宇宙の法則であるかのように解釈するなんて、彼らはいつから文科省太鼓持ちになったんだろうか。このまま免許の更新制度が継続されると、各大学で実施している講習は天下りの受け皿になっていく可能性が高い。いや、私が知らないだけで、教育学部はとっくに文科省の下請け機関になっているのかも知れない。日本の学校教育が国家戦略の視点でばかり語られ、教育を受ける権利の人権保障のために存在するという基本的な認識のほうはいっこうに定着しないのも、このへんに理由があるように思う。


ともかく、講習期限がせまっていたので講座を選んでいる余裕はない。先月の時点でまだ受講者募集をしていたのは名前も聞いたことのない私立大学の通信講座だけ。期限ぎりぎりでそこへ潜り込み、ひと月の間、文科省の見解ばかりが列記されているテキストとテキスト棒読みのビデオ授業につきあって、昨日、試験を受けてきたという次第である。費用は約3万5千円也。すべて自腹である。泣けてくるぜ、まったくよう。ちなみに評価は、2千字のレポートと試験によって行われる。試験で6割以上とらないと追試ということらしいが、あの試験で落とされる人はいないだろう。なんせ問題の半分が文章の正誤に○×をつけるだけの形式なのである。でたらめに答えても5割はとれるわけである。テストで0点を取ったのび太ドラえもんが「なんでのび太くんは○と×をつけるだけの問題なのに50点以下がとれるのぉ!?」と驚いてる場面を試験中に思い出してしまった。「いやあ才能かなあ」「なに得意になってるの、のび太くん」とその会話はつづくが、のび太のような才能がないと60点以下はとれないだろう。こうした難易度の設定には、受講者を確保しようという大学間の市場原理が働いているはずである。誰もが渋々受講してるのだろうから、あそこは試験が難しいとうわさがたてば受講者は他の大学へ流れてしまう。そういう意味では、免許更新講座など大学側にとってはあくまで商売のひとつにすぎず、役所と組めば濡れ手に粟のおいしい商売ができるという典型的なケースに見える。それにしても3万5千円かよ。3万5千円とひと月ぶんの時間を安倍晋三にまきあげられた気分である。


私もいまの学校がうまくいっているとは思っていない。しかし、教員にあれこれやらせれば学校が良くなるという役所側の発想とはまったく逆で、教員が授業に集中できる環境づくりこそが必要だと考えている。学校に求められる役割が増えるにつれて、どこの学校でも授業の優先順位は年々下がってきており、教員たちは常になにかの会議でバタバタしている。以前勤めた学校の中には、授業料の取り立てまでクラス担任にやらせているところもあった。その一方で、教員同士が授業のやり方について日常的にアイデアを出し合っている光景は見たことがない。何年か前のこと、最高裁で女児の交通事故の賠償金を男児よりも安く算定する判決が出た際、それを授業で取りあげようと社会科の教員たちにこの判決をどう思うか尋ねてみたところ、「さあ、裁判所がそう言ってるんならそれでいいんじゃない」という反応ばかりで唖然としたことがある。なんでこんな人たちが社会科を教えているんだろう。役所で施設管理でもやってるほうがお似合いなんじゃないの。それともその学校では、権威すじの決定にうかつなことを言えないような雰囲気だったんだろうか。そうして授業は物事を考える場ではなくなり、テキストの表面的な解説に終始することで進学校は受験予備校化し、そうでない学校は授業中に生徒をただ静かにさせておくだけの託児所と化していく。そこには学ぶことで目の前の世界がいままでと違って見えてくるような体験もない。だから、日本の学校から学歴のもたらす経済効果を取り除いたら、中身なんて空っぽである。高校でも大学でも重視されるのは入口の入試と出口の進路先だけで肝心の中身のほうは空っぽ。そもそも授業の優先順位が低い学校なんて学校としての存在意義がないじゃん。学校ってさ、本来、学びたいものたちが集まってきてその知的好奇心にこたえられる授業をすることが一義的な役割じゃないの。本人が学びたいっていうなら、全身入れ墨だらけだろうとAVに出演していようとその教育を受ける権利は保障されるべきだし、逆に授業中、居眠りをくり返したりいくら注意しても携帯電話をいじっているようなら、甲子園のエースだろうと偏差値70だろうと最年少芥川賞作家だろうととっととやめてもらってもっとふさわしい場での活躍を願う、それだけのことじゃないの……とまあ考えてるわけですが、今回は最後まで愚痴でした。長々のご静聴どうも。

通販生活の原発国民投票CM


東京新聞11月27日のコラムで、原発の是非を問う国民投票を呼びかけるカタログハウスのテレビCMがテレビ朝日に放送を拒否されたことが紹介されている。

筆洗 2011年11月27日
 俳優の大滝秀治さんのナレーションが、とても味わい深く響く。<原発、いつ、やめるのか、それとも いつ、再開するのか。それを決めるのは、電力会社でも 役所でも 政治家でもなくて、私たち 国民一人一人。通販生活秋冬号の巻頭特集は、原発国民投票>▼声と字幕だけの短いテレビCMが今、話題になっている。「通販生活」を発刊しているカタログハウステレビ朝日の夜の番組で流そうとしたが、拒否され幻になったCMだ▼原発をこれからどうするのか。政府や官僚任せではなく国民投票をして決めよう−。そんな特集の記事を宣伝する「商品広告」とカタログハウス側は考えていた。どこかタブーに触れたのだろうか▼テレビ朝日側は「民放連の放送基準などに則(のっと)った当社の基準をもとに考査、判断している」と説明。個別のCMの判断については「お答えしておりません」という▼原発の是非を国民投票で決めようという市民運動が広がっている。ただ政治家の関心は鈍く、批判的な声すらある。そこには、理性的な判断は国民にできない、という蔑視が潜んでいるように思える▼原発稼働の是非を問う住民投票条例の制定を求める署名活動が、来月から東京都と大阪市で始まる。電力消費地の住民が自らの問題として受け止めようという思いから始まった。主権者が意思を示す第一歩に注目している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2011112702000040.html


また、一連の経緯について、業界紙である「通販新聞」のこちらの記事で詳しく紹介されている。
http://www.tsuhanshinbun.com/archive/2011/12/post-1002.html


上記の記事によると、テレビ朝日が放送を拒否した理由は、テレビは原則として政治的な意見広告を扱わないことになっており、原発の是非を問う国民投票を呼びかけるカタログハウスの広告が政治的なメッセージと判断されたためだという。知らなかった、テレビがそんなに公正で中立なメディアだったなんて。「原子力発電は安全でクリーン」という電力会社の広告も、2005年の郵政民営化選挙のときの「聖域なき構造改革」の政府広報も、猛烈に政治的な意見広告だと思うんだけど、放送局の基準では政策推進のプロパガンダはOKということになるらしい。ずいぶんと不思議な公正中立である。本来、逆ではないのか。人々に選択権のある一私企業の意見広告については広く許容されるべきだし、そうではない政府広報地域独占の電力会社の政策推進広告についてはきびしく規制されなければならないはずである。私には、福島原発の大惨事があってもなお「原発はもうやめよう」という声を大手のメディアでほとんど聞かない状況こそ、ひどく不気味に見える。


一方、原発の是非をめぐる言論をめぐっては、いまだに右翼左翼のレッテル貼りがまかり通っている。しかし、いったん原発が大事故をおこせば政治思想に関わりなく誰もが被害を受けるし、自然エネルギーをどのように位置づけるかは今後の社会のあり方を大きく左右する。また、冷戦時代に米ソともに原発建設に積極的だったことからもあきらかなように、マルクス主義市場原理主義かなんてことは、原発の是非を論じるのにまったく関係ない事柄である。こうした問題を右翼左翼の二項対立でとらえようとする発想は本質的にずれているし、政治的スタンスについていくらレッテルを貼ったところで、なんら論証したことにはならない。彼らの頭の中身は19世紀のまま止まってるんだろうか。その発言は意図的に論点をすり替えて原発をめぐる議論を攪乱しようとしているのか、さもなくば自らの愚かさの表明でしかない。


放送されなかった「通販生活」2011年秋冬号の広告はYouTubeで見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=-PHunKfcCP8

裸の王様 Crusader Kings


Paradox Interactiveというスウェーデンデベロッパーが十年くらい前につくったPCゲームに「Crusader Kings」というのがある。タイトルの通り十字軍時代の封建領主になって国盗り合戦をするのだが、けっして英雄王になって架空の歴史で大活躍するわけではない。むしろ、歴史のうねりの中であがきつづける小領主の悲喜劇をプレーヤーは引きつった笑いとともに疑似体験することになる。なぜか年末年始になるとこれをやりたくなるのだが、これを「大好き」と公言するのは少々はばかられるというか、乗り越えねばならない心理的な壁がたくさんあるような気がするゲームである。


たとえば中央ヨーロッパのある小領主になったとする。まわりの領主たちとは、地縁・血縁・王位継承権・バチカンの意向でがんじがらめにしばられていて、うかつに身動きが取らない状態になっている。ヒストリカル・リサーチが念入りに行われているようで、複雑に絡み合ったパラメーターの中に小領主たちの泥沼のような関係性が表現されている。とりあえず領地の開発をしようとするが、先立つ資金もない。なにもできないまま十年が過ぎ、我が伯爵夫人は、男子をなさないまま30なかばを過ぎてしまった。後継者の男子がいないまま領主が死んでしまうとゲームが終わってしまうので、こういうときにこの世界でやることはひとつである。我が伯爵は「石女の年増は女ではない」と石原慎太郎のような差別発言をぶつぶつとつぶやきながら、妻に一服盛るよう取り巻きたちに指示する。こうして麗しき伯爵夫人は30なかばの若さにしてぽっくりと謎の死を遂げ、ポジティブシンキングで未来志向の伯爵はさっそく親子ほども歳の離れた後妻をジョノバから迎える。ところが、才気あふれる16歳の後妻は、女性を産む機械としか思っていない伯爵のことがお気に召さない様子で、まもなく軍将校である凛々しい若者との密会を重ねるようになる。嫉妬と怒りで眠れない夜を過ごしている伯爵には、三つの選択肢しかない。すなわち、若い妻の浮気を許して宮廷の笑いものになるか、怒りにまかせてふたりとも追放するか、さもなくば一服盛るかである。どうしたものかと伯爵が決めかねているうちに宮廷に一大事が発生。あろうことか若き後妻は不倫相手の将校と手に手を取って駆け落ちしてしまう。伯爵さまぁ〜おたっしゃでぇ〜ご機嫌よう〜。こうして若い後妻の去った後には、彼女が半年前に産んだ誰の子かわからない赤ん坊だけが残されたのであった。な、なに、これ。ままならぬ領主の暮らしはまるでモンティ・パイソンの寸劇のよう。不倫と陰謀は宮廷と芸能界の文化なのである。ええい、草の根分けてふたりを探し出し、磔にせよ!


駆け落ち事件は近隣諸国にも知れわたり、醜態をさらした我らが伯爵、「後悔」の文字は彼の辞書にはないので、すぐに未来志向のポジティブシンキングを発揮して、さらに若い後妻を今度は南仏から迎えることにする。女房と畳は新しいほうが良いのである。安産体型の16歳の后を前にして、好色な伯爵は奮い立つものがあったのか、先妻が残した誰の子かわからない長男の養育にも力を入れはじめる。領主の献身的な養育の甲斐あって、長男は才気あふれる凛々しい若者へ成長する。伯爵にぜんぜん似ていないなどと陰口をささやく不忠者は断固として首をはねることにする。大臣だろうと財務官だろうと容赦しないのである。伯爵の強気の姿勢が幸運を引きよせたのか、南仏妻がたてつづけに二男・三男と出産する。これで我が家系もひとまず安泰、めでたき哉。政略結婚のコマとして男子は多ければ多いほど良いのである。きっと皇室男系主義者たちの本音も伯爵と同様に一夫一婦制の廃止のはずである。良いことは重なるもので、隣国の縁者が領地請求権をたずさえて我が宮廷に保護を求めてくる。これで隣国にちょっかいを出す口実もできた。ところが良いことはつづかないもので、こどもたちが次々に心の病にかかってしまう。手塩にかけて育てた長男はストレス障害、次男はどもりが悪化して失語症、三男は神経症、おまけに長女と次女は小動物をいじめて遊ぶのが大好きという陰湿な性格をあらわにしはじめる。きっと複雑な家庭環境がそうさせるのだろう。ままならぬものよ。こういう場合、伯爵の選択肢はふたつ。こどもたちの回復に期待するか、彼らをいなかったことにして南仏から取り寄せた産む機械に期待するかのどちらかである。ひとまず決断を先送りにして回復を期待する。幸いにして次男は言葉を取り戻したが、長男は鬱病も併発しついに発狂してしまう。すべて家庭環境が悪いのである。いまや凛々しい若者だった頃の面影もなく、長男は幽閉された北の塔で日夜聖霊たちと会話するようになる。「ばばばばっバビロンの到来は近い!ばっバビロンが近づいてくる!ばばばっバビロンはまだか!うけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」。狂気の長男の叫び声が城内に響きわたる。これもぜんぶ家庭環境が悪いのである。60をすぎて気の弱くなった伯爵は事ここに至っても決断を先送りにする。光り輝くように凛々しかったころの長男の姿が頭から離れないのである。そうしてなにもかも先送りにしたまま、伯爵に突然の死が場違いな道化のように訪れ、この一幕ものの芝居に幕をひく。彼もまた誰かに一服盛られたのかも知れない。享年67歳。ベスト・アンド・ブライテストだった長男と馬の遠乗りをした想い出とともに伯爵ここに眠る。我が国の継承権は長男の総取り方式なので、必然的にバビロンを夢見る狂人がすべての領地を相続する。このゲーム、プレイヤーの分身である領主だけは残念ながら一服盛ることができない。万事休すである。我が国はこれから20年にわたって悪夢の世界に生きる領主とともに暗黒の時代を迎えるのであった。さっそくめざとい隣国がこの期に領地をかすめ取ろうと国境地帯にちょっかいを出してきた。ああこれが人生か、ならばもう一度!


トラジコメディー(悲喜劇)というジャンルがある。映画の「アメリカン・ビューティー」とか「アバウト・シュミット」なんかがその典型で、ウディ・アレンの映画やイッセー尾形のひとり芝居にもそういうのが多い。そこでは悲劇的な出来事が刻々と進行しているのに、その悲惨な状況で登場人物たちが見せるへたれ具合や暴走ぶりがあまりに滑稽なために観客は戸惑いつつもつい失笑してしまう。その居心地の悪い可笑しさは、登場人物たちが必死にあがけばあがくほど際立っていく。もちろんなかには笑うに笑えず頭を抱えてしまう純情な人もいるだろう。「アメリカン・ビューティー」を劇場で見た際、前の席にあろうことか小学生くらいのこどもを連れてきている中年夫婦が座っていたが、彼らの凍りついたように固まっている様子は、映画の内容以上にエンターテインメントだった。このゲームの演出もそれに近い。封建領主の国盗りゲームにもかかわらず、プレイヤーは英雄気分を味わえず、ままならぬ状況に引きつった笑いをくりかえすことになる。ただ、はじめから喜劇を志向してつくられているわけではない(と思う)。作り手は大まじめにヒストリカルリサーチをして、リアルな歴史再現性のために複雑なパラメーターを設定した結果、どうにもならない状況が生まれ、その上にシニカルな笑いが乗っかっているという構造である。ずいぶんかわったゲームである。講談調の前のめりなゲームをプレイしながら、押し寄せる敵をなぎ倒しつつ英雄気分を味わっているこどもたちやストレス発散しているおとなたちは容易に想像できるが、この悲喜劇のようなゲームを喜々としてプレイしている物好きな人たちがいったいどういう種類の人間なのか、私にはなかなか想像がつかない。ところが、驚いたことにこのゲームの続編が制作されているという。物好きな人たちも世界全体であわせればそれなりの人数になるということなんだろうか。日本人に十万本を売るのと世界全体で十万本を売るのとでは、ゲームのつくりかたもちがってくるということなんだろう。東京都の領主も大阪市の領主もぜひ一度プレイしてみることをすすめる。続編を告知するトレイラームービーもまたへなちょこ領主によるモンティ・バイソンふうのコメディである。

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=lpAYY3BvviE


飛び入学と飛び級

 日本で飛び入学飛び級を積極的に導入することの問題点を指摘した次の文章を読み、あなたの考えを述べなさい。


 2000年からはじまったOECDの国際学力調査では、北欧のフィンランドが毎回1位になっているため、フィンランドには、日本をふくめた世界各国から大勢の査察団が訪れている。フィンランドの学校に受験競争はほとんどなく、クラスの中でも、生徒同士の競い合いよりも、コミュニケーションと助け合いのほうが重視されている。そのため、授業では、その科目の得意な生徒が他の生徒に教える場面をしばしば見かけるという。授業内容は調べ学習とその発表、生徒同士のディスカッションが中心になっており、そのぶん、生徒たちは、放課後や休日に図書館や博物館へ行って自ら調べ、レポートを作成することになる。

 こうしたやり方の背景には、学ぶことは自らの視野を広げ、生き方や心を豊かにするという価値観がある。人とくらべてどうこうではなく、あくまで自分自身のために学んでいるという意識が強いので、学力に問題があると教師から指摘された場合には、生徒みずから留年を希望するケースも多い。留年することは、恥ずかしいことでもペナルティでもなく、自分にあった教育を受けるためのひとつの手段と認識されており、自ら留年を選択した若者は、周囲からも「落ちこぼれ」とは見なされず、むしろ「意欲がある」として教師やクラスメイトから評価されるという。

 自らの意識や能力を高めるために学んでいるという認識は、北ヨーロッパ社会に共通している。親の仕事の都合でオランダで暮らすことになり、地元の学校に入学した日本人の女の子の体験談にこんな話がある。その子は日本の中学では優等生だったが、オランダでは言葉の壁からいくつかの科目で成績がふるわず、担任から留年をすすめられた。お母さんは「うちの娘が留年させられるなんて」とショックを受け、担任に猛抗議。ところが、こどもが同じ学校へ通っているお母さん仲間のオランダ人女性から、こう言われたという。「あなた、それはラッキーよ、せっかくの機会なんだから、学校をもっと活用しなきゃ損するわよ、娘さんが十分に理解していないのに進級させたらかわいそうよ」。つまり、学校は教育を受ける権利を保障するための公共サービスであり、図書館や博物館と同様に積極的に活用しなければ損だというわけである。日本とのあまりの価値観の違いに、日本人のお母さんはカルチャーショックを受けたという。こういう社会ならば、飛び入学飛び級も「自分を高めるひとつの選択肢」として受けとめることができるだろう。

 しかし日本では、他のアジア諸国アメリカと同様に、学校教育を学歴を得るための手段、競争に勝ち抜いて高い社会的地位や収入を得るための手段とみなす傾向が強い。OECDの国際調査でも、日本の若者は「科学的発見への興味関心」をたずねるアンケートで際だって低い数字が出ている。この調査結果は、日本の若者に学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さを体験している者が少なく、「受験のための手段」として勉強しているという状況をあらわしている。学力の国際的な順位よりも、こちらの興味関心の低さのほうがはるかに深刻な問題である。日本の学校の最大の問題は、受験競争を若者にたきつけることだけが唯一の学ぶ原動力になってしまっているという点である。中学や高校では、受験を目的にカリキュラムが組まれ、学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さは後回しにされている。それは日本の学校から学歴の効果を取りのぞいたら中身は空っぽだと学校自ら認めているようなものである。

 科学実験で有名な米村でんじろうさんは、以前、都立高校の物理教師をしていたが、授業でも、段ボールの空気砲やプラコップの蓄電器を使った実験をやっていたところ、学校側や保護者から「そんなくだらない実験はやめて、もっと受験に役立つ授業をやってほしい」と苦情が殺到し、教師を辞めてしまったという経歴の持ち主である。しかし、そうした実験は直接受験に役立つことはなくても、世界を見るまなざしそのものを変える力を持っている。なぜ電気は発生するのか、なぜブーメランは手元に戻ってくるのか、不思議に思ったことを自ら推論し、検証していく体験は、長い目で見れば、ただ暗記しただけの受験知識よりもはるかに大きな影響をもたらすはずである。たとえば、ニュートンが「万有引力の法則」を思いついたとき、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」という第一原理に思い至ったとき、彼らは目の前の世界が昨日までとは違って見えただろう。この「ああそうか!」と膝を打つような体験、目の前の世界がいままでとちがって見えてくる体験こそが学問を学ぶ最大の醍醐味のはずである。そういう意味で、米村でんじろうさんのような人が学校の先生として評価されない社会というのは、根本的にまちがっているのではないだろうか。

 逆に受験から開放された大学では、学生たちはいままでの反動で、学問研究よりもサークル活動や合コンに多くの時間を費やすようになる。日本の大学生の勉強時間は国際比較でも極端に短く、日本の大学生が勉強しないことは世界的にも知られている。近年では、学生の私語と学習意欲のなさのために、授業が成立しない大学まであるという。また、大学3年生になると、学生の多くは就職活動のためにほとんど授業に出席しなくなり、大学側も就職実績を上げるために就職の決まった学生を無試験で卒業させている。現在の日本の大学は実質的に「就職予備校」でしかなく、景気が悪くなると、きまって学生の就職率ばかりが話題になるのもそのためである。

 自ら調べ、考えることの楽しさを体験せず、受験のために詰め込んだ知識は、受験が終わるとともに失われていく。論理的な考え方や科学への関心が日常生活の中に根づくこともない。マスコミでは、「若者の学力低下」や「理科ばなれ」ばかりが話題になっているが、実際には、成人向けの国際学力調査では、日本はほぼすべてにおいて最下位であり、こちらの数字のほうが際だっている。おとなたちにとって、若者批判は自分とは関係のないことのように無責任に発言できるため、その批判はしばしば大きな社会現象となるが、おとなは若者のなれの果てであり、両者の姿は密接に結びついている。自らが血液型占いを信じているにもかかわらず、その一方で「若者の学力低下はけしからん」「技術立国日本の将来が危うい」などと声高に批判しているこっけいなおとなたちが日本には大勢いるはずである。

 「学校でなにを学んだのか」よりも、「どこの学校を出たのか」のほうが重視される社会では、学ぶことの目的と手段が逆転する。進学や成績は学んだ結果ではなく、それ自体が目的であり、学ぶことのほうがその手段となる。さらに、学ぶことの楽しさや自らの視野を広げることの重要性といった、本来、学校で最優先にされるべき事柄は後回しにされている。このような日本社会で、飛び入学飛び級を大規模に導入し、東大をはじめとしたエリート大学で飛び入学生を積極的に募集するようになれば、それは「自分を高めるひとつの選択肢」とは認識されず、むしろ「人よりも先に進む手段」としていっそうの進学競争をあおることになるはずである。実際に国をあげて英才教育をおこない、エリート育成のための国立高校まで設置した韓国では、受験競争の過熱が社会問題になっている。

 すでに現在、日本の高校生は学力別に序列化された高校へ振り分けられており、学力の低い高校では、多くの生徒が「どうせ自分は」という挫折感を抱いている。さらにアメリカや韓国で行われているような大規模な飛び級飛び入学が導入され、進学競争の過熱とよりいっそうの学力による振り分けが行われた場合、競争の敗者にはよりいっそうの挫折感と社会への不満を、勝者には次は負けるかもしれないという不安からさらなる競争をもたらすだろう。その競争は生涯にわたってつづき、「受験のため」「就職のため」「リストラされないため」「こどもの受験のため」「老後のため」とひたすら将来の不安にそなえることになる。こうした社会では、競争に勝った者も負けた者も自分のことだけで精一杯になり、お互いに助け合って共に社会を支えていこうという意識は失われていくはずである。このような日本の状況では、大規模な飛び級飛び入学を導入することは、むしろ問題のほうが大きいのではないだろうか。